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Living Well Is the Best Revenge

早瀬 耕『未必のマクベス』_b0138838_21245293.jpg
 これまでこのブログでは300冊を超える書籍、エンターテインメントのカテゴリだけでも40冊を超える小説を紹介してきたが、本日紹介するこの小説の印象は別格だ。人生の後半に10年前に発表されたこのような小説に出会うことができるのだから読書はやめられない。年頭から早くも今年のベストという感じられる読書体験を楽しむ。

 すでに24刷を数え、以前より書店の店頭で平積みされているのを見ていたから、それなりに話題になり、売れている小説であることは間違いない。北上次郎が絶賛した書評の全文が帯に掲載されているからかなり具体的に内容について知ることもできるが、今回は内容に立ち入ることはなるべく控えたい。これほど面白い小説はなるべく白紙の状態で読んでいただきたいからだ。とはいえ、新しい読者にとってもおそらく知っておいた方がよいいくつかのインフォメ―ションを中心にいささか突っ込みの甘いレヴューを残すこととする。

 私が本書を手に取るまでに少々時間がかかった理由はタイトルに由来する。「未必のマクベス」とは一体何のことか。未必という言葉がわかりにくい。ちなみに広辞苑で確認してみても、未必という言葉は掲載されていない。代わりに「未必の故意」という項目があり、「行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図・希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと認めて、行為する心理状態。故意の一種」という定義が示されている。実際に私も知る限り「未必」という言葉が単独で使用される例はない。常に「未必の故意」というフレーズとして用いられているように感じる。タイトルの意味を推測するためにはむしろ表紙に記された英語訳を参照することが有益だ。実際に本書が英訳されているかについては手元に情報がないが、「Unconscious Macbeth」、無意識のマクベスとは本書の内容をみごとに暗示している。

早瀬 耕『未必のマクベス』_b0138838_21243977.jpg 「無意識のマクベス」であるから、本書においてはシェークスピアの「マクベス」が本歌取りされることが予想されるし、実際にあらかじめその梗概を知っておいた方が物語の展開を楽しめる。シェークスピアの四大悲劇の一つ、「マクベス」とはいかなる物語か。スコットランド王、ダンカンに寵愛される野心家の家臣マクベスは荒野で三人の魔女たちから、自身がまもなく王となることを予言される。実際に戦功によってコーダの王となったマクベスはさらなる権力を求めて、妻と共謀してダンカンを弑してスコットランド王の王座を奪う。さらにこの事情を知る盟友バンクォーに対しては暗殺者を放って殺害する。しかしこれらの凶行を重ねたためにマクベスは自分の手が血に塗れているという悪夢から逃れることができず、マクベス夫人も夢遊病に苦しむ。再び魔女たちのもとを訪れたマクベスに対して、三人の魔女は敵が女の生み落とした者である限り、そしてバーナムの森が動かぬ限り、彼が滅びることはないと告げる。魔女たちの言葉に力を得たマクベスはやはり彼によって妻と子を殺され、復讐の鬼と化したマクダフとの対決に向かう。

本ブログの読者であれば「マクベス」程度はすでに読んだことがあろうが、仔細まで確認する必要はない。私でさえ固有名詞を除いて記憶していたこの程度のストーリーを念頭に置く時、本書をより楽しめるはずだ。とはいえ、この小説は徹底的に現代的な内容へと改変されている。小説は語り手である「ぼく」が親友である伴とともにバンコクから香港に向かうフライトの場面から始まる。時に語り手の高校時代が追憶され、過去からもたらされた手紙が重要な役割を果たす場面もあるとはいえ、舞台とされる時代は特定されている。冒頭で香港政府が2009年に飲食店を全面禁煙にしたというエピソードが記され、エピローグには東日本大震災が触れられているから、本書は時間としては2010年前後の数年間、場所としても香港を中心に澳門(マカオ)、バンコク、台北、東京といった東南アジアの大都市に限定されている。(ちなみに本書は2014年に刊行され、2017年の文庫化にあたって若干の改稿があったとのことだ)

「旅って何だろう? と考える。」という一文で始まる本書は、旅をめぐる物語と考えることもできよう。それは文字通り東南アジア各地と日本をめまぐるしく移動する語り手、IT系企業の若く有能な経営者、中井優一の現実における移動であり、一方では高校時代を起点として親友と恋人とともにたどる人生の行程でもある。冒頭で香港に向かうはずであった中井は空港のトラブルのために、澳門での一泊を余儀なくされる。伴とともに投宿したホテル内のカジノに向かった中井は奇妙な老女に導かれるかのようにして予想外の大金を手に入れる。そしてホテル内に出入りしている娼婦たちの一人から中井は、彼がまもなく王となって旅に出ること、そして王として旅を続けなければならないという謎めいた予言を受ける。ここでも旅というモティーフが重ねられる訳だ。娼婦の言葉がマクベスにおける魔女の予言を反復していることは直ちに理解されようし、王位に就くという予言の内容も同一である。現代における王位とは何か、中井はまもなく勤務するJプロトコルという会社の子会社、Jプロトコル香港に伴とともに出向し、代表取締役の辞令を受ける。現代のマクベスは国王ならぬ企業に奉仕するから、この小説は一種の企業小説と読めなくもない。実際にやり手秘書との掛け合い、クライアントとの腹の探り合い、ビジネスランチにフライトの予約、ここには今日のIT企業に勤務するビジネスエリートの日常が記されている。私が本書からまず連想したのはブレット・イーストン・エリスの問題作「アメリカン・サイコ」だ。エリスの小説では1980年代のニューヨーク、資本主義の爛熟を生きるエリートのスノビズムと残虐きわまりないサディズムが唐突に結合され、衝撃的であった。本書においても読み進めるにつれて、中井をめぐる世界が暴力とは無縁でないことが次第に明らかになる。ニューヨークならぬ東南アジア各地の超高級ホテルを転々として、各地のスノッブなレストランではキューバ・リブレを片手に豪勢なディナーを繰り返す生活からは21世紀に更新された「アメリカン・サイコ」という印象を受けないでもない。

主要な登場人物と相互の関係は最初の100頁ほどで明らかになるから、ここで記しても読書の興趣を削ぐことはないだろう。中井は高校からの親友、伴とJプロトコルで偶然に再会し、上司と部下という関係になる。二人には鍋島冬香という共通の親友がおり、中井は鍋島に対して淡い恋心を抱いていたが、今、中井は同じ会社に務め、離婚歴のある年上の才媛、島田由記子をパートナーとしている。そして中井が澳門で偶然に出会ったカイザー・リーなる謎めいた老人と彼の秘書、さらにJプロトコル香港での中井の有能な秘書を務める森川と陳、これらが本書の主要な登場人物であるから、果たして中井はマクベスたりうるのか、ほかの登場人物はマクベスのどの人物に対応するかといった興味とともに読者はこの物語を読み進めることになるだろう。マクベス以外にもこの小説にはいくつかの隠されたテーマが存在する。暗号と復号もその一つだ。そもそもJPプロトコルの業務は交通系ICカードの情報の暗号化と復号化に関わっており、この物語全体が一つの暗号の提示とその解読、デコードの物語といえるかもしれない。言い換えるならば、一度暗号として隠されたものが解読されて再び現れること。いくつものエピソードとしてかかるプロセスが物語の中にちりばめられていることを読者は読み終えた時に了解する。あるいは二重性もそうだ。物語の中にはいくつかの二重性を帯びたモティーフが登場する。かつて蓮實重彦も日本の1980年代後半の小説の多くに双子もしくは双称性という構造が共有されていた点を指摘した。しかしこの小説にあって、時に相称性は対立している。この時、私たちは「マクベス」の冒頭で荒野に集う魔女たちの「きれいは穢い、穢いはきれい」という言葉を連想すべきであろう。

それにしても驚くのはこのような文体を早瀬はどこから手に入れたのかという点だ。私もかなり多くの小説を読んできたつもりだが、このような文体はほかに思いつかない。先にも触れた北上がこの点をうまく表現しているのでそのまま引用する。


気持ちのいい文章だ。どこまでも滑らかで、どこか甘く、さらに懐かしさを秘めている。忘れていたことをどんどん思い出す。小説を読むということは文章を読むことなのだ、と改めて感じたりする。こういう小説はストーリーを紹介してもジャンルを分類してもさして意味がない。


さらに北上は本書を薦めるべき「中年男性」を次のようにも特定する。「高校時代にちょっと気になる女の子がいて、特になにがあったわけではないのだが、それからも折に触れて彼女を思い出す。あるいは企業の第一線で仕事をしながらも、特に将来を考えず、恋人がいても結婚を夢見ず、そして友人のいない中年男性」私がこのような属性にどの程度あてはまるかについてはひとまず措く。私が本書に魅かれたのは長い時を経た恋人同士の再会というテーマに深く期するところがあるからだ。私が本書を読んで連想したもう一つの小説はスティーヴン・キングの「アトランティスのこころ」であったが、両者の共通点も明らかだ。むろんかかるテーマは「オデュッセイア」以来、文学にとって一つのステレオタイプではあるが、私の琴線に触れる。加えて本書にはきわめて重要な意味をもつ一つのガジェットが登場する。イラストも添えられているからすぐにわかるだろう。積み木カレンダー(キューブ・カレンダー)。私はこの品物にも個人的な思い入れがあるため、ますますこの小説に没入してしまったのかもしれない。

今回は本ブログとしても例外的に、本書の内容についてはほとんど触れなかった。通常より分量も短く、内容もレヴューの体をなしていない点をお詫びしておく。それはいつものような訳知り顔の分析によって本書から受けた感銘に水を差すことを避けたいというunconscious が働いたのかもしれない。代わりにもう一度、北上による本書の書評を引用しておく。


読み始めるとやめられなくなる。これほど素晴らしい小説はそうあるものではない。単行本のときは売れなかったというのが信じがたい。それでも文庫にして多くの読者を掴んだというのが嬉しい。しかし私にいわせればまだ足りない。もっともっと売れていい。もっと広く読まれるべきだと思うのである。


# by gravity97 | 2024-01-26 21:27 | エンターテインメント | Comments(0)

匿名性について

四方田犬彦の『人、中年に到る』を読んでいたら次のような文章に出会った、


匿名で記された文章など便所の落書きと同様で、たかだか安全地帯からなされた無責任な感想文にすぎないからだ。旧ソ連や中国のような共産主義国家では匿名の声の批評的意義もあるだろうが、日本では呪われた平等主義の頽廃だけが蔓延している。それはチャイルド・ポルノの民主主義だ。書くという行為はそのためにいかなる事態が引き起こされても引き受けるという、ある意味で身を張った行為でなければいけない。


私もこの言葉に全面的に賛成する。それにもかかわらず本ブログを匿名で開設している理由について若干の弁明を試みる。

 私はこのブログを16年にわたって匿名で運営しているが、おそらく美術館や学芸員の世界にある程度詳しい者であれば、私を特定することは容易であろうし、実際、このブログを読んだ関係者から質されたことは一度や二度ではない。またブログで批評した対象の関係者にこちらからブログの存在を知らせ、私が書いたレヴューであることを告げることもしばしばあった。最近では展覧会カタログの中でこのブログの記事が参考文献として取り上げられ、私の実名が記された例もある。(もちろん事前に相談を受け、快諾した)したがって私はこのブログを匿名で開設しているという思いはないし、これまでも四方田が書くとおり、いかなる事態も引き受けるという覚悟をもってブログを執筆してきた。

 執筆者の名を明示しない理由は二つある。熱心な読者であればおわかりいただけるとおり、私は時に対象に対して批判的なコメントを加える場合がある。私は健全な批評にとって批判精神が必要であると考えるし、批判するにせよ対象に意義を見出すからこそブログで取り上げた。しかし特に展覧会のレヴューにおいては担当者を個人的に知っている場合が多く、情実ぬきの誠実な批評の可能性を担保するためには形だけでも匿名が望ましいと考える。二番目の理由はインターネット上ではしばしば片言隻句をとらえて執拗な個人攻撃が加えられる可能性があることだ。お読みいただければわかるとおり、ブログの中で私は特定の政策や政権、政治家について一貫して強く批判してきた。私はアクティヴィストでも政治評論家でもないから、かかる批判や攻撃自体をブログ執筆の理由としたことはないが、逆にかかる末節を悪意とともに受け止める者による非本質的な攻撃を受けること、また本務との関係においても無用な誤解を避けるためにも実名を明かさないこととした。

 同じ理由により、私は本ブログに寄せられたコメントに対しても原則として応接しない。本ブログは誰かと議論するためではなく、ブリア=サヴァランではないが、私がどのような人間であるかを読んだ本や訪ねた展覧会を通して推測していただくために執筆しているからだ。いつの日か私は実名を公表するつもりであるが、その時期について今は確言できない。しかし本ブログを続けることの責任は今後も負い続けるつもりであり、たとえ匿名であっても「便所の落書き」ではなく「身を張った」行為として今後もレヴューを続けることをここに改めて宣言しておく。

 本ブログは不特定多数の読者に対しては今後も匿名を維持するが、ダイレクトメッセージなどで連絡いただいた場合は、必要に応じて私も実名を明かして対応させていだくことを最後に申し添える。


# by gravity97 | 2024-01-22 20:32 | Miscs. | Comments(0)

西 成彦 編訳『世界イディッシュ短編選』_b0138838_20450430.jpg 昨年来、ウクライナとガザという二つの土地が無慈悲な戦火にさらされ、多くの市民が犠牲となっていることは知られているとおりであるが、今まで書架に積み放しであった本の一冊を年頭に取り上げて読み始めるや、この二つの土地が実は深い関係を有していることを思い知る。イディッシュ文学とは故郷から追われる人々にふさわしい主題だ。

 実はこのブログでもイディッシュ文学についてはすでに何度か論じたことがある。一つは本書にも収録されているイディッシュ文学の巨人でありノーベル文学賞の受賞でも知られるイツホク・パシェヴィス・ジンゲル、英語名アイザック・パシェヴィス・シンガーの中短編集『不浄の血』であり、もう一つは細見和之の『「投壜通信」の詩人たち』で言及されるアウシュヴィッツで殺された詩人イツハク・カツェネルソンの詩作である。両者の共通点とはいずれもユダヤ人が日常的に使用していた言語、イディッシュ語が用いられていることであり、ここにおいてイディッシュ文学という概念が成立する。しかしこれもまた知られているとおり、20世紀においては多くのユダヤ人がホロコーストとヨーロッパに蔓延する反ユダヤ主義(これについてもウンベルト・エーコの『プラハの墓地』のレヴューの中で論じた)によって故郷から追われた。第二次大戦以前、彼らが多く居住していた地域がウクライナをはじめとする東欧であり、彼らが目指した「約束の地」がガザとヨルダン川西岸を含むイスラエルであったと言えば、最初に私が記した言葉の意味が了解されるだろう。実際に本書に収められたドヴィド・ベルゲルソンというウクライナ出身の作家の「逃亡者」という短編においてはベルリンに住む語り手に対して若い男が語る自身の個人史が物語を形作り、かつてウクライナのポグロムを逃れて、開拓団の一員としてパレスチナに渡ったという男はそこでアラブ人がユダヤ人を殺害すると何が起きるかを語るのだ。

 巻末に訳者の西成彦によるイディッシュ文学についての詳細な解説が付されており、おおいに参考になる。西によればイディッシュ文学の起源は1908年に遡る。この年、当時はハプスブルグ帝国、現在はウクライナに位置するチェルノヴィッツという町で「イディッシュ語のための会議」なるイヴェントが開催され、それまで様々な呼び名のあった東欧系ユダヤ人の日常言語をイディッシュ語と呼ぶことが確認されたのである。イディッシュ語とはまさにディアスポラの言語であり、ユダヤ人たちの世界への離散を反映するかのように、それが用いられる土地はヨーロッパや北アメリカにとどまらず、南アメリカ、そして南アフリカに及ぶ。本書の最後に収められた二つの短編はポーランドとリトアニアに生まれたイディッシュ語作家によって執筆されているのであるが、それぞれ彼らが現在生活するブラジルと南アフリカを舞台としている点はこのような広がりを傍証している。

 それにしてもイディッシュ語とはかなり特殊な言語である。いずれの短編も扉頁に簡単な作家紹介とともにタイトルの原題が記されているが、それはアルファベットではなく、発音さえわからない文字である(表紙にも掲出されている)。実際これまで日本語に訳されたイディッシュ語文学は欧米での紹介が進んでいたこともあり、多くが英語もしくはドイツ語からの重訳らしい。これに対して本書は、同じ訳者によって訳出された『不浄の血』と同様に徹底的にオリジナルのイディッシュ語に拘泥しつつ翻訳されたという。今見た表記上の断絶はイディッシュ文学の存続を困難とするかのようにも感じられるが、それが今日まで生き延び、後述するとおりユダヤ人のディアスポラの広がりを背景として一種の「世界性」さえ獲得している点は興味深い。

 本書に収録された短編は監訳者である西が「さまざまな機会にイディッシュ短編を拾い集め、これにさらに数編を付け加えることで完成させたもの」であり、底本や一つの方針に従って訳出された内容ではない。このため長短に差があり、一つの短編として味読するには物足りない作品も収められているが、通読するならばイディッシュ文学のおおよその輪郭をつかむことができるように感じた。私はそこに三つほどの特性を見出せるように思う。一つは幻想と寓意である。本書にはリアリズムに拠る作品がほとんど存在しない。逆に言うならば、この民族が嘗めた辛酸はリアリズムによって表象するにはあまりにも苛酷であったことを暗示しているといえるかもしれない。家畜や悪魔、埃人間といった存在を通して現実が寓意のかたちで回帰する場面に私たちは立ち会う。第二点として審判というモティーフが頻繁に登場することだ。たまたまここに収められた短編に共通しているのかもしれないが、イツホク・レイブシェ・ベレツの「みっつの物語」は天使による審問の物語であり、デル・ニステルの「塀のそばで(レヴュー)」においては教師である主人公が自らの愚行を審問される。あるいはナフメン・ミジャリツキの「マルドナードの岸辺」は川岸における幻視の物語なのであるが、そこで幻視されるのはドストエフスキー的な異端審問、大審問官による審問なのである。私はユダヤ教については全く無知であるが、かかるモティーフが多用される理由として、人は最終的に神の審判を受けるという宗教的信念との関係を指摘することができるのではないだろうか。そして三つ目は多くの短編の背景に暴力や戦争が浮かび上がる点だ。ズスマン・セラローヴィッチの「ギターの男」で暗鬱なアパートにつかのまの光明をもたらしたリトアニアの男は弦の引きちぎられたギターを残して戦場に赴き、イツホク・ブルシュテイン・フィネールの「兄と弟」はフランスにおけるレジスタンス、ラフミール・フェルドマンの「ヤンとビート」は南アフリカの反アパルトヘイト闘争を背景としている。具体的な時代や戦争が名指しされる場合もあれば、漠然と指し示される場合もあるが、この言語を用いる民族にとって歴史が常に暴力とともに記憶されていることを考えるならば、作者たちが現在世界のどの都市で生活していようがこれらが普遍的なテーマたりうることが理解される。シンガーの「カフェテリア」においては登場人物の一人がヒトラーと親衛隊が集会する様子を幻視するが、その舞台とは語り手シンガーのニューヨークの行きつけのカフェテリアなのである。本書において象徴的な意味をもつエピソードといえよう。

西 成彦 編訳『世界イディッシュ短編選』_b0138838_20453727.jpg さて、今私はイディッシュ文学の特性として、寓意性と審判という主題、そして暴力や戦争との関係を挙げたが、暴力や戦争はともかく、寓意と審判からはやはり東欧に生を受けた一人の作家が連想されないだろうか。いうまでもなくフランツ・カフカであり、今年没後100周年を迎えるこの作家については最近の『現代思想』で特集が組まれていた。この特集の中には直接にイディッシュ文学と関連させた論考はないようであるが、カフカもまたユダヤ人でありながら作品をドイツ語で執筆した。ここからは別の問題、すなわち母語でない言語によって作品を発表する表現者という問題が発生する。これについても巻末の解説で西自身がイディッシュ文学に関して詳細に総括している。カフカとイディッシュ語との関係について、私は容喙する立場にはないが、今や世界中に広がったイディッシュ文学が他者の言語に同化されてゆく可能性を一瞥したうえで、カフカの小説に頻出する審判、訊問、証言といったテーマ、そしてしばしば用いられる寓意という手法が実はイディッシュ文学との親近性を示している点をあらためて指摘しておきたい。この点はディアスポラや植民地の文学、あるいは亡命者による文学などを考えるにあたってもいくつかの示唆を与えるだろう。日本における在日朝鮮人の文学、あるいはいわゆるクレオール文学の問題はこれに連なる。私はカフカしか連想できなかったが、ほかにも同様の可能性を秘めたユダヤ系作家が存在するであろうことも指摘しておこう。

 イディッシュ文学、文学におけるユダヤ的なるものが存在するかについては慎重な議論が必要な点はいうまでもない。本質主義的な思考を導入してしまう諸刃の剣ともいうべき可能性があるからだ。そして最後に私はこのような議論を美術の領域にも応用したいという誘惑に駆られる。ここに収められた多くの小説から私が連想したのはマルク・シャガールの一連の幻想的な絵画であった。この問題についてはすでに圀府寺司の『ユダヤ人と近代美術』という先行研究があり、このブログでも論じた。私が特に関心を抱くのはユダヤ教と抽象美術の関係である。神秘思想と抽象表現の関係については、1986年にロスアンジェルスのカウンティ美術館でモーリス・タックマンが企画した「芸術における精神的なもの」という画期的な展覧会がすでに企画されているが、ユダヤ教の思想との関係は特段に論じられてはいなかったように記憶する。しかしながらそれを「抽象絵画」と呼ぶべきかという根底的な疑問をなおもはらみつつも、私はとりわけバーネット・ニューマンのジップ絵画についてはトマス・ヘスのカバラ的解釈とは別の文脈でユダヤ教との関係が検証されるべきであると感じる。このあたりについては、やはり書架の中で10年以上も放置したままになっているマーク・ゴドフリーの『abstraction and the holocaust』などを紐解きながら、今後私が考えてみるべき課題といえそうだ。


# by gravity97 | 2024-01-15 20:46 | 海外文学 | Comments(0)

アニー・ジェイコブセン『エリア51 世界で最も有名な秘密基地の真実』_b0138838_21205423.jpg

 年初すぐに仕事が入っていたため、年末年始に長い小説や研究を読む時間をとることができなかった。図書館から借り出した本を年末に読み始めて元旦に読み終える。タイトルだけ読めば際物めいているが、実に興味深いノンフィクションであった。

 「エリア51」というのはネヴァダ州北部に存在する巨大な軍事施設の通称である。SF映画を見慣れた者であれば、そこにはいわゆる「ロズウェル事件」で鹵獲された空飛ぶ円盤と「未知との遭遇」(本書の中でも言及がある)から「Xファイル」にいたるステレオタイプ化された宇宙人乗組員が現在も保存されているという都市伝説になじんでいるはずだ。しかし本書で詳述されるのはかかる空想や陰謀史観とは正反対の、きわめて具体的で現実的なアメリカの軍事裏面史である。次々に羅列される恐るべき事実は今日にいたるまで徹底的に隠蔽されてきたのだ。さらに驚くのはかくもセンセーショナルな話題を扱いながらも、2011年に原著が発表された本書が二人の息子をもつ母親によって執筆され、イエロージャーナリズムの対極とも呼ぶべき徹底的な調査報道に基づいていることだ。巻末に取材協力者と参考文献の一覧が掲載され、引用される資料はしばしば今世紀に入ってから機密解除されたものである。前回、レヴューした大鹿靖明の『東芝の悲劇』同様に、本書も丹念な取材と調査に裏付けられた調査報道であるが、取材の対象たるや一企業の盛衰どころではなく、アメリカという国家が全力で秘匿してきた軍事機密なのである。ここで明らかにされる数々の衝撃的な事実を前に私は戦慄を覚えた。

 エリア51と呼ばれる地域を地理的に粗描した後、本書は多くの読者が予想する通り、ロズウェル事件についての検証から始まる。1947年、ニューメキシコ州ロズウェルで未知の航法によって飛行する謎の物体が墜落し、乗員の死体が軍によって回収されたと言われる事件だ。飛行体は観測用気球であったと軍は発表するが、1989年になってエリア51に勤務していたボブ・ラザーなる男が墜落した「空飛ぶ円盤」、そして人間とは異なった形状をした乗組員の死体がそこに保存されていたという告発を行い、UFOマニアの熱狂的な関心を呼ぶ。興味深いことにこの告発には日本の雑誌とTV局が深く関与している。すなわち現在も発行されている『ムー』と日本テレビの一連のUFO番組だ。ラザーの証言を唯一の手掛かりとするこの事件は本書において鍵となるエピソードであるが、ここで私たちが注目すべきはエリア51という秘密基地の存在とロズウェル事件は本来、地理的にも時間的にも隔たっている点だ。両者はラザーなる怪しげな人物を介して結びつけられた訳であるが、ここにはいわゆる誤導、意図的に私たちの関心を誤った方向へと向ける詐術が存在しているのではないか。空飛ぶ円盤と宇宙人という荒唐無稽なカバーストーリーを捏造し、そちらへと私たちを誘導することによってこの秘密基地が設けられた真の秘密を覆い隠そうという意図が働いていたのではないかという推測が本書の行間から読み取れる。いや、正確にはさらに深い事情がある。最初の章において少なくとも「空飛ぶ円盤」の正体についてはかなり説得的な解釈が提示される。しかし「宇宙人」についてはどうか。最後の章において、ジェイコブセンはこの事件の真実を知るわずか五人のエンジニアの一人が肯定も否定もしなかった話として、この問題に関する実に不気味なエピソードを記している。この挿話が最後に置かれた意図は私には明らかであるように感じられる。つまり科学の前進のためには何をしても許されるかという問いだ。エリア51とそこで続けられた実験はすべて最終的にはこの問いに収斂することが読了して了解される。

 アメリカ軍の秘密実験といえば端的に核兵器の開発に直結している。次の章で扱われるのは、第二次大戦後、矢継ぎ早に繰り返された南太平洋での核実験、いわゆるクロスロード作戦だ。(本書にはやたら多くの作戦やら計画が登場する)ここで私たちは日本人にとって忌まわしい一つの名前に再会する。空軍大将カーティス・エマーソン・ルメイ。東京大空襲と広島、長崎への原爆投下を指揮し、無数の市民を虐殺した犯罪者である。私たちは日本国政府が1964年にこの殺人狂に勲章を授与したことを忘れてはならない。ルメイは第二次大戦後も核兵器とそれを目的地へと投下する手段を開発することによってアメリカが世界を制することができるという狂信のもとにアメリカから遠く離れた南太平洋で、史上最大級の核実験を続けた。むろんこの背後には仮想敵国たるソビエトとの冷戦がある。しかしそれにしても無関係の土地で核実験を続けるという暴挙はいかにして正当づけられるというのか。その土地に住む無数の住民は移住を強いられ、敗戦国から接収されて実験海域に並べられた無数の艦艇が実験動物とともに核の洗礼を浴びたのだ。私はこの暴挙を例えば中ハシ克シゲが現地を訪れて制作した《ルニット・ドーム》といった作品を介してたまたま知っている。しかし、これらの原水爆実験については次章以降で語られるアメリカ中西部の砂漠における核実験とともに、その詳細は今日にいたるまでほとんど知られていないのではないだろうか。有史以来最大級の軍事実験について私たちが何一つ知らないということ自体がこの出来事の高度の秘密性を物語っている。あるいはこれらの実験の背後に多くの敗戦国ドイツの科学者たちが存在したことも私は初めて知った。敗戦国の科学者たちはなかば強制的に核実験やミサイル開発に従事させられることとなる。西側でこのような実験が進められているならば、当然東側にも同様の可能性があるのではないか。かかる疑心暗鬼をアメリカ軍首脳が抱いたことは想像に難くない。そして実際にアメリカにおけるドイツ人科学者たちによる軍事研究、ペーパークリップ作戦に対抗して、ソビエトでも同様の研究が進められていた。大戦末期にヒトラーはそれまでの飛行機をはるかに凌ぐ飛行技術をもった飛行機を開発したいたという噂があり、ソビエト軍はそれらを開発した工場を接収し、技術陣の一団を豪華な饗応で一度懐柔した後、家族もろともソビエト国内へ連れ去ったといういくつかの証言が存在する。強制移動がスターリンの得意技であることはこれまでこのブログでも何度か論じた。彼ら彼女らがスターリン治下のソビエトでどのような処遇を受けたかは想像するしかないが、このような歴史的事実の可能性を私は本書を読むまで想像することさえなかった。

 ソビエトが最新技術を用いて秘密兵器を作っているのではないかという懸念は、秘密工場、秘密基地の探索へと道を開いた。超高空を高速で飛行しながら地上を探るスパイ機の開発だ。この開発をめぐる逸話も実に興味深い。CIAとアメリカ空軍、そして民間企業としてロッキード社が深く関わり、この実験はエリア51で続けられた。高度と速度の限界に挑戦する飛行はおそらくは多くの死者を生んだはずだ。ジェイコブセンがインタビューした当時のパイロットたちの言葉の端々からそれは容易に推測され、生き残ったパイロットたちの証言も精彩に富む。アメリカという国家の存亡に関わっているという気概が彼らをかかる危険な実験に向かわせたのであろう。以前「ライト・スタッフ」という映画を見た際に、職場に出かけた夫たちがその日のうちに事故死することを毎日想像する生活について宇宙飛行士の妻たちが語る場面があったと記憶する。本書を読むならば、死と隣り合わせという点で宇宙飛行士とスパイ機パイロットの仕事にさほど大きな差はない。アメリカという国家が優秀な飛行士たちにかくも苛酷な運命を強いたのだ。特攻隊を連想したのは私だけだろうか。エリア51で重ねられた実験の中でテスト機はしばしば通常の飛行機とは異なった形状をとることがあった。かかる異様な飛行物体はただちにUFOを連想させただろう。最初に述べたとおり、ロズウェル事件をエリア51に結び付けることは軍事実験を隠蔽するうえでエキセントリックな効果があったのだ。1957年にソビエトはいちはやく人工衛星の打ち上げに成功し、宇宙からの脅威にさらされたアメリカ社会は一種の核戦争ノイローゼに陥る。目には目を。核実験は頻度も規模も拡大する。

 一つの島が消滅するほどの大規模で破壊的な核実験は最初南太平洋という他人の庭で実施されていたが、そのための大量の機材や観測陣を地球の裏側まで運搬する手間を嫌って、次第にエリア51内部の核実験場という自分の庭を舞台とすることとなった。自国内であるにもかかわらず驚くべき杜撰さとともに実験は続けられた。今日、原子力発電所の事故をとおして知った放射能の危険性が十分に認識されていなかったという事情はあろうが、実験場で兵士はもちろん民間人も放射性物質を大量に浴びたことが推測される。そもそも実験そのものが経費を節減するために気球に核爆弾をとりつけるといった信じられない内容であり、気球が風に流されていたら人口が密集する都市部にも影響があったかもしれないといった記述には驚かされる。本書ではミサイルが目標を外れてメキシコに落ちる、水爆を搭載した軍用機がスペインで墜落するといった一歩間違えば広島級の大惨事となりうる事案が次々に発生していたことが明らかとされるのである。

 核実験のみならずエリア51では新型軍用機の開発が急ピッチで進められる。超高空からソビエト領内の基地や研究所を探るスパイ機、U-2、あるいはレーダーによって探知されることなく領空侵犯を可能とするステルス機である。前者は1960年にソビエト領内で撃墜され、冷戦の最中でもあったこともあり深刻な国際問題を引き起こした。そういえばこの事件と関連した捕虜交換をテーマにしたスピルバーグのフィルムを見たことを今思い出した。U-2はパキスタンの基地からノルウェーを往復しながらスパイ活動を行うのであり、非常な高速での飛行が求められる。逆説的にオックスカート(牛車)計画と名づけられた超高速機の開発と試乗するパイロットたちの命がけのエピソードも本書の読みどころの一つといえよう。時に九死に一生を得、時に撃墜されて捕虜にされ、時に事故死するパイロットたち。U-2スパイ機撃墜、キューバ危機、ベトナム戦争、あるいはプエブロ号事件、冷戦を彩る様々な事件の傍らに彼らの活動があったことを私たちは本書から知る。

 ミグ戦闘機の鹵獲、原子力航空機、さらには月面着陸捏造説、エリア51と関連して次々に語られるエピソードはいずれも読み物としても抜群に面白い。最後の章では今世紀の初め、ニューヨークの同時多発テロについて言及され、予想通り、最後の章では今日の戦争の主役とも呼ぶべき無人機、ドローンの開発について論じられる。実は無人機と有人爆撃機のいずれを空軍の主力とするかは、以前よりエリア51において主要な議論の一つであった。最初に触れたルメイが有人爆撃機の優越を強く主張し、パイロットの養成を重視したのに対して、無人攻撃機も同じエリア51で改良され、パイロットの被害なくして対象を攻撃する技術を磨く。世紀を跨いで爆撃機とミサイル、偵察機とドローン、有人機と無人機は隆替を繰り返しながら無数の人々の殺戮を続けたのだ。この果てに現在のウクライナとガザがあることを私たちは知っている。殺人の技術、戦争の技術が限りなく更新される場としてのエリア51。そこには私たちが想像すらできないおぞましい事実が隠されていたことを最後の章でジェイコブセンは明らかにする。先の五人のエンジニアのうち、ただ一人生き残っている関係者とのランチの席でジェイコブセンは、皿の上に置かれたパンの欠片を指さして、自分が知っていることがこのクルトンだとすれば知らないことは皿くらいの大きさかと問う。これに対してエンジニアははるかに大きい、このテーブルより大きいと答える。エンジニアは冷戦とエリア51をめぐる秘密の中で想像を絶する人々が死に、殺されたと述べ、それを仕切ったのは原子力委員会と歴代大統領の科学顧問ヴァネヴァー・ブッシュであると名指しする。ここにも絶対悪としての原子力が存在する。


つまり、こういうことだ。1951年にエリア51ができた時から、あの場所ではEG&Gの技術者たちによって、ナチの発想からヒントを得た忌まわしい極秘プロジェクトが行われていたのだ。世間に決して明かされることのない、口にするのもおぞましいプロジェクトが。それが正しいことなのだ、とヴァネヴァー・ブッシュに言われつづけて。


さらに彼はかかるプロジェクトが少なくとも1980年代まで続けられていたと説く。あえてこのブログには記さないが、最後に明かされるプロジェクトは、冒頭のロズウェル事件と深く関わり、この事件の真実をアメリカ政府が公表しなかった理由である。しかしながら、もしもかくも悪魔的なプロジェクトが国家によって推進されていたとするならば、もはやアメリカという国家になんの信義も求めることはできないだろう。そしてこの秘密は大統領でさえ知ることができないという。なぜなら大統領には「情報適格性」がないからだ。私は陰謀論には加担しないが、本書の結論は陰謀論に近い。果たしてここに記されたような真実は存在したのだろうか。エリア51の闇はアウシュヴィッツからガザにいたる人間の悪を吞み込んだまま沈黙している。


# by gravity97 | 2024-01-09 21:27 | ノンフィクション | Comments(0)

大鹿靖明『東芝の悲劇』

大鹿靖明『東芝の悲劇』_b0138838_20502301.jpg しばらく書架に積んだままであった『東芝の悲劇』に目を通す。大鹿靖明の著書について論じるのは『メルトダウン』以来、二冊目となる。私はこのほか『ヒルズ黙示録 検証ライブドア』も読んだことがある。いずれのドキュメントも対象に肉薄し、かつ極めて冷徹に批判する点で共通する。本書の解説でやはり朝日新聞の記者であった外岡秀俊が知り合いの記者の「取材で食い込んだ相手を、こんなに突き放して書くことは、自分にはできない」という言葉を引いているが、まさにその通りの印象だ。本書においては東芝の歴代の社長について直接取材して、本人との具体的なやりとりについても記しつつ、最後にはいずれも容赦なく断罪している。調査報道の在り方として当然といえば当然の在り方だが、近年横行した取材対象との癒着(とりわけ安倍政権に寄生して税金でただ飯を食らった記者たちの顔がいくつも思い浮かぶだろう)や阿諛(『メルトダウン』には東京電力の勝俣に本人の体調や孫の様子を尋ねる記者たちのエピソードが記されている)自体も近年の日本のジャーナリズムの劣化を指し示している。先月号の『世界』に朝日新聞を退社し、近年の社風の頽廃を嘆いた元記者の手記が掲載されていた。本書は原著が2017年に刊行されているが、大鹿は今も朝日新聞社に籍を置いているのであろうか。ジャーナリズムの著しい劣化の中で発表された本書もまた政官財界にわたるこの国の救い難い劣化を一企業の没落という事態を通して告発している。本書においては必ずしも前景化されないが、あらためて一人の宰相とその取り巻きがこの国を徹底的に貶めたことを思い知る。

 東芝という名門が急激に没落したことは私も新聞報道で知っていた。冒頭で大鹿は次のように断定する。


 東芝は、経済環境の激変や技術革新の速度に対応できず、競争から落後したわけではなかった。突如、強大なライバルが出銀し、市場から駆逐されたわけでもなかった。/その凋落と崩壊は、ただただ歴代トップに人材を得なかったためである。彼ら歴代トップは、その地位と報酬が20万人の東芝職員の働きによってもたらされていることをすっかり失念してきた。/それが東芝の悲劇だった。/本書はその記録である。


 無能な歴代トップとは1996年以降、歴代社長を務めた西室泰三、岡村正、西田厚雄、佐々木則夫、田中久雄、室町正志、綱川智である。本書では2018年に社長となった車谷暢昭についてのコメントは本文中にはないが、文庫版のためのあとがきの中で大鹿は車谷についても経産省が送り込んだ「植民地総督」と切って捨てる。冒頭に歴代の社長のリストが掲げられている。このうち、石坂泰三と土光敏夫については私でさえ名前を知っていた。本来、東芝は経団連代表に社長を送り込むなど財界の名門でありながら、総合電機メーカーの中では長兄格の日立製作所が「野武士」、末弟格の三菱電機が「殿様」と揶揄される中で、「お公家さん」と評される穏やかな社風をもっていたらしいが、かかる風土は西室以降、大きく変わっていく。大鹿は社風の変化を綿密に検証する。

東芝の凋落の物語を大鹿は西室時代から語り始める。山梨の染色業の家に生まれた西室英語が堪能で国際営業という特殊な部門に勤務した。東芝は東京芝浦電気という社名が示すとおり、二つの企業が合体して誕生した。もともと重電と家電という大きく異なった業種が結ついた業態であり、本書を読むと両者を代表する原子力発電とパソコンという二つの事業の帰趨がその凋落と深く関わっていたことが理解される。西室はグループの再編を積極的に行うが、クレーマーへの対応への失敗、フロッピーの欠陥といった失態が続き、業績が悪化して特別損益を計上する。西室は副社長を更迭して危機を乗り切ろうとしたが、逆に四人の副社長の反発を受けて、自らも退任を余儀なくされる。西室は岡村に社長を譲りながらも院政を敷き、経団連会長職への野心を口にする一方で、退いたはずの社業にも口をはさみ続けた。西室は地方税の在り方をめぐる政府の有識者会議で議長を務めたが、その強引な議事進行の背景には経団連人事が絡んでいたという証言さえある。傀儡の岡村は一定期間、社長職にあったが、この間、世界的なシェアを誇ったパソコン部門が不調となり、岡村はこの部門に強い西田にてこ入れを命じる。東芝の社風とは異なり、アクの強い西田も国際営業出身の異例の経歴をもつ。西田は当初、東大の大学院で政治思想を学ぶ学究の徒であり、岩波書店の『思想』にフッサール研究の論文を寄稿したことさえあるという。しかしながらいかなる理由があったのか、突然に学者の道を断念してイランに渡り、東芝の現地法人に現地採用された。この背景には当時東大に留学していた美貌のイラン人女性との関係があったらしいが、西田は大鹿のインタビューに対しても、その理由を決して口にしなかった。結果的にイランでの現地採用というきわめて屈折した経歴を経て東芝に入った西田はめきめきと頭角を現す。大鹿がインタビューした際の逸話が残されているが、葉巻を片手に洋書を原著で読みこなし、丸山真男からカント、ケインズまでを自在に引用する異色の経営者であったという。経営危機に対して西田は後に社長となる田中が提案したバイセル取引なる手法を取り入れる。安く調達した部品を台湾メーカーに売って(セル)、組み立てられた完成品を買い戻す(バイ)という手法で、それ自体は違法ではないらしいが何やら怪しい手続きであり、仮にも財界の名門企業が採るべき方法とは考えられないだろう。しかし東芝はこれ以後、バイセル取引にのめり込んでいく。

東芝の凋落を決定的にしたのは原発メーカーのウェスチィングハウス社の高値買い取りであった。正確に言うならば、既にイギリスの核燃料会社BNFLに売られた同社の原発事業部門を三菱重工などと争い、紆余曲折の末にとんでもない高額で買い取ることになった。この過程には通産省などの意向も働いており、複雑な事情があったことがうかがえる。しかし重電よりむしろ家電に詳しいはずの西田の強引な指示によって、結果的に東芝は粉飾決算にまみれた問題企業ウェスチィングハウスというジョーカーを引かされたかたちとなる。このような経緯もあって西田が社長を禅譲したのは原子力部門の佐々木であった。東芝の中でも原子力部門は独立性が高く、通産省や電力会社との関係が深かった。つまり東芝は製造業でありながら、製造や技術についての知見のない国際営業、あるいは原子力といった傍流の分野が社長職を続けることによって、当初の社風が変質していったのである。原子力畑を渡り歩いた佐々木は「リーダーシップはあるが我慢ができない」と評される。そもそもすでに当時原子力産業は海外ではもはやビジネスとしては成立しないとみなされていた。しかし日本では2006年当時、エネルギー政策の転換があり、資源エネルギー庁の意向で原子力発電の比重が高められ、東芝は原子力ルネッサンスという言葉とともに救世主と見立てられた。この背景には暗躍した通産省の官僚たちが見え隠れする。その後に何が起きたか。いうまでもなく東日本大震災による原子力災害であり、原子力発電はさらに重い枷となって東芝を締め付けることになった。おそらく大鹿が東芝という企業の没落の調査報道に携わった理由もここにある。本書と『メルトダウン』は震災を介してつながっている。事故直後、官邸に入った佐々木が、無能をさらけ出した原子力保安院のトップたちとは逆にリーダーシップを発揮したというエピソードは興味深い。震災後も東芝は通産省と手を組んでアジアへの原発のプラント輸出を試みるが、あれほどの事故を起こした以上、原発への信頼が復活するはずはなく、さらにリーマンショック後、首脳陣も関与した粉飾決算が明るみに出るや、佐々木と西田の関係は著しく悪化し、会社を代表する二人の間で「子供の喧嘩」のような状況が続いたという。この背景にはともに経団連会長をはじめとする財界での名誉職への強い執着があった。名門であるという自負が無意味な猟官へと走らせ、社内を顧みない風潮は西室以下歴代の社長に認められる。バイセル取引を続けて赤字が拡大する中、内部告発によって歴代社長が関わった不正会計が明らかになる。2015721日、田中は記者会見を行い、責任をとって自らと歴代社長のうち西田と鈴木が辞職することを発表する。このエピソードで始まる「崩壊」と題された第六章は会計や経理に関わる専門用語が頻出し、私のごとき素人には読みやすい内容ではなかったが、一つの会社の断末魔とも呼ぶべき状況が仮借なき筆致で描き出されている。しかもかかる不正会計に関しては会計士や弁護士、監査法人といった社会的正義を体現すべき専門家たちが手を貸し、子会社を売却するうえでの脱法的スキームの構築にあたっては元東京高等裁判所の裁判官までが関わっていた。選良たちの堕落は日本という国家の没落とみごとに平仄を合わせていることがわかる。

2017年、かろうじて上場廃止から免れたことを発表する綱川の記者会見に始まり、今述べた田中による歴代社長総辞職の記者会見に終わる本書を読み進むことはかなり辛い。この読後感は『メルトダウン』と一致する。いずれも愚者の愚行の記録であるからだ。あとがきで、大鹿は日本企業において傍流からの抜擢人事は、実力者の院政を伴い必ず失敗すること、傍流の男はそもそも会社の中枢や全体がわからない、実力者の腰巾着に過ぎない凡庸、愚鈍の人であり、将の器ではないと厳しく断定する。東芝で誰が当てはまるのかは明らかであるが、大鹿は東芝のみならず日立製作所、ソニー、日本航空、東京電力といった一流企業と個人の名を挙げて同様の失敗を指摘している。なぜ日本のベスト・アンド・ブライテストたちの集団がかかる惨状を呈しているのか。このような状況が生まれたのはおそらく東日本大震災以後のことであろうが、私はこの時代、そこに関わる者を全て腐敗させるというか腐敗した者しか関わらない二つの中心が存在した気がする。一つは安倍政権であり、一つは原子力産業だ。安倍政権に関わった面々の異常な行状、それは強姦から詐欺、汚職からヘイト・スピーチにいたる犯罪のオンパレードである。そしてこの政権でエネルギー行政に関わった者たち、いうまでもなく電力会社とともに原子力発電を推進した通産省の官僚は本書の影の主役といってよいだろう。彼らに翻弄された東芝という会社はまたある意味でかかる腐敗に連座して破滅していった犠牲者といえるかもしれない。先にも述べた通り、このような意味において本書と原子力災害とその後の原子力行政側のバックラッシュを描いた『メルトダウン』は深く通底しあっており、大鹿の一貫した問題意識をうかがわせる。しかしこのような明確で批判的な問題意識に裏づけられたジャーナリズムも今日ほとんど存在していない。以前にも記したが、私はそれなりの犠牲を払って私たちが手に入れた戦後日本の民主主義社会がただ一人の愚劣な宰相によってここまで徹底的に破壊されるとはさすがに想像していなかった。十年ほどの間に国富は霧消し、国民は分断され、未来は絶たれた。東芝の悲劇はこの国の縮図であるかのようだ。

全くの偶然であるが、奇しくも昨日、安倍一味の積年の不正な裏金工作に対して検察の手が入り、本日、東芝はついに東京株式市場への上場が廃止された。しかし安倍に連なる不正義の温床に巣食う政治家、官僚、ジャーナリストたちはいまだにこの国を蚕食している。


# by gravity97 | 2023-12-20 20:39 | ノンフィクション | Comments(0)