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 国立国際美術館で開催中の「福岡道雄 つくらない彫刻家」を訪れる。Michio FukuokaA Sculptor Who No Longer Sculpts という英文タイトルは秀逸だ。なんともとらえどころのない作家の代表作を網羅した充実した展示であった。このような展示が国立美術館で開催されたことは画期的であるが、国立館こそこのような展示を企画すべきであるようにも思う。いずれにせよ必見の展覧会といえよう。

 私は長く関西で生活したから福岡の新作の発表に何度も立ち会った。それどころか企画した小さな展覧会に出品を依頼したことさえある。80年代以降、関西の現代美術に関わった者であれば、この小柄で無口な作家の醸し出す独特の存在感を誰でも知っているだろう。それにも関わらずこれまでその仕事を紹介するまとまった展示がなかったことは、おそらく作品の本質と深く関わっている。近年、私が福岡の作品をまとめて見た機会は、このブログでもレヴューした2014年の森村泰昌をディレクターに迎えての横浜トリエンナーレであったが、その機会にまとめて展示されたピンク・バルーンはおそらく関東圏の観客にとってほとんどなじみのない作品であったのではなかろうか。私でさえ初期の作品、70年代の具象的要素の強い作品を今回初めて実見した。福岡はエッセーの名手としても知られており、今回カタログに再録にされた文章も詩的な喚起力に満ちた内容が多い。しかし残念ながら私はそれらをまとめて読んだことがない。作家についての予備知識があまりない状態で以下のレヴューを記していることをあらかじめお断りしておく。

 展示はクロノロジカルに構成されているから作品の流れを追うことはさほど難しくない。展示は1950年代中盤の「SAND」と呼ばれる連作からスタートする。私は初めて見た。タイトルのとおり、海辺で砂の中に手を突っ込んでできた空隙に石膏を流しこむ手法によっていわばオートマティックに制作された作品群である。石膏は原型ではなく、最終的な素材として使用され、当然ながら残っている作品は少ない。作品の印象としては不定形のジャンク彫刻である。廃物ないし何かの動物の死体を連想させる形状は同時代のデヴィッド・スミスや毛利武士郎の一連の作品、そして60年代に読売アンデパンダン展周辺で量産されたジャンク・アートを彷彿とさせないでもない。福岡は大阪市立美術研究所で今村輝久や保田龍門に師事したとのことであるが、当時の関西においてはこれらが異物とみなされたことも容易に想像がつく。すでにこの時点で福岡に通常の「彫刻」を制作する意志がなかったことは明らかだ。私はこのようなラディカリズムが何に由来するかという点におおいに興味がある。時期的には同じ関西で具体美術協会が活動を世界へと広げていた時期に当たる。福岡が彼らをどのように見ていたかも尋ねてみたいところだ。いずれにせよ、活動の当初から作家が一種の「彫刻ならざる彫刻」を志向していたことは明らかである。展覧会企画者はそれを「反」彫刻と呼ぶ。後年の作品を想起するならば、わからないでもないが、私の印象はやや異なる。「反」と「つくらない」の間の距離といおうか、少なくとも作家は「反」であることを自らの作品の推力にしたようには感じられないのだ。続いて1960年代初頭、一連の棒状の作品が制作される。廃品を棒に巻いて溶かしたポリエチレンで固めた作品だ。福岡自身は次のように語っている。「彫刻の台座を拒否し、中心のない、あるいは無数に中心がある彫刻、そういうものを作りたかった。(中略)日常の生活の中に彫刻するという習慣を組み込むこと。毎日、大きな袋を肩からぶらさげて、道端に落ちているものを手当たり次第に拾い集めて、翌日それらを棒にくっつけることが僕に与えられた仕事であり、日課であった」興味深いことに今引用した短いパッセージの中に当時、そして来たるべき美術の理念のいくつかが明確に示されている。例えば冒頭の台座なき彫刻という概念から60年代のミニマル・アートを連想することはたやすいし、中心の喪失あるいは複数の中心という言葉からはオールオーバーあるいはノン・リレーショナルという構造が想起されよう。同様に手あたり次第の集積からはラウシェンバーグのコンバイン・ペインティングが、仕事あるいは日課としての制作という態度からはタスクとしての制作として、やはりミニマリズムやコンセプチュアル・アートも連想されよう。ポリエチレンを使用する際のガスの影響で健康を害した福岡は続いてよく知られたピンク・バルーンを制作する。カタログの表紙にもその図版が使用されている。今回の展示をめぐって私はこれら二つの作品、すなわち直立する棒状の作品とピンク・バルーンが形状においてエヴァ・ヘスの作品ときわめて近しいことに驚いた。もちろん時期的には福岡の方が早いし、両者を結ぶ現実的な関係はありえない。しかし有機的な形状、重力への関心、可塑的な素材の使用といった点で両者は共通し、いかにして彫刻を否定するかという問題意識において表現が一致したことがうかがえる。しかし福岡の関心は単に彫刻を相対化することにとどまらない。展示の中で私は初めて気づいたのだが、福岡は中原佑介が1963年に内科画廊で企画した「不在の部屋」に立体ではなく素描を出品している。「僕の素描はいつも白い紙に、何も描かれていないに等しい。点のような小さな丸とか、描きたいのか、描きたくないのか、わからないような弱々しい線が描かれているだけのデッサンなのである」これらのドローイングはほどなくして「何もすることがない」という言葉が延々と繰り返される一連の作品に発展し、同じモティーフはしばらく後になって、「彫刻」の中に回帰する。その直前、1970年前後に福岡は蛾や髑髏といった具体的な指示対象をもつ作品を多くFRPで制作している。ただしこの時期の作品は展示の中でもやや強度に欠ける。何よりもそれらのモティーフが選ばれた必然性が判然としないのだ。私は福岡の作品の本質は一種の徹底性にあると思う。これらの作品にそこまでの徹底性は認められない。

 続く一連の「風景彫刻」で福岡は新しい境地に達する。それは多く作者の小さな像を含む風景をFRPで写しとった奇妙な彫刻だ。例えば1976年に《石を投げる》という作品が制作されているが、カタログには実際に池に向かって石を投げる作者の写真も収録されており、「風景彫刻」に水際をかたどった作品が多いのはおそらく作家が好んだ鮒釣りの情景に由来することが推測される。私は福岡における行為と作品との関係が気になる。後述する文字を刻んだ「彫刻」も含めて福岡の作品には多く徒労とも感じられる作家の行為が濃厚に刻まれている場合が多い。カタログには60年代後半のフィルム作品として梅田から難波までチョークで道に線を引く作家の姿が収められている。回顧展であるならばウォルター・デ・マリアを連想させるこのような作品について、もう少し詳細な説明がほしかったと思うが、それはともかくなぜ「風景画」はあっても「風景彫刻」はありえないのか。私は縮尺の問題ではないかと考える。絵画にとって描かれた対象と描かれたイメージの関係はサイズにおいて非関与的である。対象を縮小したとしても時に拡大したとしても、肖像であろうが風景であろうが同一のものとして認知される。しかし彫刻においてサイズは関与的な要素であり、同寸大として制作されることによって作品はモデルとの関係を固める場合が多い。この時、「風景彫刻」はありえないだろう。風景と同じ縮尺で作品を制作することは、ボルヘスが「学問の厳密さ」という短編の中で言及した同寸大の地図製作の寓話を想起するまでもなくナンセンスである。しかし福岡はそこに自らの身体を挿入することによって作品と風景のサイズを調停する。逆にそこに人の姿がかたどられるから、私たちは水面の波や土地の起伏が彫刻としてかたどられていることをかろうじて知るのである。縮尺としての身体という発想は興味深い。阪神大震災の直前に福岡は自分の身長と同じ内のりの木箱を作品として発表する。この直方体の木箱は床置きされ、カタログに収められた写真にはその中に収まる作家の姿も写っていることから推測されるとおり、端的に棺の暗喩である。同様の作品をロバート・モリスも制作しているが、モリスの身長に合わせて内のりが定められた《Box for Standing》は直立して設置されるため、死や棺といったコノテーションを免れている。垂直と水平という主題も福岡の仕事を論じる際に一つの補助線となろう。初期の棒状の作品、そしてピンク・バルーンは明らかに垂直のベクトルを有していた。これに対して一連の波の彫刻は水平性を原理としている。そしてやがて水面の風景からは作家の姿が消え、波のみが残される。ここで注意すべきは、私たちがFRPの表面に刻まれた起伏を波と認識するのは、かつてそこに釣りをする人物が一緒にかたどられていたからである。1980年前後に制作された人の姿を欠いた波の彫刻はその存在感において、展示の中でも、そして福岡の仕事においても一つの頂点をかたちづくっているが、作家はこれらのミニマリズムにも通じる作品を最終的な目標にしていた訳ではない。なぜなら時を置かずして作品の中に作家の姿が戻ってくるからだ。石を投げ、穴を掘り、地面に「反」という字を描く作家の姿は象徴的である。作家は常になんらかの作業をしている。先に「日常の生活の中に彫刻するという習慣を組み込むこと」という作家の言葉を引いた。ここで彫刻ではなく、彫刻するという動詞が用いられていることに注意しよう。福岡にとって彫刻とは制作の結果ではなくて作業なのだ。水面の波をかたどった彫刻を想起するならば、かかる行為はしばしば単純な行為の繰り返しを伴うはずだ。そもそも私たちの日常そのものが繰り返しではないか。同じ発想からは例えばアンディ・ウォーホルは一連の作品を制作した。寡黙な作品であるにもかかわらず、福岡の作品の含意はかくのごとく深い。

 カタログを参照するならば2000年頃から福岡は黒いFRPの板の上に電動彫刻刀で同じ言葉を延々と繰り返す一連の仕事を始める。この原型とも呼ぶべき作品が1960年代の中盤にすでに制作されていたことについては触れた。「何もすることがない」「何をしても仕様がない」「何をしていいのかわからない」「僕達は本当に怯えなくてよいのでしょうか」なんとも答えようのない、しばしば問いかけの文章が小さな字でびっしりと書き込まれたFRPの巨大なタブレットを前に私たちは大きな戸惑いを覚える。数字を延々とカンヴァスに描き込むローマン・オパルカの作品が直ちに連想されようが、オパルカにみられた規則性、あるいは合理性はここには認められない。ここでも縮尺としての身体が介在する。文字の大きさ、単純な繰り返しという構造から私たちが連想するのは学校で課せられる書き取りの宿題だ。行為の無意味さ、そしてそもそも書き取りという訓練から私はスタンリー・キューブリックの「シャイニング」の中で狂気に冒されたジャック・ニコルソンが延々とタイプを続けた「All Work and No Play Makes Jack a dull boy」のフレーズを連想した。その一方、黒い平面の上に言葉が一つのユニットとして同じ間隔で限りなく連ねられる様子からは一つの情景が連想されないだろうか。いうまでもなく打ち寄せる波であり、波の連作と文字を刻んだ彫刻は形式的に類似している。ここでも水平と垂直という対比を導入するならば興味深い問題が発生する。波の水平に対して、文字は垂直の状態で私たちに供せられる。ここにフロイト/クラウス的な自然と文化の対比を認めるのは強引すぎるだろうか。私がなおも結論に達していないのはこれらの文字の連なりを絵画として認識することの可否である。私は垂直に設置されたこれらの連作は絵画として相当の強度を有しているように直感的に感じた。しかしこの認識は絵画の条件へと遡及する問題であり、ここで安易に結論を出すべきではなかろう。これらを絵画でとみなしうるか、私は今も考え続けている。

 私の迷いを一蹴するかのように今世紀に入っても福岡は問題作の発表を続ける。この作家にとって具象とか抽象とかいった区別が意味をもたないことはすでに自明であったとはいえ、人を食ったような三つの主題にもとづいた作品が発表された。すなわち「腐ったきんたま」「蚯蚓(みみず)」そして「つぶ」だ。いずれも不定形の形状の彫刻であり、私は一連の抽象的な作品で一つの作風を確立した作家がこの期に及んできわめて具象的、それも相当に下品なコノテーションを帯びた作品を発表したことにこの作家らしい感銘を覚えた。今、不定形と述べたが「きんたま」や「蚯蚓」はまさにバタイユ的なアンフォルムの概念を差し示していることも忘れるべきではない。2000年以後、カタログの略歴には次の二つの項目しか記されていない。すなわち、「2005年 つくらない彫刻家を宣言。以後、制作を断つ」「2012年 二週間だけ制作を再開。〈つぶ〉が生まれる」200512月、福岡は信濃橋画廊で「福岡道雄 腐ったきんたま」を開き、この折に「今回の個展を最後の発表とする」ことを宣言し、以後は「つくらない彫刻家」となることを言明したという。「つくらない彫刻家」から誰もが連想するのはマルセル・デュシャンであろうし、人によっては晩年の瀧口修造かもしれない。福岡は「最後の彫刻」となった「つぶ」について、「僕の彫刻は、はからずもといおうか、ついにといおうか、『つぶ』になった」と記している。味読すべき一文であり、私は極小の「彫刻」から今年東京とロンドンでみたジャコメッティをかすかに連想した。

 いつもにも増してとりとめのないレヴューとなり、それでも書き足りないことは多い。おそらくそれは福岡の作品の本質に由来するだろうからあえて結論めいたことは書かない。冒頭に記したとおり、まことにとらえどころのない驚嘆すべき彫刻家の仕事を作家の存命中にこれほどの規模で概観しえたことは私たちにとっても、そしておそらくは遠からず彫刻することを再開するであろう作家にとっても得難い機会であったといえよう。


by gravity97 | 2017-11-24 16:23 | 展覧会 | Comments(0)

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 ハルキ文庫に収録された小松左京の「果しなき流れの果に」を読む。小松左京の読書体験については微妙な問題がある。小松左京と星新一、そして筒井康隆は私が最初に読んだ大人向きの小説であった。小学校高学年の頃だ。例えば私は「日本沈没」を発売と同時に読んだ記憶がある。日本SFの最初の黄金期といってよいだろう。実際に書庫で確認するならば、私は当時ハヤカワ文庫と新潮文庫に収められていた小松左京の小説をほとんど所有しているから、疑いなくそれらの小説を通読していたはずだ。当時文庫化されていなかった「復活の日」を単行本で読んだことについては明確な記憶があるし、亡き祖父が生頼範義によるカバーに使用されている彫刻がミケランジェロの《奴隷》であると教えてくれたことさえ覚えている。しかし蔵書のラインナップには奇妙な欠落がある。初期の代表作のうち「果しなき流れの果に」と「継ぐのは誰か?」の二冊が見当たらない。私はいずれもハヤカワ文庫に収められていたことを記憶しており、裏表紙に記されたこれらの小説のシノプシスもおぼろげに浮かぶから、おそらく一度は買い求めていたのではないかと思う。しかしこの二冊については通読した明確な記憶がない。数年前に私はやはり現在ハルキ文庫に収録されている「継ぐのは誰か?」を通読し、そして今回「果しなき流れの果に」を読み返した。ハルキ文庫版の解説の冒頭に大原まり子が記すとおり、この小説が1965年という時点で執筆されていたことにあらためて驚く。それから半世紀が経った。しかし本書は今日においても全く古びていない。(ちなみに大原の解説はこの小説がハルキ文庫に収録された1997年、執筆から32年後に書かれているが、それから20年経った今でさえ私は同じ感慨を抱く)私の知る限り、現在も発表当時の新鮮さが衰えないもう一つの稀有の作品はスタンリー・キューブリックの1968年のフィルム「2001年宇宙の旅」である。キューブリックの描いた宇宙旅行は今日においても新鮮であり、「ゼロ・グラビティ」から「エイリアン・コヴェナント」まで、宇宙旅行のイメージはいまだにそのイメージの圏域に留められている。熱心なSFの読み手ではない私でさえ「果てしなき流れの果に」の影響を受けたと思しきSFを列挙することはたやすい。このようなとんでもないSFが半世紀前に日本語で書かれたことを私たちは誇りに思ってよいのではないだろうか。

 これから読む読者の興趣を殺がない程度に内容に立ち入ることにしよう。プロローグには蘇鉄が密生する森林の中、剣竜とティラノザウルスが死闘を繰り広げる太古の地球の情景が描かれる。今挙げた「2001年宇宙の旅」の冒頭を想起させないでもない始原の光景を一瞬点描した後、物語は本書が執筆された時代と同じ、1960年代の関西へと舞台を移す。N大学理論物理研究所の助手、野々村は上司の大泉教授に呼び出され、史学を講ずる番匠谷といういわくありげな教授と引き合わせられる。番匠谷は中生代白亜紀の地層の中から出土したという「砂時計」を示すが、その砂時計は上から下に永遠に砂の落ち続ける、ありえない砂時計であった。このような魅力的な冒頭からは直ちにいくつかのSFが連想される。例えば本書の10年ほど後に発表されたイギリスのバリントン・J・ベイリーの「時間衝突」。本書と同様、波乱万丈の時間SFである「時間衝突」も主人公の考古学者のもとに「時間が経つにつれて新しくなる遺跡」の写真が届けられることから始まる。考えてみるならば、常識的に説明不可能な何かが発見されることによって起動するSFは数多い。例えばジェイムス・P・ホーガンの「星を継ぐ者」は月面で宇宙服を来た人類の遺骸が発見されたことから始まる。(余談となるが、私はこの設定と半村良の「産霊山秘録」中の「月面髑髏人」とのあまりの類似に驚くが、偶然としか考えられない)あるいは「過去に通じる通路」の発見とともに始まるスティーヴン・キングの「22/11/63」はどうだ。もちろん「果しなき流れの果に」がこれらの作品に直接の影響を与えたとは考えられないが、そうであってもなんら不思議がないほどの本格SFとしての風格を本書は宿している。このような小説が1960年代に発表されたことはやはり一つの奇跡と呼んで差し支えないだろう。

 さらに驚くべきことには、本書は当時のSFが主題化したいくつものトピックを軽々と重ね合わせている。本書は二部に分かれ、二つのエピローグをもつ。前半は今述べたとおり、砂が永遠に落下し続ける砂時計の発見をめぐる現代、執筆時と同じ20世紀中盤の物語であるが、後半にいたるや時代はそれから100年以上経過し、登場人物は軌道エレベーターで宇宙空間へと上昇していく。このレヴューを執筆するにあたって「軌道エレベーター」をウィキペディアで調べてみたが、おそらくこの小説は、今日ではウィキペディアで検索可能な程度に知られたこのような装置に言及された最初の例ではないだろうか。軌道エレベーターという発想から私は直ちにこのブログで論じた村上龍の「歌うクジラ」の終盤の場面を連想したが、SFの領域でかかる装置が導入された最初はアーサー・C・クラークが1979年に発表した「楽園の泉」であるという。散りばめられた未来的なガジェットばかりではない。第二部を読み始めると、私たちはこの小説が未来における二つの勢力の葛藤を主題としていることを理解する。かかる勢力は人間の理解をはるかに凌駕した存在であり、おそらくは未来人である。人類を超えた存在という主題からはやはりこのブログで論じたクラークの「地球幼年期の終わり」がたやすく連想されよう。21世紀の地球は大きな災厄に見舞われようとしていた。太陽の異常活動によって放射線が地上に降り注ぎ、生物が死滅する破局が近づいていたのだ。世界連邦の指導のもとに多くの人類はシェルターに避難し、一握りの優秀な人々はさらに遠く火星に逃れようとしていた。いうまでもなくこのような設定は破滅SFのそれだ。小松は1972年に生物兵器による人類の死滅と再生を描いた破滅SFの傑作「復活の日」を発表している。人類を超越した存在、世界の破滅、これらの主題は黄金時代のアメリカSFが好んだ主題である。この小説からは日本という場で先行するアメリカのSFの設定に新たな観点から挑戦しようという野心がうかがえる。そして最初に述べた通り、この小説はクラークやジョン・ウィンダムと比べても決して遜色がない。それどころかここには小松自身がこれ以後の小説の中で深めていく主題がいわば原石のままで贅沢に散りばめられている印象だ。あらためて驚いたのであるが、この小説の中にはヤップという民族が登場する。21世紀の半ば、思いもかけぬ大地震と地質変動で祖国が海底に沈み、それ以後漂泊の民族となった彼らは「君が代」を斉唱しつつ見知らぬ星系に旅立っていく。ヤップ、つまり日本人の運命はベストセラーとなった「日本沈没」の構想を正確に予告している。あるいは人を超えた存在についての執拗な問いかけは「継ぐのは誰か?」に始まり、多くの短編、そして遺作となった「虚無回廊」においても繰り返される。作家は処女作を超えることができないとしばしば言われる。「果しなき流れの果に」は小松にとって長編の処女作であるが、確かにこの作品にはそれ以後の小松の作品のエッセンスがぎっしりと詰め込まれている。

 本書を特徴づけるのは語り急ぐかのような場面転換の激しさである。白亜紀の恐竜の戦いに始まり、現代の大阪、そして未来の地球。未来人によって別の時間相の地球に拉致された科学者たちは石槍を手にした原始人たちによって直ちに惨殺される。もし小学校高学年の私が本書を通読できなかったとしたら、それはおそらくかかる荒唐無稽さに小学生でさえついていくことができなかったからではないかと今になって思う。確かに荒唐無稽であるが、このような小説の類型に対しては、今日ではワイドスクリーン・バロックという名が与えられている。やはりウィキペディアを参照するならば、ワイドスクリーン・バロックとはブライアン・オールディスによって提唱されたSFの一類型であり、「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」な小説のことであるという。この定義自体は1980年に発表されているが、その15年前に発表された「果てしなき流れの果に」への完璧な注釈といえるのではないだろうか。白亜紀から未来世界という広大な時間の広がり、冥王星の衛星ケルベルスから鯨座タウにいたる広大な宇宙の広がり、私は何よりもかかる広漠とした時間と空間を対象に物語を紡ごうとした作家の野心の気宇壮大に感銘を受ける。それはアメリカSFの黄金時代の残照を受け、日本のSF作家たちが新しい野望に燃える、いわば日本SFの青春において唯一可能であった志であったかもしれない。本書において小松はやや語り急いでいる印象がある。後続する小説の中で、作家は本書で提起された問題をあらためて様々な角度から深めていくが、博覧強記をもって知られる小松でさえ、さすがにこの時点でこれほどのテーマに見合った表現を与えることは困難であっただろう。本書の終盤で物語は著しく抽象化される。(もしかするとそれもかつて本書を読み通せなかった理由かもしれない)このあたりの心境を今回のハルキ文庫に付された初版のあとがきの中で小松は次のように述懐している。「書けば書くほど、どうにもならないほど気が滅入り、(連載の)四、五回ごろには、連載を放棄しようかとさえ思うようになりました」「(苦しみ抜いて脱稿した直後に)そのままベッドの上にぶったおれて、美しく開けて行く夏の朝を呆然とながめているうちに、いつかもう一度、この主題について書こう、今度はもっと慎重に、もっと十分に準備して、体力や気力も充実させて、今度こそ、何一つ書きもらすことなく書いてやろう、という気が起こってきました。―その時はじめて、本当に、SFというものが全身でぶつかって行ってもいいほど、やりがいのある仕事かもしれない、という気がしてきました」しかし本書は放棄されかけた小説、準備の足りない小説ではない。それどころか小松の代表作に数えられるべき傑作である。未読の読者のために言い添えるならば、作家が苦しみぬいたにも関わらず、本書の読後感、とりわけエピローグは美しく、私たちの胸をうつ。大原まり子も解説に書いているとおり、小松の短編にはきわめて抒情的で私的な印象を残す作品がいくつか存在する。本書はその最初のきらめきであるかのようだ。

 私が本書を再読しようとしたきっかけは書店の店頭でハヤカワ文庫から最近発行された「日本SF傑作選2 小松左京」を目にしたからである。この傑作選はすでに筒井康隆の巻も刊行され(編者によれば、初巻としては当初星新一を予定していたが、今も多くの作品の版権を新潮社が保持しているために実現できなかったらしい)今後も隔月で刊行されるということである。小松については「地には平和を」や「物体O」といったいくつかの短編とともに長編「継ぐのは誰か?」が収録されている。このシリーズには続くラインナップとして平井和正や半村良も予定されており、70年代の日本のSFの充実を知るうえで格好のアンソロジーとなるだろう。小松の小説も一時入手が困難であったが、幸いにも現在では代表作はほぼハルキ文庫に網羅されている。この傑作選の刊行を機に日本のSFの最初の黄金期に再び光が当てられることを望みたい。


by gravity97 | 2017-11-11 09:57 | エンターテインメント | Comments(0)

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by gravity97 | 2017-11-09 20:48 | BOOKSHELF | Comments(0)