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 ゴールデンウイークの読書の楽しみとして、お気に入りのポール・オースターの未読の小説を二冊求めた。休日をはさんだとはいえ、ゴールデンウイークまで日を残して二日ほどで読み終えてしまったことは、あらかじめ予想できた誤算だ。このブログでもオースターについては既に三冊の小説についてレヴューをアップしている。おそらくこれまで最も頻繁に論じた対象の一つである。オースターに関しては、最近『冬の日誌』と『内面からの報告書』という自伝的な要素の強い新刊が訳出されたが、今回論じるのはこれらではない。以前も記したとおり、私はオースターについては翻訳が出るたびに読むようにしていたが、何冊か読みこぼしがあった。『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』という2005年と2007年に発表された中編をいずれも柴田元幸の練達の翻訳によって読む。発表順で言うと、この二つの小説はこのブログで論じた『オラクルナイト』と『闇の中の男』の間に執筆され、興味深い共通点をもっている。柴田のあとがきによれば「2002年刊の『幻影の書』にはじまって、ポール・オースターは『自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語』を五作続けて発表した」今回取り上げる二冊の小説はその第三作と第四作にあたる。今名を挙げたほかの三つの小説についてはいずれもこのブログでレヴューを加えているから、奇しくも今回で私はこれらの五部作全てについてコメントすることとなる。

 さて、二冊の小説のうち、ここでは主に「写字室の旅」について論じることとする。しかしこれは「ブルックリン・フォリーズ」に比べて、こちらの方が優れているということを意味しない。どちらも優劣つけがたいが、もしどちらか一冊を推薦しろと言われたならば、むしろ私は「ブルックリン・フォリーズ」を選ぶだろう。それは単に分量だけでなく、オースターの小説の魅力が凝縮された佳作であるからだ。初めてオースターの小説を読む者にとってこの小説は格好の導入となるだろう。何よりもこの小説は読むことが楽しい。訳者の柴田もあとがきで「オースターの全作品の中でももっとも楽天的な、もっとも『ユルい』語り口の、もっとも喜劇的要素が強い小説だと言ってひとまずさしつかえないと思う」と述べている。私も全面的に同意する。それゆえこの小説についてはくどくど内容について論じるよりも、まず手にとっていただき、オースターの世界に足を踏み入れていただきたいと考えるのだ。少しだけ「ブルックリン・フォリーズ」の内容に触れるならば、読み始めるやそこにはニューヨーク、古本屋あるいは文学をめぐる蘊蓄といった、まことに私好みの主題が横溢している。これらはほかの小説とも共通するテーマでもあり、私は懐かしい土地に帰還したような思いがした。オースターが編集した「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」並みの奇譚を随所に織り交ぜながら年老いた主人公とその甥をめぐる錯綜した、しかし抜群に面白いエピソードの連続だ。「楽天的で喜劇的な」物語は必ずや読者を満足させることと思う。

 「ブルックリン・フォリーズ」を読む愉しさは未読の読者にために残して、私たちは「写字室の旅」に戻ることにしよう。「ブルックリン・フォリーズ」の二年後、2007年に発表された「写字室の旅」もまた実にオースターらしい物語だ。しかし物語を語ることの愉しさによって駆動された前者に対して、こちらは「物語を語ること」に明らかに意識的であり、オースターのいくつかの小説にみられるメタ性、つまり「小説についての小説」という側面が強調されている。「幻影の書」に始まる五部作にはいくつかの共通点がある。先にも引用した通り、柴田は「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」と評しているが、試みに「ブルックリン・フォリーズ」「写字室の旅」「闇の中の男」という五部作の後半三作品の冒頭の一文を順番に引いてみよう。「私は静かに死ねる場所を探していた。誰かにブルックリンがいいといわれて、翌朝ウエストチェスターから偵察に出かけていった」「老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に載せ、うつむいて、床を見つめている」「私は一人闇の中にいて、頭の中で世界をこねくり回しながら、今夜も不眠症をくぐり抜けようとあがいている」一人称と三人称という違いはあるが、確かにいずれも語り手の老いが前提とされている。特に後の二つの小説の冒頭は酷似しているといってもよい。人生を終えつつある老人を語り手に据えた点と現在70歳となった作家の心境が同期しているか否かについては即断できないが、興味深い点はこの五部作において次第にペシミズムが濃厚に感じられるようになる点である。「写字室の旅」において最初、老人と呼ばれた主人公はまもなく名を与えられる。ミスター・ブランク、空虚氏とはまことにオースター的だ。直ちに「幽霊たち」において任意の色彩の名前を与えられた登場人物たちも連想されよう。「闇の中の男」と「写字室の旅」、いずれにおいても主人公の老人は加齢を原因とした一種の幽閉状態にあり、特にミスター・プランクは動くことさえままならぬほどに衰弱している。両者に共通する重要な要素がもう一つある。それは物語の中に別の物語が嵌入する構造だ。「闇の中の男」では暗闇の中で老人が妄想する物語として、「写字室の旅」においては室内の机の上に積み上げられたタイプ原稿として別の物語が入り込む。もちろん小説内小説という手法はオースターが得意とするところで、記憶している限りでも「オラクルナイト」「リヴァイアサン」などでは小説の中で別のストーリーが展開され、「幻影の書」においては幻の映画がその役割を果たしていたと思う。「写字室の旅」と「闇の中の男」で注目すべきはそこで語られる物語がいずれも戦争と関連している点である。すなわち前者ではジーグムント・グラーフなる人工統計局の役人の手による、何処ともしれない土地での戦争の記録が語られ、後者においてはオーエン・ブリックという男によって記されるおそらくは近未来、内戦状態にあるアメリカの報告が綴られる。デヴュー当時、エレガントな前衛と呼ばれ、一種の都会的なミニマリズムを感じさせたオースターがこれらの小説において戦争というきわめて普遍的で泥臭い主題に接したことの意味については最後に論じる。

 「写字室の旅」にはもう一つのメタ的な仕掛けがある。衰弱し、トイレでの排泄もままならぬプランクのもとを次々に様々な人物が訪れる。元警官ジェイムズ・フラッド、食事と沐浴を介護し、最後にプランクを射精へと導くアンナという女性。亡くなった夫の名前を尋ねられたアンナがデイヴィッド・ジンマーという固有名詞を引いたところで、私はようやく記憶がよみがえった。デイヴィッド・ジンマーとは「幻影の書」の中で消息不明の謎の映画監督、ヘクター・マンを探す主人公の名であったはずだ。書庫でオースターの作品の頁をめくるならば、同様にピーター・スティルマンは「シティ・オブ・グラス」、ファンショーは「鍵のかかった部屋」、それぞれニューヨーク三部作中の登場人物であったことが理解された。オースターの名を知らしめたこれらの傑作を読んだのは30年近く前であったから、さすがにこれらの登場人物の役割についてはおぼろげな記憶しかないが、これらの事実が判明するならば、「写字室の旅」が何の暗喩であるかは明らかだ。ファンショーとは何者かを問われて元警官フラッドとプランクは次のような会話を交わす。「あなたの工作員の一人です」「わたしが任務に送り出した人間ってことか?」「きわめて危険な任務に」「そいつは生きのびたのか?」「確かなことは不明です。ですが大方の意見としては、もはや彼は我々と共にいないのではないかと」ミスター・プランクは作者オースターその人であり、この小説は老境にある作家のもとを彼によって創造された小説中の登場人物が訪ねる物語として了解されよう。むろんこのような解釈はあまりにもナイーヴとする見方もあろうし、小説の技巧に長けたオースターのことであるから、小説はこのような単純な解釈を許さない深みを備えている。ここで注目すべきは、彼を訪れる作中人物たちがいずれもプランクに強い敵意を抱いている点である。フラッドは次のように告発する。「あなたは残酷です。残酷で他人の苦しみに無関心です。あなたは人の人生をもてあそんで、自分がしたことに何の責任もとらない」物語の終盤でプランクは彼らによって詐欺から性的暴行、殺人までの罪状を告発され、死刑の宣告さえ受けるのだ。私はメタ的な枠組をもった小説や美術が好きであるから、これまでこのブログで論じた文学作品においてもしばしば作者と登場人物の関係が主題とされていた。例えばロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」やローラン・ビネの「HHhH」はそのような小説であった。しかしこれらの作品と比しても、本書における両者の関係は緊張に満ちている。最初に述べた通りここで論じた五部作を通じてオースターが描く世界は次第にペシミズムが濃厚になる。「ムーンパレス」や「リヴァイアサン」にみられたおおらかさは失われたように感じられる。「ムーンパレス」におけるコロンビア大学、「ブルックリン・フォリーズ」におけるブルックリン、これらの小説においてはニューヨークの街区が固有名とともに語られ、現実と強いつながりをもっていた。しかし「闇の中の男」は同時多発テロの記憶のない内戦状態のアメリカが舞台であり、「写字室の旅」にいたっては場所についての記述のない室内で物語が推移する。この五部作を通じて私はオースターと小説との関わりが大きな変化を遂げたような気がする。物語の中からオースターが愛したニューヨークという街の具体性が失われ、代わって何処とも知れぬ場所で繰り広げられる戦争をめぐるエピソードが小説内に挿入される。このような変化は「シティ・オブ・グラス」に始まる一連の小説に登場した人物たちにとって帰るべき場所、帰属すべき場所が失われたことを暗示しているのではないか。このように考えるならば、近作において作家と登場人物の間に強い緊張が生じた理由も理解できよう。

 30年近くオースターを読み継いで、私もまた何かが決定的に変わったことを深い感慨とともに思い知る。その決定的な転機についての記述が「ブルックリン・フォリーズ」の末尾にある。内容に立ち入ることとなるが、この小説自体に背景とされる時代について詳細な記述があり、おそらく誰もが想像する事件であるから思わせぶりな書き方はやめておこう。「ブルックリン・フォリーズ」の物語の中で様々な出来事を経験し、もはや「静かに死ねる場所を探す男」ではなく、新しい仕事の構想、そして愛する相手さえ得た老人ネイサンは入院していた病院から退院の許可を得て明るい陽光の降り注ぐ秋の朝、ブルックリンへと歩み出る。「だがいまはまだ8時で、そのまばゆい青空の下、並木道を歩きながら、私は幸福だった。我が友人たちよ、かつてこの世に生きた誰にも劣らず、私は幸福だったのだ」これが「ブルックリン・フォリーズ」の最後の一節である。しかしその前にネイサンが退院した日付が2001911日であったことが記されているから、私たちはそれから一時間も経たないうちにニューヨークを襲った惨事に思いをめぐらす。「ブルックリン・フォリーズ」は画然と分かたれた「それ以前」の日々をあえて描くことによって物語に深い余韻を残す。「ブルックリン・フォリーズ」の高揚の後に、「書字室の旅」と「闇の中の男」を読むことは、私たちにとって良き時代は既に終えられてしまったことをあらためて自覚させられるかのようだ。猿のような顔をした大統領が大統領選を「盗み」、結果的に911の遠因となったことについては小説の中でも怒りとともに触れられている。しかし今やさらに下劣な人物が大統領として居座る、もはや悪い冗談としか思えない状況にこの世界はなり果ててしまった。享楽的なポスト資本主義の最後のきらめきから監視と検閲による全体主義へ。そういえばオースターは早くも87年に発表した「最後の物たちの国で」において私たちの暗鬱な未来を予見してはいなかっただろうか。


by gravity97 | 2017-04-30 22:16 | 海外文学 | Comments(0)
by gravity97 | 2017-04-29 20:30 | MY FAVORITE | Comments(0)

牧久『国鉄解体』

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今年は国鉄が分割・民営化され、JRが発足してから30周年という。新聞紙上などでも関連した記事を目にするが、この機をとらえて、国鉄が分割・民営化されるまでの暗闘を記録したドキュメントが刊行された。筆者は日本経済新聞社東京本社社会部に勤務し、昭和43年より国鉄記者クラブに籍を置き、この事件の推移に立ち会った新聞記者である。自らの経験と豊富な資料に基づき、中曽根元首相や故人となった関係者へのインタビューによって裏づけされた本書は読み物として抜群に面白い。本書がこのタイミングで発表された理由もよくわかる。国鉄の分割・民営化を筆者は明治維新に準えるが、100年以上も続き30万人近い職員を抱える巨大組織を解体する作業は誰にとっても苦難に満ちたものであった。「国鉄解体を進めた『若手改革派』にとっても『分割』を阻み『全国一社』の国鉄を守ろうとした『体制派』にとっても、また国労など組合関係者にとっても、そこには策謀と裏切り、変節、保身、憎悪、怨念など、さまざまなに人間の情念が渦巻いていた」恩讐の彼方、本書は30年という時の経過を経て初めて文字として残すことが可能となった記録である。今述べたとおり、分割・民営化を進めた側とそれに抵抗した側、国鉄本社と第二臨調、政治家や運輸省、そして複数の労働組合、本書を読む限り、どの立場にも絶対的な正義はない。筆者は特定の当事者に与することなく、客観的でありながらドラマティックに第二次大戦後最大の労働問題、巨大組織の再編成の実情を伝えているように思われる。

 昭和6241日午前零時、国鉄がJRに代わった運命の日を点描する短い序章に始まる本書は続いて昭和40年代まで遡って国鉄の労使関係の不毛の歴史を概観する。第一章で焦点化される二人の人物は対照的でありながら、国鉄に決定的な影響力を行使した。一人は総理大臣となった田中角栄。田中は昭和47年に発表した「日本列島改造論」において新幹線を含む鉄道網の整備によって日本全国を一日の交通圏に収めようとする壮大な夢を語り、鉄道インフラの普及を徹底的に押し進めた。もう一人は「国労の顔」と呼ばれ、国鉄の労働運動に決定的に関与した細井宗一である。正反対の立場にいる二人であるが、ともに新潟県の出身であり、兵役では同じ連隊の所属し、古参兵の制裁を受ける田中を常に細井が庇ったというエピソードは興味深い。「国鉄なんてものは大きな赤字は困るが、大もうけもしてはならない。運賃を高くしないためにはトントンか、多少の赤字がよい。米国を除いて、先進国が国鉄にしているのはそのため。その国の経済を守るために必要なのだ」という昭和54年の細井の言葉は今日でも示唆に富む。国鉄の解体は一連の民営化路線の大きな成果として喧伝されているが、JR各社が本業以外で大きな収益をあげ、リニア新幹線の敷設といった原子力発電所の維持以外に意味を見出せない異常なプロジェクトに狂奔する姿を見るにつけ、かつて同じ会社に収益や利潤とは別の価値を奉じた人々がいたことは記憶されてよいだろう。

 やや先走った。本書は昭和40年代中盤から語り起こし、当時の熾烈な労使の対立を素描する。国労をはじめとする国鉄の労働組合は当時圧倒的な権勢を誇り、労使協調などありえない壮絶な労働争議や職場闘争を繰り返していた。鉄道が止まることは日常茶飯事といった今日では考えられない状況が描写される。筆者自身による新聞記事から次のような情景が引用されている。「組合側はどんな問題でも分会の役員を先頭にして230人が一団となって区長室に押しかける。ゲバ棒こそないが、交渉のやり方は紛争大学の大衆団交とほとんど変わらない。区長や助役のネクタイを引っ張り、ゲンコツで腹を突く。足で蹴り、手をねじ上げる。『傷にならない程度』の暴力行為が何時間も続く。『バカヤロー』『ノロマ』『ナンセンス』といったバ声。話し合いのできる雰囲気はまったくない」本書を読むとこの時期の労使闘争はいくつかの問題に焦点を結んだことが理解できる。まずELDLと呼ばれた電気機関車、ディーゼル機関車の導入に伴い、かつて蒸気機関車では必要であった機関助手を削減しようとしたことに対して組合側は反発し、各地で闘争を繰り広げる。この闘争に完敗した当局は、昭和44年に磯崎叡が新しい総裁に就くや巻き返しを図り、生産性向上運動、いわゆるマル生運動によって組合の切り崩しを試みる。泊まり込みで講義とディスカッションを繰り返して出席者を洗脳するこの運動は、新興宗教やブラック企業の新人研修を連想させ、今日ではおおいに不気味に感じられるが、このような手法は高度経済成長時代の大企業ではよく用いられていたらしい。余談となるが、生産性本部から派遣され、「トレーナー」と呼ばれた指導者たちのふるまいは宮部みゆきの『ペテロの葬列』の中で大きな役割を果たしていた。この運動の結果、初めは組合から多くの脱退者が出たが、組合側は直ちにマスコミや裁判所を巻き込んで強烈に反撃し、当局批判を繰り広げた結果、逆に優勢に立つ。勝ち誇った組合側は多くの無体な要求を押しつけ、結果的に「二度と元に戻らぬ、労使のささくれだった対立と職場の荒廃」が残された。国鉄の労働組合は当時の社会党の支持基盤として政治的にも大きな力をもったから、労使問題は政局とも深く関わっていた。時期としては田中角栄の政権下で、国鉄の労働組合は専横をきわめる。昭和48年の春闘における順法闘争は不満を抱いた乗客の暴徒化を引き起こした。当時を振り返って書記長自身が「マル生闘争の勝利によって組合員の多くが、何をやっても許されると増長した」と述べている。当時、高崎線には「職員専用列車」と呼ばれるダイヤ上には存在しない列車があったという。それは朝の通勤時間帯に試運転列車と称して運行する列車を踏切で停車させ、付近の国鉄職員の通勤に供していたものであり、「組合員の驕りと慢心、そして安全の軽視はここにきわまっていた」当時、組合側はスト権を確立するためのスト、「スト権スト」なる珍妙なストを繰り返したが、この理不尽なストライキは私の記憶にも残っている。結果としてこのストは両者の力関係に微妙な転換をもたらすが、この時期も労働組合は経営側に対して圧倒的な優位にあり、この責任を負わされた歴代の国鉄総裁は政府自民党からも激しい突き上げにあって次々に破綻し辞職を重ねた。田中角栄によって重用されたエリート総裁でさえアルコール依存症となり午前中の会話は支離滅裂、夕方には総裁室で泥酔していたというエピソードは壮絶である。

 昭和50年代に入ると状況は微妙に変化する。まず当時の混乱した政局を押さえておく必要があるだろう。ロッキード疑獄を経て、田中から三木、福田、大平と政権が次々に変わる。選挙中に急逝した大平を襲った鈴木善幸は行政改革を自らの内閣の主要な仕事と位置づけ、中曽根康弘を責任者たる行政管理庁長官に据えた。中曽根は密かに国鉄改革を断行することを決意する。一方、この頃、後の国鉄解体を内部から進めた「三人組」と呼ばれる若手職員、井手正敬、葛西敬之、松田昌士もそれぞれの持ち場で問題意識を深めていた。中曽根は臨時行政調査会の会長に経団連会長を退いたばかりの土光敏夫、補佐役に山崎豊子の「不毛地帯」のモデルとなった伊藤忠商事元会長の瀬島龍三を担ぎ出し、いわゆる土光臨調を発足させる。国鉄改革もその大きな課題であったが、当時国鉄は井手らが中心になって「後のない経営改善計画」を作成しており、この計画を軌道に乗せることによって弥縫的な「改革」を図るというカードも残されていた。しかし国鉄改革を主要なテーマとした第四部会では次第に「分割・民営化」という処断の可能性が現実味を帯び始めていた。このような事実関係からも理解されるとおり、井手らも最初から分割民営化という路線を推進した訳ではない、経営改善、あるいは分割なしの民営化、当時はいくつかの選択肢が併存しており、さらにプレーヤーも経営陣、労働組合に加えて、運輸省、政府自民党と多岐にわたる。本書を通読して感じるのは国鉄解体が決して予定調和としてもたらされたのではなく、多くの力学の偶然の結果によって現在のかたちに至ったという点である。プレーヤーの一人、自民党は昭和57年に党の交通部会内に「国鉄再建小委員会」を設ける。宮城県選出の国会議員、三塚博が仕切る通称三塚小委員会は以後、分割民営という路線を強力に推し進めることとなった。組合や運輸省との折衝の中で次第にお互いを認知し、ともに分割・民営化の方向を目指していることを知った「三人組」は相当に隠微な手法を用いて、国鉄という組織の腐敗、労働組合との癒着の告発を始める。知り合いのマスコミを通じて不祥事を内部告発し、三塚小委員会に「秘密事務局員」として加わって当局、組合側の双方にとって都合の悪い資料をいちはやく提出し、さらには労使の癒着の甚だしい現場、規律のゆるんだ職場の抜き打ち検査を手配した。労働組合と関係の深い社会党のみならず自民党の国会議員らとも国鉄は深いパイプをもっていたから、利害関係は複雑をきわめる。組織が自己防衛をその本質とする以上、分割・民営化に対する「国体護持派」の抵抗は激しく、三人の「改革派」は経営側、組合側のいずれをも敵に回して、外部の力、具体的には「改革派」の政治家やジャーナリストと気脈を通じて事態の打開を試みる。このあたりの暗闘の描写は凄まじい。一旦、分割・民営化を容認するような発言を行った総裁仁杉に対しては経営側が血相を変えて乗り込み、総裁を軟禁して真意は異なるという文書を書かせては社内報として配布する、三人組は国鉄の腐敗を告発し分割・民営化の必要を説いた書籍を三塚の名で出版し、三塚のもとには(本来ならば正反対の立場にある)右翼と組合の街宣車が押しかけて脅迫を繰り返した。仁杉は秋山機関と呼ばれる一種の秘密機関を設立し組織の検閲と粛清をはかる。一時、「改革派」は地方に左遷され、中央に残った者も四六時中監視された状態での執務を強制される。しかし三人は逆境にあって改革の同志を募り、連判状によって結束を固め、反撃の機会をうかがう。このような闘争の熾烈さはいくつものエピソードからうかがうことができる。例えば秋山機関によって作成された「分割のメリット・デメリット」という極秘資料は仁杉らが更迭された夜に全てシュレッダーにかけられて一部たりとも残っていない。仁杉が解任された理由は自分のシンパと信じて国鉄記者クラブに所属する記者を相手に酒席の場で洩らした「本音」がひそかに録音され、首相であった中曽根に届けられたことによるという。いずれもにわかには信じがたいが、かくも緊迫した状況が当時の国鉄を取り巻いていた訳である。分割・民営化に大きく舵を切った中曽根政権によって仁杉総裁は更迭され、国鉄の命運は決まった。その直後、副総裁に呼ばれた井手がこの場で辞表を書けと迫られたというエピソードも鬼気迫る。

 かくしてついに分割・民営化という方向が定まる。これにあたっては当時首相であった中曽根の意向が大きな意味をもっていた。中曽根はこの路線を推進する三塚を運輸大臣に据え、この問題の一挙解決をはかる。昭和60年のことである。三人組が国鉄の中枢部に呼び戻される一方で、分割・民営化に抵抗した勢力は閑職へと追放されていく。労働組合の対応は大きく分かれた。最大の国労が真っ向から反対したのに対して、動労や鉄労は分割・民営やむなしとして経営側に迎合する。もはや大勢は明白であった。「最後の主戦場」と題された章では労働組合を切り崩す経営側のあざとい手法が明らかとされる。経営側に恭順し「労使共同宣言」を受け容れた労働組合には一定の見返りが与えられる一方で、最後まで対立する国労に対しては雇用安定協約の締結を拒み、労働者の分断と差別化をはかる。国労からは多くの脱退者が生じ、彼らは真国労なる新しい組織を立ち上げる。分割・民営化の結果として多くの余剰人員が発生することは明らかであり、国鉄に残るか、「余剰人員」として遇されるか。当局は組合員たちに残酷な踏み絵を課した訳である。組合と御用組合の熾烈な闘争は山崎豊子の「沈まぬ太陽」を想起させ、時に暴力事件を引き起こしながらこのような死闘が続いた。昭和6110月に修善寺で開かれた国労の臨時大会で執行部は柔軟路線に転じようとしたが、議案は否決され、国労は事実上の分裂状態に陥る。この時、分割・民営化への抵抗は完全に潰えた。翌月に「国鉄改革8法案」が可決され、遂に日本国有鉄道の解体が決定されたのである。しかし人事においては大きな番狂わせが相次いだ。最後の局面で運輸大臣が三塚から橋本龍太郎に交代したのも不規則な人事であったが、粉骨砕身の思いで国鉄「改革」に関わった三人組、そして国鉄解体時の総裁、杉浦喬也らは再出発したJRにおいて要職を充てられることがなかった。彼らの血と涙の結晶である国鉄改革も中曽根にとっては自らのパワープレーの一局面に過ぎなかった。

 本書は読み物としては面白いが、読後感はよくない。無数の人物が登場するが、共感や感情移入できる人物は一人もおらず、暗澹たる抗争の連続と後味の悪い結末が語られるからだ。正義やカタルシスから遠い本書の内容は先に触れた山崎豊子の小説、例えば「華麗なる一族」や「沈まぬ太陽」のそれに近い。本書に主人公を求めるならばおそらくは井手、葛西、松田という三人組であり、彼らは組織内にいながら組織を解体するという困難な任務を担った。しかし彼らが操った権謀術数を知る時、彼らもまたヒーローからは遠い存在である。彼らを国鉄解体に走らせた動機がかつての国鉄の当局と組合の癒着と腐敗であったことは想像に難くない。私も民営化以前のJRの状況を覚えているので、かつての国鉄が乗客や通勤客を一切顧みない傲慢な組織であったことを知っている。本書の終章には「猛き者ついに滅びぬ」というタイトルが掲げられているが、怠業の一方で管理職をつるし上げ、自分たちの専用列車を走らせるような専横を働く者たちが滅びたことは当然であったと今になればわかる。本書においては二つの「連判状」に触れられている。連判状とは時代がかっているが、彼らがこのような手段で結束を固めたことは明らかだ。これらはもし公開されるならば改革派を同定し、過酷な処分を招いたであろうから、自分たちの真剣さを確認する意味もあったはずだ。私は改革派を一方的に支持するつもりはないが、これらの文書の真剣さには深く共感するし、それほどまでにこの巨大な組織は病んでいたのである。

 今日、国鉄改革は成功したといわれる。確かに再建の見込みもなく赤字を垂れ流していた組織の収支が曲がりなりにも回復し、サービスも劇的に改善されたから、この成功はこれ以後引き続く民営化のモデルケースとなった。しかし本書から明らかなとおり、そこには多くの影の部分があったことを忘れてはならない。一つには国鉄の解体にいたる過程できわめて非人間的な状況が生じたことである。解体に伴って大量に発生した「余剰人員」は「人材活用センター」と呼ばれる施設で清掃や単純作業、あるいは炎天下での行軍といった無意味な作業に従事させられた。「国鉄アウシュビッツ」とさえ呼ばれたこの施設には多く国労系の労働組合員が集められたという。先に述べた通り、この背景に労働組合間の確執があったことに疑いの余地はない。国鉄の解体は戦後の日本において一定の影響力を有した労働組合の終わりの始まりであった。本書の最後の節は「55年体制の終焉」と題され、平成元年における総評の解散とそれに代わる連合の結成について言及されている。元号からわかるとおり、同じ年に昭和天皇が死亡し、ベルリンの壁が崩壊した。そして国鉄の解体を契機としてこの国では何かが決定的に変質した。「昭和の解体」という本書のタイトルは象徴的だ。冒頭で「国鉄は赤字は困るが大もうけしてはならない」という言葉を紹介した。この言葉は昭和という時代ににあっては例えば公益とか安全といった収益とは別の、多くの場合それに優先する価値が存在していたことを暗示している。しかしこれ以後、私たちは利潤を唯一の価値観としてひたすら追い求めることとなる。国鉄民営化の「成功」は同じ原理がほかの公共的な事業にも応用可能ではないかという発想を生んだ。これに従って教育、文化といった本来的に市場性とは相容れない分野、具体的には公教育から大学、図書館や美術館といった場にも経済原理が浸透することになった。先日の愚かな大臣の発言からも明らかなとおり、本来ならば「別の価値」によって統御されるべき営みが経済原理という濁流の中で淘汰され、結果としてかつての国鉄同様に荒廃しつつある。まことに国鉄民営化の「成功」は昭和から平成、すべての価値が金銭に一元化される時代への転換を画す出来事であったといえよう。

 本書で詳細に報告される、かつての国鉄の腐敗した内情は実は当時からよく知られていた。誰もが異常と感じながら、圧倒的な権勢を誇る労働組合に対して時の政権さえもが拱手していた内情は本書で詳らかにされている。そして私は、現在もなお、誰もがその不正義を知りながら批判できない一つの体制が存続していると感じる。いうまでもない、原子力村と呼ばれるシンジケートだ。もはやこの産業が差別と不正の上にしか存立しえないことは誰の目にも明らかであるし、彼らが震災の後、スト権スト並に愚劣な「計画停電」によって私たちを恫喝したこともはっきりと記憶しておこう。私たちは原子力発電がほとんど稼働していない状態でいくつもの夏と冬を乗り切った。それにも関わらず、リニア新幹線なる虚妄を振りまいて原子力政策の堅持を叫ぶ論客の一人が葛西である。かつて国鉄という国家的な不正義に対峙した人物が、同様の国家的欺瞞に取り込まれて、中曽根に始まる国家主義的な保守政治の断末魔、最低最悪に劣化した現政権に寄り添う姿は人間の業と呼ぶべきか、まことに無残に感じられる。

 それにしても私はいつまで、レヴューの最後にお決まりの政権批判のコメントを書きつけなければならないのだろうか。90年代、私の批評は政治性を帯びることはほとんどなかったし、形式主義者たる私はこのようなくだらない作業が嫌でたまらない。しかし今や批評に携わる者にとって政治性のない批評はありえないほどに、政治が表現の場に手を突っ込んできている。私たちはかつてなく暗い時代を生きている。

 なおこのブログでは元号は用いないが、今回のみ内容に鑑み、時系列を元号で表記した。


by gravity97 | 2017-04-22 10:14 | ノンフィクション | Comments(0)

NEW ARRIVAL 170418

by gravity97 | 2017-04-18 20:35 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
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 殿敷侃は1980年代の後半に自動車のタイヤを用いた独特のインスタレーションで注目を浴びた。1992年に50歳という若さで夭折したため、少なくとも私の知る範囲ではこれまで作品がまとめて展示される機会がなく、以前より関心をもちながら、その全貌に触れることができない作家であった。山口の作家という印象を抱いていたが、生地である広島でこの作家の回顧展が開かれたことは大きな意味をもつだろう。なぜならば後述するとおり、殿敷の作品は被爆という体験と密接に関わっているからだ。
 私が比較的まとまった数の殿敷の作品を見たのは、このブログでも論じたとおり、2014年に森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレにおいてであった。この際は今回の展示では実物が出品されていた巨大なお好み焼き状の廃物オブジェを制作する情景が映像として上映されていたように記憶する。余談となるが、このトリエンナーレで殿敷と同様に大きく取り上げられていた作家は松澤宥であるが、偶然とはいえ松澤についてもごく最近、小規模な展覧会が開かれたと聞く。私は未見であるが、これに際して発行された資料価値の高いカタログを最近手に入れた。これまで十分に紹介されていない作家たちの検証が進められていることは喜ぶべきであろうし、作品を見ることによって多くの新しい発見がある。b0138838_20544576.jpg

 最初に述べたとおり、殿敷の作品を回顧的に見たのは初めてであり、作家に対する見方が大きく変わった。タイヤを用いたインスタレーションが鮮烈であったために、漠然とインスタレーションもしくはランド・アートの作家という印象を抱いていたのだが、殿敷の本領はむしろ平面作品にある点を認識することができたように感じる。展覧会は基本的にクロノロジカルに構成され、全体として五つのセクションに分かれ、いわゆるインスタレーション系の作品は最後のセクションに分類されている。確かにこれらの派手な作品は作家としての殿敷のイメージをかたちづくったが。仕事の中では必ずしも本流ではない。両者がどのように接続されるかという点は殿敷の作品を理解するうえで重要なポイントとなるだろう。そして私の考えでは殿敷の「平面作品」もまたインスタレーションと深く関わるラディカルな特質を秘めている。とはいえ、殿敷も最初から独自の表現に向かった訳ではない。最初期に描かれた絵画の堅牢な画面から例えば同じ山口出身の香月泰男を連想するのはやや安易だろうか。しかし1966年に制作された風景画のカンヴァスの裏面に「何くそ、こんな絵は書(ママ)きたくない」という文字が乱暴に書きつけられていたことを知るならば、すでにこの時点において伝統的な具象画を描くことに対して作家の煩悶がめばえていたことがうかがえる。作家が自らの方向を見出すにはしばしの時間が必要とされた。1970年前後に制作された、開いた口とその間にのぞく歯を主題とした一連の絵画は具象性と卑俗なモティーフという点でポップ・アートを連想させないでもないが、長くは続かない。殿敷が自らの画風を確立するのは1970年代に入って始められた一連の細密なペン画、そして銅版画によってであった。カタログによれば緻密な点描画は、当時殿敷が勤務していた国鉄の同僚であった画家、池田一憲に触発されたものであったという。口や指といった身体の部位、顔のない背広姿の人物といった幻想的なイメージが緻密に描かれたこれらの作品はシュルレアリスムを連想させないでもないし、50年代に池田龍雄や石井茂雄によって描かれた一連の細密なペン画、光田由里が線描絵画と呼んだ表現との類似も示している。「密室の絵画」はしばしば社会的な主題と接したが、殿敷の場合は個人的な経験と関わる一つの主題が次第に明らかになる。それは被爆体験だ。殿敷の父は広島に原爆が投下された際に、爆心地の真下にあった郵便局に勤務しており、その亡骸を探して被爆直後の広島に入った母子は入市被爆した。母は数年後に死亡し、殿敷もおそらくはそれを原因とする肝臓障害を患うこととなった。インクで細密に描かれたきのこ雲のイメージは1972年に登場する。70年代後半には同様の点描の手法が油彩画にも応用され、鉄かぶとや襦袢、帯といった身につける品物が描かれた。鉄かぶとは父の遺品として爆心地から持ち帰られたものであり、絵のモデルとなった実物も出品されていた。鉄かぶとについて遺品という言葉を用いたが、殿敷が描く着物や装身具も持ち主の死後に残された品物という印象が濃厚である。被爆という事件と重ね合わせるならば、このようなモティーフの選択からは石内都の一連の写真が連想される。この一方、同じ時期に、銅板に直接物を置いて陰となった部分もしくは露出した部分を腐食させる技法によって制作されたエッチングも制作されている。油彩画とエッチング、いずれの場合も色彩は抑制され緻密な点描によって画面が成形されている。
80年代に入るとエッチングに代わってシルクスクリーンが導入されるが、その場合もイメージは無数の痕跡の集合として成立している。「霊地」と呼ばれるシリーズにおいてはモノクロの画面を三日月状のきわめて小さな単位が稠密に満たしているが、実はこの形は爪を暗示しており、1978年に制作された《釋寛量信士(父のつめ)》と題された油彩画の中に描きこまれた爪の形状に由来している。父の爪が父の形見、遺物を暗示していることはいうまでもないから、この一見オールオーバーな画面にも死が影を落としていることはたやすく理解できよう。爪を暗示する単位で画面を満たす方法はシルクスクリーンを介してさらに応用され、写真や地図、広告のモノクロームのイメージが同様の処理を加えたうえで次々に作品化されている。もう一点、注目すべきはやはり80年代の初めにきのこ雲のイメージをシルクスクリーンで転写して反復した巨大な作品が発表されている点である。手法的にウォーホルを模したことは間違いないが、この連作は殿敷の作品の中に原子爆弾と被爆の問題が顕在化した数少ない例である。そして82年頃より鉛筆やボールペンを用いて画面を線や点で塗りつぶし、「集積」という言葉をタイトルに付した一連の作品が制作される。私がこの展覧会で最も興味深く見たのはこれらの連作であった。これらについてカタログには「1982年のヨーロッパ、アメリカへの旅を通して刺激を受けた殿敷は、帰国後、無意識に手を動かすことで、内面の存在感や精神性を確かめたいと語り、ボールペンや鉛筆を用いて無数の線を引き、画面を塗りつぶす作品を制作するようになった」とのコメントが寄せられている。同様の手法を用いる作家は決して少なくはない。リチャード・セラや草間彌生、あるいは松谷武判らの作品がすぐさま連想されようが、殿敷はそれらの作品にも拮抗する強度を有しているように感じられた。あるいはそのヴァリエーションとして、数字のスタンプを画面中にくまなく押した作品からはローマン・オパルカが想起されるかもしれない。
1980年代初めに始まる一連の廃物インスタレーションは、このような集積の手法が現実の事物を使用して空間的に拡張された試みとしてひとまずは理解することができるだろう。実際に1983年に小郡で実施された「黒のイベント」はギャラリーの壁などの空間を鉛筆で塗りつぶすものであり、1987年、栃木県立美術館で開かれた「アート・ドキュメント ‘87」においては美術館のガラス壁全面に赤いチョークを塗りつけ、88年の広島での個展における画廊の壁面をしたたり落ちる赤い絵具の痕跡は直ちにヘルマン・ニッチの一連の儀式を連想させる。これらの作例において作品は絵画との関係をかろうじて保っているが、もはや作品が平面に帰着する必要はなかった。1983年に山口県の県展に出品されたインスタレーションは美術館の前庭に1500本の古タイヤをはじめ、ごみ集積場から拾い集めたトラック三台分の黒い廃棄物をまき散らした過激な作品である。もっともこのような作品も決して類例のないものではない。60年代のアッサンブラージュやアンチフォーム、ロバート・モリスやリチャード・セラの手によるフロア・ピースあるいはスキャター・ピースと呼ばれる作品においてもしばしば加工されない素材や廃品が多く室内に雑然と放置されていた。大量のTVの受像器を用いて空間を遮断する作品も既製品の使用と遮断という手法の結合という点においてクリストやヤニス・クネリスを連想させる。一方で殿敷は同じ時期にプラスティックの廃品を埋めたうえで火をつけて、お好み焼き状のオブジェとして提示するパフォーマンスも何度か行っている。最初に述べたとおり、私はその模様を記録した映像を2014年の横浜トリエンナーレで見たが、驚いたことにこのようなオブジェは一部が残存しており、今回の会場に展示されていた。廃品を用いたオブジェに関しても多くの先例があるが、殿敷の場合、野外での大がかりな制作は一種のパフォーマンス、あるいはランド・アートといって差し支えないだろう。そして展示の最後に代表作とも呼ぶべき「タイヤのなる木」が登場する。立木の枝に無数の古タイヤを引っかけた作品は殿敷のトレードマークであり当時、雑誌や新聞で紹介する記事をよく見かけた記憶がある。今回も実際の制作の過程を記録した映像やマケットが出品されていた。
展示を一巡してあらためて驚くのは、ここで紹介される殿敷の活動がわずか四半世紀ほどの短い間になされている点である。あらためて作家の夭逝を惜しみつつ、例によって若干の所感を書き留めておくことにする。
述べてきたとおり、殿敷の作品は潜在的に重いコノテーションをはらんでいる。いうまでもなく間接的な被爆の体験であり、戦争にまつわる記憶を多くモノクロームによって表現した点は先に名前を引いた香月泰男を連想させないでもない。しかし展覧会を見た印象として私は作家が被爆という主題を声高に主張したようには感じられない。出品作のうち、原子爆弾との直接の関係を暗示するのは被爆死した父の遺品(正確に述べるならば鉄かぶとが父のものであったという確証はない)を描いた一連の作品と、きのこ雲をシルクスクリーンによって反復した作品のみである。この問題は被爆をいかに表象するかという問題と重なる。このブログでは美術や文学、あるいは映画といったジャンルを超えて何度も言及した問題であるが、20世紀の歴史の中には表象不可能な事件がいくつか存在する。多くの美術家、作家、映像作家がこの難問に挑んだ成果をこれまでにも何度か紹介したが、殿敷の仕事もこの問題と直接関わっている。
鍵となるのは「霊地」と題されたシリーズを埋め尽くす三日月状の形態である。このかたちは先に述べたとおり、父の遺品の上に置かれた赤い爪の形に由来し、作家によれば「父の霊が地表から湧き出るイメージ」であるから、爆心地で被爆した父、つまり被爆の経験と深い関係がある。ここで私が注目するのはその形状だ。つまり展示の中では「爪のかたち」と説明されていたが、私たちの爪は三日月形ではない。正確にはそれは爪の跡、爪で何かが押された痕跡なのである。ここから直ちに一つの主題の系列が明らかとなる。それは接触という主題だ。私は殿敷の仕事は絵画や版画、インスタレーションといったジャンルを超えて、接触という共通の問題と深く関わっていたのではないかと考えるのだ。例えば被爆の遺品として描かれた対象を考えてみよう。鉄かぶと、襦袢、足袋、あるいはシャツや帽子、ここには一つの共通点がある。それらは私たちが身につける品物であり、皮膚と直接接触する。「集積」あるいは「数字」という言葉を冠されたシリーズは、ボールペンや鉛筆、あるいは数字のスタンプと支持体の表面との気の遠くなるような接触の連続によって成立している。殿敷が版画という、いうまでもなく版との接触によって成り立つ表現を好んだことの理由もこの点から説明することができるだろう。再び被爆の問題に戻ろう。被爆の表象として私たちがまず思い浮かべるのは丸木位里と俊による「原爆の図」であろう。被爆直後の惨禍をいくつもの主題に分けて描いた一連の作品は原子爆弾の炸裂という圧倒的な暴力がもたらした惨状を一つの似姿、アイコンとして表象している。表現としては再現的であり、視覚的、空間的といえよう。これに対して殿敷の作品は別のかたちで被爆を表象しているとはいえないか。鉄かぶとやシャツが具象的に描かれているとしても、それは原子爆弾の熱線によって変形した品物の提喩であり、一種の抽象性を宿している。衣服や「ドームのレンガ」といった対象の選択とその表現は明らかに触覚的である。さらに言えば接触とは通常、二つの異なった表面が一定の時間、境界を接することによって成立するから時間性を内包している。(爪跡は爪をしばらく押し付けることによって残される)つまり殿敷にとって被爆の体験は「原爆の図」とは全く異なったかたちで作品に取り入れられている。この差異は、作家にとって被爆が間接的な体験であったことに起因しているかもしれない。
接触という補助線を得ることによって、私たちは一連のインスタレーションに対して新たな角度から接近できるだろう。まず自動車のタイヤという独自の素材が用いられた理由を、それが常に地面と接触しているからと考えるのは強引だろうか。この時、すぐさま連想されるのはロバート・ラウシェンバーグとジョン・ケージが制作した自動車タイヤプリントである。周知のごとくこの作品はケージが運転するフォードの車輪にラウシェンバーグがインクを垂らしながら長い紙の上を走行することによって制作された。ここでも接触と痕跡が作品をかたちづくっている。しかし殿敷はタイヤを直ちに平面作品に結びつけようとはしない。おそらくタイヤはサイズと色が一様であることによってアッサンブラージュの単位として選ばれている。この点は爪ではなくタイヤを単位として「霊地」同様のオールオーバーな画面を構成した《集積するタイヤ》という作品からも確認できる。しかし一方で「タイヤのなる木」についても接触という視点を応用することができるのではなかろうか。ミシンと蝙蝠傘ではないが、タイヤと立木という本来的に無関係な二つの要素はタイヤを枝にかけること、物理的な接触をとおして結びつけられる。そしてこれらの作品は視覚的な効果というより、むしろタイヤの重みやタイヤを枝にかける行為といった身体的な感覚に訴求しないだろうか。実は殿敷の作品にとって視覚性はさほど重要な要素ではない。形象が描かれることは少なく(しかも多く新聞や広告といったレディメイドのイメージだ)色彩に関してもモノクロームの場合が多い。何が描かれているかではなく表面がどのように組成されているかという点に私たちの関心は向けられる。表面への、あえて言えば触覚的な関心においてはお好み焼き状のオブジェも同様だ。タイヤと立木が接触を介して作品化されたように、無数の廃物は土の中で焼かれて接触を介した新しいかたちを与えられる。接触が作品の機縁であり、作品は隣接性をその原理としている。私は廃品オブジェにおいて、燃やすという行為が決定的に関与している点に注目したい。先に私は殿敷の作品には死の影が落ちていると述べた。例えば盆の送り火から連想されるとおり、炎を放つ行為を死者に対する一種の弔いとしてとらえることはできないだろうか。そしていうまでもなくそこには爆心地で燃え尽きたであろう作家の父の姿が重ねられているはずだ。火傷そしてケロイド、東松照明の有名な写真を連想してもよい、被爆という体験は目に見える光景ではなく、皮膚と触覚を通してより深く記憶されるのではないか。この時、殿敷は被爆という表象不可能な事件を一貫して接触という原理を通して作品の中で追体験したと考えることはできないか。もしそうであれば、殿敷の作品の黒は生涯にわたる服喪の色であったはずだ。
by gravity97 | 2017-04-02 21:25 | 展覧会 | Comments(0)

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