Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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「クロニクル、クロニクル!」

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 終了直前に興味深い展示に駆け込んだ。大阪南港、名村造船旧大阪工場跡を会場とした「クロニクル、クロニクル!」である。ツイッター等で情報を得ていたので関心を抱いていたのだが、一体どのような展覧会かよくわからなかった。まず会期である。今年の1月25日から来年の2月19日まで、なんと一年以上もある。フライヤーをもう少し詳しく確認するならば、展覧会としては今年の1月25日から2月21日まで、そして2017年の1月23日から2月19日までとある。つまり展覧会は二回にわたって繰り返されるが、二つの展覧会の間の期間も会期に含められている訳である。さらに厳密に言えば、今回の展覧会の会期は2月19日に終了する。21日までとあるのは、作品の搬出も含めて展覧会に含められていることを暗示している。フライヤーには「もしかしたら一度起こったことで、それで完結するものなんて何もないんだ」という言葉が引かれている。このブログでもレヴューしたフォークナーの『アブサロム、アブサロム』からの引用らしい。このあたりの批評的な意識にも関心を抱いた。さらに驚いたのは同じフライヤーに唯一掲載されている図版が吉原治良の《大阪朝日会館緞帳のための原画》であったことだ。現在、兵庫県立美術館に収蔵されているこの作品は私も見た覚えがあるが、タイトルのとおり、今は取り壊された大阪の朝日会館の舞台の緞帳として描かれたものだ。手元のカタログで確認したところ、原画ということもあるだろうが、92年の芦屋での回顧展には出品されているが、05年から06年に東京国立近代美術館等を巡回した回顧展には出品されていない。企画者は一体どこでこのマニアックな作品の存在を知ったのであろうか。出品作家のセレクションも謎めいている。吉原や斎藤義重、三島喜美代といったヴェテランが入っているかと思えば、リュミエール兄弟という映画の草創に関与したフランス人、そして初めて名前を聞く若手まで、一体この展覧会はいかなる文脈の中に構想されているのか、私は大いに関心をもって展覧会に足を運んだ。会場で企画者と比較的長い時間対話することができたので、いくつかの疑問は解消された。まだ不明の点もいくつかあるが、予想していたとおり、きわめて示唆に富む展示であり、ひとまずレヴューとして記録に留めておきたい。
 
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この展覧会はなんといっても会場が圧巻だ。四階建ての旧造船工場を私は初めて訪れた。元々は隣接するドックで建造される船の部品や設計図などを制作する場であったらしく、広大で独特の建築である。特に低い天井に無数の蛍光灯が設置された「現図工場」と題された四階部分はそれ自体がインスタレーションの空間であるかのようだ。現図とは原寸大の船体の設計図面のことで、操業当時、かがんだ姿勢でたくさんのドラフトマンが設計に勤しんでいる様子の写真が展示されていた。現在、造船所は佐賀県に移り、この建物は使用されていないが、その内部は圧倒的な存在感があり、ここに作品を並べることは作家にとっても相当にチャレンジングなはずだ。
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少し先を急ぎ過ぎた。今述べた吉原治良の緞帳のための壁画の原画複製が掲げられた入り口を曲がるとリュミエール兄弟が1895年に撮影した〈工場の出口〉という名高いフィルムがDVDによって上映されている。文字通り造船工場の出口で工場の出口の風景が上映されるという同語反復的、自己言及的な展示が実現されている訳だ。その脇を抜けて二階に上がると、受付の横には斎藤義重の《複合体》のマケットというか模型と図面が配置され、斎藤へのインタビューが上映されている。知られているとおり、《複合体》はいくつかのパーツで構成された幾何学的な立体であるが、設置に際して斎藤が立ち会っていることから理解できるとおり、それらを実際に組み合わせる場合は配置や設置に若干のヴァリエーションが介在する余地がある。マケットと図面はおそらくはそれらに関する指示であり、言い換えるならば作品がいかに再現されるかという同一性の問題が関与する。このような作業と先に触れた「現図」の作成、すなわち原寸大の船の設計図面の間にパラレルな関係を読み取るのは深読みに過ぎるだろうか。その傍らには三島喜美代のコラージュを用いた60年代中盤の絵画が展示され、さらに荻原一青という城郭研究家による日本各地の名城を描いた多数のデッサンが展示されている。
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その奥に広がる空間で目を引くのは何体かのマネキンと清水九兵衛の二つの立体、そして牧田愛の変形パネルの絵画である。一番奥には小部屋が二つあり、向かって左側には川村元紀の《Storeroom》というインスタレーション。タイトルのとおり乱雑な倉庫の内部のような空間が提示されている。向かって右側の笹岡敬のインスタレーションは暗い室内の中央にHIDランプが吊された状態で回転し、室内に配置された鏡やミラーボールがそれを乱反射するという作品。カウンターの横から三階に上がると広い空間に作品が散在している。コンセプチュアルな映像とパフォーマンスの残骸らしきオブジェの連なり、建築の部分をモンタージュした写真、水道の蛇口にとりつけられたビニールホースが室内を一巡し、最後は窓から垂れ下がって水を排出する作品。ここでも展示された作品に共通性や方向性を認めることは困難だ。そして最後に四階に上がると、先にも触れた無数の蛍光灯が照らし出す室内はがらんどうで両端にメッセージと写真による作品が貼り付けられている。もっとも、繰り返しとなるがこの空間はそれ自体が作品のような印象を与える。
場所の選定、作家の選定、作品の設置、いずれも謎めいた展覧会は少なくともこの時点ではカタログに類した記録が作られていないこともあり、会場を訪れただけではその内実を知ることが難しい。企画者から聞いた話を私が理解した範囲で記すならば、この展覧会はこの施設を美術と関連させて活用するプログラムとして、プロポーザルの中から選ばれた試みらしい。私のおぼろげな記憶によればおそらく10年くらい前にもこの造船所を舞台に美術系の展示を長期にわたって継続する計画が進められていると聞いたことがある。カタログはないが、会場には企画者からの長文のメッセージのハンドアウトが準備されており、展示の構想の一端をうかがうことができる。少し長くなるが引用する。

「クロニクル、クロニクル!」は1年間続くある出来事たちにつけられた名前です。核となる会場は、1911年に操業を開始した名村造船所。現在は近代化産業遺産にも登録されアートスペースとして生まれ直しているそこは、言わばつくることと生きることがひとつであるような場所です。
つくることといきることを、端的に「しごと」と名指すことができるかもしれない。日々の繰り返しの中で研磨される「しごと」と類するような展覧会をしようと思いました。同じ展覧会を2度繰り返そうと思いました。「繰り返すこと」「繰り返されること」について考える展覧会をしようと思いました。

 このようなコンセプトに基づいていくつかのルールが設定されている。要約するならば、一年間の会期の初めと終わりに日時を区切った展覧会を二度開催し、「繰り返すこと」「繰り返されること」について一年間考え続けるというものだ。展覧会がまだ「繰り返されて」いない状況でかかるコンセプトについて分析することは少々難しいが、これらのテクストを読んで私が直ちに連想したのはロバート・モリスの1969年の個展「日々変わり続ける連続するプロジェクト」である。後にモリスの論文集のタイトルともなったこの個展において、モリスは自身によるインスタレーションに日々手を加えて、少しずつその様相を変えていった。繰り返しが主題とされた本展と、時間的変化が主題とされたモリスの個展とは微妙に問題意識を違えるが、作品の設置や撤収も展覧会の一部と見なす発想、そして特に三階の会場に顕著な、様々の素材が放置された印象はモリスの展示と共通している。さらにいえば私は今回の展示からこのブログでも触れた同じ年、ハロルド・ゼーマンが企画した「態度がかたちになる時」、あるいはホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」を想起した。いずれの展示も素材や作品が展示というより放置された印象が強く、何が作品か判別しがたい状況が提示されているのだ。例えば谷中佑輔の一連の作品はおそらくその場で実施されたパフォーマンスの残骸であろうことが想像され、作品というよりも何かの痕跡である。内部を水が流れるビニールホースは作品なのか設備の一部なのか判然としない一方で先に触れた「現図工場」はダン・フレイヴィンのインスタレーションと言われれば信じてしまいそうだ。素材とも作品ともつかぬオブジェの傍らには明らかに絵画と認められる作品も展示されており、かかる混沌もまた60年代末の過激な展覧会を彷彿とさせる。先に述べたとおり、会場となった元造船所は場としての圧倒的であり、通常の絵画や彫刻では存在感を示せないために即物性、行為性の強い作品が選ばれたのであろう。
 フライヤーの裏面に四つのキーワードが示されている。すなわち「ジェーン台風」「緞帳」「マネキン」「IMAX」である。フライヤーとハンドアウトの限られた情報量ではこれらのキーワードの意味するところは必ずしも判然としないのだが、まずジェーン台風とは1950年、名村造船所があった大阪臨港地区に大きな被害を与えた台風の名前であり、この台風のために大阪に公立の美術学校を開設しようとする計画が頓挫してしまったという。さらに出品者の一人荻原一青は描き貯めていた城郭の復元図を一度目は空襲で、二度目はこの台風によってすべて失い、展示された作品は三度目に制作されたものである。まさに「繰り返すこと」が続けられた訳だ。さらに思考をめぐらすならば、今回の出品作家の一人である斉藤義重もまた1930年代に制作し失われた作品を30年以上後になって再制作している。かかる問題は今日の美術館や展覧会で多用される再制作という問題を「繰り返し」という視点から検証する契機となるかもしれない。近年、かつての展示を再現する展覧会が流行していることはこのブログでも何度か論じたが、これに対して本展でどのような観点から展覧会の「繰り返し」がなされるかは興味深い問題である。さらにいえば「ジェーン台風」という天災と美術の関係を問うことは、端的に震災後の美術のあり方を問うことでもあるだろう。二番目のキーワード「緞帳」とはいうまでもなく今回複製が展示された吉原治良の緞帳原画に由来する。緞帳とは舞台と観客を遮り、「見るもの」と「見られるもの」を隔てる両義的な存在である。緞帳の意味は存在論的にも深めることができようが、企画者は吉原と緞帳との関係から、吉原が関わった西宮球場の「たそがれコンサート」、そして光という問題へと議論を広げていく。この時、本展にリュミエール兄弟が召喚された理由も明らかであろう。そしてもう一つのキーワード「IMAX」の意味も明らかだ。いうまでもなくIMAXとは特殊な映画映写システムであり、かつて会場からほど近いサントリーミュージアムにもこの方式を用いた劇場が存在した。最後のキーワード「マネキン」の意味も大森達郎、清水凱子、ジャン=ピエール・ダルナという三人の手によるマネキン作品を見るならば明らかとなる。企画者によれば、日本においてはしばしば美術家、特に彫刻家はマネキン製作に関わり、先の引用にあった「つくることと生きること」の狭間にあったといえるかもしれない。これらの作品から村上隆の初期作品を連想することは、この意味においてもある程度の妥当性があるだろう。
 展覧会は通常一過的な営みとみなされてきた。これに対して一年間という異例の長い会期を設け、しかも最初と最後に展覧会を繰り返すという試みはいくつかの批評的な視点を提起する。例えば通常の展覧会においてはいつ来場しても、同じ作品の同じ様相を見ることとなる。しかし多くのパフォーマンスやワークショップを伴うこの展覧会はその残滓としての「作品」を積極的に取り入れることによって、常に姿を変える。先にも述べたようにこのような試みはすでにロバート・モリスに先例がある。しかし今日においてはSNSという技術を用いることによって、かかる変化の状況をリアルタイムに報告することができるし、そもそも一年という長期にわたる展覧会はSNSによる情報発信を介してその都度必要な情報を関係者に提供しながら、「1年間続くある出来事たち」を組織することが可能となったことによって実現したといえよう。通常の展覧会が時間的にどの断面を切り取っても同じ相貌を示しているのに対して、この展覧会においては出来事が蓄積していくとはいえないだろうか。この点においてもSNSは重要な役割を果たす。通常であればすでに終えられたイヴェントはかたちを残さないのに対して、ウェブ上では情報を蓄積することが可能であるからだ。再びロバート・モリスを引こう。モリスはポロックのポード絵画の特質を最終的な画面からそれが描かれた経過を読み取ることができる点に求めた。作品が制作の経過を内包しているというのだ。時間が空間化されていると言ってもよいかもしれない。この展覧会は少なくとも理念の上では同様の意図をもっているかもしれない。すなわち一年間にわたって展覧会をめぐる様々な経験が蓄積されていく試みであり、それは現実においては旧名村造船大阪工場という場において、仮想空間としてはウェブのSNSにおいて日々更新されているのだ。展示は来年も同じ場所で繰り返されるという。おそらく私は来年、もう一度北加賀屋を訪れることになるだろう。

by gravity97 | 2016-02-27 19:46 | 展覧会 | Comments(0)

Apple Paper Weight designed by graf

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by gravity97 | 2016-02-21 20:13 | MY FAVORITE | Comments(0)

圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』

b0138838_20415497.jpg きわめて刺激的な論考を読んだ。タイトルが主題を示している。ユダヤ人と近代美術、しかしこれはきわめてデリケートなテーマでもある。本書の中に美術史家エルンスト・ゴンブリッチの1997年の時点における発言が紹介されている。96年にロンドンで開かれた「オーストリア・ユダヤ文化祭」において「世紀末ウィーンの造形芸術におけるユダヤの影響」という講演を依頼されたゴンブリッチは、このような講演のテーマ自体が問題であることを表明するために講演を引き受け、次のように述べたという。「ユダヤ文化という概念は、昔も、今も、ヒトラーとその前身者たちと、その後継者たちによってでっちあげられたものだと私は考えています。」一組の美術を一つの国家や民族と結びつけることは文化本質主義につながる危険性を秘めている。実際にそのような例を私たちは第四章で言及される悪名高い「退廃芸術展」に認めることができる。かかるアポリアを回避するために著者はどのような問題意識に立ったのだろうか。順序が逆となるが、著者の姿勢を知るためにはまず最後の「結」の部分に記された次のパッセージを読んでおいた方がよいだろう。本書の核心でもあるから、少し長くなるが引用する。

 本書は「国家」という作者が著す「美術史」の物語群の中でこれまで居心地悪くしてきた一群の多様な人々を、「ユダヤ美術」という新たな国家の物語に収めることなく、多様なままそれぞれの歴史的コンテクストの中に描き出し、それら原風景の中の肖像画をいわばひとつの部屋にまとめて展示しようとした試みである。2000年にわたって国家をもたす離散していた人々、今から200~300年前まで、絵を描くことも見ることもみずからに禁じてきた人々が、どのように美術というものに関わってきたか。近代資本主義社会、近代美術への移行期、そしてホロコーストという最大の危機に襲われた時期、ユダヤ人はなぜ、どのように美術と関わったのか。危機の後、どのように描き、どのように語ったのか。そのようなことを明らかにできればと考えて書き進めた。

 したがってこれに続いて記述されるとおり、ここで論じられる「ユダヤ美術」は必ずしもユダヤ人としての血統性を墨守する作家たちのそれではないし、現在のイスラエル国家で制作されている作品でもない。著者の関心は一貫して「コスモポリタン志向の同化ユダヤ人」に向けられることとなった。具体的な作家についてはこれから論じるとして、私もまた著者が目を向ける作家たちが、いわば「ユダヤ美術の可能性の中心」であることに同意する。なぜこのような立場のユダヤ人が革新的な表現を確立したかについては慎重な分析が必要であろうが、同化ユダヤ人が置かれた危機や疎外感が逆に作品に一種の普遍性と革新性を与えたのではないかという著者の指摘はおそらく正しい。
 冒頭に最近の研究によって判明した興味深い事実が明かされる。スペインの大画家、ベラスケスが実はマラーノ(豚)と呼ばれる改宗ユダヤ人の家系であり、画家はそれを秘匿して自らの宮廷画家としての地位を築いたのだという。ずいぶん以前に私は小岸昭の「離散するユダヤ人」という研究を読んで、国王のユダヤ人追放令によってスペインから放逐されたユダヤ人たちの運命について知った。確かマラーノとはスペイン国内に留まってひそかにユダヤ教を信教した者たちへの蔑称だったと記憶する。この一事をもっても「ユダヤ美術」について語ることの困難が浮かび上がる。ベラスケスがユダヤ人であったか否かが問題ではない。おそらく美術史の中にはベラスケスのごとく自らの血統を隠しながら作品を発表した画家や彫刻家が存在するが、作家の血統調査は美術史学とは何の関係もないからだ。とはいえ、多くの作家が「ユダヤ系」として知られていることもまた事実である。最初に19世紀と20世紀に活躍した「ユダヤ人作家」のリストが出生地および活動した国とともにリストとして挙げられている。しかし美術史を学んだ私でさえ、19世紀について知る名前はカミーユ・ピサロとマックス・リーバーマンの二人のみだ。20世紀についてはさすがにほぼ知っているが、それでも数名初めて聞く名があった。本書ではここに名が挙がった作家の何人かに焦点化しつつ、ユダヤ人と近代美術の関係が検証される。興味深いことにはいくつかの章には都市の名前も付されている。パリ、ウィーンそしてニューヨーク。新旧大陸をまたぐこれらの地名からもユダヤ人たちがたどった苛酷な運命を透かし見ることができる。
 ベラスケスについて論じた序に続き、「ユダヤ人芸術家の誕生」と題された第一章においてはユダヤ人文化について概観がなされる。教養や教育への深い敬意、厳格な戒律、コスモポリタニズムといったユダヤ文化の特性については私もおおよその知識はあった。中東欧のユダヤ人が使用するイディッシュ語については、最近このブログでこの言語によって執筆されたアイザック・シンガーの『不浄の血』についてレヴューしたばかりであり、実際、この短編集中の「ちびの靴屋」で語られる主人公の生涯は、「ユダヤ人芸術家」たちの運命をたどるがごときではないか。同時にこの章では、ユダヤ人による美術を語る際の困難と関わる、もう一つの注目すべき問題が提起される。それはユダヤ教の核心である偶像崇拝の否定だ。知られているとおり、モーセの十戒の第二戒においてはいかなる像も作ってはならないことが厳命され、実際にユダヤ社会においては絵を描くことはおろか、見ることさえ禁じられ、現在でも厳格なユダヤ教徒は市中でも絵の前を通ることを避けるという。つまりユダヤ教とは本質において絵を描いたり、彫刻を制作することを禁じる宗教なのだ。先の引用の中の「今から200~300年前まで、絵を描くことも見ることもみずからに禁じてきた人々」とはこのことを指す。イメージを禁じられた民族と絵画との関係、かかる主題はとりわけマーク・ロスコとバーネット・ニューマンの作品について論じる際に重要な意味をもつだろう。続いて第一章ではユダヤ人画家の鼻祖とも呼ぶべき三人、フィリップ・ファイト、モーリッツ・オッペンハイム、マウリツィ・ゴットリープの生涯と作品について短く論じられる。いずれも初めて知る画家であった。ファイトとオッペンハイムはドイツ、ゴットリープはウクライナの出身でいずれもロマン主義的な傾向の強い絵画を残している。彼らはユダヤ人として生を受けたことによる時に差別や迫害を受けるが、それはこの後もユダヤ人芸術家たちが体験する苦悩の始まりでもあった。
 続く第二章はパリを舞台にユダヤ人芸術家の活動が語られる。ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害は常に存在したが、ユダヤ人たちは移動することによってそれから逃れた。このような移動は通常は自由意思によってなされたが、時に移動しなければ命を奪われるといった状況も存在したことはこのブログでレヴューした『ブラッドランド』の中で指摘されているとおりである。豊かな才能に恵まれながらもガス室で殺されたため、私たちに知られることがない多くのユダヤ人美術家がいたことに疑いの余地はない。興味深いことには20世紀には二度、多くのユダヤ系の美術家たちが活躍した時期と場所が存在する。一つは19世紀末から20世紀にかけてのパリ、もう一つは1940年代のニューヨークであり、いずれも本書においても詳細に論じられている。これらの時と場所が20世紀美術の二つのクライマックスであったことは単なる偶然であろうか。この点はグローバリズム、あるいは作家の移動という観点からも再検証されるべきテーマであろう。20世紀初頭のパリで焦点化される画家はカリブ海生まれのカミーユ・ピサロとエコール・ド・パリの画家、シャガールである。印象派として知られる画家がカリブ海生まれということを初めて知ったが、ピサロの祖先はマラーノに対して、セファルディムと呼ばれるスペインから追放され各地に逃れたユダヤ人であったらしい。ピサロは同化ユダヤ人としてパリに生き、印象派運動に加わる。ピサロの風景画に人物が点在することを理由にその「ユダヤ性」を論じる研究があるらしいが、このようなくだらない文化本質主義に私は与することはできないし、さらには印象派の点描主義を色覚異常に帰して、さらにそれをユダヤ人に固有の先天的欠陥とみなす議論もあったらしい。かかるグロテスクな主張が「退廃芸術」において繰り返されたことを私たちは知っている。シャガールに関しても、七本の指や頭と体が分離したイメージについてイディッシュ語のイディオムとの関係を指摘する研究があるらしいが、イメージの起源を言語や文化に直結させる発想は私にはやや危険に感じられる。シャガールに関して興味深い点は、彼の親族がソビエトに残されており、しかも戦後まもなくこれらの関係者の何人かが不審死を遂げたという指摘である。先にも触れた『ブラッドランド』の中で検証されたスターリン体制下でのユダヤ人の運命を考えるならば、これらの事実が暗示する問題は明らかである。
 第三章はウィーンを舞台にやや異なった観点からユダヤ人問題が論じられる。ここでは作家ではなくパトロンに焦点が当てられる。ユダヤ人には商業的に成功した者が多かったから彼らが新しい芸術の庇護者としてふるまったことに大きな不思議はない。この章では主にウィーン分離派とウィーン工房のパトロンたちが扱われている。たとえば哲学者のヴィトゲンシュタインの父親であるカール・ヴィトゲンシュタインは鉄鋼業で財をなし、美術のみならず音楽のパトロネージュでも知られていた。クララ・シューマンやパブロ・カザルスがヴィトゲンシュタイン家のサロンで演奏したという逸話も残されている。彼はウィーン分離を支援し、クリムトは彼の娘の肖像画を残している。ドレフェス事件にみられるとおり、民衆の間に反ユダヤ感情が存在したフランスと異なり、オーストリアのユダヤ人たちは皇帝によって庇護されており、これらのパトロンたちのごとき蓄財も可能であった。しかし1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、彼らは財産を没収され、市民権を剥奪されることとなった。実際にこれらのパトロンの中には強制収容所で殺害された者もいたという。このうち、クリムトに自らの肖像画を描いてもらったエリザベート・レーデラーという富豪一族の娘はナチス侵攻後もウィーンに留まり、ユダヤ人迫害から逃れるため自分がユダヤ人の娘ではなく、母親とドイツ人であるクリムトの間の不義の子であり、したがって「第一級混血」であると主張し、迫害から免れようとしたという。財力をもっても抗しがたいナチスの人種的迫害の苛酷さをめぐるなんとも壮絶なエピソードである。この章でパトロネージュの問題が扱われるのはやや唐突にも感じられるが、あとがきに記されているとおり、著者の次なる関心、美術市場というテーマにつながっていくのだろう。
 続く第四章は短い。ここでは退廃芸術展について論じられた後、かかる状況の中でも作品をとおしてナチスへの抵抗を試みた例としてジャック・リップシッツとシャガールの作品が具体的に言及される。退廃芸術展はユダヤ人を直接の攻撃対象とした展示ではないが、キュビスム、シュルレアリスムから抽象絵画にいたる近代美術の正系がことごとく「退廃芸術」とみなされて、没収されて戦費調達のために売却された。これらの作品は来歴不明のままスイスとアメリカへ流出し、今日の国際展における「略奪美術品」問題の端緒となっていることは知られているとおりである。先にクリムトに言及したが、確か先日、クリムトの《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》の帰属をめぐる映画が封切られたのではなかっただろうか。退廃芸術展は国籍を問わず、モダン・アートに従事する作家たちに強い危機感を与えた。多くの優れた芸術家たちが大西洋を隔てたニューヨークへと亡命を図る。そしてそこにもユダヤ人たちによる新しい美術が胎動していた。
 クロノロジカルに論じられる本書を読み進めるならば、ナチスの弾圧を逃れたユダヤ人の中から新しい画家が出現したような印象を受けないでもないが、ロスコははるか以前、1913年にニューヨークに渡り、ニューマンはマンハッタン生まれである。ただし『ブラッドランド』の記述を思い浮かべるならば現在のラトヴィアに生を受けたロスコの渡米はまさにブラッドランドにおけるソビエトの暴虐から逃れるための命がけの行程であったことが理解される。抽象表現主義を代表するこれら二人の画家がいずれもユダヤ人であったことは彼らの作家研究の一つの主題を形成しており、たとえばニューマンに関するトマス・ヘスの研究は、タイトルはもちろん作品のサイズまでカバラと関連させて論じる相当に強引な内容であったという記憶がある。ここでは本書の指摘の中でいくつか印象に残った箇所について触れておく。ロスコについては「嘆きの壁」の前で祈るロスコの写真と関連して、そこでユダヤ教徒が何を思い浮かべているかという著者の問いへのユダヤ文化研究者、青木偉作氏の返答が興味深い。氏によればそこで教徒は「何も具体的イメージが浮かばないよう様々なイメージを混ぜながら祈っている」とのことである。いうまでもなく先に述べた偶像否定、イメージの否定を反映しているのだが、ロスコの典型的な色面抽象を想起する時、具体的なイメージを結ばないように様々のイメージを混ぜているという説明は腑に落ちる思いがする。ロスコ、そしてニューマンも初期にはギリシア神話やいくつかの宗教との関連を有す作品を制作していたが、ブレークスルーを決行するにあたって、これらの神話的なイメージの重ね描き、パランプセストによってイメージを消し去ったのではないだろうか。ロスコの絵画の瞑想性は内部へ向かうベクトルを有するのに対して、ニューマンは観者の視線を表面で弾く。この問題についてはかつてニューマンの回顧展について論じたブログの中でも指摘した点であるが、ユダヤという補助線を引く時、また別の視野が開ける。著者はヘスよりもむしろイヴ=アラン・ボアに拠りながらニューマンの絵画がいかにユダヤ教と関わるかについて論じる。詳細については本書を読んでいただくのがよいが、私の言葉に言い換えるならば、ニューマンにおいてユダヤ教は(ロスコと同様に)もはや主題のレヴェルとは関係がない。それは召命される場、マコムと関係がある。ボアはイザヤ書における神の顕現とイザヤの召命の部分に注目する。「そのとき、私は主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』私は言った。『私がここにおります。私を遣わして下さい』」このうち、「私がここにおります」というフレーズが重要だ。顕現した神と同じ場を占めるという体験、これこそがニューマンの絵画の本質である。この点についてはこれまでにも何度か、例えば昨年のMIHO MUSEUMでの奇跡のようなニューマン展のレヴューで論じたが、ユダヤ教においては神と人の間を媒介するものは存在しない。この点は偶像否定という問題とも軌を一にしている。すなわち偶像とは神の似姿であり、神の代理として神と私たちをつなぐ存在であるからだ。ニューマンにおいて芸術とはマコムの創出であり、絵画は何かの代理としてではなく、単に絵画として顕現する。このように考えるならば、ロスコとニューマンの絵画の差異についても理解できよう。重ね描きされることによってイメージがいわば脱イメージ化されるロスコに対して、圧倒的な存在と出会う場として絵画を構想するニューマン、本書の中では両者にそれぞれ「根源的な感情」と「契機」という言葉が当てられている。彼らの絵画は抽象表現主義における色面抽象に分類され、いずれも卓絶した絵画である。しかしユダヤ教というプリズムを介すならば、両者の存立構造が全く異なっていることが明らかとなるのだ。
 かくのごとく多くの発見を誘発する研究であるが、新書という制約上、十分に論じられていない問題も多い。フィリップ・ファイトからバーネット・ニューマンにいたる作家選択の恣意性という問題も検討する必要があるだろう。しかしあとがきによれば本書は一連の研究の「序曲」であるという。ユダヤ人問題は扱うことが難しい切所であるが、それゆえ美術史学に全く新たな展望を開く多くの可能性を秘めていることは本書からも明らかだ。同じ著者による後続する研究が待たれるゆえんである。
 

by gravity97 | 2016-02-16 20:50 | 近代美術 | Comments(0)

KAMAKURA, 2016.1.31

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 始まりに立ち会うことは珍しくないが、終わりに立ち会うことはさほど多くない。始まりが何かの事件によって画されるのに対して、終わりはしばしば終えられた後になって初めて気づく場合が多いからだ。しかし今年の1月31日、私は紛れもない一つの終焉に立ち会った。いうまでもない、神奈川県立近代美術館鎌倉館の閉館である。
 以前から予告されていたから、当日は多くの人が美術館を訪れていた。入館券売り場には長い列が出来ており、いたるところにカメラを手にして、この美術館の名残を写真にとどめようとする人々の姿があった。もちろん私も大きな感慨とともにこの地を踏んだ。私は単なる来館者としてだけではなく、共催する展覧会の担当者としても何度かこの美術館に足を運んだ。このブログは匿名を原則としているから、具体的な展覧会名には触れず、若干のフィクションを交えて思いを記すこととする。
 神奈川県立近代美術館鎌倉館は1951年に日本で最初の「近代美術館」として開館する。近代を関した美術館としては、世界的にもきわめて早い例であり、東京国立近代美術館の開館はこの翌年のことであった。この美術館は土地を隣接する鶴岡八幡宮から借用していたが、借地契約が今年の3月末で満了するため、神奈川県は鎌倉館での美術館活動を終了することとなった。2003年に葉山館が新設されたことはこの事態に対する布石であり、美術館活動そのものは葉山館、そして隣接する鎌倉館別館で継続されることとなったが、いくつかの問題が残った。最大のそれは現在の鎌倉館の処遇であり、一時は坂倉準三の歴史的名建築が取り壊され、更地となることさえ危惧されたのである。現時点で私の得ている情報によれば、本館棟は残されて、今後おそらくは八幡宮の施設として使用されることとなるらしいが、耐震基準に問題がある新館棟は取り壊される予定であるという。鶴岡八幡宮の境内は国史跡の指定を受けているため、新館棟の改修が困難であることが理由であるにせよ、1966年に同じ坂倉によって増築された新館棟を欠いた鎌倉館をどう見るかは難しい。そもそも新館棟は2007年以来使用されておらず、私自身これ以後の展示に立ち会って、以前と比べて使用できる面積がずいぶん減り、余裕のある展示が難しくなったと感じたことを覚えている。鎌倉館は決してユーザーフレンドリーな空間ではなかった。そもそもこの美術館は「近代美術館」という概念が形成されつつある時代に成立したから、開館直後の展覧会記録写真を見るならば、展示室の周囲にめぐらされたガラスケース、かなり貧弱な仮説壁など、従来の博物館の延長にあった日本における草創期の美術館の特徴がよく理解できる。あるいは関係者にはよく知られた話であるが、この美術館にはエレベーターがない。重量のある作品を二階に展示する場合は正面の階段を人力で上げるしか方法がないため、展示は天候によって左右された。オフィスビルに間借りして始まったニューヨーク近代美術館に対して、優れた建築家が新築した美術館であるにもかかわらず、作品を展示する際には過渡期に起因する不便があったように感じる。しかしながらこの美術館の建築は素晴らしい。私も日本各地、世界各地の美術館をめぐった経験があるが、この美術館ほど気持ちのよい空間を思いつくことは難しい。池と山にはさまれ、温湿度管理や虫害予防といった観点からは必ずしも好条件にある美術館ではないのだが、この空間は日常から離れて美術に向かいあう場にまことにふさわしく、特に展覧会を目的とせずふらりと立ち寄ってもいつも懐かしい場所であった。イサムノグチの作品が置かれた中庭、水面の反射が天井に映えるテラス、あるいは昭和の面影を残す喫茶室。この美術館の空間はなんとも優しく、ヒューマンスケールなのだ。例えば安藤忠雄による兵庫県立美術館、SANAAが手がけた金沢21世紀美術館、そしてシーザー・ペリの国立国際美術館、これらは今世紀になって建設され、建築が話題になった美術館であるが、私はそれらの建築をよいと思ったことは一度もない。兵庫県立美術館は村野藤吾の手による前身の兵庫県立近代美術館に比べてなんとも威圧的で閉鎖的、中に入るといつも息苦しさを覚える。金沢21世紀美術館の安っぽさはどうだ。私はいつも車のショールームを連想し、展示室に入るならば自分がどこにいるかわからず、常に導線が不明だ。国立国際美術館については(建築家の責任ではないかもしれないが)美術館が置かれた位置に強い違和感を覚える。自然災害の多いこの国でことさらに地下(それも川に挟まれた中州の地下)という人間的でない場所に作品を展示、収蔵するという発想は美術館の本質と乖離しているのではないか。超高層に所在する美術館を私が嫌悪するのも同じ理由による。これらの美術館と比べるならば、鎌倉館の優しさは理解していただけるだろう。そこでは美術館の内部と外部がつながり、建築が息づいているような印象を受けないだろうか。もちろん先に述べたような不便さや古さは存在する。しかし日本で最初に建設された近代美術館が半世紀以上の時を経ても、なお日本の美術館建築において屹立する存在であることの意味は検証されてよいのではなかろうか。
b0138838_20323016.jpg 開かれていた展覧会は「鎌倉からはじまった。」と題された連続展の第三部である。半年にわたる展覧会では現在から過去へ、鎌倉館の歴史を遡行するかたちで美術館が回顧された。それぞれのサブタイトルを紹介するならば「Part 1: 1985-2016 近代美術館のこれから」、「Part 2: 1966-1984 発信する近代美術館」、「Part 3: 1951-1965 『鎌倉近代美術館』誕生」である。このうち、私は第一部と第三部を見た。いずれも所蔵作品を中心とした名品展であり、あらためてこの美術館が日本の近代美術史に与えた影響を感じることができた。例えば佐伯祐三や高橋由一、松本峻介といった画家たちは今でこそ日本の近代美術史に刻まれたビッグネームであるが、彼らはこの美術館で作品が展示され、収蔵されることによって評価を高めたのである。ただ私が興味を抱くのは、この美術館で好んで取り上げた作家たちが必ずしも近代美術の正史にきっちりと収まる作家ばかりではないことである。もっとも果たして日本の近現代美術に「正史」が存在するのかという問いはありうる。しかし例えば東京国立近代美術館のコレクション展示と比べるならば、明らかにそれとは異なった一群の作家たちへの偏愛が認められるように思われる。両者の違いを説明することはなかなか難しいが、東京国立近代美術館は国家機関として文化勲章や重要無形文化財を頂点とする美術家たちの序列を調整することをよくも悪くも一つの存在理由としている。したがって国立近代美術館によってコレクション展示の中に列聖される作家たちは好む好まざるにかかわらず一種の権威を帯びる。これに対して神奈川県立近代美術館が好む作家たちにしばしば一種の異端性が認められることは注目されてよいだろう。おそらくそこには国立美術館に対する在野の精神、公立美術館としての矜持が存在しているであろうし、さらに具体的に述べるならば、とりわけ第二代館長であった土方定一の意志が働いているように思われる。b0138838_20342847.jpg 閉館を記念して作成された『鎌倉から始まった。』という冊子の第1章、ちょうど今回の展示に対応するセクションのリードに次のような的確な要約がある。「こうして、坂倉準三の建築が体現する開放されたモダニズムの空間を舞台に、当時の土方定一副館長を中心とする草創期の学芸スタッフたちの飽くなき挑戦の積み重ねによって『鎌倉近代美術館』という独自の文化空間が生まれたのであった」ここでまた一つの疑問が生まれる。鎌倉館が最初の近代美術館、モダン・ミュージアムであったとするならば、ここにおけるモダンとは何を意味しているのだろうか。ここで対比されるべきは最初のモダン・ミュージアム、ニューヨーク近代美術館ではなかろうか。知られているとおり、1929年に開館したニューヨーク近代美術館が館長アルフレッド・バーの強力なリーダーシップのもと、展覧会と作品収集によってモダニズム美術の文脈を形成し、アメリカ美術をその正嫡へと位置づけた。しかしながら神奈川県立近代美術館は美術史におけるモダニズムとも一線を画しているように感じられる。先にも述べたとおり、そこで取り上げられる作家はモダニストと呼ぶには少々泥臭く、やはり異端という呼び方がふさわしい。神奈川県立近代美術館鎌倉館は主として近代の作家を取り上げたが、それはいわゆるモダニズム礼賛ではなかった。この微妙でありながら決定的な差異は重要ではないだろうか。この一方、私の考えではこの美術館はその姿勢において決定的にモダンであった。つまり美を独立した価値とみなして、ほかの価値と混同することがなかった。先にも触れた『鎌倉からはじまった。』という冊子にはこれまでこの美術館で開かれた展覧会のリストが掲載されている。このリストを眺めるだけで多くの発見がある。「セザンヌ・ルノワール展」に始まり、最初の一年になんと22本もの展覧会が開かれたことは驚きであり、学芸員たちはこれほどの数の展覧会をどのように捌いたのだろうか。あるいはごく初期の展覧会のいくつかが「複製展」と銘打たれていることは、敗戦からまもない当時、人々がどれほど美術に飢えていたかを物語るものであろう。このリストを眺めていると、私は今日しばしば開催されるあるタイプの展覧会がほとんど存在しないことに気づいた。それは「X美術館名品展」といった類の展示だ。今日においてこれはむしろ異例に感じられる。例えば国立新美術館のラインナップを想起するならば、この施設が基本的に貸会場であることを勘案するにせよこの手の展覧会がほとんどを占めている。それらはきわめて安易な展覧会だ。借用は一つの美術館のみで完結するし、その中に数点、よく知られた作品を入れておけばある程度の来場者は確保できる。このような展覧会の場合、作品の選択は多く所蔵館側によってなされる。つまり借用する側の主体性はほとんど存在しないのだ。私はこれを展覧会の植民地化と呼ぶ。国立から私立まで現在、宗主国に阿ったくだらない展覧会がいかに多いことか。しかもこれらの展覧会は基本的に顔のある美術館学芸員ではなく新聞社やTV会社の匿名の事業部によって組織されている。彼らに随行して宗主国の美術館を「表敬訪問」した学芸員たちが「国際展」を組織したと勘違いする愚かさには失笑を禁じえない。なぜこのようなタイプの展覧会が隆盛するのか。理由は単純だ。収益を上げることができるからだ。美術が営利手段として用いられているのだ。先にも述べたとおり美術は独立した価値の源泉であるから、本来ならば入場者数や収入といった市場的な価値とは無関係のはずである。しかし今や「新自由主義者」たちに乗っ取られたこの国ではかかる原則が顧みられることはない。それどころか収益を前提としない展覧会は悪とさえみなす風潮が蔓延している。もっともこの点は鎌倉館が大新聞社やTV会社と展覧会を共催しなかったことを意味しない。私が実見した展覧会の中から任意に挙げるが、「セント・アイヴス展」、「芸術の危機 ヒトラーと退廃芸術」、「実験工房展」、例えばこれらの展覧会は新聞社との共催によって開催されたはずである。しかしなんと渋いラインナップであることか。いずれも動員や収益は見込めない展覧会であろうが、新聞社と組むことによって可能となった展示であろうし、逆に言えばかつては新聞社側にもその程度の度量があったのだ。言い換えるならば、この美術館の場合、学芸員が展覧会に主体的に関わるという姿勢が貫徹されている。当然といえば当然だが、今述べたとおり、見栄えこそよいものの国立美術館でさえ海外の美術館の巡回展の下請けと化している状況においてはかかる原則も空洞化しつつある。もちろん展覧会の開催にはさまざまな力学が働くから、このように単純に論じるべきではないし、かくいう私自身このようなタイプの展覧会に関わったことがあるから、批判できる立場にないことも認識している。しかし私は展覧会とはその本質において作品に文脈をつける営みであると信じている。そしてそのような文脈を提起することこそ学芸員の仕事の本質ではないだろうか。他の美術館のコレクションを右から左に並べる展覧会の最大の問題は、このような文脈が成立しない、もしくは文脈の成立に関与できない点である。この点は最近では全国を巡回した台湾の現代美術コレクションの展覧会から(私は未見であるが)現在、横浜美術館で開催されている村上隆のコレクション展まで通じる問題であろう。コレクターによって既に文脈を与えられた作品を美術館で展示することはあってよいと思う。しかし美術館という公共の場に並べる以上、それらをいかに再文脈化するかという問題意識が企画者に求められるのではなかろうか。
 少し話が逸れた。鎌倉に戻ろう。今述べたとおり、いかなる展覧会を実施するかについては複雑な力学が働く。しかしこの美術館が一貫して植民地的な展覧会を退け、学芸員が主体的に関わる展覧会を企画してきた背景に美術館としての意志と学芸スタッフの明確な意識が働いていたことは間違いない。冒頭に終わりというのは終えられた後に初めて認識されることがあると記した。近代に特化した特別展、特別展と常設展の併置、多様なジャンルの作品の紹介、あるいは現存作家の近作を展示する展覧会、「近代美術館」と関わるこれらの制度は少なくとも草創期においてはこの美術館を中心に模索され、確立されてきたように思われる。この意味において鎌倉館はハードにおける「近代美術館」の起源であると同時にソフトにおける「近代美術館」の濫觴でもあった。しかし半世紀以上の時間が経過して、展覧会という制度も微妙な変質を始めている。国立館と比べるならば鎌倉館は決して潤沢な予算がある美術館ではない。しかしおそらくは館是として今日にいたるまで一人の学芸員が主体的に関わり、作家との良好な関係の中で展示された作品に文脈を与えるというタイプの展覧会を続けてきた。私はこの点こそ鎌倉から学ぶべき点であり、最初に建設された近代美術館にふさわしい気風であるように感じる。今日、多くの美術館にとってこのような展覧会を企画することは次第に負担になりつつあるように感じられる。美術館にとって冬の時代と呼ばれる現在、なおも「近代美術」の理想を掲げて美術に関わることができるのか、それとも単なる効率化や収益性といった価値に美術を重ねてしまうのか。時が経って、この美術館の閉館が日本における「近代美術館」の理念そのものの終焉であったと気づくことがないことを願いつつ、私は襟を正してこの美術館の最期を見届けた。

by gravity97 | 2016-02-08 20:44 | SENSATION | Comments(0)

ロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏」

 
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 毎年、年末年始には長い小説を読むことにしている。今年も一昨年のディケンズ「荒涼館」に匹敵する大長編を準備したものの、休暇が短かったこともあり、読了までには少々時間がかかった。ロレンス・ダレルの五部作「アヴィニョン五重奏(クインテット)」である。この連作はずいぶん前から気になっていたが、第一巻の「ムッシュー」の翻訳が刊行されたのは2012年11月であり、それからほぼ半年に一巻というペースで翻訳が刊行され、完結までに三年を要した。原著が4年、4年、2年、2年という間隔を空けて刊行されたことに倣った訳ではなかろうが、翻訳であればもっと短い期間のうちに刊行されるべきではなかろうか。半年という間隔は物語への集中を削ぎ、3年も経つと翻訳が進行中であることさえ忘れ去られてしまう。それでもなお私が本書への関心を維持しえたのは、先行する傑作「アレクサンドリア四重奏(カルテット)」が存在したからだ。私はこの四部作を最初は四半世紀以上前に河出海外小説選版、二回目は2007年に刊行された改訳版で通読し、そのたびごとに深い感銘を受けた。それにしてもこれら二つの連作はよく似ている。都市の名前とカルテット、クインテットといった重奏を結合したタイトル、タイトルに示された二つの都市がそれぞれ主たる舞台とされている点、そして例外もあるが個々の巻のタイトルとして、ジュスティーヌ、リヴィアといった登場人物の名が冠されていることなどである。しかしこのような相似性は「アヴィニョン五重奏」にとってむしろマイナスに作用したらしい。訳者あとがきによればこの連作は「英語圏においても不当ともいえるほどの低い扱い」しか受けず、「晩年のダレルによる自作の二番煎じ」とみなされてきたという。確かに圧倒的なエキゾチシズムとデカダンスに彩られた「アレクサンドリア四重奏」の後に、同様に一つの都市を舞台とした重層的な連作をもう一度執筆することはさすがに過剰に感じられもする。私自身、この連作の存在については2007年に「アレクサンドリア四重奏」の改訳版が出版された際にカバーに付された著者紹介の中で初めて知ったが、改訳版のあとがきも含めてその後一切インフォメーションを与えられることがなかったため、書店の店頭でこの連作の最初の巻、『ムッシュー』を見た際には大いに驚いたことを記憶している。
 それでは「アヴィニョン五重奏」とはいかなる小説であるか。第二巻「リヴィア」の冒頭でこの連作の構造について次のように謎めいた説明がある。「良き古典的順序に並べられたサイコロの五の目の小説群が見えた。五冊の小説が、そのために編み出された謎めいた五点形に従って書かれている。こだまがそうであるように、互いに依存してはいるが、ドミノのように連続して端から端に並んではいない―同じ血液型に属しているだけだ」この言葉がサトクリフという登場人物の口から発せられること自体が、この小説のきわめて独特な構造を暗示しているが、単に物語の愉悦に身を任せておけばよい「アレクサンドリア四重奏」とは異なり、この連作は語ることについてのきわめて明晰な意識―あえてモダニズム的な意識と呼ぶ―に貫かれている。以下、小説の内容について若干立ち入って論じるが、それは読者がこの錯綜する物語についてある程度予備知識を携えて読み始めた方が理解しやすいと考えるからである。あらかじめストーリーの一部を知っていても本書を読む快楽は揺るがない点を確信とともに言い添えておく。
 最初の巻「ムッシュー」において既に語りは複雑な構造をとる。「十字軍王国」と題された最初の章には「僕」という一人称の語り手が登場する。「僕」がブルース・ドレクセルというイギリス人の医師であることは直ちに明らかにされる。ブルースが友人のピエールの自殺の報に接してパリからアヴィニョンに向かう列車に乗る場面からこの長大な物語は始まる。ピエールの死をめぐる謎はブルースを、そして私たち読者を多いに困惑させるだろう。続く第二章は時間を遡行し、ブルース、ピエールそしてピエールの妹でありブルースの妻たるシルヴィー、そしてブルースの義理の兄の友人であるトビアスの四人が若き日にエジプト、アレクサンドリア近郊のマカブルというオアシスに向けて旅立ち、アッカドなるグノーシス主義者の銀行家の招きによってグノーシスの秘儀を体験する物語が語られる。四人による砂漠の道行きはダレルらしいエキゾチシズムが横溢し本書の読みどころの一つだ。グノーシス主義とテンプル騎士団をめぐる謎はこの小説に隠顕するモティーフであり、アッカドは秘儀の中でグノーシス主義の奥義について語る。そしてピエールの死の状況とグノーシス主義の暗合も物語の中で明らかとなる。ちなみにこの巻のタイトル「ムッシュー」とはグノーシス主義における「闇の君主」のことである。第三章「サトクリフ、ヴェネツィア草稿」においては三人称の語りと登場人物の一人、サトクリフがヴェネツィアで認めた「ヴぇネツィア草稿」が併置される。テクストの混在は「アレクサンドリア四重奏」にもみられた手法であるが、三人称と一人称の語りが共存するテクストはある程度モダニズム小説を読み慣れた読者でなければ理解することが困難かもしれない。続く章においても一方でヴェルフィユという地所にあるピエールの城館で残された文書を調査するブルースとトビアスの姿、つまり第一章の後日譚とサトクリフの草稿が交錯する。このあたりも決して読みやすくはない。この章で主にトビアスを通してしばしば語られるのはテンプル騎士団をめぐるエピソードであり、ピエール・ド・ノガレはテンプル騎士団を捕縛した中世の法務官ギヨーム・ド・ノガレの末裔であることが暗示されているが、かなり注意深く読まないとこれらの関係は見過ごされてしまうだろう。そして「クアルティーラでの会食」と題された最後の章の冒頭で読者はあっけにとられるはずだ。次のような文章である。

タイプ原稿の原本を他の二つの副本から分けた小説家ブランフォードは溜め息をつき、一枚の白紙を素早く手に取ると、通常の小説からはいささか不作法に逸脱した新作の仮題をいくつか書き留めた。幾度か躊躇った後、彼は悪魔にしかるべき敬意を払うべく、その小説を『ムッシュー』と呼ぶことにした。

 突然登場したブランフォードなる人物がいきなりこの小説の作者の位置を占めるのだ。読み進めるうちにブランフォードが車椅子を用いる身であることも判明する。それでは五重奏の第一巻、『ムッシュー』はこの男によって執筆された小説であったのだろうか。なぜブランフォードはサトクリフを特定して自らが創造した作中人物であるとことさらに告げるのか。私たちの疑問は「リヴィア」に持ち越される。なぜなら「リヴィア」においては若き日のブランフォード自身が中心人物となるのであるから。おそらく秘密を解く鍵は「ムッシュー」の巻末に付された付記にあるだろう。かくのごとく本書において語り手と登場人物の関係はきわめて不安定だ。そして「リヴィア」もまた一つの訃報によって幕を開ける。訃報を受け取るのは巻末で「ムッシュー」の語り手であることが表明されたブランフォードであり、小説の構造はさらに錯綜する。「リヴィア」においてはブランフォードが若い頃のエピソードが語られるが、この時、「ムッシュー」の話者であるブランフォードと「リヴィア」の話者は審級を違えるはずだ。この疑問は必ずしも明確に答えられることないまま三人称による「リヴィア」の語りが続けられる。ブランフォードの友人、サムとヒラリー、ヒラリーの姉のリヴィアとコンスタンス、彼らのリヨンからアヴィニョンにいたるローヌ河の航行は「ムッシュー」におけるエジプト旅行に対応し、さらに船旅というモティーフは第三巻の「コンスタンス」においてフェラッカ船によるナイル川下りにおいて反復される。「リヴィア」は物語としてはブランフォードと彼を翻弄するリヴィアの関係を縦糸に、彼らの周辺のユダヤ系投資家のゲイレン卿、ゲイレン卿に庇護される数学者カトルファージュ、ゲイレン卿の甥でイギリス領事代理のフェリックス・チャットー、さらにはゲイレン卿の投資と深く関わるエジプトのハッサド王子といった魅力的な人物の群像を横糸に構成される。「ムッシュー」では必ずしも明らかでなかった時代背景も具体的に示される。ナチズムの台頭と迫りくる第二次世界大戦が登場人物たちの上に暗い影を落としている。ただし絡み合う物語と併置されるテクスト、そして相互に共鳴しあう人物たちは必ずしも容易な理解を許さない。五重奏を読み進めるうえではこの巻が一番の難所かもしれない。今、共鳴といったが五重奏においてはそれぞれの巻の登場人物が微妙な変形を被って別の巻に登場する。初めてプロヴァンスを訪れ、リヴィアやコンスタンスと会った夏、ブランフォードはテュ・デュックという屋敷で肖像画が並べられた回廊を訪れる。そこに残された三つの肖像画のうち、二つにピエールとシルヴィーという名が記されていた。さらに「ムッシュー」においてサトクリフが言及するパースウォーデン、あるいは第四巻「セバスチャン」でアッファドが行きずりの恋を交わすメリッサは「アレクサンドリア四重奏」の主要な登場人物である。このような照応は本書を読む楽しみの一つである。例えば第三巻の「コンスタンス」においてブランフォードはヴィルフォワンすなわちヴェルフィユに邸宅をもつブルノーとシルヴァンヌ、つまりブルースとシルヴィーをハッサド王子の秘書、アッファド―いうまでもなくアッカドに照応し、物語の中で重要な役割を果たす―から紹介され、英国陸軍の「ドレクセル」少佐とともにピクニックに出かける。おそらくこのような仕掛けがダレルのいう「さいころの五の目」を暗示しているだろう。随所にめぐらされたこのようなたくらみに気がついた時、本書を読む楽しみは一気に増す。
 「リヴィア」で暗示されていた戦争の影は「コンスタンス」で一層色濃く登場人物たちの上に落ちる。「コンスタンス」は五重奏中で最長の長編であるが、語りの構造が比較的単純であることもあって最も読みやすい。ドイツに占領されたフランスにおいてアヴィニョンに駐留するナチスの将校フォン・エスリン、残忍な副官フィッシャー、ヒトラーの命を受けてテンプル騎士団の財宝を捜すスミルゲルといった新たな登場人物を得て、物語はさらに活気を帯びる。この巻の中心となるのはタイトルどおり、リヴィアの姉でアヴィニョン近郊の城館テュ・デュックの所有者である精神科医コンスタンスである。ヴィシー政権下、ナチス・ドイツの支配下で住民たちが味わう苦痛、ドイツ軍の侵攻やレジスタンスの処刑といった物語が冷徹な筆致で語られる一方、エジプトやジュネーブといった異なった土地での出来事がアヴィニョンに集った登場人物たちに微妙な影響を与える。彼ら/彼女らの何人か消息を絶ち、あるいは姿を変えて登場する。中盤においてコンスタンスは赤十字の職員ナンシー・キミナルとともにテュ・デュックを再訪し、荒れ果てていた館は再び活気を取り戻す。興味深いのはブランフォードとサトクリフの関係だ。作家と被造者たる二人は既に「リヴィア」において電話を介して対話していたが、この巻に及んでサトクリフは実際にブランフォードたちの世界に登場する。コンスタンスはジュネーブでサトクリフに出会い、思わず「じゃあ、あなたは現実の人なのね」と叫び、サトクリフは「誰もが現実さ」と答える。サトクリフはこの小説においては一貫して道化であり、時にグロテスクな諧謔を駆使して絶えず物語を賦活する。「ムッシュー」において暗示されていたテンプル騎士団という主題は「コンスタンス」においてはテンプル騎士団が秘匿した財宝の探究として一種のミステリーの趣とともに浮上する。「コンスタンス」は五重奏においては最長であるが、テンポが早くおそらく一番読みやすいだろう。物語は連合軍の勝利とアヴィニョンの解放というエピソードで終えられるが、その過程で何人かの登場人物が残酷な死を迎える。「セバスチャン」は五重奏の中で唯一、アヴィニョンではなくジュネーブを主たる舞台として繰り広げられる。そこにはよく知られた説話的な装置が導入されている。「届かない手紙」あるいは「盗まれた手紙」というモティーフだ。コンスタンスと恋愛関係にあるアッファドはエジプトのグノーシス主義者たちから秘儀への招待を受けるが、その手紙はコンスタンスのもとに届けられ、しかもコンスタンスの患者によって盗まれてしまう。手紙をめぐるスリリングな展開は本書を読んでいただくのがよい。コンスタンスとアッファドの恋愛のもつれ、ゲイレン卿やサトクリフが繰り広げる馬鹿騒ぎ、陰謀と裏切り、めくるめく物語の展開はダレルに真骨頂といってよい。大戦が終結し、ジュネーブでは祝賀の花火大会が行われる。しかしなおも戦争は人々の記憶に残る。とりわけユダヤ人を絶滅収容所に送ったこと、ショアーの記憶がヨーロッパの人々にとって癒えることのないトラウマになったことを暗示するエピソードとともにこの巻は幕を下ろす。第五巻「クインクス」において登場人物たちは再びアヴィニョンへと帰還する。彼らは地中海に面した町でジプシーたちの祝祭に遭遇するが、そこには「ムッシュー」において姿を消した一人の人物が登場し、シルヴィーやフォン・エスリンといった以前の物語で重要な役割を果たした人物たちも境遇を変えて読者の前に姿を現す。この巻は「暴かれる秘密」というサブタイトルをもつが、確かにいくつも秘密が開示される。それは物語の中で縊死を遂げたリヴィアの死をめぐる秘密であり、あるいは五重奏をとおして隠れた主題であったテンプル騎士団の財宝に関わる秘密である。一方でブランフォードとサトクリフ、創造者と被創造者はここでは対等に対話し、時に戯曲形式でつづられる二人の会話はこの物語の捻じれを端的に暗示している。「クインクス」とは人名ではなく五点形のことであり、さまざまな人物の生と死を織り込んだ物語はアヴィニョンの古代遺跡、ローマの水道橋に引き寄せられるように集まる登場人物たちを描いて幕を閉じる。
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 確かにこの五部作はアレクサンドリア四重奏に比べて難解な印象を与える。四重奏においても語りは変化した。すなわち第一巻「ジュスティーヌ」において語り手は一人称の「ぼく」である。貧しいイギリス人教師の「ぼく」を誘惑するジュスティーヌは五重奏におけるブランフォードとリヴィアの関係に似ていなくもない。「ジュスティーヌ」においてはほぼ厳密な一人称が用いられるが、第二巻「バルタザール」においては同じ「ぼく」が語りながら時に全能の話者の視点が取り入れられる。あえてアヴィニョン五重奏に当てはめるならばブランフォードとサトクリフを合わせた視点といってもよかろう。「マウントオリーブ」では三人称が用いられ、「クレア」では再び一人称が用いられる。しかし「クレア」における一人称と「ジュスティーヌ」におけるそれが決定的に相違することを柄谷行人がアレクサンドリア四重奏をテーマとした修士論文で論じていたことを私は最近刊行された『柄谷行人文学論集』で知った。魅力的な物語が語られながらもアヴィニョン五重奏において人称の関係は格段に錯綜するため、この意味で私たちは本書において小説の内容と形式、いずれに目を向けるべきか少々戸惑うかもしれない。一方でダレル特有のデカダンス趣味は本書においても横溢している。本書では様々の登場人物の交情が描かれるが、同性愛や近親相姦といったおなじみの背徳的な性愛が次々に繰り広げられることはいうまでもないし、「コンスタンス」におけるコンスタンスとアッファドの性愛の描写はことに濃密だ。同性愛というモティーフの強調、あるいは登場人物たちが物語の終盤で一つの場所に集う様子から私はプルーストの「失われた時を求めて」を連想しないでもなかった。あるいは「リヴィア」の巻末近く、海亀の冷製コンソメで始まるハッサド王子が開いた豪華な饗宴の模様が記されるかたわらで、通りを隔てて糞尿を集めるバキュームカーについての記述が唐突に重ねられるあたりにイギリスであればオスカー・ワイルドのデカダンスの影をうかがうことは不可能ではないだろう。
 一方で本書は小説家についての小説でもある。「クインクス」においてブランフォードは小説を書く決意を固めるが、それがこの五重奏であることは明らかだ。ブランフォードと彼の被造物であるサトクリフがジョイスについて論じあうくだりには笑ってしまうが、少し考えれば本書が「小説を書くことについての小説」というそれ自体がメタ的な構造をもっていることも明らかである。さらに想起するならばアレクサンドリア四重奏にも実際に手記を書く「ぼく」とは別にパースウォーデンという作家が登場した。(彼については「ムッシュー」の中でも言及されることについては既に述べた)かかる自意識の存在が本書を英語圏であればジョイスからフォークナーへいたるモダニズム文学の系譜へと繋ぎ止める。しかしながら同時に本書の魅力がかかる形式性から逸脱する豊饒な物語性によっていることもまた明らかだ。本書は五つの巻から構成された五角形の物語であるが、個々の挿話の独立性は高く、それぞれが一個の物語として読むことも可能であろう。コンスタンスとアッファドの悲恋の物語、ナチスの圧政下におけるフランスの一地方都市の年代記、テンプル騎士団の財宝の探索、グノーシスの秘儀をめぐる奇譚、そしてサトクリフやゲイレン卿のいつ果てるともない愚行と乱痴気騒ぎの記録。常に綿密な伏線が張りめぐらされ、時には数巻後の描写によって伏線が回収されるという超絶的な技巧が用いられている場合もあるにせよ、本書はいくつかの物語の連なりとして構成されており、それゆえ物語としての凝集性はやや弱い。そのあたりがアレクサンドリア四重奏に比べて本書が「不当ともいえるほど低い扱い」を受けた理由かもしれない。本書のテーマでありながら、私が語っていないことはいくらでもある。医師シュヴァルツが体現するフロイト主義と文学の関係、ユダヤ人に比して論じられることのないジプシーたちの運命、そして全編にみなぎる黒い笑い。それらの詳細については是非実際に小説を手に取って確かめていただきたい。時代が具体的に特定されているという背景もあるかもしれないが、四重奏の陽光と暑さに対して、五重奏を通読して受けた印象は寒風と苛酷さであり、それはアレクサンドリアとアヴィニョンという都市に象徴されているかもしれない。しかし四重奏同様、私はこのあくの強い大長編も大いに楽しんで読み通した。未読の方も多いことと思う。相当の時間を必要とするから読み始めるにはいささかの覚悟が必要であるとはいえ、陽光のアレクサンドリアと暗鬱なアヴィニョン、ダレルが創造した比類のない二つの都市を訪れる読者がさらに増えることを願っている。

by gravity97 | 2016-02-02 20:47 | 海外文学 | Comments(0)