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Living Well Is the Best Revenge

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 優れた展覧会は、たとえ展示を見なくともカタログだけでも十分に楽しむことができる。今月の26日までミュンヘンのハウス・デア・クンストで開かれている「ポスト・ウォー」展のカタログを入手した。60ヶ国から218人の作家の作品を集めた展覧会自体も超弩級であるが、カタログがすごい。私はこれほど重量のある展覧会カタログを知らない。その威容は写真に掲げたとおりだ。オクウィ・エンヴェゾー、カティー・シーゲル、ウルリッヒ・ヴィルムスの三人による企画であり、本来ならばエンヴェゾーらのテクストを通読して企画の意図を確認したうえでレヴューすべきであろうが、図版に示された質量ともに圧倒的な作品群はそれだけで豊かな問題を提起する。テクストを参照していないことをあらかじめお断りしたうえで、この大展覧会によって触発された思考を書き留めておきたい。

 展覧会のサブタイトルは「太平洋と大西洋の間の美術」という。モダニズム美術が基本的に大西洋の両岸の美術であったことを想起すれば、サブタイトルの含意は明らかだ。太平洋と大西洋の間とは、端的に全球、地球全体を示しており、アジアとアフリカを含むいわゆる世界美術史と関わる展覧会であることを暗示している。実際にカタログを通覧するならば、名前の読み方もよくわからない中国やアフリカ、あるいは東欧の作家、そして後述するとおり、多くの日本の作家も含まれており、出品作品が世界中から選ばれていることが理解される。戦後というテーマを全世界に拡大することによって展示に一種の普遍性を与えようとする意図が確認できる。それにしてもこのような「普遍性」が当然のものとして受容されるようになったのはごく最近である点についてはあらためて指摘しておく必要があるだろう。それは1989年にポンピドーセンターで開催された「大地の魔術師たち」を嚆矢としており、たかだかこの四半世紀の常識なのだ。そしてかかる同時性、共時性の認識がなければこのブログで扱った池上裕子やミン・ティアンポの研究は成立しえなかったはずだ。この意味において会場となったハウス・デア・クンストが悪名高い「退廃芸術展」と対をなす「大ドイツ芸術展」の会場であったことはなんとも象徴的だ。「大ドイツ芸術展」はゲルマン民族の優位性を誇示する目的で開催され、ナショナリズムと深く結びついた展覧会であったからだ。これに対して今回の展示においては国家や体制、人種を横断するかたちで「戦後」に関する表現が紹介されている。

 まずはカタログに沿って展示の構成を確認しておこう。展覧会とカタログは八つのセクションによって構成され、冒頭にそれぞれ簡潔な説明が付されている。展覧会の劈頭を飾る第一部は「Aftermath : Zero Hour and theAtomic Age」と題されている。アフターマスには直後という意味もあるから、このパートは第二次大戦直後と原子爆弾投下直後の二重の意味をもつ。冒頭に山端庸介の被爆直後の長崎を撮影した写真、そして東松照明と磯崎新の被爆と関連した作品が掲出され、この展覧会は日本の爆心地からスタートする。被爆直後の映像と丸木俊と位里による「原爆の図」、日本のアフターマスが直示的であるのに対して、ヨーロッパの戦争のアフターマス、端的に絶滅収容所の解放は展示の中では暗示的に示されている。一見、テーマとの関連が不明に思われるフランク・ステラのブラックペインティングは「働けば自由になる」というタイトルがユダヤ人強制収容所の入口に掲げられた標語であったことを想起するならば、展示に含まれた理由が理解されよう。しかしさらに深読みするならば、絶滅収容所に関する表象がほとんど含まれていない点は表象の不可能性というランズマン/ディディ=ユベルマン的な問題を浮かび上がらせるかのようである。

 第二部は「Form Matters」と題され、物質との関係が主題化されている。戦後において物質という問題が最初に浮上したのはいわゆる「アンフォルメル」においてであり、その広がりを誇示するかのようにポロックから白髪一雄にいたる多様な作家が取り上げられている。しかし「戦後」においてなぜ物質が作品の主題とされたかという問いはいまだに十分に答えられていない。それは戦災の廃墟に由来するかもしれず、爆心地や絶滅収容所で炭や肉塊と化した人体に由来するかもしれない。かかる物体は再現的なイメージを欠いている。「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質を偽らない」という「具体美術宣言」の先見性が問われるのはこの点である。私はアクション以上にかかる特異な物質観こそが初期の具体美術協会の特質を形作ったと考えるが、この点はいまだにほとんど論じられたことがない。白髪からフォートリエにいたる一連の物質的な絵画と並んでアルベルト・ブッリの毀損された表面やニキ・ド・サンファールの射撃絵画といった作品は傷ついた身体の換喩/提喩として成立しており、「戦後」というテーマにふさわしい。一方でエヴァ・ヘスや草間彌生の立体も確かに身体の提喩であるが、「戦後」というテーマとの関係が不明確に感じられる。この展覧会では1945年から65年までの美術が扱われているが、50年代までに対象を限定した方がテーマをより明確に示すことができたのではなかろうか。この展覧会を読み解くうえでは第二部と続く第三部「New Images of Man」を対比的にとらえるのがよかろう。今述べたとおり、第二部においても身体は潜在的なモティーフであったが、表現としては換喩的もしくは提喩的であった。これに対して第三部においては身体がアイコニックに表象されるという意味において、作品は隠喩的な構造をとる。そしてここに表現された「人の新しいイメージ」は大きく二つに分類できるだろう。まずピカソやシケイロスにみられる現実の戦争や事件に触発され、対象にデフォルメを加えながらも直接的に表象する作品である。これに対して、フランシス・ベーコンやヴィレム・デ・クーニングらは具体的な出来事ではなく人体の変形や歪曲を主題としている。今日、重要なのはいうまでもなく後者であり、20世紀の前半にあって身体の表現を次々に革新したピカソもついにこの時点で時代に遅れたことが暗示されている。このような限界は、人類が原子爆弾と絶滅収容所という未曾有の地獄を体験したことと関わっているのだろうか。「戦後」ならぬ「戦前」の表現の頂点を画したあの《ゲルニカ》と出品作品との比較はこの問題を考えるにあたって意味をもつかもしれない。きわめて興味深い作例は河原温である。今回の展覧会には千葉市美術館所蔵の《考える男》が出品されている。これまで河原の初期作品は海外の同時代の動向と対比されることがなかったが、この作品はフランシス・ベーコンやゲオルグ・バゼリッツの傍らに置かれても全く遜色がない。「死仮面」や「浴室」シリーズといった同じ時期の作品も同様のはずだ。断片化された身体、客体(オブジェ)としての身体、そしてフリークスへの関心、彼らの作品は多くの共通点をもつ。河原の問は50年代のいわゆる「密室の絵画」の代表的な作家として知られている。冷戦構造が強化される50年代にあって線描性や色彩の抑制、印刷物との親和といった特性によって論じられてきた「密室の絵画」の世界的な同時性を私は今回のカタログを通じてあらためて感得したように思う。これまで「密室の絵画」は当時の社会状況との関係で論じられることが多かったが、より広い普遍性あるいは必然性を有していたのではないだろうか。

続く第四部、「Realisms」(複数形である点に注意)のセクションも興味深い。レナート・グットゥーゾからアンドリュー・ワイエスまで多様な作品が紹介されているが、このセクションを通覧するならば、戦後美術においてリアリズムとは端的に社会主義リアリズムであり、社会主義の美化と深く関わっていたことが理解される。スターリンや毛沢東といった個人崇拝のイメージのみならず、リアリズムは蜂起や社会闘争、労働争議といったモティーフを好んだ。ひるがえって今挙げた「密室の絵画」もこのような特性をはらんでいたのではなかろうか。つまり河原や池田龍雄らの絵画はこの展覧会でいえば第三部と第四部、新しい人間の表現とリアリズムという二つの主題を総合する営みであったとはいえないか。先日、埼玉県立近代美術館等を巡回した「日本におけるキュビスム」において別の角度から検証されていた問題であるが、私は日本の1950年代の美術はなお十分に解明されていないように感じる。

 ここまで扱われた作品が具体的、物質的であったのに対して「Concrete Visions」と題された第五部では抽象的な動向が扱われる。冒頭にコンクリート・ポエトリーについての論文が掲載され、北園克衛の図版が掲載されているのには驚く。カール・アンドレやロバート・モリスと並んでこのセクションで詳しく紹介されているのはリジア・クラークやヘリオ・オイティシカら、ブラジルの戦後美術の動向である。これまでにこのブログで扱ったいくつかの展覧会や研究を通して、私は欧米圏において近年、中南米の美術への関心が高まっているように感じる。例えばクレア・ビショップの研究では60年代のアルゼンチン美術に紙幅が費やされていたが、パフォーマンスを中心としたきわめて「具体的」な美術の一方で、ここで取り上げられた多くの抽象的な造形が軍政下にあった中南米諸国で制作されていた点は興味深い。前のセクション、「レアリズム」と対比するならば、ここにかつてのソビエトの共産党政権下における社会主義レアリズムとロシア構成主義の対立関係の反復を見出すのは私だけだろうか。さらにミニマル・アートへと補助線を引き、一見非政治的な作品とベトナム戦争との関係を問うならば、なるほど「戦後」に新しい視界が開けるかもしれない。このパートにはなぜか具体美術協会の二人の作家、田中敦子の布の作品と元永定正の色水による構成も収められていることを付言しておこう。

 続く第六部「Cosmopolitan Modernism」と第七部「NationsSeeking Form」においては対比的な問題が扱われている。前者がアラブやアフリカの未知の作家によってモダニズムという西欧に特有のパラダイムの相対化を試みるのに対して、後者は国旗や神話、伝説といった象徴的なイメージによって国家ないし民族を統合しようとする試みを紹介している。最初に触れたとおり、この展覧会は西欧を特権化することなく全球的な「戦後」の表象を確認することを目的としているから、モダニズムの相対化と、とりわけ第三世界をめぐる統合の象徴の探求という意図はわからないでもない。例えばマーク・トビーのホワイトライティングとイブラヒム・エル・サラヒというスーダン生まれの画家の作品が対置される時、複数のモダニズムの可能性が示唆されるかもしれない。しかしほかのパートに比べてこの二つのパートは作品数が少なく、なによりもポスト・ウォー、戦後という問題といかに切り結ぶか、作品を見る限り必ずしも判明ではない。おそらくこの二つのパートは戦後における植民地の独立、そして第三世界の伸長と深く関わっているが、主題性としての凝縮力にやや欠ける。最後の第八部は「Networks, Media &Communication」と題されている。冒頭の解説によれば、「戦後」の最終局面として、マス・カルチャーや消費社会に関わる記号の提示に代わり、テクノロジーを介した記号の循環と分配の時代の到来を意味しているらしい。ラウシェンバーグ、ウォーホルからボイスまで、そしてほかのパートと同様に多くの名も知らぬ作家まで多様な作品が紹介されているが、その選択の基準はこれまでにも増して恣意的に感じられる。経度と緯度を示した河原温の作品はともかく、高松次郎の紐の作品や田中敦子の「電気服」がこのセクションに分類された理由が私には理解できない。

カタログを通覧するだけでも様々な発見がある。いくつかの所感を記すならば、まずこの展覧会においては戦後美術にあってドグマティズムとして機能したグリーンバーグ流のフォーマリズムは完全に相対化されている。相対化されているどころか、この展覧会には抽象的な作品自体が少なく、抽象的であっても多くは人の姿や手の跡を感じさせる。むろんそれはこの展覧会が「ポスト・ウォー」をキーワードとしたテマティックな内容であるためだ。平面性や視覚性に代わってこの展覧会を貫通するモティーフを挙げるならば、人体のイメージと物質性ではないだろうか。この意味においても展覧会のハイライトは前半、とりわけ第二部と第三部に求められるだろう。やや強引な読みをするならば、第二次世界大戦によって人間が物質と化すことを経験した私たちはまさにこの現実から出発しなければならなかったのであり、原子爆弾と絶滅収容所がこの展覧会の出発点となったことは必然性を有している。別の言葉を用いるならば、「戦後」の表現は本質において表象不可能なこの二つの出来事―いずれもその場に居合わせた者の絶滅をその本質としている―をいかにして表現するかというアポリアから始められた、被爆した人々の幽霊のような姿とカンヴァスの上に盛り上げられた絵具がその手掛かりなったことはおおいにありうる。この展覧会で私たちは歪められ変形した身体、そして毀損され破壊された物質に出会う。会場がかつて「大ドイツ芸術展」が開催された建築であったことを再び想起しよう。「大ドイツ芸術展」のカウンターパートであった「退廃芸術展」においても、醜く描かれた人体やコラージュやモンタージュといった破壊的手法のゆえに一群のモダンアートが弾劾され、排斥されたのではなかったか。モダンアートにおいても人体は美化して表現されることがなかったことを想起するならば、この展覧会に出品された作品はその末裔と位置づけられるかもしれない。一方でこの展覧会には、美化された人のイメージが集められたセクションが存在する。いうまでもなく「リアリズム」のセクションであり、そこではスターリンや毛沢東といった個人崇拝の対象および革命や社会闘争の情景が一種の理想化を経て表出されていた。戦後にあって社会主義リアリズム以外にリアリズムは存在しえなかったのであるが、そこで描かれる英雄や正義のための闘争は「大ドイツ芸術展」に出品され、今日忘れ去られた画家たちの作品を連想させないだろうか。この意味においても対象を美化することなく社会的闘争を描いた50年代の日本の「リアリズム」の実践は独特であり、この点からいわゆる「レアリズム論争」が再検討されてもよいかもしれない。

 先にも述べたとおり、ここに並べられた作品はモダニズム美術の正系からは逸脱している。かかる逸脱を検討するうえで興味深い作品が本書の冒頭に掲げられている。グリーンバーグのフォーマリズム絵画理論によればモダニズム絵画の一つの帰結とみなされる画家、モーリス・ルイスが画業の初期、1951年に描いた二つの作品《無題(ユダヤの星)》と《黒焦げの雑誌》である。カンヴァスにアクリル絵具を用いて制作された二つの作品のうち前者は初見であったが(大書された六芒星にタイトルの意味は明白だ)、ユダヤ人虐殺と焚書というナチスドイツの蛮行との関係はタイトルから明らかである。あるいは先に述べたとおり、ルイスと並べて展示されたステラのブラックペインティングも強制収容所の暗示を秘めていた。グリーンバーグやマイケル・フリードによってモダニズム絵画の最終形態とみなされた作家たちが第二次大戦の記憶と深く関連した作品を制作したという事実を私たちはいかにとらえるべきであろうか。彼らがモダニズム/フォーマリズムの文脈に組み込まれるうえでは、戦争の記憶の喪失が代償とされたということであろうか、それともフォーマリズムという原理自体が「戦後性」の解消ともいうべき一種の政治性に奉仕したのであろうか。さらにポロックやマーク・ロスコといった抽象表現主義の作家がいわゆるブレークスルーを遂げる中で、それまでの絵画に濃厚であった人体のイメージと画面の物質性、まさに私たちが論じた特質がいずれも解消されている点は興味深い。抽象表現主義絵画の成立は文字通り「戦後」の超克によって可能とされたといえるかもしれない。

 最後にこの展覧会に出品された日本人作家について触れておきたい。この展覧会には多くの日本人作家も含まれている。しかし私は一種の既視感とともに彼らの作品を確認した。「原爆の図」に始まり、具体美術協会の作家たち、河原温、工藤哲巳、草間彌生から小野洋子にいたるまで、私の知る限りほとんどすべての作品が過去に海外で展示されている。つまり今世紀に入ってほぼ十数年のうちに日本の戦後美術を世界に紹介するにあたってのクリシェが形成されたのである。むろんこれほどの大展覧会であれば対象地域を精査する十分な余裕はなかろうから、以前に欧米で紹介され、カタログに掲載された作品が再度紹介される可能性が高くなることは仕方がない。私が危惧するのはこのような安易な反復を介して、欧米の美術館、ことに商業ベースのギャラリーによって、彼らにとって都合よく日本の戦後美術の独自性が再文脈化されることである。私はこの点についてこのブログにおいてもグッゲンハイム美術館での具体美術展やミン・ティアンポの研究と関連して何度も警告した。先ほど論じたとおり、この展覧会に出品された河原温の初期作品はこれまで海外でほとんど紹介されることがなく、それゆえきわめて興味深い視点を展示全体に与えているし、私はその傍らに池田龍雄や石井茂雄らの「密室の絵画」が展示されていたなら、さらに展示に奥行きが与えられたと感じる。逆に田中敦子の《電気服》や元永定正の吊り下げられた色水の作品は日本の作家も加えることのアリバイ以上の意味をもたないように感じられた。私たちはかかる画期的な展覧会に日本の作家の作品が出品されたことに一喜一憂するのではなく、不在の作品も含めて展覧会の文脈を相対化し、逆に日本の戦後美術の可能性について思いをめぐらせる時期に来ているのではないだろうか。

なお、先日よりexcite blog の投稿の際のフォーマットが強制的に変更され、結果としてフォントやポイントが統一されずおおいに見苦しくなっている。改善を要求する。


# by gravity97 | 2017-03-14 22:13 | 展覧会 | Comments(0)

 

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 翻訳が刊行された後、タイミングを合わせたかのようにフランス国内で大規模なテロ事件が発生し、「予見的」として大きな話題になったミシェル・ウエルベックの「服従」を読む。それから二年が経過し、イギリスのEU離脱、そして社会病質者のアメリカ大統領就任という異常事態を経て、私たちはますます本書の警告が切実な意味をもつ世界に生きることとなった。ウエルベックに関して私はこれまで「地図と領土」しか読んだことがない。冒頭にジェフ・クーンズとデミアン・ハーストが登場する「地図と領土」もとんでもない小説であったが、本書も問題作と呼ぶにふさわしい。最初にお断りしておくが、内容に立ち入らず本書を論じることは困難であり、結末も含めてこのレヴューでは物語の内容に言及する。可能であれば、一度通読してから以下をお読みいただいた方がよいかもしれない。

 帯の惹句に次のような記述がある。「フランス大統領選同時多発テロ/賛否渦巻く予言的ベストセラー」「シャルリー・エブドのテロ当日に発売された近未来思考実験小説」実際に翻訳が刊行された当時はフランスにおけるテロとの関係でセンセーショナルに宣伝されたことを覚えているし、私が刊行直後に本書を求めなかったのは予断をもって小説を読むことを好まないためだ。しかし今回本書を読み始めるとやや印象が異なる。冒頭にJ.K.ユイスマンスの一節がエピグラフとして引かれ、「ぼく」を語り手とした一人称の物語が始まるが、そこで記述されるのはユイスマンスを専攻し、ソルボンヌ=パリ第四大学で博士号の学位を取得した主人公の大学の研究者としての比較的単調な生活である。短い章が重ねられて構成されている本書において、一人称の語りは安定しており、大学の文学研究科で教鞭を執る主人公の生活もテロや戦争とはほど遠い。パリ第四大学で博士号を取得し、パリ第三大学で教授職を得るということは典型的なインテリのキャリアであり、ある意味ではフランスで最も安定した状況にある知識人の肖像ということもできるだろう。実際にフランソワが専門とするユイスマンスについては、学者らしいディレッタンティズムが随所で開陳される。その一方で主人公フランソワの個人的な趣味も随所に書き込まれる。まず明らかになるのは主人公の性的な放縦である。彼は大学時代にも大体年に一人くらいのガールフレンドを作り、性的な関係を結ぶ。教職に就いてからも「毎年のように、女子学生たちと寝た。彼女たちに対して教師という立場であることは、何かを変えるものではなかった。ぼくと彼女たち学生の年齢の違いは始めの頃は大きくはなかったし、それがタブーの様相を呈してきたのは、どちらかといえば大学での昇進のせいであって、自分が年を取ったからでも、老いが外見に現れたからでもなかった」日本であれば眉をひそめる者もいるかもしれないが、おそらくフランスであれば主人公のコメントはさほど抵抗なく受け容れられることは予想できる。本書の冒頭でフランソワは長く安定したガールフレンドというよりセックスパートナーであったミリアムとの別れを経験する。しかし物語の中ではさほど大きな意味をもつ事件ではない。インテリの一人称小説らしく、随所にレストランや料理、あるいはワインに関するスノビッシュな固有名詞が散らされているが(このようなディテイルから私はブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」をかすかに連想した)、それらと同様にミリアムも交換可能な固有名詞の一つに過ぎない。実際に主人公はまもなくミリアムの不在の代償であるかのように「エスコートガール」たちとのセックスを楽しむ。物語の序盤において主人公の生活に大きな変化はないが、一方でフランスの社会を覆う変貌の予兆がいくつかの挿話を通して暗示される。私たちはフランソワを前景に、彼をめぐる世界を後景にした一枚の絵画のように物語に接するのであるが、私たちの視点は両者を往還し、やがて前者が後者の中に絡み取られていく様子を目撃する。変化を暗示する挿話とは以下のようなものだ。フランソワの講義に中国人の学生、そして黒いブルカを身につけたマグレブ出身の女子学生、つまり非ヨーロッパ圏の学生たちが出席するようになる、大学予算が大幅に減額される一方でサウジアラビアからオイルマネーを背景とした多額の寄付金が寄せられ、学長人事にも影響を与えるという噂が流れる。新しい同僚はかつてアイデンティティー運動(白人やキリスト教といったなんらかのアイデンティティーに基盤を置く極右の政治運動)に参加していたことを告白する、反ユダヤ主義の台頭が暗示され、ショッピングモールの店構えも微妙な変化をみせる。この小説は2022年、フランスの大統領選挙の年を舞台としており(この情報は本書の帯に記されているのだが、私が読んだ限り、物語の中に具体的な日付は書き込まれていない。大統領選の年であることから逆算されてこの年が特定されたのではなかろうか)、主人公はワインを片手にTVで選挙の帰趨を眺める。既成政党のUMPは退潮し、マリーヌ・ル・ペンの国民戦線が大勝する。そしてイスラーム同胞団が社会党を破ったことによって、右翼の国民戦線とイスラーム政党が大統領選挙を争うこととなった。私はフランスの政治には疎いから、このようなフィクションの現実性については判断できない。しかしマリーヌ・ル・ペンが国民戦線の創始者、ジャン=マリー・ル・ペンの娘であることくらいは知っている。イスラーム同胞団、そしてその党首のモアメド・ベン・アッベスは架空の存在であろうが、多くの実在の人物が散りばめられたこの小説は、フランス人の読者にとって、まさに今年大統領選挙を迎える自分たちと地続きに感じられたとしても不思議はない。

 選挙の結果についてはこの小説の最初の四分の一あたりで記述され、これ以後、物語は不穏な空気を帯びる。大学の同僚マリー=フランソワーズは夫が公安警察に勤務しており、彼は国民戦線が政権を取ることを阻むために社会党がイスラーム同胞団と手を結ぶことを予想する。彼によればイスラーム政権が関心をもつのはもっぱら人口と教育である。政権が樹立された場合、出生率を高めるため一夫多妻が公認され、教育制度が分割される。イスラーム的な教育において男女共学はありえず、女性はできるだけ早く結婚して家政を修めることが求められる。教師はすべてイスラーム教徒であり、食事から礼拝にいたる厳格な規律が求められる。イスラームはすでに周到な根回しをしており、ソルボンヌのごとき有力大学への潤沢な資金援助もその一環であるという。一方、フランソワの同僚は選挙の結果いかんでは内乱が発生すると警告し、銀行預金をおろして地方へ一時避難することを勧める。別れたはずのミリアムが突然フランソワの前に現れ、イスラーム政権から逃れるためにユダヤ系の両親とともにイスラエルに移住することを知らせる。決戦投票の結果、進歩的で穏健な主張を掲げるアッベスが勝利し、ついにフランスにイスラーム政権が成立する。この過程では暴動や銃撃もみられたが、比較的短い時間のうちに事態は収束する。混乱を避けてユイスマンスゆかりの地方を遍歴していたフランソワもパリに戻る。

しかしイスラーム政権の成立に伴い、フランソワの身辺は大きな変化を遂げる。勤務する大学はパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学へと改組され、イスラーム教徒ではない彼は高額の年金を条件に解雇される。フランソワはかつての同僚がイスラームに改宗して大学に残り、自分以上の高額の給料を与えられていることを知る。同僚は「彼ら」によって女子学生を妻としてあてがわれ、さらに来月、「二番目の妻」をめとるという。社会も大きな変化を遂げる。政権の樹立とともに治安は回復し、家事に対して十分な手当てがなされた結果、女性は労働市場から撤退し、失業率は低下する。義務教育は小学校で終わり、それ以上の教育は私立学校に委ねられた。イスラーム化されるフランスの状況はきわめて具体的であり、本書が与えた衝撃もこの点に由来するだろう。私たちは同時多発テロ以来、イスラームと西欧の対立をいたるところで見てきた。先日のアメリカの入国禁止令がその最新ヴァージョンであることはいうまでもない。しかしここに描かれるのは選挙によって民主的にイスラームの属領とされる「西欧」の中心、フランスの姿である。そしてそれは社会と家庭の根底的な変革を伴う。

物語の終盤でフランソワはプレイヤード叢書のユイスマンスの巻の編集を打診される。ガリマール社から刊行されるこの有名な叢書の編集を任されるということは、その文学者についての権威であることを暗黙に示す。実際にこの叢書にユイスマンスが含まれているか否か私は知らないが、これが文学研究者にとって最大級の名誉であることは誰でも理解できよう。さらに編集者はフランソワをアラブ世界研究所の最上階で開催される新ソルボンヌ大学の開校式へと誘う。そこにはサウジアラビアの王子を含む多くのアラブ人とフランス人が出席していた。まもなく彼はニーチェを専門とするパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学の学長ロベール・ルディジェ(もちろん改宗し、複数の妻をもつ)から大学へ復職する厚遇の条件を提示される。おそらくはプレイヤードの編集の誘いもフランソワを大学へ戻すための工作の一つであった。しかし彼がそれを受け入れるためには一つの条件が課されている。いうまでもなくイスラームへの改宗である。この小説の最後は改宗の儀式を終えて、新しい境遇、大学での地位やプレイヤード叢書の編集者という名誉、そしてあてがわれるべき複数の女子大生をフランソワが夢見る場面で終わる。「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。ぼくは何も後悔しないだろう」ただし注意深く読むならば最後の章は、おそらくフランス語の条件法によって書かれているだろう。つまり実際に主人公がそのような選択をなしたかどうかについては読み取ることができない。ウェルベックらしいかなりあざとい語りによって締めくくられているのである。

最後まで読み通すならば「服従」というタイトルの意味は明らかである。この小説においてフランスのインテリたちは嬉々としてイスラームに服従する。彼らに与えられるのは地位や名誉、高い給料、さらに複数の若い妻だ。(ルディジェは15歳の少女を妻として紹介する)あまりにも通俗的な欲望のために大学の教師たちが「転んで」ゆく姿は滑稽を通り越して悲惨でさえある。おそらくこの点こそ西欧の知や良識の拠点である大学が物語の舞台に選ばれた理由であろうし、ここには知識人の退廃あるいは堕落という普遍的なテーマを認めることもできるだろう。女性を隷属状態に置くこと、教育の否定、宗教の厳格な支配、これらが暗示するのは中世の世界だ。本書をとおして私たちは近代西欧社会を成立させた啓蒙や教化が無効化された社会が、大統領選挙という民主制をとおして到来し、大学人という最高の知性たちがあっけなく隷従する過程を目撃する。今日、本書が予言的な意味をもつのはこの点であろう。国家を超えた共同体を形成すること、難民や流民を自分たちの社会の中に受け入れること、融和や平和への希求すること、私たちは自分たちがこれまで理想として掲げてきた価値観が急速に崩壊する現場に立ち会っている。しかもイギリスとアメリカの例から明らかなとおり、それは大多数の市民が望んだ結果なのである。嬉々とした服従。それを解く鍵が物語の中にある。ルディジェの住まいはかつてジャン・ポーランが住み、そしてポーリーヌ・レアージュが「O嬢の物語」を執筆した屋敷であった。ルディジェは次のように語る。「『O嬢の物語』にあるのは服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。(中略)女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように人間が神に服従することとの間には関係があるのです。イスラームは世界を受け入れた。そして世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです」服従によって世界を受け容れること、おそろしくニヒリスティックな発想がニーチェの研究者であるルジェディを介して語られる時、私たちはそのような思想が啓蒙という「光の世紀」を経過した西欧近代と果たして無縁であったのか、問わずにはいられない。あるいはユイスマンス。社会がイスラーム化する中で、フランソワはユイスマンスが滞在した修道院を訪れて数日の間、聖務に勤しむ。私はユイスマンスについてはデカダンスの作家であることくらいしか知識がないが、この作家の研究者を主人公に据えたことにはなんらかの意味があるのだろうか。本書においては西欧の「輝かしい」近代がイスラームの中世によって相対化されている。イスラームと西欧の対立という図式はおなじみのものであるが、これまで私たちはテロリズムやアラブ・ゲリラといったステレオタイプによってしか、イスラームを表象することができなかった。(いうまでもなくエドワード・サイードが論じた点だ)しかしここには暴力ではなく善意と誘惑によってイスラームがヨーロッパを併合する可能性、啓蒙の終焉と中世への退行が示唆されている。もちろんそれは一種の思考実験かもしれない。しかし民主主義と代議制の劣化が致命的なまでに進行した今日にあっては、かかる悪夢が現実化することはありえないと誰が言えようか。民主主義は疲弊している。先日も私たちは自分たちが選んだはずの宰相がアメリカの社会病質者にへつらい、文字通り「服従」する姿を目撃したばかりではないか。


# by gravity97 | 2017-03-01 22:13 | 海外文学 | Comments(0)

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私が学生時代に描いていたような、いわゆる「抽象画」は現在の私の心にはほとんど訴えかけてこなかった。私はそのようなタイプの絵画にもう心を惹かれなかった。今の時点から振り返ってみれば、私がかつて夢中になって描いていた作品は、要するに「フォルムの追求」に過ぎなかった。青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手が届いていなかった。そのことが今ではよくわかった。私が当時手に入れることができたのは、比較的浅いところにある造形の面白みに過ぎなかった。強く心を揺さぶられるようなものは見当たらない。そこにあるのは、良く言ってせいぜい「才気」に過ぎなかった。


# by gravity97 | 2017-02-26 15:53 | PASSAGE | Comments(0)

 b0138838_21253281.jpg 本書はイタリアの戦後美術において最も重要な動向の一つであるアルテ・ポーヴェラを主題とした研究であり、2014年度に京都大学大学院に提出された博士論文に加筆修正した内容であるという。日本においてアルテ・ポーヴェラはかつて『アール・ヴィヴァン』誌で特集されたことがあり、私は未見であるが、展覧会としても2005年に豊田市美術館で大規模な回顧展が開催されている。ヤニス・クネリスやジョゼッペ・ペノーネなどの作品は一部の美術館に収蔵されているから、日本でもその片鱗に触れることは不可能ではないが、ミニマル・アートやアンチフォームなどの関連する動向と同様、アルテ・ポーヴェラはこれまで紹介される機会が少ない美術運動であった。これから述べるとおり、その理由自体もこれらの動向の本質と深く関わっている。したがって本書はこれまで十分に論じられることのなかったこの運動に関して日本語で書かれた初めてのモノグラフといえよう。博士論文としては量的にやや物足りず、章ごとにテーマを違えた構成は必ずしもわかりやすくないが、この運動の本質と広がりを知るうえでは示唆に富む手引きといえよう。

 序章で著者も述懐するとおり、本書の構成は必ずしもクロノロジカルではないし、状況の検証、批評の分析、個々の作品の記述といったレヴェルの異なる議論が意図的に導入されている。しかし読み通すならば、この運動の輪郭のみならずデ・キリコやマグリットといった歴史的前提、ポップ・アートやミニマル・アートといった同時代の美術との関わり、さらには美術館の制度論や作品の同一性といった抽象的な問題にいたる多様な問題がアルテ・ポーヴェラという分光器を得て次々に浮かび上がって興味深い。巻末の年表と関連展覧会のリストは資料的な価値が高く、本文の中で語られる内容についても私にとって初めて知るエピソードが多かった。例によって章を追いながら本書の内容を確認しておこう。

 b0138838_21271465.jpg 1969年、ローマのラッティコ画廊に11匹の生きている馬を繋いだクネリスの衝撃的な《馬》の図版を冒頭に掲げた序章においては、ジェルマーノ・チェラントによって組織され、布や木材、石や鉄板といった素材を無媒介的に提示するアルテ・ポーヴェラの輪郭が粗描されるとともに本書の構成が簡単に説明される。注目すべきは各章の最終節でそれぞれ一人の作家を取り上げ、作家論的な記述がなされている点である。変則的な構成であるが、このような記述をとおして具体的な作家論と理論的な分析がシャッフルされてこの運動の理解に深みを与えるように感じた。第一章ではアルテ・ポーヴェラの登場前後の状況が検討される。いくつもの興味深い発見があった。例えばアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、「貧しい」という言葉がポーランドの演出家イェジェイ・グロトフスキーの「貧しい演劇」に由来することを私は初めて知った。ただしここで池野が「貧しい」という概念をメディウム・スペシフィシティーと関連づけてクレメント・グリーバーグのフォーマリズム理論と対比するのは全くの見当違いであろう。私がアメリカ美術を専門としているためのないものねだりかもしれないが、本書を通読してやや残念なのは同時代のアメリカ美術との比較が十分になされていない点である。この章を読んで私はあらためてアルテ・ポーヴェラがアメリカの戦後美術を強く意識した運動であったことに思い至った。例えば今触れた「貧しい」という言葉である。アルテ・ポーヴェラの理論的指導者チェラントは1967年に「アルテ・ポーヴェラ―ゲリラ戦のためのノート」というテクストを発表している。ゲリラ戦とは穏やかではないが、当時アメリカの手によってベトナム戦争が続けられていたことを想起するならば、すでにこの言葉の選択に明確なメッセージが込められていたと考えてよかろう。それでは何に対するゲリラ戦か、チェラントは次のように説く。「あちら側には複雑な芸術があって、こちら側には貧しい芸術(アルテ・ポーヴェラ)がある」あちら側の複雑な芸術、ゲリラ戦の仮想敵は池野によればポップ・アート、オプ・アート、プライマリー・ストラクチュアであるという。いうまでもなくそれはアメリカの同時代の動向であり、大量消費社会のアイコンであるポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアにみられる華やかで工業用素材を使用した彩色彫刻を連想するならば、それらを豊かさの象徴とみなすことは理解できよう。そしてあらためてこの運動も美術の覇権をめぐるアメリカとヨーロッパの闘争の一つの局面であったことが理解される。興味深いことにはかかる応酬は国家間というよりも有力な批評家の間で交わされた。50年代のミシェル・タピエが失脚した後、ヨーロッパではチェラント、そしてハロルド・ゼーマンが新しい美術を唱導した。このブログでも取り上げたゼーマンの「態度がかたちになる時」がイタリア、アメリカ、ドイツの作家を中心に中立国スイスのベルンで開催されたという事実は興味深い。この章では最後の節でミケランジェロ・ピストレットのケース・スタディがなされる。鏡というこの作家特有の装置を介して、鑑賞者という要素が作品の中に取り入れられるという発想は興味深く、ミニマル・アートを連想させる一方でウンベルト・エーコの「読者の役割」とも結びつく。さらにジャック・ランシエールを援用して展開される議論はなお敷衍する十分な余地があるように感じられる。

 「トリノの地政学」と題された第二章も興味深い。この章ではタイトルのとおり、フィアットで知られる工業都市、トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの展開を論じている。池野は特にジャン・エンツォ・スペローネというギャラリストとデポジト・ダルテ・プレゼンテというオルターナティヴ・スペースが果たした役割について検証しつつ、作家たちが採用した手法がブリコラージュであったという重要な指摘を行っている。ブリコラージュという言葉から直ちに連想されるのはレヴィ・ストロースであり、必然的に構造主義との関係も視野に収められよう。デポジト・ダルテ・プレゼンテにおける作品の展示風景の写真も掲載されているが、この図版から連想されるのは「態度がかたちになる時」やホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」の会場風景だ。この時代の気風が浮かび上がるとともに、これらの作品が展示されるべき理想の空間は果たして美術館であったかという問題も浮上する。この問題は最後の章においてあらためて主題化される。この章で驚いたのはアルテ・ポーヴェラと映画監督として知られるピエル・パオロ・パゾリーニとの関係である。トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの牙城であったデポジト・ダルテ・プレゼンテにおいてパゾリーニは1968年に「オージー」という「言葉の演劇」の上演を試みたという。(「オージー」からウィーン・アクショニズムを連想するのは私だけだろうか)しかし両者の関係は必ずしも良好ではなく、この空間が閉鎖される遠因となったことが暗示されている。あるいは本書には同じ会場でアメリカのリヴィング・シアターによる公演の写真も掲載されている。行為の問題については続く第三章で論じられるが、美術のみならず、映画や演劇と関わる異才たちが当時のトリノに結集したことが理解されよう。この章の最終節で特集される作家はアリギエロ・ボエッティであるが、世界地図の作家として知られるこの作家についても多くのことを学んだ。私は初めて知ったのであるが、世界地図のそれぞれの領土を国旗として切り分けた有名な作品は実は作家の指示に従って、アフガニスタンの無名の女性たちが縫ったものであるという。インストラクションとタスク、ここには明らかにコンセプチュアル・アートにつながる発想が存在し、先日、このブログで応接したクレア・ビショップが言う「参加型アート」のきわめて早い例として考えることができるかもしれない。そして地図というモティーフはきわめて多様なコノテーションをはらんでいる。ルチアーノ・ファブロの名高い「吊されたイタリア」の写真も掲載されているが、地図とは国家の表象でもある。ボエッティがベトナムの地図をトレースする含意は先に述べた当時の国際情勢を考慮する時、明らかであろうし、池野も指摘するとおり同時代のランド・アートの作家たちもしばしば地図を作品の中に取り込んだ。さらにこの問題圏にアメリカの美術史家スヴェトラナ・アルパースが提起した「描写の芸術」、そしてハル・フォスターが説く「民族誌家としてのアーティスト」といった古今の理論的概念が召還される様子は刺激的である。ただしここでも問題の輪郭は文字通り、マッピングするにとどめられ、検証の余地があえて残されている。

 続く第三章「実践のパラダイム」においては行為という問題が導入される。アルテ・ポーヴェラからも9人の作家が参加した「態度がかたちになる時」の輪郭を粗描し、そこでは作品が脱物質化され、プロセスが重視されることを指摘される。このような回路を経て具体的な作品ではなく、生あるいは行為という問題の重要性が明らかとなり、チェラントはアルテ・ポーヴェラからアツィオーネ・ポーヴェラ(貧しい行為)への移行を提唱する。この状況は例えばトリノで開かれた「観想=行動」という展覧会で演じられたピストレットの「散歩彫刻」といったアクションによって説明されるが、68年という時代背景を念頭に置けば、行為のさらに過激な含意も明らかである。ヨーロッパ各地で学生叛乱が発生したこの年、ヴェネツィア・ビエンナーレは参加ボイコットを叫ぶ学生たちで占拠され、一時的に閉鎖された。ただし私たちはアルテ・ポーヴェラにおいて「行為」の質が大きな変貌を遂げていることに注目しなければならない。彼らに先んじて作家の行為に意味を見出したのはハロルド・ローゼンバーグであり、アクションとして定式化された。ローゼンバーグが引用するジャクソン・ポロックのアクションからアラン・カプローはさらにハプニングという概念を導出し、ハプニング芸術を提唱した。これら一連の活動にみられる行為が作家という主体を強く全面に押し出し、行為の成果としての作品、あるいは行為の前提としての環境を伴ったのに対してアルテ・ポーヴェラの作家たちの行為は作家性を欠く場合が多い。先に挙げたクネリスやボエッティもそうであるが、池野はこのような特質を1968年にアマルフィで開かれた「アルテ・ポヴェーラウ+アツィオーニ・ポーヴェレ」という暗示的なタイトルをもつ展覧会に即して詳しく報告している。これらの活動から私が連想したのはいうまでもなく「もの派」による一連の発表であり、クネリスと李禹煥の作品の近似性については以前何かで論じられていた覚えがある。この問題もさらに論じる余地はあるが、池野はむしろ作家性の喪失を「作者の死」という問題へと結びつけ、フーコーからバルト、さらにジョルジョ・アガンベンにおける芸術の主体について論じる。繰り返しとなるが、この運動の周囲に思いがけない問題圏を広げていく点こそが本書の大きな魅力である。そしてこの章では作者と作品との関係という軸に沿って、ジュリオ・パオリーニという比較的マイナーな作家の写真作品が詳しく検討される。

 「前衛以後の古典主義」と題された第四章は比較的短く、一つのテーマが設定される。それは何人もの作家を横断して認められる石膏像というモティーフである。まずクネリス、パオリーニらのパフォーマンスや作品における石膏像の使用が概観される。アルテ・ポーヴェラは集団としての結束力が弱く、どの時点をもって運動が解消されたとみなすかは難しい問題であるが、興味深い点としては彼らが石膏像を使用するのは1970年以後、池野の言葉を用いるならば「アルテ・ポーヴェラ以後」の出来事であることだ。この章ではイコノクラスム、シミューラークル、あるいは古典への回帰といったキーワードと関連させて議論が進められ、最後にアルテ・ポーヴェラが前衛と古典主義という、相反するベクトルを合わせもつ運動であるという注目すべき見解が示される。

 最後の章ではこの運動をめぐる最新の状況が論じられる。すなわち1984年にトリノ、マドリッド、ニューヨークを巡回した回顧展における展示である。チェラントによって組織されたこの展覧会においては初期の作品とともにそれぞれの作家の近作も展示されたという。このような展示においては作品の同一性が問題となることはいうまでもなかろう。この問題を池野は異なった会場に展示されたジョヴァンニ・アンセルモの作品のインスタレーションが異なった印象を与えた点から説き起こしているが、これは現代美術の展覧会を手がける学芸員にはおなじみの難問である。アルテ・ポーヴェラの作品においては布きれや藁、炎や植物といった永続性がなく、不定形の素材が用いられる場合が多い。最初の発表と同じ素材、同じ形状の作品を発表することは最初からありえない。かかる作品の同一性を何に求めるかという点に答えることは簡単ではない。もしそれが作家に帰属するならば、作家が死亡した後は作品の同一性を保証することは困難となる。いうまでもなくこの問題は同時代のアンチフォームやプロセスアート、さらにはもの派などにも共通する。この問題を傍らに置く時、第四章で論じられた「作者の死」、あるいはしばしば言及されるウンベルト・エーコの「開かれた作品」といった概念は新たな意味を宿すかもしれない。最初に述べたとおり、これらの運動を回顧することが困難であったのも同じ理由による。池野はこの章の冒頭にミケランジェロ・ピストレットの《ぼろ切れのヴィーナス》の二つの展示風景の写真を並置し1985年の展示風景においては建築との関係において作品の異化効果が強められていると述べている。つまり実体をもった作品であっても展示された場所との関係において別々の作品と見なされる場合さえあるのだ。しかしミニマル・アートを念頭に置く時、このような作品の特性は意外ではない。作品は場の函数として存在し、それゆえ作品のインスタレーションが問題とされるのだ。「再制作/再構築の(不)可能性」と題された第三節においては近年の注目すべき試みとして、このブログでも応接したヴェネツィアにおける「態度がかたちになる時 ベルン/1969年 ヴェネツィア/2013年」(2013)を挙げる。ブログで詳述したとおりこの展覧会はゼーマンの伝説的な展覧会を、会場を含めて完全に再現するという画期的な試みであった。この展覧会を検証しながら池野はアルテ・ポーヴェラの作品が常に同時的時間にしか存在しえないというアポリアを確認するとともにそれを再構築する試みが常にずれを伴うことを指摘する。興味深いことにこのような過去の展示のリテラルな再現は近年次々に試みられている。このブログで扱った展示だけでも2014年、ニューヨーク、ユダヤ美術館における「アザー・プライマリー・ストラクチュア」、そして2015年、東京国立近代美術館における「Re: play 1972/2015」などが挙げられる。再現不可能な作品に対する美術館の対応としては別の手法もある。本書においてニューヨーク近代美術館の館長ウィリアム・ルービンの言葉を引きながら、池野は「作品自体を収集することが不可能である場合、その代替物であるドキュメンテーションを収集する」手法を示す。この点も近年の美術館において注目を浴びている手法であり、奇しくも私は先日の国際美術館における「THE PLAY」に関する展覧会の展示と関連してこの問題を論じた。あるいはやはり近年、美術館において大きな注目を浴びているアーカイヴもこの問題と深く関わっているだろう。この章では最後にジョゼッペ・ペノーネの《流形彫刻の庭園》というプロジェクトに触れて作品と場の関係、作品の同一性の問題が論じられる。

 本書はアルテ・ポーヴェラという運動を扱いながらも、求心的というより遠心的であり、多様な主題を巻き込んでいく点が理解されたことと思う。半世紀前に繰り広げられた、必ずしも輪郭のはっきりしない運動でありながら、そこで提起された問題は「貧しい」どころか、今日においてもアクチュアリティーをもつ。参加型アート、展覧会の再現、アーカイヴとしての芸術、先に私が言及したいくつかのテーマは21世紀に入って鮮明となった主題であり、この運動の先見性を暗示している。アンチフォームやプロセスアートといった対応するアメリカの動向がフォーマリズムへの明確な批判として成立しているのに対して、かかる運動はいかなる出自をもつのであろうか。十分に深められていないが、先に触れた「前衛と古典主義の結合」という発想は一つの手がかりとなるかもしれない。現代美術が美術史学に登録されたことの証明は、そのテーマで博士論文が執筆されることであるという。私たちはようやく半世紀前の美術を美術史学の対象として検証する視座を得つつある。ラウシェンバーグ、具体、そしてアルテ・ポーヴェラ。近年上梓され、このブログでレヴューしたこれらの作家や運動についての優れたモノグラフの数々は現代美術が歴史化される過程を雄弁に語っている。


# by gravity97 | 2017-02-17 21:29 | 現代美術 | Comments(0)

三浦英之『五色の虹』

b0138838_15295242.jpg 本書はサブタイトルにあるとおり、日本が中国東北部を満州国として植民地化していた時代、現地に設置された満州建国大学の卒業生たちの人生をたどるドキュメントである。著者の三浦英之は朝日新聞の記者。三浦について、私は本書に先行して別の機会に知っていた。三浦は現在、アフリカ特派員としてヨハネスブルグの支局長を務めているが、以前よりツイッターを通してアフリカの現在を生々しく伝える情報を発信し、最近も現政権の下で日本の自衛隊が配置される南スーダンの苛酷な状況について、タイムリーなレポートを記していたように記憶する。恥ずかしげもなく首相の饗応に応じる御用編集委員がコラムを執筆するこの新聞社にあって、三浦や「メルトダウン」の大鹿靖明ら、きちんとした調査報道ができる若手記者が存在することはせめてもの救いだ。

 歴史の中にはいくつもの闇がある。以前、このブログで取り上げた北朝鮮への帰還事業しかり、中国での大飢饉しかり。あたかもそれがなかったように葬り去られた多くの真実は粘り強い調査を通じてようやく白日のもとに晒される。本書の主題である満州建国大学が闇に埋もれた理由は明らかである。それは満州という日本の植民地、ありえざる場につかのまに花開いたユートピアであったからだ。三浦はかつて新潟支局に赴任していたことを縁として、この大学の卒業生と知り合い、関心を抱いて取材を始める。町田、神戸と関係者を訪ねた後、朝日新聞社の許可を得て、三浦は三週間の取材旅行に出かける。目的地は大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、そしてカザフスタンという広い地域に及ぶ。必ずしも治安や日本との関係がよい地域ばかりではない。三浦によれば、「所属新聞社の推薦状がない限り、中国やモンゴル、カザフスタンなどの国々は取材に必要なビザを発給しない。万が一不正が発覚した場合には海外拠点で勤務する特派員にペナルティーが科せられる恐れがあるため、新聞記者という身分を有して取材にあたる以上、観光ビザで入国するという行為が私にはどうしてもとれなかった」後述するとおり、この取材にあたって検閲に近い妨害を三浦は体験することになるが、この記述は21世紀に入っても世界が厳しい緊張の中にあることを暗示している。実際に先般、社会病質者が下した「大統領令」によって私たちはいまや移動の自由さえ奪われている。この取材旅行に基づいて夕刊に四回にわたる記事が掲載されたとはいえ、2010年にこのような取材旅行が許可されたことに私は新聞社の度量を感じる。それというのも、本書はまさにこの時点に取材がなされたことによって可能になった記録であるからだ。高齢の関係者は次々に他界し、あとがきには取材から本書が刊行するまでに鬼籍に入った登場人物の名前が列挙されている。

 2010年に東京で開かれた建国大学の「最後の同窓会」の模様をプロローグとして、新潟からカザフサタンのアルトマイまで、記者が取材で赴いた地をタイトルとした11の章によって本書は構成されている。比較的短い期間の取材と三週間の海外取材を素材としているから徹底性には欠けるが、スピード感があって読み物としてまとまっている。卒業生を各地に訪ねる内容は一種のオムニバス形式といってよいだろう。卒業生のその後の人生は彼らが生きた国、生きた時期によって実に様々だ。その広がりこそが本書の主題であるといってもよかろう。最初にこの大学について簡単に述べておくならば、満州建国大学とはその名の通り、かつての満州国の首都、長春(新京)に1938年に開学し、敗戦による満州崩壊とともに1945年に消滅した。わずか10年に満たない時期の開設であったが、9期生1,400名の卒業生があったとウィキペディアにある。三浦によればこの大学の在学生は日本政府が傀儡国家満州国の運営を担わせるために日本全土と満州全域から選抜した戦前戦中のスーパーエリートであった。五族共和の実践をめざして開設されたこの大学は日本初の国際大学であり、国内の帝国大学とは異なり、日本人は定員の半分に制限され、残りは中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生に配分されていたという。使用言語についても日本語と中国語のほかに欧米諸言語を含めて自由な選択が許されていたという。さらに当時としてはまことに異例なことにこの大学においては言論の自由が認められていたという。学生の国籍や言語の選択はともかく、言論の自由が保障され、学内では日本政府への批判が公然となされていたという指摘にはその真偽は措くとしても驚かされるが、プロローグで語られる同窓会の席上で、同窓生の一人が様々な国籍の同窓生の名を呼び上げて慟哭するというエピソードに、そのような理想郷が存在しえたかもしれないという思いを強くする。

 先に述べたとおり、三浦は日本、中国、モンゴル、韓国、台湾、カザフスタンという六カ国をめぐって取材を続ける。このことからも満州国という傀儡国家の版図の広がりを理解することができるが、興味深いのはそれぞれの国に散らばった同窓生たちの運命が大きく異なることだ。例えば韓国で取材した姜英勲はかつて韓国で首相を務め金日成と会談まで行った人物である。三浦によれば韓国は終戦時より建国大学の出身者を積極的に登用し、政府や軍、大学や企業内に建国大学の人脈が出来ていたという。あるいは台湾で面会した李水清は台湾を代表する製紙企業のトップを務め、子供たちは全員アメリカの一流大学で博士号を取得している。一方、中国で面会を予定していた二人の卒業生はいずれもなお共産党の監視下にあり、終戦後、長春を包囲した共産党軍の籠城戦、多くの市民が餓死したいわゆる長春包囲戦について三浦が不用意な質問をしたため、その時点で取材がすべてキャンセルされた。モンゴルとカザフスタンに住む卒業生たちも監視こそされていないが、韓国や台湾の卒業生たちと比べるならば、決して恵まれた生活をしている訳ではない。本書は取材旅行というかたちをとるから基本的に彼らの現在に焦点を当てているが、おそらくそこまでに彼らがたどってきた道も一様ではない。本書においてもその一端が明かされているとおり、この大学に在籍した中国人、ロシア人、モンゴル人の学生たちは日本帝国主義への協力者とみなされて迫害を受け、殺された場合もあったという。そしてそのような事実を明かすことさえも現在の彼らに危害を及ぼす可能性があるという。本書には三浦の手によるインタビューイたちのポートレートも掲載されているから、おそらくそのような可能性を注意深く取り除いたうえでの刊行であろうが、戦中のある時期、一つの大学に在籍したという事実が半世紀以上も時を経た人々になおも重い影を投げかけているのだ。

 一方で述べたような状況にも関わらず、卒業生たちがなおも連絡を取り合い、同窓生名簿を作成し、同窓会を開くという事実もまた重い。建国大学は教育内容のみならず全寮制で学費も免除されるという厚遇を保証したから150人の定員に対して日本と満州から2万人の志願者があったという。三浦のいうスーパーエリートという比喩は誇張ではないし、実際に姜英勲のように戦後要職に就いた卒業生もいれば、日本でも国立大学の教授となったインタビューイもいる。彼らのポテンシャルはきわめて高い。建国大学への入学は本来ならば未来を嘱望されるべき出来事であったはずであるが、逆にそれが帝国主義への協力の徴、一種のスティグマとみなされた訳だ。独ソ戦においても祖国のために戦い、捕虜となった兵士たちがスパイの疑いをかけられて拷問や苦役の犠牲となった点を私はこのブログのいくつかの記事で検証したが、戦時においては真摯に生きたがゆえに汚名を着せられるという悲劇が洋の東西で繰り返された。したがってここにおいて同窓会名簿に登載されることは生命にまで及ぶ不利益を被る可能性がある。それにも関わらず、「彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運良く連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった」かかる熱意の由来を、私はこの大学が一つの理想を掲げ、少なくとも学生たちがそれを共有していたことに求めたいと思う。以前、このブログで「官展にみる近代美術」についてレヴューした。今読み返してみるならば、長春における「満州国美術展覧会」もまた満州国の瓦解まで8回にわたって開かれていた。出品者の中に白系ロシア人らしき名前が含まれていたことは述べたとおりだ。展覧会の開催期間は建国大学が存在した期間とほぼ同期しており、満州国においては敗戦にいたるおよそ8年間の間、五族共和の名の下に一種のコスモポリタニズムの気風が醸成されていたことを暗示している。もちろんそれは所詮満州国という日本の帝国主義が作り出した擬制の上に開いた徒花であったかもしれない。しかし少なくとも一抹の理想主義が存在したからこそ、卒業生たちは弾圧や迫害を承知のうえで、戦後も団結を続けたのではないだろうか。実際、本書の中では三浦が卒業生の一人に同行してカザフスタンを訪ね、同期生のロシア人の再会に立ち会う場面が一つのクライマックスをかたちづくっている。65年ぶりに再会した二人の老人の交流は胸をうつ。これに先んじてこのうちの一人、85歳の宮野泰が自宅にNHKのロシア語講座の教材を揃えていたというエピソードが示される。三浦の賞賛の言葉に宮野は「これでも建大生の端くれであるから」と返すが、それはコスモポリタンとしての自負ではなかっただろうか。満州については今なおあまりに多くのことが手つかずに残されている。建国大学についても「敗戦時に大学に関する資料の多くを焼却し、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌った」と本書中にある。しかし満州とは全否定されるべき対象であろうか。近年、文学と美術の領域でようやくそれらを相対化する試みが始まったことを私はこのブログで何度か論じた。民族も国籍も違えた若者たちが集い、時に宗主国である日本を批判するような談論が風発したという建国大学の気風は、たとえそれが選良主義と植民地性を前提にしていたとしても、世界市民という意識へと通じる可能性を秘めていたのではなかっただろうか。

 今や私たちはかつてない憎悪の奔流の中にいる。憎悪を焚きつける言葉が政治家やメディアの口からひっきりなしに流れ、差別と排除が公言される。なぜ国籍や民族が異なるだけで人は憎しみ合わなければならないのか。「五色の虹」の五つとはいうまでもなく五つの民族、虹とは三浦の現在の赴任地、南アフリカでネルソン・マンデラが他民族国家の調和を比喩した言葉である。現在も日本を含む五つの民族は複雑な関係の中にいる。しかしかつて私たちが満州という地で(スローガンとしての政治性は措くとして)「五族協和」という理念をなんとか実現させることができたとすれば、再び同じ理想のもとに手を携えることができない理由はないはずだ。



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# by gravity97 | 2017-02-05 15:34 | ノンフィクション | Comments(0)