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 エジプトに生まれドーハで育ち、現在はアメリカに居住する著者によって今年4月に発表された小説が早くも文庫として訳出された。アメリカン・ウォー、アメリカの戦争とは2075年に始まる第二次南北戦争のことだ。地球温暖化で沿岸部が水没しつつあるアメリカ、化石燃料の使用を禁止する法案をめぐってミシシッピー、アラバマ、ジョージアという南部の三つの州が独立を宣言し、北部諸州との間で内戦が始まる。前者は赤いアメリカ、後者は青いアメリカと呼ばれる。この色分けが大統領選挙の際の共和党と民主党の支持者の色分けを暗示していることはいうまでもない。本書はいずれにも正義のないアメリカの戦争の中で翻弄される一組の家族の物語である。

 随所に事態の推移を記録する公式文書を挿入しつつ、プロローグと四つの章から成る本書の語りは二つの視点からなされ、時制についても二つの時間が導入される。すなわち一人称で語られるプロローグにおいてはこの内戦が過去の事件として語られる。語り手は第二次南北戦争の研究者でもある歴史家の「わたし」であり、人生も終わりに近づいているという記述から、高齢時における回想である点が示唆されている。事後の視点で語られるのはプロローグのみ。第一章から第三章までは三人称と神の視点が導入され、物語はほぼ時間軸に沿って展開する。冒頭の「そのころのわたしは幸福だった」というフレーズが物語の最後で反復される点からも明らかなとおり、本書の説話論的な構造はさほど複雑ではない。第四章で再び導入される一人称の語り手がプロローグのそれと同一である点はすぐに了解されるし、先に述べたとおり時制の構造も比較的単純だ。

 未読の読者のために一人称の語り手が誰であるかについてはあえて触れない。しかし本書のプロローグで語られる第二次南北戦争の経緯については、少し整理しておいた方がこのブログに触れて本書を手に取る読者にとって有益かもしれない。第二次南北戦争は2074年から2095年まで続いた。開戦の契機としては2073年にミシシッピー州で起きたダニエル・キ大統領の暗殺、そして翌年サウスカロライナ州で発生した抗議デモ参加者への発砲射殺事件がある。これ以後、自由南部国と北部諸州の間で激しい戦闘が続けられるが、この戦争に関連して生物兵器による二つの惨事が発生した。一つは2075年にサウスカロライナ州で発生した疫病であり、この結果、サウスカロライナ州は隔離され、この地域への帰還は不可能となる。(私たちにフクシマにおける原子力災害を連想させるに十分なイメージだ)一方、二つの陣営の和平交渉が進み、終戦の調印が行われた2095年、オハイオ州コロンバスにおける「再統合の日」記念式典においてもテロリストが生物兵器を撒布し、「再統合疫病」なる疫病の流行によってその後、10年間にわたって一億一千万人の人々が死んだという。物語を理解するうえでは生物兵器による惨事が二度にわたってサウスカロライナとオハイオで別々に発生し、前者が戦時中の出来事であるのに対して、後者は戦争の終結を別の大量死へと結びつけたことを覚えておくのがよい。災厄後のアメリカというイメージは私たちが見知らぬものではない。生物兵器の流出によって破滅した後のアメリカを描いた傑作として、私たちはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』を知っているし、同様にロバート・マキャモンは熱核兵器によるアルマゲドン後の風景を『スワンソング』の中で描写した。あるいはこのブログで取り上げたコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』ではおそらくは核戦争後、死滅していく世界、ポール・オースターの『闇の中の男』では本書と同様に内戦状態にあるアメリカが描かれていた。崩壊していく世界のイメージはJ.G.バラードからアンナ・カヴァンまで文学の連綿たる主題系をかたちづくっている。

 しかしながら本書において世界の崩壊は圧倒的なリアリティーをもって私たちに迫る。なぜならここで描写される事件を私たちは既に知っているからだ。武装組織が支配して人が犬のように撃ち殺される風景、絶望した若者たちがテロへと走る難民キャンプ、人権を無視した拷問と虐待が日常化した捕虜収容所。これらは現在私たちの前に広がる光景と何ら変わるところがない。唯一異なるのは、それが最も豊かであるはずのアメリカという国の近未来として描かれていることだ。

本書の主人公、サラット・チェスナットは自由南部国と国境を接するルイジアナ州で、双子の妹のダナ、兄のサイモン、そして両親ともに貧しい暮らしを送っていた。物語の冒頭では6歳の少女として登場する彼女を過酷な運命が待ち受ける。父ベンジャミンは自由南部国のテロリストによる自爆テロの巻き添えで死亡し、故郷を追われた母と子供たちはキャンプ・ペインシェンスという難民キャンプに身を寄せる。希望のない難民キャンプの生活の中で男勝りのサラットは頭角を現し、かつて医師であったというアルバート・ゲインズという得体の知れぬ男の目に止まる。キャビアや蜂蜜といった貴重な食糧を融通する力をもったゲインズは最初、彼女に使い走りの単純な仕事を与え、次第に彼女の教師としてふるまい始める。一方、荒んだキャンプ生活の中でサイモンは次第に武装組織へと接近し、母マーティナは行く末を案じる。しかし難民キャンプでの家族の生活は突然に断たれた。民兵たちがキャンプを襲撃し、虐殺が繰り広げられたからだ。罪のない無数の難民が殺され、マーティナとサイモンも行方が知れない。ダナとともに虐殺を免れたサラットがゲインズに家族の復讐を誓う場面で第二部は終わる。

第三部はキャンプ・ペイシェンスにおける虐殺の五年後の情景から始まる。サラットとダナ、そしてサイモンはジョージア州のリンカートンという街で、虐殺の犠牲者に対する補償であろうか、自由南部国の援助を受けながら暮らしていた。大虐殺の際に頭に大きな傷を負ったサイモンはカリーナという看護師による日常の世話を受けてかろうじて生をつないでいた。虐殺を生き延びたサイモンは「奇跡の子」と呼ばれ、戦争で肉親を失った人々の信仰の対象となっている。サラットとはゲインズのもとで武闘訓練を受け、一人前のテロリストに成長し、ある暗殺事件と関わることによって、自由南部国の武装組織の男たちからも一目置かれる存在となる。しかしリンカートンでの平穏な暮らしも長くは続かない。双子の妹ダナは、コントロールを失って無差別に人を襲う「戦闘鳥」と呼ばれるドローン兵器の襲撃によって命を失い、サラットも捕縛され、自由南部国の「テロリスト」を収容するカリブ海のシュガーローフ収容所に収容され、筆舌に尽くしがたい虐待と拷問を受けることとなる。

このブログとしては珍しく、今、私は本書の第三章までのあらすじをかなり詳細に記した。しかし前もってこのような知識が与えられても本書を読む楽しみは減じないはずだ。第三章までのサラットをめぐる物語が愛する家族を一人ずつ失っていく喪失の物語であるのに対して、語り手を違えた第四章は一種の回復と治癒の物語である。第三章までの絶望に対して第四章で語られる希望がかろうじて拮抗し、一縷の救いが与えられる。物語が近未来に設定されているにも関わらず抵抗なく入り込めるのは、それが私たちと地続きであるからだ。冒頭に綴られる家族の生活は、温暖化による土地の水没という話題を除けば現在のアメリカの低所得者層のそれとさほど変わらない。難民キャンプでの生活、ことに暴力が新たな暴力を生み、若者たちが自爆テロへと唆される情景は今日私たちがパレスチナの難民キャンプで目にしているとおりだ。キャンプ・ペイシェントにおける大虐殺は北部諸州の暗黙の了解のもとになされた民兵による蛮行であった。かかる虐殺はこのブログでもジャン・ジュネに関連させて論じた1982年、西ベイルートのシャティーラ・キャンプにおける虐殺を正確に反復しており、テロの容疑者に拷問を加えるシュガーローフという収容所から、アフガニスタンやイラクで拘束した同時多発テロの容疑者を収容して拷問を加えたグアンタナモ収容キャンプを連想しないことは困難だ。端的に述べるならば、本書においては20世紀後半から今日にいたるまで、多く中東地域において人々が味わった暴虐と不条理があたかも主客を反転するかのように、アメリカの人々を苦しめている。小説の中でもはやアメリカに自助の能力はない。難民キャンプを運営するのは赤十字社ではなくイスラムの赤新月社であり、援助物資を届けるのは中国と「ブアジジ帝国」なる中東の大国である。ゲインズはかつて中東で勤務したことがあり、物語の中で重要な役割を果たすゲインズの友人ジョーはブアジジ帝国の出身者であることが暗示される。没落するアメリカ/西欧に代わって、中国そしてとりわけイスラムが強大な力を手に入れるという発想は先にレヴューしたウェルベックの「服従」と共通している。西欧の没落とイスラムの伸長、これらの小説は欧米の知識人層が現在抱えるイスラムフォビアを反映しているかもしれない。

本書は復讐の物語でもあり、サラットは復讐の女神であるかのようだ。父と母、双子の妹、家族が一人ずつ惨たらしい死を迎え、自らも収容所で虐待を受けて深いトラウマを負うサラットは復讐を誓い、敵の指導者や自らに拷問を加えた兵士、さらには抽象的な「敵」に対して銃やナイフ、時に特殊な兵器を用いて徹底的な復讐を果たす。彼女の最終的な復讐がどのような結末を引き起こしたかについて、あえてここでは記さない。物語の根幹、そして語りの形式とも深く関わっているからだ。最初に述べた通り、プロローグの語り手の存在によって、ここで語られる物語が既に終えられていること、「彼女」がおそらくこの世にいないことを私たちはあらかじめ知っている。そして読み進むならば私たちはサラットの復讐が結局のところ何も生み出さなかったことを理解するだろう。本書は復讐の不毛さを教える。物語の舞台は近未来のアメリカだ。しかし何度も繰り返すとおり、ここで語られる人々の苦痛は現在のアフリカから中東にいたる政治状況を反映しており、エジプト生まれでアメリカに居住する著者がこのような小説を発表した意味は問われてよい。アメリカと有志連合はアルカイダのウサマ・ビンラディンに復讐し(この経緯を描いた映画「ゼロ・ダーク・サーティ―」は暗殺と拷問、あたかも本書のサブテクストのようではないか)、ISISの指導者アブー・バクル・バクダーディーに復讐しようとしている。しかし今日アメリカで、ヨーロッパで吹き荒れるテロを目にするならば、そのような暴力は結局のところ新しい暴力、新たな復讐を呼び起こしたに過ぎないのではないか。テロに次ぐテロ、暴力の連鎖に私たちは抗しえないのだろうか。第四章で収容所から解放されたサラットは次第に傷から治癒するサイモンとその家族のもとでつかのまの安逸を経験する。この安らぎはサラットの人間性を回復させた。しかし彼女を冒すトラウマはもはやこの程度の安穏によって癒されることはなく、彼女は一つの決定的な決断をする。読者はこの物語が決して単純な予定調和に終わらないことをプロローグから予感するはずだ。漠然とした先説法の帰趨を見届けて、読者には重い読後感が残るだろう。

イデオロギーの対立が終わったにも関わらず、世界はさらに砕けて、互いに憎悪を深めている。今や危機は中東ではなく極東にあるかもしれない。私たちは極東の愚かな指導者に対して敵意をむき出しにする子供のような大国の大統領の暴言に毎日つきあわされている。そしてこの社会病質者に叩頭して、対話ではなくひたすら圧力を叫ぶ愚かな男が私たちによって選ばれた宰相なのだ。大量破壊兵器、難民キャンプ、テロリズムと強制収容所。ここで描かれる物語がもはや2075年のアメリカを舞台に選ぶ必要がないことを私たちはあらためて認識する必要があるかもしれない。


# by gravity97 | 2017-10-09 22:57 | 海外文学 | Comments(0)

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 火星を舞台にしたSFには名作が多い。思いつくままに挙げるだけでもレイ・ブラッドベリの「火星年代記」は言うにおよばず、フィリップ・K・ディックの「火星のタイムスリップ」、日本では神林長平の「あなたの魂に安らぎあれ」といくつもの作品が浮かぶ。宮内悠介についてはすでに「ヨハネスブルグの天使たち」についてこのブログで論じたが、本作も今挙げたマーシャンSFの系譜に連なる新たな傑作である。巻頭のアブストラクトに「舞台は火星開拓地、テーマは精神医療史」という言葉があるが、まさに火星と精神医療という二つの要素のアクロバティックな結合が本書の核心である。小説の内容にも立ち入りながら論じる。

 舞台は近未来。テラフォーミングが進む火星、開拓地に唯一の精神病院、ゾネンシュタイン病院に一人の若い医師が赴任する。若い医師、カズキ・クロネンバーグはかつて日本の大学病院に勤務していたが、恋人が特発性希死念慮と呼ばれる理由のない自死を選んだことにより、自責の念に駆られて火星開拓地へと自らを流謫したことが比較的早い段階で明らかになる。まずここでは特発性希死念慮(ISI)なる「精神病」が一つの鍵である。着任早々、カズキは救急外来の担当を命じられ、騒然たる現場で患者たちの「治療」にあたる。そもそも精神病院に「救急外来」が存在することは奇妙に思われるが、火星という異郷の地では精神疾患を突発する患者が多いということであろうか、医師の一人は、今日は月(ファボス)の位置が悪いと本気とも冗談ともつかぬ言葉を口にする。外来の雑踏の中でカズキは何人かの症例が一致していることに気づく。小説のタイトルとなった「エクソダス症候群」だ。エクソダス症候群とは統合失調症と同様に幻覚や妄想を伴うが、強い脱出衝動、具体的には火星から地球へ「脱出」しようとする強い欲求を伴うことで知られる。外来病棟の喧噪が一段落し、チーフのリュウ・オムスク、看護師のカタリナといった同僚たちとつかの間の休憩をとっていたカズキの前に院長のイワン・タカサキが現れ、いきなりカズキを救急病棟である第七病棟の病棟長に任命する。

 今、私は本書の冒頭を要約した。さすがに手練れの著者による巧妙な導入である。すでにこの部分に本書の核となるアイディアがいくつも盛り込まれている。さらに読み継ぐならば、この病院にはかつてカズキの父も勤務していたが、何らかの事件を起こして病院から追放されたであろうことが示唆されるとともに、カズキの火星への「帰還」の一つの理由がその真相の解明であることをうかがわせる。カバラの「セフィロト(生命)の樹」状に病棟が配置されたゾネンシュタイン病院には全部で10の病棟があるが、そのうち特殊病棟とよばれる第五病棟、医者に見放された患者を収容する病棟はチャーリー・D・ポップなる患者にして病棟長が支配しており、彼はカズキの父親の一件についても知悉しているようだ。カズキの前に姿を現したチャーリーは18世紀の癲狂院に始まる精神病者の隔離施設について語る。そこで繰り広げられる治療の名を借りた虐待と拷問をチャーリーは「18世紀の暗黒」と呼ぶ。いうまでもなかろう。ここで語られる話題はミシェル・フーコーが「狂気の歴史」の中で論じた問題であり、思想史的な射程をはらんでいる。この点は章のエピグラフにフーコーが引用されていることでも理解できよう。チャーリーは精神医療の歴史を語り続ける。やがて精神病者の収容施設は次第に洗練され、ウィーンの「阿呆塔」にみられる開放的な施設が誕生する。精神病は治癒可能とみなされ、回復可能な患者のために次々に病院が建てられた。ドイツにおけるそのような麗しき試みの一つが火星の診療施設の名前の由来となったゾネンシュタイン病院である。しかし精神医療の理想、ゾネンシュタイン病院はその後どうなったか。チャーリーは戦慄的な言葉を口にする。「ガス室が作られ、それがアウシュビッツのガス室のプロトタイプとなった」かくして精神医療の暗部に光が当てられる。ナチスドイツの優生政策が精神医療と手を携え「生きるに値しない命」が淘汰されたことは例えばこのブログで論じた「ブラッドランド」の中でも記述されていた。最終的にはユダヤという民族へと拡大される「生きるに値しない命」という発想が最初、精神病者に対して適用されたことは歴史的にも明らかだ。チャーリーはこのような暗黒はその後も続いていると断じる。例えば戦後、アメリカを中心に広まった精神外科、前頭葉白質切裁術(ロボトミー)であり、21世紀における患者に対する多剤大量処方である。我々は進歩しているのか後退しているのか、チャーリーは次のように断言する。「精神医学の歴史とは、つまるところ、光と闇、科学と迷信の強迫的なまでの反復なのだよ」その果てに生じたのが突発性希死念慮であり、エクソダス症候群であった。そして彼はカズキに父についての情報が収められたメモリースティックを渡す。それが病棟のコンピュータに挿入された瞬間、なんらかのウイルスが病院内のコンピュータを汚染するであろうことをカズキは予感する。

 未読の読者も多いだろうから、これ以上ストーリーに踏み込んで内容を紹介することは控えよう。多くの登場人物とさまざまな謎を巻き込みながら物語は展開する。カズキの父、イツキはこの病院で何を企てたのか。チャーリーあるいは院長のイワンはどのように関わったのか。第七病棟の入院患者たちはカズキといかなる関係を結ぶのか。あるいは特殊病棟の通称、EL棟とは何を意味するのか。これらの問いは物語の後半で解答を与えられるから、本書を一種のミステリーと読むことも可能であろう。本書で引用されるフーコーの言葉は次のように結ばれている。「18世紀末になると、ただ一つだけ緩和策がとられたが、それは、狂気が何であるかを証拠立てるのは狂気自体であるかのように、狂人を見世物にする世話を別の狂人にまかせたことであった」この引用は本書の主題を凝縮している。地球から孤絶した火星の精神病院、そこで「狂人」たちを世話する医師たちも実は「狂人」ではないか。比較的早い時期にカズキもまた「エクソダス症候群」に罹患している可能性が示唆される。ここではないどこかへの憧憬。そもそもそれがカズキを火星へと向かわせたのではないか。しかしこの症状の発現はカズキの場合は複雑だ、次第に明らかにされるとおり、カズキは火星に生まれながら地球に放逐されたからだ。カズキにとってエクソダスとはいずれの星への志向であるのか。さらに「妄想」をふくらませてみよう。エクソダス症候群とは何か。「脱出衝動を伴う妄想や幻覚。それまで平穏に暮らしていたはずの患者が、突然、海外の辺境や紛争地帯を目指したりするようなケースも、一部は、この病によるものと目されている」「エクソダス症候群」は架空の精神病であるが、今日、私たちはこのような「症例」を現実に知っている。ここではないどこか。恵まれた環境にいたはずの若者たちが911の同時多発テロに赴き、あるいはISの戦士となるべくシリアへ向かう。広く「西欧社会」を蝕むこのような「症例」は実に現実におけるエクソダス症候群と呼べるのではないか。

 深読みに過ぎるだろうか。再び「狂人」の問題に戻ろう。人の狂気を判定するのは誰か。普通に考えるならば精神医療に携わる者であろう、しかし私たちは彼らが「精神病者」たちに加えた虐待の事実を知る時、―いうまでもなく第五病棟の病棟長にして最古の患者、チャーリー自身がこのような二重性を体現しているが、彼が語る精神医療の負の歴史を知るならば、私たちは患者と医者のいずれが狂気に冒されているか、直ちには判断できない。誰が人を狂人と見立てるのか。そもそも精神医療とは医学なのだろうか。それは「狂人の世話を任された狂人」のふるまいではないのか。正気と狂気の境界は古今多くの小説において作品の主題とされてきた。本作品を通して繰り返されるいくつかのモティーフがある。閉鎖、監禁、強迫観念。あるいはチャーリーが言及したガス室という主題も本書の終盤において別のかたちで繰り返される。これらは多くが密閉された空間と関わっている。閉鎖された空間に置かれた時、人はいかなる行動を希求するか。いうまでもない、そこからの脱出、エクソダスであり、本書のタイトルは象徴的である。最初に火星開拓地と精神医療史の組合せをアクロバティックと評した。しかし以上の点を勘案するならば、両者の結びつきは必然かもしれない。なぜなら火星そのものが巨大な密室であり、精神病棟と考えることができるからだ。ここでは触れるに留めるが、本書の中で明らかとなる近未来の二つの精神疾患、エクソダス症候群と突発性希死念慮の関係もまたきわめて暗示的である。

 最初に私は火星を舞台にしたいくつかのSFについて言及した。私はこのうちディックの「火星のタイムスリップ」と本書の関係が気になる。やはり荒廃した火星に植民した人類の物語であるディックの小説の中で、物語の鍵を握る少年は時間に対して特殊な能力をもつが、彼は分裂病とみなされている。ディックにはほかにも精神疾患を主題としたいくつかの長編があるが、小説の中に登場する様々なガジェット同様に火星と「精神病」を結びつける発想に私はディックの影響をうかがう。考えてみるならば以前レヴューした「ヨハネスブルグの天使たち」におけるロボットと人間の交渉という主題は、ディックにおいては自分が人間か機械か判別ができないというアイデンティティーの危機へと変奏された。本書においても正気と狂気を誰が区別するかという共通する主題が語られていたことを念頭に置く時、本書をディックへのオマージュと考えてもよいかもしれない。


# by gravity97 | 2017-09-23 13:42 | エンターテインメント | Comments(0)

 

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 事実は小説より奇なりという言葉があるが、まさにこの言葉を体現する興味深いノンフィクションを読んだ。しかもその中では私が関心をもっていた数々の小説や出来事が次々に束ねられていく。例えば私はこのブログでプルーストの小説に触れ、ヒトラーのパリ破壊命令に抗したドイツ軍司令官をめぐる史実を論じた。あるいはつい最近の記事の中でヘミングウェイとパリの関係について確認したばかりだ。時代も国籍もばらばらのこれらの人物が同じ場所を愛したという奇跡のような事実を本書は教えてくれる。パリ、ヴァンドーム広場に位置するオテル・リッツこそがその場である。

 19世紀末にオープンしたオテル・リッツは最高級ホテルの代名詞として世界に君臨した。歴史に名を残す多くの貴族、政治家、芸術家、実業家が定宿とし、ココ・シャネルやマレーネ・ディートリッヒなどこのホテルを長期の居室とした有名人も多い。しかし単に豪奢の記号であるだけでなく、このホテルは1920年代には若いアメリカン人作家たち、いわゆるロスト・ジェネレーションがたむろする場所であり、第二次世界大戦中にはドイツによって支配されたパリで密かに続けられたレジスタンス活動の拠点でもあった。著者マッツェオは冒頭でパリがドイツ軍によって占領された1940614日のこのホテルの風景を描写した後、一旦このホテルの創設時に遡り、それ以後は時間軸に沿って、1969529日、このホテルの終焉を象徴する悲劇が発生した日付にいたるまでその歴史をたどる。全部で18章から成る本書は一章ごとに主題を違えながら、相互に関係する興味深いエピソードが次々に開陳されて読み飽きることはない。そしていうまでもなくどの章にも20世紀を代表するセレブたちが綺羅星のごとく登場するのだ。

 オテル・リッツはマリ=ルイーズとセザールというリッツ夫妻によって創業された。共同経営者としては、料理を順番に供するいわゆる「ロシア風サービス」によってフランスの高級料理を一新したシェフ、オーギュスト・エスコフィエがおり、彼と女優サラ・ベルナールの色恋についても頁が割かれている。先にも述べたとおり、このホテルが開業したのは19世紀であり、ヴァンドーム広場を馬車が行き交い、サロン華やかな時代であった。プルーストは物語の幕開けにふさわしい。本書の冒頭で描写される貴族たちの軽薄なふるまいはあたかも「失われた時を求めて」のエピソードのようではないか。実際にプルーストはこのホテルに集う人物からこの大長編の登場人物を造形し、オリヴィエ・ダベスカなるリッツの給仕長その人がプルーストにゴシップを提供したという。開業まもないオテル・リッツでゲストたちの侃々諤々たる議論のテーマとなったのはドレフュス事件であった。確かに「失われた時を求めて」にもこの事件をめぐる議論が記されていた。著者によれば「ドアが開いた瞬間から、ホテル・リッツは新しい世界のための場、つまりドレフュス支持者たちと芸術家の賛同者たちのお気に入りのたまり場になる運命にあった」のであり、必ずしも経営者たちが望んだわけではないにせよ、このホテルが開業時にすでに「時代の先頭ランナー」であったことを指摘する。ここで言及される文学者はプルーストとゾラであるが、もう一人、ボードレールが召喚されたとすれば直ちに「モデルニテ」と言う主題が浮かび上がるだろう。本書の中でマルセル(プルースト)は神経過敏のプレーボーイとして描かれている。プルーストに限らず、筆者は登場する実在の人物にいずれもかなり辛辣な批評を加えている。

 続いて筆者はかつてこのホテルに逗留した奇矯な富裕層を点描する。プルーストが夢中になったルーマニアの女王、スーゾ女王、アメリカの鉄鋼王の未亡人、ローラ=メイ、オカルトに心酔し突飛な服装でピカソさえ驚かせたというカサッティ侯爵夫人。女王や侯爵夫人といった呼称は時代を感じさせるが、これらの人物はこのホテルが一種の亡命地として富裕な故郷喪失者たちを受け入れていたことを暗示している。なかでもアメリカからは多くの有名人がこのホテルを訪れる。パリの20年代、強いドルは若いアメリカ人たちにパリでの享楽を可能とした。先日レヴューした「移動祝祭日」に描かれた情景だ。フィッツェジェラルドはリッツのバーに入り浸り、ヘミングウェイにとってもリッツはなじみの場所であった。後述するとおり、ドイツ軍からの解放に際しては従軍記者の第一陣としてパリに乗り込み、リッツのワインセラーを「解放」したヘミングウェイとこのホテルは以後、浅からぬ因縁で結ばれることとなる。著者はリッツをめぐる物語が常に戦争を軸につづられていたと記す。パリを占領したドイツ軍に対してもオテル・リッツは快適な滞在場所を提供した。例えば美術品の略奪に明け暮れたモルヒネ中毒者、「国家元帥」ヘルマン・ゲーリングはホテルの一つの階を占めるインペリアル・スイートに居を定めていた。しかし占領中、このホテルは一般客に対しても営業を続けていた。このような事情は次のように表現されている。「ホテル・リッツでは、白と黒が混じりあって濃い灰色になり、その空間では驚くべき出来事が起きていた。そうした灰色のエリア―勇気や欲望が残虐行為や恐怖とぶつかりあう場所ではすばらしい人間の物語が存在した」占領下のパリは特殊な場所であった。占領とレジスタンスは拮抗し、ドイツ軍に対して迎合する者と抵抗する者が存在した。それは単純にドイツとフランスという国籍に還元されることはない。本書を読んで私は驚いたのだが、19447月に企てられたヒトラー暗殺未遂事件、トム・クルーズが主演した映画で知られた、いわゆる「ワルキューレ」もこのホテルと深く関わっていたのである。一方でアルレッティという名で知られたフランス人女優も同じホテルで贅沢な暮らしをしていたが、彼女のパートナーはハンス=ユルゲン・ゼーリングというドイツ軍の中尉であった。パリの多くの市民が食糧難にあえいでいる時期に彼らはトゥール・ダルジャンやオテル・リッツのレストランでシャンパンに牡蠣といった豪華な饗宴を楽しんでいたという。しかしアルレィティをはじめ、戦時中にドイツ軍の兵士たちと懇ろになった娘たちの悲惨な運命については続く章で語られることとなる。

 パリ解放をめぐるいくつものストーリーはオテル・リッツをめぐる物語のクライマックスをかたちづくる。パリを占領したドイツ軍司令官コルティッツもまたここに宿泊したという。しかし以前レヴューした「パリは燃えているか」の中ではパリを救った聡明な司令官という印象を与えたコルティッツは、本書においては多くの虐殺に手を貸した無慈悲な将校として描かれている。パリ解放をめぐる連合国軍内のつばぜり合い、あるいはロジスティック上の問題からパリ進軍の時期について各国で意見の相違があった点など「パリは燃えているか」で扱われた話題も繰り返される。そしてパリをめざしたのは兵士たちだけではなかった。パリ解放の瞬間を世界に伝えようとする従軍記者やカメラマンたちも思い思いの方法で戦地をパリへと向かった。ヘミングウェイがロバート・キャパとともに解放後のパリに真っ先に入ったことはよく知られている。一群の兵士を私兵として身辺に置き、シャンパンと手榴弾を携えてパリに入城し、戦時中にもかかわらずオテル・リッツでワインと豪勢なディナーに明け暮れるヘミングウェイはなるほどマッチョな作家のイメージに一致する。私は本書を読んで初めてマーサ・ゲルホーンとメアリー・ウェルシュという二人の女性ジャーナリストとヘミングウェイの関係について知った。驚くべきことにマーサとメアリーはヘミングウェイの四番目と五番目の妻になる。「移動祝祭日」に登場したハドリーとポーリーンらも想起する時、パリがヘミングウェイにとっていかに恋多き街であったかは明らかだ。さらに驚いたのはこのような女性従軍記者の中にリー・ミラーの名前をみつけたことだ。私の記憶ではリー・ミラーとはシュルレアリスムの作家であったはずだ。最初は同姓同名の女性かと思ったが、本書中に解放後のパリで最初にピカソに面会したアメリカ人が写真家のリー・ミラーであったという記述があるからおそらく同一人物であろう。

 ピカソといえば、本書は美術に関連しても興味深い事実が満載である。ヒトラーが「退廃芸術」の名のもとにモダニズム美術を攻撃したことはよく知られている。それでは彼が寵愛した美術とはどのようなものであったか。19425月というから、まだドイツ軍の支配が徹底されていた頃、パリ、オランジュリー美術館で「アーリア化されたフランスの文化」を象徴する「新しい芸術の記念碑的な展覧会」が開催された。すなわちドイツの彫刻家、アルノ・ブレーカーの個展であり、オープニングは当然ながらオテル・リッツで開催された。ベルリン出身のブレーカーも20年代にパリで暮らしており、コクトーと親交を結び、夫人のデラメアはピカソのモデルであったという。ブレーカーはいかにもヒトラー好みの古典的、さらにいえばホモセクシュアル的な英雄像で知られていたが、彼自身はモダニズムにも理解があり、展覧会のオープニングにブラマンクやドランも招待されたというエピソードはドイツ軍の統治下のパリにおける芸術家たちの微妙な消息を暗示しているだろう。そしてドイツ政府の展覧会への支持を誇示するために、展示に合わせてオテル・リッツに滞在したのはかのラインハルト・ハイドリッヒであったという。ユダヤ人問題の最終解決を提案したこの人物をめぐる暗殺計画を主題とした小説「HhHH」についても既にこのブログで論じた。ユダヤ人という言葉が出たところで、もう一つの驚くべきエピソードにも触れておこう。ヒトラーやナチスの高官たちがフランスをはじめとする占領地域から美術品を略奪したことはよく知られており、最近では映画「ミケランジェロ・プロジェクト」がこの問題を扱っていた。本書では1944827日にアレクサンドル・ローザンベルグというフランス軍の中尉がパリから北東に向かう貨物列車を停車させたエピソードが語られる。列車に積まれていたのは60点余のピカソをはじめ、セザンヌ、ゴーギャン、ルノワール、ブラックらの作品であった。ここで注目すべきはローザンベルグという名前である。なんと彼の父親はモダニズムの画商として知らぬ者のいないポール・ローザンベルグであった。ピカソの画商としても知られた彼はユダヤ人であったため、パリ占領以前にアメリカへと亡命していたが、彼の近代美術に関する膨大なコレクションはユダヤ人の遺棄財産としてドイツ軍に没収されていたという。さすがに息子のアレクサンドルが接収した作品が父のコレクションであったという劇的な展開はありえなかったが、このエピソードは今日まで尾を引く略奪美術品問題の根深さを暗示している。本書の中には42年の7月にジュ・ド・ポーム美術館の外で多くの「退廃的」な絵画が燃やされたという記述がある。焚書ならぬ焚絵画と略奪を経て多くの美術品が歴史の暗闇の中に消えていった訳だ。本を燃やす者はやがて人を焼くとはハイネの言葉であるが、実際に本書で描かれた情景の傍らで多くのユダヤ人が絶滅収容所で焼かれた。今、「傍らで」と記したが、ダッハウの強制収容所がアメリカ軍によって解放された直後、先に述べたヘミングウェイ夫人でもあるマーサ・ゲルホーンはそこに入り、身の毛もよだつような状況を目撃した。「鉄条網と電気フェンスの向こうには骸骨がすわって日光浴をしながら、シラミのたかった体をボリボリかいていた」と彼女は記す。自身もユダヤ人であった彼女にとってこの光景が生涯のトラウマとなったことは想像に難くない。しかもそこで死んだ囚人の半数がパリ解放前の最後の数か月に力尽きたのであった。マッツェオは次のように記す。「あの8月のパリ解放をせずに、連合軍がパリを通り過ぎて進んでいきもっと早くここに到着したら、最後の数週間の恐怖を阻止できたのではなだいろうか。それはあまりにもつらい質問で、きちんと口にすることもできなかった」

 栄華を誇ったオテル・リッツも、大戦の後、次第に凋落の影が差す。終盤の章ではドイツ、アメリカに続いてイギリスとこのホテルとの因縁が語られる。かつてのプリンス・オブ・ウエールズ・エドワード、後のウィンザー公爵もここで幾度となく豪勢なパーティーを開いた。親ドイツ派であり、エリザベス王女の即位を阻止しようと工作したこの公爵は女癖の悪さでも知られ、王位を捨てて結婚した相手、ウォリス・シンプソンもまた評判の悪い女性であったという。公爵夫人は下品なアメリカの富豪、ジミー・ドナヒューとの情事を繰り返し、スキャンダルを引き起こす。追放同然に引退した公爵夫妻はパリ郊外に引退し、時折豪勢なディナーを楽しむ。そこにはかつてオテル・リッツに集った「特権階級の輝きをもつ」ゲストが登場するが、彼らの印象は一言で言って老残である。直ちに一つの小説的記憶が喚起されよう。またしてもプルーストだ。「失われた時を求めて」の最終章、「見出された時」においてゲルマント大公邸におけるマチネに登場人物たちが集まって来る場面、かつて権勢を誇った人物たちが老いた醜い姿をさらす様子は本書の終盤に登場する実在した人物たちと二重写しになる。しかしイギリス王室とオテル・リッツの関係はなお続く。1970年代にはこのホテルの没落は誰の目にも明らかになり、79年には賃借権が競売にかけられた。オテル・リッツを救ったのは59歳のエジプト人実業家モハメド・アルファイドであった。アルファイドは直ちに客室の大改装に取り組み、オテル・リッツは再びパリで最も豪奢なホテルとなった。そしてアルファイドの息子とかつてのイギリス王妃、ダイアナはパパラッチに終われ、このホテルからの逃避行の途上、事故死した。ちょうど20年前の出来事だ。

 最初にも述べたとおり、オテル・リッツの歴史は20世紀を代表するセレブたちによって彩られている。フィッツジェラルドとヘミングウェイ、ココ・シャネルとマレーネ・ディートリヒあるいはチャーチルとウィンザー公。しかし今日彼らの人生を振り返るに、幸福と呼べる生涯を送った人物は少ない。多くの人物が自ら命を絶っており、先に少し触れたが、このホテルをめぐる物語の生き証人とも呼ぶべき総支配人も妻を拳銃で撃った後、自殺している。ホテルの宿泊客は当然裕福な人々であり、本書で語られるのはその中でも飛び抜けて富裕ないし有名な人々であるが、セレブリティであることが必ずしも幸せをもたらさず、しばしばその逆であること、そして戦争が多くの人々の運命を劇的に変えることを本書は教える。読みやすいとはいえ一巻の歴史書の重みをたたえた書物であった。

なお、オテル・リッツは長い休業の後、昨年6月に再びオープンしている。先にパリを訪れた際に、ロビーだけにでも足を運び、ホテルの歴史に思いをめぐらすべきであったと悔やまれる。


# by gravity97 | 2017-09-16 09:25 | ノンフィクション | Comments(0)

 

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 このところ、外部の関係者にキューレーションを依頼するコレクション展が話題を呼んでいる。先にレヴューした豊田市美術館における岡崎乾二郎による「抽象の力」に続いて、佐倉のDIC川村記念美術館で美術批評家林道郎をゲスト・キューレーターに招いた「静かに狂う眼差し―現代美術覚書」が開催され、関連書として水声社より本書が刊行された。展示はすでに終了しており、残念ながら私は見ることができなかったが、カタログというより一種のコンセプトブックとして刊行された本書によって展示のおおよその輪郭を知ることができる。この美術館について私は開催された展覧会についてこのブログで何度か論じているし、ロスコ・ルームを含むコレクションについてもよく知っている。この美術館がとりわけ戦後アメリカ美術に関しては優れたコレクションを有している/いたという事情、あるいは同じ批評家による「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」という連続公演の中で、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマンといった、まさにDIC川村記念美術館で個展を開催した作家たちが取り上げられていたことを勘案するならば、この美術館が林に企画を任せた理由を推測することは容易である。私は展示を未見であるため、本書以外に展覧会のカタログが発行されたかどうかわからないが、主要作品の図版を収め、展覧会と関連した多くの興味深い話題が論じられた本書があれば十分であろう。

 本書の内容はおそらく展示の構成に準拠しており、四つの章から構成されている。すなわち「密室の中の眼差し」「表象の零度―知覚の現象学」「グレイの反美学」「表面としての絵画―ざわめく沈黙」であり、マティスに始まり60年代のミニマル・アートにいたるモダニズム美術が俎上に上げられている。タイトルからうかがえるとおり、テーマに沿って時代やジャンル、国籍の異なる美術家が次々に召喚され、刺激的な議論が展開される。例えば最初の章で最初に触れられるのはブラッサイによるアトリエの中のマティスとモデルを記録した一葉の写真である。林はこの写真をめぐる伝記的な事実の確認に始まり、マティス、ピカソ、さらにはコーネルから瀧口修造、リチャード・ハミルトンから中原佑介によって企画された「不在の部屋」展へと議論を展開する。林の議論のアクロバティックな展開は本書を読む醍醐味であるが、言及される作品は多くの場合、DIC川村美術館のコレクションという範疇の中から選ばれている。この美術館は洋の東西、時代を問わず多くの優れた作品を所蔵しているが、逆にいえば必ずしも体系立ったコレクションとして成立している訳ではない。しかしかかる限定のゆえにそれを逆手にとって斬新なテーマによる展示の組み立てが可能となる訳であり、このような視点の発見こそがコレクションを用いたテマティックな展示の成否に関わっている。紹介されている多くの所蔵作品には見覚えがあるとはいえ、展示を実見しないままでコメントすることに少々気おくれもするが、以下、本書の内容についてコメントを加えておく。

 最初の「密室の中の眼差し」はタイトルがすでに様々なコノテーションをはらんでいる。密室という言葉はひとまずは画家のアトリエを示しているが、日本の戦後美術においては「密室の絵画」という問題提起がなされたことも連想されようし、眼差しという言葉からはノーマン・ブライソンのいう gaze という概念を介して画家とモデル、ジェンダーや視線と権力といった主題も浮かび上がるだろう。冒頭で論じられる、ポーズするモデルをマティスがスケッチする様子を記録したブラッサイの写真からは直ちに画家とモデル、男性の眼差し、絵の中の絵あるいは写真の中の絵といった問題が浮かび上がる。林はきわめて実証的な議論をとおしてモデルを同定し、この写真が撮影された当時のマティスをめぐる状況を確認する。このあたりの手つきの鮮やかさは実際に本書をお読みいただくのがよかろう。この中で林は画家とモデルという主題には常に他者が介在するという興味深い仮説を提示する。他者とは時にモデルや妻といった具体的な位置をとることもあるが、おそらくマティスが想定した最も気がかりな他者とはピカソであったという指摘は説得的だ。二人の関係についてはすでにイヴ=アラン・ボアが重要な研究を発表している。そして林はかかる興味深い主題を惜しげもなく中断して、コーネル、ベンヤミンを介してポップ・アートへと議論を進める。先にも述べた通り、議論の意外な飛躍こそ本書の大きな魅力であり、アトリエという密室は個室そして室内といった主題を介して20世紀後半にはポップ・アートにおいてもしばしば主要なテーマへと転じた。本書の議論からやや離れるが、この章の議論はアトリエの変貌という側面からも検証できるではないだろうか。すなわち画家とモデルのインティメイトな関係の上に成立していたアトリエは第二次大戦後、大きな変貌を遂げる。戦後において画家の仕事場としてのアトリエのイメージとしてまず思い浮かぶのはポロックのそれであり、そこにはモデルはいないしイーゼルもない。ポロックが特異な手法で抽象的なイメージを描くということが理由ではない。林は戦後の作家の仕事場をスタジオ(林はステュディオと表記する)と呼び替えて次のように指摘する。「この『胃袋』(スタジオのこと)は、物だけではなく人やテクノロジーをも飲みこむ、強靭な雑食の胃袋であり、作家自身がストリートから廃物などありとあらゆる素材を持ち込むだけではなく、間断なく他の作家やダンサーや技師らが出入りをし、その痕跡を残していく場であり、自然現象であるかのように刻々と変貌をしつづける『プロセスの時間』―それも同時平行的に進行する複数の時間―が刻印されていた」ここで具体的に想定されているのはトゥオンブリーによって撮影されたラウシェンバーグのスタジオであるが(この作品については同じ美術館で開かれたトゥオンブリーの写真に関する展覧会で私も見た)、この系譜にリチャード・セラやロバート・モリス、さらにアンディ・ウォーホルらを加えるならば私たちはアトリエからスタジオへの変貌という側面から現代美術の展開を検証できるかもしれない。やや話が逸れた。林は「不在の部屋」と「密室の絵画」といういずれも中原佑介が関係する日本の戦後美術のトピックについて短く触れた後、ポップ・アートとエロスの問題を論じてこの章を締めくくる。これも余談的な話題であるが、このセクションに関して最後に一点、私が以前より気になっていたことを記しておきたい。最後に林は「ポップ・アートのダークサイド」としてエドワード・キーンホルツを挙げ、家族写真とポルノ写真がごっちゃになったような《結婚のイコン》という作品の図版が掲出されている。この作品については私も実見したことがないが、実はキーンホルツについては1972年に制作された代表作の一つである《ファイヴ・カー・スタッド》がかつてDIC川村記念美術館に所蔵されていたという情報を耳にしたことがある。人種差別によるリンチ事件を扱ったこの作品については本書の中でも短い言及があるが、かつてロスアンジェルスで見た彼の大規模な回顧展には出品されておらず、手元の画集を確認するならば、確かに日本の個人所蔵家の所蔵という表記がある。作品の所蔵はデリケートな問題であるからこれ以上詮索するつもりはないが、もしキーンホルツのこれほどの大作が日本に存在する/したとすれば、来歴も含めて興味深い。

 第二章では最初にほとんど知られることのない一人の作家に焦点があてられる。1898年に生まれ、西海岸に居住したジョン・マクロフリンという作家だ。私も名前のみ知っていたこの作家について林は興味深い事実を次々に明らかにする。一見、淡白な色面抽象とも呼ぶべき画風で知られるマクロフリンは実は日本と関係が深く、日本に滞在したことがあるのみならず、日本の美術にも造詣が深かったという。林は彼の抽象絵画と雪舟、あるいは日本の建築との関係について論及する。その当否はともかく、長谷川三郎をキーパーソンとしてこれまで前衛書を介して語られることが多かった日本とアメリカ西海岸の美術に関して、全く新しい参照項が与えられた訳であり、この作家については今後も研究がなされるべきであろう。そもそもなぜDIC川村記念美術館が彼の油彩画やリトグラフのまとまったコレクションを所蔵しているかという点も気になるが、残念ながらマクロフリンに限らず本書には作品のプロヴァナンスについての記述が一切ない。そしてここでも林はすぐさま話題を転じて、ミニマリズムにおける東海岸と西海岸の作家たちの関心の差異について論じる。この箇所は本書の中でも私が深い共感とともに読み進めた。東海岸と西海岸のミニマリズムの相違について林は次のように述べる。「(東海岸の)ステラやジャッドは平面の内部に生じるイリュージョンを否定するために平面を、イメージの投影面ではなく、それ自体の物体性、触知的な存在性においてとらえることに関心をもっていた―ゆえにその物体が生じさせる影などは、副次的な効果としかとらえられなかった―のに対して(西海岸の)アーウィンやベルは、画面内のイリュージョンを排するだけではなく、すべて視覚に生起する出来事を均等に情報としてとらえる方向を目指したという相違が生じていたのだ」このパッセージは時にミニマリズムの範疇に一括されるモリスとラリー・ベルのキューブ作品の本質的な相違を明確に指摘しており、目から鱗が落ちる思いであった。端的に述べるならば東海岸のミニマリズムは作品の精密さを求めていない。これに対して西海岸のミニマリズムは作品の精妙な構造に注目し、しばしば知覚の構造へと遡及する。この章のサブタイトルとして「知覚の現象学」というメルロ・ポンティの著作の名が引かれていることは象徴的であり、同じ現象学から出発しながらもアメリカの西海岸と東海岸で作家たちの関心の所在が分岐していく様子が説得的に論じられている。西海岸の作家たちの視覚への関心はニューヨークにおいては別のかたちで検証される。それは1965年にニューヨーク近代美術館で開催された「リスポンシブル・アイズ」という展覧会である。「応答する目」といった訳語が与えられたこの展覧会は美術史的にはいわゆるオップ・アートを紹介する展覧会とみなされている。マクロフリンとベルという既に言及した作家がこの展覧会に出品していたことを私は初めて知った。多様な作家が出品したこの展覧会を、林はクレメント・グリーンバーグが主張した絵画の還元的過程が一つの極点に達していた状況(それを象徴する作家こそ、この美術館が多くの優品を所蔵するフランク・ステラである)の中で手際よく整理する。ここでは西海岸の作家という補助線を引くことによって当時のアメリカの美術界の新しい見取り図が与えられる訳だが、それを可能としたのは例えばマクロフリンやベルといった日本においてもおそらくこの美術館しか所蔵していない作品が展覧会に加えられたことであった。この意味でもコレクションから出発したこの展示は思いがけない発見をもたらしたといえよう。

 続く「グレイの反美学」のセクションでは色彩もしくは非色彩としてのグレイ、灰色が主題とされるが、ここで林の関心は飛躍というより乱反射するかのようである。ジャスパー・ジョーンズで語り始められることに特に驚きはない。ジョーンズの鉛のレリーフは確かにグレイであるし、地図や国旗をグレイで覆った作例も直ちに思い浮かぶ。ジョーンズとジャコメッティを経由して林はモノクローム絵画という問題へと踏み込み、ステラやイヴ・クラインといった予想される顔ぶれ、ウォーホルや田中敦子といったやや意外な顔ぶれの作品に触れた後、ゲルハルト・リヒターの一連の絵画について達する。ジョーンズが用いた鉛という素材から私はむしろリチャード・セラを連想し、ミニマル・アートからアルテ・ポヴェラ、もの派にいたる一連の非芸術的な動向における色彩の欠落、非色彩の系譜に興味を抱くが、本書ではこれらの作家は軽く触れられるだけで、意外な方向に議論が進められる。すなわち意味のグレイゾーンとしてのベッヒャー夫妻の一連の写真作品が紹介され、同様の意味の不在において赤瀬川原平の「超芸術トマソン」が引用される。おそらくこれらの作品もコレクションに収められていたためであろうが、少々牽強付会という感じがしないでもない。手術台の上のミシンと蝙蝠傘ではないが、意外な作品が展示において隣同士に配置された場合、時に思いがけない発見がもたらされる一方、下手をすればちぐはぐな印象を与える。このセクションでは続いてグレイ=コンクリートという連想から車、そしてタイヤの跡といったテーマが導出され、オルデンバーグやラウシェンバーグが召喚される。疾走するハイウェイの車窓風景と関連させてアメリカ美術を論じた宮川淳などもかすかに想起されるが、さらに梱包という主題を介して赤瀬川とクリストに及ぶにいたっては議論の飛躍がいささか激しすぎるように感じた。

 「表面としての絵画―ざわめく沈黙」と題された最後の章は比較的短いが、ポロックからルイス、ステラ、ライマン、そして中西夏之といったこの美術館の現代美術コレクションの絶頂とも呼ぶべき作品について論じられる。この章では主として二つの問題が検討される。一つは作品のサイズとスケールの問題であり、抽象表現主義を語る際にはしばしば論及される主題である。本書の装丁にも用いられているポロックの絵画が小さなサイズであることはいささか皮肉に感じられるが、林はサイズとスケールの問題についてメキシコの壁画運動やWPA、あるいはペギー・グッゲンハイムの今世紀の美術ギャラリーといった問題と絡めて論じる。後述するとおり、この章の議論は必ずしも十分に深められていないように感じられ、それには一つの原因があるだろう。この章で論じられるもう一つの問題は水平と垂直の関係だ。この問題についてもすでにオクトーバー系の批評家たちによる研究が存在し、例えばロザリンド・クラウスは「視覚的無意識」の一章をポロックにおける水平と垂直の問題に割いている。以前林らが『美術手帖』に連載した美術史学の方法論に関する研究の中でも触れられていたと記憶するが、ここで林は中西夏之とライマンというお気に入りの画家二人を取り上げ、壁面との関係において示唆に富む議論を行っている。

この章の冒頭で林は「川村のコレクションにその名を発見することのできる戦後の抽象を代表する作家」であり「私たち見る者の身体を包むようなスケールをもった作品」の描き手として以下の名を列挙している。ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、モーリス・ルイス、フランク・ステラ、アド・ラインハート、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマン、李禹煥、中西夏之。しかしここにはかつてこの美術館で展覧会が開催され、スケールという点で当然触れられるべき一人の作家の名前が欠落している。なぜならばこの美術館が作品を所蔵していないからであり、正確に述べるならばかつて所蔵していた作品が今や存在しないからである。バーネット・ニューマンの傑作《アンナの光》の売却をめぐる経緯をここで繰り返すことはしない。しかし最後の章が抽象表現主義絵画を直接の主題としているにもかかわらず、あたかも一つの禁忌であるがごとくニューマンの名前は注意深く排除されている。ニューマンの名前の不在が意図されたものか偶然であるかはわからないが、画面のサイズや垂直性が論じられるこの章でこの画家の名前が一度も引かれないことはかなり不自然に感じられる。ニューマンに触れるならば、かつて彼の最高傑作をこの美術館が所蔵していたことに触れざるをえないだろうから、書き手に一種の配慮が働いたことも想像されるが、この結果、最後の章がいささか議論の深みに欠ける印象を受けたのは私だけだろうか。例えば本書においてはマーク・ロスコについての言及があまりない。もちろんロスコの素晴らしい連作はロスコ・ルームという別室に設置されているから、この展覧会とは一応切り離されている。しかし少なくとも本書が単なる展覧会カタログではなくこの美術館のコレクションに触発された思索の「覚書」である以上、ロスコの名品についてさらに論じられてよかったのではないだろうか。しかしロスコを語るならば、同じ色面抽象の画家であるニューマンに触れざるをえないから、あえて記述が抑制されたと考えるのはうがちすぎであろうか。求心性と遠心性の問題でもよい、壁面あるいは室内との関係という問題でもよい、ロスコとニューマンの対比は現代美術をめぐる考察にとってきわめて多産的で有意義であるはずだ。そして実際にかつてはこの美術館を訪ねて、同じ建物の中でロスコとニューマンの最高傑作と呼ぶべき優品を比較するという奇跡のような体験さえ可能であったのだ。

 本書は現代美術をめぐる刺激的なエッセイであり、読み進む中で多くの知見を得た。このようなエッセイが展覧会を契機として一般書籍として刊行されたことは意義深い。欧米、特にフランスでは哲学者や批評家を招いてコレクションによる展覧会を開催し、企画と関連した著作を世に問う試みが定着し、私たちはジュリア・クリステヴァからジョルジュ・ディディ=ユベルマンにいたる系譜をたどることができる。日本における同様の試みとして私はこの未見の展覧会を高く評価するし、実見できなかったことはおおいに悔やまれる。しかし最後に指摘したとおり、もしこの展示の一角に《アンナの光》が含まれていたとすれば、私たちはさらなる議論の深まりや飛躍に立ち会えたはずだ。優れた作品はさまざまな思考を誘発する。そのような思考を誘発する場所として美術館が果たすべき責務について私たちはもう一度考えてみるべきであろう。


# by gravity97 | 2017-09-09 09:32 | 現代美術 | Comments(0)

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1921年、22歳のアーネスト・ヘミングウェイは結婚したばかりの8歳年上の妻ハドリーとともにパリに渡る。この時から1928年、フロリダ州キーウエストに居を移すまでのおよそ10年間、パリの修業時代をつづった回想が本書である。この間、23年の後半に長男バンビ出産のためにハドリーとともにカナダに戻った以外、作家はパリで濃密な時間を過ごす。若い頃パリで過ごせば、パリはその後の人生についてくる。パリは移動祝祭日なのだという本書のエピグラフは象徴的だ。この時期、ヘミングウェイの人生は波乱にも富んでいた。多くの芸術家との交流については後述するとして、私生活の面でも当初の熱愛ぶりがいくつかの章からうかがえるハドリーとの関係は次第に冷え、代わって1925年に知り合った『ヴォーグ』誌の記者、ポーリーン・ファイファーと深い仲になる。1927年にハドリーとの離婚が成立し、ハドリーはバンビとともにニューヨークに発つ。同じ年にヘミングウェイはポーリーンと再婚しているから、ヘミングウェイのパリ時代は最初の妻ハドリーと過ごした6年ほどの歳月と正確に符合している。

 この時期、ヘミングウェイは短編集「われらの時代」を刊行し、「日はまた昇る」の執筆を続けている。20代の作家がまさに世に出て行こうとする希望の時、ほかならぬ1920年代のパリで得た多くの邂逅と体験は今読んでもみずみずしい。例えばこんな具合だ。

そこは暖かくて、清潔で心なごむ、快適なカフェだった。私は着古したレインコートをコート掛けにかけて乾かし、くたびれて色褪せたフェルト帽を長椅子の上の帽子かけにかけてからカフェ・オ・レを頼んだ。ウェイターがそれを運んでくると、上着のポケットからノートをとりだし、鉛筆も用意して、書きはじめた。(中略)その作品の中では登場する少年たちが酒を飲んでいて、私も喉が渇き、ラム酒のセント・ジェームズを注文した。寒い日にはこれが素晴らしくうまい。私はさらに書きつづけた。とてもいい気分で、上質なマルティニーク産のラム酒が身心に温かくしみとおっていくのがわかった。

 冬空の下、パリのカフェで執筆に勤しむヘミングウェイの姿が浮かび上がってくるようである。この時期、ヘミングウェイはカナダをはじめ、いくつかの国の新聞社と契約をして記事を送っていた。まだ作家として定期的に文芸誌から注文を受けるほどには認められていなかったから、新聞社の通信員を務めながら小説の執筆にあたっていたことが読み取れる。この回想録の中で作家は自分たちが貧乏であったことを強調しようとしており、それは例えば「空腹はよき修業」といった章のタイトルからもうかがえる。しかしカフェでラム酒を飲み、妻とともに競馬に足繁く通う作家が貧乏であったとは考えにくい。本書には訳者の高見浩による詳細な解説が付されているが、それによれば近年の評伝が明かすところでは当時ヘミングウェイ夫妻は決して貧乏ではなく、むしろ裕福な部類に属し、しかも妻ハドリーの実家からの援助に負うところが多かったという。もちろん当時ドルが強かったことも背景にある。しかし重要な点は彼らが決してパリで裕福な暮らしをしようとしなかった点である。それは吝嗇ではなく、異郷にあって貧しくとも夫婦が愛し合いながら修業時代を送るというロマンティックなイメージに二人が浸っていたことを暗示している。それが一種の虚構にすぎないことは高見も指摘するとおりであるが、作家の自伝的回想が虚構と紙一重であることもまた周知の事実であろう。ヘミングウェイが送った享楽的な生活には相当の資産が必要であったはずだ。後述するとおり、巻末の章で彼は「リッチな連中」への激しい敵意を記しているが、彼と同様にアメリカに出自をもちパリに暮らす資産家たちへのアンヴィバレンツな思いは本書のいたるところに見出すことができる。

 それにしても1920年代のパリとはなんという場所であっただろう。ガートルード・スタインのサロンにはピカソやホアン・グリスが集い、エズラ・パウンドやパスキンとの交流には一つの章があてられている。そのほかにも私が知らない各界の名士たちの名前が綺羅星のように記されている。偶然にも様々な才能が一つの場所に結集するという奇跡的な瞬間が歴史には存在するが、1920年のパリは疑いようなくそのような場であった。文中に初対面のヘミングウェイにツルゲーネフやロレンスを惜しみなく貸し与えたシルヴィア・ビーチなる女性が営むシェイクスピア書店なる書店兼図書室が登場するが、この書店こそ大手出版社から出版を断られていたジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」を刊行した書肆であった。この時代、パリではキュビスムが花開き、「ユリシーズ」が刊行され、(本書中には関連する記述がないが)ディアギレフがしばしばバレエ・リュスの公演を行っていたのである。ジャンルを超えて諸芸術が沸騰していた感がある。さて、ヘミングウェイらはしばしば「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる。「日はまた昇る」のエピグラフとしても用いられる言葉であるが、私はこれまで何が「失われた」のか特に意識することがなかった。この言葉については「ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ」というフランス語読みの表題とともに一章が割かれている。ガートルード・スタインによって発せられたことが知られるこの言葉は実はスタインの知り合いの自動車整備工場の主人の発言に由来する。本書ではスタインの次の言葉が引かれている。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」自堕落な世代という言葉にロスト・ジェネレーションというルビがふられている。狭義では第一次大戦後パリで活躍したアメリカ人たちを指すこの言葉に「自堕落な」という含意があることを私は初めて知った。確かに本書で粗描される大戦間のパリでセックスやドラッグ、飲酒に明け暮れるヘミングウェイらの群像には「自堕落な」という言葉がふさわしいかもしれない。しかし最初の世界大戦によって旧来の価値観が崩壊した後の自分たちの生き様をへミングウェイ本人が必ずしも否定していないこともまた明らかであるといえよう。

 本書に多くの奇矯な人物が登場するが、ヘミングウェイが最も深い関心をもって描いている人物は、同様にロスト・ジェネレーションを代表する作家の一人、スコット・フィッツジェラルドであろう。フィッツジェラルドの名が与えられた章は本書の中でも最も長く、ディンゴ・バーでの奇妙な出会いから行き違いが続出する二人でのリヨン旅行まで様々なエピソードが語られ、当然ながらスコットの妻、ゼルダにも触れられる。彼らの型破りのふるまいにはさすがのヘミングウェイもしばしば当惑する。先に述べたとおり、「われらの時代」を発表し、「日はまた昇る」を執筆中のヘミングウェイは作家として着実に地歩を固めつつあった。これに対して「グレイト・ギャツビー」が一部で高い評価を受けたとはいえ、次の小説の執筆に難渋していたフィッツジェラルドは苦悩していたはずだ。両者の関係は時に緊張を交え、たとえば執筆中の「日はまた昇る」の草稿の朗読をめぐる両者の葛藤などに暗示されている。ヘミングウェイのフィッツジェラルドに対する月旦は時に愛情に富み、時に辛辣だ。(二人の複雑な関係の詳細については高見浩の解説に詳しい)

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 フィッツジェラルドの名前が挙がったところで、最後にもう一人、いやもう一組の「パリのアメリカ人」に触れておこう。本書においてもやはりフィッツジェラルドと関連した「鷹は与えない」という章で一度だけ名前が記されるジェラルドとセイラのマーフィ夫妻である。私は直ちに彼らがフィッツジェラルドとも関連したもう一つの評伝の主人公であることを思い出した。いうまでもない、このブログのタイトルが由来するカルヴィン・トムキンズの「優雅な生活が最高の復讐である」のことだ。1962年に『ニューヨーカー』に連載されたこの評伝は、1920年代にパリに住み、多くの画家や作家との華麗な交流で知られるマーフィ夫妻からの聞き書きであり、彼らは一種のパトロンとして当時、パリで活躍していた若い芸術家たちに有形無形の援助を与えた。註によれば1926年、ハドリーと別居した後のヘミングウェイが暮らしていたのもマーフィ夫妻が貸してくれたスタジオ・アパートメントであったという。トムキンズの評伝もマーフィ夫妻とフィッツジェラルドとの交遊に多くの頁が割かれているが、もちろんヘミングウェイについての言及や写真も掲載されている。「移動祝祭日」の登場人物に関心をもたれた方は、ヘミングウェイの回想と合わせ鏡のごときトムキンズの評伝もお読みになることを勧めるが、両者から受ける「ロスト・ジェネレーション」の面々の印象は微妙に異なる。いずれもフィッツジェラルドとの交流が一つの中心的なトピックをかたちづくっており、愛憎入り交じるフィッツジェラルド夫妻への思いは共通している。しかしヘミングウェイとマーフィ夫妻の関係はどうだったのであろうか。トムキンズの評伝の中では両者の関係はさほど悪くなく、ヘミングウェイがジェラルドを無理矢理闘牛場に立たせたエピソードなどが語られている。しかしヘミングウェイは最後の「パリに終わりはない」という章においてオーストリアのシュルンスという町でスキーを楽しんだ記憶に触れた後、次のような謎めいた言葉を記している。「こうして山を楽しんだ最後の年に、新しい顔触れの人間たちが私たち夫婦の生活に深く入り込んできた。それ以来、すべてが変わってしまった。あの雪崩の冬は、次の冬に比べれば、子供の頃のひたすら幸福で無邪気な冬に似ていたと今にして思う。次に訪れたのは一見、人生最高の愉悦に満ちているようで実は悪夢の冬であり、それにつづいて破滅的な夏がやってきたのである。リッチな連中が登場してきたのも、その年のことだった。/ リッチな連中には、いつも彼らの先をゆく水先案内人のようなパイロット・フィッシュがついている」年譜を参照するならば、この冬は1924年の冬であるから、実は彼らがパリに来てからさほど時間は経過していない。上の文章のニュアンスからもうかがえるとおり、ヘミングウェイはリッチな連中やパイロット・フィッシュについて両義的、どちらかといえばネガティヴな感情を抱いている。彼らの実名は最後まで伏せられているが、高見の註によれば、リッチな連中とはマーフィ夫妻、パイロット・フィッシュとは「USA」で知られる小説家ドス・パソスを指しているという。確かに本書の中にドス・パソスへの言及はないが『優雅な生活が最高の復讐である』の中では、マーフィ夫妻の取り巻きの一人としてしばしば言及されている。マーフィ夫妻がヘミングウェイにスタジオを貸したというエピソードからもうかがえるとおり、彼らは変わることなく作家に援助の手を差しのべたようである。ヘミングウェイのゆえなき反感は「リッチ」でスタイリッシュなマーフィ夫妻の暮らしぶりと、ポーリーンとの関係が深まるにつれ亀裂が深まるハドリーとの生活を比較して感じた、いささか逆恨みにも近い感情ではなかっただろうか。

 二つの評伝に登場する三組のカップル、アーネストとハドリー、スコットとゼルダ、そしてジェラルドとセイラ。今日振り返るならば、彼らはいずれも決して幸福な人生を歩んだ訳ではない。しかし1920年代のパリにともに暮らしていたという事実だけで彼らの生がなんとも華やかにみえるのはなぜだろうか。本書が30年の時を隔てて、作家が老境に達した1958年から60年にかけて執筆されたことは意味があるだろう。若き日のパリとは時を経ても帰還すべき場所であり、巻末の一節はこのような境地をみごとに示している。


 パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。が、ともかくこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。


# by gravity97 | 2017-08-23 20:13 | 評伝・自伝 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック