b0138838_2014172.jpg 著者も背景も知らずとも、タイトルを見ただけで読まなければならないと決意する本がある「収容所のプルースト」はまさにそのような書物だ。新聞の書評等で存在を知ってから入手までに若干の時間がかかったが、短いテクストでもあり、読み始めるや一気に読み通した。私はこのブログですでに二度「失われた時を求めて」について触れ、訳者である井上究一郎の紀行文(『幾夜目覚』2009年1月3日)、研究者である保苅瑞穂のエッセイ(『プルースト 読書の喜び』2011年1月14日)についても論じた。そしてポーランドやシベリアに設置された強制収容所や捕虜収容所についてはいくつもの小説や批評と関連して幾度となく論じてきた。これら二つのテーマが結びついた書物を読むこと自体が私にとっては一種の象徴的な体験である。今までこの匿名のブログでは様々な対象、様々な主題について論じてきたが、早くもブログを開設して満十年が経過しようとしている。今回はやや形式を変えて、本書から連想される主題と関わった過去のブログを具体的に示しながら、この二つの主題をめぐる私のささやかな思考の軌跡を示してみたいと考える。なぜなら本書の著者も冒頭で指摘するとおり、プルーストの長大な小説もまた「多様で離れ合った要素を、思いがけない連想によって繋ぎ、複雑にからみ合った主題を、まるで上下関係がないみたいに扱っていく、きわめて的確で豊かな文体がもつ価値」によって成り立っているからだ。
 まず巻末の紹介をそのまま引いて、著者、ジョゼフ・チャプスキの略歴を示しておく。「1896年、ポーランド貴族の息子としてプラハに生まれ、1993年、パリ近郊に没する。ポーランドの画家、美術批評家、エッセイスト。帝政ロシア軍に入隊後、反戦主義を理由に離脱、ポーランドに帰国後、対ソ戦争に従軍、1920年代にパリで絵画修行。1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻とともにソ連軍の捕虜となるが、41年に解放される」ここに記されているとおり、チャプスキは画家とエッセイストという二つの顔をもつ。私もチャプスキという変わった名前に見覚えがある気がして、過去に見た展覧会で紹介されていないか、書庫に赴いて図録などを確認してみたが、名前を見つけることはできなかった。タイトルにある収容所とは上に掲げた略歴において「ソ連軍の捕虜」と記された部分と関係がある。本書の原型となった「講義」は1940年から41年にかけて、グリャーゾヴェッツにあったソ連軍の捕虜収容所で行われたものである。したがってここでいう「収容所」とはナチス・ドイツによるユダヤ人の絶滅収容所でもなければ、ソルジェニーツィンが収監されたスターリン体制下の政治犯の収容所でもない。ソビエト軍がポーランド人の将校を捕虜として収容した捕虜収容所なのである。ある程度現代史に通じた者であれば、ソ連、ポーランド人将校、捕虜収容所という三つ組から一つの歴史的事件を連想することは容易だ。それはソ連軍よるポーランドの軍人や知識人層の大量虐殺、いわゆる「カティンの森」事件である。指導者層を大量に殺害することによってポーランドという国家を弱体化させ、共産主義国家への移行を進めようとしたこの事件は、冷戦下においてはナチス・ドイツによる蛮行の一環に偽装され隠蔽されてきた。ティモシー・スナイダーはこれがポーランドの知識人層を絶滅させる「斬首作戦」として計画的に遂行された点を論じている。(『ブラッド・ランド』2015年12月6日)「カティンの森事件」については近年、日本でもいくつかの関連書が出版されているが、私はアンジェイ・ワイダの「カティンの森」という映画を通してその全貌を知った。ワイダのフィルムにおいて時系列は意図的に攪乱され、捕虜収容所に消えた夫の消息を求めてさまようポーランド人将校の妻たちの苦悩が延々と描かれた後、順番に並べられた将校たちが犬のように銃殺されていく衝撃的なラストシーンが用意されていた。実はチャプスキのグリャーゾヴェッツにおける同房者、つまり彼からプルーストについての講義を聴いた者たちの多くはカティンの森で銃殺に処せられており、この事件の究明もチャプスキのライフワークの一つとなったという。したがって本書は1930年代後半、ポーランドという国家が置かれたきわめて困難な地政学的状況と深く関わっている。
 本書が執筆された状況については作者による序文の冒頭に簡潔に述べられている。やや長くなるがそのまま引用する。

 プルーストに関するこのエッセイはもともと、1940年から41年にかけての冬のあいだ、ソ連のグリャーゾヴェッツにあった元修道院の冷えきった食堂、すなわち捕虜収容所の食堂でもあった部屋において口述筆記されたものである。以下に読まれる文章が正確さを欠き、主観的であるとすれば、それは収容所に図書室がなく、自分のテーマに見合った本が手元に一冊もなく、最後にフランス語の本を読んだのが1939年9月だったということに、いくらかは起因する。わたしがなるべく正確に描こうとしたのは、プルーストの作品に関する記憶でしかない。だから、これは言葉の本当の意味では文学批評ではなく、わたしが多くを負っていた作品の思い出、わたしが二度と再び生きて読み直すことができるかもわからなかった作品についての思い出を提示したものである。

 ただちにいくつもの記憶が喚起される。ここに記されているのは収容所から記憶のみによって外へと持ち出されたテクストである。同様にシベリアの日本人捕虜収容所から「文学批評」ならざる一人の囚人の遺書が、記憶を介して遺族のもとへ届けられた実話を私たちは辺見じゅんの優れたルポルタージュを介して知っている。(『収容所から来た遺書』2014年2月4日)本書には「グリャーゾヴェッツ・ノート」という表題で収容所から持ち出されたとされる関連するノートの数頁が図版として掲載されているが、誰がいつ作成したかが不明であるため、資料的な価値には乏しい。しかしこれらのノートの存在は収容所の中で筆記することが可能であり、さらにそれを持ち出すことさえ可能であった点において、収容所内の統制が比較的緩かったことを暗示しているだろう。一方でユダヤ人の絶滅収容所からは歯磨き粉のチューブに隠されてかろうじてテクストならざるイメージ、収容所内の情景を撮影した四枚の写真が密かに持ち出された。これらのイメージをめぐるジョルジュ・ディディ=ユベルマンの研究については内容の凄絶さに応える言葉を紡ぐ自信がないため、私はこのブログの中でまだ応接できていないことを告白しておこう。さいわいにもチャプスキが収容されていた捕虜収容所においてはテクストを事前の検閲に出すことを条件に何人かの捕虜がそれぞれの専門と関連して、移民の歴史や建築史について同房の捕虜たちに講義を行うことができたという。それにしても捕虜収容所で語られるプルースト、これほど意想外の結びつきを想像することは難しい。チャプスキ自身も次のように語る。

 わたしは感動して、コルク張りの部屋でびっくりしているプルーストの顔を思い浮かべた。まさか自分の死後20年経って、ポーランドの囚人たちが、零下40度はざらに下回る雪の中で一日を過ごしたあとに、ゲルマント夫人の話やベルゴットの死など、あの繊細な心理的発見と文学の美に満ちた世界についてわたしが覚えていたことの全部に、強い関心を寄せて聞き入ることになるとはさすがの彼も思わなかっただろう。

 かつて私は「失われた時を求めて」という小説自体が場所の記憶と深く関わっていると述べた。コンブレ、バルベック、それは小説で言及される場の記憶であると同時に、この長大な小説を読む場所の記憶でもあるだろう。なぜならばこの大長編は読む者に一定の期間、一つの場で精読を続けることを要求するからだ。チャプスキにとってそれは1926年、この小説が発表された直後、ロンドンでチフスの療養生活を送る期間であっただろうし、私にとっては2004年の冬、出張していた極寒のニューヨーク、スターバックスのカウンターで毎朝熱いコーヒーを飲みながらの幸福な読書体験であった。(マルセル・プルースト『花咲く乙女たち』2009年5月1日)それにしても驚くべきは、チャプスキがただ記憶を頼りにかくも奥深いプルースト講義を続けたことだ。その的確さについては「失われた時を求めて」の個人訳に取り込んだ訳者の一人である高遠弘美が本書を紹介した文章の中で「勘所を外さないその『引用』と原文を比べると、言いようのない感動に襲われる。チャプスキはここまでプルーストを我が身の血肉としていたのだ」と評している。記憶としての書物。ここから連想されるのはレイ・ブラッドベリの傑作「華氏451度」の結末である。焚書が是とされる世界から放逐された男たちは次のように自己紹介をする。「わしがそのプラトンの『共和国』だ。マルクス・アウレリウスを読んでみたければ、シモンズ君が、そのマルクスだ」そういえば森村泰昌のディレクションによって企画され、検閲や沈黙といった主題を扱った2014年の横浜トリエンナーレも同じ小説の題名をメイン・テーマとしてはいなかっただろうか。(「横浜トリエンナーレ2014」2014年9月15日)本書には詳細な註が付されており、チャプスキが言及するプルーストのテクストに誤りがあれば丁寧に修正されている。しかし高遠も指摘するとおり、些細な誤りはあったとしてもチャプスキのプルースト理解は見事に勘所を押さえている。私はかかる教養の深さにあらためて感嘆する。先に言及したスナイダーの研究に次の文章がある。「(ポーランドの知識人層の抹殺は)近代性という概念そのものへの、あるいはこの国の啓蒙思想を体現する存在への攻撃にほかならなかった。東ヨーロッパの社会にとって『知識階級』は誇りであった。彼らは民族のリーダーとしての自覚を持ち、特に国家を失い苦境に陥った時期には、書くこと、話すこと、そして行動によって民族の無かを守り、継承していく役割を担っていた。(中略)二つの占領国による大量殺人はポーランドのインテリゲンツィアがその歴史的使命を立派に果たしたことを示す悲劇的な証拠だったのである」明らかにチャプスキは「知識階級」に属していたが、彼が「カティンの森」のジェノサイドを生き延びることができたのは単なる偶然であった。
 私は「失われた時を求めて」について論じたいくつもの研究や批評を読み継いだから、チャプスキが講じた内容をある程度客観的に評価することができる。訳者もあとがきで論じているとおり、そこには若干の問題も認められないではない。例えばプルーストと主人公を同一視する立場は構造主義を経由した私たちにはあまりにもナイーヴに感じられようし、本書の中で小説家のベルゴットについては何度も言及される一方、チャプスキ自身が画家であるにもかかわらずエルスチールについて論じられることがないのは不自然に感じられもする。しかしながらここで語られる「失われた時を求めて」の読解は凡百の研究者が及ぶものではなく、いくつもの主題をめぐって興味深い議論が展開されている。例えば作家が決してスノッブ趣味ではなく、むしろ怜悧な目を通して上流社会を観察していたことが指摘され、文体の分析、さらにはそこから転じてこの大長編のポーランド語訳の問題点などが次々に語られる。あるいはベルゴットの死をめぐるエピソード中、フェルメールの《デルフト眺望》中の「庇のある黄色の小さな壁」への言及は私にとってもこの長編において一つの焦点を結ぶ箇所であり、以前ブログの中で詳述したことがある。(マルセル・プルースト『囚われの女』2009年8月7日)驚くべきことにチャプスキもまたこの箇所を選んで的確なコメントを寄せている。さらに私が興味深く読んだのはロシアの作家、とりわけトルストイとの比較である。チャプスキは両者をむしろ対比的にとらえ、トルストイの「教条主義」を批判する。この主張にはいささか人間主義的な発想が見え隠れするとはいえ、ポーランドという作家の出自ぬきではありえない発想であるように感じられた。私はどうしてもプルーストの小説をモダニズムという観点からとらえてしまうのだが、逆に19世紀文学と関連づける思考も十分に刺激的に感じられたのだ。さらにチャプスキは「『失われた時』の思想的な結論はほとんどパスカル的である」と述べる。議論の詳細は本書に譲り、プルーストを読みこなすほどにフランス語に通じていた彼がパスカルの思想に親しんでいたことに不思議はないが、ここであらためて私はチャプスキの母語以外の文学や哲学に関する深い理解に感嘆する。そしてさらにほかの捕虜/囚人たちも強い関心とともに彼の講義を聴いたことに驚きを禁じ得ない。高級将校が中心であったとはいえ、スナイダーも言及するとおり、そもそも本書が成立したこと自体が当時のポーランドの知識階級のレヴェルの高さを暗示しているといえよう。
 本書には日本の読者向けに「収容所のプルースト」というややキャッチーなタイトルが与えられているが、原著のタイトルは「Proust contre la dchéance : Conférences au camp de Griazowietz 」であり、正確に訳すならば「堕落に抗するプルースト」という意味になる。私はこれまでこのブログでいくつかの証言に沿って、絶滅収容所や強制収容所が人間をいかに摩滅させ、堕落させるかについて検証した。(ジョルジョ・アガンベン『アウシュビッツの残りのもの アルシーヴと証人』2008年6月14日)しかし一方でこれに抗する精神も確かに存在し、芸術はその拠り所になるのではないかと感じる。例えば音楽が強制収容所内で果たした両義的な役割については「ホロコーストの音楽」と関連してかつて論じたことがある。(シルリ・ギルバート『ホロコーストの音楽』2013年1月25日)直ちに具体的に言挙げすることはできないが、おそらく美術に関してもそのような事例は存在しようし、本書を読んで私は文学にも同様の力があることを確信した。そういえば、かなり屈折した事例ではあるが、収容所と言葉の問題に関してはかつてシベリア抑留詩人、石原吉郎の評伝と関連して詳細に論じたことがある。(細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』2015年9月18日)収容所のプルースト、私はパリの上流社会を描いて高踏的で享楽的と考えられがちなこの小説を読み解くことが、極限的な生活を送る捕虜たちの精神にとって死活的な意味をもったことに深い感銘を覚えた。「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉のとおり、収容所という極限をサヴァイヴするためには肉体のみならず精神的な強度も必要であり、さいわいにもグリャーゾヴェッツにはチャプスキ、そしてプルーストという拠り所が存在した。しかしそこで救われた命の大半がわずか二年後に、その知性のゆえに「斬首」され、無残な死を迎えることになったのだ。運命とはなんとも無慈悲ではないか。
by gravity97 | 2018-02-16 20:44 | 思想・社会 | Comments(0)

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 石牟礼道子の訃報に接し、『苦海浄土』のレヴューを再掲する。この記事は2011年3月11日、奇しくも東日本大震災が発生した日にアップされた。今や私たちは、私企業の傲慢が招いた、豊かな自然と幸福な共同体、そして人間の尊厳に対する同様の凌辱として、東京電力による原子力災害を重ねることができる。果たしてこの犯罪も将来において文学的に総括されるだろうか・

 ほぼ半世紀前に発表された本書を初めて通読する。それはきわめて辛い体験であり、私は何度となく頁を閉じたいという思いに駆られた。
 水俣病といっても、今日では特別措置法や未認定患者をめぐる訴訟問題が時折話題となるくらいで忘れ去られつつあるが、かつては日本の公害問題の象徴として耳目を集めた公害病である。新日本窒素肥料株式会社(チッソ)が無処理のまま水俣湾に垂れ流した工場排水中の有機水銀が魚介類の中に蓄積され、食物連鎖の結果、水俣湾周辺の漁民を中心に水銀中毒による神経障害が発生し、多くの者が死に至った。さらに胎盤を通じて胎児の段階で水銀中毒となり、生まれつきの障害に侵される胎児性水俣病という悲劇を生んだ。水俣病という言葉から私は例えばユージン・スミスの有名な写真を連想するし、かつてこの問題を扱った吉田司の『下下戦記』を読んで感銘を受けたことも覚えている。しかしスミスの写真があくまでも水俣病をめぐる一つの情景を切り取ったものであり、『下下戦記』がいわば水俣病のその後をグロテスク・リアリズムという手法で描いた内容であったのに対して、本書からは水俣病を共に生き、告発する著者のひたむきな熱情が感じられた。
 水俣病は昭和30年代にいわゆる高度経済成長を突き進む日本の暗部を象徴している。私は本書を読んで、人間の尊厳という言葉に思いをめぐらした。水俣病が悲惨であるのはそれが人間から尊厳を奪い去るからである。数年前まで一家の大黒柱として、熟練した漁師として、地域のリーダーとして周囲から尊敬されていた人物が、口から涎を垂らし、言葉も思うにまかせず、全身を痙攣させて、ゆっくりと悶死していく。あるいは生まれつき言葉も話せず、意志を表示することさえできず、排泄すら自由にならぬ胎児性水俣病の患者たち。何の罪もない人々がおおよそ人間の想像できる最悪の地獄を味わうこととなったのだ。チッソが垂れ流した有機水銀は患者の身体だけでなく、家族や地域社会を破壊し、蝕んでいく。そもそも魚が、貝が汚染されているとするならば漁業を生業とする人々にとって生活の糧を奪われることに等しい。本書の中には詳しい言及はなかったがかつて『下下戦記』を読んだ際に、わずかな日当のために出漁した漁師たちが、港まで持ち帰りながらも汚染されているため市場に出荷できない魚をタンクの中に廃棄する寒々とした光景の描写に慄然としたことを覚えている。しかし当然の対価である漁業補償そして水俣病に対する補償に対しても、一般市民たちからは怠業あるいは詐病ではないかという白い目が向けられる。無責任な風説の広まりと病気に対するいわれなき差別は人間性の暗部をのぞきこむ思いがする。チッソという企業は単に患者の健康のみならず地域という共同体、人々の人間性までも回復不能なまでに破壊したのである。本文中に胎児性水俣病の患者を前にしたカネミ油症患者の青年が「神さま、罪のない人をなぜこんなにしたのですか。どうして救ってあげないのですか」とつぶやく描写がある。あるいは死後、病理解剖された胎児性水俣病の少年の耳から頭蓋にかけて残された縫合の跡とそこににじむ血の色。この本を読むことの辛さが理解していただけよう。
 それにも関わらず、私が本書を閉じることがなかったのは、『苦海浄土』が高い文学性を有しているからである。単に被害の実態を報告し、チッソを告発するだけのルポルタージュであれば、あまりの悲惨さにおそらく私は最後まで読み通すことができなかっただろう。しかし本書は水俣病を告発すると同時に、それによって失われた豊かな自然、自然との共生の記録であり、それによっても失われることのない人間性の記録でもある。例えば胎児性水俣病の患者である江津野杢太郎という少年について語るにあたって、筆者は練達の漁師である祖父の口を借りる。江津野家は祖父と祖母、やはり水俣病患者であるその息子、そして杢太郎少年を含む三人の孫の六人家族である。(杢太郎少年の母は出奔した)水俣病によって壊された家庭にあって、焼酎を晩酌に祖父は少年に語りかける。「杢よい、」と少年を呼びながら、老人は不知火の海の上がいかに豊かであるかを説く。「あねさん東京の人間な、ぐらしか(かわいそうな)暮らしばしとるげななばい。(中略)それにくらべりゃ、わしども漁師は、天下さまの暮らしじゃあござっせんか」池澤夏樹も指摘するとおり、水俣病の犠牲となった数百人の漁民に対置されるべきは、チッソが象徴する高度経済成長の恩恵にあずかった全ての人々、とりわけ都会に居住する者であったはずだ。これに対して身体の自由も奪われた孫の前で、老人が自分たちの暮らしの方が人間的であると淡々と言い放つ様に私は深い感動を覚えた。それにしても本書の語りを貫く水俣のダイアレクト(方言)のなんと豊かで勁いことか。この作品の魅力は多くを独自の語りによっている。『苦海浄土』は漁民たちと同じ言葉を操り、「あねさん」と呼ばれるまでに彼らの生活に入り込んだ石牟礼でなくては著しえなかった惨禍の記録であろう。
 むろんこの惨禍は人によってもたらされた。第一部の巻末に昭和34年にチッソによって提示された患者との間の「紛争調停案契約書」が掲載されている。水俣病が工場排水を原因とするものであることが判明しても新たな保証金を求めないことを条項に含んだこの契約書の内容たるや、死者に対して年30万円、発病した成人に対して年10万円という冗談のような見舞金を支払うことによって事態を隠蔽しようとする、人権意識のかけらもない内容である。あるいは本書の中には交渉の場で患者たちに傲岸な態度で接する厚生政務次官橋本龍太郎に関する短い記述がある。産業の発展のためには貧しい漁民たちの健康や命などとるに足らないとする「強者」のメンタリティは行間からも明らかである。しかし弾劾や告発は本書の目的ではない。本書が優れた文学作品である理由は怒りや苦しみの吐露ではなく、ゆえなくしてこれほどの業苦を味わいながらも、漁師たち、母たち、そして患者たちが水俣の豊かな自然の中で人間としての誇りを捨てることがなかったことを、彼ら自身の語りを通して、おおらかなダイアレクトによって記録しているからである。職業作家でもルポライターでもない一人の主婦がかくも言葉を巧みに用いて一つの悲劇を文学として結晶させたことに私は驚く。
 今日、未認定患者の問題は残るにせよ、水俣病問題は一応の決着をみており、この海域の漁獲についても安全宣言が出されているという。しかし私は暗鬱な感慨を抱かずにはおれない。水俣病が終わったのは発生から半世紀が経過して、劇症の患者はもちろん、多くの患者が死に絶えたからではないだろうか。死者は言葉をもたない。今日、私たちがかかる不条理な悲劇、高度成長の暗黒面をかろうじて知ることができるのは、ただ石牟礼という才能による『苦海浄土』という傑出した記録が存在するという理由によっているのではないだろうか。彼女がいなければ私たちは一企業によるこの未曽有の犯罪について知ることさえなかったのではないか。『苦海浄土』は人を慰安する文学の対極に位置する。しかし現実に拮抗するただ唯一の営みとしても文学は存在しうることをこの作品は雄弁に語っている。
 本書は2004年に藤原書店から刊行された石牟礼の全集の第二巻と第三巻を底本としたうえで、池澤夏樹が個人編集した河出書房新社の世界文学全集の中の一巻として刊行された。今月刊行されるコンラッドの『ロード・ジム』によって完結するこの全集を通読した訳ではないが、私はこの全集の編成を評価している。三島でもなく大江でもなく、日本の作家としてただ一人、石牟礼を「世界文学」に登記したことによっても、この全集の批評性は明らかだ。『苦海浄土』は『ブリキの太鼓』や『存在の耐えられない軽さ』と比してもなんら遜色はない。語りえぬ死者に代わって水俣病を語り継ぐ本書は、この全集に収められたことによって、あらためて多くの新しい読者を得たことと思う。
by gravity97 | 2018-02-10 19:42 | 日本文学 | Comments(0)

椹木野衣『震美術論』

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 「後美術論」に続いて「後美術論 第二部・流浪編」と題して『美術手帖』に連載された一連の文章が加筆修正のうえ、昨年秋(奥付によれば9月1日、関東大震災が発生した日付だ)に「震美術論」として刊行された。単行本の厚さにたじろいでしばらく書架に積んだままであったが、本書の中で椹木が「西の大震災」と呼ぶ阪神大震災からちょうど23年が経過した1月17日、思い立って読み始めた。これもまた実に刺激的な著作であり、日本の戦後美術を全く新しい角度から問い直す内容であった。
 「後美術論」が美術と音楽というジャンルを横断ではなく破壊する試みであったとするならば、「震美術論」は美術と地学とを「共振」させることを目指しているように思われる。しかし美術と音楽ならばともかく、美術と地学はどのように結びつくのか。執筆の契機となったのはいうまでもなく「後美術論」執筆中に著者が体験した「東の大震災」、東日本大震災だ。本書の刊行にあたって新たに書き下ろされた「はじめに」の冒頭にその事情が説明されている。

 2011年3月11日午後2時46分、東北地方を中心に太平洋沿岸で甚大な被害を出した歴史的な大震災は、美術批評家としての私の姿勢や具体的な活動に多大な影響を及ぼした。『美術手帖』での連載「後美術論」が始まってまもなく、机上で執筆中に「揺れ」が始まったが、そのときのことは、前著『後美術論』の中でありのままに書かれている。(中略)『後美術論』は、直接に震災を扱うものではなかったが、その余波は以後、随所に顔をのぞかせ、美術をめぐる私の考えに少しずつ、だが着実に変更を余儀なくしていった。

 『後美術論』中、「…ここまで書いてきたとき、突然、文章を書いている机がカタカタと揺れ始めた。2011年3月11日に起きた、恐ろしい震災の、それは最初の、前触れだった」という記述がそれにあたる。この箇所を読んだ際の切迫感はよく覚えている。通常、批評の文章にはそれがどこでいつ執筆されたかといった情報は不要である。しかしかつてこのブログで「後美術論」についてレヴューした際にも記したとおり、「後美術論」の冒頭に近い箇所に突然に挿入された被災のエピソードはそれでなくても暗鬱なこの著作をさらに暗転させた。「後美術論」全体に張り詰めるカタストロフへの怯えは本書の主題へと転じる。この意味において「後美術論」と「震美術論」の関係は第一部と第二部、あるいは正と続といったそれではなく、前者を内部から食い破るように出現したのが後者といった見立てをすることが可能だろう。藤田嗣治から村上隆まで本書で取り上げられる美術家はさほど多くはない。しかし一見、異質に感じられる美術と地学という主題は本書を通読した後では広く日本の美術の本質と関わっていることが自然と理解される。ひとまず本書の内容をたどってみることにしよう。
 「再考『悪い場所』」と題された最初の章においては、これまでの椹木の著作との関係において本書の位置が定められ、著者の問題意識が明確に表明される。すなわちかつて椹木は「日本・現代・美術」において戦後日本美術を忘却と反復が繰り返される「悪い場所」として定義した。このような発想は続く椹木の著作、とりわけ椹木が編集した『日本美術全集 拡張する戦後美術』に濃厚に刻まれている。ここでいう「悪い場所」とは一種の修辞であったはずだ。しかし日本は字義どおり「悪い場所」に位置しているのではないか。椹木は次のように記す。「私はそのとき、この言葉を一種の抽象概念として使っていた。絶え間ない発展と蓄積からなる世界史の先鋒としての西欧の『歴史』に対し、そのような発展も蓄積もなされず、ただ礎らしきものが組まれたそばから地が揺れて崩れ、そのことさえすぐに忘れられ、いつしかまた前とさして変わらぬ礎=石積みを健忘症のように周期的に反復するだけの『悪い場所』―(中略)いま、私はこの概念を比喩ではなく、より端的に使う必要を強く感じている。それはこの言葉を地質学的な水準で、より即物的にとらえ直すことを意味する。『悪い場所』とはすなわち、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートがひしめくように重なり合い、その境界付近で周期的に大きな地震が誘発され、こうした歪みの蓄積から、内陸でも至るところ毛細血管のように岩盤にひびが入った日本列島そのものにほかならない」続いて椹木は日本の戦後美術が成立、展開した時期がたまたま震災の少ない静穏期であったことに私たちの注意を喚起する。具体的には1948年の福井地震から1995年の阪神大震災まで日本は大きな震災を経験していない。それが偶然の産物にすぎないことは明らかだ。椹木も説くとおり、それ以前日本では大きな震災が頻発しており、特に敗戦をはさんで1943年から46年まで、鳥取、東南海、三河、昭和南海とマグニチュード7クラスの大震災が続々と発生していたが、戦時下という特殊な状況下でその被害は隠蔽されていた。そして95年の「西の大震災」から2011年の「東の大震災」までの10余年の間に各地で地震が頻発したことをさすがに私たちは記憶している。言い換えるならば日本の戦後復興、経済成長は敗戦後半世紀ほどの間、たまたま大震災が発生しなかったという地学的な理由に多くを負っており、かかる偶然をその下部構造として日本の戦後美術は展開されたのである。椹木は以上のような歴史的事実を前提として示したうえで、結果として日本の美術が盤石の大地の上に築かれた西欧の美術とは異質の営みではなかったかと問う。それでは西欧ではかかるカタストロフは存在しなかったのか。いくつかの例外がある。まず1755年のリスボン大地震であり、それに先立つ1347年のペストの大流行である。椹木はこれらの大厄災がヨーロッパに与えた影響を子細に検証し、その功罪を問う。この箇所はあたかも歴史書を読むかのようだ。
 続いて「日本・列島・美術」と題された章において、椹木は震災後、気仙沼のリアス・アーク美術館を訪ねた記憶から説き起こし、美術館という施設が震災に対していかに脆弱であるかを指摘した上で、興味深い類比を示す。すなわち美術館と原子力発電所の相似性である。いずれの施設も内部に未来にわたって保存、保管しなければならない対象を保有し、その管理を任されている。すなわち美術館にあっては作品であり、原子力発電所にあっては放射性廃棄物である。椹木は「収蔵庫のメルトダウン」なる刺激的な小見出しとともに、西欧においては動乱や盗難から作品を守るために開設された美術館という施設が、日本においては制度としてのみ導入され、天災に対する備えを決定的に欠いていることを指摘する。かつて勤務する美術館で「西の大震災」を経験した私にとってもこれはきわめて重要な指摘であるように感じた。現在、多くの美術館では年に数回、火災に対応した防災訓練が実施されている。しかし震災について定期的な訓練を行っている美術館施設を私は寡聞にて知らないし、おそらく対応マニュアルも存在しない。原子力発電所に対する津波同様に、美術館にとって震災ははじめからありえないことと想定されているのだ。さらに椹木が指摘するとおり、美術館の収蔵庫にとって空調機能は死活的に重要であり、そのためには膨大な電力を必要とする。電力が断たれれば、収蔵庫は原子炉同様「メルトダウン」を起こす訳であるし、エネルギーを生産する施設と消費する施設としての両者の対称性も興味深い。先に日本の美術館が震災への備えを欠いていると述べた。しかし皮肉にも被災したリアス・アーク美術館においては勤務する学芸員によって「事前に」震災と津波をテーマとする展覧会が開催されていた。しかしその展示に対する関心は驚くほど低かったという。椹木は日本において美術が震災を主題とすることがまれであった点を指摘し、本来であればそれは西欧において戦争や動乱を描いた絵画と同等の重要性を持つはずであったと説く。もし震災が繰り返されるこの列島において、震災が美術の主題とされるならばそれは「事前の記憶」という意味をもったはずだ。椹木は美術のみならず文学や歴史的文書を渉猟してこの点を検討したうえで日本においては被災の歴史が記憶されないと断じる。いうまでもなくそれは「悪い場所」という現実的なトポロジーに起因する。それでは「事後の記憶」はどうか。椹木は赤瀬川原平と東松照明という二人の作家を召喚し、同じ被災の体験、伊勢湾台風と結びつける。二人とも台風の被災という「事後の記憶」をもとに表現を一新し、独自の境地に達したという。詳しくは本書を参照していただくとして、このような「震美術」の発見も私にはきわめて刺激的な発想であるように感じられた。
 続いて再び美術館の問題が問われる。震災から二年後、椹木は再びリアス・アーク美術館を訪問する。先にも触れた展示を企画した学芸員たちが常設展示として企画した「東日本大震災の記録と津波の災害史」という展示に触れ、当事者が美術館において被災という事実をいかに表象するかという問題について思考が重ねられる。ここで試みられたキャプションの工夫などは興味深いが、私は別のことを考えた。前節で「津波てんでんこ」に触れて、明治の三陸大津波の際には一つの集落が全滅することがあったと記されている。証言者のいない記憶、私が直ちに連想したのはホロコーストの表象というアポリアである。このブログで幾度となく論じたとおり、ナチス・ドイツによるユダヤ人の絶滅政策においては収容所によっては収容されたユダヤ人がすべて殺されたケースがある。証人のない惨事、証拠のない出来事の表象は可能かという重い問題と津波による被災は直結しているのだ。そういえばホロコーストを「あまりに巨大すぎて地震計を破壊してしまう地震」にたとえたのはJ.F.リオタールであっただろうか。しかし津波には証拠が残る。椹木が「ものもの」とよぶ災害によって発生した廃物である。この問題についてはあとでもう一度立ち返ることにして、リアス・アーク美術館の展示に関して椹木は仙台で教鞭を執り、気仙沼にアトリエを構えようとしていたもの派の作家、高山登の作品との類似性、とりわけ前年に宮城県美術館で発表されたインスタレーションとの類似性について論じている。続く章では二人の写真家、畠山直哉と笹岡啓子の作品を通じて震災で一変した陸前高田の光景と椹木の故郷である秩父の風景が重ねられる。畠山は震災で実母を亡くしており、その後に制作された震災に取材した連作を私は東京都写真美術館で見た記憶がある。笹岡は私にとって未知の作家であるが、石灰石の採掘と各地の「海岸線」を主題とした二人の写真家の作品には地学的な共鳴が認められる。最後に問われる当事者性の問題は被災をめぐる議論の中では常に念頭に置かれるべき問題であろう。
 「溺れる世界と『ソラリスの海』」と題された章においてもいくつもの主題が論じられている。最初に言及されるのは美術館の展示室が水没するという学芸員にとって悪夢のような光景だ。これは虚構ではない。関係者の間ではよく知られた話であるが、1998年9月、豪雨のために高知県立美術館は浸水し、展示室も一メートルくらいまで水没した。続いて椹木は浸水ならざる親水、あるいは水没をキーワードに磯崎新の一連の建築を検証する。椹木によればかつて1970年の大阪万博の折りに磯崎によってお祭り広場に人工湖を造成し、そこでは気象も人工的に制御されるというプランが練られていたという。「ソラリス」とはいうまでもなく1972年にアンドレイ・タルコフスキーによって映画化されたスタニスワフ・レムのSF小説であり、その中にはソラリスという惑星の知性をもった海が登場した。人の無意識を実体化する海が建築家の無意識を反映したと考えることはたやすいが、さらに磯崎の出身地である大分には一夜にして別府湾に沈んだ瓜生島という島をめぐる伝説が存在するという。椹木はこの伝承を丁寧にたどり、史実の異化効果をめぐって地震学と民俗学が興味深い一致を示すことを論じる。磯崎はこの後、海市あるいは都市ソラリスといった水と深く関わるプロジェクトに関係し、2006年のオリンピック招致の際にも博多湾岸に施設を集積する「博多湾モデル」を提出した。磯崎の建築について水との関係という点から検討されたことは私が知る限り初めてであるが、確かに垂直ならざる水平性、ツリーならざるリゾームを提唱する磯崎の建築は本質において水との親和性が高いかもしれない。続く「七難の美術」と名付けられた章においては震災の後、美術界で話題になったいくつかの出来事が「震美術」という視点からとらえられる。まず2012年にカタールの首都ドーハで初めて公開された村上隆の《五百羅漢図》と、その凱旋展ともいうべき2016年、森美術館における「村上隆の五百羅漢図」展であり、村上にインスピレーションを与えた2011年、江戸東京博物館での狩野一信による「五百羅漢図」の公開である。なんという偶然であろうか、法然が遷化して800年となることを記念して企画された狩野一信の展覧会は3月15日に開幕する予定であり、内覧会を待つばかりの11日に東日本大震災が発生したため、展覧会の開催自体も危ぶまれたが、震災から49日後の4月29日に公開された。内覧会に先立って「東日本大震災物故者追悼法要」が営まれた会場は異様な雰囲気であったという。さらに驚くべきことには狩野一信がこれらの羅漢図を描いたのも安政東海地震と安政南海地震が一年のうちに発生する騒乱の中であった。村上が羅漢図を制作した経緯については本書に詳しいが、本書を読んで私がおおいに感心したのは村上の作品を先行する二つの作例と比較する発想の鮮やかさである。一人は藤田嗣治である。本書において「震災記録画」は「戦争記録画」と対比されており、先述のとおり、藤田が《アッツ島玉砕》といった凄惨な戦争記録画を制作していた太平洋戦争末期、日本国内ではマグニチュード7クラスの大震災が頻発していた。不幸な運命をたどったこの不世出の画家が戦前の比較的平穏な日本でのひととき、平野政吉の求めに応じて描いた壁画《秋田の行事》と岡本太郎が明らかに核惨事を意識して描き、震災の中でこのような悪夢が現実化したことを私たちが知るところの壁画《明日の神話》、そして村上の《五百羅漢図》といういずれも壁画スケールで極端に横長の大画面が図版として併置された時(416-417頁)、私は世代も作風も異なるこれら三つの才能がいずれも日本という「悪い場所」において「震美術」の刻印のもとにあることをまざまざと実感した。
 「七難」という名のとおり、本書においては震災に水害、台風に土石流、様々な災害についての言及がある。そして私たちが初めて出会った災厄が原子力災害であることはいうまでもない。「帰還困難地域の美術」と題された最終章では椹木自身が関わるプロジェクト「Don’t Follow the Wind」が紹介される。福島県の帰還困難区域に作品を設置し、したがって誰も見に行くことができない一種の概念性を帯びたこの展覧会については、私も昨年の横浜トリエンナーレでその片鱗に触れた。先に日本において震災を主題とした美術作品が極めて少ないと述べたが、私の漠然とした印象としては原子力災害に関してはこれまでいくつかの優れた表現を目にした覚えがある。何の展覧会の折であっただろうか、山川冬樹が東京都現代美術館で発表した映像作品に深い感銘を受けた。あらためて思うに、震災はカタストロフ自体が瞬時であって表現にはなじみにくい。これに対して原子力災害は私たちが持続的に直面すべき問題を提起する。皮肉にもこの災厄は日本の美術家たちに新しい表現の可能性を開いたといえるかもしれない。
 さて、今私は震災のカタストロフが瞬時であると述べた。しかしその後には多くの廃物が残される。先にも触れたとおり、椹木はそれらを「ものもの」と呼ぶ。もの派の高山登と関連してこの言葉が提起されていることから理解されるとおり、「ものもの」とは「もの」に対応している。椹木の言葉を引こう。「高山の活用する物体は、すでに60年代末の《地下動物園》の頃から、そのような意味の『もの』ではなかった。それは、主客の構造を『もの』を媒介して批評的に浮かび上がらせるというより、つねに環境と一体で主客未分の『ものもの』であり、身体的にも志向性のうえでもその内部へと意図して進んでゆくことができる空間の器であった」この言葉はリアス・アーク美術館における被災物の展示に触れる中で発せられており、「ものもの」とは文字通り主客未分化の廃物のアマルガムであることが理解されよう。例えばオブジェという言葉が象徴的に示す通り、西欧における美術は対象、あるいは客体として主体の外に存在する。これに対して震災の被災物は別の在り方を示している。椹木は「被災物には安易な解説など寄せつけない強靭な即物性が備わっている。というよりも、強固な『即物性』そのものである」と述べている。私はこのような即物性への関心が日本の戦後美術において別の文脈で語られていたことを思い出した。次の言葉である。「ここに興味のあることは過去の美術品や建築物の時代の損傷や災害による破壊の姿に見られる現代的な美しさだ。これらは頽廃の美としてとりあつかわれているけれど、案外人工の粉飾のかげから本来の物質の性質が露呈しはじめた美しさではないか。廃墟が案外に温かく親しみ深く我々を迎え入れ、さまざまな亀裂や剥だつの美しさをもって語りかけることは物質が本来の生命をとりかえした復讐の姿かもしれない」誰の言葉かおわかりだろうか。これは1956年に発表された「具体美術宣言」の中の一節である。具体美術宣言といえば精神と物質が対立したまま握手している云々の箇所が常に引用されるが、実はこのような独特の物質観も表明している。このパッセージに続いて、ポロックやマチウへの共感が語られているから、かかる物質観は具体美術協会、吉原治良の美学の根幹に関わっている。具体美術協会と震美術、これは興味深いテーマではないか。そしてリーダーである吉原が本書の主題に連なるとすれば、それはまず1938年に発生した阪神大水害と関わっているだろう。吉原が居住していた精道村(現芦屋市)でも多大の被害が出ていたことが記録されている。あるいは具体美術宣言が発表された同じ年、ライフ誌の取材に応じて開催された一日だけの野外展の会場が武庫川河口の戦災による廃墟であったことを想起してもよかろう。「震美術論」は天災を主題としているため、被爆以外に戦災に関する記述は少ないが、震災や噴火同様に空襲や爆撃による壊滅的状況も「ものもの」の顕在化としてとらえる時、吉原そして具体の作家たちがなぜかかる対象に関心をもったかは私にはおおいに興味深く感じられる。それというのも以前より私は日本の戦後美術には西欧では顧みられることのまれであった二つの主題の系列が脈々と保持されているように感じていたからだ。すなわち身体と物質であり、具体美術協会にはじまり、読売アンデパンダン展周辺の作家、そしてもの派からポスト・モダンにいたる日本の戦後美術の中にこれらの系譜をたどることはたやすい。とりわけ西欧とは根本的に異なる物質観について、私はそれが何に由来するのか以前より気になっていたが、なるほど「震美術」は一つの説得的な仮説である。日本美術における物質観が繰り返される天災と不可分であったとするならば、美術に永続性を求める西欧の美術史と異なった問題意識が発生したとしても不思議ではない。ここからさらに連想するのはこのブログでレヴューした飯島洋一の「建築と歴史」において論じられた日本の建築における「複数の起源」という問題だ。「『戦災』から『震災』まで」というサブタイトルを持つ飯島の著作への言及はないが(参考文献には「建築と歴史」ではなく「破局論」が挙げられている)、私はこの二つの著作が日本の建築や美術に関して、多くの共通点を有しているように感じる。
 建築という話題に接した以上、最後に私は本書を読んで戦慄した一つの思いについて触れずにはおれない。「ゼロメートル地帯の美術館」という小見出しが付された章で椹木は東京都現代美術館と国立国際美術館がいずれも大規模水害によって水没する可能性について触れている。以前、『ゲンロン』の「脱戦後美術」という特集の中で同様の指摘がなされていたことを覚えていたのであらためて確認したところ、やはり椹木の発言であった。以前東京都現代美術館を訪れた際に学芸員から館内に防潮壁の存在を知らされて驚いた記憶があるし、国立国際美術館にいたっては中之島の中州の地下に建設されていることは周知の事実だ。私は以前より地下ないし高層に建設された美術館が好きではなかった。地下や高層とは本来人が住むべき場所ではないように美術作品も所在すべき場ではない。東日本大震災において被災美術品の修復作業がしばしば注目を浴びる一方で、実際の作品の被害については一種のタブーであって、語られることが少ない。しかし超高層に設置された森美術館、あるいは川の中州を掘って造成された国立国際美術館が大きな地震、あるいは大規模水害に襲われることはありえないどころか、下手をすれば私が生きているうちに見ることとなる光景であり、その被害は想像を絶する。常設展や収蔵品をもたない前者であれば被害は少ない場合もありうる。しかしピカソやセザンヌの名品を所蔵する後者が水没することは人類にとっての損失といってもよかろう。先に述べたとおり、私はかつて「西の大震災」の際に被災した美術館に勤務していた。粉々になった窓ガラスや弾け飛んだ彫刻台。私が目撃し、学芸員としての仕事を続けるうえでトラウマとなった光景もまた一つの「事前の記憶」であり、「二度とあってはならない」ことは「必ずまた繰り返される」だろう。かつてリアス・アーク美術館の学芸員によって予言された事態が数年のうちに到来したように、椹木の危惧が現実のものとなることを私はほぼ確信している。日本という「悪い場所」に建設された美術館は、オリンピックを当て込んだ観光客誘致に浮かれる前に、文字通り自分たちの拠って立つ場を確認する必要があるのではないだろうか。美術館のダブル、原子力発電所は大津波をありえないものとして排除したためにあれほどの惨事を引き起こした。ひるがえってありえないものを想像することこそが美術の、そして美術館の本質であったはずだ。
by gravity97 | 2018-02-03 21:47 | 現代美術 | Comments(0)