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 今年の読書の締めくくりにきわめて興味深い論考を読んだ。単に最後に読んだという意味だけでなく、この一年、そしてこれまでこのブログで論じた様々な対象と深く結びついた内容であった。サブタイトルからわかるとおり、ユダヤ人強制収容所を体験した詩人、パウル・ツェランと現代のドイツを代表する画家アンゼルム・キーファーの二人を軸に多様な主題へと広がる論考である。強制収容所をサヴァイヴした詩人としては今年、このブログでも細見和之による石原吉郎の評伝と研究について論じた。ツェランはセーヌ川に投身し、石原は「法医学的にはどうであれ、文学的に見る限り、明らかに自殺」を遂げたことが知られている。ツェランの死は1970年であるから1945年にドイツに生まれた画家と直接の知遇があったとは考えられない。しかし私も以前よりキーファーの作品をとおしてツェランの詩の一節を知っていた。キーファーの作品のタイトル《君の金色の髪、マルガレーテ》はツェランの有名な詩、「死のフーガ」から引かれている。冒頭と最後を引用する。

 夜明けの黒いミルク私たちはそれを夕べに飲む
 私たちはそれを昼に朝に飲む私たちはそれを夜に飲む
 私たちは飲むそして飲む
 私たちは空中に墓を掘るそこは寝るのに狭くない
 ひとりの男が家に住む彼は蛇たちと遊び彼は書く
 彼は暗くなるとドイツへ書くお前の金色の髪マルガレーテ
 彼はそれを書き家の間に歩み出るすると星々は輝く彼は口笛で猟犬を呼び寄せる
 彼は口笛でユダヤ人たちを呼び出し地面に墓を掘らせる
 彼は私たちに命令する奏でろさあダンスのために

 (中略)

 夜明けの黒いミルク私たちはお前を夜に飲む
 私たちはお前を昼に飲む死はドイツから来たマイスター
 私たちはお前を夕べに飲む朝に飲む私たちは飲むそして飲む
 死はドイツから来たマイスター彼の眼は青い
 彼は鉛の弾でお前を撃つ彼はお前をはずさず撃つ
 ひとりの男が家に住むお前の金色の髪マルガレーテ
 彼は私たちを猟犬で狩り立てる彼は私たちに空中の墓を贈る
 彼は蛇たちと遊び夢見る死はドイツから来たマイスター
 お前の金色の髪マルガレーテ
 お前の灰色の髪ズラミート

 明らかにこの詩は強制収容所を主題としており、壁際で射ち殺されたツェランの母親が反映されているかもしれない。この詩の中からキーファーのいくつかの作品のタイトルがとられている。最もよく知られているのは「お前の金色の髪マルガレーテ」だ。この句をタイトルにした作品は複数存在し、最近では国内を巡回した台湾のヤゲオ財団のコレクション展に《君の金色の髪マルガレーテ》というタイトルで出品された作品が記憶に新しいが、今いくつかのカタログを確認したところ、サーチ・コレクションにも《マルガレーテ》というタイトルの作品が収められているようである。あるいは画集を含めて私は未見であるが、《お前の灰色の髪ズラミート》というタイトルの作品も本書に図版として掲載されている。私はどちらかといえば、美術の領域からキーファーの名前に引かれて本書を手に取った訳であるが、実は私はキーファーの作品をさほど見ている訳ではない。私が最初にキーファーの作品を見たのは、以前、このブログにも記したとおり、1987年、カッセルのドクメンタの会場であった。《オシリスとイシス》という巨大な作品を見てのけぞるほど感銘を受けたことを覚えている。私はその後、フランクフルトとマドリッドで比較的まとまった数のキーファーの作品を見た記憶があるが、キーファーの個展は1993年に日本を巡回した展覧会しか見ておらず、ことに90年代以降のキーファーの絵画の展開を系統的に見ていない。もちろん90年代以降もヨーロッパの美術館でキーファーの作品は何度も見ており、国内にもすでにある程度の数のキーファーの作品が美術館に収められているから、ここで論じられる作品は平面、立体のジャンルを問わず、おおよそ知っているが、キーファーの作品は図版からは読みとることができないディテイルが重要だ。例えば今挙げた、「マルガレーテ」連作では本物の藁が画面に無数に貼り付けられ、ひまわりの花、ガラス片、あるいは灰といった独特の象徴性を秘めたオブジェが文字通り画面を覆っているのだ。キーファーの作品は移動や再現が困難であり、この意味でも大規模な展覧会は難しく、画面の物質的な精彩は作品の傍らに立たないと理解できない場合が多い。本書の内容も近年、ドイツで開かれた展覧会で作品を実見して構想されたと考えられるから、特に近年、キーファーの作品に接する機会の少なかった私は必ずしも十分な理解に立って本書をレヴューすることができないかもしれない。それにしても植物や灰といった永続や定着が困難な素材を多用するキーファーの作品は美術館においてどのように保全されるべきであろうか。最近、現代美術の作品の管理と修復をめぐるシンポジウムが国立国際美術館で開かれたと聞いたが、絵画として実現されながらもキーファーの作品はこのような問いと連なっている。
 本書に戻ろう。ツェランとキーファーというテーマ自体は決して独特ではない。今述べたとおり、キーファーはしばしば作品にツェランの詩篇からの引用を行い、2005年にはザルツブルツのギャラリーで「パウル・ツェランのために」という展覧会さえ開かれている。「『死のフーガ』と灰の花」と題された最初の章では「死のフーガ」を手がかりにキーファーの作品に強制収容所というテーマがどのように導入されているかという点が論じられる。興味深いことにはキーファーの場合は図像ではなく、使用される素材というリテラルなレヴェルでテーマの導入が図られることが多い。確かにキーファーがしばしば描く線路の情景は地平線が高い位置に置かれているため、その行き先が不分明であり、端的に収容所へ向かう鉄路を連想させるかもしれない。しかしキーファーの絵画において、ツェランの体験を直接に連想させるのはむしろ髪の毛、子供服、ガラスの破片といった素材ならざる品々であり、それはガス殺の前にあらかじめ刈り上げられた髪の毛、アウシュヴィッツのバラックに山積みにされた衣類、「水晶の夜」で破壊されたユダヤ人商店街のショウウインドウといったきわめて即物的で具体的な連想を伴うのだ。関口はこのうち、ひまわりという素材に着目し、それが「ナチス・ハンター」として知られるジーモン・ヴィーゼンタールの小説のライトモティーフからもたらされたのではないかと推測する。その当否はともかく、これらの品々を強制収容所の記号として用いるキーファーの手法は部分によって全体を示す提喩と考えられるだろう。同じことを関口は次のように論じている。「1990年、キーファーは久しぶりに《ズラミート》と題した64頁からなる一冊の鉄製の書物を制作した。その表紙の上には人間の黒い髪ひと房と一握りの灰が撒かれているだけである。これこそズラミートのイメージにぴったり合う傑作である。全体をその一部で代用する Pars pro toto と呼ばれる技法は、キーファーにもツェランにもふさわしい表現形態である」しかし物質が堤喩する意味は一通りとは限らないし、時にそれは変容する。この問題は後の章で錬金術との関連において回帰することとなる。
 続く章ではツェランの経歴のうち、インゲボルグ・バッハマンという女性文学者との関係に注目し、ツェランとキーファーの関係が論じられる。優れた詩人であったバッハマンとすでに妻帯していたツェランの関係は時に緊張に満ちていた。アウシュヴィッツの体験はバッハマンの大きな愛をもってしても癒すことができず、ツェランは投身自殺を遂げた訳であるが、キーファーはツェランのみならずバッハマンの詩からも作品のタイトルを引いている。本書を読んで私はあらためてキーファーの教養、特にその文学的な素養の深さに驚いた。関口は私がカッセルで見た《オシリスとイシス》が構図的にバッハマンの詩を引いた作品の先例にあたる点を指摘したうえで、最後にやはりバッハマンの詩のタイトルである《ボヘミアは海辺にある》という作品を紹介する。1996年に制作されたこの作品を私は未見であるし、白黒の小さな図版からはそれがどのような作品であるか理解できない。90年代以降のキーファーについても何らかの機会にまとめて作品を見てみたいと強く感じる。続く二つの章でもやはりツェランとキーファーの間に媒介者を立てて二人の関係が論じられる。それはオーストリアの作家アーダルベルト・シュティフターと音楽家のヴァグナーである。すなわち前者においては鉱物、特に水晶のイメージを介してツェランの「帰郷」という詩とキーファーの絵画が重ねあわされる。そこに「水晶の夜」(破壊されたユダヤ人商店のガラスが水晶のごとく煌めいたことによる)が連想され、さらに関口は結晶という概念からガス室で多くの命を奪ったチクロンBの結晶までも読みとる。一方、ヴァグナーに関してはツェランの「白鳥の危機」という言葉を伴う、謎めいてやや不気味な詩篇が引かれる一方で、キーファーについては白鳥の騎士伝説に基づいた歌劇「ローエングリン」そして「ニュルンベルグのマイスタージンガー」「パルジファル」に着想を得た一連の作品が検証され、さらにキーファー自身が舞台美術を担当したパリの国立オペラ・バスティーユのオペラ公演において白鳥というモティーフがガチョウに変えられていることを指摘する。関口はそこにキーファーの師であるヨーゼフ・ボイスの影響をうかがうが、ヒトラー式敬礼をする作家を撮影した初期の作品以来、異化効果はキーファーの作品の本質をかたちづくってきたことを想起するならば、白鳥がガチョウに転じたとしても私はさほど驚きを感じない。関口の所論は美術史学を専門とする私にとって時にやや強引に感じられないでもないが、本書からは私が詳しく知らない90年代以後のキーファーの作品について多くの知見を得ることができた。そして著者のツェランの専門家としての学識と本書のための調査からも多くを学ぶことができた。
 続く「ライン河とニーベルンゲン」と題された章において召喚されるのはライン河畔に生を受けたユダヤ系の詩人ハインリヒ・ハイネである。関口はライン河流域におけるユダヤ人迫害の歴史をローレライ伝説などと関連させて論じたうえで、ハイネの「ラビ」という未完の小説について言及する。キーファーとハイネの共通点について三つの点を指摘する。まず「不気味なもの Das Unheimliche」という視点、そして「笑い」、最後に上下もしくは垂直方向の運動である。「不気味なもの」とは英語で言えば uncanny 、フロイトの論文のタイトルとしても知られており、抑圧を経て回帰してきた慣れ親しんだものの謂である。関口によればキーファーもこの言葉を多用し、それは抑圧されたドイツ性、端的にナチス時代の歴史であるという。笑いについては容易に了解できる。玩具の兵隊やバスタブを用いて誇大妄想的なイメージを繰り広げるキーファーの方法は笑いと親和し、関口も指摘するとおり、先行する日本語による優れたキーファー研究が「シジフォスの笑い」と題されていたことを連想してもよかろう。垂直の運動については後の章で詳述される。この章ではさらにツェランとライン河河畔の文学者たちの交流が粗描され、さらにライン河を舞台とした英雄叙事詩「ニーベルンゲン」をめぐってツェランとキーファーの接近が論じられる。この章においてはドイツ性に対して詩人と画家がどのような距離をとったかが論じられているから、ナチスの記憶を呼び覚ました1980年のヴェネツィア・ビエンナーレへのキーファーの出品作について論じられることは当然であろうが、このほかに一つの興味深い主題が取り上げられている。それはキーファーと原子力発電所というテーマだ。関口によればチェルノブイリ原子力発電所の事故に関連してキーファーは87年に「太陽の誕生」という書物形式の作品を発表したとのことである。私はこの事実を初めて知った。いかなるイメージか、確認することとしたい。キーファーはフクシマについては一切言及していないとのことであるが、確かに事故以後、私たちにとって原子力発電所もuncanny な存在である。
 続く「《息の結晶》」という章は二人からやや離れて、ツェランの妻であり版画家、画家であったジゼル・ツェエラン・レトランジェについて語られる。私にとっては未知の版画家であるが、図版を見る限りなかなか興味深い抽象的な画風である。註によれば日本でも一昨年、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館で開催された「西洋版画の流れ」という展覧会で初めて紹介されたという。ドイツの作家に関してはギュンター・グラスもまた細密な銅版画を制作することで知られているが、ツェランは妻の版画にインスピレーションを得て共作の詩画集「息の結晶」を制作したということだ。死者を想起させるタイトルをもつこの詩画集がツェランの詩作にとって転換点を画していると関口は述べる。ジゼルを媒介としてクレー、あるいはジャコメッティやゴッホといった作家がツェランの視野に入る。私は本書で初めて知ったが、ツェランはジャン・バゼーヌの「現代美術覚書」の独訳者でもあったという。パリに住んでいたツェランが同時代の作家と交流をもったことは当然であろうが、関口によればツェランは特にアンリ・ミショーと交流があったが、画家たちとの関係はなお究明されていないという。クレー、ジャコメッティ、ミショーといった作家たちからは確かにツェランの詩と関連を感じさせないでもない。この章では最後に一人の画家との関係が仄めかされる。それはニコラ・デ・スタールであり、本書のタイトルでもある「翼ある夜」にはスタールの絵画が反映されているという。次の章では美術に続いて、映画とツェランの関係が論じられる。ツェランはアラン・レネの「夜と霧」のナレーションのドイツ語版を監修しているから、このテーマは意外ではないが、これまで個別、限定的にしか論じられたことがないらしい。ここではアンジェイ・ワイダ、エイゼンシュテイン、パラジャーノフといった映画監督の名が引用されるが、キーファーとも関連する監督としてアンドレイ・タルコフスキーが引かれていることはよく理解できる。土や水、そして蝋燭の炎はキーファーの絵画にも頻出するモティーフであるからだ。この章では最後にアウシュヴィッツの表象不可能性をめぐって、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンとジェラール・ヴァイクマンの間で交わされた論争についても言及される。当然検討されるべき問題であるが、それ自体が一巻の書を要する問題であるから、本書では事実関係が短く言及されるに留まっている。
 続く「不在の書物を求めて」という章において、実に意外な人物に言及される。もう一人のポール、ポール・オースターだ。オースターは私のお気に入りの作家であり、このブログでも何度か論じた。オースターは1971年にパリに渡り、フランスの現代詩の研究を続けるが、オースターにとって規範となる詩人がツェランであったという。オースターはイヴ・ボヌフォアらが創刊し、ツェランも加わった「レフェメール」という雑誌をとおしてパリの詩人たちと思考を結んだ。残念ながらオースターがパリに渡った時点でツェランは亡くなっていた。オースターのツェランに対する理解の深さ、あるいは英語への翻訳の見事さについては本書において縷述されている。関口の分析を介すならば、「エレガントな前衛」と呼ばれるオースターの小説の端々にツェラン的なモティーフが登場していたことも理解される。「最後の物たちの国で」における焚書の暗示や、「偶然の音楽」における壁を背にした銃殺、「オラクル・ナイト」には実際に収容所のエピソードが登場する。関口によればオースターの父も東欧ユダヤ人であり、二人は文化的にも近いという。この章の最後はツェランから離れ、東日本大震災の被災地を訪れた関口がマシュー・アーノルドそしてレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を思いながら、寄せては返す波が書物の暗喩であることに想到した経験を語る美しい文章で終わる。
 最後の二つの章ではツェランとキーファーに共通する二つの主題が提示される。それは飛行と墜落というモティーフ、そして錬金術だ。まずツェランの詩に上空からの視線、つまり鳥瞰の視点およびかなり具体的に飛行機の操縦法の記述の反映がみられることが指摘され、空襲という主題に言及される。ゼーバルトの「空襲と文学」においてはドイツの空襲を主題とした文学はノサック以外にほとんど存在しないと記されているが、私はドレスデン空襲を扱った小説に心当たりがある。ゼーバルトの眼が届かなかったことは無理もない。それはアメリカ人捕虜の視点から書かれたたカート・ヴォネガットの「スローターハウス5」である。ツェランの滑空する飛行機に対して、キーファーは飛べない鉛の飛行機を提示する。関口が指摘するとおり、鉛の飛行機は単に鉛の重量のみならず記憶という歴史の負荷を負っているため地から離れることができない。キーファーの場合はむしろ落下もしくは墜落こそが作品の主題となる。この主題からはイカロスの伝説が連想されるほか、実際に搭乗中に撃墜されたボイスのクリミア半島での体験が反響しているかもしれない。この主題についてもイカロスあるいはイアソンといった参照項を得て、再びツェランが導入されるとともに、天使の墜落というモティーフからはヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」そしてシャガールの一連の作品についても論及される。錬金術については詳しい説明は不要であろう。ツェランとキーファーにとって詩作と作品の制作は一種の錬金術的な営みなのである。関口は錬金術を簡単に紹介しうえで、ツェランにとって灰が、キーファーにとっては鉛が第一質量(プリマ・マテリア)であることを実際の作品を用いて論証している。錬金術はしばしばカバラとの関係において説明される。「器の破壊」といった独特のユダヤ教の概念とツェラン、キーファーの作品との関係も説得的に論じられる。ユダヤ教と美術といえばバーネット・ニューマンが連想されるが、キーファーもまたカバラについての深い知識をもった画家であることが理解されるだろう。
 論じ足りない点も多くあることは承知しているが、ひとまず本書の内容を概観した。ここからは主にキーファーと関連して私なりに若干の考察を加えたい。かつて私はマドリッドでキーファーの大作を眼前に長い時間を過ごしたことがある。その際にあらためて了解したことはキーファーの絵画は「読まれるべき絵画」である点だ。もちろんそれは図解や物語ではないし、一意的な読みは存在しない。本書でも詳しく論じられているとおり、そこにはしばしば結合と分解、飛行と墜落といった相互に矛盾する意味が封入されている。私たちは巨大な画面に視線を走らせ、それらの錯綜する物語を読み解かなくてはならない。b0138838_20202498.jpg私はキーファーのカタログや画集をあまり所持していないが、手元にあるいくつかの関連書のうちここに掲げた87年にアメリカを巡回した展覧会、そして93年の日本巡回展のカタログには奇妙な共通点がある。それはカタログの冒頭にテクストなしでモノクロ写真を連ねた一連の頁が存在し、カタログ内に一種の物語として提示されている点だ。キーファーが巨大な鉛の書物を連ねた書架を発表したことはよく知られている。キーファーには書物に対するフェティシズムがあるのではなかろうか。例えば87年のカタログの冒頭に掲げられた「紅海の通過」というフォト・ワークは波立つ海やキーファーの仕事場らしき乱雑なアトリエ内を銀色の直線が貫通し、タイトルともどもモーセの道行きを暗示するかのようだ。私たちも銀色の直線に案内されるように物語/写真の中を通過していく。かかる物語性はモダニズムが忌避したものである。先に私は作品を見る体験について記したが、モダニズム絵画の経験とはマイケル・フリードが「現在性は恩寵である」と喝破した通り、享受にあたって一種の非時間性を理想としている。しかしキーファーの作品を見る体験は徹底的に時間的、持続的なのである。本書を通読して、キーファーが様々な分野について深い知識をもち、それらを作品の中に込めていることをあらためて理解した。ニーチェからヘルダーリン、そしてツェランにいたる様々な文学的素養、カバラや錬金術に関する秘教の知識、さらには音楽や演劇についての関心、これらすべてが投入される芸術は一種の総合芸術であり、そもそもツェランとキーファーという本書の問題意識が成立し、様々なジャンルを横断して両者の関係が究明されるためには、かかる前提は必要不可欠であっただろう。同じように国家の犯罪を告発するにあたってゲルハルト・リヒターが刑務所内で謀殺された「過激派」のイメージのみをモノクロームで描き、あくまでも意味性を削ぎ落として提示したのに対して、キーファーの絵画はあまりにも過剰だ。この点がキーファーの絵画を不穏にしているのではないだろうか。モダニズムが真善美を切り分け、ジャンルごとの純粋化を目指したのに対して、キーファーは美術と文学を、絵画と書物を、イメージと物質をもう一度総合することによって新しい表現を生み出そうとしているように思われる。総合芸術といえばヴァグナーのオペラが連想されよう。かつてツェランが生きた時代、人々は総合芸術に陶酔する一方で、詩人を収容所へと追放した。「総合芸術」という誘惑はかかる危険性を秘めてはいないか。むろん私はキーファーの芸術を否定するつもりはないが、この問題はさらに徹底的に思考されるべきであると感じる。本書でその一端が示されたツェランとキーファーという対比の中から浮かび上がる問題群はおそらく20世紀芸術の本質と関わっているだろう。
by gravity97 | 2015-12-31 20:16 | 現代美術 | Comments(0)
b0138838_10441499.jpg 現代美術に関する実に刺激的な研究書が刊行された。日本人の研究者によるこれほどの水準の研究を私はほとんど知らない。本書が発表された経緯を知るならばその理由も明らかであろう。あとがきによれば、本書は「Dislocations: Robert Rauschenberg and the Americanization of Modern Art, circa 1964」というタイトルで2007年にイェール大学に提出された博士論文が原型であり、その後、序章を完全に書きかえて「The Great Migrator: Robert Rauschenberg and the Global Rise of American Art」というタイトルとともに2010年にThe MIT Pressから出版された研究の日本語版である。著者も述べるとおり、二つのタイトルの相違に著者の問題意識の微妙な変化がうかがえる。いずれにせよ、日本人の研究者がアメリカの大学に提出した論文をもとにアメリカの有力な出版社から刊行されたといった事情から本書は英語圏における優れた博士論文のレヴェルを知るうえでも大いに意味がある。
 専門的な学術論文であるにもかかわらず、本書は実に読みやすい。テーマがきわめて明確であるからだ。サブタイトルに「ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭」とある。本書は第二次大戦後、美術の「覇権」がフランスからアメリカに移譲される経緯を分析する内容であるが、かかる抽象的、地政学的な状況がきわめて具体的な時間と作家を即して検証される。それは1964年のロバート・ラウシェンバーグの活動であり、さらに具体的に述べるならば彼がマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーに美術監督として帯同し訪れた四つの都市、パリ、ヴェネツィア、ストックホルム、東京を舞台として語られる。したがってこの論文においては「覇権」の移譲という抽象的な問題が、国々を「越境」する具体的なエピソードをとおして分析される。おそらく本書の成功はかかる明快なテーマの設定に多くを負っているだろう。いうまでもなくこのツアーのクライマックスは6月、ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるグランプリの受賞である。しかし池上はこれによって現代美術の主流がパリからニューヨークに移ったという巷間に流布する通説とは距離をとり、さらに三つの都市をめぐる挿話を加えることによって、このような局面にいくつもの補助線を引く。具体的にはパリにおいてはそれ以前よりラウシェンバーグおよびアメリカの同時代美術がいかにヨーロッパに導入されていたかという問題がイリアナ・ソナベンドというギャラリスト、そしてアメリカの公的な文化戦略を参照しながら確認され、ストックホルムではラウシェンバーグのコンバインの代表作がなぜアメリカではなくスウェーデンの美術館に収蔵されているかという疑問を手がかりに、ポントゥス・フルテンという稀代の美術館ディレクターの活動が検証される。そして東京においては来日したラウシェンバーグに対して日本の若い作家や批評家がどのように反応したかという問題が問われる。いずれもそれ自体で一つの論文のテーマとなるような、魅力的な問題が次々に提起され、綿密な調査に基づいて説得的に検証されていく。
 原著のタイトルにあるMigrator とは渡り鳥とか越境者といった意味である。池上は愛知県美術館が所蔵し、実際に渡り鳥のイメージが転写された《コース》という作品の分析からラウシェンバーグの世界遍歴の確認作業にとりかかる。今日では国外で活動する作家、母国と異なった国で作品を発表する作家は珍しくないが、当時は自国以外で作品を発表する作家は稀であったし、さらに80年代にもラウシェンバーグは文化交流を目的としたROCIというプロジェクトを立ち上げて日本を含め、中国やチリといった非欧米の諸国において滞在、制作を試みている。移動や越境というテーマは作家の生涯と深く関わっているのだ。この点を確認したうえで池上は本論における問題意識について述べる。池上の立場は基本的に修正主義批判であり、モダニズム/フォーマリズムを相対化した修正主義のナラティヴの影響力について、次のような見解が示される。「アメリカ美術の覇権を文化帝国主義の結果とする見解―つまり、1945年以降、西欧で政治経済的な覇権を確立した合衆国が、今度は芸術でも勝利を収めたという分かりやすいナラティヴ―は根強く流通している。ラウシェンバーグ研究もその例外ではない。例えばヴェネツィア・ビエンナーレにおける彼のグランプリは、従来の研究ではおしなべて米仏の美術における覇権争いと画商の市場戦略という観点からのみ語られており、彼の作品が実際に海外ではどのような意味をもったのか、という点については詳細な分析がなされないままである」これに対して池上は近年提唱されている「グローバル・アート・ヒストリー」というアプローチを採用しつつも、そこではしばしばアメリカが中心化され、アメリカとの対比として議論が構築される点を批判し、アメリカ美術そのものを相対化する必要性を説く。おそらくこの点が、MIT Pressから出版されるにあたって、序章が刷新され、Americanization に代わって Global Rise of American Art というタイトルが採用された理由ではないだろうか。本書の目的は序章において次のように要約されている。

 本書では(ラウシェンバーグの)実際の作品やその展示手法、また主要人物たちの交流を詳細に跡づけることで、アメリカ美術の世界的台頭における美術家とキューレーター、批評家、画商たちの相互作用を検証する。こうした「ポスト修正主義」とも呼ぶべき立場から戦後美術史のカノンを内側から脱中心化すること、そしてアメリカ美術を世界美術史のトピックとして開いていくことがその狙いである。

 かつてミン・ティアンポによって発表された具体美術協会の研究書が「脱中心化されたモダニズム」と題されていたことも連想されよう。アメリカやフランスという一つの中心ではなく、複数の中心を想定するという発想は90年代後半以降、パフォーマンスやコンセプチュアル・アートといったフォーマリズムの教条に馴染まぬ運動に関してはしばしば提起されてきたが、本書では複数性に代わり、移動もしくは越境という概念が提起されている点が新鮮に感じられる。そしてこのような姿勢はラウシェンバーグの場合、作品の解釈とも深く関わっているのだ。例えば表紙にデザインされた《コカコーラ・プラン》を挙げよう。作家の代表作の一点であるこの作品はコカコーラというきわめてアメリカ的なモティーフと関わっているが、実はタイトルはアメリカによるヨーロッパ復興プラン、マーシャル・プランからとられている。この時、作品の意味は単に図像解釈や重層性に帰せられるのみならず、受容される場所と関係を結ぶ。言い換えるならば「アメリカ美術」の外部において初めて可能な意味が発生する。第四章で論じられるとおり、この作品に対して篠原有司男はイミテーション・アートとして彼自身の手による《コカコーラ・プラン》を制作し、来日したラウシェンバーグに提示した。日本の作家による創造的解釈が作品に新しい意味を与えたことは、アメリカの脱中心化という池上の立場の妥当性を例証するものであろう。
 さて、それでは実際に1964年のラウシェンバーグの活動を追うことにしよう。冒頭にマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーの公演日程のリストが掲出されている。6月6日にフランス、ストラスブールで幕を開けたツアーはイタリア、オーストリア、西ドイツ、イギリスで続けざまに公演した後、9月にはスウェーデン、フィンランド、そしてチェコスロヴァキアとポーランドを経て、ベルギーとオランダ、そして10月中旬からアジアに入り、インド、タイ、そして日本における11月25日、東京サンケイホールでの公演で楽日を迎えた。美術監督ラウシェンバーグに加えてカニングハムとジョン・ケージという夢のような顔ぶれが揃ったこのカンパニーのツアーはインドの王家や草月アートセンターからの招待があったとはいえ、基本的に自費で賄われており、決してアメリカのなんらかの機関の意志や目的を反映するものではなかった。チェコスロヴァキアとポーランドという、鉄のカーテンが存在した頃の東欧諸国で公演を試みた点も興味深いが、このリストで注目すべきはイタリア公演が6月18日の一日のみ、ヴェネツィアで日程に上がっている点である。この公演こそがラウシェンバーグの世界的認知にとって決定的に重要であった点が後述される。
 「巴里のアメリカ人」と題された第一章ではまず、本論の前史とも呼ぶべき50年代後半のアメリカ美術とフランス美術の角逐が粗描される。抽象表現主義とアンフォルメルという名で呼ばれる動向の関係は今日もなお検討すべき多くの余地を残しているが、本書では比較的簡単に触れられている。ラウシェンバーグは1961年ニダニエル・コルディ画廊でパリにおける最初の個展を開く。興味深いことにはワールドツアーの三年前にラウシェンバーグの作品は既にパリで好意的に受け取られていた。おそらくそこには時代背景が強く関与している。アンフォルメルはこの時期既に退潮期にあり、レディメイドを使用したヌーヴォーレアリスムが勃興しつつあった。同様の傾向をもったアメリカの作家たちをパリの美術界が歓迎したとしても不思議はない。一方で同じ時期、ニューヨーク近代美術館ではウィリアム・ザイツが「アッサンブラージュの芸術」を企画していた。ピカソのコラージュに始まるこの展覧会は逆にこれら一群の作家をアメリカの文脈に組み込もうとする試みであり、これらをめぐる様々な資料を検証しながらアメリカとフランスの美術界の駆け引きが論じられる。一つの象徴的な事件は同じ61年にパリのアメリカ大使館で開かれた「デヴィッド・チュードアへのオマージュ」である。ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファールそしてラウシェンバーグ、ジョーンズらが参加したこのイヴェントはハプニングの歴史においても特筆すべき事件であったが、パリのアメリカ大使館で開催されたことに注意を喚起しておきたい。このイヴェントを企画したのは大使館の文化担当官ダルシア・スパイヤーであった。スパイヤーはニューヨーク近代美術館とも協力して50年代よりアメリカ美術の紹介に努めた。スパイヤーのごとき、これまで美術史においてほとんど知られることのなかったバイプレイヤーについてもていねいな検証を加えている点もこの研究の特色である。大使館に代表されるアメリカ政府とニューヨーク近代美術館の関係が必ずしもよくなかった点を本書は資料によって裏づけている。かかる事実によって例えば冷戦下においてアメリカ政府によって抽象表現主義絵画が一種の武器として使用され、自由主義陣営の盟主としてのアメリカ美術の優越が確立されたといった修正主義的な歴史観が相対化されるのだ。ポロックやロスコではなく、ラウシェンバーグに代表されるアメリカ美術をヨーロッパに紹介し、結果的に「アメリカ美術の勝利」に貢献したのはギャラリスト、イリアナ・ソナベンドであった。レオ・キャステリ前夫人でもあるソナベンドは画期的な手法によって未知のアメリカ人作家たちパリに導入し、その重要性を認識させた。詳しくは本書を読んでいただくのがよいが、一点だけ触れておくならば、私は「アート・インターナショナル」などに掲載された広告からソナベンドの戦略を読み取る分析に大いに感心した。トラックの後ろに画廊に所属する作家たちの名前が記された広告、封筒に入った招待状に同じ作家たちの名前が記された広告。これら二つの広告が伝えるメッセージを池上は次のように説く。「最初の広告が商品としての美術作品が輸送されるところを挑発的にイメージ化しているとすれば、次の広告はヨーロッパの観客に彼女の展覧会を見に来るよう、招待しているものだと読みとることができる」そしてさらに「ルイユ」に掲載された三枚目の広告がある。ヴェネツィアのサン・マルコ広場を望む運河の上に一人、ラウシェンバーグの名が配され、下に「イリアナ・ソナベンド、パリ」とのみ記されている。時系列に沿って並べるならば、これらの三枚の広告の中にアメリカから多くの作家をパリにもたらし、パリの美術関係者の目に触れさせたうえで、その中の一人をヴェネツィアへと送るという「アメリカ美術の勝利」の図式が暗示されているかのようだ。
 続いて本書のクライマックスとも呼ぶべきヴェネツィアのラウシェンバーグをめぐるエピソードが分析される。ここで焦点化されるのはラウシェンバーグとともにアメリカ館のコミッショナーを務めたアラン・ソロモンである。私ももちろんソロモンの名は知っていた。しかしそれは単に「1964年のヴェネツィア・ビエンナーレにおけるアメリカ館のコミッショナー」としてのソロモンであり、私は本書を読んで初めて彼が現代部門を創設した際のユダヤ美術館の館長であり、1970年に早世していることを知った。先にも触れたとおり、作家主義の陰でこれまで論じられることがなかった関係者に光を当てたところに本書の大きな意義がある。ラウシェンバーグにグランプリを与えるためにソロモンが練った戦略は本書の読みどころの一つであるから本書を参照していただくとして、ここではいくつかの発見のみを記しておく。例えばこの時のアメリカ館にはラウシェンバーグ、ジョーンズとともにモーリス・ルイス、ケネス・ノーランドというグリーンバーグ直系の色面抽象絵画も展示されていた。ここでルイスではなくラウシェンバーグが受賞したことはフォーマリズムの批評家たちにどのような感慨を与えただろうか。あるいはラウシェンバーグの作品がアメリカから軍艦で運ばれたというよく口にされるエピソードがあるが、これが真実でないことは本書に収録された写真の一枚、アメリカ軍の巨大なグローブマスター機の傍らでパレタイズされる作品のクレートを見るならば明らかである。しかしこの光景は著者も言うとおり、「それ自体がスペクタクル」であり、軍艦を用いて搬入されたという噂もあながち的外れではないことがわかる。ソロモンはラウシェンバーグの受賞に向けて様々な策略をめぐらすが、審査員たちに全面的に受け入れられた訳ではなかった。結果的に最終的な投票の直前に行われたカニングハムの公演が彼らに与えた心証が受賞へと道を開いた。この意味で、ワールドツアーのスケジューリングは絶妙だった訳である。このあたりの事情についても詳細な検証がなされている。しかしグランプリ受賞はラウシェンバーグにむしろ失意をもたらした。受賞に際しての陰謀説がささやかれ、奇妙なことにアメリカの美術ジャーナリズムも否定的に受け取られたのである。さらにラウシェンバーグのみが脚光を浴びたことによってダンス・カンパニーのほかのメンバーとの間に溝が生じたのだ。この章を終えるにあたって池上はこれらの事情があるにせよ、ラウシェンバーグの受賞が、ヴェネツィア・ビエンナーレをそれまでの西欧中心モデルからグローバル・モデルに変えたこと、そして現代美術の商業主義とスペクタル化の契機であった点を正確に指摘している。
 「ストックホルムでの衝突」と題された第三章は、9月初めのストックホルム公演について論じられている。ここでもいくつもの興味深い観点が提起されているが、注目すべきはこの章において緻密な作品分析が行われている点である。現在、ストックホルム近代美術館に収められている《モノグラム》は剥製の山羊とタイヤを組み合わせたラウシェンバーグのコンバインの代表作であるが、この作品はこの美術館のディレクター、フルテンの求めに応じてコレクションに加えられた。1962年には同じ美術館で「四人のアメリカ人」展が開催され、ラウシェンバーグを含む、ネオ・ダダ、ポップ・アート系の作家が紹介され、この前後、ヨーロッパ各地でこれらの作家が出品する展覧会が続いていたため、《モノグラム》はアメリカを含めいくつもの美術館が食指をのばしていた。ラウシェンバーグとフルテンを結ぶキーパーソンとして私は意外な名前を見つけた。ビリー・クリューヴァーである。彼こそは66年の「九つの夕べ―芸術とエンジニアリング」を企画したE.A.T.の中心人物であった。この試みにはラウシェンバーグも中心的な役割を果たしたから両者の関係は不思議ではないが、クリューヴァーがスウェーデン出身であることを私は本書で初めて知った。池上によると《モノグラム》がフルテンの美術館に収蔵されることはストックホルムでの公演の際にラウシェンバーグとの間で合意された可能性が高いとのことである。したがって64年にラウシェンバーグがストックホルムを訪れた際にはこの作品はまだ収蔵されていなかったのであるが、池上はダンス・カンパニーの公演とは別にラウシェンバーグがストックホルムで関わった「五つのニューヨークの夕べ」という連続パフォーマンス、とりわけ「エルギン・タイ」というパフォーマンスと《モノグラム》の関係を鮮やかに解き明かす。「エルギン・タイ」については私も以前より知っていたが、天井からラウシェンバーグがロープを伝って降下し、最後は牛を引いて退場するというパフォーマンス(牛を引いて退場するのは作家とは別人であることを本書で知った)が何を意味するのか全く理解できなかった。しかしこのパフォーマンスをコンバインという概念を手掛かりに《モノグラム》と関連づけて分析するならば両者の共通性が浮かび上がってくる。このあたりの分析の鮮やかさは本書中の白眉といってよい。池上はさらに後日談として、ヴェトナム戦争などを背景にしてストックホルムとニューヨーク、さらにはヨーロッパの美術家とアメリカの美術家の関係が次第に悪化する状況を素描して本章を終える。
 最後の公演地、東京においてもラウシェンバーグは熱狂的に受け入れられる。実は東京には既に彼を受け容れる素地があったのだ。59年に渡米した批評家東野芳明が早くからネオ・ダダの作家たちと知り合い、同じ64年にはジョーンズが南画廊で個展を開いている。ジョン・ケージやデヴィッド・チュードアはこれ以前に来日したことがあり、ティンゲリーも南画廊で個展を開いている。グランプリを獲得したラウシェンバーグはいわば真打ちとして最後に東京に現れたのであり、熱狂には理由があった。ラウシェンバーグにとって東京は初めて訪れる土地であったが、日本側には十分な作家についての知識があった訳だ。彼の来日をめぐる一連の騒動の背景にこのような情報の不均衡があったことは確かであろう。11月28日、東野芳明の企画によって草月会館で開かれた「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」という公開質問会は戦後美術史において特筆されるべき事件であった。この質問会においては東野や篠原らがラウシェンバーグに電子化された音声や自らが制作したオブジェを用いて質問を発したが、作家は一言も答えず、壇上で金屏風のコラージュ《ゴールド・スタンダード》を助手の手を借りながら制作したのである。池上は関係者へのインタビューを通してこの出来事の模様を正確に再現し、様々な角度から分析を加える。さらに滞在中に制作され、これまでほとんど知られることがなかったいくつかのコラージュについても言及されている。そのうちの一つ、読売新聞の依頼で制作された《トーキョー》は実際に新聞紙上に掲載される可能性があったという。ヨーロッパの作家たちがカウンターパートとしてラウシェンバーグに対したのに対して、日本の作家たちは現代美術の「権威」たるアメリカ人作家にいかに対応したか。きわめて特徴的な例が篠原有司男の一連のイミテーション・アートである。かかる非対称を池上はホミ・K・バーバのミミクリ理論などと関連づけて論じている。そして東京公演はラウシェンバーグとカニングハムのダンス・カンパニーとの決別の場でもあった。公開制作への対応をめぐって、ラウシェンバーグはカンパニーから離脱することを決めて、両者の協働関係は最後の公演地で終わりを告げたのである。1964年のラウシェンバーグの活動、それが現代美術の神話をかたちづくる奇跡のような事件がであったことはこの一事によっても明らかであろう。本書では終章において65年以後のラウシェンバーグについて論じられている。グランプリ受賞は必ずしも評価につながらなかったが、これ以後、ラウシェンバーグがアメリカを代表する作家として認知されていく過程が短いサクセス・ストーリーとしてまとめられている。しかし通読するならば、作家の活動が最も刺激的であったのは、おそらくそれ以前であり、64年という年がメルクマールとなったことは明らかである。そしてそれは一人の作家にとってのブレイクスルーであっただけでなく、美術の覇権をめぐる重大な転機でもあったのだ。かかる二重性の認識とそれについての綿密な分析がこの研究の独自性を裏づけている。
 いささか長くなったが、ひとまず私はこの研究書の概略を示した。最初に述べたとおり、この研究の成功はテーマを設定した時点でほぼ明らかであったように感じられる。しかしながら、かかる壮大なテーマを具体的な研究として実現することはまた別の話だ。直ちに理解されるとおり、本書を準備するためにはラウシェンバーグのホームグラウンドであるアメリカはもとより、ダンス・カンパニーが巡回した四つの都市での徹底的な調査が必要となる。調査自体が文字通りのワールドツアーとならざるをえないのだ。博士論文の執筆に8年、英語版の出版までにさらに3年という時間はこのような事情を背景としているだろう。およそ半世紀前の関係者を探し出すだけでも大変な苦労が予想されるが、池上は先に名前を挙げた関係者のうち、例えばダルシア・スパイヤー、ポントゥス・フルテンあるいは篠原有司男といった存命する当事者に対しては直接インタビューを試みたことが註によって示されている。さらに英語、フランス語からイタリア語、スウェーデン語にいたる文献を渉猟して、発掘された当時の資料も実に貴重である。かかる研究が可能となった前提としては著者の語学力のほかに、これらの国で作品に関する二次資料がアーカイヴとして整備されていること、そしてそれを使いこなすリテラシーを備えている必要がある。実際に註を参照するならば、AAAを初めとする多くのアーカイヴをめぐって資料を検証した形跡が認められ、著者が日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの立ち上げに参画し、今日にいたるまで多くの作家や美術関係者にインタビューを試みてきたことの動機も推測される。まことに労作と呼ぶべき研究である。この水準の研究が最初に英語で出版されたことは大きな意義があり、実際、あとがきでは原著に対するレオ・スタインバーグを含む世界各地からの反応の大きさについて触れられている。ラウシェンバーグのみならず戦後美術についての見方を一新するこの研究を著者の母語である日本語で読むことができるようになったことを私たちにとって大いに幸運であったといえよう。
 本書によって触発される問題は数多く、今後、ここで提起された問題に基づいてラウシェンバーグ、そして戦後美術の展開についてもさらに議論が深められることであろう。ひとまず私からは一点のみ話題を提供しておきたい。本書の中でも触れられているが、現代美術のグローバリズムの起源としては、50年代後半にも一つの先例がある。それはミシェル・タピエによるアンフォルメルの布教であり、とりわけしばしばタピエに帯同したジョルジュ・マチウは世界各地でアクション・ペインティングの実演を公開している。日本でも具体美術協会の招きに応じて大阪と東京で行ったアクションが有名であるが、今確認するならば1957年から59年にかけてマチウはヨーロッパ各地はもちろんアメリカそしてブラジル、アルゼンチンなどラテンアメリカでも公開制作を実施している。しかしながら今日、タピエそしてマチウの名が戦後美術の文脈で語られることは稀である。アンフォルメルのグローバリゼーションはなにゆえ挫折したのか。抽象表現主義とアンフォルメルの関係を再考するにあたってもラウシェンバーグとの対比は新しい視座を与えてくれるのではなかろうか。
by gravity97 | 2015-12-29 10:52 | 現代美術 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 151222

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by gravity97 | 2015-12-22 20:33 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
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 集英社のクオータリー、『kotoba』は時折、作家の特集を組む。以前も開高健の特集を興味深く読んだ記憶があるが、最新号では生誕70周年ということで中上健次が特集されている。このブログでも以前、17回忌の折りに『ユリイカ』で組まれた特集について論じたことがある。同じ作家の、それも作品ではなく雑誌による特集を二度にわたって評することはこのブログとしても異例ではあるが、中上はそれにふさわしい作家であろう。
 7年前の『ユリイカ』の特集がどちらかといえば作品主義で、それゆえ文学を主たる対象としていたのとは対照的に、今回の特集は中上という作家を中心に据えて、むしろジャンルを超えてこの作家を開いていく印象がある。それは時を経てこの作家が遺した作品の可能性が豊かな結実を生んだことを暗示しているかもしれない。いずれの文章もテーマを定めて比較的短いため、読みやすい。そして柄谷行人や浅田彰、あるいは渡部直巳といった中上特集の常連がほとんど寄稿していない点もこの特集の特徴だ。前回の『ユリイカ』の特集の中で渡部が熊野大学の運営を若手に譲ることを言明していたが、現実に中上の作品を批評する顔ぶれも世代交代している感触がある。実際に今回の特集においては奥泉光といとうせいこうの対談、中上と映画について論じた四方田犬彦のテクストを除いて(偶然ではあるが、この三名はこのブログで何度か論じた私のお気に入りの作家や批評家である)、執筆陣に既視感はない。それどころか、都はるみ、大澤真幸、町田康といった書き手は中上との関係が時に当然、時に不思議に感じられながらも新鮮である。中上は92年に没しているので、今回の特集は中上を実際に知る執筆者と中上以後に活動を始めた執筆者が混在している印象を与える。
 最初に中上の長女、中上紀の解説を付した略年譜が掲載されている。かなり簡略化され、多くの図版が付されているため、逆に長女の目を通した作家の生涯が手に取るように理解できる。あらためて通読し、作家の生涯の短さと活動の広がりを知る。中上は1992年に没した。私が最初に中上の小説、文春文庫版の『岬』を読んだのは1982年頃であったと記憶するから、私は10年ほど作家を意識しながら時代を共有した訳であるが、それにしても短すぎる。しかも初読で中上を理解することは難しい。おそらく中上の小説、特に初期作品を読んだ者であれば同じ感想を抱くであろうが、中上の初期の小説はなんともいえない晦渋さを秘めている。その後も折に触れて私は中上の小説を読んだが、今確認したところ、私が『地の果て、至上の時』を読んだのは新潮文庫に収録されたタイミング、1993年のはずだ。あらためて書庫に降りて私が所持する文庫本の奥付を確認するならば、私が『19歳の地図』から『奇蹟』、『讃歌』から『日輪の翼』にいたる代表作のほとんどを集中的に読み継いだのは1990年代前半という短い期間、つまり中上の死の前後であったことがわかる。今述べたとおり、私は必ずしも中上のよい読者ではなく、作家と同伴しているという意識もなかったから、文庫化された小説ばかりを読んだという事情はあろうが、このブログのBOOKSHELFの0013を参照していただけばわかるとおり、私は中上の小説をほとんど文庫本で読んでいる。これらに加えて、未完という理由で単行本として発表される可能性が低かった小説を集めた集英社版の全集の12巻と13巻を通読することによって私はひとまず中上の小説世界を概観することができたと感じていた。確か柄谷行人が中上の訃報に接した際、書店の店頭に中上の本がほとんど並んでいないという事態に愕然として全集の刊行を決意したと記していた記憶があるが、現実には少なくとも中上の没後、しばらく経過した時点においては代表作が手軽に入手可能な状況があった。しかし20年が経過して再び状況は変わったようである。先般私は池澤夏樹編集の「日本文学全集」の中上の巻に「鳳仙花」が収められているのを目にした。この作品も名作であるから、それ自体は特に不審に感じなかったが、今回の特集に付された主要作品ガイドによればこの長編は二度にわたって文庫化されながらも長年絶版が続いていたということだ。今回、全集の中に収められた理由はこのような不在を補正する意味があったかもしれない。確かに今、アマゾンで検索しても入手可能な中上の小説はそれほど多くない。新たにインスクリプト版の「中上健次集」が刊行されつつあるとはいえ、戦後日本を代表する作家の作品を手に入れるのが容易ではないという事態を出版界は危機感をもって認識すべきであろう。
 やや話が逸れた。生涯の短さに続いて活動の広がりについて触れよう。広がりとはいくつかの含意をもつ。一つは空間的な広がりである。中上は1979年に一年間の予定でロサンゼルスに転居し、その後もソウル、あるいはアイオワ大学(以前このブログで触れた水村美苗の「日本語が亡びるとき」で言及されたワークショップだ)、パリ、ニューヨーク、ハワイといった場所を訪れ、時には長期にわたって滞在している。特集の中では例えば島田雅彦がニューヨークにおける中上、荒木経惟がソウルにおける中上の行状について報告しており、それなりに興味深い。これらのエピソードは作家が本質的にコスモポリタンであることをうかがわせるが、これらの体験、特に欧米での生活体験がほとんど小説に反映されていない点も興味深い。中上の小説では時に東南アジアやラテンアメリカが扱われることはあっても私の記憶する限り欧米の都市が舞台とされたことはない。そして東南アジアやラテンアメリカも常に路地とのつながりにおいて主題化されているのだ。作家が夭逝したことを考慮するにせよ、この点は中上にとって路地の呪縛がいかに強かったかを暗示しているだろうし、さらに言えば路地が解体された後、その遍在性に想到し、「異族」のごとき未完の小説が生みだされるうえで、これらの土地での体験は意味をもったのではないだろうか。もう一つの広がりはジャンルを超えた広がりだ。水谷豊、都はるみ、荒木経惟、菊池成孔、寄稿者を任意に挙げることによっても単に文学を超えた中上の活動の広がりは明らかであろう。そして映画や演劇、歌謡からジャズにいたる異なったジャンルを作家が全力で侵犯していく様子は寄せられた多くのテクスト、そして実に生き生きとした中上の表情を記録した多くの写真からも明らかであろう。私は中上を基本的にモダニストであると感じる。彼の文学的素養は明らかにモダニズムに根ざしており、もし彼に圧倒的な影響を与えた作家を一人挙げろと問われるならば疑いなくフォークナーであろうし、彼が第一次戦後派を全否定した理由もこの点に求めることができるかもしれない。それにも関わらず、中上が絶えずジャンルの越境を試みていたことに私たちは留意すべきであろう。
 ジャンルの越境という点で興味深いのは来年の夏以降、上演が予定されているやなぎみわによる「日輪の翼」のトレーラー公演である。私は彼女が中上のこの作品に強い関心をもっており、将来なんらかのかたちで上演したいという希望をかなり早い時期に本人の口から聞いていた。この作品の上演にあたってやなぎは正攻法と呼ぶべきか、オバたちが乗り込むトレーラーを台湾から買い付けることから始めた。夏芙蓉が描かれた巨大なトレーナーの威容に私もこのブログで論じた二つの機会、すなわち森村泰昌がディレクターを務めた昨年の横浜トリエンナーレ、そして今年春に京都で開かれた京都国際現代芸術祭PARASOPHIAの会場で接した。やなぎと中上のコラボレーションは実に興味深い。グランドマザーズに代表されるとおり、やなぎの作品が多く女性原理を主題としていたのに対し、中上の小説におけるマッチョな男性原理とオリュウノオバあるいはトレーラーの中のオバたちが体現する女性原理の関係は複雑だ。舞台自体が場所をもたず、移動するという発想は路地の遍在性と関わっているだろうか。やなぎがこの特集に寄せたテクストの次のような末尾は来年夏より日本各地で公演されるという、やなぎ版「日輪の翼」への期待をいやがうえにも高める。

 
 オバたちの御詠歌と、路地の若者たちが歌う「ソドムの福音」がせめぎ合い、重機と男女のアクロバットが、けばけばしいネオンに輝く、美しく凶々しい「一瞬」。空にかかった虹をつかもうとするような見世物の浅ましさと哀しさは、究極までいかなければ崇高さに結びつかない。絶え間ない飛翔と落下。中上作品に肉薄できるのは唯一その方法しかないだろう。

 知られているとおり、中上は46歳の若さで他界した。収められたテクストの中である者はラテンアメリカを旅する中上を夢想し、ある者は国会議事堂前で怒鳴っている中上を想像する。生前に一本だけ中上が撮影した映像について論じる者がおれば、書かれることのなかった二つ目の戯曲に思いを向ける者もいる。1986年、40歳の時に熊野で撮影されたという表紙のポートレートがよい。最初に述べたとおり本特集は作家の生誕70年を機に編まれた。しかし私は70歳の中上を想像することができない。早世した作家の姿に思わず「千年の愉楽」に登場する「中本の一統」の若衆たちを重ねてしまうのは私だけではないはずだ。果たして中上も彼らのようにいつか転生して、また私たちの前に姿を現してくれるのだろうか。このような「奇蹟」があながちありえないとも感じられるほどに彼の小説は私たちを今も鼓舞してくれる。
by gravity97 | 2015-12-19 12:13 | 日本文学 | Comments(0)

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猫の足、鉄の爪
神経外科医がもっとよこせと叫ぶ
妄想症に毒された扉の前で
21世紀の精神異常者

血の拷問台、有刺鉄線
政治家たちの火葬の薪
ナパーム弾の炎に蹂躙される純潔
21世紀の精神異常者

死の種子、盲人の貪欲
詩人の飢えた子供は血まみれ
本当に必要なものは与えられることがない
21世紀の精神異常者
by gravity97 | 2015-12-10 17:55 | PASSAGE | Comments(0)
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 実証的な歴史研究でありながら、本書の内容はまさに戦慄的だ。ブラッドランド、流血地帯とはバルト海と黒海の間、ドイツとかつてのソビエト連邦(以下、ソビエトと呼ぶ)にはさまれた地域である。何枚もの地図が示されるから、誰でもその広大な版図を具体的に知ることができる。現在の国名でいえば、ポーランド、ベラルーシそしてウクライナ。ヨーロッパ東部にあってこれらの国は決して貧しい地域ではない。肥沃な大地に恵まれたこの地域はむしろヨーロッパに食糧を供給する恵まれた土地であったはずだ。しかし1930年代後半から第二次世界大戦の終結にいたる期間、この地域は飢餓と殺戮、文字通りの地獄と化した。そしてさらに驚くべきはかくも凄惨な事実に関して私たちがほとんど無知であったことだ。その理由についても本書はいくつもの示唆を与える。大著ではあるが、まことに読み進むのが辛く、それゆえレヴューまでに時間がかかったことを言い添えておく。
 1940年前後の東欧で多くの流血があったとするならば、通常私たちは次のように理解するだろう。おそらく犠牲者の大半は絶滅収容所に連行されたユダヤ人であり、それはヒトラーの指示のもとに遂行された人類史においても未曾有の犯罪であったはずだ。この認識は一面では正しい。しかし本書を通読するならば、それが氷山の一角にすぎないことが直ちに理解される。ブラッドランドにおいてはソビエトとドイツ、二つの国家の間で、スターリンとヒトラーという悪魔のごとき指導者のもと、一つの民族、一つの階級を根絶するという想像を絶した政策が幾度となく遂行されたのだ。単にドイツの東、ソビエトの西に位置する地域に居住したという理由によって、無数の人々がいわれのない無残な死を遂げた。著者は冒頭で次のように述べる。「ヨーロッパで起きた大量殺人は、たいていホロコーストと結びつけられ、ホロコーストは迅速な死の大量生産と理解される。だがこのイメージはあまりに単純ですっきりしすぎている。1933年から45年までの間に流血地帯で殺された1400万人の民間人と戦争捕虜は食糧を絶たれたために亡くなっている。つまりヨーロッパ人が20世紀の半ばに、恐るべき人数の同胞を餓死させたというわけだ」
 恐るべき大量殺戮は1933年にスターリン治下のソビエト、ウクライナで幕を開ける。1932年までにスターリンは第一次五カ年計画によって工業化と集団化を強力に推進し、土地と自由を農民たちから収奪していった。さらにスターリンは富農(クラーク)と呼ばれる階級の絶滅を宣言する。それは革命につきものの一種の階級闘争ともみなされようが、誰が富農かという判断は国家によってなされたのだ。富農たちは強制移住させられ、シベリアからカザフスタンまで連なる強制収容所(グラーク)に収容され、強制労働を課せられた。本書には割れた陶器や素手によって凍土を掘って建設された運河についての言及がある。直ちに記憶が蘇った。この運河とはかつてソルジェニーツィンが「収容所群島」において「手押し車とツルハシだけでわずか20カ月の間に建設された」と表現した北海運河(ペロモルカナル)のことだ。農場が集団化されたことで食糧は国家によって統制されることとなった。食糧の供給が国家によって管理される中で、スターリンは殺人を政策として実行した。つまり一つの地域から食糧を強制的に徴発することによって、おびただしい人々を意図的に餓死させたのである。本書においてはブラッドランドを舞台にソビエトとドイツという二つの国家が殺人を正式の政策とて採用し、官僚たちの手によって計画的に遂行されたという事実が白日の下にさらされる。その結果生じる事態、例えば1932年から33年にかけてウクライナに生じた飢餓地獄、カニバリズムと餓死の蔓延についてスナイダーは多くの資料を駆使して具体的に記述する。読むのも辛いこれらの悲惨が「政策」として貫徹されたとはにわかには信じがたい。以前、このブログでジャスパー・ベッカーの『餓鬼』をレヴューした際、1950年代後半、中国の大飢饉においても同様に土を食う人々が存在する一方で倉庫には穀物が蓄えられていたことについて触れた。同じ状況がウクライナでも発生していた訳であり、この点は独裁的な共産主義国家においては国家が人民の生殺与奪の権限を握っていたことを暗示しているだろう。何人かの西側のジャーナリストが飢餓の状況を伝えている。しかしこの事実は西側に明確に伝えられることはなかった。一つには飢餓で苦しむ地域があったとしても、そこを通過するだけのジャーナリストたちにとってそれは単に地域的な凶作、一時的不運と認識され、政策の結果としてもたらされたとは信じることができなかっただろう。そして50年代の中国同様に、政治家など重要人物の訪問にあたってはかかる状況は巧妙に隠蔽され、革命に対する左翼的な知識人のシンパシーも働いて、よもや人為的な飢餓が発生しているとは想像できなかったのであろう。
 富農たちを対象とした階級テロルに続いて民族テロルが吹き荒れる。そのターゲットはドイツとソビエトにはさまれた地域に住むポーランド人たちであった。NKVD(内務人民委員部)という秘密警察がベラルーシやウクライナでポーランド作戦と呼ばれる民族虐殺を開始した。1937年に彼らに示された命令00485号は「ポーランド軍事組織のスパイ網を完全に排除すること」を求めた。彼らは拷問と密告によってたやすく反革命のスパイを見つけ出し、逮捕することができた。でっちあげられた彼らの罪状についての報告書をアルバムにまとめてモスクワに送り、係官が確認する「アルバム方式」と呼ばれる裁判においては一日に2000件の死刑判決が行われたこともあったという。そして複雑な政治状況がこの地にさらなる混迷を生む。1939年8月、政治的に和解しうるはずもないファシズムと共産主義、ヒトラーとスターリンはポーランドの抹殺のために奇怪な妥協を行う。モロトフ=リッペントロップ協定、いわゆる独ソ不可侵条約によって、ポーランドはバルト海と黒海を結ぶモロトフ=リッペントロップ線なる境界によって国土を二分された。この結果、ポーランドの東側はソビエトに、西側はドイツに組み込まれ、いずれの側であろうとこの地に住むポーランド・ユダヤ人たちを残忍な死が待ち受けることとなった。この直後の9月、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、これを理由としてソビエトもまたポーランドに進駐した。ソビエトはポーランド人に対してきわめて苛酷な政策によって民族の抹殺を図る。一つは知識人層を絶滅する「斬首作戦」である。奇しくもヒトラーも次のように述べている。「奴隷階級に貶めることができるのは、上層部を失った民族だけだ」私たちは例えば文化大革命下の中国、クメール・ルージュのカンボジアにおいてまず知識人たちが迫害され、虐殺されていったことを知っている。本書を読んで私はようやくこの意味を理解した。一つの国家、一つの民族を奴隷化するためにはまず知識人層を根絶することが必要なのだ。このような施策の残酷さについてスナイダーは次のように説いている。「(ポーランドの知識人層の抹殺は)近代性という概念そのものへの、あるいはこの国の啓蒙思想を体現する存在への攻撃にほかならなかった。東ヨーロッパの社会にとって『知識階級』は誇りであった。彼らは民族のリーダーとしての自覚を持ち、特に国家を失い苦境に陥った時期には、書くこと、話すこと、そして行動によって民族の無かを守り、継承していく役割を担っていた。(中略)二つの占領国による大量殺人はポーランドのインテリゲンツィアがその歴史的使命を立派に果たしたことを示す悲劇的な証拠だったのである」続く抹殺の第二段階としては、ソビエトとドイツでは異なった手法が用いられた。ソビエトは自国の法制度をポーランド東部に持ち込み、多くの人々を意志とは無関係に強制移住させることを可能とした。広大な不毛の地を擁することによって初めて可能となる施策であるが、かかる政策の下、多くのポーランド人が中央アジア、シベリアに追放されて多くが餓死した。ここでも一つの文学的記憶が蘇った。かつて私は李恢成の「流域へ」という小説を読んだことがある。この小説においてはソビエト崩壊後、在日朝鮮人である主人公が当局の招きに応じて、中央アジアを訪れるのであるが、その目的はスターリンによって沿海州から強制移住させられた高麗族、いわゆるロシア朝鮮人の状況を視察するためであった。この小説を読んだ際にはなぜ朝鮮人が中央アジアに移住させられたのか理解できなかったが、本書を読んで得心した。当時満州を経由して日本がソビエトへ侵攻することを恐れていたスターリンにとって、日本と内通する可能性のある東洋系の民族を全く縁故のない土地に追放することは意味があったのだ。一方、ドイツはここで初めて安楽死という政策を導入する。新たに領土に加えられたヴァルテラント国家大管区において、アルトゥール・グライザーという司令官は精神病院の患者を銃殺と一酸化炭素によるガス殺に処した。ドイツ国内の精神病者、身体障害者、ジプシーらも「存在に値しない命」としてガス殺されるまで、ほとんど時間は必要とされなかった。この章の記述の中には先日、レヴューしたシンガーの「不浄の血」の舞台となった地名が何度も登場する。さらに一人の日本人の名前も記されている。リトアニア領事の杉原千畝である。出国ビザを発給して多くのユダヤ人を救ったことで知られる杉原はポーランド人将校にも脱出ルートを提供した。本書において杉原はソビエトの機密に通じたインテリジェンスの専門家として描かれている。
 1941年6月22日、ドイツは奇襲攻撃によってソビエトに侵攻した。これによってブラッドランドの歴史は新しい時代に入った。スナイダーは次のように総括する。「第一期(1933-38)にこの地で起きた大量殺人はほとんどがソビエトによるものであった。第二期(1939-41)には両国はほぼ同数の人々を殺した。第三期(1941-45)にはドイツによる政治的な殺人が大半を占めた」独ソ戦ほど悲惨な戦争は例がないだろう。この問題についてはすでにこのブログで論じた「イワンの戦争」において詳しく分析されていた。この戦争はファシズムと共産主義の間の殲滅戦であり、一切の妥協はなかった。当初の戦闘で100万人規模のソビエト人捕虜が発生した。しかしドイツ軍はこれらの捕虜に一切人道的な配慮を払わなかった。ヒトラーはソビエト兵を虐待することによって、逆の立場であれば自らも処刑されるという恐怖心をあおったのだ。「アポカリプスの経済学」と題された第五章においてはこのような捕虜の虐待と虐殺の事例が延々と記述される。戦局が悪化したことをヒトラーはユダヤ人組織の陰謀とみなす。ソビエトの侵攻にユダヤ人の虐殺によって応酬するという倒錯した論理が成立した。そしてドイツに対するパルチザン活動も活発化する。1942年5月27日、ユダヤ人問題の「最終解決」を提案し絶滅政策の中心であったラインハルト・ハイドリヒが暗殺される。いうまでもなくこのような抵抗に対してナチス・ドイツは残忍きわまりない報復で応じるが、この事件をきわめて斬新な視点で小説化したローラン・ビネの「HhHH」についても既にこのブログで論じた。スナイダーはこのような抵抗と弾圧の最大の例として翌年のワルシャワ・ゲットー蜂起についても詳しく検証している。かかる殺戮の応酬、熾烈な殲滅戦の果てに、ソビエトはじりじりと反攻し、モロトフ・リッペントロップ線以西を次第に領土として回復しながらベルリンに迫った。大戦末期にソビエト軍はこのような「死の工場」をいくつか解放する。彼らはそれが一つの民族を効率的に絶滅するための場所であることを知り、この戦争の最も悲惨な部分を知ることになる。これらの絶滅収容所の「解放」に立ち会ったのが、このブログでレヴューした「人生と運命」の著者、ワシーリー・グロスマンであった。私は本書を読んでクロスマンがかかる大著を執筆した動機がよく理解できた。あるいはこの小説に向けられた「『人生と運命』は読むのではなく、すべてはこんなふうではなかったと―現在あるもののためにこれほどの犠牲は払われなかったと―遠慮がちに願いながら、それを生きてみる本である」という言葉の意味もまた理解できたように感じる。今日、私たちがブラッドランドについての文学的考察を「人生と運命」以外にほとんど知らないことは、ソビエト当局の弾圧の厳しさを暗示しているかもしれない。ソビエトによる絶滅収容所の解放は複雑な意味をもつ。彼らはこれらの施設の意味を知り、直ちに別の目的に転用した。今度はドイツ軍の捕虜、そして実に皮肉なことにドイツ軍によって捕虜とされたソビエト軍捕虜もまたスパイ容疑でこれらの収容所に収監されたのだ。多くの絶滅収容所がソビエトの手によって解放されながら、そこで行われていた蛮行が当初明らかとならなかったことは一つにはこのような理由による。このような収容所の例としてはアウシュヴィッツがよく知られているが、実はこの収容所は強制労働施設と殺害施設を組み合わせた特殊な施設であり、ヘウムノ、ソビブル、トレブリンカといった絶滅を目的とした収容所とは異なっていた。アウシュヴィッツでは骨と皮のような囚人が解放されたが、この点は囚人たちがまだ生きていたことを示している。東側にあった収容所ではユダヤ人たちは到着後数時間内に殺されていたのだ。これらの収容所の体験を扱ったフィルムがクロード・ランズマンの「ショアー」であり、ナチス・ドイツの絶滅政策の徹底性は連合国側の想像をはるかに絶していたといえよう。
 ナチス・ドイツの敗北もまた新たな暴虐を呼び込む。「イワンの戦争」にも記されていた通り、男たちが戦場に駆り出された地で赤軍の兵士たちはその地にいた女性たちをことごとく強姦し、老人や子供たちを殺害しながら西進した。スナイダーはこの暗澹たる歴史を粗描したうえで、戦後、ポーランドの国境を画定するうえでスターリンが行った強制移住による民族浄化について記述する。かかる民族の撹拌が土地にまつわる虐殺の記憶を薄め、証拠を失わせたことに疑いの余地はない。スターリンにとってはこの大戦で最も大きな犠牲を払ったのはユダヤ人ではなくてソビエトのロシア人でなければならなかった。これゆえブラッドランドにおけるユダヤ人の運命は意図的に隠蔽されたのである。「スターリニストの反ユダヤ主義」と題された章においては、戦後においてスターリンが繰り広げたユダヤ人弾圧のためのいくつもの謀略が論じられる。確かこれらの事件についても「人生と運命」の中で語られていたはずだ。
 それにしてもなんと多くの人の命が奪われたことであろうか。「人間性」と題された最終章でスナイダーは次のように記す。

ナチス政権とスターリン主義政権は、流血地帯で合わせて1400万人もの人々を殺害した。そのはじまりは、スターリンが政策として指示したソヴィエト・ウクライナの飢饉だった。これにより300万人以上が命を奪われた。さらに1937年、38年とスターリンの大テロルによって殺戮が続き、およそ70万人が銃殺された。その大半は農民か民族的少数派の人々だった。その後ソ連とドイツは手を結び、協力してポーランドとその知識人層を破壊し、1939年から41年までの間におよそ20万人を殺害した。やがてヒトラーがスターリンを裏切ってソ連侵攻を命じると、ドイツはソヴィエト人捕虜と、包囲したレニングラードの住民を故意に飢えさせ、400万人以上を死に追いやった。ドイツは占領下のソ連、ポーランド、バルト諸国でおよそ540万人のユダヤ人を銃殺またはガス殺した。ドイツとソ連は互いに煽りあい、さらに大きな罪を重ねた。ドイツが民間人50万人以上を殺害する結果となったベラルーシやワルシャワのパルチザン戦争はその一例だ。

 あたかも本書のアブストラクトのごとき総括であるが、ここで注意しなければならないのは、著者のスナイダーが本書の中で一貫して、これらの人々の生に意味を与えようとしていること、彼の言葉を借りるならば「数字を人に戻す」ことを試みていることだ。1400万人の死、私たちはこのような数字の前にたじろぐ。例えば今、日本でも歴史修正主義者たちが南京大虐殺の犠牲者の人数を「修正」することによって、それが取るに足らない事件であったかのように歪曲する工作が続けられている。もちろん多くの人が殺されたことは事実として認識されるべきである。しかし私たちはそれを数字の多寡の問題とみなしてはならない。最終章でスナイダーは一つの提案をする。大量虐殺の犠牲者、私たちはそれを数百万人という末尾の位をゼロとする「丸い」数字で表現する。しかし概数ではなく実数として理解してはどうか。例えばトレブリンカに送られた人数を約80万人ではなく、78万863名と記述する時、私たちは末尾の3名に思いを向けることができる。具体的にはそれらの三人が本書で語られた犠牲者たちの一人ではなかったかと想像することができるというのだ。それによって失われた三つの命が代替不可能なかけがえのないものであったことを私たちは知る。なぜそうしなければならないのか。本書の最後に記された次の言葉は実に重い。

ナチスとソ連の政権は、人々を数値に変えた。その中には、推定することしかできないものもあり、かなり正確に洗い出せるものもある。われわれ研究者の責務は、それらの数値をさがし出し、総合的な見地から考察することだ。そしてわれわれ人間主義者(ヒューマニスト)の責務は、数値を人に戻すことだ。それができないとすれば、ヒトラーとスターリンは、この世界を作り変えただけでなく、われわれの人間性(ヒューマニティ)まで変えてしまったことになる。

 様々な文学的記憶をたどりながら本書を読み継いで、私はこの言葉に深く共感する。ブラッドランドの死と生を数字ではなく個の体験として読み解くことは研究者のみならず私も含めた文学に携わる者にとっても決定的に重要ではないだろうか。そしてブラッドランドの体験は決して私たちと無関係ではない。しばらく前のブログで私は石原吉郎の生と詩について論じた細見和之の評伝について触れた。いうまでもない。シベリア抑留とは日本人によるブラッドランド体験にほかならない。奇しくも先月号の『現代詩手帖』では石原吉郎が特集されている。巻頭の細見を含む三人の鼎談と本書は私にとって地続きのように感じられた。関心のある方は是非併読していただきたい。
 そして本書で論じられた狂気ももはや他人事ではない。マイノリティーに対する憎悪をこめた差別が公言され、人文科学に関する学知が軽んじられる現在の日本とヒトラーが台頭した時期のドイツは不気味なほど似ている。いちいち具体的な事例を挙げずとも理解できよう。検閲と恫喝、密告と監視、戦時体制に向けて着々と準備を進める現在の政権が存在する限り、本書で検証された地獄、ブラッドランドがいつ日本で再現されても不思議はない。まことに時機を得て訳出された戦慄すべき研究といえよう。
by gravity97 | 2015-12-06 21:07 | ノンフィクション | Comments(0)
12月6日から20日まで、東京芸術劇場における再演を前に、2013年6月10日にアップした記事を、2010年の維新派の瀬戸内芸術祭公演に連なる思い出とともに再掲する。

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 維新派の松本雄吉が寺山修司の「レミング」を演出する。初めてこのニュースを聞いた時、期待と不安を同時に覚えた。後述するとおり、私が自覚的に演劇を見た最初は寺山の「レミング」であり、一方、今日私が最も大きな期待とともに上演に向かうのは維新派の舞台であるから、寺山と松本とは私にとって演劇体験のアルファとオメガといってよい。この二つの傑出した才能が結合する舞台が面白くないはずはない。しかし同時にこの二人ほどスタイルの異なる演出家を想像することも難しい。俳優の特異な肉体を強調し、土俗的で情念的な世界を創り出す寺山に対して、同じ衣装を身にまとい匿名化された俳優がきわめて抽象的な物語を演じる松本。果たして両者に接点はあるのだろうか。しかも市街劇や野外劇を得意とした二人に対して今回の芝居はプロセニアム、完全な舞台上で演じられるのだ。しかし暗転した会場に「世界の果てまで連れてって」という歌が朗々と響き渡り、照明の中に浮かび上がる古代建築風の書き割りの左右から無数の俳優たちが床を踏み鳴らしながら列を組んで行進する冒頭のシーンを見た時、一瞬にして私の不安は解消した。私は歴史的な上演に立ち会ったのではないだろうか。
b0138838_20534491.jpg 1983年の5月下旬であるから、時期としてもちょうど30年前となる。私は八尾西武ホールで天井桟敷の「レミング」を見た。魂が震撼する体験であった。私は演劇が私たちの認識そのものの枠組を変える可能性を秘めていることを初めて知った。同じ月の初めに寺山は没していたため、これは天井桟敷としての最後の公演であり、私はかろうじて間に合った訳だ。少し説明を加えるならば、「レミング」は1979年5月に東京晴海の国際貿易センターで初演され、その3年後に改訂、再演された。すなわち1982年12月の東京、紀伊国屋ホール、そして翌年5月から7月にかけて横浜、八尾、札幌を巡回した公演である。(ただし今回の公演パンフレットに掲載された上演記録には札幌の公演についての記述がない)初演と再演にはいくつかの相違がある。当時の劇評を確認するならば初演は平舞台の大空間の中で演じられたため、主に正面の本舞台と観客の背後の第二舞台が使用されたらしい。これに対して私が見た再演版はホール内の通常の舞台が使用された。内容に関しても主人公の中国人コック見習いが初演では一人であったのに対し、再演では王と通という二人の男になっている。これについて寺山自身は「この劇が独白者の夢にとどまるものではなく、複数の人物の相互性による、夢の社会性を問題にしたかったからである」と述べている。今回の「レミング」でも主人公は二人登場し、再演版を踏襲しているが、パンフレットを確認するならば若干の異同が認められる。つまり寺山版「レミング」において舞台は全16場で構成されていたのに対して、松本版「レミング」ではこのうち、「頭足人」、「王様ネズミに関する記述」、「死都ラトポリス」と題された三つの場面が削除されている。今回、戯曲についても確認したところ、戯曲と上演の間にも微妙な異同が認められることが判明した。興味深いことに削除された箇所は匿名的な登場人物が互いに言葉を掛け合うという、むしろ維新派的な場面であるが、削除されたとしても演劇の流れに影響を与えることはない。全体として実に丁寧に寺山の戯曲が生かされている印象がある。
 最初に述べた通り、異形の俳優を用いる寺山と俳優に匿名性を課す松本は演出の手法において対極に感じられる。実際に83年の「レミング」では舞台上で全裸となる女優、舞台を横切る侏儒の「アフリカ探検隊員」といった寺山らしいスキャンダラスな演出が随所に認められた。これに対して今回の「レミング」は二人の演出手法の違いを実に巧妙に処理していた。つまり中心となる四人の人物、二人のコック見習い、四畳半の畳の下を耕す母親、そして女優影山影子は明確な名前と個性を与えられ、物語の中心に位置する。彼らを演ずる八嶋智人、片桐仁、松重豊、常磐貴子という四人の俳優はTVなどで時折見かけることもあって寺山の芝居とはミスマッチの印象があったのだが、さすがにいずれも抜群に演技が上手い。あらためて感服した。この四人に対して、男、少女あるいは看護婦といった名前をもたない多くの登場人物が対置され、彼らは時に黒いコートを羽織って完全に匿名的な存在として夢の中の人物のように(夢、それがこの作品の主題だ)劇中に介入する。場面が転換されるごとに変化する中心的な俳優と匿名的な俳優の絶妙の関係がこの舞台を支えている。最初、私は寺山と松本の演出法の隔たりを懸念したのであるが、見ているうちにむしろ両者の共通性に思いが至ることとなった。まず思い当たるのは寺山も松本も演劇の様式美を追求し、劇中に視覚的な趣向を凝らす点だ。いずれの舞台もどのシーンを切り取っても絵になる。寺山の芝居が奇怪な装置や不思議なオブジェで溢れていることはよく知られているが、美術出身の松本が作り出す世界もさながら時にインスタレーションのごとき完成度をもち、時に息を呑むような美しさがある。先にも触れたこの劇の冒頭、「マッチ箱の中の大都会」の場面は天井桟敷によって演じられた際にも多くの黒子のような俳優たちが舞台のあちこちで奇妙な動作を繰り返すという、まことに維新派的な内容であったが、今回の舞台の冒頭を飾る夢幻的な情景から逆に私は寺山の「奴婢訓」の幕開けを連想した。私はこの傑作を寺山の没後、その衣鉢を継いだ演劇実験室万有引力の公演として見た。呪術的な音楽の中、無数の奴婢たちが逆光に照らされて観客席に向かって歩み寄る衝撃的なシーンである。興味深いことに「奴婢訓」において俳優たちは舞台の奥から客席に向かって前後方向の動きを示したが、松本版「レミング」においてかかる動作は常に舞台の左右方向、つまり観客と平行になされる。維新派の舞台が常に移動という主題と関わっていたことを想起するならば暗示的といえるかもしれない。そしていうまでもなく音楽だ。私が寺山の演劇に立ち会ったのは今述べた天井桟敷の「レミング」と万有引力の「奴婢訓」の二度のみであるが、いずれもJ.A.シーザーの粘着的な音楽が全編を貫き、(「万有引力」は「天井桟敷」解散の翌日、J.A.シーザーたちが立ち上げた劇団であり、この点からも私の見た「奴婢訓」は初演に忠実であったと考えられる。なお万有引力は「レミング」も1992年に再演している)演劇のトーンに決定的に寄与していた。維新派もまた音楽を重視する劇団であり、今回も舞台の脇に音楽を担当した内橋和久がギター(あるいは彼が日本唯一の演奏者とされるダクソフォンなる楽器であろうか)を抱えて上演に立ち会っていた。内橋によると松本は最初に今回の「レミング」を音楽劇にしたいという意図を伝え、これに対して寺山劇におけるJ.A.シーザーの存在の重要性を十分に認識していた内橋は、逆に音楽をまるごと変えてもよいかとプロデューサーに尋ねたという。プロデューサーは快諾し、かくして音楽に関しても維新派版「レミング」と呼ぶべきリミックス・ヴァージョンが成立した訳である。もっとも今回あらためて確認したところ、最初に流れる(「世界の果てまで連れてって」という歌詞を含む)寺山修司作詞、J.A.シーザー作曲の「カムダウン・モーゼ」という曲は83年版「レミング」のパンフレットに楽譜も掲載されているから、それに基づいて再演されたであろうし、ほかにも劇中で何度か歌われ、第12場のタイトルとされる「行き過ぎよ、影」という曲もJ.A.シーザーの手によるものであろう。しかし内橋は維新派の公演で多用される独特の変則7拍子を劇中のいたるところに取り入れて、寺山の「レミング」を異化する。今回の上演では冒頭の場面をはじめ、匿名の登場人物たちが7拍子のリズムに合わせて踵を打ち鳴らす独特のタップダンスを繰り広げて、現実とは思えないような幻想的な情景が成立していた。
 内容についてはどうか。この作品の主題について寺山は端的に次のように語っている。「『レミング』の主題は、一言で言えば、壁の消失によってあばかれる内面の神話の虚構性の検証である。今日、われわれは無数の壁にとりかこまれている。キャンバス、スクリーン、地表、顔、ありとあらゆる『表面積』の文化。壁はもはや実存主義ばかりではなく、世界の暗喩として存在しているのである」物語はコック見習いが住むアパートの一室の壁が消失する場面から始まる。壁の消失という主題を寺山は枠組の解体というテーマに接続する。つまり劇中に登場する影山影子は往年の大スターであり、彼女の映画を撮るために撮影隊の一行が舞台を横切るが、次第に映画と現実、演劇の境界は不分明になる。影子は映画女優なのか、映画女優を演ずる俳優なのかを決定することができないというまことに寺山的な不条理が発生するのである。あるいは劇中で語られる「遊戯療法」とは患者に医師の役割をさせる治療法であるが、ここにも患者/医師という役割の意識的な転倒、一種の決定不可能性が関与する。そしていうまでもなく夢という主題だ。床板をぶち抜いて登場した母親はコック見習いに対して、ここからは自分の夢であると宣言する。どこまでが誰の夢であるのか、夢の中の夢というフィリップ・K・ディック的なテーマが浮かび上がる。いうまでもなく夢とは演劇の暗喩だ。夢を夢と判定し、演劇を演劇と判定するのはその外部、別の審級においてであり(「エッ、眠っているときでも夢をみることができるんですか」というコック見習いの言葉はこの意味において暗示的だ)、かくして壁の消失は演劇が何によって保証されているかというメタ演劇的な問題を惹起する。この主題を寺山が終生追求したことはよく知られている。確かにこの作品では母親との葛藤(母親のもぐら叩き)、窃視する「屋根裏の散歩者」あるいは様々な街の噂の羅列といった、いかにも寺山好み、あえていえば1960年代的な主題も扱われている。これらの主題が現在の観客にどのように受け取られたかについてあえて私は判断を下さないが、おそらく今回の上演が30年という時を経ても全く古びたように感じられなかった理由は、それが演劇とは何かというきわめて本質的、根源的な問題を問うているからではなかろうか。83年版のパンフレットには(79年の国際貿易センターにおける初演について)扇田昭彦の次のような劇評が転載されている。「つまり、この劇は、本舞台だけに閉じこもろうとする観客の意識そのものが『壁』であること、個我意識の壁の外にはさらに多様な劇が渦巻いていることを、劇構造として巧みにさし示していたのである」文脈を理解しないとややわかりにくいコメントであるが、「壁」が劇中のみならず、観客の意識の中にもあると断じた点はこの演劇の本質を看破している。
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 私は83年の「レミング」の最後の場面を思い浮かべる。一度消失した壁は劇の最後で再び出現する。思いがけない壁の出現に、四畳半の畳の下の母親は「これは自分の夢ではない、誰かが私たちをまるごと夢に見ているのだ」と叫ぶ。私はその時、明確に了解した。この芝居は私たち観客が見た夢なのだ。かくして観客と舞台は一体となる。舞台から主人公たちが退場した後、場内は暗転し、観客の周囲で何かを打ちつける音がする。暗闇の中にコック見習いの声が響く「世界の果てとはお前自身の夢のことだ。だまされるな、おれはあんた自身だ。百万人のあんた全部だ。出口は無数にあったが、入口がもうなくなってしまった」この言葉が誰に向けられているかは明白だ。壁とは観客と舞台との間の壁でもあるのだ。まさに「レミング」とは「壁」の消失をめぐる物語であった。そして天井桟敷の観客に対する数々の荒業を知っていた私は、実際に現実の劇場の入口が封鎖され、自分たちが夢の中、つまり壁の内部に取り残されるのではないかと恐怖した。最後の場面で味わった文字通り劇的な転回、つまり私たちが演劇を見ているのではなく、実は劇場もしくは演劇の中に囚われているという感覚は今思い出しても鳥肌が立つほどに戦慄的であり、私が83年の「レミング」公演を魂が震撼する経験であったと述べた理由もここにある。さらにこの公演で印象的であったことは終演後も一切カーテンコールがなかったことだ。当然であろう。観客と演劇が一体であるならば、わざわざ俳優が登場して、観客が彼らに拍手するような儀式はありえない。演劇は断ち切られるように終わり、私たちはなおもその世界に囚われているという気まずい思いとともに劇場を後にした。83年の「レミング」を見たことによって私は今もなお寺山の世界の虜囚なのである。
 今回の「レミング」にはカーテンコールが存在した。のみならず最後の場面があくまでも虚構としての結構を保っていたのは、先に述べたように83年版の最終場面「死都ラトポリス」が今回の公演では削除されたことと関係があるかもしれない。私たちは一つの物語が舞台の上で完結したことを確認した後に、深い感動とともに俳優たちに心からの拍手を送った。私の考えではこの点にこそ83年版と今回の公演の決定的な差異が存在する。むろん私は両者に優劣をつけるつもりは全くない。演劇の枠組自体を問う試みは確かに寺山の時代には切迫していたかもしれないが、今日、それはもはや自明の前提と考えられている。没後30年という周年事業としてそれに見合った俳優陣の客演で演じられた今回の「レミング」は何よりも舞台としての完成度を求められており、寺山の実験精神を必要としない。寺山を離れても今回の舞台は歴史上に屹立する内容であった。1983年と2013年、30年という時を隔てて一つの優れたテクストが二つの全く異なった舞台に結実したという奇跡、そして奇しくもその両方に立ち会うことができたという幸運に、今私は深く感謝している。
by gravity97 | 2015-12-01 21:06 | 演劇 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック