Living Well Is the Best Revenge

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優雅な生活が最高の復讐である

巨大美術館の黄昏

 

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 久しぶりにパリとロンドンの美術館をめぐった。いずれの都市も最後に訪れてから10年以上の時間が経過している。以前は仕事でヨーロッパに出張することも多かったが、その場合もコレクターや批評家との面会をすませるとそそくさと次のアポイントメント先に向かうことが多かったため、いわゆる大美術館を訪ねる機会はあまりなかった。今回はプライヴェイトな旅行であり、久しぶりにルーブルやロンドンのナショナル・ギャラリーといった有名美術館に足を運ぶことにした。思い起こせば、私がこれらの美術館を初めて訪れたのは大学院の修士課程を終えて初めて海外に出かけた一人旅の折であり、今年はそれからちょうど30年目にあたる。最初にルーブルを訪れた際の感動を私は今でもありありと思い出すことができるが、現在、同じ美術館を訪問する若者は果たして同じ感動を抱くことができるだろうか。21世紀を迎えて大美術館は大きな変質を遂げつつあるように感じた。今回は特定の展覧会に限定することなく、旅先で得た偶感を文章にとどめておきたい。

 今述べたとおり、私はこれらの美術館を実に久々に訪れた。したがって私が感じた変貌がどの程度妥当であるかについては留保の余地がある。次に述べるような状況はずっと以前から明確であったかもしれず、(時期的にありえないとは思うが)たまたま私が訪れた時期の特異な現象であったかもしれない。しかし最後に述べるとおり、おそらくこのような状況は現在日本の多くの美術館が直面する悪弊と深く関わっている。私が「巨大美術館の黄昏」と名づけた美術館の不全感はきわめて単純な事実に負っている。来場者が多すぎるのだ。これらの美術館はすでに作品を見る場所ではなくなっている。ルーブルでもよいナショナル・ギャラリーでもよい。入場者はセキュリティーチェックを十重二十重に取り囲み、作品の前には芋を洗うように人々が蝟集している。はるか以前にこれらの美術館を訪れた記憶をたどっても、これほどの人が入場していたとは思えない。《モナ・リザ》のごとき有名な作品を除いて、少し時間をかければ作品の前に立ち、ある程度の時間を作品と共有することができたように思う。しかし今日では作品に近づくことさえ容易ではない。I.M.ペイによるルーブルのピラミッドやノーマン・フォスターによる大英博物館のグレートコートを想起するならば理解されるとおり、近年のリノベーションを経て、かつての迷宮のような美術館も順路や導線が劇的に改善されたはずだ。しかしながら混雑は増すばかり。来場者が飛躍的に増えたからである。来場者の顔を見比べれば、東洋系それも中国人が圧倒的に増えたことが直ちに了解される。90年代、パリを歩くと日本人ばかりであったが、このたびロンドンでもパリでも日本人を見かける機会は少なく、代わって中国系、時に韓国系の団体客と思われる集団に頻繁に遭遇した。美術館の中でもツアーとしてめぐっているのはほとんどが中国人団体客であった。むろんこれは端的に国力の消長、日本の没落と中国の台頭を示している訳であり、経済的必然にすぎない。しかしかつてはほとんどが白色系の人種によって観者が占められていたフランスやイギリスの美術館を訪れる観衆の中心が黄色人種、しかも中国人であることに隔世の感を受ける。富裕層が中心であるにせよ、おそらく頻繁に欧米を訪ねることはない彼らのヨーロッパの美術館への執着は強い。

 さらにもう一つの要素が加わる。写真とSNSだ。近年、美術館の中で撮影が許可されることは普通であり、その写真をSNSで拡散させることが展覧会の広報宣伝の一つの戦略となっている。ヨーロッパの大美術館で写真撮影が許可されるようになったのはいつ頃であろうか、私が最初に訪れた80年代後半、フラッシュと三脚を用いなければ撮影が許可されていた気もするし、禁止されていた気もする。少なくとも美術館内で公然と写真を撮ることは行われていなかった。しかるに現在、多くの来場者が作品と一緒に自分を写し込む、いわゆる「自撮り」を目的とした写真撮影を行っている。実際、私も中国人観光客から《モナ・リザ》を背景に彼のポートレートを撮影するように要求さえされたのである。携帯や小型カメラであろうと、作品の写真を撮影するためには一定の時間が必要とされる。ましてや「自撮り」や他人に頼んで作品と並んだ自分のポートレートを撮影するためには相当の時間が必要とされる。かくして作品の前に人が滞留する時間は、作品を鑑賞することとは別の目的のために長引くこととなる。今触れた《モナ・リザ》が展示された部屋にいたっては広い室内のおよそ半分が写真撮影のために《モナ・リザ》ににじり寄る観衆で占められ、その両側に展示された作品は見ることさえできない状態だ。ここでは人は作品を「鑑賞」することなど不可能である。人は作品がそこにあることを「確認」して次の部屋に進む。私はこれらの美術館において作品の撮影は禁止すべきではないかと考える。一つは混雑の緩和が目的であるが、さらに本質的な問題としては、作品はカメラのレンズではなく人の目を通して見られるべきであり、それによって初めて作品を鑑賞し理解することが可能とされるからだ。写真は作品をその本質から遠ざける。今日、来場者は自らの携帯やカメラに作品のイメージを収めることによって作品を見たことを確認するのであるが、これは実に奇妙な倒錯ではないか。美術と写真は複雑な関係にある。例えば美術史学と美術全集、これらはいずれも近代の産物であるが、写真という技術の確立によって可能とされた。前者においては暗闇の中に二台のスライドから投じられるイメージによって、後者においては無数の図版によって、教師や愛好者は絵画について語ることが可能となった。質感やサイズ、ファクチュール、そして何よりもそれが所在する場所といった実物の作品を通してしか感受できないいくつもの要素を省いたとしても、それらのイメージは図像の確認や作者の特定といった一定の目的には使用可能だからである。このようなイメージの複製可能性、交換可能性は「近代美術館」の成立と深く関わっている。ニューヨーク近代美術館を嚆矢とする「近代美術館」は作品が文脈において初めて意味をもつという理解、一種の相対主義へと私たちを導いた。これに対して常設展を基本とするヨーロッパの美術館は作品と場所の結びつきを強調していたはずだ。《メデューズ号の筏》はルーブルにおいて、《大使たち》はナショナル・ギャラリー以外で見ることができない。しかしそれにもかかわらず、まさにその場でしか見(まみ)えない現実の作品の傍らで、それをせっせと写真=複製という抽象的な場へ送り出すふるまいは倒錯と呼ぶしかない。

 別の観点からこの状況について考えてみよう。かつて名画は王侯や貴族に秘蔵されていた。革命をとおして彼らの手から美術品を奪い、市民に公開する目的で設立されたのがルーブルのごとき巨大美術館であり、この意味において美術館とは市民革命の成果である。美術館に行けば、誰もが先人の描いた優れた絵画に触れることができるという私たちの通年はこのような経緯を通して可能となった。つまり権力者によって寡占されていた美術品は美術館という施設を得て市民に共有されることとなったのだ。しかし「市民」という概念の一定の広がりを勘案するにせよ、ここで想定されていた市民とは一つの国家、一つの民族に限定されており、それは近代的な国家観に対応するものでもあった。近代が終焉し、グローバリゼーションが進む今日、美術館で作品を享受する人々が多国籍化することは一つの必然であるかもしれない。もはや巨大美術館を訪れるのはそれが所在する国の市民ではない。観光客としてそこを訪れる無数の人々のために巨大美術館は存立するのである。先日、新聞紙上で、ヴェネツィアやバルセロナといった観光都市では近年、住民に対する観光客の比率が増えすぎ、地元住民が平穏な生活を送ることが困難になっているため、むしろ観光客の流入を規制する施策が提案されていることが報道されていた。「観光客」というテーマの射程は私たちが考えるよりはるかに深い。最近、東浩紀も「観光客の哲学」という著作を上梓している。ここで東の所論について詳述する余裕はないが、そこで論じられる問題はこれまで述べてきた主題とも関連しているだろう。東は次のように記している。「世界はいま、かつてなく観光客に満たされ始めている。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない」今回ルーブルを再訪した私は、そこがもはや人が美術作品と接する場ではなくなっていることを実感し、30年前、まだ作品を作品として見ることができる時代に初めてそこを訪れたことの幸福を思い知った。おそらくこのような状況は世界規模で生起しているだろう。以前、このブログで私はかつてウィーン美術史美術館でフェルメールの絵に一人で対峙した際の幸福感について記したことがある。このような体験はもはや奇跡のような僥倖であろう。観光客にジャックされた大美術館は今や見ることの逸楽と無縁の場所になっている。

 しかしこのような状況はある種の人々にとっては好ましいことであるに違いない。愚劣な大臣の「学芸員は癌」という発言は記憶に新しいが、この男が理想として掲げるのは観光客がひっきりなしに訪れる観光施設としての美術館であろう。美術館や展覧会は収益や動員数によって評価される。国立美術館が独立法人化された頃より、このような臆面もない発言が放言されることとなった。皮肉なことに彼らにとって現在のルーブルやナショナル・ギャラリーはそのような理想を体現しているし、日本でも先日の国立新美術館のミュシャ展や草間彌生展の会場の雑踏もまた彼らが理想とするところであろう。経済にしか価値を見出さない愚かな政権によって今後日本の美術館がこのような方向に誘導される可能性はきわめて高い。しかし考えてもみるがよい、私たちは作品と静かに時間をかけて対話することによって初めて美術の価値に目覚め、深く内面化するのではないか。観光地化された美術館、群衆で埋め尽くされた展覧会場でそのような出会いがあるはずもなかろう。グローバリズムの進展に伴い、ヨーロッパの巨大美術館は不幸にも美術という営みの本質から最も遠い場所となってしまった。もはやこの状況が解消されることはないだろう。


# by gravity97 | 2017-08-16 19:49 | 展覧会 | Comments(0)

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もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。


# by gravity97 | 2017-07-31 22:13 | PASSAGE | Comments(0)

NEW ARRIVAL 170730

# by gravity97 | 2017-07-30 17:03 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

 

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葉山の神奈川県立近代美術館で萬鐵五郎展を見る。会場を埋め尽くす膨大な数の作品に圧倒されるが、それでもまだ100点以上の未陳作品があり、会期中に大規模な展示替えが行われるという。萬については、これまで大正期の新興美術と関連した企画展や主要な美術館の常設展で多くの作品を見てきたが、なぜかちょうど20年前に東京と京都の国立近代美術館で開催された回顧展を見落としている。このたび初めて回顧展というかたちでこの画家の画業を通覧し、多くの発見や確認を得ることができた。

 以前より萬の作品が気になっていたのは、画業の中にいくつもの奇妙な作品が散りばめられているからだ。代表作である《裸体美人》のモデルが置かれた空間の歪み、より正確には仰臥と直立の中間にあるような不思議な姿勢については蔵屋美香が考察を加えていた記憶がある。あるいは《雲のある自画像》に現れる頭の上の雲という謎めいたモティーフ、「仁丹」の文字が大書された奇妙な風景画。その一方でキュビスムや未来派、あるいは表現主義の日本における規範的な作品も同じ一人の画家によって制作されているのである。これほど分裂的で魅力に満ちた作品がわずか41年という短い生涯の中で制作されたことには誰しも感銘を受けるだろう。

 展示の最初に東京藝術大学に在学中の油彩や水彩が展示されている。首席で入学したという逸話もさもありなんと思われる端正でみずみずしい作品である。黒田清輝の影響を強く受けた様子もうかがえる。しかし数年のうちに作風は大きく変わる。分割技法、あるいはフォーヴィスム風の表現が取り入れられ、明らかに同時代の先端的な表現を進取する姿勢が認められる。外遊といえばアメリカに比較的短い時期しか滞在したことがない萬がこれらの表現をどのようにして知ったかは興味深い問題であり、いくつかの先行研究が存在する。しばしば指摘されるとおり、ヨーロッパにおいて別々の文脈に生まれたキュビスムや未来派、表現主義といった動向はほぼ同時に区別されることなく日本に導入された。この時代にあって萬はあたかも一人の画家が最先端の動向を次々に試行するがごとき特異な作品を残して、その早すぎる生涯を閉じた。首席で入学した萬が、点描風の《自画像》と先述の《裸体美人》を卒業制作として提出し、卒業時の成績は本科卒業生19名中16位であったというエピソードは今述べたような新しい表現に対するアカデミズムの敵意を反映しているだろう。しかし萬は臆することなく制作を続ける。《裸体美人》が日本におけるフォーヴィスムの典型であるように、《風船を持つ女》や《赤い目の自画像》といった作品は日本における未来派受容の規範的な作品であり、表現主義からキュビスムまでこのようなリストを広げることはたやすい。

 今回の展示で私があらためて関心を抱いたのは、展示の中で「沈潜」というタイトルを与えられた1914年以降、いわゆる土沢時代と呼ばれる時期の作品である。家族とともに郷里の岩手県土沢に帰った萬は展覧会のキャッチコピーにある「目をあけている時は即絵を描いている時だ」という言葉のとおり、絵画の制作に没頭する。日本におけるキュビスムの代表作とも呼ぶべき《もたれて立つ人》が制作されたのもこの時期である。しかし私は表現の幅を超えて、むしろこの時期の作品に認められる一つの共通性に興味を引かれた。それは色彩、具体的には独特の赤褐色の画面である。この時期、萬は人物や風景、静物といった多様なモティーフを描いたが、そのほとんどを赤褐色の濃厚なマティエールの中に実現されている。かかる色彩が何に由来するかは私にはわからないが、この多産な時期、萬が色彩に関してはきわめて抑制的であったことは記憶されてよかろう。キュビスムもその草創期においてはモノクロームに近い色調が多用され、それは形態の探求という目的に対して色彩という非関与的な要素の介入を減じるためであった。しかし萬はキュビスムに意識的であっただろうか。確かに《もたれて立つ人》は日本におけるキュビスム受容を論じるにあたって必ず言及される作品である。しかし今回の展示を通覧して、私はキュビスムに類した作例がさほど多くないことをあらためて知った。確かに人体を描いたドローイングの中にはニグロ彫刻に着想を得たピカソの絵画に類した例も認められよう。しかし自画像の系譜の最後に《目のない自画像》を置くならば、作家の関心はキュビスム的な明晰さではなく、むしろアンフォルムとでも呼ぶべき不透明さ、晦渋さへと向けられていることが理解されよう。この点は風景画においてはさらに明確だ。キュビスムにおいて幾何学図形へと解体される風景とは異なり、そこに描かれるのはうねり、脈打つようななんとも生命的な風景である。私はこれらの風景から脈動あるいは蠕動といった言葉を連想した。《丘の道》と題された作品に対して「内臓模型のような」という言葉が残されているというが、的確な評であろう。《丘の道》とおそらくは同じ風景を描きながらも、補色対比という点で不穏な印象を与える作品には《かなきり声の風景》というタイトルが付されている。いずれも風景が身体のメタファーとして提示されていることを暗示してはいないだろうか。「風景の中の女性」という主題は西欧にあってはルネッサンス以降、伝統的なモティーフであるが、萬が描く肉感的な風景は風景と人体を折衷するかのようである。一連の風景画の中でも私が特に感銘を受けたのは1918年の《木の間風景》という油彩画である。タイトルのとおり木の間から透かし見たような風景が抽象的に表現されており、浅い奥行きの中にたたみ込まれるように展開するイメージはきわめて独特で美術史に類例を求めることが難しい。ただし今回一緒に展示されていたドローイングを見て、かすかにカンディンスキーの残響を認めることができるように感じた。実際の影響関係については詳細な研究を待ちたいが、すでにこの時代に一種の国際的な同時性、モダニズムへの志向が認められることは興味深い。

 土沢時代の特に風景画からは画家の内面の不安が感じ取れる。実際にこの時期、神経衰弱と肺結核と診断された萬は1919年に神奈川県茅ヶ崎に転居し、いわゆる茅ヶ崎時代が始まる。この展覧会では「解放」という章のタイトルが与えられている。転地療養の効果を示すように、画面には明るい色彩が回復され、土沢時代の一途で切迫した印象からは「解放」される。キュビスム的な対象の把握は保持される場合が多いが、人物の描写もおおらかな場合が多く、とりわけ娘を描いた一連の作品からは父としての愛情が伝わってくる。実験的な作品は比較的少ないが、その中でも《水浴する三人の女》という大作が帝展落選後、作家によって裁断されてしまったことは残念である。セザンヌやマティスを彷彿とさせるイメージが萬によってどのような変奏を遂げたかは、たとえ作家が失敗作とみなしたとしても是非見てみたかったと思う。(裁断された一部は本展にも出品され、構図を確認するデッサンが数枚残されている)それというのも、私はデッサンに残された三人の裸婦の姿から、セザンヌやマティス以上にピカソの《アヴィニョンの娘たち》が連想されてならないからだ。この時期の萬の絵画も成熟とか熟成とは無縁の相当な異様さをはらんでいるように私は感じた。しかし萬に残された時間はさほどなかった。1926年にはいくつかの絵画でモデルを務めた長女登美が結核のため亡くなり、その悲嘆もあったのであろうか、翌年、萬も肺炎によって短い生涯を終えた。絶筆となった《宝珠をもつ人》もまた奇妙な作品であり、カタログの作品解説には「謎めいた絵ばかり多い萬の中の、最大の謎作品といえるだろう」と記されている。この作品については原田光が各論の一つを割いて論じているから、ここではこれ以上触れることはしないが、まことに萬の絶筆にふさわしい謎めいた作品である。

 最初に書いたとおり、今回の充実した展示から多くの発見があった。例えば丁字路や飛び込み、あるいは傘をもつ女性といったモティーフを萬が好み、いくつもの作品に描いたことを私は初めて知った。ふんだんに配置された資料類、とりわけ萬自身によって撮影された写真と絵画の関係も興味深い。夭折した画家であるにもかかわらず、これほどの作品と資料が残されていることは作家の旺盛な創造力、そして遺された作品や資料が大事に伝えられてきたことを暗示しているだろう。今回あらためて驚き、私の中では謎として残ったのが、多くの南画系の水墨画の存在である。後年期、茅ケ崎時代が多いらしいが、萬は膨大な数の水墨画を制作し、今回の会場でも十分に紹介されていた。このような探求は比較的初期から続けられ、早すぎる晩年には《水浴する三人の女》の帝展落選後のスランプから立ち直るきっかけともなったらしい。油彩画との関連が認められる作例もない訳ではないが、多くが主題的にも東洋的であり、作家の全く異なった境地を見せている。最初に私は萬の画業を分裂的と評したが、分裂は単に油彩画の画風のみならず、油彩画と南画の間にも認められる。かかる分裂の間で一体、萬がどのような絵画を構想していたのか。この展覧会を見て、作家と作品への関心は深まるばかりである。

 一人の作家の個展は展覧会の基本であるが、この展示は萬とゆかりの深い三つの美術館が総力を結集して組織した充実した内容であり、見どころに富む。先般の愚かな大臣による「学芸員は癌」という発言にみられるとおり、現在、民営化やコンセッションといった本来美術館と背反する制度の導入が画策され、収益と集客といった「別の評価基準」が美術館に対して臆面もなく要求されている。これに対してこのような手堅い展示を淡々と続けることは美術館のレゾン・ド・エートルをあらためて表明する意味でもきわめて重要であろう。これほどの展覧会が盛岡、葉山、長岡の三館しか巡回せず、西日本で展示に触れる機会がないことは残念に感じられる。


# by gravity97 | 2017-07-23 20:59 | 展覧会 | Comments(0)

 

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以前、このブログでも少し言及したが、「ニルヴァーナからカタストロフィーへ●松澤宥と虚空間のコミューン」と題された資料集についてレヴューを残しておきたい。この資料集は今年の33日から422日までオオタファインアーツで開かれた同名の展覧会に際して刊行され、展示そのものは私は未見である。

 日本の戦後美術史にはあたかも虫喰いのごとく、重要な作家や動向であるにもかかわらず解明がほとんど進められていない対象が存在する。松澤宥と日本概念派もそのような盲点であった。厳密には松澤については過去に一度、美術館レヴェルでの回顧がなされている。すなわち1997年に埼玉の川口現代美術館で開かれた「スピリチュアリズムへ 松澤宥 1954-1997」であり、私も訪れた覚えがある。しかしこの展覧会は比較的小規模であり、カタログも過去の活動についての言及に乏しかったのに対して、今回の記録集は松澤が最も精力的に活動した1969年から73年という期間を主たる対象としたきわめて充実した内容であり、情報量に富む。フェミニズムの作家としても知られる嶋田美子が監修にあたったとのことであるが、本来ならば美術館のキューレーターによってなされるべき仕事がギャラリーと必ずしも美術史を専門としない研究者によって達成された訳である。京都のギャラリー16とギャラリーに勤務していた坂上しのぶの手によってまとめられた一連の関西の戦後美術に関する研究同様、美術館、キューレーターの手によらない、特筆すべき成果といえよう。

 以前にもこのブログに記したとおり、私が松澤の仕事に強い印象を受けたのは2014年に開催された横浜トリエンナーレ2014であり、初めて多くの作品を目にすることができた。同じ展覧会で松澤とともに焦点があてられていた殿敷侃についても先日、広島市現代美術館において大規模な回顧展が開かれたことは既に論じた。同じ年に二人の異端の前衛作家の仕事が検証されたことは意義があるだろう。私は横浜トリエンナーレで諏訪の松澤の旧宅に設置された「プサイの部屋」の再現に感銘を受けたのであるが、嶋田によれば横浜での展示は「同寸同大のホワイトキューブに『プサイの部屋』から取り出した数点を展示したにすぎず、実際の部屋とは似ても似つかぬもの」であったという。知られているとおり、松澤は1964年に「オブジェを消せ」という啓示を得たことを契機に独自の概念芸術を創出した。しかしこの一方でそれ以前に制作された作品、とりわけ読売アンデパンダン展に出品された一連の廃品芸術を中心に、自宅の屋根裏の蚕室に「プサイの部屋」と呼ばれる特異なインスタレーションが設置され、これらは移動することが困難であった。このため松澤のオブジェは紹介される機会を逸して、先行研究に乏しい。これまで日本の戦後美術の通史を扱った研究においても「現代美術逸脱史」においては「日本概念派」として高松次郎らとともに一括りにされ、「日本・現代・美術」においては脚注の中にしか登場しない。黒ダライ児の怪著「肉体のアナーキズム」においても、そこに主に論じられた作家たちとは微妙にテイストが異なるためであろうか、むしろ周縁的な話題として論及されている。逆に1999年にクイーンズ美術館で開かれた「グローバル・コンセプチュアリズム」、近年では富井玲子の近著「荒野のラディカリズム」といった英語圏での評価が逆輸入されつつある点は具体美術協会、あるいはもの派といった日本の戦後美術の動向と似ている。

 今述べたとおり私は今回の展示を見ていないので、作品ではなくこの記録集に基づいて論じる点を最初にお断りしておくが、記録集といえどもこの冊子は図版も多く、資料性が高い。そもそも松澤の作品は言語を媒介とする場合が多いから、必ずしも実体を必要とせず、写真や印刷物によって伝えることが可能だ。この記録集は作家の活動の全幅を簡潔に伝えており、さらに作家の没後残された膨大な資料を用いて編纂されている点はアーカイヴという問題と深く関わっている。この話題については後で立ち戻ることにしよう。本書はクロノロジカルに九つのセクションから構成されており、次のように分類されている。

1. ニルヴァーナ以前(1950年代~68年)/ 2. ハガキ絵画(1966年~68年)/ 3. 美術という幻想の終焉(1969年)/ 4. アート・アンド・プロジェクト(1969年~1973年)/ 5. ニルヴァーナ(1970年)/ 6. フリーコミューンの萌芽(1970年~1971年)/ 7. 世界蜂起(1971年~73年)/ 8. ひらかれている(1972年)/ 9. カタストロフィー・アート(1972年~)

年記を見れば明らかなとおり重複や逆転を伴うかなり恣意的な分類であるから必ずしもこの区分に拘泥する必要もなかろうが、松澤の1970年前後の活動に一定の見取り図を与えてくれる。私も90年代以降、松澤の儀式的なパフォーマンスを何度か見たことがあるが、それらはすでに形骸化した感があり、あまり感心しなかった。これらのパフォーマンスと比しても、ここで取り上げられた多くの活動は多様かつ先鋭であり、松澤の活動の絶頂をかたちづくっている。もっとも私は松澤の仕事についてこれまでほとんど知らず、正直に言えば思わせぶりで秘教的な作品にさほど共感を覚えることもなかった。しかしこの作品集を通読するならば、作家の活動が今日においても検討すべき多くの問題をはらんでいることが理解された。ここではいくつかの所感を書き留めておくことにする。

本書ではまず196461日深夜、松澤が「オブジェを消せ」という啓示を受ける前後の活動に遡ってその活動を検証する。「~を消せ」というネガティヴな定言は松澤の作品の本質と関わる。それまで読売アンデパンダン展に代表される美術展への出品を活動の中心に置いていた作家がこの年に企画した「荒野のアンデパンダン展」とは諏訪の高原湿地に出品者が作品ではなく想念を送るというまことに奇怪な内容であり、瀧口修造や池田龍雄らが「出品」したという。翌年の長良川におけるアンデパンダン展同様に、松澤が活動の初期に野外を舞台とした活動を繰り広げていたことは興味深い。具体美術協会の野外展から松澤、関根伸夫の《位相-大地》にいたる日本の戦後美術における野外展示の系譜はあらためて検証されてもよいのではなかろうか。あるいはこの時期から松澤は郵便を手段とした一連のメールアートを繰り広げていたことも理解される。この先例としては具体美術協会が機関誌を海外に送付したことが挙げられようが、松澤も同様にコレンスポンデンスの相手を海外へと広げていく。

 私があらためて驚いたのは、早くもこの時期に松澤がコンセプチュアル・アートをめぐる世界的なネットワークを形成し、メールアートというかたちで作品のやりとりを続けていたという事実だ。これについて本書は多くの知見を与えてくれる。このうえで重要な役割を果たしたのはアドリアン・ファン・ラヴェスティーンとギールト・ファン・ベイレン・ベルゲン・ハーネゴーヴァンという長い名前をもつ二人のオランダ人である。彼らの名前、そして二人が設立したアート・アンド・プロジェクトという組織を私は本書で初めて知ったが、この組織に関してはコペンハーゲン大学のピーター・ファン・ダー・メイデンという研究者が長いテクストを寄せている。それによれば松澤とアート・アンド・プロジェクトを仲介したのはオランダのコンセプチュアル・アーティスト、ヤン・ディベッツらしい。ディベッツは中原佑介と面識があり、1970年の東京ビエンナーレ、「人間と物質」にも出品しているから、松澤のオランダ・コネクションはここに由来するだろう。1975年頃まで続く両者の関係は基本的に良好であり、松澤は1970年の「ニルヴァーナ」へアート・アンド・プロジェクトへの出品を打診し、逆に同じ年のアート・アンド・プロジェクトの夏季展覧会に招待されたという。この展覧会に出品したというソル・ルウィットやロバート・ライマンの名は知っている。しかしヒデト・ミヤザキあるいは稲憲一郎とは一体何者であろうか。50年代から60年代にかけての具体美術協会、64年のロバート・ラウシェンバーグ、グローバリゼーションの端緒とも呼ぶべき集団や作家の国際的な活動についてはこれまでこのブログでレヴューした近年の研究でその一端が明らかとされたが、70年前後のコンセプチュアル・アートをめぐる日本とヨーロッパの交渉はなおも多くの研究の余地を残している。このような活発な交渉が可能となった背景としては、方法としてのメールアートの成熟と出版物を介した発表が制度化されたことがあるだろう。ここに収められた作品/資料は多くが書簡の形式をとっているし、アート・アンド・プロジェクトは多くのブルティン(bulletin、紀要とか報告の意味)を発行しており、図版から推測するに1971年に発行された42号は松澤のアート・アンド・プロジェクトにおける発表を特集している模様である。両者の関係はかなり微妙で、メイデンによれば次に述べる「ニルヴァーナ」と関連したブルティンも計画されていたが、一号を一人の作家に割り当てる方針と抵触するため中止されたとのことである。その後、72年の84号も松澤を特集しているようだ。

1970年には今触れた「ニルヴァーナ」展が京都市美術館で開催される。ニルヴァーナとは涅槃のこと。松澤のほか水上旬、春原敏之らが中心になって企画されたこの展覧会は次のようなものであったらしい。


「ニルヴァーナ」展は1970812日から14日まで京都市立(ママ)美術館で開催された。参加者は85名、展示作品のほぼ全てがいわゆる「概念芸術」とされるもので、絵画やオブジェなど既成の美術作品の形をとらず、文字や写真による作品、記録、または行為などによるものであった。展覧会は3日間だったが、初日は2階の全室を使い、2日目はその半分のスペースになり、最終日3日は一部屋になり、そして消滅した。


1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催され、中原佑介の「人間と物質」も「ニルヴァーナ」と同じ会場に巡回している。一種騒然とした雰囲気の中、真夏の京都で三日間だけ開かれた日本で最初の「概念芸術」を主題とした展覧会についてはこれまでほとんど資料がなかった。今回の資料集には会場や出品作品―といっても書信や写真が多い―の図版が掲載されていて興味深い。明らかにこの展示には当時を代表するコンセプチュアル・アート系の作家たちが集結しており、松澤が世界的な作家のネットワークの中心であったことを物語っている。ここで注目すべきはこの展覧会が「消滅」を一つの主題としている点である。今引用したとおり、展示自体が日々縮小し最後には消滅してしまう。嶋田はたとえばルーシー・リパードによって1968年に提唱された「芸術の非物質化」と松澤の「物質の消滅」という二つの概念の親近性について論じている。作品や会場が徐々に小さくなり、最後に消滅してしまうという手法をこれ以後も松澤はしばしば用いる。松澤の場合、あまりに秘教的なテクストや身振りが過剰なコノテーションを作品に付着させているが、消滅を主題とした作品を現代美術の中で想起してみよう。イヴ・クラインの「空虚」、グスタフ・メッツガーのDIAS(芸術における破壊シンポジウム)、あるいはロバート・スミッソンのアースワーク。いくつも興味深い関係線を引くことができるだろう。

 記録集は続いていくつかの興味深いトピックを提起する。19711231日に始まる「世界蜂起」と題されたメールアートのプロジェクト、1972年に長野県信濃美術館で開催された「ひらかれている」展、1972年にミラノと東京で開かれた「カタストロフィー・アート」である。私はこれまで様々な機会に見知った覚えがある藤原和道の「音響測定」、野村仁のフォトブック、高松次郎や河口龍夫らの一連の作品がこれらのプロジェクトや展覧会と深い関係があることを知って驚いた。そこで紹介された作品は必ずしも言語や写真によるものばかりではない。今名前を挙げた作家たちがこの時期、概念的な作品を発表した背景に松澤からの働きかけがあったと考えることもできようし、この点は個々の作家に即して今後検討されるべき問題であろう。カタストロフィー、あるいはニルヴァーナ・コミューンといった名称は当時の気風も反映している。まず当時、公害や資源枯渇といった話題と関連して盛んに終末思想が唱えられていた。日本沈没やノストラダムスが盛んに喧伝され、このような終末観は松澤のいう「消滅」と結びついている。松澤は第10回現代美術展、いわゆる東京ビエンナーレに「人類よ消滅しよう行こう行こう(ギャティギャティ) 反文明委員会」と大書された垂れ幕を展示したが、オブジェの消滅、物体の消滅、人類の消滅はこのような時代背景と無関係ではない。さらにコミューンへの志向も当時様々なレヴェルで認められる。しかしかかる憧憬は1972年、いわゆる連合赤軍事件によって無残にも断たれることとなる。松澤における政治の問題も重要であるが、このブログの紙幅で扱うには大きすぎる。

 最後に一つの問題について論じておきたい。「ニルヴァーナ・コミューンその後」と題された最終章において嶋田は「カタストロフィー・アート」以後の松澤の次のような言葉を引用している。「芸術(art)というよりそれは証拠(document)と呼んだ方がよいだろう。どんなことでもそれにひっくるめられる可能性がある。だから大変に自由なものだ。Free Document だ。その人が死を意識してその代替として信じたもの、事、心がこれからの大変大事な人類の意識遺産となる。それだ、それが次の芸術だ。これは1972124日午前4時の意見だ」ほぼ同じ時期に松澤は現代芸術資料センターという機関を立ち上げ、全世界の先端的な仕事をしている作家や機関に向けて、作品資料、出版物などを送付するように求めた。実際に多くの資料が送られ、松澤がアーカイヴ化しようとした痕跡が認められるという。嶋田は「松澤の興味の中心が197273年頃からデータの集積とその活用に移っていったことは今日のアーカイヴ研究を先取りしていて興味深い」と指摘している。私はドキュメントと関わる松澤の作品が本質的にアーカイヴ的であり、ハル・フォスターが「アーカイヴ的衝動」と呼ぶ動向のきわめて早い例ではないかと考える。一方でオブジェや物体の消滅を提唱し、非物質化された芸術を標榜しながら、他方「プサイの部屋」に認められるアッサンブラージュの混沌が併存したことはこの点から説明することができよう。私が「プサイの部屋」の写真から連想したのは、かつてポンピドーセンターで見たアンドレ・ブルトンの書斎の再現であった。それは美術館の整理されたコレクションとは全く異なり、ジャンルが異なる品々、さらには美術と関わるもの関わらぬものが無秩序に配置され、カテゴライズを拒む空間であった。「消滅」の対極にあるような混沌がシュルレアリスムの法王の書斎に認められたことは、瀧口修造が諏訪の松澤宅を訪れて一泊しながらも「プサイの部屋」に上がることを固辞したというエピソードの傍らに置く時、なんとも暗示的である。繰り返しとなるが、物体の消滅を主張した松澤が個々に区別もつかない大量の作品や書類を残したという逆説は作品の本質と関わる。先に引いた松澤の言葉も実は残された書類の中から発見されたものであり、松澤亡き後に残されたこれらの資料体の解明こそが作家を理解する重要な手段となるだろう。アーカイヴの問題は、近年、現代美術そして美術館において主要な課題となりつつある。私たちはフォスターが「アーカイヴ的衝動」で取り上げるような作家と日本でもしばしば出会うようになった。彼らの作品はアーカイヴという視点を導入することによって、初めて意味を了解することができる。そして今日、多くの美術館がその職能に新たにアーカイヴを取り入れようとしていることはよく知られている。偶然ではあるが、名古屋を中心に発行されている『REAR』も最新号で「アーカイヴは可能か?」という特集を組み、多くの興味深い記事を掲載している。今後、この記録集を通じてその輪郭が明らかとなった松澤のアーカイヴがどのように運営されるかを私は注視したいと思う。願わくば生前の松沢が念願したような「現代芸術資料センター」として70年前後のコンセプチュアル・アートをめぐる研究の拠点として整備されることを。b0138838_09273050.jpg



# by gravity97 | 2017-07-02 09:38 | 現代美術 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック