Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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やなぎみわ「日輪の翼」

b0138838_2128511.jpg

 やなぎみわ本人から「日輪の翼」を舞台化したいと聞いたのは東日本大震災の直後であった。あれから5年、ついに実現したこの公演に千秋楽の大阪会場で立ち会う。もっとも既に横浜や高松における公演の噂は耳にしていたし、舞台として使用される移動舞台車(ステージトレーラー)を私は二年前の横浜トリエンナーレ、昨年のPARASOPHIAの会場でも目にしていたから全く未知の舞台という訳でもない。それにしても中上健次の「日輪の翼」というそれ自体とんでもない小説を、やなぎが舞台化するのである。大きな期待とともに私は名村造船所大阪工場跡地を訪れた。今名前を挙げた二つの展覧会についてはすでにこのブログでレヴューしており、会場となった名村造船所についても「クロニクル・クロニクル」という展覧会のレヴューで触れている。様々な記憶が喚起される一夜となった。今回は小説と舞台の内容にも深く立ち入って論じる。
  「日輪の翼」のあらすじを述べることはさほど難しくない。中上の小説の中では最も読みやすいものの一つであり、私は大阪に向かう車中で再読して舞台に臨んだ。路地が消失した後、オバと呼ばれる七人の老婆(やなぎの舞台では五人とされていた)を冷凍トレーラーの荷台に乗せて巡礼の旅に出た若者たちの物語であり、熊野を起点に伊勢、一宮、諏訪から瀬田、出羽、恐山、そして東京へと日本各地の聖地をめぐるロードノベルである。道行きの途中で息の絶えるオバもいれば、失踪するオバもいる。淫蕩な血を引いた路地の若者たちは行く先々で女を漁り、女と交わる。高速道路を疾駆する鋼鉄の蛇のごときトレーラー。トレーラーは男根であり母胎でもある。卑猥な言葉で青年たちをからかい、どこであろうとオカイサンを炊くオバたち。ここには中上の小説でおなじみのイメージがかつてなく強い喚起力とともに繰り返し現れる。おそらくこの点もやなぎに舞台化を決意させた理由の一つであろう。そもそもオバという存在自体、やなぎの作品にとって異質ではない。My Grandmothers シリーズを連想すればよい。生命力をみなぎらせた老婆たちの姿に私たちは既に見慣れているし、複数の女性が同じコスチューム(今回は「浮浪者風」か)を身にまとうという発想も初期のエレベーターガールをモティーフした作品以来一貫しているではないか。若衆と老婆たちの旅路の果ては東京だ。皇居に参拝し、「天子様がここにおってくれるさか、わしらクズのような者が、生きておれるんやねェ」と嘆賞した老婆たちは忽然と消え去り、二人の若者だけが残される。「アニ、乗らんかい?これからまた、俺ら旅じゃ」最後までオバたちに付き添った二人の若者、ツヨシが田中さんに声をかける場面でこの小説は幕を閉じる。
 最初に中上の小説における「日輪の翼」の位置について説明しておこう。ヨクナパトーファならぬ紀州サーガと呼ばれる中上の小説群にはいくつかの系統が認められる。まず「岬」「枯木灘」「地の果て 至上の時」のいわゆる秋幸三部作は、路地と呼ばれる紀州の被差別部落に生を受けた秋幸という青年が異母妹との近親姦と異母弟の殺害という二つのタブーを犯す物語である。蝿の王とも呼ばれる秋幸の実父、龍造との葛藤も重要なテーマであり、「地の果て 至上の時」において龍造は自ら縊死するが、龍造の暗躍によって秋幸らの生活の場であった路地も消滅した。一方、中上には「千年の愉楽」から「奇蹟」にいたる淫蕩で美男、暴力的で短命な男たちの一生を描いた一連の作品を発表している。「日輪の翼」はこれら二つの系統が交差する場所に生まれている。すなわち一方で本書は路地が消滅した後、路地の若者たちがいかに生きたかという路地の後日譚であり、この系列からはさらに「日輪の翼」の続編とも呼ぶべき「讃歌」そして未完となった「異族」が派生する。一方で本書は路地に生を受けた若者たちの列伝の一部としても読むことができる。「日輪の翼」には二人の主人公、ツヨシと田中さん、そしてマサオとテツヤという四人の若者が登場する。不吉な宿命を帯びた若者たちのリストにはいくつもの名を追加することができる、今回の舞台でも名が呼ばれた半蔵とオリエントの康、あるいは郁男や文彦、「千年の愉楽」においては自らが産婆として取り上げ、美形で短命という宿命を生きた若者たちをオリュウノオバが回想する。私が好む記号論的な思考に立つならば前者の系列は路地をめぐる継起的で唯一的な換喩性と関わり、後者の系列は路地をめぐる範列的で選択可能な隠喩性と関わる。両者が交差する点に成立するのが「日輪の翼」である。
b0138838_21291916.jpg 舞台に戻ろう。私が知る限り、やなぎが原作を有する物語を舞台とするのは今回が最初である。しかし今述べた内容からも舞台化の困難さは理解できよう。原作においては移動が主題とされている。オバたちを乗せて高速道路を滑走する大型トレーラー。移動を主題とした物語を一つの場において演じることは可能か。やなぎは単純きわまりない解決策を提示した。すなわち現実の大型トレーラーを舞台とすることだ。台湾でカラオケやら選挙運動に使用される移動舞台車という特殊な車両と出会ったやなぎは、仕様を変更して日本に輸入した。満艦飾のトレーラーはそれ自体がオブジェであり、過去に大規模な国際展で披露されたことは先に述べた通りである。「日輪の翼」は熊野から皇居まで日本各地をめぐる息の長いロードノベルであるが、舞台でも原作に忠実にオバたちの行程がたどられる。ハツノオバの死、キクノオバの失踪、四つの乳房をもつララという風俗嬢との邂逅、原作のかなり細かいニュアンスまで織り込まれているため、直前に原作を再読していた私にとって演じられる物語を追うことはたやすかった。しかし二つの点で演劇特有の潤色がなされていた。まずこの舞台には「日輪の翼」のみならず、いくつかの中上の小説、とりわけ「聖餐」と「千年の愉楽」が色濃く反映されている。劇の中で「マザー、死のれ」という歌を繰り返す「死のう団」の歌手は小説「日輪の翼」においては「少年歌手」という名を与えられているが、「千年の愉楽」に登場した半蔵の息子であり、「聖餐」においては半蔵二世と呼ばれていた少年であるはずだ。あるいは劇中でオバらが歌う盆踊り歌は「枯木灘」から引用され、近親相姦の無残な結末を暗示した「きょうだい心中」であった。後述するとおりこの舞台は音楽劇でもあり、前半のクライマックスにおける歌とダンスの中には「千年の愉楽」に登場するオリエントの康の物語が挿入されている。もう一つの潤色は大型トレーラーの中で上演されるメインストーリーの脇にそれ以上に目を引く二つの舞台を配置したことだ。左側ではクレーン車から垂らされたロープを用いて二人の男女による曲芸的なパフォーマンスが行われ、右側のトラックの荷台ではポールダンスが繰り広げられる。いずれも相当に猥褻なパフォーマンスであり、「神さん、孕ましたろか」と伊勢神宮の石垣に股間を押しつけるツヨシの所作同様に、やなぎの知的で抽象的な舞台に親しんでいた私にはショッキングに感じられた。これまでのやなぎの演劇は映像が多用されることはあっても俳優の身体はさほど強調されることがなかったからだ。しかし「1924 Tokyo-Berlin」における香具師の口上が暗示していた見世物性、土俗性への関心が今回の作品には顕著に認められる。私は今回の舞台から寺山修司の一連の演劇を連想した。そもそもやなぎの写真作品も常に一種の見世物性を漂わせてはいなかっただろうか。
 先ほど述べた二つの潤色を経て、やなぎの「日輪の翼」はさらに深みを増して私たちの前に提示される。やなぎ自身が冒頭で述べるとおり、この劇は祝祭劇であり音楽劇である。原作においては明確に語られることがなかった「半蔵二世」つまり「少年歌手」を演劇の中に取り込むために、トレーラーの奥にはドラムのセットが設えられて、俳優たちは楽器をライヴで演奏し、タップダンスを披露する。野外劇で音楽が演奏される形式からは維新派が連想され、明らかにこの舞台は先日逝去した松本雄吉へのオマージュとしても構想されている。巻上公一らによる音楽も作品の大きな魅力を形作っている。「マザー、死のれ」という歌声は今も私の耳から離れない。これまでやなぎの演劇において、音声はイヤホン、電話やラジオといった媒介を伴い、間接的に伝えられる場合が多かった。これに対して今回はマイクロフォンが使用されていたとはいえ、俳優の肉声と楽器の生演奏が観衆に直接的に訴求し、生々しい印象を受けた。中上の原作を介すことによって演劇が血肉を得た思いがする。それにしても俳優たちが用いる紀州ダイアレクトは強烈だ。台詞の多くは中上の小説の話し言葉であるから、それは中上の言葉の強度でもあるだろう。今のところ具体的な典拠を中上の小説で確認することができていないが、冒頭でマクベスの三人の魔女ならぬ五人のオバたちが「きれいは汚い」という意味の言葉を発していたと記憶する。この傍らに「天子様がここにおってくれるさか、わしらクズのような者が、生きておれるんやねェ」という台詞を置く時、中上/やなぎのラディカリズムは明らかだ。ここでは天皇家と路地すなわち被差別部落の交換可能性が示唆されている。私は「日輪の翼」を初読した際にオバらが皇居を最終目的地としたことをやや不審に感じた。しかし俳優たちの肉声を通して、「アホな人」と「天子様」への思いが同等に語られる舞台を見て、この疑問は氷塊した。路地と皇居は等価であり、それゆえオバたちは失踪したのだ。路地はひとたび消滅することによっていまや熊野から東京の中心にまで遍在する。
 やなぎの「日輪の翼」を見ることによって、私は中上の「日輪の翼」について多くの新たな理解を得ることができた。しかしいまだに謎として残された問いもある。それはトレーラーの傍らで繰り返された曲芸やダンスである。右側のポールダンスについては由来を推測することができる。それは「軽蔑」の中で女主人公、真知子が得意としたダンスであろう。しかし巨大なクレーンから垂らされたロープにつかまってなされた男女の曲芸は一体いかなる意味があるのか。それが性交の暗喩であることはたやすく了解されるが、私はとぐろを巻くように置かれたロープは蛇の暗喩ではないかとも感じた。池に群がる蛇のエピソードは「日輪の翼」中、諏訪の章に記されている。さらにロープとポールが強い垂直性を秘めている点にも注目したい。「日輪の翼」はトレーラーによる移動という徹頭徹尾水平的なヴェクトルを有す小説である。秋幸の血統をめぐる時間的、あえていえば垂直的な物語が路地の消滅とともに終焉した後、かかる小説が執筆されたことは意味をもち、このような特性は「異族」においてさらにスケールアップされる。これに対して、演劇の中にあえて垂直的な軸を持ち込むことによって、私はやなぎが「日輪の翼」だけではとらえきれない中上の小説の豊かさを暗示しようとしたのではないかと感じた。それは血縁や家系と連なる物語であり、トレーラーの上でツヨシやオバたちの物語が進行する傍らで、男女二人の俳優によって、メインストーリーとは直接の関連をもたず、セックスを強く連想させる演技がひたすら続けられたことの意味ではないだろうか。
 やなぎの「日輪の翼」においても「アニ、乗らんかい?これからまた、俺ら旅じゃ」というツヨシの台詞とともに、トレーラーは私たちを置き去りにして出発する。あたかもそこで繰り広げられた情景がたまさかの夢であったかのように、トレーラーの周囲に配されていた舞台や小道具もいつのまにか撤収されている。夏芙蓉が描かれたトレーラーは大きなクラクションを一つ鳴らして夜の町へと疾走して去っていった。蛇行するトレーラーを見送りつつ、私はまた一つ素晴らしい舞台に立ち会えたことに感銘を覚えた。彼らと再び見(まみ)えることはあるだろうか。大阪公演の楽日、横浜、新宮、高松をめぐるツアーの文字通り千秋楽、なんとも深い余韻を残す感動的なフィナーレであった。

by gravity97 | 2016-09-11 21:43 | 演劇 | Comments(0)