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 今日、桐山襲(きりやま・かさね)という名を聞いても、それが小説家の名であること、ましてや彼の書いた小説を知る人は少ないことと思う。実際、今、アマゾンで検索しても彼の小説を新刊として入手することは不可能のようだ。わずかにこのブログでも論じた集英社版の「文学×戦争」中の一巻「オキナワ 終わらぬ戦争」に収録された「聖なる夜、聖なる穴」を読むことは可能であるが、彼の小説を読み継いだ私としてはこれほどの才能が完全に埋もれている状況はおおいに遺憾に感じられる。よもや彼の小説の主題がこのような事態を招いた訳ではなかろうが、権力という暴力がここまでも厚顔無恥に私たちを恫喝する時期にこの評伝が刊行された意義は大きい。
 最初に本書に基づいて桐山の閲歴を簡単に紹介する。桐山は1949年に東京に生まれた。1968年に早稲田大学第一文学部に入学。この年の世情、特に大学をめぐるそれについては説明を要さないだろう。政治の季節の中で、桐山は解放派と呼ばれるセクトに属して大学闘争に加わる。「スターバト・マーテル」の最後の方に唐突に挿入された言葉が解放派の理論的支柱であったローザ・ルクセンブルグから引かれていることを私は本書を読んで初めて知った。大学を卒業した桐山は1972年に東京都教育庁に就職し、以後、公務員として勤務する傍らで小説の執筆に取り組む。しかし小説家、桐山襲が私たちの前に現れるまでにはしばらくの時を要した。1982年、『文藝』に投稿した「パルチザン伝説」が文藝賞の候補作となり、翌83年の10月号に掲載される。最終選考に残ったとはいえ前年に投稿された落選作を翌年の文芸誌に掲載することは陣野も述べるとおりかなり異例ではないだろうか。「パルチザン伝説」は二つの時代、二つの大逆の物語である。すなわち第二次大戦下、空襲によって炎上する東京においてアメリカ軍に呼応するかのように手製の爆弾を用いて都内、そして宮中内でパルチザン闘争を繰り広げる男たちの物語と、1974年8月14日に荒川鉄橋を爆破してお召列車ごと昭和天皇の爆殺を図ったグループの物語が重ねられる。時を隔てた二つの大逆の関係、それが精緻な語りの中に浮かび上がる様子は本書の中で詳しく分析されているからここでは触れない。日時が特定されていることから想像されるとおり、後者の事件には実在のモデルがある。それは東アジア反日武装戦線狼部隊による「虹作戦」であり、実際に橋梁に爆薬の配線まで行いながら、この計画は未遂に終わり、この時使用されなかった爆弾はその後、三菱重工本社ビルの爆破に使用され、多くの死傷者を出した。桐山の小説は文字通り事実と虚構を「文学的に」昇華しており、重い主題に見合った小説的技法、文体が駆使されている。しかしそこから「天皇暗殺」というスキャンダリズムのみを抽出したのが「週刊新潮」であった。新潮社という日本でも最大級の出版社から発行されているこの週刊誌は直ちに「おっかなビックリ落選させた『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」という煽情的で悪意に満ちた記事で応接した。週刊誌の発表を待っていたかのように右翼の街宣車が『文藝』の発行元である河出書房新社に押しかけ、脅迫的な街宣を繰り返し、雑誌の回収、作者の特定、出版社の謝罪、単行本化の中止を要求した。出版社は桐山と協議のうえ、このうち単行本化の中止を受け入れた。しかし「パルチザン伝説」をめぐる騒動はこれで終わらなかった。桐山はひそかに関係者とともに「パルチザン伝説刊行委員会」なる組織を結成し、ほかの出版社からの刊行を進めていた。しかしそれより以前にこの小説は作家本人の了承も得ぬまま、第三書館という左翼系の出版社から「天皇制アンソロジー」なる叢書に無関係なテクストと一緒に収録されて「海賊出版」されてしまったのだ。桐山は後述する「『パルチザン伝説』事件」の中に次の言葉を残している。「『天皇制アンソロジー』と銘打たれたその本は、様々な政治的文書といっしょに私の作品を収録していました。しかし、私の作品が政治的文書とは表現様式を異にする一個の文学的作品であってみれば、そのような出版形態は作品としての自殺行為以外の何ものでもありません。その出版社の意図は、作品から単に素材だけを抜き取っているという点で、例の週刊誌記事と同様の水準に立っているということができます。(中略)自分の作品が怪文書まがいの姿で書店に並べられていることは、表現者として耐え難いものがありました」右翼の攻撃と左翼による海賊出版という二重の苦難を味わった「パルチザン伝説」は紆余曲折を経て、84年6月に作品社から正式に刊行されるこの時点ですでに桐山は二つの中編小説を発表していた。「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」であり、いずれも芥川賞候補となっている。前者は連合赤軍事件、すなわち山岳におけるリンチ殺人とあさま山荘事件を主題とし、後者は具体的に特定されないが大学闘争の終焉期の暴力を主題としており、いずれも桐山の作家としての立場を明確に示している。「風のクロニクル」は後に桐山によって戯曲化もされた。このほかにも桐山は時事的な評論や書評などをいくつか発表しており、それらのテクストを陣野はていねいに確認している。そして86年、『文藝』の春季号に「聖なる夜、聖なる穴」が発表される。後でも述べるとおり、私は『文藝』に掲載されたこの小説で初めて桐山の作品に接した。さほど長い小説ではないが、これは紛れもない傑作であり、私は初読の際に受けた衝撃を今でもありありと思い出すことができる。もちろん「パルチザン伝説」をめぐる騒動は知っていた。しかし私は作品社から刊行された時点ではそれに目を通していない。私は直ちに単行本として入手可能であった「パルチザン伝説」と「風のクロニクル」を買い求め、これ以後も新作が発表さえるたびに心待ちに読み続けた。87年も桐山は旺盛な執筆活動を続けた。やはり『文藝』の春季号に「亜熱帯の涙」を発表し、「聖なる夜、聖なる穴」を単行本として上梓した。夏には「パルチザン伝説」をめぐる事件の顛末を記録した『「パルチザン伝説」事件』を作品社から刊行する。前年に日本文藝家協会に入会した際、桐山は「入会挨拶」として一連の事件を手短に要約して新潮社を批判し、「勿論、新潮社から本を出しているこの国の文学者にはそのようなこと(抗議行動を指す)は望むべくもありません。ですからここはやはり、自分自身の手によって報復を行うしかないと、私は考えています。もとより私は微力ではありますが、一寸の虫にも五分の魂、必ずや新潮社への報復を実現するでしょう。入会の挨拶といたします」というブラックユーモア的な文章を残しているが、この一文と「『パルチザン伝説』事件」の刊行によって彼なりにこの表現弾圧については一つの落とし前をつけたというべきであろうか。「亜熱帯の涙」は桐山には珍しく神話的、あるいは魔術的レアリズムと呼ぶべき想像力が横溢した長編であるが、楽園的な南島が帝国の暴力によって蹂躙されるというモティーフはいうまでなく「聖なる夜、聖なる穴」に連なっている。88年にも桐山は短編をいくつか発表しているが、この年、日本は異常な時代を経験した。いうまでもない、昭和天皇裕仁の病状が悪化し、来たるべきXデイに向けて異様な緊張と自粛モードが私たちを締めつけたのだ。東アジア反日武装戦線、連合赤軍、皇太子に火炎瓶を投擲する男、あるいは難波大助。一貫して「まつろわぬ者」の側に身を置いてきた桐山にとって耐え難い状況が続いたことは容易に想像できる。例えば次のような文章が残されている。「マスメディアの騒乱はとどまる処を知らない。ヒロヒトとアキヒトを賛美する大合唱は、連日の紙面と電波とを占拠している。(中略)だが注目すべきは、合唱団の中にひときわ『文学者』の姿の多いことであろう。とうに滅亡してよいはずの『文学者』という生き物を飼っておいたのは、この日のための支配者階級の英知だったと言わねばならない」裕仁は89年1月に没し、ほぼ前後して桐山は『都市叙景断章』を発表する。記憶を失った若者を通して断章形式で学生叛乱や連合赤軍事件が再話される桐山らしい長編である。なぜかくも「あの時代」に拘泥するのか。桐山は次のように語っている。「それはやはり、いまだ書かれざるあの時代、という思いが私の中に深くあるからでしょうね。全共闘の叙事詩というものは未出なんですよ」もし桐山が今も存命であったら果たして「全共闘の叙事詩」は書かれていたであろうか。今となっては詮無い問いかもしれないが、私は問わずにはおられない。89年は比較的多くの作品やエッセイが発表されたのに対して、90年に発表された作品を私は「神殿レプリカ」しか知らない。「神殿レプリカ」と大嘗祭との関係を指摘する佐木隆三の視点は興味深い。この年、桐山は執筆活動以上に永山則夫の文藝家協会入会問題に力を傾注していたことを私は本書を読んで知った。この年の暮れに桐山は悪性リンパ腫で入院し、闘病生活を綴ったいくつかの文章を残している。ただ、桐山は入院以来ずっと床についていた訳ではなく、翌年夏には退院して抗がん剤治療を続けながら公務員としての勤務さえこなしていたらしい。この生活の中で執筆された最後の小説「未葬の時」は死者が身体から離脱して、自分の死を外部から眺めるという一種の奇譚である。私の手元に初出の『文藝』92年夏季号がある。冒頭に「遺作」と記され。最後に92年2月22日脱稿と表記されており、まるで自身の死を見越したような、清冽でユーモアさえ漂う佳作である。脱稿からちょうど一月後の3月22日、桐山は入院先の病院で没した。享年42歳という若さであった。
 次に書誌的事実を確認しておこう。私が確認した範囲では桐山は生前没後を通して「天皇制アンソロジー」を除いて、9冊の小説と1冊の戯曲を公刊し、このうち「スターバト・マーテル」と「未葬の時」は文庫化されている。(ただし講談社文芸文庫に収められた「未葬の時」には「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」も収録されている)現在、これらはすべて絶版で入手は困難である。「天皇制アンソロジー」のみ版を重ねているというとも聞くが、事実であれば皮肉な話だ。桐山の読書体験については私と陣野はよく似ている。陣野は次のように記している。「小説に関しては、沖縄の歴史と現在に取材した『聖なる夜、聖なる穴』が『文藝』春季号に掲載された。私はこの小説を桐山作品の中で最初に読んだ。衝撃的だった。語りの多層性、人称の複雑さ、歴史に対する態度、そして乾いた抒情性」先にも述べたとおり、現在、この小説は集英社版の「文学×戦争」中の一巻に収録されており、入手することが可能であるから関心をおもちいただいた読者には是非お読みいただきたい。私のブログでも短く論じている。実はこの時期の『文藝』はきわめて刺激的であった。この前後にこの文芸誌は月刊から季刊に移行し、それゆえ内容が凝縮された印象があり、私は毎号買い求めていた。この小説が掲載された号が手元に見当たらないので具体的に述べることができないが、おそらくその号も桐山ではなく特集ないしほかの作品を目当てに買い求めたと記憶するが、「聖なる夜、聖なる穴」を一読して私は圧倒されてしまったのだ。私は当時在学していた大学の大学新聞に書評を寄せたことさえ記憶している。ちなみに同じ年の冬季号には「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線の真実を克明に描いた松下竜一の「狼煙を見よ」が掲載されており、私はこのノンフィクションからも深い感銘を受けたことを覚えている。大学がほぼ非政治化された80年代に大学の門をくぐった者として、70年代に自分と同世代の若者たちがかくも真摯に時代の不条理に向かいあっていたことを知ることは衝撃以外のなにものでもなかった。b0138838_2262496.jpg 書架を確認するならば、私は桐山の全ての主著を単行本と初出誌のかたちで所有しているが、「亜熱帯の涙」のみ欠いている。私はこの小説を読んだ記憶があるから、『文藝』誌上で読んだことは間違いない。単行本として所持していれば必ず残っているはずだが、雑誌であるためなんらかの機会に処分してしまったのであろうことが悔やまれる。
 ほとんどの小説が現在入手できないため、陣野がそれぞれの作品の紹介にかなりの頁を割いていることは私としては少々かったるい。「パルチザン伝説」によるデビューから死を予感するかのような「未葬の時」まで、10年にも満たない小説家としての桐山の活動を陣野はクロノロジカルにたどっていく。主要な作品については内容を紹介したうえで「解題」と称する短い分析がなされる。この中で多くの小説や文献が参照され、興味深い分析がなされる。例えばこのブログでも紹介した大道寺将司の句集「棺一基」が引用されていることは大道寺が「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線のメンバーで死刑囚として現在、病舎に収監されていることを考えるならば理解できよう。このほかにも古川日出男の「聖家族」や道浦母都子、船本洲治、奥崎謙三、さらにはやはり若くして自死した佐藤泰志の「海炭市叙景」そして最後に目取真俊の「面影と連れて」(偶然ではあるが、この短編については以前このブログで応接した)といった多様な書き手、多くまつろわぬ者たちが召喚され、桐山の小説との間に時に潜在的、時に顕在的な関係を結ぶ。私がことに興味をもったのは、桐山がラテン・アメリカ文学に強い関心をもっていたという指摘だ。桐山は「パルチザン伝説」が引き起こした騒動を避けるため沖縄に逃れ、その顛末を「亡命地にて」という短編に記している。(ただしこれはブラフであり、実際には桐山は東京で仕事を続けていたことが本書で明らかにされている)桐山は大学時代、日本に返還される前の沖縄を旅行したことがあり、本人にも作品にも一種の南島志向が求められる。陣野は「亜熱帯の涙」と類似した作品の存在を指摘している。それはロイド・ジョーンズというニュージーランド出身の作家による「ミスター・ピップ」という小説である。原著の刊行年は記されていないが、邦訳は2009年のことであり、おそらく桐山は原書を読んでいない。南島における革命、書物と記憶との関係など、両者を結ぶ主題の暗合は興味深い。この延長上にラテン・アメリカ文学への関心があるだろう。私は桐山と同じ時代を共有しているので、彼が生きた時代に日本でもラテン・アメリカ文学のブームがあったことを知っている。桐山はドノソやアストゥリアスへ言及しており、確かに「神殿レプリカ」における閉ざされた屋敷に跋扈する凶々しい存在から「夜のみだらな鳥」を、「亜熱帯の涙」の年代記から「グアテマラ伝説集」における物語の連なりを連想することは容易だ。「亜熱帯の涙」には「自分たちが最初の輝ける道として地上に姿を現すこと―ただそのことだけが問題だった」という一文があるが、「輝ける道」、センデロ・ルミノソとはペルーのゲリラ・グループの名前であることを陣野は正確に指摘している。この集団の名前はやはりこのブログで応接したリョサの「アンデスのリトゥーマ」にも認められる。フジモリが日本大使公邸を占拠したゲリラたちを無慈悲にも虐殺したように、そしてマルケスをはじめとする一連の独裁者小説に明らかなとおり、ラテン・アメリカには新しい文学の宝庫であると同時に軍政と独裁、戦前の日本を彷彿とさせる暴力的な体制が今なお残存している。「追い詰められた革命軍」がリンチ殺人の果てに斃れた北関東の山岳の氷雪の白と南島やラテン・アメリカの時に血にまみれた原色。両者の対比は鮮やかである。私は両者が桐山によるありうべき「全共闘の叙事詩」の中で総合されることを夢想する。
 それにしても桐山が今も生きていたとすれば、いかなる感慨を覚えただろうか。かつて少なくとも日中戦争や太平洋戦争、あるいは日本の軍隊という制度に関して文学者はそれなりの総括を残している。ひとまず大岡昇平と野間宏の名を挙げれば理解できるだろう。これに対して桐山が確信的に拘泥した70年前後の学生叛乱についてまともに総括した小説は果たして存在するだろうか。以前にもこのブログに記したが、三田誠広と立松和平という二人の当事者が残した小説の犯罪的な反動性を私たちはいかに理解すべきであろうか。あるいはあさま山荘事件について徹頭徹尾弾圧側に立って検証した原田眞人の「突入せよ!あさま山荘事件」の犯罪性に触れて若松孝二が「実録連合赤軍 あさま山荘への道程」の制作を決意したことについても以前論じた。この問題についての文学的総括として私はいまだに1973年に発表された大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」を超える作品を知らない。そしてこの評伝を通読して、私は桐山の小説の魅力でもあり、弱さでもある特質をあらためて思い知った気がする。それは叙情性である。「都市叙景断章」の分析の中で陣野はこの小説の最後を長々と引用した後、次のように記す。「小説はここで終わる。それにしても、この最後の数ページのなんとポエティックであることか!私的な夢想と呼んで差し支えないほどの、いわば小説の極北のような文章が小説を締めくくっている。そして、右の文章は、桐山襲という作家名義で書かれた最後の長編小説の末尾でもあった」確かに「都市叙景断章」は抒情性という点で桐山の作品でも群を抜いている。例えば「名前はたしか、真昼子…」という冒頭の一句にこのような特質は明らかであり、同様の抒情は「パルチザン伝説」以降、桐山の作品の通奏低音をかたちづくっている。桐山の小説は詩的である。しかしこの抒情性は連合赤軍や東アジア反日武装戦線といった叛逆者たちの叙事詩を描くには言葉として繊細すぎるのではないだろうか。おそらくこの点は桐山の小説が比較的短いこととも関係しているだろう。革命を扱った作品、例えば今述べた若松のフィルム、あるいはおそらくは桐山も親しんだであろう高橋和巳の「邪宗門」といった小説にみられる一種の即物性と桐山は無縁であった。もちろん抒情性こそ桐山の作品の魅力であるから、ないものねだりと言われても仕方なかろうし、何よりも作家の早すぎる死がこの優れた作家の別の可能性を断ち切ってしまった。
 私は本書に記された多くの事実をあえて十分に論じなかった。桐山が永山則夫の文藝家協会入会問題に深くコミットしたこと、天安門事件に対する意外な反応、あるいは南方熊楠への関心。それらの問題については本書を直接参照しながら、読者に思いをめぐらしていただきたいからだ。陣野は「この本を通じて、桐山襲の読者が一人でも生まれれば、幸甚である」と記している。私も同感だ。まず陣野の評伝を読み、それを入口として一人でも多くの人にこの夭折した才能とその小説に関心をもってほしい。おそらく大きな図書館に行けば、今でも彼の作品を読むことは可能なはずだ。このブログもその入口の一つとなればよいと願っている。
by gravity97 | 2016-06-20 22:12 | 評伝・自伝 | Comments(0)

b0138838_2153571.jpg 半年ほど前に翻訳が刊行された際に買い求めたものの、しばらく書棚に積んだままであったスティーヴ・エリクソンの2012年の作品『きみを夢見て』を通読する。私はエリクソンの小説をほぼ全て読んでいるが、本書は彼の作品の中でも指折りの傑作といってよかろう。物語の内容にも立ち入って論じ、私のレヴューとしては珍しく一種の種明かしさえ行うつもりであるから、白紙の状態で初読の楽しみを味わいたい読者にはこのブログを読む前にまず本書に目を通すことをお勧めする。
 エリクソンの小説において物語の構造は常に錯綜する。しかし本書は例えば以前このブログで扱った『エクスタシーの湖』ほど難解ではなく、メインとなるストーリーを見定めることは比較的容易だ。主人公はロスアンジェルスに住む作家のアレクザンダー・ノルドック(ザン)。ザンにはヴィヴという妻とパーカーという12歳の息子、そしてエチオピアの孤児院から養子として迎えたシバという4歳の娘がいる。解説によればロスアンジェルスに住んでいる作家という設定のみならず、アフリカから養子をもらい受けた点でもザンはエリクソン自身の投影であるという。単純化するならばこの小説はザン一家が味わう試練とその克服の物語であるが、例によって物語は多重化され、現実と虚構の境目はあいまいだ。例えば最初に出会う次のテクスト。「この男が当選したというニュースが流れると、リビングルームは大騒ぎになる。『勝ったよ!』とパーカーがソファから、白い合成樹脂塗装を施した、雲の形の低いテーブルを飛び越えて、喜びを爆発させる。『勝った!勝った!勝った!』と、叫び続ける。ヴィヴも拍手をしている。『ザン』と、パーカーは茫然としている父親の姿に戸惑い、呼びかける。『勝ったんだよ』と、息子。『うれしくないの?』」本書が出版された時期を思い起こすまでもない。名指しこそされないものの「この男」とはバラク・オバマのことであり、本書はオバマ大統領の登場を寿ぐきわめて具体的なエピソードから始まる。後で述べるとおり、この挿話は本書の主題と深く関わり、本書の結末と呼応している。読み進めるうちに絡み合ういくつもの主題系列が明らかとなる。例えば音楽だ。本書のタイトル「きみを夢見て」、These Dreams of You とはロック歌手ヴァン・モリスンの曲名からの借用であるらしい。主人公ザンは地元のラジオ局でディスクジョッキーを務め、シバは内部から異国の音楽を響かせる。プレスリー、ビートルズあるいはレイ・チャールズ、本書には多くのミュージシャンへの言及がある。あるいはザンがロンドンの大学で講じる一連の講義には「衰退に直面する文学形式としての小説」というタイトルが付されている。小説という形式にきわめて自覚的なエリクソンにとってこのタイトルが一種の自己言及性を秘めていることは明らかであり、本書は衰退する形式としての小説を蘇生する試みととらえることもできるだろう。
 もう少し詳しく内容をたどろう。オバマの挿話から明らかなとおり、物語の背景とされる時代は特定されている。かつては作品を発表したが今は定職をもたない小説家のザン、写真家として将来を嘱望されながら有名な作家に作品を剽窃されて以来、(作品についての記述から判断するに有名な作家とはデミアン・ハーストである)作品によって収入を得る道を断たれたヴィヴの夫婦は深刻な経済的問題を抱えている。クレジットカードはいつ失効するかもわからず、彼らが暮らす家も銀行の抵当として遠からず差し押さえられる運命にある。八方ふさがりの状況の中で、ザンの知り合いでヴィヴのかつての恋人からザンに対して、ロンドンでの短い教授職が提案され、家族はロンドンへの短期逗留を決める。かねてより養女たるシバの血統についての調査を続けていたヴィヴはそのために雇ったジャーナリストから調査の継続が困難であることを告げられ、この機会に自ら調査のためロンドンを経由してエチオピアに向かうことを決意する。物語は最初これら四人の家族をめぐる比較的オーソドックスな語りによって幕を開ける。ヴィヴと別れたザンはパーカーとシバという肌の色の違う二人の子供とともにロンドンで生活を始め、いくつもの奇妙な体験を重ねる。ヴィヴからの連絡は次第に途絶え、講義のためにベビーシッターを探していたザンのもとにはまるで待ち構えていたかのようにモリーなる若い黒人女性が現れる。ヴィヴの消息を求めてロンドンのエチオピア大使館に出かけたザンとパーカーのもとから、今度はモリーとシバが姿を消す。パーカーはPCの掲示板にヴィヴの映像を見出すが、なぜか彼女はエチオピアではなくベルリンにいた。いくつものストーリーが重ね合わされるにつれて、審級の異なった語りが紛れ込む。一つはザンが久しぶりに書き始めた小説だ。その小説とはXという男がスキンヘッドの若者たちに襲われ、半殺しの状態で放置されるという内容だ。倒れているXに黒人の少女が近づき、一冊のぼろぼろのペーパーバックを残して走り去る。そこに残された書物は1919年という時点ではまだ発行されていないにもかかわらず、20世紀文学の未来全体を宿した小説であることが物語の中で暗示される。おそらくそれはジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」であろう。この時、直ちにいくつかの暗合が浮かび上がる。「ユリシーズ」とはブルームという男がダブリンを彷徨する物語であったことを想起するならば、ロンドンをさまようザンとの共通性は明らかだ。そしてブルームの妻の愛称はモリーではなかっただろうか。しかし唐突に挿入されたザンの小説は小説内小説というほどの持続性をもたず、断ち切られたまま、ザン一家をめぐる物語の中に断続的に挿入される。一方、本書のおおよそ半分あたりからやはり唐突に別の物語が始まる。それはレッグとジャスミンというイギリス人カップルの物語であるが、二人はロンドンのパブでアメリカ人の青年と杯を交わす。アメリカ人は名指しされることがないが、前後の状況からおそらくはジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディの若い頃であろうと推測される。ここにおいて本書がオバマの大統領就任のエピソードで始まる理由の一端が理解されよう。本書においては一つの家族をめぐるプライヴェイトな物語とアメリカという国家をめぐるそれが捩じり合わされている。ジャスミンはアメリカに渡り、ロバート・ケネディの選挙運動を手伝う。私も本書を読む過程で確認したのだが、ロバート・ケネディも兄と同様に暗殺されている。さらに同じ時代キング牧師も暗殺されたことを想起するならば、ジャスミンの物語はアメリカに暗殺の嵐が吹き荒れた1960年代後半を舞台にしていることが理解されよう。後にジャスミンはレコード会社で働き、多くのミュージシャンへの言及がなされる。ただし私がヴァン・モリスンを含めて言及されるミュージシャンについてあまりよく知らないこともあるかもしれないが、訳者があとがきで記すように本書を60年代から70年代にかけてのポップ・ミュージックへのオマージュとまでみなすのはいささか無理があるのではないか。この程度のポップ・ミュージックへの言及であれば作品の中で村上春樹が常に行っている。さて、ザンの一家とジャスミン、オバマとケネディの時代を隔てる物語は予想されたとおり、かなり屈折したかたちで結びついていく。ジャスミンが黒人女性であるという記述からジャスミンとモリーの関係を予想することはたやすい。ジャスミンとモリーの関係、そして彼女たちを巡る物語が、これまでに本書で語られた物語と時に必然的に、時にアクロバティックに結びついていく過程についてはここではあえて触れない。なぜならかかる照応、時に明示的、時に暗示的なそれを「テクスト的現実」の中に読み取っていくことこそ本書を、そしてエリクソンを読む醍醐味であるからだ。
 エリクソンの小説としては例外的に、本書には作家が得意とする幻視的なヴィジョンが描かれない。もちろんリムジンに向かって何度も衝突を繰り返すタクシー(本書の核となるイメージの一つだ)やアジスアベバの孤児院の風景など印象的な情景は存在するが、水没したロサンジェルス、凍りついたパリといった幻惑的で終末的なイメージは描かれることがない。ザンとパーカーの妻/母、娘/妹を探す旅をめぐる描写は比較的リアルである。しかし、物語のここかしこに挿入される無関係の物語が父と息子の探索のエピソードに一種の緊張を与える。今、探索という言葉を用いたが、本書には探索という主題が幾重にも張りめぐらされている。消え去ったヴィヴ、そしてシバを捜す旅はいうまでもなく、そもそもヴィヴの失踪の原因となったエチオピアへの旅行はシバの母親を探し出す目的で計画された。あるいはジャスミンも自らの父親を捜し、一枚の写真の中にそれを見出す。これらはすべて個人をめぐる探索の物語であるが、私はさらに大きな主題、つまり集合的無意識が自らを探索する物語として本書を読み替えることができないかと考えるのだ。回りくどい言い方はやめておこう。つまり本書は「アメリカ」が自己を探索する物語ではなかろうか。この物語がオバマ当選のエピソードで始められ、オバマへの期待が繰り返し語られる理由はそこにある。思い起こせば、エリクソンはいくつかの小説で大統領や大統領選をテーマとしている。『Xのアーチ』ではトマス・ジェファーソンと黒人女性の関係が描かれ、私は未読であるが『リープ・イヤー』は1996年の大統領選挙を取材して描かれたとのことである。本書においても暗示的な書きぶりでケネディ家の二人の大統領と大統領候補(ともに暗殺される)について執拗に言及される。今、「アメリカ」と記したが、ここで問題とされるのはもちろん国家としてのアメリカではない。言語や民族、人種を超えて形成される幻想の共同体としてのアメリカである。かかる超越的な存在は文学の主題としてまことにふさわしく、私はメルヴィルからエリクソンにいたるかかる系譜を「アメリカ文学」の中にたどってみたいという誘惑に駆られる。私の読みは次のとおりだ。先に無意識という言葉を用いたが、実は本書の語り手は「アメリカ」であり、本書で語られるのは「アメリカ」の無意識ではないか。本書に頻出するモティーフを並べてみよう。移民と暴力、移動と拝金主義、そしてポップ・ミュージック、これらはいずれも「アメリカ」的な主題とはいえないか。これらの主題それぞれを一巻のテーマとした小説のリストを作成することはたやすい。「アメリカ」の無意識としての「きみを夢見て」。それならば物語が錯綜し、頻繁に転換され、時に異なったレヴェルの物語が嵌入することの理由を形式ではなくて、物語の内容として説明することもできよう。そして私の推理は端的に本書の末尾からもたらされている。長くなるが感動的な一節を引用する。

 外から見れば、シバの夢はほんの一瞬にすぎないが、彼女は眠りながら、それが長い旅であることを理解している。船のへさきでバランスをとりながら、遠くからの歌を受信し、彼女を名付ける名前を求めて航海するのだ。その名前は、どこにも属さない人々のためのものであり、かつて人々が自分の所属する場所にちなんでつけていたように、まず自分の所属を探している人々のためのものであり、思い出せないが、忘れることのできない出来事を嘆きつづける悲しみのためのものである。少女と兄と母親と父親が船から岸に降りると、その名前は、楽園でも天国でもなく、ユートピアでも約束の地でもない。むしろ、ダメージを受けた名前である。かつて誰かがそれを最初に口にすると、すべての人を魅了したが、その後、それを汚して、ハイジャックして、搾取して、質を落として、中身のないものにして、その価値を見下しながらもその名前の響きだけを愛でている。とはいえ、その価値は、どうやっても否定できないものなのだ。(中略)いま娘と父親は、それと分からぬまま、その名前によって強く結ばれている。娘はその獰猛な核の中にその名前を宿し、一本指で喉を引き裂く仕草をしながら、その名前を守り抜く。その名前とはアメリカだ。

 ここでは一つの紐帯としてのアメリカが論じられている。国籍も人種も異なるシバを家族の一員として迎え入れることはザンとヴィヴにとって大きな決断であったはずだ。しかし彼らはかかる決断を下し、現実に対峙する。いうまでもなくアメリカもまたほかの民族、ほかの人種、ほかの言語を寛容とともに内部に迎え入れてきたし、オバマの登場はまさにその象徴であったといえよう。先にも述べたとおり、本書においてはザン一家と「アメリカ」が実に独特に照応している。ザンたちはロスアンジェルスに戻り、自宅が競売にかけられることを知る。最後に描かれる場面は自分たちの家から家財道具を運び出す家族たちの姿だ。しかし本書の結末にはエリクソンとしては珍しく希望がある。それは世界中に戦争をまき散らし、強欲なグローバリズムの起源であり、格差社会の極限であるアメリカにさえもなお希望が残されていることを作者が信じるからであり、それは冒頭で言及されるオバマの大統領就任という奇跡によってもたらされた希望であろう。
 オバマ大統領は先日来日し、広島で感動的なスピーチを行った。These Dreams of You のyouをオバマとみなすのはさすがに強引すぎるか。しかし今や、私たちはヒトラー並みの排外主義者がその後を襲う漠然とした危惧の中にいる。オバマが大統領に就任したのは2009年のことであった。それからわずか7年で世界はdream から nightmare に暗転するかもしれない。読了後の感動に一抹の不安が重なった。

09/11/2016追記 この悪夢は本日、現実のものとなった。エリクソンはどのような思いとともに本日の大統領選挙の結果を受け入れたのであろうか。
by gravity97 | 2016-06-04 21:09 | 海外文学 | Comments(0)