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by gravity97 | 2016-10-15 21:03 | BOOKSHELF | Comments(0)

b0138838_22474677.jpg中島らもが急逝というか不慮の死を遂げてから、もう10年以上の歳月が経った。しばらく前であるが、ちくま文庫からエッセイ・コレクションに続いて短編小説コレクションが刊行された。編者は小堀純。かつて「ぷがじゃ」の編集長を務め、演劇批評でも知られている。今、「ぷがじゃ」という固有名を挙げたが、この雑誌は1980年代を関西で過ごした者にとっては懐かしく感じられるだろう。私が中島の名を初めて知ったのは正式名称を「プレイガイドジャーナル」というこの雑誌に連載されていたカネテツデリカフーズの「微笑家族」という奇怪な広告記事の制作者としてであったはずだ。ただし今確認したところ、「ぷがじゃ」は実質的に1987年に廃刊されているから、私がこの広告を初めて見たのが、この後、最初朝日放送が発行していた「Q」という情報誌を乗っ取るようなかたちで進出した東京資本の関西版「ぴあ」のいずれであったかは判然としない。ここに「Lマガジン」、通称エルマガを加えて、四半世紀前の関西における情報誌の乱立というか戦国時代もそれなりに興味深い問題ではあるが、それはこのレヴューの主題ではない。
b0138838_2249980.jpg  私はこれまでにずいぶん多くの中島の小説、エッセー、自伝的エッセーを読んできた。私が感じた共感は80年代から90年代の関西という自分の生活圏が中島とシンクロナイズしていたからであろうし、ことに阪神大震災以前の阪神間というトポスは私にとって懐かしいものであるからだ。私は中島がエッセーの中で言及する店や場所の多くに心当たりがあり、実際に訪れたこともある。中島の生活史を知るうえでは朝日新聞のサービス誌に連載された「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」を読むのがよかろう。尼崎の歯科医の息子として生まれた中島は灘校(灘中と灘高を総称してこう呼ぶらしい)に進む。しかしそこで完全にドロップアウトした中島は神戸で「フーテン」生活を送り、シュルレアリスムやロック、ドラッグに馴染んでいく。この後、中島は有名大学に進む友人たちを横目に大阪芸術大学に進学するが、富田林の地の果てに所在する大学にはほとんど通うことなく異能のコピーライターとして頭角を現す。中島自身も記す通り、中学高校における異様なテンションの高さと大学における暗転の対比は印象的である。しかし中島によるとさらにこの後、「超絶的に明るい、おじさん時代」が横たわっているとのことであり、私が知っているコピーライター、劇団の主宰者、放送作家や作家といういくつもの顔をもつ中島はこれ以後のことであろう。
 前置きが長くなった。本書には未発表の二編を含めて、1989年から2004年の間に執筆された15編の短編が収録されている。私は中島の短編をずいぶん読んだつもりであったが、それでも読んだことがある短編はごくわずかであった。もっともどの小説もテイストとしてはよく見知ったものであり、ホラーやロック、小噺、プロレスといったおなじみのテーマが満載されている。この中で未発表の二編、特に表題とされた「美しい手」は中島としてはかなり異質の、抒情性の高い佳作である。編者の解説によればこれらの小説の原稿は死後に発見され、おそらくは中島が広告代理店に勤務していた1983年から86年の間に執筆されたまま放置されていたであろうとのことだ。つまり中島としても最も初期の作品である。「美しい全ての手は哀しい。/封も切られず捨てられた手紙のように哀しい。夜明け前のガソリン・スタンドのように哀しい。ささくれたヴィオラの弓の馬の毛のように哀しい」という詩的な文章に始まり、断章風の文章が連ねられている。小噺風の断章もあれば、回想風の断章もあるが、最後に落ちをつけてまとめるあたり、才人たる中島の片鱗が早くもうかがえる。先に異質と記したが、確かに作家として正式にデビューする以前に執筆されたと思しき冒頭の二編は本書に収められたほかの短編とはテイストがやや異なる。しかしこのような抒情性は決してほかの小説に認められない訳ではない。例えば「今夜、すべてのバーで」という長編はアルコール依存症として入院した中島の自伝的な小説であり、例によって飲酒をめぐるドタバタの繰り返しであるが、読後になんともいえない寂寥感が残ったことを覚えている。おそらくそれは中島の破滅願望と関わっているだろう。周知のとおり、中島はしばしば著書の中で自らの自殺念慮について記しているし、2003年には大麻取締法で逮捕されている。突然の死も飲酒した後の階段からの転落が原因であった。躁鬱病、ドラッグ、アルコール依存は長編短編を問わず中島の小説の主題系を形成しており、エッセーもそれに関連した内容が多い。そしておそらくその裏返しであろうが、中島は人として常に一種の含羞を漂わせていたように感じる。私は中島とは面識がないが、彼の死後、多くの関係者が故人を偲ぶ文章を発表している。それらを参照する限りにおいても彼が過激な書きぶりとは対照的なナイーヴな性格であったことは間違いないだろう。この意味で「美しい手」と「“青”を売るお店」という繊細な味わいの二編を冒頭に置いた構成は作家本人をよく知る小堀ならではの配慮であり、「私は『美しい手』が出版されれば、もう編集者を辞めてもいいと思った。この作品が陽の目を見るまでは死ねないと思った」という述懐もあながち編者としての気負いばかりではなかろう。中島は早世したが、よい編集者に恵まれたと思う。
 ほかの作品にも触れておこう。いずれも甲乙つけがたい怪作揃いである。「日の出通り商店街 生き生きデー」は商店街の日常に年に一度、誰を殺してもよい日がめぐってくるという設定のドタバタ劇。筒井康隆の「銀齢の果て」なども連想されようが、中島らしく格闘技に関する蘊蓄が随所で語られる。格闘技といえば「お父さんのバックドロップ」も実在のプロレスラーを念頭に置いた一種のファンタジーである。「ねたのよい」と「寝ずの番」はそれぞれロックバンドのギタリストと噺家のプロフェッショナリズムと関わる短編。いずれも中島の実体験と関係しているのではないだろうか。前者は伝説のロッカー、山口富士夫へのオマージュと呼ぶべき作品であり(このレヴューを記すために確認したところ、山口も喧嘩の仲裁に入って突き飛ばされ、脳挫傷で2013年に没している。因縁というべきであろうか)、後者は噺家の師匠の死後に集った弟子たちによる師匠をめぐる艶笑小噺であり、この類の下ネタを中島が愛好していたことも想起される。「ココナッツ・クラッシュ」と「琴中怪音」はいずれもどこともしれない国における一種の奇譚であり、中島敦を連想させるなどと書けば褒めすぎであろうか。「邪眼」と「EIGHT ARMS TO HOLD YOU」はいずれもグロテスクな味わいの短編である。私はこれらが収められた「人体模型の夜」こそ、中島の短編集中のベストではないかと思う。この短編集に収められた短編は海外で言えばロアルド・ダールあたりを彷彿とさせる奇妙な後味を残す。小松左京や筒井康隆、かつては日本でもSFの分野を中心にこのような書き手、このような短編が多く発表されていたが、近年ではあまり読んだ記憶がない。「クロウリング・キング・スネイク」と「DECO-CHIN」も中島らしい短編だ。前者は蛇へと変身していく姉の姿をコミカルに描き、後者はロッカーによる自らの身体毀損、身体改造を主題としている。特に後者は相当にグロテスクで反倫理的な内容である。本書の巻末、「本書のなかには今日の人権意識に照らして不適切な語句や表現がありますが、時代的背景と作品の価値にかんがみ、また著者が故人であるためそのままとしました」という但し書きは明らかにこの短編を指している。しかし明治大正の小説ならばともかく、10年ほど前に書かれた小説に対して「今日の人権意識」もあるまい。逆にこの点は中島の確信犯的な悪趣味を反映している。そして転落事故の三日前に脱稿され、ゲラが出た時に著者は集中治療室にいたというこの短編をあえて選んだところに編者の思いが反映されているように感じた。
 本書に先だって刊行され、同様に「今日の人権意識」云々といったエクスキューズが付された「中島らも エッセイ・コレクション」とともに、本書は特に初めて中島に接する読者に対してはよい導入となるだろう。しかしこれはまだ序の口にすぎない。それぞれの短編をさらに過激にしたような長編がいくつも存在するし、そもそも小説、エッセーというカテゴリーからは抜け落ちる多くのテクスト、コントや悩み相談への回答、広告、漫画や対談の中にこそ、この作家の本質を垣間見ることができるのではないだろうか。テクストの無秩序な広がりこそが中島らもという鬼才の輪郭をかたちづくっており、それゆえ事故による早世が惜しまれるのだ。しかしあえて問うならば、かかる夭折を本人が無意識に欲していたということはありえないか。私は先に「阪神大震災以前の阪神間というトポス」について論じた。1980年代にあって阪神間モダニズムの揺籃の地、尼崎から神戸にいたる地域は気候においても風土においても一種のパラダイスであった。しかし1995年の阪神大震災によって、この地域は壊滅的な打撃を受けた。幼い頃より親しみ、とりわけ青年期を過ごした美しい街が文字通り灰燼に帰したことを中島はどのように受け止めただろうか。私の知る限り中島に阪神大震災に言及した文章やエッセーはないように思う。しかし逆にこの不自然な沈黙こそが、中島の思いを暗示しているのではないだろうか。最初に述べたとおり、本書に収められた小説はほとんど全てが震災以後に執筆されている。これに対して叙情性に富んだ二つの短編、あるいは「今夜、すべてのバーで」といった小説が震災以前に執筆されていたことは何かしらの意味があるのであろうか。中島の自己破壊衝動、生に対するペシミズムというよりニヒリズムについてはいくつかの理由を想定することができる。それは生来のものであったかもしれず、薬物やアルコール依存の副産物であったかもしれない。しかし私は震災のトラウマもまたそこに大きく働いているように感じるのだ。思うに中島が世に出た1980年代とはおそらくこの国にとっても最も幸せな時代であった。それから二つの震災を経験し、私たちは経済的な余裕、そして精神的な余裕を失っている。今日、私たちを蝕む自己破壊衝動とニヒリズムに対して、中島はいわば「炭鉱のカナリア」として自らの生を代償として警告したのではなかっただろうか。
by gravity97 | 2016-10-12 23:02 | エンターテインメント | Comments(0)

飯島洋一『建築と歴史』

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 飯島洋一の批評については以前『「らしい」建築批判』についてレヴューした。新国立競技場をめぐる騒動から語り始める『「らしい」建築批判』も安藤忠雄や伊藤豊雄の「らしい」建築を完膚なきまでに批判する攻撃的な論攷であったが、本書もまたきわめてポレミックな批評である。「建築と歴史」というタイトルは必ずしも内容を十分に反映しているとは思えない。もちろん建築や歴史について論じられる部分もあるのだが、私の考えでは本書のテーマは「日本の建築の歴史」がいかに他者、すなわち西欧によって捏造されたかという問題と関わり、一種のオリエンタリズム批判が主題とされている。そして次に述べる通り、前著同様に建築のみならず美術の分野にも拡張可能な思考が繰り広げられていた。
 本書は一昨年から昨年にかけて金沢21世紀美術館で開催された「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」に対する深い違和感から説き起こされ、この違和感は続く章においても繰り返し表明される。私は未見であるが、この展覧会はポンピドーセンターの副館長フレデリック・ミゲルーが企画したという。飯島がこの展覧会に加える批判は多岐にわたるが、まず日本の現代建築の「起源」として第二次世界大戦の戦災を出発点としてとらえ、さらに日本の場合、そのような「起源」が複数存在するという展覧会の構成に関するミゲルーの認識が「完全な誤り」であり「致命的な誤り」であると飯島は主張する。この点は続く章においていくつかの観点から分析されるが、その前に美術館にとっても看過できない問題が提起される。まず単純な疑問から始めよう。なぜフランスのポンピドーセンターの副館長が日本の現代建築に関する展覧会を企画するのか。飯島は建築とは芸術でありえないことを繰り返し主張してきたが、図面や模型が美術館に取り込まれることによって、美術品とみなされる風潮が一連のアンビルドの建築家(いうまでもなくその代表が先日急逝したザハ・ハディドだ)らの活動を契機に生じてきた。私はこのような状況を70年前後に作品の商品化を拒否したコンセプチュアル・アートが美術館に収蔵されていった過程と比較して検証したい誘惑に駆られる。本来ならば建築の施工とともに意味を失うはずの図面や模型を自らのコレクションに加えようという美術館の欲望を飯島は批判する。「この金沢での大規模な戦後日本建築展の終了後に行われる、展覧会そのものより重大なイベントは、今回、この会場に展示された日本の戦後建築の膨大なコレクションの、ポンピドーセンターによる、あるいはミゲルーによる『収集』のはずである。つまり、この展覧会の終了後に行われるのは、ミゲルーによる展示品の『買い取り』となるはずなのである。まずは、どの建築家のドローイングなり模型なりを買い取ろうか、その『オークションの場』が実はこの金沢の大規模な展覧会の真の正体なのである。つまり、この展覧会は、本来、展覧会がするべきことと、その結末が、全く逆転している。ミゲルーはこの展覧会を開いたから、その展示品を買い取りたくなったわけではない。事実はその逆である。彼は最初から図面や模型を買い取りたいからこそ、この展覧会を開いてみせたのである」飯島はこれを西欧の「異国趣味」の一例とみなして、ナポレオンからフランク・ロイド・ライトにいたるエキゾチックな遺物の収集の歴史を論じる。飯島はかかる欲望と一連のスター建築家にみられる、「建築におけるアート化現象」が連動してかかる展覧会として結実したとみなす。後者の問題は『「らしい」建築批判』で詳細に論じられたとおりである。私が関心をもったのは、ミゲルーのごときキューレーターの欲望が美術の領域でもしばしば認められることだ。この30年ほどの間に、外国人キューレーターの手によって日本の戦後美術を検証する展覧会が次々に企画されたことは知られているとおりである。同じポンピドーセンターであれば、1986年の「前衛の日本」、あるいは1994年、グッゲンハイム美術館ソーホー分館における「戦後日本の前衛美術」、最近ではこのブログでもレヴューしたニューヨークにおける具体美術協会や1960年の前後の東京に焦点を当てた展示。そこで提起された美術史観の妥当性について今は措く。問題は日本において自国の建築史や美術史がしばしば西欧という他者の目をとおしてかたちづくられてきたという事実である。もちろん私は千葉成夫や椹木野衣のそれなりに独特の研究や論考を高く評価するが、展覧会は現実の作品をとおして検証されるため、作品の所有という欲望と直結している。ミゲルーによる「買い取り」、すなわち展覧会によって権威づけた作品を関係者が購入するという一種のマッチ・ポンプは現代美術の領域ではさらに露骨に進められ、具体美術協会の一部の作家に明らかなとおり、投機的な様相さえ帯びている。しかしこれは単に西欧が日本を収奪するという単純な図式に収まる問題ではない。飯島は次のようにも説く。「展覧会の後に、自分たちの建築の図面や模型を、是非ともフランスの名のある美術館のパーマネント・コレクションとして収集してほしいという日本の建築家たちの現実主義的な願望も、十分に作動している」飯島はこれを建築家(非西洋、被支配者)とコレクター(西洋、支配者)の「共犯関係」と論じる。近年のにわかな日本の現代美術ブームを想起するならば、建築の分野に限定された問題とはいえないだろう。次いで飯島は「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の構成をいわば逐条的に批判する。この過程で例えばリーダーズ・ダイジェスト日本支社を設計し、展覧会で取り上げられているアントニン・レーモンドが一方で戦時中、アメリカ軍の空襲に際して焼夷弾の効果を最大にするために日本家屋のレプリカを作って燃やす実験において大きな役割を果たしたといういわば建築史の暗部を明らかにする。なんのことはない。日本建築の「起源」であり、無数の人々が惨死を遂げた空襲の焼野原、それに手を貸した人物が展覧会の中では顕彰されているのだ。
 本書の中ではむしろ余談に当たる部分であろうが、「コレクションの欲望」と題された最初の章の最後で語られる金沢21世紀美術館への批判は私も強く同意する。それは単に俎上に上げられた展覧会のみならず、この美術館の方針や建築と深く関わっている。飯島は初代館長が『超集客力革命―人気美術館が知っているお客の呼び方』(それにしてもなんというタイトルであろうか)の中に記した「極めて『下品』な物言い」(書き写すだけでも汚らわしいので直接本書を参照していただきたい)を引用した後、次のように述べる。「こうして美術館というものの本来の意味が、ますます薄れてきている。きちんとしたかたちで展示品を楽しみたい普通の人達のことを、公共美術館の責任者がまるで考えていない。お金儲けや有名になることばかりに、あるいは美術館としての金銭的な成功ばかりに熱心である。つまり、ここにあるのは資本主義の『下品な俗物趣味』だけなのである。「美術館冬の時代」にあってこの異形の美術館を華々しい成功例として称賛するばかりの美術ジャーナリズムの中にあって私は初めて真っ当な批判を聞いた思いがする。以前にも記したが、私は美術館の中でいつも迷子になり、次の順路を探すのに一苦労するSAANAによる建築が美術館として優れていると思ったことは一度たりともない。飯島も言及しているが、別の県で前身となった美術館の理念やコレクションを一顧だにせず、同じ建築家を用いて、新生美術館なる奇怪な構想を推進している人物がかつて21世紀美術館の立ち上げに関わり、先日レヴューした「キセイノセイキ」展において作品を検閲した学芸課長であることをここに書き留めておきたい。
 「近代の『起源』」と題された第二章においては「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の鍵概念たる「起源」の恣意性が写真やモードといったジャンルを引きながら論じられ、さらに「近代」という概念が多角的に検証される。「起源」という発想が恣意的であることは特に驚くべき指摘ではないが、ミゲルーは展覧会をとおしてルネッサンスという起源から直線的に進化する西欧の建築に対して、日本においては複数の起源が存在すると主張していた。飯島は近代、モダンという概念が直線的で不可逆的であり、「時間は反復不可能である」という感覚に根拠を置いていると説く。西欧とは別の根拠に根ざす場所として日本が想定されており、同様の認識のオリエンタリズムは飯島も説く通りロラン・バルトやレム・コールハースにも認められる。ここでも本書の問題圏からやや逸脱して、モダンが単線的で反復不可能であるという理念に対して、先日このブログで論じたカルロス・フェンテスの「テラ・ノストラ」の異質性を確認しておこう。この長大な小説が複数性と反復性を原理としていることは論じたとおりであり、この点はモダンとは異なった原理は日本のみならず西欧以外の地域にしばしば認められることを暗示している。いや、モダンという概念、単一の起源という発想こそ西欧という限定された場における特殊な事例ではないか。しかしその特殊が自らを絶対として他者を自分のために裁断する時、サイードのいうオリエンタリズムが発生するのだ。続く第三章「黒船の意味」において飯島は歴史を遡行し、文字通り黒船の来航、江戸末期から明治以降において「近代建築」がいかに日本に着生していったかを検証する。結論として飯島は明治以降、日本は西欧を全て真似ており、結果として日本も西洋近代と同様に一つの起源に依存していると結論づける。したがって複数の起源を主張するミゲルーの展覧会コンセプトは破綻している。飯島は次のように結語する。「日本は、明治以降、自分たちの『伝統』ですら、支配者である西洋人に、『これがそうだ、これがあなたたち日本人の「伝統」だ』と、教えてもらうのである。繰り返すが、こうして西洋人が見つけたものだけが『日本的なるもの』として、日本の建築史に書き込まれることになる」ミゲルーによる展覧会がこのような「日本の建築史」の最新の上書きであることはいうまでもないが、私はこの言葉が建築のみに向けられたものだとはとても思えない。美術史においても私たちは自らの「正史」を欧米によって書き留められている。以前、このブログでも触れたが、先年、ニューヨーク近代美術館で「TOKYO 1955-1970 ; A New Avant-garde」が開催された折に「戦後からポストモダンへ」という日本の戦後の美術批評のアンソロジーが刊行された。編集に日本の批評家も関わっているとはいえ、他国の美術のみならず美術批評を英語によって再編成しようとするMOMAの姿勢は端的に植民地主義のそれだ。もちろんそれに類した試みが日本でなされたことはないから、このようなアンソロジーは一定の意味をもつかもしれない。ただしそれはあくまでも英語を解す言語圏にとって手っ取り早い参照例としての意味にすぎない。しかしこのようにして非西洋、被支配者の美術史が西洋と支配者によって歴史化/上書きされていくのである。
 続く第四章「桂と伊勢」でも語られる問題は基本的に同一である。グロピウスやブルーノ・タウトらによって例えば桂離宮の「近代性」が「発見」される。日本人ではなく西欧の目を通してこれらの建築が「発見」されたことこそが重要であり、丹下健三らの「伝統論争」もこの射程の中にあると飯島は説く。そしてここでもMOMAの政治性が論じられる。1954年から55年まで近代美術館の中庭に吉村順三の手で書院造りの建築が設えられて評判を呼ぶ。飯島はこの経緯を丹念にたどったうえで、この背景にアーサー・ドレクスラーやロックフェラー三世といった近代美術館の関係者がおり、彼らの目的が「日本が共産主義に傾かないように監視し、アメリカは日本の文化に関心をもっているという戦略的な布石を投じていた」と説く。以前にこのブログでニューヨーク近代美術館が組織した1959年の「新しいアメリカ絵画」について論じた。この展覧会がアメリカ絵画の優位をヨーロッパに見せつけ、自由主義陣営の盟主たるアメリカの文化的優越を誇示するものだったとするならば、逆に極東に対しては被支配者の文化を支配者の中に取り込むという一種の懐柔策が用いられていたということであろう。日本の建築界も美術館が主導する冷戦下の文化戦略に組み込まれていた訳である。
 最も長い最終章「黒と戦災」では再び戦時下の日本における空襲の問題から語り起こされる。何度も論じる通り、問題とされた展覧会が戦災を起源として日本の建築史を見直すものであるから、かかる反復は意味をもつ。なぜ日本人が空襲あるいは原爆といった蛮行の犠牲とされたか。飯島はそこに欧米人の人種的偏見を認める。このような偏見は日本人に対するものだけであっただろうか。いうまでもなく答えは否だ。支配者である西洋、とりわけヨーロッパにおいてもユダヤ人という人種の最終解決=絶滅政策が進められていた。飯島はヴィシー傀儡政権によってフランスがかかる蛮行に積極的に加担した点を実証したうえで、植民地主義こそがかかる大量虐殺の起源でることを論じる。そしてミゲルーが展示の中で空爆による破壊を象徴する部屋を「黒」によって表現したことに着目し、「黒」の多義性を論じたうえで、いよいよ歴史という問題へと向かう。フーコーからハバーマス、デリダ、ポール・ド・マンそしてサイードといったビッグネームを次々に引用しながらポストモダン、歴史修正主義そして言語論的転回といった問題が自在に論及されるこの章は本書の白眉であり、簡単な要約を許す内容ではない。しかしながら高度で抽象的な問題を扱っているために、具体的な例証に欠け、建築との関係が希薄である印象も免れえない。ある程度予想されたことではあるが、本書は「支配者、西欧によって選び取られた日本の文化の最新版」である「クール・ジャパン」批判によって終わる。それは西欧の日本に対するエキゾティシズムの一変種に過ぎないからだ。
 私は美術に関わる問題意識に過度に引きつけて本書を読んだかもしれない。しかしここで語られる問題は近現代美術の領域においてもほぼ正確に反復されている思いがする。日本において「近現代美術史」なるものが果たして存在するか。私は千葉成夫が「戦後美術逸脱史」において無意識的に、椹木野衣が「日本・現代・美術」において意識的に問うた問題こそまさにこの点に関わっていると感じる。後者に通底するペシミズムについてはこれまでも何度か論じた。「建築と歴史」は次の一文で終えられる。「西洋と東洋の力の非対称性、あるいは力の差異こそが、黒船以来現在までずっと続いている、世界資本主義市場における日本の真の姿である。/このような日本が置かれている本質的な事態を皮肉にも再確認させてくれたのが、この「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」展の、唯一の功績であった、と言えるのかもしれない」飯島の結論もまたきわめてペシミスティックであることは偶然の一致であろうか。
 今や私たちは深いペシミズムに冒されている。「一億総活躍」やら「女性が輝く」やら、現政権が打ち上げる、戦前を連想させるスローガンに反して、かかるペシミズム、いやもはやニヒリズムは今の日本の社会に深く瀰漫しており、この国を蝕んでいるように感じられる。政治家はもとよりマスコミから大学まであらゆる領域で劣化が進行している。「戦災から震災まで」という本書のサブタイトルは暗示的だ。ミゲルーの展覧会があえて2010年で終わっている点を飯島は批判しているが、2011年以後、私たちは愚かな為政者たちのもとで「震災から戦災まで」を今まさに経験しつつあるのだ。
by gravity97 | 2016-10-02 21:21 | 建築 | Comments(0)