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 b0138838_20594614.jpg柴田元幸翻訳叢書の一冊として「ブリティッシュ&アイリッシュ マスターピース」というアンソロジーが刊行された。タイトルが示すとおり、いわゆるイギリス文学の名作短編12編を束ね、柴田の名訳で紹介するという趣向だ。1729年のジョナサン・スウィフトから1955年のディラン・トマスまで年代順に並べられたラインナップはなるほど世評の高い作品揃いだ。しかし私がこれまではっきりと読んだ記憶があるのはW.W.ジェイコブスの「猿の手」と、確か高校時代であったか、英語のリーダーで原文を読んだジョージ・オーウェルの「象を撃つ」くらいであるから、これらの短編に目を通すよい機会となった。
 すでにこのブログではボルヘスがコンパイルした名高い「バベルの図書館」の中の一冊、アメリカ篇についてレヴューしている。ボルヘスのアンソロジーはとにかく長大で読み終えるのに少々時間がかかったが、本書は一日あれば簡単に読み終えることができる。しかしボルヘスと柴田のセレクションがよく似ている点は興味深い。実はこのアンソロジーには対をなす「アメリカン・マスターピース 古典篇」という一書がある。こちらは未読であるが、そこに収められたホーソーンの「ウェイクフィールド」やメルヴィルの「書写人(ボルヘスでは代書人)バートルビー」は「バベルの図書館」にも収められており、採られた作品こそ異なるが、エドガー・アラン・ポーやジャック・ロンドンも両方のアンソロジーに収められている。アルゼンチンと日本、異なった国でそれぞれ一流の文学者が英語圏に関して比較的限られた作家、作品を選んでいる訳だ。さらにこれらの小説が内容的にも似通っている点も注目されてよいだろう。本書に収められたメアリー・シェリーの「死すべき不死の者」、チャールズ・ディケンズの「信号手」、そしてジェイコブスの「猿の手」、この三つの短編を一言で表現するならば「怪談」である。以前のレヴューで私は「バベルの図書館」に収められたアメリカの短編の特質を「奇譚」と定義した。「怪談」と「奇譚」、それらは英語で書かれた小説の本質とまでは言わずとも、一つの脈々たる系譜をかたちづくっているのではないか。本書を読んで私は今挙げたイギリスの三つの短編のうち二つの小説で扱われた主題が後代のアメリカ人作家によっても変奏され、別の長編に生かされていることに気づいた。すなわち「死すべき不死の者」に対するH.P.ラブクラフトの「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」における不死という主題、そして「猿の手」に対するスティーヴン・キングの「ペット・セマタリー」における死者の帰還という主題である。この系譜の起源は、いわゆるゴシック・ロマンスに求めることができるだろう。かかる主題系がなぜ英語圏において成立したかについてはおそらく先行研究も存在しているだろう。私は英米文学を専門とする訳でもないから、ここでは収録された短編についてひとまず感想を記しておくに留める。
 冒頭のスウィフトの短編は「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」という長いタイトルが付されている。貧民の子供を食用に供すべしというまことに人を食った文章であるが、柴田も指摘するとおり、全編にみなぎる皮肉と風刺の棘は強烈に私たちを刺す。同じ作家の「奴婢訓」を寺山修司が同名の舞台として上演したことはよく知られているが、いずれも黒い諧謔に満ちた怪作であり、そこには「塩なしでもわが国(いうまでもなくアイルランド)を丸ごと喜んで喰らいつくし」、「奴婢」に対して主人然としてふるまうイングランドへの憤怒に近い反感がうかがえる。シェリーの「死すべき不死の者」、ディケンズの「信号手」、ジェイコブスの「猿の手」そしてウォルター・デ・ラ・メアの「謎」は先にも述べたとおり、いずれも怪奇小説の傑作である。短い作品ばかりであるから、手に取って読んでいただくのがよいが、ディケンズといった巨匠、そしてシェリーのごとき女性作家がこのようなテーマのみごとな短編をものにしていることには少々驚く。もっとも「荒涼館」の作家にとってこの程度の怪談は余芸の域を出なかったことは大いにありうるし、ヴァージニア・ウルフやエミリー・ブロンテといった作家を想起するならば、女性作家とこのようなテーマとの親近性を理解することも容易である。これらの怪談の間にはオスカー・ワイルドの「幸せな王子」が配されている。この短編を太宰治における「走れメロス」と比較する柴田の解説は的を射ている。柴田によればいずれも「決してストレートに教訓的、道徳的ではない作家が書いた、教科書に載せても大丈夫そうな、友情や自己犠牲の物語」である。確かに私も、「幸せな王子」については小学生向けのジュヴナイル・ヴァージョンであったように記憶するが、ともに学校の教科書で読んだ記憶がある。続くジョゼフ・コンラッドの「秘密の共有者―沿岸の一エピソード」は短編とはいえ、本書中では最も長く、読み応えがある。コンラッドについては既にこのブログでも「闇の奥」についてレヴューしたことがあるが、この短編も具体的な情景を描写しているにもかかわらず、文章の抽象度が高く、一筋縄ではいかない。文体の特殊さが直ちに伝わる内容である。おそらく柴田も翻訳に苦労したのではないだろうか。この短編はジャンル分けするならば「海洋奇譚」に属するだろう。船員たちを十分に掌握しえていない船長と他の船から逃れてきた密航者の葛藤をめぐる物語は読み飽きない。ポーランド語を母語とするコンラッドをイギリス文学の直系とみなすかはともかく、コンラッドにはこのほかにも多くの海洋小説がある。興味深いことに海洋小説を執筆したのはコンラッドだけではない。今回のアンソロジーには含まれていないが、コナン・ドイルにも海洋を舞台とした一連の小説があり、かつて新潮文庫から刊行されていた分冊形式のドイルの短編集のうち一冊は「海洋奇談編」と銘打たれていたはずである。イギリス文学のサブジャンルとしての海洋小説というテーマも一つの研究の主題たりうるだろう。続くサキの「運命の猟犬」もまた奇譚と呼ぶべき小品であり、私は先に触れたホーソーンやメルヴィルの短編を連想した。ジェイムス・ジョイスからは二編、「アラビー」と「エヴリン」が採られている。いずれも市井に生きる人物の生の一断面を切り取った佳作であり、これらからの断片から構成されたのが連作長編「ダブリン市民」であるという。機会があればこの長編も読んでみたいという思いに駆られる。オーウェルの「象を撃つ」はタイトルの通り、逃げ出して暴れまわる象をミャンマーに駐留するイギリス人の巡査がライフルで撃つという物語だ。オーウェル自身、ミャンマーで官吏を務めた経験があるというが、この物語がどの程度実話に基づいているかはわからない。明らかにこれは一つの寓話であろうが、その寓意を解くことは容易ではない。そして最後に収められたディラン・トマスの「ウェールズの子供のクリスマス」は詩人として知られる作家の追想風の短編である。タイトルどおり子供時代のクリスマスの思い出が語られるが、降り続く雪やクリスマス・プレゼント、そしてクリスマスの御馳走の描写からは誰もがディケンズの「クリスマス・キャロル」を連想するだろう。余談となるが、一読した後、トマスの詩を最近どこかで読んだなという思いがあり、しばらく考えて思い出した。クリストファー・ノーランの「インターステラー」だ。地球に残された科学者が宇宙飛行士たちに呼びかける際にトマスの詩が引用されていた。
 いつになく雑駁に感想を書き連ねたが、このようなとりとめのなさはここに収録された作品を反映しているかもしれない。それでは翻ってこれらのイギリス文学に何らかの共通性を認めることができるだろうか。柴田自身はあとがきの中でアメリカ文学と比較しながら次のように述べている。「一般に―と、乱暴な一般論を展開すると―米文学は遠心的であり英文学は求心的である。キャッチコピー的に言うと米文学は荒野をめざし英文学は家庭の団欒へ向かう。」柴田の言わんとするところはなんとなくわかる。私が好きな作家で、これまでにこのブログで取り上げた作品から例示するならば、例えばコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」とカズオ・イシグロの「日の名残り」を対比すれば、かかる相違は明白である。インディアンの頭皮を剥ぎ取る荒くれ者たちの乱行と、自らの半生に思いを巡らせる執事の回想。両者の対比は英語で著された文学の本質と関わっているかもしれない。
 本書を読み通して、私もイギリスの小説に一つの特徴を見出すことができたように感じた。それは植民地の存在が明示的/暗示的に反映されていることだ。確かにこの主題が直接に示された作品はさほど多くない。ミャンマーを舞台にした「象を撃つ」とメナム川から「本国」への帰途途上の出来事を描いた「秘密の共有者」がそれだ。しかしイギリスを舞台にした物語にも「植民地」は濃厚に反映されている。例えば災いをもたらす「猿の手」はインドから招来されたことが語られ、「しあわせな王子」の頼みを実行するツバメはエジプトの仲間たちのもとに飛び立つことを夢見る。メルボルンにいる知り合いの司祭の写真が貼られた部屋に住むエヴリンはブエノスアイレスに向かって旅立とうとしている。もう少し連想を広げるならば、マルカム・ラウリーにおけるメキシコ、ロレンス・ダレルにおけるアレクサンドリア、あるいはJ.G.バラードにおける上海。宗主国と植民地に関わるこれらの作家、それらの場所との結びつきは決して牽強付会ではないだろう。植民地を有した列強はイギリスだけではない。しかし私はドイツとイタリアに植民地と関わる文学の例を知らないし、アメリカは植民地とは無関係だ。ラテンアメリカ文学という豊かな後背地を要するスペインについては議論の立て方を改める必要があり、フランスについてはアルベール・カミュとマグリット・デュラスを思い浮かべるが、いずれも第二次大戦後に発表された物語である。私はイギリス文学こそ植民地という他者を自らの糧として異例の系譜を形作ったのではないかと考えるのだ。このように考えるならば、先に述べたとおり、植民地との往還の過程を舞台とした海洋小説というジャンルがことにイギリスにおいて発達した理由も説明することができようし、このブログで取り上げたサルマン・ラシュディやハリ・クンズルといった作家の独特の位置も説明できるのではなかろうか。いうまでもなく植民地と文学とはきわめて大きな課題であり、このような短いレヴューで応接できるような問題ではない。しかしこのような視座を得るならば、日本文学にも新しいアプローチが可能ではないだろうか。一つは植民地を舞台にした作品である。これについては集英社版の全集「戦争×文学」において満州、樺太、南方をそれぞれ主題としたアンソロジーが編まれ、川村湊が精力的な研究を続けている。私は近くそれらの作品や研究を読んでみようと考えている。もう一つは在日朝鮮人によって日本語で書かれた小説である。李恢成から金石範、梁石日にいたるこれらの系譜についても私はあらためてこのブログで応接する必要を感じる。かくして練達のアンソロジストによってまとめられた英文学のアンソロジーは極東の島国であり、同様に植民地に圧政を強いた日本の近代文学にも光を当てるのだ。
by gravity97 | 2015-10-19 21:10 | 海外文学 | Comments(0)
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 敗戦70周年の今年の夏、戦争と関わる展覧会をいくつか訪ねた。いずれもよく練られ、このブログで応接するに十分な内容であったが、最終的に最も強く印象に残ったのはテーマ展ではなく、東京国立近代美術館の常設展示で見た藤田嗣治の全所蔵作品展示であった。例えば名古屋市美術館で開かれた「画家たちと戦争」も藤田を含め、日本画、洋画あわせて14名の作家の戦中戦後の作品を一堂に展示し、画家の処世、戦争と表現といった問題について深く思いをめぐらす貴重な機会となった。名古屋の展覧会では作品が対比的に示されて、戦争に向かい合う画家の生き方という重い主題が問われていていたのに対して、東京国立近代美術館において私をあらためて圧倒したのは作家の生き方ではなく作品であった。戦争の表象という点で藤田の絵画は他の画家を卓絶している。
 今回展示されたのは東京国立近代美術館が「所蔵」する25点に加えて京都国立近代美術館の1点、合わせて26点の藤田の作品だ。あえて京都国立近代美術館が所蔵する《タピスリーの裸婦》を加えた理由は、私の考えによれば藤田の典型的な作例、乳白色の裸婦の代表作を加えることによって「戦争記録画」の異様さを相対化するためではなかっただろうか。しかし全所蔵作品展示のクライマックスが点数にして14点、展示の半数を超える「戦争記録画」であることは明らかである。これらの絵画は今なおアメリカからの「無期限貸与」という枷のもとにあり、近年、常設展示の中で展示されることが多いとはいえ、なかなかその全貌を知る機会がなかった。これまでも部分的に見た記憶があるが、全てが展示される機会は今後もほとんどないだろう。目立たない常設展示の中に組み込まれているとはいえ、これゆえ必見の展示といえよう。
b0138838_1111619.jpg 今回は出品作品の図版を全て収録したパンフレットが制作されている。藤田の戦争記録画の全貌を知るうえでも貴重な資料であろう。まずは表紙に掲げられた二つの作品、収蔵庫内のスクリーンに配架された《五人の裸婦》と《アッツ島玉砕》の対比から始めてみよう。いずれも藤田の代表作といってよいが、印象は大きく異なる。ベッドもしくはソファを背景とした明るい室内に五人の裸婦が整然と配置された前者と、不分明な画面の中に無数の兵士が折り重なるように描きこまれた後者、描かれた裸婦たちが明確に識別できる前者と個々の兵士がもはや区別不可能なまでに画面に溶け込んだ後者。明暗が対比されたような二つの画面である。しかし両者にはいつかの共通点も認められる。一つは人数こそ大いに異なるが、ともに複数の人物を描き込んだ群像として成立していることである。さらにどちらの作品においても画面が奥行きを欠き、一種のレリーフ的な空間の中に人物が配置されていることである。b0138838_11113310.jpg《アッツ島玉砕》においては背景に雪を冠した山が描かれているが、前景に群がる兵士たちとの間に中景が存在しないため、書割のような印象を与え、それは《五人の裸婦》の背景と同様である。奥行きのないいわば平面的な画面は藤田の絵画の特徴の一つである。今回出品された14点の「戦争記録画」においても《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》において画面が一種のプラトー構造、情景を見下ろした構図としてあいまいな遠近法が成立していることを除いて、大画面に広大な情景が描かれる場合があったにせよ、いずれも奥行きに欠ける。描かれた人物は画面から私たちに向かって滑り落ちそうな印象を与える場合が多い。先ほど私は裸婦を描いた絵画と戦争記録画を明暗の対比として比較したが、実は両者をつなぐ作品が存在する。2006年に同じ美術館で開かれた回顧展のカタログを参照するならば、1928年に制作された《ライオンのいる構図》がそれだ。3×3メートルという大画面に描かれ、フランスに残されているこの作品においては20人を超える人物が画面に配され、独特の乳白色の画面の中に群像表現が成立している。カタログにはこの作品がミケランジェロのシスティナ礼拝堂壁画から影響を受けた可能性が示唆されているが、私の印象としても十分にありうるだろう。この時期の藤田の絵画には単独像から群像へという方向性が認められ、《ライオンのいる構図》は画業の一つの頂点を形作っているといってよかろう。藤田は1931年から33年にかけてブラジル、メキシコを巡った後に帰朝する。中南米に滞在した時期、藤田は乳白色に代わり褐色を基調として現地の人々を描いた一連の作品を発表し、画風の刷新を図る。しかし日本に帰国した頃、時局は戦時に至り、藤田はその描写力を評価されて戦争記録画へと動員されるのである。今回展示された14点の「戦争記録画」のうち《南昌飛行場の焼打》《武漢進撃》《哈爾哈河畔之戦闘》は昼間の情景を描き、興味深いことにいずれも地平線もしくは水平線によって画面が二分されている。最後の作品はいわゆるノモンハン事件を扱っており、同じ主題を扱いながらも日本軍の死屍累々といった情景を描いた作品も制作されていたという記録がある。しかし太平洋戦争開戦直後という戦局を反映しているのであろうか少なくともこれら三点にはさほど切迫した印象はない。最初の二つの作品に関して、藤田は実際の戦地を取材し、あるいは関係者への聞き取りのうえ、作品に取り組んだという。続く《12月8日の真珠湾》と《シンガポール最後の日》も描かれているのは昼間の情景であろうが、画面は暗く沈む。そして1943年から45年の間に制作された9点の絵画こそ藤田の戦争記録画の真骨頂といえるだろう。いずれも異様きわまりない絵画として成立している。今さら指摘する必要もなかろうがアッツ島、ガダルカナル、サイパンといった激戦地を描いた絵画の晦渋さはどうだ。私はこれらの絵画をこれまで幾度となくこの美術館の常設展示の中で見ている。しかし今回、作品に付された解説を読んで、初めてそこにヴァチカンにあるジュリオ・ロマーノの《ミルウィウス橋の戦い》との比較が可能な刺し違える二人の兵士の図像が存在し、《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》の中に台湾の高砂族によって編成された勇猛な部隊が敵の首を切断した情景が描かれていることを知った。私は会場で解説を読み、あらためて作品の前に立ち戻り、これらの情景の確認を試みたが、それらの図像を識別することは決して容易ではなかった。実際に図版によっては写真の明度が高く、比較的容易に図像を判別できる場合もあるが、実物にあたるならば実に混濁した印象があり容易に判別できない。一連の乳白色の裸婦が画面の澄明さで特徴づけられていたのに対して、これらの絵画の不透明さは対照的といってよい。おそらくそこには藤田の独特の技法が深く関与しているだろう。藤田の技法の秘密に関しては多くの研究があり、私はほとんど知るところがないが、少なくとも面相筆で描かれた細密な描写と画面全面を覆う独特のニスのような層は裸婦像と戦争記録画に共通している。前者の澄明な効果と後者の晦渋な効果は同じ技法の裏表であるように思われるのだ。初期の戦争記録画においては飛行機や戦車といった兵器が中心に置かれたのに対して、後期の戦争記録画は文字通りに兵士たちが肉塊として描かれ、もはやオールオーバーといってもよい異様な構図として実現されている。既に誰かが指摘している点かもしれないが、私がこれらの絵画から連想したのはドラクロアであり、具体的には《サルダナパールの死》、《キオス島の虐殺》といった作品である。それらはいずれも大画面に群像が描かれ、なんとも不透明な印象が共通している。印象派を経過した私たちは絵画が光を宿すことを知っている。しかし印象派以前の絵画は不透明な表面の連なりであった。輝く裸婦から闇の中の兵士たちへ、藤田の絵画は美術史を遡行するかのようであるが、例えばルーブルでロマン主義の名画に親しんだ藤田にとって、それは決して退行や逆行ではなく新たな絵画の実験、偉大な絵画への接近であったはずだ。出品作中に《ソロモン海域に於ける米兵の末路》という作品がある。サメが群れ泳ぐ海上を小舟で漂流するアメリカの兵士たちを描いたこの作品がジェリコーの《メデューズ号の筏》から着想されたことは明らかであろう。《メデューズ号の筏》に特徴的に認められる三角形の構図が藤田の戦争記録画にもしばしば用いられていることはかねてより指摘されてきたが、ロマン主義の作家にみられた劇的なテーマと構図は戦争という主題を描く藤田に格好の枠組を与えたように感じられる。それに際しては逆に光の効果を抑制し、画面を均質に充填することによって藤田は大戦末期の玉砕、集団自殺、肉弾戦といった主題をおそるべき緊張感と閉塞感の中に表現したのである。初期の戦争記録画と異なり、これらの作品は現地や生存者へ取材することなく、藤田が自身で構想したものである。それにしても同じ時代に描かれ、これに類した絵画がほかに存在するであろうか。そもそも戦争記録画といった種類の絵画が欧米に存在するか私は寡聞にして知らない。アメリカに接収されたそれらの絵画は現在無期限貸与として東京国立近代美術館に収蔵され、そのほかにも日本画から彫刻にいたるまで、戦時下で制作された作品の全貌はすでにいくつかの画集の中で明らかとなっているとはいえ、玉砕や集団自殺を扱った一連の藤田の絵画は完成度において突出している。もちろん戦争記録画というジャンルが存在せずとも、戦争と革命、虐殺と略奪が古来よりヨーロッパの大画家たちの絵画の主題であったことはよく知られており、パリで生活した藤田がそれらに親しんでいたことは明白である。太平洋戦争は藤田に対して平時ではありえない主題と取り組むチャンスを提供した。おそらく藤田にとって描かれる個々の主題についての関心はさほどなかったのではなかろうか。画家は兵士たちを勇猛に描こうとか、厭戦的な気風を醸成しようとかいった意識をもっていない。藤田は自らがミケランジェロからドラクロアにいたる系譜に連なることをめざして、乳白色の裸婦たちを通して培ったすべての技術を戦争記録画に投じた。言い換えるならば藤田にとっては絵画の内容ではなく形式こそが重要であり、主題ではなく技法こそが問われたのである。この意味において、藤田自身、自分が戦争責任を問われると夢想だにしなかったことは十分にありうるだろう。しかし戦争記録画とはあまりにもデーモニッシュな主題であった。b0138838_1112021.jpg私はこの展示を見ながら、これらの戦争記録画の数年前に制作され、同じ東京国立近代美術館に収蔵されている一枚の絵画を反射的に連想していた。それは靉光の《眼のある風景》である。同じ戦時下、1938年に制作されたこの作品もまた何が描かれているのか判然としない晦渋な絵画であり、画面の中心に見開かれた目が強烈な印象を残す。細密に描かれた暗い画面、近接的な構図、アンフォルムとでも呼ぶべき形状、実は《眼のある風景》とこれらの絵画には多くの共通点がある。7年前の回顧展カタログではこの作品に描かれた目が「現実の奥底を、あるいは暗澹たる時代の果てを見通す意志のシンボル」と評されていた。戦争という狂気を見通すために画家は時代を超越した透徹した目を持つべきであった。しかし藤田はあまりに時代に密着しすぎたのではないか。私は藤田の戦争責任云々について論じようという訳ではない。パリでヨーロッパの名画の数々に出会い、それらに連なるべく独自の技法を開発し、一連の裸婦像へと昇華させた形式主義者としての藤田の才能と、太平洋戦争という時代の狂気が不幸な出会いをした結果、圧倒的な完成度を示しながらも顧みられることのない一群の呪われた絵画が誕生したのではないかと考えるのだ。
 戦後、藤田はフランスに帰化し、祖国の土を踏むことはなかった。戦後の作品をどうとらえるかは難しい問題であるが、私は時にグロテスクとさえ感じられるマニエリスム的熟練をめざしたそれらの作品に一種の退廃を感じる。少なくともそこには戦前の裸婦像のようなおおらかさや澄明感はない。今回の展示にもラ・フォンテーヌ寓話に触発されたと思しき数点の作品が加えられていたが、技巧の限りを尽くしたような細密描写を見て痛々しさを覚えないだろうか。マニエリスムとは戦争記録画というデーモンに見つめられた画家にとって唯一の逃避場所ではなかったのか。東京国立近代美術館に収蔵された藤田の作品を通覧し、私は今さらながら絵画という営みの業の深さに思いを致した。
by gravity97 | 2015-10-12 11:18 | 展覧会 | Comments(0)
このブログで応接した作家のうち、村上春樹、コーマック・マッカーシーそしてドン・デリーロ以外の作家がノーベル文学賞を受賞するとは予想できなかった。しかしかかる作品の作者が受賞したことはおおいに意味があるだろう。原子力災害から4か月後、2011年7月4日にアップした記事を再掲する。

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 震災以来、このブログもシビアな記事が多い。今回取り上げるドキュメントの内容も今日の我々にとって決して楽しい話題ではない。私も必要を感じなければ、ここで取り上げる一連の記録を読むことはなかっただろう。しかしこれまで原発事故をめぐる一連の状況をフォローしてきた私にとって、これらの本を読むこと、あるいは政府や電力会社が開示しない情報を収集することは今の自分たちにとって死活的に重要であると感じる。
例えば数日前の読売新聞に「生活習慣と被曝 発がんリスクは」という意味不明の記事が掲載されている。「喫煙・大量飲酒、1000ミリシーベルトに匹敵?」という見出しの意図はあまりにも露骨だ。ここでは原発事故によって発生した「異常な」放射線の線量が喫煙や飲酒といった日常的な行為によって相殺されている。この記事の信憑性はひとまず措くにせよ、放射性物質の危険性を喫煙と飲酒のそれと併置して、あたかも日常の、それも相対的に小さな危険であるかのように扱う内容にはあいた口がふさがらない。喫煙や飲酒にリスクが伴うことは誰でも知っているが、私たちはそれを承知したうえ、自分の責任でそれらを楽しむ。これに対して原発事故に伴う放射線は電力会社の犯罪的な不作為がもたらした結果であって、私たちになんら責任はない。二つのリスクは本来全く無関係である。そもそも放射線のリスクが一番高いのは子供たちであって、喫煙や飲酒を日常としている私たちではない。大新聞の記者が「国立がん研究センター予防研究部長」といった肩書きの御用学者と一体になって繰り広げるかかるキャンペーンはこの数日来続く脅迫的な節電キャンペーンとともに、放射能の危険性を隠蔽し、原子力発電の延命を図っている。

『チェルノブイリの祈り』は1998年に単行本として刊行され、今回の原発事故を契機に先月、岩波現代文庫に収録された。無数の関係者からの聞き取りによって1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所の大事故の輪郭を浮かび上がらせている。聞き取りの相手や内容、登場する順序は一見無作為に感じられるが、実はよく練られている。すなわちプロローグとエピローグの位置に「孤独な人間の声」と題された二つの章が配され、その間の主たる三つの章の間には「兵士たちの合唱」「人々の合唱」「子どもたちの合唱」という三つの断章が挿入されている。主たる三つの章に関して、証言者は名前と役職や身分が明記されているが、「合唱」と題された三つの断章に収められた短い証言は証言者の名前をもたない。
とりわけ深い感銘を与えるのは巻頭と巻末に置かれた「孤独な人間の声」という二つの証言である。リュドミーラとワレンチナという二人の女性はいずれも原子力発電所事故の収拾に従事した二人の作業員の妻である。前者は原子力発電所で事故直後に消火作業にあたった消防士、後者は事故によって住民が強制移住させられた村の電気を止める処置を続けた高所作業組立工である。消防士は作業中の大量被曝による急性の放射線障害によって、組立工は被曝による全身のがんによって共にこのうえなくむごい死を迎える。正視に耐えないという言葉があるが、まさに読むに耐えない二人の悲惨な死は最愛の妻の口をとおして語られることによってかろうじて救いをみる。解説の中で広河隆一も記すとおり、放射能はもっとも悲惨な形で人間を死に向かわせる。二人の病状はほとんど人間のかたちをとどめないほどの凄惨さであり、私もここで繰り返すことはしない。しかしそれにも関わらず、死にいたるまで二人の妻は彼らに深い愛情を注ぐ。この凄絶なノン・フィクションが一種の文学性を帯びて成立する理由は、肉親の証言というある意味で客観性を欠いた形式に多くを負っている。さらに付言するならば二つの死のうち、とりわけ消防士ワシーリー・イグナチェンコの死は日本人にとって無縁ではない。チェルノブイリの災厄から13年後、茨城県東海村で起きたJCO臨界事故で、彼と同様に大量の放射線を浴びた大内久さんは懸命の治療もむなしく、やはり長く、筆舌に尽くし難い苦しみの中で死んでいった。リュドミーラの証言は30頁足らずの短い内容であるが、大内さんの闘病に関しては下に示した『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』という詳細なドキュメントが公刊されている。この記録はもともとNHKスペシャルとして放映された番組に基づいており、高線量被曝という未知の恐怖に立ち向かう大内さんの人間としての尊厳、そして家族と医療スタッフの献身には胸をうたれる。私はこのブログで何度かNHKのディレクターによる安易なノン・フィクションを批判したが、このドキュメントは別だ。なぜならかくもいたましくも貴重な記録を文字に残すことはディレクターと遺族、医療者との間に深い信頼関係がなければありえないからだ。今回の原発事故に関してもNHKは早い時期に放射能で汚染された地域を独自に調査し、住民に警告を発するETV特集を放映し、公式発表を垂れ流す御用メディアとの対照を示したが、このような仕事は放射能問題に対する関心と現場主義が日頃より局内で共有されて初めて可能となったのではなかろうか。二人の女性の証言、そしてJCO事故の記録が明らかにするのは、被曝によってもたらされる死がいかに無残で、非人間的なものであるかということだ。この事実を知れば、飲酒と被曝を同一次元で扱う発想はありえない。もちろん先に触れた記事のテーマは急性障害ではなく、数年のレヴェルで発症する晩発性のがんである。しかしそこには原子力発電所に由来する放射性物質によってもたらされる障害がいかに異常なものであるかという認識が完全に欠落している。そして現在、福島で復旧作業にあたっている作業員たちが置かれる環境がチェルノブイリの作業員たちと異なるという証拠を政府も東京電力も今日にいたるまで開示していない。
それにしても恐るべきことに、25年前にチェルノブイリで発生した状況は今日の福島で正確に反復されている。事故直後、着のみ着のままで強制的に避難させられた人々はその後も自宅に戻ることができず、遺棄された地域に残された家畜やペットは次々に殺処分される。避難を試みる者は裏切り者として指弾され、被曝した人々は差別される。当局は一切事実を発表せず、故障したロボットの代わりに生身の作業員が復旧に投入される。したがって私たちは事故の数ヵ月後にチェルノブイリの近隣から運び込まれた牛肉や牛乳を検査した担当者がそれらはもはや食品ではなく放射性廃棄物であったと述懐し、さらにそれらが市場に流通していたと語るエピソードに自らを重ね合わせて慄然とせざるをえない。チェルノブイリにおいては国家がその威信を賭け、軍隊の力によって事故の収束作業、住民の避難や疎開、表土の除染にあたった。むろんそれは私権を制限することに躊躇ない強権的な国家において初めて可能であった対策であろうし、二つの原子力発電所の事故は性格が大きく異なる。しかし当時のロシアと現在の日本のいずれにおいて事故がより適切に処理されているのか、現時点で私は判断することができない。著者スペトラーナ・アレクシエービッチは「見落とされた歴史について」という章において、自らの言葉として次のように述べている。「最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブイリは、私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです」いうまでもなくチェルノブイリをフクシマに置き換えることによって私たちが現在置かれた立場を再確認することができる。
書庫に下りて、タイトルにチェルノブイリの名が冠された関連書のいくつかをあらためて読み返す。歴史は繰り返す。現在、私たちが直面する事態はなんら意外なものではなく、既にこれらの中で報告、もしくは予想されている。これらの書はチェルノブイリ原発事故の直後に刊行されているが、先に述べたとおり、この後も日本ではJCO臨界事故によって放射線被曝の恐ろしさが広く知られ、さらに多くの原発トラブルによって電力会社の欺瞞的な体質も誰の目にも明らかとなったはずだ。私たちはそこから何も学ばなかったのだ。大量の放射線が人体から細胞の再生能力を奪うように、原発事故は共同体に回復不可能なダメージを与えるのではないか。たった一基の原子炉が壊滅的な事故を起こしたわずか三年後、その原子炉が所在していた国家は内部から瓦解した。果たしてフクシマの後も日本という国は存続しうるか。私は確言することができない。
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by gravity97 | 2015-10-09 21:03 | 思想・社会 | Comments(0)
b0138838_20574077.jpg 横尾忠則のエッセー集が刊行された。『ユリイカ』に2011年から14年まで「夢遊する読書」というタイトルで連載された原稿を中心に加筆・修正した内容で、タイトルを『言葉を離れる』という。私は最近この雑誌をあまり読まなかったこともあり、この連載の存在自体を知らなった。マグリットの作品を配した表紙は横尾のデザインらしい鮮烈な印象であるが、実はこのイメージとタイトルも本書の内容と深く関わっている。基本的に横尾の履歴を追って語られるそれぞれの章はそれゆえ自伝的な要素も秘めているのであるが、それらを統一するテーマは読書、もしくは言葉であろう。今も横尾は朝日新聞の書評を担当しているし、なにより多くの本のデザインや装丁を担当してきたから、横尾と書物や言葉は大いに親和している印象があった。ところが意外なことに横尾は生まれてから成人するまでほとんど読書に無関心で、育った家には本が一冊もなく、自分の好きな絵と読書は水と油のような関係にあると感じていたというのだ。《従順な読者》と題され、ぎょっとした様子の人物は書物を前にした横尾の当惑を暗示しているかもしれない。この問題は横尾の「画業」を考えるにあたって興味深い、知られているとおり横尾はグラフィックデザイナーとして頭角を現したが、グラフィックデザインは常に文字を伴い、しかもそれらの文字はクライアントから与えられ、変更することができない。例えば上に掲げた本書の書影はマグリットの絵画と書名のコラージュによって実現されており、それ自体、横尾のデザインの本質を体現するかのようであるが、書物のタイトルはデザインの中に収められるべき与件としてあらかじめ定められている。横尾の仕事を考えるにあたって本書中、次のような言葉はまことに示唆的だ。

 絵を描くということはむしろ言葉を排除する作業だと思います。絵の中に少しでも言葉が残っているとその絵は消化不良の作品だと思います。絵の中から言葉を徹底的に排除することで絵が絵になるのではないでしょうか。

 いきなり本書の核心に触れてしまった。もう少しゆっくり本書を読み進めることにしよう。横尾のエッセーを読む時、いつも驚くのはその華麗な人脈である。ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、モーリス・ベジャールやロバート・ラウシェンバーグ、本書にも綺羅星のごときビッグネームたちとの華々しい交遊の一端が記されている。フェイスブックを連想するまでもなく、多くの場合、人と知り合うためには間に誰かを介す。本書においてはかかる関係のいくつかが明らかとされていて興味深い。例えば横尾に圧倒的な影響を与えた三島由紀夫に関しては、日本デザインセンターに勤務時に仲のよかった一歳年下のコピーライター、高橋睦郎、いうまでもなく今や名高い詩人を介して知り合ったという。京橋で個展を開いていた会場に高橋が三島を連れてきたことから両者の交流が始まる。神秘思想への傾倒、霊性への関心といった点で両者は多くの共通点をもつ。三島との出会いは1965年のことであるが、この前後の横尾の交遊の広がりはめざましい。その前年、ハイレッド・センターが帝国ホテルで開いた「シェルター・プラン」に横尾も参加しており、美術家との交流も始まっていたと考えられるが、当時から横尾は現代美術とは一線を画していたように感じられる。むしろ状況劇場、天井桟敷といったアングラ演劇に関わる仕事で注目を浴び、67年に始まる何度かの渡米に際してジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグ、先にも触れたジョン・レノンらの知遇を得る。ただしこの時期、横尾は怪我や事故にも繰り返し遭遇していることを私は本書を読んで知った。横尾は幸運と不運の連続を「地獄と天国を回遊するジェットコースターに乗っているようであった」と回想する。これらの出来事の不思議な連なりを横尾が一種のカルマとしてとらえ、独自の神秘主義に目覚めたことは十分に理解できる。70年代の横尾は主としてポスターと版画、本の装丁を仕事の中心に据えており、現在の横尾の多彩な活躍を知る私たちからすれば、仕事の幅が限られていたことにむしろ驚く。一方で横尾が常に一種のコンプレックスを抱いて作品に向かった点にも留意する必要があるだろう。青年時代に本を読んだ覚えがないという述懐は韜晦ではなく自らの置かれた環境の告白であり、横尾は自らをアーティストではなくデザイナーと規定したうえで自分が版画にのめり込むことができない理由を「デザインはすでにそれ自体が商業的目的を達成しているので、わざわざ版画にする意味も必然性もないのです」と説いている。ここにもデザイナーとしてのファイン・アートへのコンプレックスが透けて見えないだろうか。
 言葉との関わりという点において時代をやや遡ろう。年譜で確認するならばおそらく1970年、横尾は初めて小説の執筆依頼を受ける。横尾によればそれは次のような経緯であったという。

 生まれてこのかた両手で数えられるほどしか小説を読んだことのないぼくにある日、井上光晴という人から電話がかかってきました。「私、井上光晴という文学をやっている者です。あなたひとつ小説を書いてみませんか」(中略)井上光晴という名は聞いたことがあるけれどどんな小説を書く作家なのか知りません。それにしても唐突且つ乱暴な依頼の仕方です。なんでも今度、小田実、鶴見俊輔、いいだももらと共同編集で『辺境』という文芸誌を出すから、その二号に小説を書けとおっしゃるのです。まともに文章を書いたこともない素人の僕に左翼思想のお歴々が何を血迷って小説を書かせようとしているのでしょう。ぼくはこの井上光晴と名乗る人物はニセ者ではないかと思ったほどです。ぼくが必死に断れば断るほど相手は食いついて離れないヒルのような執拗さで食いついてくるのです。

 井上光晴という固有名詞の導入、そして「左翼思想のお歴々」といった言葉に思わず私は吹き出してしまった。井上を主人公にした原一男の「全身小説家」を見たことがある者であれば作家の「ヒルのような執拗さ」は理解できようし、一方でこのように呆れながらもこれまで3枚以上の文章を書いたことのない横尾が苦労して100枚ほどの原稿を書き上げたというエピソード、そしてそれがそのまま雑誌に掲載され、秋山駿によって文芸時評で取り上げられるという顚末も笑いを誘う。実はこの依頼には伏線があり、井上は瀬戸内寂聴の強い推挽を受けて未知のデザイナーに原稿を依頼したことを、瀬戸内が最近発行された中公文庫版の横尾の短編集のあとがきで明かしている。しかし横尾と井上は実は共通点があるのではないだろうか。b0138838_20583856.jpgまず二人の仕事が実際に結びついた場をお目にかけよう。1973年、講談社文庫の一冊として発行された井上の『他国の死』の書影を示す。装丁はいうまでもなく横尾忠則。横尾のデザインはショッキングな場合が多いが、これも相当に過激な装丁であり、70年代に横尾が装丁した書物の中で私がまず思い浮かべるのは本書である。朝鮮戦争に関わった関係者に対する執拗な尋問として構成された、重く長大な小説の表紙を飾るのは直接には内容と無関係な全裸の女性たちが行進する姿だ。後ろ姿ではあるものの当時、書店で手に取ることに勇気が必要であったことを記憶する。不死鳥であろうか、横尾らしい不思議な鳥の姿も見える。ところで井上は自分の半生を一種の虚構として語っていた。井上には『岸壁派の青春 虚構伝』という自伝があるが、そこに描かれた事実の多くが実は虚偽であったということがその後明らかとなっている。もちろん小説家が自伝を書いたからといって真実のみを記す責任など全くないことはいうまでもないし、本書で語られる横尾の経歴の一部に虚構が認められる点をことさら指摘しようというのでもない。私が注意を促したいのは芸術家の回想にはしばしば創造的な脚色、改変が認められることである。この点は今日活況を呈すオーラルヒストリーについては常に意識されるべき問題であろう。おそらくは意図的に具体的な年記に乏しい本書において、例えば最初の小説から数カ月後にやはり井上から次の小説の執筆を求められたという記述がある。しかし手元にある横尾の年譜を参照するならば、横尾が二番目の作品を執筆するのは1978年9月であるから、10年近い年月が経過していたはずである。(カタログ等に収められた横尾の年譜にはカタログによってしばしば異同が認められる)しばらく前に私は中公文庫で『ぶるうらんど』としてまとめられた横尾の小説集を読んだ。b0138838_2103642.jpgこれは2008年と2010年に刊行された二つの小説集の合本であり、収録された作品は2007年と2009年の間にいずれも『文学界』に掲載されている。ここに収められた小説がほぼ30年ぶりに執筆されたことの確証を現時点で私は得ていないし、横尾は小説以外にも多くのエッセーも発表しているが、この作家ににおいて絵画やデザインの仕事とテクスチュアルな仕事が補完的な関係にあると考えるならば、両者をクロノロジカルに検証することは意味があるだろう。ちなみに『ぶるうらんど』に収められた7篇の小説は確かに文学的に洗練されているとは言い難いが、少なくとも「まともに文章を書いたことのない素人」のそれではなく、なんともいえない味わいがある。タイトルの「ぶるうらんど」、青い世界とは端的に死の世界の暗喩であり、ダリとの邂逅など横尾の実体験を交えながら独特の死生観が語られている。表紙に引用されているのがベックリンの《死の島》であることについては今さら触れる必要もなかろう。
 1980年代に入って横尾は新しい挑戦を始める。一つは1980年、ニューヨーク近代美術館で見たピカソ展を運命的な啓示としてのグラフィックデザイナーから画家への転向、いわゆる「画家宣言」である。この経緯というか、この転向への驚き、そして激しい反発は私も鮮烈に記憶している。ニュー・ペインティングの勃興と同期したこともあり、藤枝晃雄は横尾を「画家がまず行くべきは予備校のデッサン室である」と罵倒した。当時、私は西宮の大谷記念美術館における横尾の回顧展でほぼリアルタイムにこれらの絵画に接したが、下手というより訳がわからない思いであった。本書において横尾はこの時期を人生で最も苦しい時期であったと回想している。最初の個展で発表された作品は全国の美術館に収蔵されて一定の評価を得たようにみえるが、本人も「このことは嬉しかったのですが、ぼく自身の作品はあまりにも未熟で、その上メッセージ性に欠けていました。失礼な言い方をすると購入した美術館の学芸員やコレクターに見る眼がないと本気で思っていました」というなんとも率直な感想を残している。私も似た印象をもつ。しかしそれ以来30年以上にわたって横尾は絵画の制作を続けて今日にいたっている。最初はしばしば文字が描きこまれ、デザインの仕事の残響をうかがわせていたが、最近はY字路シリーズなど、独特のテーマを得て新しい境地に達していることは知られているとおりだ。最初に引いたとおり、横尾は絵を描くことが言葉を排除する作業であると述べているから、横尾の絵画の展開を言葉という問題との関係で論じること、あるいは写真や映画といった他のジャンルとの関連において分析することも興味深いが、稿を改めるべきであろう。
 もう一つの挑戦は舞台美術である。本書を読んで私は横尾がモーリス・ベジャールの主宰するバレエ団のミラノのスカラ座における「ディオニソス」公演のための舞台美術を手掛けたことを初めて知った。それまでにも国内では天井桟敷の公演の舞台美術の経験があるにせよ、いきなり世界の檜舞台に立つこととなった訳である。妻とともにチューリッヒ、パリ、ミラノとヨーロッパの各都市を転々としながら、ベジャールやダンサーのジョルジュ・ドン、さらに衣装のジャンニ・ヴェルサーチら世界一流の芸術家たちとコラボレーションを繰り広げ、自らの構想を実現していく過程は興味深い。乏しい経験ではあるが、私もいくつかの展覧会を海外で企画したことがあるから、芸術を受容する階層、一つの作品を作り上げていくシステム、芸術をめぐるビジネスのスタイルなどが日本と欧米で全く異なることを思い知った。ディアギレフ、コクトー、サティに対するピカソとまで持ち上げるつもりはないが、横尾にとっても自分の作品を海外の美術館で紹介するといった単純な経験ではなく、音楽、美術、衣装からダンスまで様々なジャンルが混交し、作家のエゴが入り乱れる一種の総合芸術、バレエの中で作品を鍛えたことは創造の幅を決定的に広げる契機となったのではないだろうか。
 多様なジャンルにわたって数多くの作品を残し、世界のセレブリティたちとの華やかな交流を重ねる横尾を私たちは一種の天才とみなしがちであるが、本書を読むならば、横尾はむしろ幸運によって与えられた機会の中でこつこつと仕事を重ねて成功を収めた印象が強い。むろん横尾のことであるから、本書にはいたるところに運命的な出会い、神秘的なセレンディピティが投影されている。しかし横尾が天才であるとするならば、そのような機会を呼び込む才能、そして誘いがあれば臆することなく新しい場所に飛び込む勇気に求められるのではないだろうか。あとがきの中で横尾は近年、記憶障害がひどく、このためこの連載自体が二年ほど中断したと明かしている。「言葉を離れる」とはかかるパトロジカルな意味も負っている訳である。今年79歳を迎える一つの傑出した才能の半生の記録として、本書はなんとも味のあるエッセーといえよう。
by gravity97 | 2015-10-05 21:09 | エッセイ | Comments(0)

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