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 既に終了した展覧会であるが、国立国際美術館で開かれた「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」についてレヴューを残しておきたい。会期の長い展覧会ではよくあることだが、私自身、会場を訪れたのは終了直前であり、すでに販売用のカタログは売り切れていた。もちろん彼らの活動については以前から知っていた。私は90年代に関西の美術館で開かれ、このグループが参加したいくつかの集団展を訪れているし、2011年に今回と同じ会場、同じ学芸員によって企画された「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム」も見ている。しかしそれらにおいては集団展の一角として紹介されたためであろうか、いずれの場合もさほど強い印象を受けることがなかった。しかし今回、あらためてその活動を回顧する展覧会に足を運び、多くの発見があった。この集団が世界的にみても類例のない特異な活動を繰り広げてきたことを今さらながら思い知る。
 今、発見という言葉を用いたが、むしろ私は今までこのグループについていかに無知であったかという点を今度の展示で認識した気がする。まず驚いたのは、プレイという集団が今もなお存在しており、活動を続けているということだ。確かに私は今触れた「風穴」、あるいは最近では2015年の堂島リバービエンナーレにおける発表に立ち会っているから近年の活動自体は知っていた。しかし私はそれらの発表を展覧会にあたって作品が再制作もしくは再演されたものだと思い、過去の活動から切り離して理解していた。しかし今回の展示とカタログを見て驚く。頻度こそ減っているものの、彼らは1990年代にも独自の活動を続けており、今日にいたるまで活動を継続しているのである。このような事情も含めて、まずカタログの冒頭に表記されたこのグループの「略歴」を引用しておく。

プレイ略歴
関西を中心に1967年から活動。現在プレイとして活動するのは池水慶一、小林愼一、鈴木芳伸、二井清治、三喜徹雄の5名。メンバーは流動的で、何らかのかたちでこれまでプレイに参加した人数は100名を超える。発泡スチロール製のイカダで川を下る。京都から大阪へ羊を連れて旅をする、山頂に丸太材で一辺20メートルの三角塔を建て雷が落ちるのを10年間待つなど、自然の中で「行為」を計画し、実行し、その体験を日常に持ち帰ることを繰り返している。

 活動を開始した時点は定められているが、終えたとは記されていない。67年から数えれば今年でちょうど半世紀である。私の知る限り、半世紀の長きにわたってハプニング(この言葉の当否については後で論じる)を繰り広げた集団は世界に類例がない。さらに構成員についての知識もお粗末であった。歴代のメンバーのうち、私は池水慶一と安土修三(ガリバー)の名しか知らない。彼ら二人が個人としても活動しているためであろうが、これは私の無知ばかりによるのではなく、プレイが固有名のない集団として活動したことを暗示している。同時代の二つの集団と比較することによってプレイの独自性を明らかにすることができるだろう。略歴の中に「流動的」という言葉があったが、この言葉から連想されるのはいうまでもなくフルクサスである。綱領なきハプニング集団という点で両者は共通するが、フルクサスにはたとえばジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズといったよく知られた作家が加わっており、私たちは集団というよりも、むしろこれらの作家が束ねられた共同体としてフルクサスをイメージする。彼らの活動は個別でばらばらな印象があり、必ずしも共通性をもたない。一方、プレイに先行して日本にもハイレッド・センターという集団が存在した。名称こそ高松、赤瀬川、中西の頭文字をとっているが、彼らの活動は匿名性をその本質としていた。ハイレッド・センターについては先般展覧会の形で検証され、このブログでもレヴューしたとおりである。活動期間は4年に満たず凝縮感は強い。これらと比べるならば、プレイの活動は固有名と匿名性をともに欠いたゆるやかな輪郭をもっている。彼らが活動を始めた時期を考えるならば、関西ではまだ具体美術協会が影響力を有しており、多くの美術団体も含めて、縦のヒエラルキーを有した集団が割拠していた。この一方、京都アンデパンダン展、さらに京都ビエンナーレなどを舞台に集団によらないアナーキーな作家たちの活動も時代の気風を形作っていた。(ここでは詳しく論じる余裕がないが、京都市美術館を舞台にしたこれらの展覧会は今なお十分に総括されていない。関係者が存命のうちに是非とも調査、ないし展覧会として検証する必要性を感じる)これらと比較する時、ゆるやかにまとまりつつ、プロジェクトごとに構成員を違えて活動を持続させるプレイの戦略は独特であり、結果的に半世紀にわたる活動の持続を可能にしたように感じる。今回の展覧会カタログではプレイの活動がクロノロジカルにまとめられており、活動を概括する充実したテクストとともに、今後貴重な資料となることだろう。
b0138838_20271641.jpg 展覧会の所感をいくつか記しておく。会場には「雷」と題されたプロジェクトにおいて京都府相楽郡、鷲峰山・大峰山の山頂に設えられた三角錐が再現され、「現代美術の流れ」において使用された矢印型の発泡スチロールのイカダが設置されている。しかしこれらを除いて、かたちを伴った「作品」は少ない。そもそもこれらもプロジェクトに使用された「道具」にすぎず、オリジナリティーや真正性が重視される「作品」ではない。展示されているのは映像を含めた資料が大半であり、会場はさながらプレイのアーカイヴのごとき様相を呈している。会期中にアーカイヴに関するシンポジウムがあったと記憶するし、アーカイヴの問題は今日の美術館にとって一つの焦点をかたちづくっているが、これについては措く。作品の不在は先に触れたハイレッド・センターの展覧会と鋭い対照を示している。ハイレッド・センターを回顧するにあたってはオブジェの展示が中心となり、作家たちはそれぞれに紐や梱包、あるいは洗濯挟みといったオブセッシヴな品や手法を用いて多くのオブジェを制作した。これに対して、今回の展示では作品ならざる資料、パンフレットや様々の記録、映像や写真が整然と配置され、半世紀にわたる彼らの活動をコンパクトに理解することができる。資料展示といえば通常無数の資料がケース内に積み重ねられた雑然としたそれを連想するが、今回は会場に並べられた同じ規格の木製パネルに資料類が整然と展示され、きわめてスタイリッシュな印象を受けた。会場の展示デザインは作家、学芸員のいずれの手によるものであろうか。近年、展示構成には展示デザイナーや建築家が関わる場合が多く、しばしば担当者の名前がクレジットされる。この点について会場もしくはカタログに説明があってもよかったのではなかろうか。インスタレーションならずとも現代美術の展示に関しては会場デザインを誰が決定するかという問題も今後、美術館や展覧会にとって一つの課題となるように感じるが、これについてもこれ以上は触れない。ここで私が確認したいのは、プレイの「ハプニング」が本質においてオブジェを志向していないという点である。この点は今回紹介された彼らのプロジェクトを一瞥する時、直ちに理解できる。落雷を待つ、イカダで川を下る、羊を連れて旅する、それらはすべて動詞形で示される。カタログの章立ても「旅する、暮らす、流れる」「風景を変える」「体験する」といった動詞によって区別されている点は象徴的である。かつてリチャード・セラも動詞のリストを掲げ、それに従って素材を加工した。セラのリストが他動詞であったのに対して、プレイのリストは自動詞だ。彼らの行為は何かに受肉されることがない。例えば1976年の「風」という作品は、北海道、宗谷のサロベツ原野を5日間にわたって風の吹いてくる方向に向かって歩くというものであり、確かに会場には前屈みに草原を歩く作家たちの姿を撮影した写真が展示されていたが、記録は残ったとしても、このハプニングは実体を伴わない。カタログテクストの中で富井玲子はプレイのハプニングをプロジェクト協働系と儀式系の二つに分けているが、野外に置かれた白い十字の布や巨大な旗が今回展示されていなかったことからも理解されるとおり、プレイの場合、儀式系のハプニングにおいて使用されたオブジェもフェティッシュ化されることがない点は注目されてよい。ハプニング芸術の創始者アラン・カプローの場合、「アッサンブラージュ、エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス」という著書のタイトルが暗示するとおり、ハプニングはオブジェの集積、演じられる環境と深い関係を有した。カプローが提唱するハプニングはポロックのアトリエや60年代の一連のジャンクアートにおける環境に由来し、プレイのそれとは起源を違えている。プレイは早い時期からハプニングという言葉を用いているようであるが、彼らの活動をカプローに由来するハプニングの変種とみなすか否かは微妙だ。この点を富井は彼女の言う「世界美術史」におけるローカル・ヒストリーの一つとして興味深い議論を展開している。私はプレイの「ハプニング」、オブジェに収斂しない行為を端的に一種の演劇とみなしてはどうかと考える。なぜならばプレイの場合、「ハプニング」はしばしば起点と終点をもつからだ。それは「現代美術の流れ」にみられるように宇治川塔之島付近から中之島東端までといった空間によって区切られる場合もあれば、「雷」の10年間、「風」の5日間といった具合に時間的に限定される場合もあるが、いずれにせよ始まりと終わりという時間的な枠組をもつ。このような構造は美術より演劇に近い。そして演劇という項を得て、新しい関係線が引かれる。プレイの場合、一つの「ハプニング」に要する時間はかなり長い。「現代美術の流れ」においては12時間、「羊」においては京都から神戸に向かう羊をつれた野宿の旅は当初8日間が予定されていた。(高槻で終了したのこと)あるいはウォルター・デ・マリアを連想させながらもそれより早い「雷」が10年間と期間を区切って続けられたことは述べたとおりだ。プレイの場合、メンバーたちが繰り広げる行為は作品の制作というより労働に近く、多くの場合集団的で肉体的な労働である。私はこれらの活動から「合宿」という言葉を想起した。一つの集団がある目的に向かって一定の期間、寝起きを共にして作品に向かう姿勢から私は維新派の野外劇を連想した。そもそも会場内に設置された丸太組から私は2010年に犬島で見た彼らの演劇を連想したのであるが、実際に松本雄吉とプレイは接触があったようである。今回のカタログの謝辞にも松本の名があり、ともに大阪教育大学の出身である。両者の関係については今後の研究が俟たれる。
b0138838_20284091.jpg 維新派とプレイの共通点はもう一つある。それは多くの場合、ハプニングが野外で演じられたことである。しかし時に維新派が屋内もしくは劇場で公演を行ったように(それらのレヴューは以前に記したとおりだ)、プレイも時に美術館を舞台とした発表を行っている。カタログの中で「美術館を解き放つ」と題された章で紹介された発表がそれだ。残念ながら私は未見であるが、いずれも相当にラディカルな試みだ。中でも1980年、兵庫県立近代美術館で開かれた「アート・ナウ ‘80」で発表された作品は会期中、美術館の東側の大窓を外し、展示室内に移動するという内容である。言うは易しという言葉通り、これがとんでもないことであることは学芸員ならずともすぐにわかるだろう。これによって展示室内の空調が無効化され(作家たちは「部屋が呼吸を始め、気流の中にある」と表現した)防犯上の問題も発生するはずだ。管理的、官僚的になった今日の美術館では不可能な試みであり、当時の美術館の度量を感じさせるエピソードである。窓が展示室の中にあることそれ自体は驚くに値しないかもしれないが、そのために必要とされた交渉、作業を想像することが見る側に試されるのだ。このような作品の在り方は私に重量物を移動させるマイケル・ハイザーの作品を連想させた。アースワークという補助線を引くならば、「京都ビエンナーレ 集団としての美術」、あるいは同じ兵庫県立近代美術館で開かれた「明日の美術館を求めて―美術劇場」に出品された作品はいずれも展示室内に設置された作品と野外に置かれた作品、もしくは特定の場所との関係を主題としている点においてロバート・スミッソンの「サイト/ノンサイト」を想起させないだろうか。これらに対して今回の展示では、同様に美術館を舞台としながらもかかる過激さが影を潜め、文字通りこれまでの活動の回顧に終始した印象がある。もっとも「風穴」の場合は会期終了後に展示されていたイカダを用いて「現代美術の流れ」の再現(カタログによれば「続き」)が演じられているから、今後この展覧会を契機として結成50周年を迎えたこの集団によって思いもかけないハプニングが挙行される可能性があることを指摘しておきたい。
 最後に論じておきたいのは記録の問題だ。先に述べたとおり、プレイの場合、行為はかたちをとらないが、彼らは概念を提示するコンセプチュアル・アートを目指している訳ではない。両者は明確に区別されなければならないだろう。この時、行為を記録することの重要性が浮かび上がる。興味深いことには、一連の記録写真にはイカダに乗り、巨大な卵を洋上に浮かべ、雷を待つ櫓を組み立てるメンバーたちの様子が記録されている。この点は行為する者を記録する者が外部にいたことを暗示している。行為に没入するのではなく、行為しつつ、それを記録するという冷静な意志がそこには存在していたのである。したがって彼らが三回にわたって新聞を発行し、四回にわたって詳細な資料集を刊行していたことは驚くに値しない。残念な点はこれらの資料を今日入手することが困難なことである。今回の展示を見て、なおも膨大な資料が残されていることを私は確信することができた。今後、これらの資料がアーカイヴとして整理され、可能であれば資料集もしくはインターネットを介して私たちもアクセス可能となることが望ましい。ハイレッド・センターそして九州派については近年美術館の手によって、活動の全幅を十分に参照することが可能な資料集が発行されている。黒田雷児の大著をはじめとして、痕跡を残さない行為を主体とした美術活動についてもようやく近年美術史の中に回収する作業が進められている。今回のカタログはコンパクトでわかりやすいが、個々のハプニングについての情報がやや少ない。彼らの活動を世界的に位置づけるうえでも、入手しやすくさらに詳細な資料集の整備を期待したい。
by gravity97 | 2017-01-28 20:35 | 展覧会 | Comments(0)

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 毎年、年末年始には数巻にわたる長編を読むことにしている。このブログでもディケンズの『荒涼館』やロレンス・ダレルの「アヴィニョン・クインテット」について論じた。昨年から今年にかけて準備したのは私にとっても初めて読む作家、チリのロベルト・ボラーニョの大作『2666』。大判の単行本、上下二段組で850頁に及ぶ大長編である。読み終えて唖然とする。なんとも超絶的な怪作であった。
 最初に遺族による注記がある。遺族という言葉が暗示するとおり、ボラーニョは50歳で早世し、本書は彼の遺作である。後から論じるとおり、このような事情も本書の内容と無関係ではない。注記によれば作家は五章から成る本書を、それぞれ五巻の分冊として刊行することを遺言として遺した。しかし彼の友人であり文学上の助言者のアドバイスにしたがって分割せず一巻の書として刊行された。「病状が悪化して最悪の事態に至らなければ、彼はきっとそうしていたことでしょう」と注記の末尾にある。最初に種明かしをしてしまえば、五つの章はまさに絶妙の関係で結ばれている。この長大な小説にあっては末尾と呼ぶべき最後のわずか20頁ほどで一挙に視界が晴れるかのように、五つの章、五つの物語が焦点を結ぶ。私が超絶的と述べたのはこのことである。この点で今挙げたダレルの「アヴィニョン・クインテット」と比較することは意味があるだろう。アヴィニョン五重奏も複雑な構造をもつ小説であり、本書と同じ五つのパートから構成され、それぞれが独立した物語として、数年の間隔を空けて出版された。しかしアヴィニョン五重奏は全体として一つの物語のとしてのゆるやかな結構を保っており、五巻の物語をこの順番に違和感なく読み進むことができる。これに対して、「2666」において、読者は章ごとに次々に全く別の物語の中に投げ込まれるかのような思いにとらわれる。この印象をさらに強めるのは五つの章の量的な不均衡だ。最初の三つの章がそれぞれ150頁、60頁、100頁ほどであるのに対して、後半の二つの章は260頁と230頁余りの量がある。注記によれば分冊としての刊行ペースや出版社との契約金まで指示が残されていたとのことであるから、本書を完成された最終稿とみなしてもよかろうが、作者の死後に刊行されたという事情を勘案するならば、このようないびつな分量の配分が初めから意図されたものであったか否かについては若干の疑問が残るし、この点は作品の評価とも関わっているだろう。以下、今回は内容についてもかなり踏み込んで論じるため、白紙の状態でこの小説に向かいたい読者はまず書店か図書館へと足をお運びいただくのがよかろう。
 それにしても奇怪な小説である。「批評家たちの部」と題された第一章は次のような文章で始まる。「ジャン=クロード・ペルチエが初めてペンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは1980年のクリスマスのことだった。当時、彼は19歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた」批評家たち、というタイトルが暗示するとおり、冒頭の章ではアルチンボルディというドイツの小説家をめぐり、彼の小説を研究する国籍を違えた四人の批評家たちが主人公となる。フランスのペルチエ、イタリアのピエロ・モリーニ、スペインのマヌエル・エスピローサ、そして紅一点、イギリスのリザ・ノートンである。アルチンボルディなるドイツ作家は架空の存在であり、言及される多くの小説も実在しない。四人の批評家たちはヨーロッパ各地で開催される学会やセミナーを通して互いを認知し、親密な交際が始まる。四人のうち、モリーニは多発性硬化症のため車椅子の生活を余儀なくされているが、世代が近いこともあり、四人は様々な機会をとらえてそれぞれが住む都市を行き来して次第に交流を深める。ペルチエとエスピローサは次第にノートンに好意を抱くようになり、性的関係をもつ。セックスは明らかに本書を通底する主題であり、彼らの関係は三人でのセックス(メナージュ・ア・トロワ)にまで発展する。第一章の隠れた主人公が作家アルチンボルディであることは言うまでもない。冒頭に1980年という年記があることから理解されるとおり、本書は近過去を舞台としており。アルチンボルディが1960年代から小説の発表を始めたことも記述されている。しかしアルチンボルディは公の場には決して姿を現さず、原稿は多く郵便を介して出版社に送りつけられる。四人の批評家たちはアルチンボルディの消息を探る。北海に面した寒村で偶然にアルチンボルディに出会った作家、出版元の社長夫人、彼らは作家と面識のある人物を訪ねるが、非常に背の高いドイツ人であることが判明しただけで、その行方は杳として知れない。トゥルーズで開かれたセミナーで彼らはつい最近アルチンボルディに会ったというメキシコ人と知り合う。彼を通してアルチンボルディがメキシコ北西部、アメリカ国境のソノラ州にあるサンタテレサという街を訪れたことを知った批評家たちはその街を訪ねてアルチンボルディの痕跡を探す。この街については彼らがそこへ赴く前に一つの不吉な噂が新聞記事として書きつけられていた。それによればこの街では100人を超す女性たちが殺されており、犯人は特定されていないというのだ。サンタテレサを訪れた批評家たちはサンタテレサ大学の文学部長から「アルチンボルディの専門家」であるアマルフィターノという教授を紹介され、彼とともに調査を続けるが収穫はない。報われない探索。劇的な展開を欠いたまま第一章が終わる。そして四人の批評家はこれ以後、この小説には一切登場しない。しかし既にこの章の中にあたかも通奏低音のごとく物語とは直接関係のない不吉なエピソードが散りばめられている。例えばエスピノーサとペルチエによるパキスタン人のタクシー運転手に対するほとんど理由のない暴行、民芸品の売り子をしている少女とエスピノーサのペドフィリア(小児性愛)に近いセックス、自ら右手を切り落とし、切り落とした腕に防腐処置を施したエドウィン・ジョーンズというイギリスの画家のエピソード。暴力と性愛というモティーフはこの長い小説につきまとい、後述するとおり第四部では直接的な主題となる。
 第二章は「アマルフィターノの部」と題されている。題名が示すとおり、この章では第一章に登場したサンタテレサ大学の哲学教授、アマルフィターノが焦点化される。メキシコ西北部の殺伐とした砂漠の町に娘と二人で住む大学教授はバルセロナからこの地に流れ着き、彼の妻は出奔したらしい。前章で彼がアルチンボルディの研究者であることが明らかとされているが、逆にこの章ではドイツ人作家についての言及はほとんどない。代わって美術史を学んだ者にとっては興味深いエピソードが開陳される。書斎に届いた箱の中からアマルフィターノはラファエル・ディエステという書き手の『幾何学的遺言』という見覚えのない本を見つけ(この本は実在するらしい)屋外に物干し用ロープに吊るすという奇妙な処置を施す。いささかのディレッタンティズムとともに私はこの一節を理解した。マルセル・デュシャンだ。デュシャンは1919年、滞在中のブエノスアイレスから妹のシュザンヌに幾何学の教科書をバルコニーに放置し、風に晒されたままの状態で放置せよという指示を与え、《不幸なレディメイド》と名づけて作品化した。今や写真のみによって知られるレディメイドの挿入に私は当惑した。先のエドウィン・ジョーンズの挿話、あるいは明らかにアルチンボルドを連想させる作家の名前、この小説の中にはさまざまなかたちで美術への謎めいた参照がなされる。そしてこの章においてもサンタテレサにおいて引き続く女性の連続殺害事件について言及される。続く第三章「フェイトの部」の主人公もアフリカ系のアメリカ人、新聞記者のオスカー・フェイトという全く未知の人物だ。フェイトは不慮の死を遂げた同僚の代わりにボクシングの試合の取材を命じられる。フェイトが赴いた土地の名を聞いて、私たちはようやくばらばらの物語の接点を知る。いうまでもなくメキシコ、ソノラ州のサンタテレサである。サンタテレサを訪れたフェイトは同じ試合の取材に訪れた記者たちのたまり場で現地の怪しげな男たちと知り合いとなり、若い女性をターゲットにした連続殺人事件が頻発していることを知る。荒廃した街でフェイトは第二章の主人公、アマルフィターノの娘、ロサと会い、二章と三章はかろうじて結びつく。メキシコシティからこの事件を取材に来た女性記者は、この事件を調査する新聞記者たちが何人も誘拐され、行方不明になっているという不気味な噂をフェイトに伝え、まもなく収監されている事件の容疑者と面会すると述べる。物語全体の輪郭は相変わらずあいまいなままであり、この章の最後に記された情景の意味はおそらく本書を読み通して初めて了解されるはずだ。
 続く「犯罪の部」という長大な章には誰もが圧倒されるだろう。なによりも300頁近い分量があるにもかかわらず、その大半は1993年に始まる連続女性殺人事件において死体が発見された状況の説明に終始するからだ。たとえばこんな感じだ。「二月半ば、サンタテレサの中心街の路地で、ゴミ収集人が新たな女性の遺体を発見した。年齢は30歳前後で、黒いスカートと胸元の開いた白いブラウスを着ていた。ナイフで刺し殺されていたが、腹と腹部には何度も殴られた形跡があった」ほとんどの場合、犯人は不明であるが、時に恋人や知人が犯人と名指しされることもあるから、この小説は犯人捜しのミステリーではない。「フェイトの部」の中の記述と殺害の状況が一致することによって犯人が漠然と想定される場合もあれば、犯人の特定とはつながらない何人かの容疑者が拘束される場面も描かれている。この小説において話者は神の視点をとるから、殺人者の語りを入れることも可能なはずであるが、そのような語りは意図的に排除されている。殺人の凄惨な状況は地の文の中で淡々と語られ、列挙される被害者の数、延々と続く殺害状況の説明の反復に読者は早々に呆然とする。終わることのない殺害状況の記述の間に、教会を荒らし大量の放尿をして立ち去る瀆聖者の暗躍、捜査官と精神病院院長との性愛、TVに出演して殺人を糾弾する千里眼の女、刑務所の中での容疑者の虐殺、FBIの専門家の訪問、関連しながらも雑然としたエピソードがいくつも重ねられる。この章を読むと、私たちは1990年代のメキシコの地方都市が置かれた殺伐とした状況をきわめて具体的に理解する。全くの偶然であるが、本書を読んでいる途中、私は『世界』で連載の始まったメキシコの麻薬戦争に関するルポルタージュを目にして驚いた。実はこの小説に描かれている状況はフィクションではなく、現実なのである。「マフィア国家という敵」と題されたルポルタージュにおいてもサンタテレサならざるシウダー・ファレスという街で実際に麻薬にからんだ誘拐、殺人、強姦といった犯罪が日常茶飯事のように発生していたことが報告されている。フィクションと現実の間を往還するこの長い章は97年の末に発見された身元不明の女性の遺体についての記述によって幕を閉じる。
 最後の章が「アルチンボルディの部」と題されていることに読者は驚かないだろう。この章に最初に登場するのは片目の母親と片足の父親の間に生まれたハンス・ライターという少年である。注意深い読者であればこの名前がすでに第一章の中に記されていたことを記憶しているだろうし、ライターが成長するにつれて巨人のような背丈となったという記述からライターとは何者か、想像することはさほど難しくない。早回りをして種を明かせば、この章はライター/アルチンボルディの伝記であり、一種のビルドゥングスロマンと読めないこともない。ライター少年は長じて兵士となって第二次大戦に従軍し、ルーマニアあるいはソビエトにおける奇怪な体験が記される。ベルリンでは後年彼のパートナーとなるインゲボルクという少女と出会う。戦闘で負傷したライターは療養中に滞在していた丸太小屋でボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記を発見し、アンスキーの手記は小説内小説として物語に奇妙な彩りを添える。さらに捕虜となり収容所で知り合ったツェラーという男の告白もまた小説の中に組み込まれたテクストだ。ある事件を介して自分の名を捨てる必要に迫られたライターは敗戦後のケルンで小説家アルチンボルディとして再生する。インゲボルクと再会し、小説の執筆を始めたアルチンボルディは次第に作家としての地歩を固めていく。その過程で第一部において「批評家たち」が訪ねた関係者が次々に登場する。
 大部の小説であるから、単純な要約を許すものではないが、ひとまず本書の粗筋を記した。この小説が分裂的な内容でありながら全体として一種の円環を閉じる独特の構造を有していることは理解いただけるだろう。最初に述べた通り、私にとってボラーニョの小説を読むのはこれが初めてであるから、ほかの小説と比較はできないが、それにしてもなんとも奇妙な小説だ。まず私が感じたのは、本書がこれまで耽読してきたラテンアメリカ文学とは全く異質であることだ。確かにメキシコという中米が舞台であり、作家自身メキシコに長く滞在している。しかしここにはラテンアメリカの小説にしばしば認められるエキゾティシズムや土俗性、神話性は存在しない。この小説に一番近いテイストを帯びた作家はボルヘスであろう。なるほど陰惨な殺人事件の状況の描写が小説の半分を占めているにもかかわらず、全体に抽象的、図式的な印象が強い。生々しい死体の描写も数限りなく繰り返されることによって相対化され、希薄化される。確かに第四章をこれほど書き込む必要があったかという点には疑問が残る。実際、以前このブログで触れた「ラテンアメリカ文学入門」において寺尾隆吉は「これほど頁を費やす必要があるとは思われない」と切り捨てている。作者がこの作品をさらにブラッシュアップする猶予があれば、あるいは優秀な編集者が助言を与えていたらこの章が短縮された可能性はおおいにあると私も感じる。さらに本書からボルヘスを連想した大きな理由はこの小説が小説や作家を主題とした一種のメタフィクションである点だ。第一章においては批評家たちが架空の作家、架空の小説について議論を続ける。アマルフィターノの章において象徴的に扱われるデュシャンのオブジェは何よりも書物を素材にしていることによって導入されたのではないだろうか。あるいは小説家の誕生を主題とした第五章においても小説の中の小説というよく知られた手法を用いて別の物語が入れ子状に組み込まれている。かかる自己参照性はポスト・モダニズムとの関係で論じられることが多い。ヨーロッパ、スペインに滞在したことがあるとはいえ、コスモポリタニズムからは程遠いチリという土地で、かかる意識がいかにして作家に芽生えたかという点に私は興味がある。
 このような抽象性の一方で、この小説はきわめて具体的な手触りも与える。サンタテレサ(先に触れたシウダー・ファレスをモデルにしていると解説にある)でなぜかくも多くの女性が殺されるのか。メキシコ北西部、アメリカと国境を接するという地理条件が大きく関わっている。この街に多くの若い女性が住んでいる理由は小説の中でも説明されている。この街にはマキラドーラと呼ばれるアメリカの下請け工場が無数に存在し、若い女性は安い労働力として搾取されているのだ。実際に小説の中で強姦されたうえで殺害される無数の女性はほとんどがマキラドーラの工員だ。低賃金ではあるが若い女性が簡単に仕事に就くことができる無数の工場が林立する工業都市としてのサンタテレサの光と闇については登場人物の口をとおして語られている。街の中に点在するスラム、度重なる不法投棄によって郊外に際限なく広がるごみ処理場、警察や刑務所の中にはびこる汚職と腐敗。この街の殺伐とした情景は何度も描写される。昨日、「アメリカ大統領」に就任した社会病質者ドナルド・トランプが口汚くののしるとおり、安い労働力を提供する国境の街とはグローバリズムの負の部分であり、したがってこの小説はグローバリズムの表象あるいはそれへの批判といえるもしれない。先にこの小説がいわゆるラテンアメリカ文学と異質であると述べたが、本書においてはボルヘスを連想させる抽象性、自己言及性とパルプノワールを思わせるグロテスクな身体性、具体性が合体し、いくつもの時代といくつもの場所を束ねながら一つの壮大な物語が浮かび上がる。
 それにしてもなぜドイツ人作家が主人公として選ばれたのであろうか。作家の略歴を参照するならば、ボラーニョは世界各地を転々としており、ヨーロッパでもフランス、スペインに滞在した経験はあるとのことだが、ドイツとの深いつながりは認められない。第五部で描かれる第二次大戦中から戦後にかけてのエピソード、ユダヤ人の虐殺や敗走するドイツ兵たちをめぐる奇譚の数々から、私はギュンター・グラスの一連の小説、とりわけ「ブリキの太鼓」と「犬の年」を連想した。グラスの名はカフカやデーブリンとともに作中で言及があるし、ボラーニョには「第三帝国」「アメリカ大陸のナチ文学」といった作品も発表しており、ドイツあるいはナチズムに対する思い入れがあるのかもしれない。しかしながらこれらの小説の紹介記事を読む限り、ここでも私の期待はみごとにはぐらかされることになりそうだ。さいわいにもこの何ともとらえどころのない小説家の作品については近年、多くが日本語に翻訳されている。ラテンアメリカの作家を読む楽しみがまた一つ増えたと感じるのは私だけでなかろう。
 最後に一点、タイトルの「2666」について。解説によればこれは2666年を示し、「小説の異なる部がそれぞれあるべき場所に収まるための消失点」であり、この年号についてはほかの小説でも言及があるとのことだ。しかし少なくとも本書を通読する範囲についてはこの謎めいた年号についての情報は一切与えられることがない。
by gravity97 | 2017-01-21 19:58 | 海外文学 | Comments(0)

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 ミン・ティアンポが2011年にシカゴ大学出版局から刊行した『GUTAI Decentering Modernism』がこのたび翻訳された。2013年のニューヨーク、グッゲンハイム美術館における回顧展以来、このグループが再び注目を集め、何人かの作家の絵画が信じられないような価格で取引されるようになったことは知られているとおりだ。ミンとアレクサンドラ・モンローによって企画されたこの展覧会を私も見たが、かつてこのブログでもレヴューしたとおり、批判的な印象を抱いた。したがって同じ企画者がこの集団をどのように英語で検証しているか、多少の危惧の念をもって本書を読み始めた訳であるが、実に興味深い内容であった。最後に述べる通り、私には同意できない部分もあるとはいえ、本書は具体美術協会(以下、具体)についての全く新しいアプローチであり、具体をとおしてモダニズム美術史観を相対化するきわめて野心的な研究である。ひるがえって本書は今触れた展覧会の意味を再考する契機ともなるように感じた。
 具体というグループを扱いながら、本書は通史のかたちをとらない。確かに理論的フレームワークを論じる序章に続いて、リーダーの吉原治良の経歴に始まり、日本の戦後美術の前史を高橋由一まで遡って論じる第一章以降、具体の活動はほぼクロノロジカルに検証されているが、それは意図されたものではなく、各章ごとに興味深いテーマが設定されている。それらを個別に述べるならば、「距離の相互詩学」と題された第二章においては郵便システム、第三章では『具体』という機関誌、第四章ではメルクマールとなる三つの具体美術展、すなわち1955年の東京、58年のニューヨーク、59年のトリノにおける展示が取り上げられる。そして第五章以降においては資料が少ないことを理由にこれまでほとんど論じられることのなかったいくつもの展示に光を当てられる。第五章では62年のグタイピナコテカの開設と65年、アムステルダムにおける「ヌル1965」、そして同年パリにおける具体美術展、第六章では「ヌル1965」の数カ月後にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展、67年、阪神パークにおける「グタイグループによる宇宙時代の美術展」、そしてよく知られた70年、大阪万国博での発表である。このような構成を確認するだけでこれまでの具体研究にはありえなかった二つの視点が導入されていることが理解されよう。それはまず具体の活動を広く世界的な規模で確認することであり、第二にこれまで低い評価しか与えられることがなかった60年代以降の具体の活動に新しい意味を与えることである。具体の評価についてはすでに一つのクリシェがかたちづくられている。それは初期具体の野外展やアクションに大きな意義を認め、1957年のミシェル・タピエとの接触によってアンフォルメル絵画へと転身することによってそのオリジナリティーが殺がれたという見解であり、かかる発想は具体の活動時から今日まで、例えば最近ではミンも引用する現代美術に関するエンサイクロペディアとも呼ぶべき『Art Since 1900』の中でイヴ=アラン・ボアが論じるところでもある。本書はこのような通説に対する根底的な批判である。しかしこれにあたって彼女が提起する「文化重商主義 cultural mercantilism 」という概念は必ずしも有効ではない。本書の意義は単純にその実証性に求められるべきであり、新しい理論的モデルの構築は必要なかったように感じる。むしろハロルド・ブルームの「影響の不安」という概念を拡張することによって事足りたのではなかろうか。
 ミンは大学院時代にインターンとして、当時、芦屋市立美術博物館に移管されていた具体に関する資料、ことに吉原治良旧蔵の資料の整理にあたっており、具体の研究者としてのアドバンテージの一端はこの経験に負っている。この成果は本書にも十分に反映されている。一例を挙げよう。ミンは吉原が具体を回顧した文章を引用しつつ、その典拠として『具体』誌の13号を挙げる。この箇所を一読し、私は不審に感じた。なぜなら『具体』誌は10号と13号を欠号としているからだ。しかし註を参照するならば、ミンは吉原のアトリエに遺された資料中、吉原の手書きによって13号の雛形に添えられたコメントを例証としてかかる記述を行っている。緻密な資料調査に感心するとともに、この点に本書の一つの限界も存しているように感じた。現在は大阪新美術館準備室に保管されているこれらの資料はまだアーカイヴとして整えられていないため、参照することが容易ではない。つまり本書においては典拠をこれらの資料群に置いた記録や発言について、関係者以外はその真正性を確認することが容易ではない。もちろんこれはミンの責任ではないし、世界的にみても資料として第一級の価値がある(それゆえ芦屋市立美術博物館の経済的危機が叫ばれた際には、海外の美術機関が一括して買い付けるのではないかという噂が流れた)これらの資料が遠からずアーカイヴとして整備され、可能であればインターネットを介した検索が可能となることを望むのは私だけではないだろう。
 やや話が逸れた。本書の理論的枠組とオリジナリティーの問題を扱った序章と第一章は抽象度が高く、先にも述べたとおり作業仮設もうまく機能しているとは思えない。筆者は序章の最後の箇所で本書の目的を次のように記している。

本書は非大都市型モダニズムのトランスナショナルな研究の拡大に寄与するものだと考えている。こうした研究はモダニズムを漸進的に再考する方向に向かってきたが、本書ではよりラジカルな視座を提唱したい。つまり、いかに文化重商主義の言説が影響という概念を通じて非西洋のモダニズムを周縁化したかを分析し、作家間の相互詩学的関係を考察するための正確かつ柔軟な方法を提案したい。この方法論を用いて、本書はモダニズムの物語、領域、そしてそれらの核心となる特徴さえも再考する方法論を構築する。

 翻訳の問題もあろうが、わかりにくい文章である。読者はここで立ち止まって考えるより次章に進むのがよい。「作家間の相互詩学的関係」が具体的に論証されるからだ。続く第二章でミンはまず具体と海外の作家たちの「トランスナショナル」な関係が郵便というシステムを用いて深められたことを説得的に論証する。郵便を用いた交渉は多様なレヴェルにわたっている。例えば裕福な実業家であった吉原のアトリエに戦前より海外の美術雑誌や展覧会カタログが国際郵便によってほぼリアルタイムで届けられていたことは既に指摘されてきた。この中で彼女は1951年、『アートニューズ』5月号に掲載されたロバート・グッドノーの有名な記事「ポロックが絵画を描く」に注目する。ミンによればこのテクストを吉原はわざわざ書き写し、その中には「抽象から具体(concrete)をめざす」という言葉があったという。この言葉が具体という集団の名称、あるいは具体美術宣言に影響を与えたとするならば、興味深い指摘であろうし、具体とポロックの関係を強く暗示する挿話である。郵便システムに関しては、郵送によって世界中の作家や批評家に送られた『具体』誌をめぐるそれが連想されようが(その一部がポロックのアトリエに届いたことはいうまでもない)、ミンは意外な主題につなげる。それは年賀状である。IT環境の発達した今日においても年賀状は視覚的な情報発信の手段であるが、当時会員間で交わされた年賀状に着目したミンはそれがメールアートの先例であったこと、さらにそれが小さなサイズのオリジナル作品という発想を導出し、第11回具体美術展の際に会場に置かれた「具体カードボックス」という作品カードの「自動」販売機へと展開されたと論じる。本書にはかつて具体からルドルフ・スタドラーに送られた多数の年賀状の図版も掲出されているが、年賀状をミニチュア絵画ととらえる発想は示唆に富み、具体におけるコンセプチュアル・アートの萌芽をこの点に求めることも可能であろう。かかるポータビリティは1960年に大阪高島屋上空に下絵を拡大した海外作家の作品をアドバルーンで吊り下げた「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」、さらに60年代には一連の海外での作品発表の際におけるインストラクションへと展開されるという。実はこの問題は『具体』誌とも深く関わっている。この冊子をめぐっては具体初期を彩る神話がよく知られているが、ミンが注目するのは1962年に発行される予定であった第13号であった。知られているとおりこの号はグタイピナコテカ開設時のパンフレットにその予告が写真とともに掲載された幻の雑誌であり、その詳細は今日もよく知られていない。ミンは次のように解説する。「1962年に具体がグタイピナコテカの開館に合わせて『具体』誌の特別記念号を出版する計画を立てた時、メンバーは表現媒体と展覧会場としての機関誌という初期の試みに立ち返った。(中略)構造としては13号の前半ではひとりにつき2作品の割り当てで作品掲載の予定だったようだ。それぞれ絵画作品の複製と葉書大の手描きのマルティプルの実物を貼り込んで併置するというアイデアである」具体がきわめて早い時期にマルティプルという発想を美術に持ち込んでいたことはこれまで指摘されることのなかった重要なポイントである。ここからはデュシャンやコンセプチュアル・アートと具体という新しい関係線を引くことも可能であろう。さらにミンは『具体』誌の発行部数や配布先についても詳細に言及するとともに、フランスで発行された『ロボ』という雑誌について言及する。ジャン・クレイ(あの美術史家のジャン・クレイであろうか)によって編集されたこの雑誌は1971年に発行された5/6号で具体の特集を組み、しかもそこではタピエへの批判的な視点が加えられていたという。この雑誌についてはこれまでの具体研究ではほとんど言及がない。このような新しい知見が得られることも本書の大きな魅力であり、それは世界各地で調査を続けた筆者の行動力と語学力に多くを負っている。
 しかしこれらの新知見以上に、私は本書をとおして具体が置かれた状況について全く新しい光が当てられたことに注目したい。私がそれを強く感じたのは「具体美術展の地政学」と名づけられた第四章である。ここでは具体の活動の中心であった具体美術展を軸にまさに美術の地政学が論じられる。最初に述べたとおり、タピエとの接触を機にアンフォルメルの一翼としての立場を鮮明にした具体は1958年、日本各地を巡回した「新しい絵画世界展」において、ヨーロッパのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義そして日本の具体という新しい国際様式のフロントを大胆に示した。このあたりの事情を確認したうえで、ミンは同じ年、ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで開かれた第6回具体美術展と翌年トリノで開かれた第7回具体美術展に注目する。これら二つの具体美術展に関する今までの定説は、ニューヨークの展覧会は抽象表現主義の亜流として酷評され、トリノの展示は資料が残されていないから詳細が不明というものであった。海外で開催された展示であるから資料調査が困難であることは当然とはいえ、この二つの展覧会は具体研究における一種のブラックボックスとなっていた。ミンは当時の資料を読み込んで前者についての批評が、具体におけるアクションや実験的な側面にあえて目を閉ざし、絵画に集中することによってもたらされた意図的な批判であった点を実証する。私が感心したのはミンがニューヨークとパリの間の美術の覇権をめぐる闘争の一端としてこのような状況を実証的に分析している点である。具体の様々な前衛性に関する情報は十分に与えられていたにもかかわらず、ニューヨークの美術界は具体の活動を単に絵画の問題へ矮小化して否定した。具体を尖兵としたタピエとジャクソンの世界戦略は破綻する。確かに時期といい場所といい、ニューヨークの具体展はパリとニューヨークの間の美術をめぐる覇権争いのメルクマールとなる出来事であった。私は日本の作家集団がこの歴史的局面に深く関与したことをあらためて思い知った。そしてさらに興味深いのはかかる現代美術のパワーゲームの中で具体は単に欧米の批評に左右される存在ではなく、時に自らもプレーヤーとして欧米の美術界に伍したという指摘である。ニューヨークにおける批評家たちの反発を目の当たりにした吉原はトリノの展示においては戦略を違える。いうまでもなく絵画そしてアンフォルメルの要素を切り詰めて、具体の前衛性を正面に押し出したのである。このうえでも雑誌が大きな役割を果たしたことは注目に値する。具体はあらかじめ『NOTIZIE』誌の特集を用いて自分たちの活動を紹介し、東洋の未知の前衛集団として自らをアピールした。ニューヨークでの冷遇に対してヨーロッパでの成功は続く60年代の具体の評価と密接に結びつくこととなる。
 かかる視点を得る時、先に述べたアドバルーンを用いた展示、「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」の評価も変わってくる。この国際展の開催、そして出品者の顔ぶれは具体の世界的な認知、針生一郎の言葉を借りるならば「国際的同時性」を暗示している。したがってミンはタピエとの接触によって具体の創造性が衰えたという通説には与しない。それどころかまさにこの接触を契機として具体は自らの表現の同時代性を意識し、さらに新しい冒険に乗り出した。その答えの一つが62年に開設された常設展示場、グタイピナコテカであることは言を俟たないだろう。ミンはそこを訪れた著名な作家や批評家を列挙してその国際性を強調する。さらに65年、アムステルダムのステデリック美術館で開催された「ヌル1965」と実現にはいたらなかったがその後、やはりオランダのスヘフェニンゲンで企画された「海上のゼロ」の構想についての詳細な検証からは、60年代にあって具体が再び絵画からオブジェや立体へと活動の中心を移そうとしていた様子がうかがえる。一方でタピエもまた具体の絵画によって巻き返しを図る。奇しくも同じ65年にパリ、スタドラー画廊で開かれた具体パリ展であり、展示は絵画のみで構成されていた。私たちはこれまでこれらの展示を同じ年にヨーロッパで開かれた具体による連続デモンストレーションとみなしてきたが、そこには美術の主流、海外での認知をめぐる関係者の激烈な暗闘が隠されていたのである。そして疑いなく吉原のリーダーシップに基づいて、具体はかかるパワーゲームに主体的に参加していた。
 かかる問題意識に立って、ミンは同じ65年にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展に具体の一つのピークを認める。吉原が円によるハードエッジ抽象に転じ、キネティック・アートやオップ・アートに分類される多様な作品が発表されたこの展示は初期のアンフォルメルの牙城として具体とは一線を画すものの、これまでむしろ初発時の創造性の衰退を示すものとして否定的に言及されることが多かった。これに対してミンはこのような多様性を肯定し、それが端的に「ヌル1965」に参加したことによって得られた自信に裏打ちされていると説く。これは同時に具体におけるアンフォルメルの終焉を画す意味をもち、タピエによる具体の専横の終焉であった。この後、具体はいくつかのインターメディア系の展示に参加し、多くの前衛作家が反対を表明した万国博覧会にもあえて「具体美術祭り」で応えた。しかし具体にはもはやさほどの時間は残されていなかった。72年、オランダでのスカイ・フェスティヴァル再現についてオランダ大使と電話で会話中、吉原は脳出血で倒れ、まもなく他界する。傑出したリーダーに支えられた具体にとって吉原の不在は集団の解消を意味した。かくして60年代に具体が提起した国際的同時性という問題は十分に深められることなく、またその後の具体研究においても等閑視されてきたことをミンはあらためて指摘する。
 実際にはミンの議論は相当に入り組んでおり、単純な要約を許すものではないが、以上で少なくとも本書の核心についておおよその見取り図を与えたことと思う。最初に述べたとおり、このような研究は語学に通じ、日本人ではない研究者によって初めて可能な発想である。本書を読んで、私は近年きわめて近似した意識に基づいて執筆された研究が上梓されたことを想起した。本ブログでもレヴューした池上裕子の「越境と覇権」である。池上も時間的な影響関係ではなく、空間的な交渉を主題として、1964年のラウシェンバーグの活動を論じたが、本書においても具体という集団の歴史ではなく、空間的な関係が主題とされている。資料の綿密な調査、存命の関係者へのインタビューといった点においても共通点を有する二つの研究が、1960年代中盤、モダニズムの首都の座をめぐってパリとニューヨークが角逐を繰り広げていた時期に焦点を当てていることは偶然ではないだろう。(いうまでもなくこの点がミンの具体研究の独自性でもある)モダニズムにおいては中心と周縁という関係が成立する。モダニズムの中心において洗練された前衛は変形を被りながら、周縁へと伝播する。キュビスムからシュルレアリスムまで私たちはこのようなモデルをいくつも指摘することができる。これに対して池上においては移動、ミンにおいては相互詩学や同時性といったキーワードを介して、時間ではなく空間、伝播ではなく同期が論じられる。中心はもはや一つではなく複数、さらに「脱中心化」というモデルさえも提出される。これらの発想はモダニズムがもはや金科玉条ではなく、その相対化が図られた1990年代より顕著となり、展覧会としては、1989年、ポンピドーセンターで開かれた「大地の魔術師たち」、1998年、ロスアンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクションズ」、1999年、クイーンズ美術館における「グローバル・コンセプチュアリズム」などが連なる。私はソビエト連邦が崩壊した時期よりかかる趨勢が力を得たことは偶然ではないと考えるし、美術史研究の分野に応用されて多くの成果を生んだ「グローバル・アート・ヒストリー」の研究者の多くが非欧米系の女性であることもまた一種の必然性を秘めていると感じる。
 本書はきわめて独特の研究であり、多くの新しい知見を得ることができたが、最後に私の立場からいくつかの問題点を指摘しておきたい。まず60年代中盤の具体に対する肯定的な評価に私は同意することができない。これまでにも具体の活動がその全幅において回顧された機会は何度かある。近くは2012年に国立新美術館で開かれた「具体 ニッポンの前衛 18年の軌跡」がこのような展示であった。このブログでもレヴューしたとおり、具体の作品が歴史的に概観された場合、60年代以降の作品の脆弱さは誰が見ても明らかであり、この印象は今回本書に掲出された、例えば第15回具体美術展の会場写真を見ても変わることがない。作品はばらばらで展示も散漫で希薄に感じられる。「新たな自信とエネルギーに満ちた具体メンバーは素材、テクノロジー、空間、そして動きを使って、真に革新的成果をみせた」というコメントは過褒に過ぎる。第五章以降、国際性や同時代性に注目するあまり、本書からは作品に対する価値判断という視点が失われたように感じられる。国際性を論じるうえでは62年の常設の展示施設の設立は決定的に重要であり、それゆえミンは従来の三期区分に対して、グタイピナコテカ設立以前と以後という具体の二分法さえ提起する。しかし私はこのような国際的同時性の検証は60年代ではなく、むしろ初期から中期の具体についてこそ試みられるべきではないかと考える。むろんそこにはタピエという毀誉褒貶の激しいプレーヤーが介在した。しかしモダニズムの核心とも呼ぶべき彼らのオリジナリティーはミンも説くとおり、この時期にこそ横溢しており、さらに当時の彼らには明らかに国際的同時性への自覚があった。歴史に「もし」はありえないとはいえ、私はタピエなき具体を夢想する。タピエが介在せずとも、具体の絵画が当時において世界的な評価を受けたと考えるのはあまりに無邪気な認識であろうか。しかし実際にタピエと接触する以前に具体の絵画はサイズや物質性、あるいはアクションの介在といった点において、すでに抽象表現主義に比肩しうる資質を獲得していたと私は考えるのだ。つまりタピエやヌル、あるいはゼロを経由せずとも、すでに複数のモダニズムは存在していたのではないか。そして本書には具体の絵画についての言及がきわめて少ない。印刷物に掲載された写真、マルティプルのミニチュア作品、下絵を引き延ばしてアドバルーンから吊り下げた作品、それらはモダニズムの外部にあって興味深いエピソードではあるが、本書を読む限り、少なくとも初期の具体の活動の中心に絵画が存在し、しかも高いクオリティーを秘めていたことを理解することは困難である。絵画を軽視することは具体にとってその可能性の中心を素通りする偏った見解である。
 あらためてグッゲンハイムにおける具体展を振り返るならば、本書における主張が随所に取り込まれていることがわかる。児童美術や具体カードボックス、「間主観的な」落書板といった本書で言及されたアイテムが展示に組み込まれ、遊戯性やインターメディア性が強調される一方で、絵画はその自立性を意図的に弱めて展示されていた。これらへの批判はすでにこのブログで行っているので繰り返さないし、逆に本書を読むことによってあらためてこの展覧会の暗黙の意図を了解することができた。私は日本の戦後美術史にそれなりに通暁しているから本書をある程度相対化して論じることができる。しかし多くの英語圏の読者にとっては今後、本書とグッゲンハイムの展覧会カタログが具体に関する理解の基礎となるはずだ。それなりに興味深い視点であるが、今述べたとおり、私はそれらによって具体の達成の本質が検証されたとは考えない。自らの国で成立したきわめて独自な運動であるにもかかわらず、その評価において私たちはいまだ「中心」からはるかに離れた「周縁」にいるのかもしれない。
by gravity97 | 2017-01-05 21:00 | 現代美術 | Comments(0)