Living Well Is the Best Revenge

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優雅な生活が最高の復讐である

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東京の原宿、VACANTというスペースで小泉明郎の新作「帝国は今日も歌う」を見る。公開された日付とともに記憶されるべき問題作だ。一週間ほどの短い展示であり、既に公開は終了している。私も一度しか見ていないから、細部に誤りがある可能性もあるが、記録に留められるべき作品であり、忘れないうちにレヴューを残しておきたい。

 インターネットで確認したところ、この27分の映像インスタレーションは昨年、オランダのデ・ハーレン・ハーレム美術館で開催された小泉の個展に際して発表された新作の映像インスタレーション「夢の儀礼―帝国は今日も歌う」を日本で初めて公開したものである。会場には角度を違えて三面の大型スクリーンが密着する形で設置され、同時に三つの映像が投影される。

 最初、画面には白昼の歩行者天国の中に佇む一人の青年の姿が映し出される。群衆の中で彼は何かを叫ぶかのように口に手を当てる。彼に振り付けを示すような動作をする人物が一瞬登場し、おそらくこの人物が作者の小泉であろう。しかし小泉の映像作品の例に漏れず、青年の言葉は言いよどみ、時に息づかいのみが繰り返されて、彼が何を話しているかは必ずしも判然としない。そのうちに一つの夢に関する物語が告白される。その内容については「服従の儀礼」というタイトルで小泉の名とともにパンフレットに示されている。短い文章であるから全文を書き写しておく。

たしか6歳か7歳くらいだったと思う。こんな変な夢を見た。/ 食糧不足のため、ニワトリの生産が低下していた。そこで人間をニワトリの餌にすることになる。誰かが命を犠牲にして、餌にならなければならない。その状況で、私の父が餌に選ばれる。私は父と別れるのが悲しくてたまらず、泣きじゃくる。しかし父は冷静に自分の運命を受け入れ、車に乗せられ連れて行かれてしまう。父がいなくなると急に大きな不安に襲われ、私はさらに激しく泣き続ける。

続いて東京の夜景が映示される。時に空撮されたごとき映像もあるが、多くは走行する車内から映像であろう。実際に映像は移動し、夜の高速道路、トンネル内らしき映像が延々と映し出される。あるいは駅頭もしくは何かの施設の入り口であろう、行き交う群衆の姿。こちらに向かって無表情に歩いて来る人々の姿がやはり淡々と上映される。映し出される情景自体は特段変わったものではないが、間歇的に挿入される荒い息づかいや今引いた幼時の悪夢についての語り、あるいは「人間の夜を使ってこの帝国は夢を見ます」「私の夢も帝国に侵されたことがあります」といった言葉がヴォイスオーヴァーされるにつれ、画面は次第に緊迫感と不穏さを増す。作品の後半ではヘイトスピーチを行う集団と警察や機動隊が画面を覆い尽くし、ヘイトスピーチの聞くに耐えない罵声や差別的な言葉がそのまま挿入される。冒頭で歩行者天国の中に佇んでいた青年は中央のスクリーンで警察官や機動隊員に取り囲まれて登場する。いつのまにか彼の両腕は後ろ手に手錠をかけられている。左右のスクリーンからはヘイトスピーチを発する集団の絶叫が繰り返され、中央のスクリーンに映し出される青年は両側から圧迫されるかのようだ。このような配置は明らかに意図的であろう。右翼と警察が入り乱れる騒然とした街頭の情景の中に私たちは一瞬奇妙な人々を見かける。警官たちの後ろに一列に並んで醜悪な光景を遮断するように両目を両手でふさぎ、何かを歌うかのように口をあける一団の男女だ。(上に掲げたイメージの中にも写り込んでいるから確認されたい)これらの男女を含めて、登場する人物の位置関係は判然としない。全体の印象としては右翼や在特会の連中はむしろ道の両側から警官越しに怒声を浴びせるようであるが、それならば罵声が向けられた対象は中央にいるはずだ。しかし警官たちに囲まれて中央のスクリーンを進む青年以外にその対象となるような人物は映っていない。これらの怒声は彼一人に向けられているのだろうか。通常であればヘイトスピーチのデモが街路を練り歩き、彼らを制止するために警察や機動隊が配置されるのに対して、位置が逆転している、もしくは道の両端から差別主義者たちが投げかける罵声の対象としての集団が映像からかき消されている印象がある。もっともかつてこのブログでもレヴューした、東京都現代美術館のグループ展から当時の学芸課長によって放逐された作品においても情景の中心である皇族たちの姿が消去されていたことを考えるならば、イメージの存在/不在の操作は小泉が好んで用いる手法といえるかもしれない。さて今皇族に言及したが、この作品も終盤において天皇制へと接続する。作品の終盤で映し出される松林の風景は皇居のそれであろう。ここにおいて「歌」が重なる。挿入される歌を私は初めて聞いたが、独特の曲調からそれが讃美歌であることはたやすく理解できる。この映像の中で歌が歌われている場面としては先に引いた目を手でふさいで口をあける人々しか存在しないから、私たちは彼らの歌がヘイトスピーチに対する抵抗であったと想像するし、実際に讃美歌であればそのような意味をもちうることが期待される。ところがここで挿入される歌が1895年にメソヂスト教会によって出版された聖歌集に収録された讃美歌「第四百十八『國歌護國を祈る』」であり、隣の頁に讃美歌「第百四十九『國歌 君が代』」が掲載されていたことを知るならば、私たちは意味が反転する場に立ち会う。ちなみに字幕として私たちに明示される『國歌護國を祈る』の歌詞は次のようなものだ。

一 日の本なる 神国(みくに)を/萬代まで 憐み/波風なく いと安穏(やすら)に 護り給へ わが神  

二 日の本なる 大君を/千代に八千代に ことぶき/松の緑 色移らず/護り給へ わが神

三 日の本なる 御民を/代々変はらず 憐み/清く高き 富栄えに/進み給へ わが神

 説明は不要であろう。この歌詞はキリスト教への信仰が明治期に天皇制に屈服し迎合した歴史的事実の証拠だ。実はこのような主題は小泉の個人的な記憶と深く関わっている。今回の展示に際して刊行されたパンフレットに寄せられた短いテクストによれば、小泉の父は敬虔なクリスチャンであり、当然ながら天皇制に反対していたが、小泉が制作した昭和天皇のコラージュを見た折の不全感から、自分がいかに天皇制を内面化していたかを思い知ったという。ヘイトスピーチの騒音に対して天皇家の永続を神に祈るこれらの讃美歌が歌われる場面は一種の静穏が支配する。しかしそれは天皇制の二つの顔だ。すなわち臣民たる日本国民あらざる者、端的に在日コリアンに対しては聞くもおぞましい悪罵を投げつける一方で、帰順したキリスト者に対しては「大君が護り給う」。暴力と融和の二面性を兼ね備えた帝国=天皇制の本質が露呈されている。「歌う」には二つの意味がある。声に節をつけて唱える、そして一斉にほめたたえるという意味だ。讃美歌を歌うのが前者であれば、逆説的に日本という民族をほめたたえコリアンを罵倒するヘイトスピーチは後者だ。「帝国は歌う」とは懐柔と弾圧という帝国の二つの顔を象徴しているといえよう。

 映像にはヘイトスピーチを繰り返す差別主義者の群れと茫然と立ちつくす青年のほかに別の集団が記録されている。いうまでもなく両者を分かつ警官ないし機動隊員の姿である。先に述べた自らの手で目をふさぐ男女を含めて、ここで上映された映像にどの程度小泉の演出が施されているか、どの程度現実が記録されているか、私には判断する手掛かりがない。しかし制服あるいは「警視庁」と記されたベストを着用して無表情に両者を隔てる彼らがどちらの側に立つかは明らかだ。彼らは国家のための暴力装置以外の役割を果たしたことがない。しかし彼らによって中央の青年が守られている逆説もまた帝国の二重性の錯綜した表象かもしれない。さらに可視と不可視という問題が浮上する。最初に述べたとおり、冒頭近く、行き交う群衆を映し出すシーンがあるが、よく見るとそこに登場する無数の人々の顔は巧妙に処理されていて個別に識別することができない。そして警官や機動隊員もヘルメットで顔を覆い、多くが匿名化されている。これに対して、顔が明確に識別される人物も登場する。中央の青年、そしてヘイトスピーチを繰り返す男女であり、エンドロールが流れる中で「おう、お前、何を撮っとるんじゃ」とすごむ男たちである。可視化された当事者たちと不可視化された群衆と警官。フーコーをもちだすまでもなく、可視と不可視の問題は権力と深く関わっている。あるいはあえて目をふさぐ男女の姿も可視/不可視という問題圏へと結びつくだろう。このような分析からも明らかなとおり、この映像において可視性という主題はきわめて屈折しており、単純な分析を許さない。そしてこのような可視/不可視の関係は天皇と民草の関係へと敷衍することもできるかもしれない。東京都現代美術館で美術館当局によって検閲された《空気》という作品が同じ問題を扱っていたことを想起するならば小泉の問題意識は一貫している。

 私はこれまで小泉の作品を五つの会場で見た。大阪のサントリー・ミュージアムにおけるグループ展、アーツ前橋における個展、銀座のメゾンエルメスにおける二人展、そして美術館から排除された作品を近くのギャラリーで発表した「空気」、そしてこのブログでレヴューした京都芸術センターにおける個展「CONFESSIONS」である。最初を除いて、いずれも美術館ではなくオルターナティヴ・スペースとも呼ぶべき空間における発表であった。何度も述べる通り、東京都現代美術館におけるグループ展で予定されていた発表はキャンセルされている。この点は小泉の作品が美術館という制度にとって異物である点を暗示しているだろう。もっとも緊張や不穏をみなぎらせているにせよ、私の見た限りいずれの作品も明確な不敬や禁忌に関わるものではない。それにもかかわらず、小泉の作品が美術館から排除される構造は、現在この国に瀰漫している自己検閲と忖度の風潮と深い関係があるだろう。会田誠から新海覚雄、最近では白川昌生、この数年、政治性を理由として作品が美術館から排除ないし検閲された事案は事例に事欠かない。本来であれば表現の自由を保証する砦であるはずの美術館がなりふりかまわず作品を排斥する状況は時代の鏡であるかのようだ。私はこのレヴューを2017519日に脱稿し、同日にアップする。この日付を記憶しておいてほしい。現在、戦後最低最悪の首相とその政権のもと、国会で共謀罪の成立に向けた採決が強行されようとしているが、本日この法案は衆議院法務委員会で強行採決された。人の内面にまで踏み込んで処罰を加え、疑心暗鬼の中で私たちを分断することがこの法案の目的だ。治安維持法に比されるこの悪法が施行されたならば美術館は政治的な表現の発表に対してこれまで以上に萎縮することは明らかである。私たちからは自由な表現とその発表の機会が奪い去られようとしている。

今まさに帝国は私たちの心を侵そうとしている。帝国は再び歌い始めた。さすがの私も自分が生きているうちにこのような暗黒の時代が到来するとは想像していなかった。


by gravity97 | 2017-05-19 20:25 | 展覧会 | Comments(0)

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 帯に記された「ただのインタビューではあらない」という惹句に思わず笑う。『騎士団長殺し』を多くの読者が読み終えた時期という刊行のタイミングはあざといが、川上未映子をインタビュアーとした村上春樹のインタビューは抜群に面白い。既にこのブログでも松家仁之による「考える人」誌上のロング・インタビュー、そして村上自身による「職業としての小説家」という二つの関連する記事やエッセイを取り上げているが、今回も先日刊行された「騎士団長殺し」の創作秘話を含めたこのインタビューについて論じておきたい。

 本書は四章で構成され、いずれも川上から村上へのインタビューというかたちをとっているが、最初の一章のみ2015年に柴田元幸が自ら編集する「MONKEY」誌のために依頼されたものであり、残り三章は「騎士団長殺し」を脱稿後、おそらく最初の読者の一人としてゲラを読んだ川上によって今年の一月から二月にかけて集中的になされたインタビューの記録だ。したがって後の三章においては「騎士団長殺し」についてしばしば言及されるが、川上の関心は個々の作品以上に小説家としての村上にあるから、四つの章は続けて採録されたといっても異和感がないほどなめらかに連続している。「考える人」のインタビューが小説家というより編集者によるそれであったのに対し、かつて村上の朗読会にも参加し、作家である川上による問いかけは同業者としての鋭さ、共感やユーモラスな感覚があって、読んでいてなかなか楽しい。

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 「騎士団長殺し」についてはすでに新聞等で多くの書評、文芸誌で多くの研究が発表されているが、私が読んだ限り特に感心する批評はなかった。おそらくその理由はほとんどの批評がこの長編の内容的な側面ばかりに注目するからであろう。この作品に限らず、村上の作品は精神分析的な読解を受け入れやすい。「騎士団長殺し」にもユング的な元型や穴=井戸といったモティーフ、あるいはフロイト的なファミリーロマンスの反映を確認することは私でさえ可能だ。川上のインタビューからはかかる事後的な確認ではなく、小説が今駆動しているというドライブ感をうかがうことができるように感じる。例えば村上は第二章の冒頭で「騎士団長殺し」という長編が生まれた契機について次のように説く。

「騎士団長殺し」っていう言葉が突然頭に浮かんだんです。ある日ふと。「『騎士団長殺し』というタイトルの小説を書かなくちゃ」と。なんでそんなこと思ったのか全然思い出せないんだけど、そういうのって突然浮かぶんです。どこか見えないところで雲が生まれるみたいに。

 このコメントは実に興味深い。村上と比べるのはおこがましいことを十分に承知しているが、私も展覧会を構想するにあたってしばしばタイトルから入る。そして村上によればさらに二つの要素が「騎士団長殺し」を書き始める際には導き手となったという。一つは物語の中で言及される上田秋成の「二世の縁」という先行するテクスト、もう一つは以前から書き留めておいた「その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた」で始まる小説の冒頭の文章である。それぞれレヴェルの異なる三つの要素から長編が成立する様子を村上は「三人の友達がどこかで偶然一堂に会する、みたいな感じ」と表現している。さらにそこにいたるまでに数年の時間が必要であり、長編小説はほとんど待つ作業であるとまで言い切る。私の場合も数年の間隔を空けてタイトルが到来すると展覧会の内容はかなり具体的に決まる。冒頭の一文にあたるのは具体的な作品であろうし、「二世の縁」にあたるのは先行する展覧会であろうか、かなり強引な対比であるが、村上の創作の秘密と自分の仕事の共通点に思い当たったことは私としては嬉しい驚きであった。

先行する第一章では人称の問題が語られる。周知のごとく「騎士団長殺し」では「私」という一人称が使用される。一人称と三人称の相違についての説明も興味深い。村上によれば「海辺のカフカ」では可能な一人称と三人称の併用は「1Q84」のごとき込み入った内容の小説においては不可能であったという。さらに人称の選択は作家にとって一つの縛りであり、逆にこのような縛りから自由が広がるという。一人称でも「僕」と「私」では印象が大きく異なる。今回、村上の長編において初めて「私」という人称が導入されたことは、村上の加齢によるところが大きいという。同様に三人称の場合、名前の選択も意味をもつ。「1Q84」においては「青豆」という主人公の名前が「突然頭に浮かんだ」ことによって話が進み出したという言葉がある。「騎士団長殺し」ではいうまでもなく「免色」という固有名がそれにあたるだろう。「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を連想させるこの名前は、一種得体の知れない紳士の名前に実にふさわしい。私は人称や固有名詞といった形式的な側面からさらに村上の小説は分析されるべきだと考えるが、そのような研究は少ない。おそらく村上の物語が形式より内容、語られる物語をさらに深読みしたいという誘惑を誘い込むからであろう。実際に川上も「壁抜け」や「井戸」「地下室」といった村上的な主題性へすぐさま話題を転じ、プライベートな「二階」から日本の私小説が扱う「地下一階」、そして村上が主題とする地下の世界である「地下二階」までを図示した自筆のイラストさえも準備してインタビューに臨んでいる。「騎士団長殺し」では「顔なが」が住まう世界が地下二階に相当することは直ちに理解されるが、こういった解釈は「職業としての小説家」の中で河合隼雄などを引きながら何度も論じられた点であるから、私にはさほど面白くなかった。

 私は本書を読んで村上が小説を執筆するにあたってかなりシステマティックな手法を用いていることをあらためて思い知った。どんな日であって毎日午前中に10枚きっかり原稿を執筆するという創作の作法は「考える人」のインタビューにおいてすでに公言されていたが、「騎士団長殺し」に充てられた時間も確かにこのペースを反映しているという。さらに一度書いた原稿に推敲を重ね、第五稿の段階でUSBの状態で出版社の担当者に渡し、プリントアウトした第六稿がゲラとなるというきわめて具体的な説明も興味深かった。再び自分に引きつけてしまうが、最近私は翻訳の仕事に携わっている。私の場合も訳文に何度か推敲を重ね、基本的に第五稿を最終稿として提出している。五回を一つのサイクルとした理由や短編中編における推敲の数についても尋ねてみたい気がする。このような厳密さの一方で、村上によれば登場人物の挙措について作家はあらかじめ予想できないという。「ねじまき鳥クロニクル」と関連して村上は「僕の中から出てきたバットなんだから、これはもう、何かしら小説的な必然性を帯びてくれるだろうという信念がある」と述べる。精神分析的な文脈としても読み取られかねないコメントであり、ここにはシステムに支えられたオートマティズムとも呼ぶべき村上の小説技法の特色が凝縮されている気がする。この点は村上の小説が無意識と結びついていることを暗示しており、(心ならずもフロイト的な用語を用いてしまうが)小説の中に漂うアンキャニーな雰囲気の遠因を成しているだろう。無意識と対立するのはおそらくリアリズムだ。村上は「ノルウェイの森」について、「最初から最後まで、リアリズム文体でリアリズムの話を書くという個人的実験をやったわけです。で、『ああ、大丈夫、これでもう書ける』と思ったから、あとがすごくやりやすくなった。リアリズムの文章でリアリズムの長編を一冊書けたら、それもベストセラーが書けたら、もう怖いものなしです(笑)」と語り、「ねじまき鳥クロニクル」については「ある程度の精度を持つリアリズム文体の上に、物語の『ぶっ飛び性』を重ねると、ものすごく面白い効果が出るんだということが、そこであらためてわかったんです」と述べている。この二つの発言は村上の長編の見取り図としてわかりやすい。確かに村上の小説の中で「ノルウェイの森」の異質さは際立っているし、「ねじまき鳥クロニクル」以降の長編はリアリズムと幻想の絶妙な調和として成り立っており、「騎士団長殺し」もその例外ではない。「騎士団長殺し」について少し触れるならば、すでに多くの論者が指摘する通り、この長編はこれまでの村上の小説に用いられたモティーフのショーケースといった趣があり、安心して楽しめる。おそらく村上の小説を読んだことのない読者にとっては格好の導入であろうが、それを一種のマンネリズムととらえることもできよう。ここではこれ以上この長編について論じることは控えるが、「騎士団長殺し」を読んだ後、本書を読むならば作家と作品についての興味がさらに増すことは断言できよう。

 最初に述べたとおり、作家である川上がインタビュアーであるため、創作の機微に関わるエピソードや突っ込んだ質問もある。「騎士団長殺し」の第一部は「顕れるイデア篇」と題されているが、かかるタイトルにもかかわらず、村上がプラトンのイデア論について全く知らず、川上からイデアについての講釈を受ける箇所には思わず笑ってしまった。村上が過去に発表した作品についてほとんど思い入れがない点には川上ならずとも驚く。引用されていた文章がなかなか上手いと思って確認すると昔書いた自分の文章だったという回想にはさすがに川上も唖然として「村上さんって、いっそ物語が通過して出ていくための器官みたいな感じがしますよね」と答えているが、このコメントも先に述べた「システムに支えられたオートマティズム」という理解の傍らに置く時、含蓄に富む。さらに作家であり女性である川上でなければ問うことができない質問として「女性が性的な役割を担わされ過ぎていないか」というセクションの受け答えは興味深い。「物語とか、男性とか井戸とか、そういったものに対しては、ものすごく惜しみなく注がれている想像力が、女の人との関係においては発揮されていない。女の人は、女の人自体として存在できない。(中略)いつも女性は男性である主人公の犠牲のようになってしまう傾向がある」という指摘は鋭い。フェミニズム批評においては川上が論じた問題はさらに精緻に分析することが可能であろうし、おそらく村上の小説におけるセックスに関わる描写は読者の反応を二分する。実際私も男女を問わず、性的な主題の扱いゆえに村上の小説を嫌う知人を何人か知っている。女性作家の面と向かっては答えにくい質問であるためか、村上の答えは珍しく歯切れが悪い。「よくわからないけれど」とか「たまたまのことじゃないかな」といった言いよどんだ返事がなされている。しかし川上も二の矢三の矢を継ぐことなく、いささか村上に遠慮した感じがある。私はフェミニズム的な読解が正義であるとも感じないので、必ずしも川上が代弁したような読みに与することはないが、このような会話の流れで「眠り」という、村上において女性が語り手となる最初の作品、私が愛好するまことにアンキャニーな短編が論及された点は嬉しかった。この作品は初めて「ニューヨーカー」に掲載された作品であり、村上を女性作家であると信じる人達からのファンレターに困惑したというエピソードも興味深い。

 まとまりのないレヴューとなり、論じ足りない点も多々あるが、本書は村上を愛読する読者にとっては絶好の入門といえよう。最後に私が本書を読んで一番心に残った言葉を記しておくことにする。「どうして読者がついてきてくれるかわかりますか」と逆に川上に問いかけた後、村上は次のように答える。「僕が小説を書き、読者がそれを読んでくれる。それが今のところ、信用取引として成り立っているからです。これまで僕が40年近く小説を書いてきて、決して読者を悪いようにはしなかったから」次のようにも言い換えている。「なんか変てこなものだけど、この人が悪いものじゃないと言うからには悪いものじゃないだろうと引き受ける、これが僕の言う信用取引な訳です」表現に関わる者、特に言葉の真の意味において前衛的な表現に関わる者にとってこの指摘は重みがある。文学のみならず美術、音楽そして批評、広い意味の作品は受容者が存在して初めて意味をもつ。このブログを始めて今年で9年になる。いくつかの理由によって私はこのブログを匿名で続けており、コメント等にも原則として返事することはないから、書き手である私は具体的な姿を欠いているにもかかわらず、毎日200人前後の読み手がサイトを訪れてくれることに私は励まされて更新を続けている。200人が多いか少ないかはわからないし、村上同様に私も読者の数自体にはほとんど関心がない。それなりの文化的リテラシーが必要なこれらのテクストを書くことと、読んでもらうことは文字り私とあなたの間の信用取引なのだ。願わくば今後もこのような信用に足るクオリティーを備えた批評的言説を書き継いでいきたいものである。

なお、御覧のとおりフォントのポイントがぐちゃぐちゃのきわめて見苦しい表記となっている。何度も記すとおりこれは先般のブログのフォーマットの強制的な変更以来のトラブルであり、責任は全面的にエキサイトの側にある。利用者として早急な改善を重ねて要求する。


by gravity97 | 2017-05-13 21:12 | 日本文学 | Comments(0)

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