アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』

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1921年、22歳のアーネスト・ヘミングウェイは結婚したばかりの8歳年上の妻ハドリーとともにパリに渡る。この時から1928年、フロリダ州キーウエストに居を移すまでのおよそ10年間、パリの修業時代をつづった回想が本書である。この間、23年の後半に長男バンビ出産のためにハドリーとともにカナダに戻った以外、作家はパリで濃密な時間を過ごす。若い頃パリで過ごせば、パリはその後の人生についてくる。パリは移動祝祭日なのだという本書のエピグラフは象徴的だ。この時期、ヘミングウェイの人生は波乱にも富んでいた。多くの芸術家との交流については後述するとして、私生活の面でも当初の熱愛ぶりがいくつかの章からうかがえるハドリーとの関係は次第に冷え、代わって1925年に知り合った『ヴォーグ』誌の記者、ポーリーン・ファイファーと深い仲になる。1927年にハドリーとの離婚が成立し、ハドリーはバンビとともにニューヨークに発つ。同じ年にヘミングウェイはポーリーンと再婚しているから、ヘミングウェイのパリ時代は最初の妻ハドリーと過ごした6年ほどの歳月と正確に符合している。

 この時期、ヘミングウェイは短編集「われらの時代」を刊行し、「日はまた昇る」の執筆を続けている。20代の作家がまさに世に出て行こうとする希望の時、ほかならぬ1920年代のパリで得た多くの邂逅と体験は今読んでもみずみずしい。例えばこんな具合だ。

そこは暖かくて、清潔で心なごむ、快適なカフェだった。私は着古したレインコートをコート掛けにかけて乾かし、くたびれて色褪せたフェルト帽を長椅子の上の帽子かけにかけてからカフェ・オ・レを頼んだ。ウェイターがそれを運んでくると、上着のポケットからノートをとりだし、鉛筆も用意して、書きはじめた。(中略)その作品の中では登場する少年たちが酒を飲んでいて、私も喉が渇き、ラム酒のセント・ジェームズを注文した。寒い日にはこれが素晴らしくうまい。私はさらに書きつづけた。とてもいい気分で、上質なマルティニーク産のラム酒が身心に温かくしみとおっていくのがわかった。

 冬空の下、パリのカフェで執筆に勤しむヘミングウェイの姿が浮かび上がってくるようである。この時期、ヘミングウェイはカナダをはじめ、いくつかの国の新聞社と契約をして記事を送っていた。まだ作家として定期的に文芸誌から注文を受けるほどには認められていなかったから、新聞社の通信員を務めながら小説の執筆にあたっていたことが読み取れる。この回想録の中で作家は自分たちが貧乏であったことを強調しようとしており、それは例えば「空腹はよき修業」といった章のタイトルからもうかがえる。しかしカフェでラム酒を飲み、妻とともに競馬に足繁く通う作家が貧乏であったとは考えにくい。本書には訳者の高見浩による詳細な解説が付されているが、それによれば近年の評伝が明かすところでは当時ヘミングウェイ夫妻は決して貧乏ではなく、むしろ裕福な部類に属し、しかも妻ハドリーの実家からの援助に負うところが多かったという。もちろん当時ドルが強かったことも背景にある。しかし重要な点は彼らが決してパリで裕福な暮らしをしようとしなかった点である。それは吝嗇ではなく、異郷にあって貧しくとも夫婦が愛し合いながら修業時代を送るというロマンティックなイメージに二人が浸っていたことを暗示している。それが一種の虚構にすぎないことは高見も指摘するとおりであるが、作家の自伝的回想が虚構と紙一重であることもまた周知の事実であろう。ヘミングウェイが送った享楽的な生活には相当の資産が必要であったはずだ。後述するとおり、巻末の章で彼は「リッチな連中」への激しい敵意を記しているが、彼と同様にアメリカに出自をもちパリに暮らす資産家たちへのアンヴィバレンツな思いは本書のいたるところに見出すことができる。

 それにしても1920年代のパリとはなんという場所であっただろう。ガートルード・スタインのサロンにはピカソやホアン・グリスが集い、エズラ・パウンドやパスキンとの交流には一つの章があてられている。そのほかにも私が知らない各界の名士たちの名前が綺羅星のように記されている。偶然にも様々な才能が一つの場所に結集するという奇跡的な瞬間が歴史には存在するが、1920年のパリは疑いようなくそのような場であった。文中に初対面のヘミングウェイにツルゲーネフやロレンスを惜しみなく貸し与えたシルヴィア・ビーチなる女性が営むシェイクスピア書店なる書店兼図書室が登場するが、この書店こそ大手出版社から出版を断られていたジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」を刊行した書肆であった。この時代、パリではキュビスムが花開き、「ユリシーズ」が刊行され、(本書中には関連する記述がないが)ディアギレフがしばしばバレエ・リュスの公演を行っていたのである。ジャンルを超えて諸芸術が沸騰していた感がある。さて、ヘミングウェイらはしばしば「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる。「日はまた昇る」のエピグラフとしても用いられる言葉であるが、私はこれまで何が「失われた」のか特に意識することがなかった。この言葉については「ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ」というフランス語読みの表題とともに一章が割かれている。ガートルード・スタインによって発せられたことが知られるこの言葉は実はスタインの知り合いの自動車整備工場の主人の発言に由来する。本書ではスタインの次の言葉が引かれている。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」自堕落な世代という言葉にロスト・ジェネレーションというルビがふられている。狭義では第一次大戦後パリで活躍したアメリカ人たちを指すこの言葉に「自堕落な」という含意があることを私は初めて知った。確かに本書で粗描される大戦間のパリでセックスやドラッグ、飲酒に明け暮れるヘミングウェイらの群像には「自堕落な」という言葉がふさわしいかもしれない。しかし最初の世界大戦によって旧来の価値観が崩壊した後の自分たちの生き様をへミングウェイ本人が必ずしも否定していないこともまた明らかであるといえよう。

 本書に多くの奇矯な人物が登場するが、ヘミングウェイが最も深い関心をもって描いている人物は、同様にロスト・ジェネレーションを代表する作家の一人、スコット・フィッツジェラルドであろう。フィッツジェラルドの名が与えられた章は本書の中でも最も長く、ディンゴ・バーでの奇妙な出会いから行き違いが続出する二人でのリヨン旅行まで様々なエピソードが語られ、当然ながらスコットの妻、ゼルダにも触れられる。彼らの型破りのふるまいにはさすがのヘミングウェイもしばしば当惑する。先に述べたとおり、「われらの時代」を発表し、「日はまた昇る」を執筆中のヘミングウェイは作家として着実に地歩を固めつつあった。これに対して「グレイト・ギャツビー」が一部で高い評価を受けたとはいえ、次の小説の執筆に難渋していたフィッツジェラルドは苦悩していたはずだ。両者の関係は時に緊張を交え、たとえば執筆中の「日はまた昇る」の草稿の朗読をめぐる両者の葛藤などに暗示されている。ヘミングウェイのフィッツジェラルドに対する月旦は時に愛情に富み、時に辛辣だ。(二人の複雑な関係の詳細については高見浩の解説に詳しい)

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 フィッツジェラルドの名前が挙がったところで、最後にもう一人、いやもう一組の「パリのアメリカ人」に触れておこう。本書においてもやはりフィッツジェラルドと関連した「鷹は与えない」という章で一度だけ名前が記されるジェラルドとセイラのマーフィ夫妻である。私は直ちに彼らがフィッツジェラルドとも関連したもう一つの評伝の主人公であることを思い出した。いうまでもない、このブログのタイトルが由来するカルヴィン・トムキンズの「優雅な生活が最高の復讐である」のことだ。1962年に『ニューヨーカー』に連載されたこの評伝は、1920年代にパリに住み、多くの画家や作家との華麗な交流で知られるマーフィ夫妻からの聞き書きであり、彼らは一種のパトロンとして当時、パリで活躍していた若い芸術家たちに有形無形の援助を与えた。註によれば1926年、ハドリーと別居した後のヘミングウェイが暮らしていたのもマーフィ夫妻が貸してくれたスタジオ・アパートメントであったという。トムキンズの評伝もマーフィ夫妻とフィッツジェラルドとの交遊に多くの頁が割かれているが、もちろんヘミングウェイについての言及や写真も掲載されている。「移動祝祭日」の登場人物に関心をもたれた方は、ヘミングウェイの回想と合わせ鏡のごときトムキンズの評伝もお読みになることを勧めるが、両者から受ける「ロスト・ジェネレーション」の面々の印象は微妙に異なる。いずれもフィッツジェラルドとの交流が一つの中心的なトピックをかたちづくっており、愛憎入り交じるフィッツジェラルド夫妻への思いは共通している。しかしヘミングウェイとマーフィ夫妻の関係はどうだったのであろうか。トムキンズの評伝の中では両者の関係はさほど悪くなく、ヘミングウェイがジェラルドを無理矢理闘牛場に立たせたエピソードなどが語られている。しかしヘミングウェイは最後の「パリに終わりはない」という章においてオーストリアのシュルンスという町でスキーを楽しんだ記憶に触れた後、次のような謎めいた言葉を記している。「こうして山を楽しんだ最後の年に、新しい顔触れの人間たちが私たち夫婦の生活に深く入り込んできた。それ以来、すべてが変わってしまった。あの雪崩の冬は、次の冬に比べれば、子供の頃のひたすら幸福で無邪気な冬に似ていたと今にして思う。次に訪れたのは一見、人生最高の愉悦に満ちているようで実は悪夢の冬であり、それにつづいて破滅的な夏がやってきたのである。リッチな連中が登場してきたのも、その年のことだった。/ リッチな連中には、いつも彼らの先をゆく水先案内人のようなパイロット・フィッシュがついている」年譜を参照するならば、この冬は1924年の冬であるから、実は彼らがパリに来てからさほど時間は経過していない。上の文章のニュアンスからもうかがえるとおり、ヘミングウェイはリッチな連中やパイロット・フィッシュについて両義的、どちらかといえばネガティヴな感情を抱いている。彼らの実名は最後まで伏せられているが、高見の註によれば、リッチな連中とはマーフィ夫妻、パイロット・フィッシュとは「USA」で知られる小説家ドス・パソスを指しているという。確かに本書の中にドス・パソスへの言及はないが『優雅な生活が最高の復讐である』の中では、マーフィ夫妻の取り巻きの一人としてしばしば言及されている。マーフィ夫妻がヘミングウェイにスタジオを貸したというエピソードからもうかがえるとおり、彼らは変わることなく作家に援助の手を差しのべたようである。ヘミングウェイのゆえなき反感は「リッチ」でスタイリッシュなマーフィ夫妻の暮らしぶりと、ポーリーンとの関係が深まるにつれ亀裂が深まるハドリーとの生活を比較して感じた、いささか逆恨みにも近い感情ではなかっただろうか。

 二つの評伝に登場する三組のカップル、アーネストとハドリー、スコットとゼルダ、そしてジェラルドとセイラ。今日振り返るならば、彼らはいずれも決して幸福な人生を歩んだ訳ではない。しかし1920年代のパリにともに暮らしていたという事実だけで彼らの生がなんとも華やかにみえるのはなぜだろうか。本書が30年の時を隔てて、作家が老境に達した1958年から60年にかけて執筆されたことは意味があるだろう。若き日のパリとは時を経ても帰還すべき場所であり、巻末の一節はこのような境地をみごとに示している。


 パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。が、ともかくこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。


by gravity97 | 2017-08-23 20:13 | 評伝・自伝 | Comments(0)

巨大美術館の黄昏

 

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 久しぶりにパリとロンドンの美術館をめぐった。いずれの都市も最後に訪れてから10年以上の時間が経過している。以前は仕事でヨーロッパに出張することも多かったが、その場合もコレクターや批評家との面会をすませるとそそくさと次のアポイントメント先に向かうことが多かったため、いわゆる大美術館を訪ねる機会はあまりなかった。今回はプライヴェイトな旅行であり、久しぶりにルーブルやロンドンのナショナル・ギャラリーといった有名美術館に足を運ぶことにした。思い起こせば、私がこれらの美術館を初めて訪れたのは大学院の修士課程を終えて初めて海外に出かけた一人旅の折であり、今年はそれからちょうど30年目にあたる。最初にルーブルを訪れた際の感動を私は今でもありありと思い出すことができるが、現在、同じ美術館を訪問する若者は果たして同じ感動を抱くことができるだろうか。21世紀を迎えて大美術館は大きな変質を遂げつつあるように感じた。今回は特定の展覧会に限定することなく、旅先で得た偶感を文章にとどめておきたい。

 今述べたとおり、私はこれらの美術館を実に久々に訪れた。したがって私が感じた変貌がどの程度妥当であるかについては留保の余地がある。次に述べるような状況はずっと以前から明確であったかもしれず、(時期的にありえないとは思うが)たまたま私が訪れた時期の特異な現象であったかもしれない。しかし最後に述べるとおり、おそらくこのような状況は現在日本の多くの美術館が直面する悪弊と深く関わっている。私が「巨大美術館の黄昏」と名づけた美術館の不全感はきわめて単純な事実に負っている。来場者が多すぎるのだ。これらの美術館はすでに作品を見る場所ではなくなっている。ルーブルでもよいナショナル・ギャラリーでもよい。入場者はセキュリティーチェックを十重二十重に取り囲み、作品の前には芋を洗うように人々が蝟集している。はるか以前にこれらの美術館を訪れた記憶をたどっても、これほどの人が入場していたとは思えない。《モナ・リザ》のごとき有名な作品を除いて、少し時間をかければ作品の前に立ち、ある程度の時間を作品と共有することができたように思う。しかし今日では作品に近づくことさえ容易ではない。I.M.ペイによるルーブルのピラミッドやノーマン・フォスターによる大英博物館のグレートコートを想起するならば理解されるとおり、近年のリノベーションを経て、かつての迷宮のような美術館も順路や導線が劇的に改善されたはずだ。しかしながら混雑は増すばかり。来場者が飛躍的に増えたからである。来場者の顔を見比べれば、東洋系それも中国人が圧倒的に増えたことが直ちに了解される。90年代、パリを歩くと日本人ばかりであったが、このたびロンドンでもパリでも日本人を見かける機会は少なく、代わって中国系、時に韓国系の団体客と思われる集団に頻繁に遭遇した。美術館の中でもツアーとしてめぐっているのはほとんどが中国人団体客であった。むろんこれは端的に国力の消長、日本の没落と中国の台頭を示している訳であり、経済的必然にすぎない。しかしかつてはほとんどが白色系の人種によって観者が占められていたフランスやイギリスの美術館を訪れる観衆の中心が黄色人種、しかも中国人であることに隔世の感を受ける。富裕層が中心であるにせよ、おそらく頻繁に欧米を訪ねることはない彼らのヨーロッパの美術館への執着は強い。

 さらにもう一つの要素が加わる。写真とSNSだ。近年、美術館の中で撮影が許可されることは普通であり、その写真をSNSで拡散させることが展覧会の広報宣伝の一つの戦略となっている。ヨーロッパの大美術館で写真撮影が許可されるようになったのはいつ頃であろうか、私が最初に訪れた80年代後半、フラッシュと三脚を用いなければ撮影が許可されていた気もするし、禁止されていた気もする。少なくとも美術館内で公然と写真を撮ることは行われていなかった。しかるに現在、多くの来場者が作品と一緒に自分を写し込む、いわゆる「自撮り」を目的とした写真撮影を行っている。実際、私も中国人観光客から《モナ・リザ》を背景に彼のポートレートを撮影するように要求さえされたのである。携帯や小型カメラであろうと、作品の写真を撮影するためには一定の時間が必要とされる。ましてや「自撮り」や他人に頼んで作品と並んだ自分のポートレートを撮影するためには相当の時間が必要とされる。かくして作品の前に人が滞留する時間は、作品を鑑賞することとは別の目的のために長引くこととなる。今触れた《モナ・リザ》が展示された部屋にいたっては広い室内のおよそ半分が写真撮影のために《モナ・リザ》ににじり寄る観衆で占められ、その両側に展示された作品は見ることさえできない状態だ。ここでは人は作品を「鑑賞」することなど不可能である。人は作品がそこにあることを「確認」して次の部屋に進む。私はこれらの美術館において作品の撮影は禁止すべきではないかと考える。一つは混雑の緩和が目的であるが、さらに本質的な問題としては、作品はカメラのレンズではなく人の目を通して見られるべきであり、それによって初めて作品を鑑賞し理解することが可能とされるからだ。写真は作品をその本質から遠ざける。今日、来場者は自らの携帯やカメラに作品のイメージを収めることによって作品を見たことを確認するのであるが、これは実に奇妙な倒錯ではないか。美術と写真は複雑な関係にある。例えば美術史学と美術全集、これらはいずれも近代の産物であるが、写真という技術の確立によって可能とされた。前者においては暗闇の中に二台のスライドから投じられるイメージによって、後者においては無数の図版によって、教師や愛好者は絵画について語ることが可能となった。質感やサイズ、ファクチュール、そして何よりもそれが所在する場所といった実物の作品を通してしか感受できないいくつもの要素を省いたとしても、それらのイメージは図像の確認や作者の特定といった一定の目的には使用可能だからである。このようなイメージの複製可能性、交換可能性は「近代美術館」の成立と深く関わっている。ニューヨーク近代美術館を嚆矢とする「近代美術館」は作品が文脈において初めて意味をもつという理解、一種の相対主義へと私たちを導いた。これに対して常設展を基本とするヨーロッパの美術館は作品と場所の結びつきを強調していたはずだ。《メデューズ号の筏》はルーブルにおいて、《大使たち》はナショナル・ギャラリー以外で見ることができない。しかしそれにもかかわらず、まさにその場でしか見(まみ)えない現実の作品の傍らで、それをせっせと写真=複製という抽象的な場へ送り出すふるまいは倒錯と呼ぶしかない。

 別の観点からこの状況について考えてみよう。かつて名画は王侯や貴族に秘蔵されていた。革命をとおして彼らの手から美術品を奪い、市民に公開する目的で設立されたのがルーブルのごとき巨大美術館であり、この意味において美術館とは市民革命の成果である。美術館に行けば、誰もが先人の描いた優れた絵画に触れることができるという私たちの通年はこのような経緯を通して可能となった。つまり権力者によって寡占されていた美術品は美術館という施設を得て市民に共有されることとなったのだ。しかし「市民」という概念の一定の広がりを勘案するにせよ、ここで想定されていた市民とは一つの国家、一つの民族に限定されており、それは近代的な国家観に対応するものでもあった。近代が終焉し、グローバリゼーションが進む今日、美術館で作品を享受する人々が多国籍化することは一つの必然であるかもしれない。もはや巨大美術館を訪れるのはそれが所在する国の市民ではない。観光客としてそこを訪れる無数の人々のために巨大美術館は存立するのである。先日、新聞紙上で、ヴェネツィアやバルセロナといった観光都市では近年、住民に対する観光客の比率が増えすぎ、地元住民が平穏な生活を送ることが困難になっているため、むしろ観光客の流入を規制する施策が提案されていることが報道されていた。「観光客」というテーマの射程は私たちが考えるよりはるかに深い。最近、東浩紀も「観光客の哲学」という著作を上梓している。ここで東の所論について詳述する余裕はないが、そこで論じられる問題はこれまで述べてきた主題とも関連しているだろう。東は次のように記している。「世界はいま、かつてなく観光客に満たされ始めている。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない」今回ルーブルを再訪した私は、そこがもはや人が美術作品と接する場ではなくなっていることを実感し、30年前、まだ作品を作品として見ることができる時代に初めてそこを訪れたことの幸福を思い知った。おそらくこのような状況は世界規模で生起しているだろう。以前、このブログで私はかつてウィーン美術史美術館でフェルメールの絵に一人で対峙した際の幸福感について記したことがある。このような体験はもはや奇跡のような僥倖であろう。観光客にジャックされた大美術館は今や見ることの逸楽と無縁の場所になっている。

 しかしこのような状況はある種の人々にとっては好ましいことであるに違いない。愚劣な大臣の「学芸員は癌」という発言は記憶に新しいが、この男が理想として掲げるのは観光客がひっきりなしに訪れる観光施設としての美術館であろう。美術館や展覧会は収益や動員数によって評価される。国立美術館が独立法人化された頃より、このような臆面もない発言が放言されることとなった。皮肉なことに彼らにとって現在のルーブルやナショナル・ギャラリーはそのような理想を体現しているし、日本でも先日の国立新美術館のミュシャ展や草間彌生展の会場の雑踏もまた彼らが理想とするところであろう。経済にしか価値を見出さない愚かな政権によって今後日本の美術館がこのような方向に誘導される可能性はきわめて高い。しかし考えてもみるがよい、私たちは作品と静かに時間をかけて対話することによって初めて美術の価値に目覚め、深く内面化するのではないか。観光地化された美術館、群衆で埋め尽くされた展覧会場でそのような出会いがあるはずもなかろう。グローバリズムの進展に伴い、ヨーロッパの巨大美術館は不幸にも美術という営みの本質から最も遠い場所となってしまった。もはやこの状況が解消されることはないだろう。


by gravity97 | 2017-08-16 19:49 | 展覧会 | Comments(0)