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川村湊『戦争の谺』

b0138838_20595483.jpg 戦争と表現をめぐるきわめて刺激的な論攷を読んだ。「軍国、皇国、神国のゆくえ」というサブタイトルをもつ川村湊の『戦争の谺』である。私は川村の批評はこれまでしっかり読んだことがないが、川村がこの数年、日本における植民地の表象という問題を精力的に検証していることは知っていた。その一端は川村が中心となって編んだアンソロジー、集英社版「戦争×文学」中の二巻、「満州の光と影」「帝国日本と朝鮮・樺太」に反映されているだろう。私は近いうちにこれら二冊を読み通したいと考えている。植民地における表象という問題は、美術の分野でも近年、「官展にみる近代美術」といった優れた展覧会として結実しており、これについてはかつてこのブログでレヴューした。ただし川村の研究は必ずしも植民地の問題に特化した内容ではない。12章からなるこの論集のテーマはタイトルに明らかなとおり、むしろヒロシマ、ナガサキ、沖縄から「鬼畜米英」、「八紘一宇」、そしてゴジラと冷戦といった日本の戦争体験の系譜をたどる内容である。初出一覧を確認すればわかるとおり、本書は書き下ろしではなく、様々な機会に執筆されたテクストをまとめた内容が中心であり、テーマの多様さはこの点を反映している。それにもかかわらず、特に異和感なく読み進めることができるのは、川村の問題意識が一貫しており、ぶれないためであろう。それどころか多様なテクストの背景に浮かび上がる共通性に気づく時、私は日本人に宿痾のごとく取り憑いている一つのメンタリティーを理解することができた。それは戦間期のみならず、震災と原子力災害を経過した私たちにとって身近に感じられる。この意味で谺(こだま)とは象徴的なタイトルである。戦争の谺は今も響いているのだ。
 いくつかの章について具体的に論じることにしよう。最初の二つの章は広島と長崎における被爆の問題を論じている。川村は太宰治の「トカトントン」とい短編から語り起こす。天皇の終戦宣言を聞いて自決を決意した語り手の耳にどこかで金槌で釘を打つトカトントンという音が届く。この音は語り手の熱狂を一瞬に醒まし、一種の虚脱感を与える。確か高橋源一郎も『文学がこんなにわかってよいかしら』の中で同じ短編について触れていたと記憶する。川村は「トカトントン」をやや異なった視点からみる。それは復興の槌音であり、川村は栗原貞子を引きながら広島の早すぎる「復興」に注目する。「占領下の21年8月6日、『原爆を忘れて復興しよう』と被爆者の苦しみや遺族の悲しみをよそに、どのような乱痴気騒ぎが行われたか。町内はシャギリ、山車、俵もみ、仮装行列などを行って、『ピカッと光った原子のたまにヨイヤサーとんで上った平和の鳩よ』と三日間踊って歌った」被爆の一年後にかくも能天気な「復興」がなされていたことに驚くが、被爆の惨禍を覆い隠すこのような「復興」の強調に川村は日本人が原爆の被害に対してほとんどアメリカを批判することなく、あたかもそれが戦後の平和や自由へいたる通過儀礼であったかのごとく受け容れた点を原爆と関わるいくつかの建築物の建設の過程、そして47年の昭和天皇のヒロシマ行幸といった事実に関して説得的に論じる。それにしても大戦の当事者であり、考え方によってはヒロシマに原子爆弾による災厄をもたらした張本人である昭和天皇―「国体護持」の保障を得るためにポツダム宣言の受諾を遅らせ、そのために二つの都市の壊滅がもたらされたことは今や歴史的な事実だ―を万歳で迎えた広島市民、そして日本人のメンタリティーを私たちはどのようにとらえるべきであろうか。ここで私が直ちに連想したのは、このブログでも論じた白井聡の「永続敗戦論」の議論であった。白井は「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している」と説いた。私は少なくとも部分的には本書を白井が「永続敗戦論」で論じたテーマを文学に即して検証する試みとしてとらえることができるのではないかと考える。むろんこの点は本書のオリジナリティーをなんら減ずるものではない。この問題は長崎の被爆を扱った第二章でさらに鮮明となる。最初に川村はなぜ長崎には原爆ドームがないのかという人を食ったような問いから始める。しかしこの問いの射程は深い。長崎において浦上天主堂をはじめとする被爆建築は保存されることなく撤去される。さらに川村は「長崎の鐘」で知られる医者、永井隆のきわめて倒錯した論理について言及する。被爆者でありキリスト者でもある永井にとって長崎の被爆は神の摂理であったというのだ。永井は次のように書く。「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな神の摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」別のところ永井は昭和天皇の終戦の「聖断」も神の摂理とみなす。私は永井の主張を全く受け容れることができないが、ここにも被爆後に昭和天皇を万歳とともに迎え入れた広島市民と共通するメンタリティーをうかがうことができるように感じる。しかし永井にみられた被爆=被曝をめぐる倒錯した論理は半世紀を経て別のかたちで甦る。福島の原子力災害の後、同じ長崎大学医学部に所属する山下俊一という御用学者が、この事故による放射能の影響は健康に全く害を与えないという根拠のない説を唱導し、笑うことによって放射能の被害が減ずるといった馬鹿げた主張を唱えて反原発派から刑事告訴されたことはよく知られている。広島の被爆者を患者としてではなく実験動物としてデータの採取を試みた放射能医学研究所に連なる研究機関の存在が知られているが、永井と山下はかかる系譜の端緒と末端に位置しており、この意味においてナガサキとフクシマはつながっているのだ。
 「沖縄のユーリー」と題された第三章では沖縄が主題とされる。ユーリーとは幽霊のことであり、川村は今日も語られる沖縄戦と関連した一種の都市伝説、幽霊譚の系譜をたどる。このような都市伝説がアメリカ軍の駐留に伴い、別のかたちで沖縄に取り憑いたことを指摘したうえで、川村は沖縄戦におけるいわゆる「集団自決」をめぐって、大江健三郎の「沖縄ノート」をめぐる裁判の検証へと向かう。沖縄戦で沖縄の村人たちに集団自決を迫った旧日本軍の将校たちが、集団自決後にアメリカ軍に投降して自らは生き延びたという軍隊の本質を見せつけた事件については、曽野綾子ら右派の論客が執拗に事実の否定を繰り返した。川村はあらためて沖縄戦の非人間性と右派のデマゴーグへの批判を提起する。ここまでの三章が広島、長崎、沖縄という第二次大戦における惨事の舞台と関わる論考であったのに対して、次の二章では「鬼畜米英」と「八紘一宇」という大戦中の二つのスローガンを取り上げて興味深い分析が加えられる。「鬼畜米英」をめぐってはまず当時のアニメや「日米架空戦記」といった主題に沿って検証が続けられる。植民地支配を繰り広げる白人を鬼に見立てたプロパガンダ映画は確かに「鬼畜米英」の典型を示しているが、実はこれらの映画や戦記の中に欧米に対する敵愾心を強調した要素は少ないという。川村はさらに久生十蘭の「紀ノ上一族」といった今日ほとんど知られることのない「反米小説」に論及しながら反米の系譜をたどる。川村によれば和歌山からサンフランシスコに渡った、日本人移民、「紀ノ上一族」の子孫が最終的にアメリカ社会によって皆殺しにされるまでを描いたこの作品は、単なるプロパガンダ小説を超えてアメリカという国家がもつ差別性、階級性を浮き彫りにした点で意味をもつが、大戦末期において本土空襲、沖縄戦、そして原爆投下を通して、まさに鬼畜としてのアメリカの所業が明らかになった。しかし鬼畜米英への反発は戦後文学においてもきわめて屈折したかたちで内面化される。その典型的な例を川村は「沖縄ノート」を表した大江の短編「人間の羊」に認める。バスの中で主人公の青年がアメリカ兵から屈辱的な暴行を受ける場面は川村も述べるとおり、敗戦国日本が受けた精神的去勢を象徴している。かかる内面は最初に私が触れた日本人の宿痾とも呼ぶべきメンタリティーと深く関わっている。これに対して「八紘一宇」論においては、もう一つのキーワード「八紘一宇」が意外な文学者、宮沢賢治と結びつけられ、宮沢のユートピア思想と満州開拓の共通性が論じられる。満州における植民地文学の研究を背景とした川村の議論は説得的で実に興味深い。例えば「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」で始まる「雨ニモマケズ」中の有名な章句における東西南北が八紘ならぬ四紘を暗示しているといった指摘がそれだ。川村は八紘一宇が一種のグローバリズムの思想であると看破する。しかし現在のグローバリズムと同様に、結局のところそれは空虚で差別的、一種の全体主義でしかなかったことも的確に批判されている。続く第六章「天皇と植民地の子供たち」においても興味深い論点が提起されている。それは皇太子の植民地巡啓という主題だ。知られているとおり、昭和天皇は朝鮮、満州はおろか沖縄にさえ足を運ぶことがなかった。(この意味において現天皇のパラオ訪問はきわめて重要な意味があると考えられるだろう)しかし皇太子や皇族が天皇の名代として植民地を訪れたことは何度かあった。川村は1907年、日韓併合以前、保護国としての朝鮮を当時皇太子であった大正天皇が、1923年、既に日本の植民地であった台湾をやはり皇太子であった昭和天皇が巡啓した事例を検証する。例えば大正天皇の訪韓にあたってソウルの南大門の一部が取り壊された一事からも明らかなとおり、これらは端的に宗主国と植民地をめぐる暴力の発露の一形態にすぎないのだが、川村は独特のテクストをとおしてこの事態を分析する。それは皇太子の巡啓を寿ぐ植民地の子どもたちの詩(童謡)である。詳しくは本書を読んでいただきたいが、二つの巡啓をめぐるテクストのぶれや振幅の中に植民地における表象の問題が生々しく露出するのだ。
 第七章以降は戦後に発表されたテクストから浮かび上がる「戦争の谺」が論じられる。簡単に触れるにとどめるが、「天皇とセブンティーン 天皇小説の周辺」においては大江健三郎の初期中編「セブンティーン」の続編、右翼の攻撃によって今もなお大江の小説中、唯一書籍化されていない「政治少年死す」をめぐる論考である。いうまでもこの背景には直前に実際に右翼の襲撃によって死者が出た深沢七郎の「風流夢譚」事件があった。川村は当時の大江が繰り返した性的なモティーフの変奏としての読解、あるいは終盤で暗示されるヒロシマの爆発と天皇制の関係まで興味深い議論を提起している。第九章の「ゴジラが来た」においては冷戦期における「戦争の谺」を主に映画、つまり「水爆大怪獣ゴジラ」に始まる一連の怪獣映画、核兵器を使用した第三次世界大戦を描いた一連の映画(本書では触れられていないが、キューブリックからシドニー・ルメットまで私はリストをいくらでも延長できる)、そして「ゴジラ」を制作した本多猪四郎の手による「マタンゴ」に典型的な、変身や巨大化を伴う一連の「放射能恐怖映画」の系譜をたどることによって分析している。詰め込みすぎの感がないでもないが、これらは熱核戦争と対極の位置にある冷戦の表象と関わっている。第十章の「戦後文学者のアジア体験」では大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した際に、自分より受賞にふさわしいと述べたと言われる井伏鱒二、大岡昇平、安部公房の三人が取り上げられる。シンガポール、フィリピン、満州という異なった場所で戦争に向かいあった彼らの小説に戦争はどのように「谺」しているか。比較的短い論考であるが、天変地異としての戦争、あるいは加害と被害の交錯する場としての戦争といったいくつかの興味深い論点が提起されている。第十一章の「事変下の“戦争文学”」においては、まだ「宣戦布告」がなされていない時代の「戦争文学」、つまり1931年の上海事変以後の中国を舞台にした小説が取り上げられている。むろん宣戦布告がなされていなかったにせよ、日本軍はそこで劫掠と殺人、強姦を繰り返していたのであり、火野葦平の兵隊三部作や田中英光の小説はかかる主題を扱い、さらに検閲という問題とも深く関わっている。川村の所論については直接本書を参照いただくことにして、私は基本的にクロノロジカルに編成されたこの論文集の巻末近くにあえて時代を遡行してこのテクストが置かれた意味を深読みしたい。つまり私たちも「宣戦布告」なき戦時下にいるのではないかという発想である。このレヴューを執筆中にパリで発生したテロを勘案するに、この章はあまりにもタイムリーとも感じられもするが、このテロがなかったとしても現政権のクーデタ的な憲法破壊によって今や私たちが戦時体制下に置かれていることは明らかであり、「事変下の文学」とは端的に今日の日本文学が置かれた状況を言い当てている。
 日中戦争から冷戦まで半世紀に満たない期間に発表されたテクストに幾重にも谺する戦争。本書を通読して、私は日本の戦後文学における大江健三郎の重要性をあらためて認識した。戦後文学をその最深部において貫通する本書において、大江の固有名は幾度となく繰り返される。広島、沖縄、天皇と関わる一連の小説やルポルタージュ、アメリカとの関係を主題とした「飼育」や「人間の羊」、本書は大江を手がかりとして戦後文学を再編成する試みといってもよい。反戦反核から、今や反原発、反戦争法案に関して活発な発言を繰り返す作家に励まされるのは私だけではないはずだ。
 繰り返されるのは大江の名前だけではない。たとえば本書の中で引かれる次のようなテクストを比較されたい。

 安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから

 陛下は、高瀬学長のご案内で、病床に寝ている私の近くまで、おそれおおくも御足をお運びになり、親しげにお言葉をたまわった。(中略)なんというありがたいお言葉だろう。いくら世の中が変わったからとて、これはあまりにももったいない次第であった。

 うれしいうれしい 吾々の/村に学校ができまして/男女の 区別なく/学の道に いたしむは/だれの御かげか これはみな/わが皇室の めぐみなり

 小誌一、二月号所載大江健三郎氏「セブンティーン」は山口二矢氏の事件にヒントを得て、現代の十代後半の人間の政治理念の左右の流れを虚構の形をとり創作化し、氏の抱く文学理念を展開したものである。が、しかし、右作品中、虚構であるとはいえ、その根拠になった山口氏および防共挺身隊、全アジア反共青年連盟並びに関係団体に御迷惑を与えたことは率直に認め深くお詫びする次第である。
 

 二番目の引用は永井隆が昭和天皇に拝謁した際の感激であり、そのほかのテクストについては説明不要であろう。これらを読んでなんとも居心地の悪い印象を受けないだろうか。例えば最初に引いた原爆慰霊碑の碑文。アメリカ軍が投下した原子爆弾の犠牲となった人々の鎮魂であり、本書中の表現を用いるならば原子爆弾とは「人が落とさにゃ、落ちてこん」にもかかわらず、この主語のない碑文においては「過ち」という言葉が用いられている。誰の「過ち」であるというのか。被爆という災厄をもたらした当事者である天皇に対して「もったいない」と感じることへの異和感については先にも触れた。あるいは植民地を収奪する宗主国の王としての「皇室」に「恵み」を感じる感性。かかる感謝が強制されたものかどうかはともかく、同様の感性は、右翼の脅迫に対して抵抗するどころか「御迷惑を与えたことを率直に認め深くお詫びする」『文学界』の編集長の姿勢にもうかがうことができる。これらに共通するのは、被害者が加害者に阿る、なんとも気持ちの悪い配慮、一種のマゾヒズムである。「『鬼畜米英』論」中、沼正三のマゾヒズム小説「家畜人ヤプー」への言及は暗示的である。本書を読むと戦争をめぐる多様な言説の中にアメリカあるいは天皇といった厄災の元凶を免罪し、それどころかそれらを救済とみなすまことに転倒した論理が繰り返し登場することが理解される。白井聡であれば「敗戦の否認」と呼ぶであろうかかるメンタリティーは文学の領域でも明瞭に追認できるのだ。
b0138838_2104933.jpg 「戦争の谺」において検証されるかかる倒錯から、私は一人の早世した作家の小説を連想した。このブログでも触れたことのある桐山襲のデヴュー作「パルチザン伝説」である。「週刊新潮」による悪意に満ちたミスリードによって右翼の攻撃を誘い込み、「風流夢譚」や「政治少年死す」同様、当初は単行本化が断念され、その後数奇な運命をたどったこの作品についてはいずれ詳しくレヴューする機会があるかもしれない。第二次大戦下、日本という国家に対してパルチザン闘争を行った架空の集団と、1974年に御用列車爆破を試みた現実の集団を対比的に描いたこの小説の中で私にとって印象的な一節がまさにこの問題と関わっているからだ。大戦末期、アメリカ軍の空襲によって東京が火の海と化し、多くの命が失われる中、主人公たちは空襲に呼応するかのように都内で爆弾闘争を繰り広げる。ある日、主人公の下宿を訪れた「隣組の男」は次のような感慨を述べる。

…戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ…
なるほど、この国のひとびとはかつてない空爆のなかでそういうふうに考えているのか―動悸の細波が残っている胸を押さえながら、私は頭のどこかが痺れるのを感じていた。まだ焼かれ足りないのか、まだ殺され足りないのか、いや、全部焼かれ、全部殺されても、そう思い続けているのか

今から思えば、1983年に発表されたこの小説において、今日、川村湊と白井聡が別々の文脈で論じる日本人のメンタリティーは既に明らかであったのだ。自らが空襲に遭いながら、天皇の安否を心配する人々、かかる倒錯は今日にも引き継がれていないか。原子力災害に端的に示されるとおり、この国では大きな犯罪の責任者は一切責任をとることがなく、処罰されることもない。日本の首相は国会ではなくアメリカの議会でアメリカのための戦争法案を成立させることを誓い、沖縄のアメリカ軍基地をめぐってはマゾヒスティックな受忍論が渦巻いている。おそらく今年は日本がアメリカの戦時体制に組み込まれた年として長く記憶されることとなろう。2015年、永続敗戦の果てに、戦争の谺が響き渡るのだ。
by gravity97 | 2015-11-19 21:16 | 思想・社会 | Comments(0)

アイザック・バシェヴィス・シンガー『不浄の血』

b0138838_20105556.jpg 風土と文学。私たちは一つの土地、民族、あるいは言語に属する集団―しばしば強引に国家の名を与えられる―が文学においても一つの共同体を形成するという幻想を抱く。書店の棚で見かける日本文学、アメリカ文学あるいはフランス文学といったカテゴリがそれだ。確かに19世紀以前であればかかるカテゴリはある程度の意味をもつかもしれない。私たちはドストエフスキーとトルストイをとおして「ロシア文学」を、バルザックとスタンダールを読んで「フランス文学」を漠然と知った。そして私たちがなじんできた「近代文学」は結局のところ西欧に由来していた。大学一年の時にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んで私が受けた圧倒的な衝撃は、西欧近代の外部にかくも広大な文学の沃野が広がっていることを知った驚きに由来する。当時次々と翻訳されたラテンアメリカ文学の傑作は私たちがなじんでいた「外国文学」がいかに限定されていたかを思い知らすに十分であった。密林と砂漠、インディオと修道院、独裁者と軍政。リョサ、ドノソ、フェンテス、このブログでも何度か論じたこれらの作家の傑作は全く異なった風土に根ざした文学の可能性を私に垣間見させてくれた。それではマルケス以後、ラテンアメリカ以外に私はこのような驚きを体験しただろうか。このブログで取り上げた作品に限定するならば、日本で紹介されることの少ない「国籍」をもつ作家としてパレスティナのガッサーン・カナファーニー、南アフリカのクッツェーについてレヴューした記憶がある。しかし前者はあまりにも政治的であり、後者にみられる実存的不安という主題は西欧の近代文学にも共有されていたため、作品を風土の反映としてとらえる発想にはいたらなかった。おそらく唯一の例外はサルマン・ラシュディの「真夜中の子供たち」であろう。インド亜大陸を舞台としたこのエキゾチックな傑作はインドという私にとって未知の風土を強く意識させるに十分であった。
 前置きが大変長くなった。アイザック・バシェヴィス・シンガーの「不浄の血」という短編集を読んで強く感じたのは、私にとってこのような未知の文学的風土がヨーロッパにまだ残っていたことへの驚きである。ほとんどの短編がポーランド、さらに言うならばポーランドの西部、ワルシャワに隣接するルブリン県という県を舞台にしており、巻末にはこの県の地図さえ掲載されている。地名を確認するならば、本書でシンガーが繰り広げる物語の大半はこの狭い地域における出来事であることが理解される。しかしそれはなんとも呪術的で怪奇、エロティックでグロテスクな世界であることか。比較的短い短編が多いが、まるで匂い立つかのように濃厚な物語のごった煮は西欧の近代と隔絶しているのだ。このような読書体験は実に久しぶりである。
 先ほど「国家」という擬制が土地、国民、言語によって構成されていると論じた。この観点からもシンガーの存在は稀有である。1904年(1902年という異説あり)にポーランドにユダヤ人聖職者の家系として生まれ、ワルシャワでデヴューした後、1935年に渡米し43年に帰化し、一貫してイディッシュ語で作品を発表したという経歴は様々のマイノリティーの系譜が交錯するかのようだ。少し説明を加えるならば、国家をもたずディアスポラを強いられたユダヤ人たちはユダヤ教の信仰と律法を自らのアイデンティティーとした。10世紀前後にライン川周辺に住んでいたユダヤ人たちは聖書ヘブライ語と周囲のゲルマン系言語を混交させてイディッシュ語という特殊な言語を用いるにいたった。しかし第二次大戦後、シオニズムの高まりとともに建国したイスラエルは現代ヘブライ語を国語として採用したため、イディッシュ語は東欧のユダヤ人社会の中に取り残されることになった。シンガーはノーベル賞受賞講演の中でイディッシュ語を「故郷喪失者の言語」であり、「異教徒からも同化解放ユダヤ人からもさげすまれてきた言語」であると述べている。シンガーの作品はこれまでにも邦訳がいくつか存在するらしいが、今回の翻訳はすべてイディッシュ語の原典からの翻訳であるとのことだ。翻訳作業も相当に大変ではなかったかと感じるがそれに見合った実に豊穣な物語の世界を味わうことができた。イディッシュ語で著された東欧に居住するユダヤ人たちの物語、ここからどのような内容が予想されるだろうか。まずユダヤ教とユダヤの風俗が濃厚に反映されていることが理解される。律法感謝祭(シムハト・トーラー)、口伝律法(ミシユナー)、導師(レッペ)、異教徒(ゴイ)、神殿崩壊日(テイシャ・ベアブ)任意に列挙したが、これらの頻出する特殊な言葉と発音(ルビで示される)からはユダヤ教と東欧を語源とする言語の結合、一種の異端性がおぼろげに浮かび上がる。今回の翻訳はこのような雰囲気をうまく伝えている。物語の内容は多彩だが、そこでは現世と異界が切れ目なくつながり、抜け目のない人間と悪魔がやりとりし、奇跡と奇譚が連続する。短編と長編、東欧と南米、全く異なった風土を舞台にしているとはいえ、私が本書を読んで「百年の孤独」を連想したことはあながち的外れではないだろう。なにしろ収められた物語のうちの二つにおいては、悪魔が語り手なのだ。マルケスの小説には魔術的レアリズムという形容がなされる場合が多いが、シンガーの短編はグロテスク・レアリズムの名がふさわしい。例えば導師の娘ヒンデレが悪魔と結構させられるという「黒い結婚」という短編から引用する。

 ところが、あろうことか、彼女、ヒンデレは妊娠していた。悪魔の子を身ごもったのだ。ヒンデレはまるで蜘蛛の巣を透かすように腹のなかの子を見ることができた。それは、蛙と猿のあいのこみたいで、仔牛の目と魚の鱗をもっていた。そしてヒンデレの肉をむしばみ、血をすすり、爪を突き立てては、尖った歯で咬みつくのだ。そしてその子はいきなり赤ちゃん言葉を話し出し、ヒンデレのことを「母ちゃん」と呼んで、下品なことばかりわめき散らすのだった。(中略)化け物がくり出すいやらしい話や悪ふざけは聞くに耐えないものだった。しかも化け物は、ヒンデレのからだのなかで小便から大便まで垂れ流すのだ。何としてでも堕ろしてしまわなければ!だけどどうやって?ヒンデレは拳で腹を殴ったり、跳びはねたり、高いところから飛び降りたり、からだをぐいぐいと折り曲げたりした。子どもを堕ろすにはこれが効くというのだ。ところが、なかなかうまくいかなかった。それどころか、化け物はこねたパンが膨らむようにどんどん大きくなり、邪悪な力を蓄えて、ヒンデレの腸を引きちぎろうとするのだった。

 シンガーの小説の雰囲気を伝える一節であるが、このような土俗的な作品をシンガーはポーランドではなくニューヨークで執筆した。このあたりの経緯は「ちびの靴屋」という短編の中に反映されている。フランポル(ルブリン県南部の町。地図の中に地名がある)で靴屋を営むアバは腕のいい実直な靴屋として知られていた。妻ペシェとの間に七人の息子をもうけ、息子たちも靴屋を手伝う。ところが、長男ギンプルはある日突然、アメリカへと向かい、彼の地で家庭を築く。彼を追うかのようにほかの息子たちも次々にアメリカに渡った。残された二人が暮らすフランポルはナチスドイツの侵略を受けて壊滅する。二人は子どもたちの誘いに応じてアメリカに渡り、アバは新天地で再び靴屋の仕事を始める。要約するならば以上のような物語がシンガーらしい幻想と現実が入り混じる魅力的な語りをとおして提示される。1930年代、ポーランドに住んでいたユダヤ人たちの残酷な運命については誰でも知っている。しかし少なくともこの短編集においては、このような背景が暗示される作品はこれのみであり、むしろシンガーは「黒い結婚」のごときグロテスクで寓話性に満ちた物語の中にポーランドのユダヤ人たちの生活を描いた。収録された短編のうち、最後の二つ「ハンカ」と「おいらくの恋」は作家を思わせる主人公が、ブエノスアイレスの講演旅行とマイアミでの引退生活の中で体験した奇譚を描き、新大陸を舞台とした現在の物語であるが、そのほかは舞台こそルブリン県として特定されているが、時代からも世情からも超越した一種の非時間的な寓話として語られている。かかる寓話性とシンガーが生きたであろう時代の苛酷さの関係には興味を覚えるが、検討するために十分な資料がない。長編も含めほかの作品の訳出が待たれる。
 ところで本書の装丁を見て、私は思わず唸ってしまった。いうまでもなくウィーン・アクショニズムの巨匠、ヘルマン・ニッチの絵画が用いられている。血の滴りを連想させる不吉なイメージはまことに本書の装丁にふさわしい。ニッチは生贄の動物を屠る秘教的なパフォーマンスで知られるが、実は本書の中にも屠殺と深く関わる作品がいくつか収められている。ユダヤ教の肉食文化においては屠殺、解体した動物の肉を「清浄な肉」として教徒たちに供するために、屠殺者は宗教的な権威と資格を有さねればならなかった。表題作である「不浄な血」はこの問題と関わり、老いた屠殺業者の後妻に入ったリシェという女が、自らが動物を解体するというタブーを犯す一方で、同じ屠殺場で若い屠殺人と情交を交わし、「血への情欲と肉欲」をともに満たすという地獄絵図のような物語である。彼女が実は狼人間(ブイルコワク)だったという落ちを含めてなんとも凄絶で、本書の白眉といってよい短編だ。訳者もあとがきで記すとおり、屠殺に関しては日本でも職業的な差別感が残っているが、確かに本書の中には差別的ともとらえかねられない言葉が頻出する。訳者もイディッシュ語の翻訳に際しては「口語性の強い土着的な言語であるイディッシュ語で書かれた文学には、現代日本言語感覚や文学観からすると『差別』的にひびく言葉が、それこそ『濫用』されている感がある」としたうえで、このような言葉の使用自体が「一方で差別感情を示し、留保をつけながら、他方では、そうしたあぶなかしいキャラクターをユダヤ社会の中に包摂していこうとするイディッシュ語に特有な言語活動の一部なのである」と述べている。中上健次や井上光晴を持ち出すまでもなく、差別あるいは禁忌といった主題は広く世界の文学に共有されているが、この点においてシンガーの作品はイディッシュ語という特殊な言語と密接に結びつきながら聖と俗、差別と被差別、神と悪魔といった問題に切り込んでいるといえよう。言語と主題、形式と内容の関係に私は大いに関心を抱く。そしてこの問題はさらに展開の余地がある。訳者の解題によれば、シンガーは最初、自分の作品の英語訳は他人任せだったらしいが、次第に自分も翻訳の作業に手を貸し、共訳者として英語版に名を連ねるようになったという。つまり彼は二重言語作家だったのであり、この点でベケットやナボコルとの比較も可能かもしれない。イディッシュ語版と英語版の異同など私としては是非知りたいと思うが、そのような比較は私自身の言語能力をはるかに超えている。ひとまずは本書がイディッシュ語原典より翻訳され、日本語でも読めるようになったという快挙を喜びたい。
by gravity97 | 2015-11-08 20:19 | 海外文学 | Comments(0)

「Re: play 1972/2015」

 このところ、このブログの展覧会というカテゴリでは東京国立近代美術館によって企画された展覧会のレヴューが続いている。お読みいただけばわかるとおり、私は必ずしもそれら全てを評価する立場ではないが、少なくとも大いに問題提起的な展覧会が続いていることは間違いない。今開催中の「Re: play 1972/2015」と題された展覧会もその例に漏れない。決してわかりやすい展示ではないが、展覧会という営みの本質と関わる実に刺激的な内容である。
 展覧会の内容はサブタイトルによって明確に示されている。「『映像表現’72』展、再演」というサブタイトルは、この展覧会が1972年に京都市美術館で開催された《映像表現”72》(展覧会のタイトルの表記についてもテクスト・クリティークの必要を感じるが今は措く)を2015年に東京国立近代美術館で「再演」する内容であることを暗示している。実は過去の展覧会を「再演」する試みは近年流行している。このブログで取り上げた展示だけでも1966年、キーナストン・マクシャイン企画の「プライマリー・ストラクチュアズ」と1969年、ハロルド・ゼーマン企画の「態度がかたちになる時」がそれぞれニューヨークとヴェネツィアで「再演」された例がある。これらと比しても、京都市美術館の「展示」の再現は困難をきわめる。なぜならそこに展示された作品はタイトルが示すとおり、ほとんどが映像であって実体をもたないからだ。実体をもたない作品の「再現」は可能か。コンセプチュアル・アートの核心と関わる問題が展覧会をとおして提起され、今回の展示はこの問題にまさに正面から挑んでいる。
 この展覧会については展示構成というリテラルなレヴェル、映像の再現というテクニカルなレヴェル、そして付随するテクストに関わるテクスチュアルなレヴェルから論評を加えることができよう。まず展示構成についていえば、最近この美術館においてしばしば試みられているように、今回も建築家、具体的には西澤徹夫が会場構成にあたっている。会場構成に専門の建築家を配する余裕など今や国立美術館以外にはありえないと嫌味の一つも言いたくなるが、今回の展示にとって建築家の協力は必要不可欠であったはずだ。会場はチャイニーズ・ボックス、入れ子状の構造をとり室内にもう一つの部屋が設置され、その周囲を取り囲むように細いコリドーが設えられている。内部の部屋にかつての京都での展覧会を「再現」し、周囲に作品についての情報や現時点における出品作家の回想を交えたインタビューなどを配置するという趣向だ。したがって周囲をめぐってから展覧会の「再現」に向かった方が展示を理解しやすいが、私の記憶では順路についての明確な指示はなく、それどころか監視員が先に内部の部屋へ誘導していた場面もみられた。もちろん展示をどのような順で見るかは観衆の自由に任されているとはいえ、入口に展覧会の構成についてもう少し詳しい説明なり指示があった方が親切ではないだろうか。きわめてマニアックな展覧会であるから関係者しか訪れないという想定があるのかもしれないが、以下でも論じるとおり、今回の展示は全般に説明不足という感が拭えない。展示構成についてさらに続けよう。72年の京都市美術館の展示を「再現」するにあたって、西澤は建築家らしい緻密な検証を続ける。会場図面は残されていないから、西澤は当時の写真と実際の京都市美術館の展示室の図面、そして作家たちの記憶に基づいて東京国立近代美術館の展示室の内部に同じ空間の再現を試みる。会場にはその手続きについても詳しい説明があり、確か技術的な制約もあって、実際には90パーセントの縮小として会場が再現されているとコメントされていたのではなかっただろうか。展覧会の内容については今回カード形式で再現された「展覧会カタログ」中、企画者の説明の中に明確に総括されている。少し長くなるがそのまま引用する。

 「第5回現代の造形〈映像表現72〉―もの・時間・空間―Equivalent Cinema」展は、1972年10月14日-19日、京都市美術館で開催された。エンドレスで上映するためにフィルムが蜘蛛の巣のように張り巡らされた薄暗がりの会場では16名の造形作家による作品の映写機やヴィデオデッキ、スライドプロジェクターの機械音が響き、そこかしこの壁やモニター映像が明滅していた。暗闇で終始着席したまま映像に没頭する映画館から美術館へと場所を移し、複数の作品が同時に上映される中を観客は動き回り、どの映像から見るのも、どれだけ見るのも自由。このような映像展は日本では初、世界的に見ても先駆的な試みであった。

 この要約は同じ企画者による、同じ時代のアメリカのヴィデオ・アートを対象としたもう一つの展覧会「ヴィデオを待ちながら」と比較する時、意味をもつ。「ヴィデオを待ちながら」についてもこのブログでレヴューしたが、出品されたヴィデオ作品はTVスクリーンを関して淡々と上映され、近年の映像展示でおなじみの大掛かりなヴィデオ・インスタレーションは一切用いられていなかった。ヴィデオという媒体がかかる制約の根拠であるが、同時に私たちは作品を順番に一定の時間見ながら会場を巡ることとなった。そこでは作品の意味は映像の中のみにあり、上映形式にはなかった。これに対して今回の展示は今引いた文章に明らかなとおり、複数の映像がエンドレスに上映されている会場を来場者は主体的にめぐり、映像のみならずそれを取り巻く環境を知覚する。今回の展示の場合、上映されていた映像をヴィデオ化して、順番に上映することは全く意味をもたない。私たちが映像を見る状況も作品の一部なのであるから。一種現象学的なこのような問題意識を念頭に置く時、企画者が特にこの展覧会を選んで「再現」したことに関する次のような説明は容易に理解できるだろう。

 「映像表現’72」をこの「再演」の対象に選んだ理由は「[…]スクリーン以外の空間が映画を見ることにより排除されることのない。時間と空間がいわゆる映画に収斂されることのない。つまり〈映画における時間と空間〉と〈観客における時間と空間〉が等価な〈映像と人間〉との関係としての〈場〉が設定できないだろうか」という「映像表現‘72」のもくろみが、「出来事としての展覧会」、「状況・布置としての美術」という在り方の、新たな可能性を指し示すものと思われたためである。

本展は先に同じ会場で開かれた「No Museum No Life?」同様に自己参照的な内容であるが、参照された展覧会そのものきわめて自己言及的であったことが示唆される一節である。等価の映画、equivalent cinema という謎めいたサブタイトルの意味も了解されよう。実際に今回の会場でも薄暗い室内を私たちは作品を特に順番を決めずにめぐり、時に映像の前に滞留し、時に映像の横を通り過ぎる。このような作品のリテラルな併置は「態度がかたちになる時」などにも共通し、当時の美学的気風を示しているが、映像を主体とする展覧会としてかかる展示が実現されたことはなんともラディカルであり、それが実行委員会形式で作家たちによって主導されたことに驚く。1970年の「人間と物質」の京都巡回以来、京都では多く作家たちが主体的に関与して京都アンデパンダン展や「京都ビエンナーレ」といった展覧会が陸続と開かれた。これらの展覧会の詳細については美術館との関係も含めて今後検証されるべきであろう。
 「映像表現‘72」の出品作家は16名。河口龍夫、植松奎二、庄司達、村岡三郎あるいは野村仁といった今日まで活動を続ける作家もいるが、数名の作家について私は初めて名前を知った。解説によると中心となってこの展覧会を企画したのは松本正司であるらしいが、私はこの作家についてはほとんど知るところがない。私が関西の現代美術に接することとなったのは1980年代に入ってからであるから、10年ほどの空白はなんとももどかしい思いだ。それにしてもあらためて驚くのはこれらの多様な作家たちが皆、映像という表現に積極的に取り組んでいる点である。確かに山本圭吾や今井祝雄らは早くから映像や写真表現を積極的に取り入れており、この分野におけるパイオニア的存在である。しかし今日私たちは長沢英俊や村岡三郎を立体の作家として、庄司達はファイバーワークの作家として理解している。この点は当時、映像表現がジャンルを超えて注目を浴びていたことを暗示する。このような関心は一体どこからもたらされたのであろうか。この点についても今後の研究が待たれる、写真作品として知られる須磨海岸の干満を記録した作品を河口龍夫が映像としても発表していたこと、柏原えつとむの人を食ったような作品、おそらくは「視覚のブラウン運動」へと展開される野村仁の比較的早い時期の作品、そして山中信夫のピンホールカメラ(私は二度中に入ったが映像を確認することができなかった。果たして機能していたのであろうか)。「再現」された作品は多くの発見を誘いつつ、私たちを一つの漠然とした疑問へと差し向ける。それは出品された作品がかつて京都市美術館で上映された作品と同一であるという保証はいかにして得られるかという問いであり、かくして私たちは先に述べた二番目のレヴェル、テクニカルな審級における作品の同一性という問題に直面する。この展覧会では厳密に全ての作品が「再現」された訳ではなく、いくつかの作品については作品が上映されていた場所に作品についてのメモのみが残されていた。映像もしくは上映形態についての記録が残されていなかったための処置であろうが、この意味において今回の展示は72年の展示の完全な再現ではない。もちろん私はこれを批判するつもりはないし、それどころかかかる困難を乗り越えて多くの作品が再現された点には敬意を表したい。映像とはテクノロジーと深く結びつき、媒体と密接に関わっている。例えばこの展示でしばしば使用された8mmフィルムは今日ほとんど目にする機会がなく、ネガが存在しないため複製も不可能だ。私は技術に詳しくないが、おそらく今回の展示ではオリジナルのフィルムを上映し、その映像をヴィデオなどの別の媒体によって記録し、あらためて会場で上映するというきわめて倒錯された手法がとられたはずである。8mmからヴィデオに媒体が変わることによって作品の本質に変化が生じるか否かは難しい問題だ。しかしながらこの展示が映像そのもの以上に提示の形式を主題化しており、例えば彦坂尚嘉の8mmフィルムを「蜘蛛の巣のように」張り巡らして一種の無限ループとして成立させた作品など、具体的な機材や建築を作品の中に取り込んでいることを勘案する時、機材の変更は展示の内容にも関与するように思われる。作品にとって関与的/非関与的な要素の区別はこの展示の根幹と関わっているはずだ。準備と展示、どの時点で撮影されたものか不明であるが、東京国立近代美術館のホームページには当時の会場の様子を記録した写真がアップされているので下に示す。
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 この写真と今回の展示の情景を比較することによってある程度、「展示の再現」の成否を判断することができよう。それぞれの作品の傍らにおそらく作者らしき人物が佇む当時の写真と比較するならば、今回の展示はいかにも展覧会然としていたが、それは会場の周囲に配置された情報によるところが大きいだろう。一過的な展示を再現する手法としては通常は写真や映像、資料を展示する方法がとられていた。これに対して今回のごとき再現方法は、それが展覧会についての展覧会であることを明確に示す。つまり再現された展示を取り巻く資料群が絵画に対する額縁、彫刻に対する台座として展覧会を聖別するのだ。しかし72年に京都市美術館を訪れたならば、人はこれらの展示と現実との区別をつけることが困難であろう。現実としての美術、このような感性が当時共有されていたことは、「アンチ・イリュージョン」あるいは「アート・オブ・ザ・リアル」といったメルクマールとなった展覧会名からも明らかである。これに対して今回の展示は現実と遮断された、周到に組織された展覧会であることを問わず語りに表明している。周囲の回廊、作品や作家についての説明なしに、いきなり当時の展示の部分のみを近代美術館の中に再現した場合はどのように印象が異なっただろうか。先に引用した同じ文章の中で企画者はこの展示を「43年前にわずか6日間だけ行われた『映像表現’72』を、京都から東京へと場を移して『再び舞台に乗せる』、すなわち『再演(replay)』するものだ」と述べているが、今回の展示においてはこれが一つの展覧会であるあることは既に所与の事実として示されている。展覧会をもう一度括弧内に括ることによって、おそらく72年の展示とは決定的に異なる一種の完結性がこの展覧会に賦与されたのではないだろうか。
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 最後にテクスチュアルな側面に目を向けよう。展示と映像の再現のレヴェルにおいては72年の展覧会が新たな構成と技術を介して、いわばアップデートされていたのに対してテクスチュアルなレヴェルでは72年の展示がほぼ踏襲されていた。つまり京都市美術館の展示の際に会場で配布されたカード式のパンフレットが再現され、袋詰めされてミュージアムショップで販売されていた。カード形式にした理由は明らかだ。会場に順路がないように、表裏に作家の略歴と展覧会のプランが印刷されたカードはばらばらで綴じられておらず、順番や階層をもたない。おそらく72年の展示に協賛したであろう書店や喫茶店の広告も同封され(その中には新京極ピカデリーで上映中の「成人映画」、「情欲エロフェッショナル」の広告も含まれる)、当時の気風を伝える。主催者あいさつと企画者の解説なども緑色の紙に印刷されて同封されているが同じ版型であるため、レヴェルの異なるテクストの介入はさほど目立たない。印刷のプロセスが当時とは一新された今日、当時の活版活字を再現することは不可能であり、この意味においてはこれらのテクストも形式においてアップデートされているといえるかもしれない。しかし私はもう少し詳しいテクスチュアルな介入があってもよかったのではないかと感じた。例えば展示の中で、この展覧会に対しては平野重光らの充実した批評が応接したことが指摘され、展示中に掲出されていた。企画者の解説のみならず、同時代になされたこれらの批評がパンフレットの中に再掲されていれば私たちの理解もさらに深まったのではないだろうか。今回の再現展示は情報量が多いにもかかわらず、72年の展示同様にあまりにもエフェメラルに感じられる。今述べた批評のほかにも今回会場で上映されていた関係者の証言、あるいは会場の設営や映像の再現に関する建築家や技術者の証言を書き起こして一連の資料集とすることができれば、72年の展示の輪郭がくっきりと浮かび上がったのではなかろうか。ただ私は、今、今回のカード式パンフレットをめくっていて、奥付の部分に Catalogue Vol.1という表記を見つけた。もしかしてそれらを収めたVol.2が作成される可能性があるのであろうか。これについても会場に特に説明はなかったように記憶する。
 今回、私は上映された作品についてはほとんど論じることがなかった。紙数の関係もあるが、今回の展示の意味が個々の作品ではなく、展覧会の再現というメタレヴェルに存すると考えるからだ。比較的短い時間で薄暗い会場をめぐったため、見落としや事実誤認があるかもしれない。その場合はコメントにて指摘いただきたい。作品について論じていないこともあり、かなりわかりにくいレヴューとなってしまったのではないかと危惧するが、かかるチャレンジングかつ概念的な展示にまともに応接する記事を今日の美術ジャーナリズムに期待することはできない。ひとまず所感を記し、記録として留める。
by gravity97 | 2015-11-03 11:15 | 展覧会 | Comments(0)