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 村上春樹の新著が刊行された。「職業としての小説家」というタイトルが示すとおり、小説家としての自分をテーマにしたエッセーをまとめたもので、柴田元幸が主宰する文芸誌『Monkey』に連載された6篇と書き下ろしの5編、さらに河合隼雄についての講演原稿と合わせて12編の文章を束ねている。連載といっても依頼を受けて書いた文章ではなく、特に発表の予定もなく書き溜めておいた文章をこの機会にコンパイルしたといった事情らしい。最後の章のみ河合隼雄を追悼して実際に京都大学で聴衆の前で講演した内容であるという。発表分と未発表分をどのように区別したかはわからないが、テーマは統一されてよく練られており、とても読みやすい。村上のあとがきによれば最初は通常の文体で書いていたが、やや生硬な印象を受けたため、人々を前にして語りかける文体で全体を統一したところ、すらすらと書けたとのことだ。具体的には「小さなホールで、だいたい30人から40人くらいの人が僕の前に座っていると仮定し、その人たちにできるだけ親密な口調で語りかけるという設定で書き直した」とあり、確かに全体にインティメイトな雰囲気のあるエッセーとなっている。
 私は比較的熱心な村上の読者であり、前にも述べたが、地下鉄サリン事件を扱った一連のノンフィクションを除いてほぼ全ての作品に目を通していると思う。村上がいわゆる文壇と距離を置き、公の場にあまり登場しないことはよく知られているが、実際には多くのエッセー、あるいは紀行的エッセーで自らの身辺について語り、あるいはこのブログでも取り上げた『考える人』におけるロング・インタビューでも作家の日常をかなり具体的に説明しているから、本書を読んで新しい発見はさほど多くない。しかしインタビューで引き出された言葉ではなく、作家自らが信念をもって語る小説、そして小説家についてコメントはそれなりに興味深い。まず最終章を除いて、それぞれの章のテーマを示しておく。第一章では導入として「小説家とはどのような人間であるか」というやや抽象度の高いテーマが論じられる。続いて第二章ではデビュー当時の事情が回想される。第三章で村上は文学賞というやや生々しい話題を論じる。思うに毎年ノーベル文学賞の発表が近づくと(もうじきだ)身辺が騒がしくなることに嫌気を感じて、この機会に文学賞についての思いを表明したのではないだろうか。第四章からは小説の書き方に関連する話題が続く。第四章では「オリジナリティー」についての見解が提起される、第五章は「さて、何を書けばいいのか?」というタイトルが内容を示している。第六章は自らを「長編小説作家」とみなす村上がどのように長編小説を執筆するかを具体的に説いて興味深い。第七章では「職業としての小説家」つまり、人が一生の生業として小説を書き続けるためにはどのような条件が必要かについて論じられる。第八章で村上はやや話題を転じて、学校という組織から自分が全く恩恵を受けたことがないと言明する。本書では珍しく社会的な発言がなされる個所である。続く第九章では再び小説において登場人物をどのように造形するかという問題が論じられる。第十章もタイトルが内容を語る。「誰のために書くか」、小説家と読者というテーマだ。そして「海外へ出ていく、新しいフロンティア」と題された第十一章においては、欧米の出版界に自らの作品をいかに紹介していったか、おそらく日本では村上以外に論じることが困難な戦略が具体的に語られる。
 最初に述べたとおり、講演を想定した語りは柔らかく、わかりやすい。本書においては村上がどのようにして小説家になったか、どのような小説家を目指しているかという通時的、個人史についての記述と、村上にとって小説とはどのようなものであるかという共時的、小説論について記述が絶妙に融け合っている。ただし村上の作品を含めて具体的な小説への言及はほとんどない。おそらくそれは本書の重心が小説よりも小説家に置かれていることに起因しているだろう。当然ながらここでは小説家の一つのモデルとして村上自身について語られる訳であるが、本人も述べるとおり、それはかなり異色のモデルかもしれない。作家は毎日、早起きしてコーヒーを飲んだ後、午前中に原稿用紙を10枚分書き、午後は1時間ほどジョギングするというルーティンを30年以上繰り返しているのだ。この点については以前、ロング・インタビューの中でも述べられていた。重要な点は気分が乗らない日でも必ず決まった枚数の原稿を書き、決まった時間、身体を動かすということだ。このような小説家の日常は日々ルーティンワークをこなす労働者のそれに近く、破天荒で破滅型の文士像の対極にある。しかし自分のような作家像が必ずしも特殊でないことを村上はカフカそして初めて名前を聞くアンソニー・トロロープといった作家の生活を引きながら論じる。確かに私も大江健三郎の「泳ぐ男」を読んで初めてフィットネス・クラブに通う小説家というイメージを得たし、中上健次も最初、羽田空港での労役の傍らに初期作品を執筆したのではなかったか。おそらく作家にとって小説を書くことは生活のスタイルの確立と深く関わっている。この点はフォーマリズムと構造主義を学んだ私の認識とも一致する。私たちは自由にテクストを書くことはできない。私たちが書くテクストは既にそれを取り巻く外形的な条件によって規定されているのだ。それは時に一日に書き上げるべき原稿用紙の枚数であり、時に原稿を執筆する環境であり(本書にあるとおり、村上は新しい長編を書き始めるにあたってしばしば自らを国外に流謫したという事実を想起されたい)、時にメイルとラインのいずれによってガールフレンドにメッセージを送るかといった問題と関わっている。内容は形式によってもたらされる。村上にとって生活の外形、つまりストイックかつ単調なルーティンワークとしての日常を確立することが実は小説の主題と深く関わっている点については後でもう一度立ち返ることとしよう。
 本書においては村上が小説を書くことを決意した「啓示」が初めて明かされる。先にも触れたロング・インタビューを読み返すと次のような一節がある。「だから大学を出て店を初めて、借金を抱えて、日々あくせく働いていただけなんだけれど、29歳のある日突然、『あ、書けるかな』と思ったんです。何の根拠もなくただそう思った」インタビューの中で詳細が明かされなかったことも無理はない。それは次のような体験であった。1978年の春、神宮球場におけるヤクルト・スワローズ対広島カープのデイゲームを観戦中に「僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。『そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない』と。その時の感覚を、僕はまだはっきり覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした」先発ピッチャーや先頭打者の打席についてのなんとも散文的な記述とエピファニーの到来という劇的なエピソードの対比は微笑を誘う。小説を書くことを決意した村上は試合後、その足で紀伊国屋に赴いて万年筆と原稿用紙を求め、キッチン・テーブルに向かって「風の歌を聴け」を書き始める。続けて語られるデビュー作執筆時のエピソードも興味深い。小説を書き始めたもののうまく書けないことを感じた村上は自分の書いた文章を一回英語に翻訳し、それをもう一度日本語に置き直すことによって自分の文体をつかんだというのである。高校時代から英語のペーパーバックを読み続け、後に多くの翻訳を手掛ける村上であればさもありなんと考えることは正しくない。このエピソードが示唆するのは母語に対する異和感から小説家は自分の文体を築くという教えだ。村上も言及するアゴタ・クリストフのほかにもジョイスやラシュディといった作家を想起するならばこの問題はさらに深めることができようが、それは別の機会に譲る。
 村上も書くとおり、小説を書くこと、小説家としてデヴューすることはさほど難しくない。しかし時の淘汰を経て、小説を書き続けることはきわめて困難である。村上が30年以上も小説を書き続けることができた理由は何か。オリジナリティーについて論じた章における次のようなコメントがヒントになるだろう。

 それでは、何がどうしても必要で、何がそれほど必要でないか、あるいはまったく不要であるかを、どのようにして見極めていけばいいのか?これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのが一つの基準になるだろうと思います。もしあなたが何か自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しさや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違った者、不調和なものがあるということになりそうです。

 村上はものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もなく、もし楽しくないのなら、そもそも小説を書く意味はないとまで断言する。私もこれらの言葉に深く共感する。私は小説家ではないが、自分の生に対して同様の信念を抱いているからだ。例えばこのブログである。このブログを開設して早くも7年が経過し、300本以上のレヴューを書き継いだ。最初、私は日々読み続ける本や毎週のように通う展覧会について、未来の自分へのメモランダムとしてレヴューの執筆を始めた。それにあたって私はいくつかのルールを定めた。まず読書にしても展覧会にしても、楽しい経験のみに言葉を与えること、一定の頻度で新しい記事をアップすること(今日にいたるまで10日に1本、1月に3本という目標をほぼ守ってきたと思う)、そしてどんなに仕事が忙しくてもレヴューを書き続けることである。震災と原子力災害以後、最初のルールを守ることが難しくなってきたことは熱心な読者には理解していただけようし、実際には対象に対して否定的なニュアンスとともに言及した記事もいくつか存在する。しかし私もまたこのブログを書くことを苦痛に感じたことは一度もない。人生においては楽しいことのみを経験するという私の処世の方針の一つを体現するのがこれらのテクストであるからだ。私はこれらのテクストの大半を休日に書き上げる。その週に読んだ本や訪れた展覧会について一週間かけて深く思考し、週末に思考に言葉を与える作業は私にとって好ましい一つの知的なサイクルを形作っている。村上と比べることはおこがましいが、それは午前中に決められた枚数の原稿を書き、午後は決められた時間、ジョギングや水泳を楽しむことと似ている。私が長くこのブログを書き続けることができている理由は村上同様、比較的に早い時期にこのような執筆のスタイルを確立したことに求められるだろう。
 話題が逸れた。村上に戻ることにしよう。スタイル、あるいはシステムを確立することの重要さを村上は何度も繰り返す。とりわけ「時間を見方をつける―長編小説を書くこと」と題された第六章では長編小説というフルマラソンをいかに走り抜けるかについて初稿、推敲、助言といった様々なレヴェルに即してきわめて具体的にその過程が開陳される。作家の創造の機微に触れる章であるが、ここでも何を書くかといったことは全く問題とされない。いかに一つの小説を完成に向けて誘導するかという点のみが仔細に論じられる。スタイルの構築という点ではいわゆる文壇との関係も同様であろう。村上の文壇に対する強い拒否感は私の愛好する「とんがり焼きの盛衰」というシュールなショートショートからも明らかであるが、文壇と関係を断ちつつ小説家としての成功を収めるために村上は周到な準備を進めた。それは文芸誌の求めに応じて小説を執筆するのではなく、書き上げた小説を必要に応じて発表するというシステムの整備だ。もちろんこのような贅沢な立場がベストセラー作家としての成功のうえに成り立っていることはいうまでもない。しかしそれは結果であって、初めから村上は文壇や文芸誌といった制度とは無関係に自分の作品を発表することが可能なシステムの構築をめざしていた。村上も述懐するとおり、それが実現したことは幸運の賜物であったかもしれない。しかしそれが村上の強い意志によって可能となったこともまた明らかである。文壇という狭い世界の中に群れず、生活の中に執筆とジョギング、あるいは水泳を同じ重要性とともに組み込むこと、ここからに浮かび上がるのは破滅型文士の対極にある健康的な作家の姿だ。なぜ小説家は健康でなければならないか。村上は次のように説明する。

小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません。(中略)作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを―つまり小説にとって必要な養分です―見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意味を持つもの転換していきます。その暗闇の中には、ときに危険なものごと満ちています。(中略)そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要になります。

この一節はきわめて説得的だ。これまで私は村上の小説について何度か評したことがあるが、その際には表面的な印象とは逆に村上の小説において人間の内面に潜む暗黒について語られていることを繰り返し指摘した。この引用においては作家自らがそのような暗黒こそが小説の主題であること明言している。村上の作品を読み継いだ者であればかかる認識を理解することはたやすい。具体的にはとりわけ「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」といった小説においてこのような暗黒が主題化されているといってよかろう。暗黒を見つめる者は暗黒の中に呑み込まれてしまうというのは誰の言葉であっただろうか。村上は自らのフィジカルな側面を強化することによってかかる暗黒に対抗する。このように考えるならば、本書の最後に一見唐突に河合隼雄への追悼が収められている理由もたやすく了解されよう。心理療法家の河合に対して、村上がシンパシーをもつことは当然であり、次の発言は今引いた言葉の再話にほかならない。「物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。(中略)僕は小説を書くことによって、日常的にその場所に降りていくことになります。河合先生は臨床家としてクライアントと向き合うことによって、日常的にそこに降りていくことになります。あるいは降りていかなくてはなりません。河合先生と僕とはたぶんそのことを『臨床的に』理解しあっていた―そういう気がするんです」村上の小説の核心を突く言葉であり、私は同様の主題が必ずしも純文学の分野に限らず、私の好きな多くの作家にも共有されていることに思いをめぐらす。それにしても中編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から2年、短編集『女のいない男たち』から1年が経過した。これまで短編、中編、長編は綿密なサイクルのもとに執筆されてきたから、おそらく今、村上は『1Q84』以来、久々の長編小説を一日10枚のペースで執筆しているはずだ。発表はいつになるのだろうか。いずれにせよ私はまた人生に楽しい経験を一つ加えることができそうだ。
by gravity97 | 2015-09-28 13:26 | 日本文学 | Comments(1)

b0138838_22222927.jpg このブログの読者であれば了解していただけようが、私は徹底的に散文的な人間であるから、詩や俳句についてはほとんど知識もなければ関心もない。しかし本書を書店で手に取るや私は迷うことなく買い求め、二日ほどかけて読み終えた。実に感動的な内容であった。疑いなく今年読んだ本の中でも最も深い余韻を残す一冊である。
 詩人の生涯をつづった評伝に私が興味をもった理由はいくつかある。まず石原がシベリア抑留という重い体験を負っていることだ。私はこれまでもこのブログで絶滅収容所、強制収容所、難民キャンプといった場所が表象という営みにどのように関わっているかという問題について文学や美術、批評といったジャンルを横断して繰り返し論じてきた。おそらく本書を通じて現代詩という言語芸術の一つの極限が、シベリア抑留というやはり極限的な場を経過することによっていかに陶冶されたかが明らかになると考えたことが一つ。著者はアドルノやフランクフルト学派に関して多くの刺激的な論文を公刊してきた気鋭の研究者であり、このブログでも以前、「カントからハーバーマスへ」というサブタイトルをもつ『「戦後」の思想』についてレヴューした覚えがある。細見自身も詩人としていくつかの詩集を発表しているから詩人の手による詩人の評伝に関心をもったことが一つ。しかし本書には生業を同じくする者同士の甘えは一切ない。それどころか細見による石原の作品についての分析は時にここまで言うかと感じるほど仮借がない。しかしそれが先行する詩人への深い敬愛に裏打ちされたものであり、誤解されることの多かった詩人の生の琴線に触れるものであるがゆえに私は深い感動を覚えたのだ。
 例えば中原中也であれば私でさえ「汚れつちまつた悲しみに」という詩句を反射的に連想する。しかしさすがに石原の代表作のフレーズを思い浮かべることは困難だ。本書には石原の代表的な詩がいくつも引かれているが、確かに多くが難解であり、決して気軽く口ずさめるような内容ではない。おそらく私同様にほとんど石原についての知識をもたない読者も多かろうから、細見に倣って「最初にこの一編」として細見も冒頭で引用する「河」という詩の全行を引く。

 河

そこが河口
そこが河の終り
そこからが海となる
そのひとところを
たしかめてから
河はあふれて
それをこえた
のりこえて さらに
ゆたかな河床を生んだ
海へはついに
まぎれえない
ふたすじの意志で
岸をかぎり
海よりもさらにとおく
海よりもさらにゆるやかに
河は
海を流れつづけた

 細見も説くとおり、この詩のよさは一目瞭然だ。海に流れ込んで交わることなく流れ続ける河の鮮烈なイメージ。そこにさまざまな暗喩を認めることは可能だが、この詩を引いた後、細見はこれが「詩の言葉においてのみ可能な表現である」ことを指摘し、「石原の優れた作品は、言葉のみが描き出す図像によって形成されている」と述べる。これがモダニズムの立場であることは言うまでもない。しかし石原に関して、このような立場からの作品研究は実は主流ではない。石原の詩を解釈するにあたって石原の経験、シベリア抑留はあまりにも重いのだ。「葬式列車」という代表作を文字どおり、収容所と収容所を結ぶストルイピンという囚人移送車輛の暗喩とみなす見解について細見は否定的に論及する。作者を作品の起源とみなすこのような発想がロラン・バルトからミシェル・フーコーにいたるポスト構造主義の中で徹底的に批判されたことは周知のとおりであるが、細見もまた作者ではなく作品こそが作者を決定するのではないかと説く。驚くべきことにこのような認識は既に石原本人によって言語化されている。「詩が」と題された作品に次のような一節だ。

詩がおれを書きすてる日が/必ずある/おぼえておけ/(中略)詩が、おれを/容赦なくやぶり去る日のために/だからいいというのだ/砲座にとどまっても

 私は少し語り急ぎ過ぎている。私たちも細見の所論に従って石原の足跡をもう少していねいに追うことにしよう。私たちの導き手となるのは二つの年譜だ。一つは全集の第Ⅲ巻にも収録された石原の手による自筆年譜、そしてもう一つは渡辺石夫によって編集された「石原吉郎年譜」である。なぜ二つの年譜が必要か。理由は明らかだ。自筆年譜はその対象や記述の疎密に関して(もとより自筆であるから客観的ではありえないにせよ)通常の年譜とはかけ離れた偏向が認められるのだ。具体的には自筆年譜においては帰国以後の記述が一切なく、1945年に関する記述が異様に多い。そして注意すべきはこの年はシベリア抑留以前であることだ。細見は二つの年譜を綿密に比較し、自筆年譜に過剰に書き込まれた部分こそが石原の詩作と深く関わるとみなして説得的な議論を展開していく。細見によれば「(石原の自筆年譜を)渡辺の『石原吉郎年譜』という笊(ざる)で濾したときに残っている異物こそが重要なのだ」この方法によって細見は石原の隠されていた自意識を抉り出していく。1915年、伊豆に生まれ、多感な青年期を送った石原は一年の浪人の後、東京外国語大学のドイツ語学科に入学する。後述するとおり、石原の詩人としての資質とも深く関係するが、石原は語学の才能があり、大学ではエスペラントに関心をもち学内にサークルを組織したという。細見は石原の青年期に強い影響を与えたいくつかの主題を名指しする。エスペラント、マルクス主義、そしてキリスト教、いずれも青年期の石原と詩の形成に決定的な影響を与えている。ここで注意すべきは今挙げた三つのモティーフはいずれも戦争に向かう日本という場においてはネガティヴな契機であったことだ。この点を細見はカール・バルトの弟子であり、石原が通った教会の客員であったエゴン・ヘッセルというドイツ人との関係をとおして検証している。通っていた住吉教会の老牧師が時局を反映した「キリスト教の日本的解釈」という国家主義的なキリスト教の宣撫を行っていたことに反発して、石原はヘッセルとともに別の教会に移る。しかし合同祈祷会の席でこの老牧師に「この中に裏切りの徒、ユダがおります」と断罪されて石原は深く傷つく。さらにヘッセルもドイツからの軍への召集を拒否して石原を残したまま、アメリカに亡命する。失意の中でキリスト教に光を見出した石原にとってこのような二重の「裏切り」は生涯にわたる決定的なトラウマとなったという。しかし青年期の体験は石原に貴重な出会いももたらした。1939年、24歳の時に召集令を受けた石原は静岡で歩兵砲中隊に所属する。東京外国語大学を卒業していた石原は当然の権利であった幹部候補生に応募しなかった。しかし軍は石原の経歴を見逃さない。石原は語学力を認められて大阪と東京でロシア語の特訓を受ける。石原はここで生涯にわたる友、鹿野武一と出会う。エスペランティストの集会で必ず歌われる歌を口笛で吹いたことによって二人はともにエスペラントを学んでいたことを知るのだ。エスペラントの原基であるロマンス語への志向について細見は石原の詩の本質と関連させて興味深い指摘を行うが、これについては後で論じる。二人はともに満州で特務機関に属すが、四年後の敗戦を機として武装解除されて収容所に送られ、そこで奇跡のような再会を果たす。石原は最初アルマ・アタという収容所に送られ、重労働25年という実質的に死刑に等しい判決を受ける、これ以後、囚人としてカラガンダ、タイシェトとバム鉄道沿線、そしてハバロフスクの四つの地域の収容所を転々とするが、このうち、カラガンダで同じ囚人として鹿野と再会するのである。1953年、石原は日本への帰還を果たすが、そこにいたる苛酷な抑留体験と鹿野というきわめて謎めいた人物については本書を参照していただくのがよいだろう。鹿野も日本に帰還を果たすが、わずか一年数か月の後、過労の果てに病死する。鹿野の「絶食事件」あるいはこの事件に関連して、当局から内通を教唆された鹿野が放った「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」という有名な言葉など鹿野について論じたいことはまだ多いが、読者には是非直接本書にあたっていただきたい。
 シベリアから帰還した後も石原にとっては厳しい生活が続く。「私は8年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく3年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体
験は、ほとんど問題でないといえる」しかしこの時期、石原は初めて心を許せる友人たちを得た。当時39歳の石原は『文章倶楽部』、現在の『現代詩手帖』に投稿を続け、実質上のデヴュー作「夜の招待」は、22歳の谷川俊太郎、34歳の鮎川信夫に激賞された。この雑誌への若い投稿者を中心に創刊された詩誌『ロシナンテ』は石原の多くの代表作を掲載することとなる。鹿野が没した同じ1955年に創刊号が発行された『ロシナンテ』は1959年の第19号をもって終刊するが、細見も論じるとおり、シベリアの苛酷な年月を経た石原にとってこの同人誌は一つの楽園であった。しかし発行同人のうち有力メンバーであった勝野睦人が事故によって、好川誠一がノイローゼによる自死によって命を絶たれたことを知るならば、それが果たして「楽園」であったかについては再考の余地があるかもしれない。ともかくこの時期、石原は『ロシナンテ』『文章倶楽部』を主たる舞台として「脱走」「自転車にのるクラリモンド」といった代表作を発表する。この二つの詩はそれぞれのタイトルからも想像されるとおり、内容を大きく違える。シベリアにおける脱走事件とその顛末を描いた前者と「自転車によるクラリモンドよ/目をつぶれ」という不思議で軽妙なリズムとともに始まる後者。そこには分裂があり、私たちはとりわけ前者において作品と作者の体験を結びつけてしまう。実際に石原にはシベリア抑留を主題とした文章も多い。しかし興味深いことに、石原がシベリアを主題とした一連のエッセイを書き始めたのはかなり後、1970年前後なのである。時系列を整理するならば、シベリアから帰還後、石原は直接にはシベリアを主題としない詩とともに詩壇にデヴューし、およそ15年後にシベリアを主題とした一連の散文、シベリア・エッセイを書き継いだのである。細見は初期詩編とシベリア・エッセイを切り離して考える必要を説き、両者の関係を詩人らしい卓抜な比喩を用いて説明する。「(最初の詩集である)『サンチョ・パンサの帰郷』の主流をなす作品は、シベリアを原郷としつつも、そのことが作者にとってさえ必ずしも明瞭には意識化されていなかった、という側面があったのである。石原のシベリア体験は、いわば厚い板の下で強力な磁力をもって存在していて、石原はその板の上で言葉を配置する。そのようにして、石原の繊細な語感と板の下からの磁力が絶妙に組み合わさったとき、あの一連の優れた作品が生まれたのだった。この比喩を続けると、石原にとってシベリア・エッセイを綴るということは、言葉と磁力の間に挟まっていたその厚い板を自ら打ち砕くことにほかならなかった」私たちは一人の人間によって書かれた言葉は常に書き手と親和していると信じている。しかしエッセイと詩という形式の差異が、書き手との関係を違えたとすればどうか。シベリアで手帳に書きつけていた日記を石原は書き終えるたびに焼き捨てていたという。書くことへの欲望と書かれたものへの憎悪。かかるアンヴィバレントな心性を細見は次のように説明する。長くなるが石原の詩業の本質を突く重要なパッセージであるからそのまま引く。

 極端に言えば、ここには、およそ生きることと書くことのあいだの本質的なズレが介在しているのではないだろうか。書かれたものであるかぎりは、それはすべて体験ではなく追体験なのだ。しかも石原の場合、その追体験がかつてと同様の苦痛を強いるだけでなく、その書かれたものを壁に塗りこめるような、あるいは焼却するような、強い欲動を書いた本人にたえず誘発しているようなのである。シベリア抑留にかかわるエッセイは、彼に抑留体験を追体験させただけでなく、むしろ真実の体験からますます彼を遠ざけるような、さらには放逐するような、そんな作用をもたらしたのではなかったか。そして、おそらくは、この苛酷な力学からかろうじてまぬがれえた、特権的とも呼ぶべき表現方法こそが、石原にとっての「詩」だったのである。

 細見は本書のあとがきの中でも詩とエッセイ、詩人と詩の間の分裂に次のような簡潔で鋭いコメントを加えている。「私がたどりついたのは、石原ではなく石原の用いる『言葉』がシベリアを追憶していた、ということである」言葉が詩人を選び、言葉がシベリアを追憶したという認識に私も全面的に同意する。細見はかかる直感の根拠を「私自身、学生時代からいまにいたるまで詩を書くことを続けてきた。そのことから来る実感というものも、そこには働いている」と若干の自負とともに語っている。おそらくここには詩人同士の連帯があるだろう。
 それではいかなる言葉がシベリアを追憶したのであろうか。細見は石原が用いる言葉に関して注目すべき対比を指摘する。「姿勢」「位置」「納得」「事実」、これらの石原の代表作は漢字、漢語から生じる連想によって綴られているとみなす。細見はそれを自らが専門とするベンヤミンのアレゴリー論へと結びつける。そしてかかるアレゴリーの連想作用を支えていたのがシベリア体験であったとみなすのである。これに対して石原は別の力学を言葉に与えることにも成功していた。漢字、漢語が帯びた重さ、重力に関して、例えば「クラリモンド」という言葉が与える解放的な力は正反対のヴェクトルを形成する。漢字、漢語の重力とエスペラントに由来するロマンス語の浮力、両者の拮抗として石原の詩業を検証する細見の視点はきわめて斬新で説得的であるが、惜しむらくはこの主題は必ずしも十分に深められていない。クロノロジカルな評伝という形式がこの問題に長く留まることを許さなかったのかもしれないが、両者の関係は一章を当ててより多角的に分析されてもよかったように感じる。そして重力と浮力、漢字とエスペラントの拮抗の中に石原の詩をとらえる時、このような詩が石原においてのみ可能であった理由も理解されよう。エスペラントによって培われたロマンス語との親和、そしてシベリア抑留体験、両者が比類なき結合を遂げたのが石原の詩業であり、同時にこのような詩はただ日本語においてのみ可能であったことも明らかだ。なぜなら細見がいう重力と浮力は、日本語の書字が漢字と仮名によって分かち書きされることによって初めて可能であるから。この時、最初に引いた「石原の優れた作品は、言葉のみが描き出す図像によって形成されている」という言葉は書字のレヴェルにおいては「日本語のみが描き出す図像によって形成されている」と書き換えることも可能かもしれない。
 私は石原の詩についてずいぶん多くのことを語った。ただし今の時点で私はまだ石原の詩集を取り寄せていないため、これらの事柄はすべて細見の評伝のみを通して私が石原について抱いた感慨であることをあらためて書き留めておきたい。書き足りないことはいくらでもある。私は石原が晩年に取り組んだ句集や俳句集については全く触れていない。鹿野武一との関係についても十分に論じていないし、公にされたシベリア・ノートが引き起こした親族間の葛藤についても触れていない。なによりも石原の突然の死、郷原宏が「法医学的にはどうであれ、文学的にみるかぎり、それは明らかに自殺であった」と記した最期については、パウル・ツェランやプリモ・レーヴィといったホロコーストのサヴァイヴァーたちと比較してみなければならないだろう。さらに私は本書を読んだ後、思わず書斎で一冊の画集を求めた。いうまでもない香月泰男の「シベリヤ画集」である。敗戦70年を迎えた今年、私は多くの美術館で香月の作品を目にした。シベリア抑留の表象、それは絵画と詩においていかに共鳴するのであろうか。画集にはやはり抑留の体験をもつ内村剛介の解説が付されており、石原の「脱走」が引用されている。内村と石原の複雑な関係についても細見は言及しているが、この問題についてもここでは触れる余裕がなかった。そして内村の名を引くならば、当然私たちの視界には同じ地で流刑の日々を送ったドストエフスキーも入って来るだろう。本書が喚起する問題はかくも多様で射程が深い。何度も味読されるべき評伝である。
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by gravity97 | 2015-09-18 22:25 | 詩 その他 | Comments(0)

 
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 小学館版「日本美術全集」の第19巻、「拡張する戦後美術」が刊行された。編者は椹木野衣。『日本・現代・美術』の著者による編集であるから、初めから常識的な通史となるはずがなかったとはいえ、予想をはるかに超える過激な内容である。図版が掲載された作家のうち、岡本太郎、草間彌生、杉本博司であれば理解することは困難ではない。しかし例えば次のような「作家」を私たちはどのようにとらえればよいか。山下清、三松正夫、山本作兵衛、杉山寧、ジョージ秋山、糸井貫二、牧野邦夫、神田日勝。おそらく私も含めて初めて目にする名前がいくつかあるはずだ。そしてこれまで知っていたとしても美術の文脈から排除されてきた「作家」の名も多い。彼らを果たして一つの文脈に組み込むことが可能であるかという点が本書の賭け金だ。本書には椹木以外にも総論として山下裕二、コラムとして四本の論文が掲載されている。しかし私の見るところ、福住廉の「肉体絵画と肉体表現」というコラムを除いて、ほかのテクストは椹木の過激さからほど遠く、微温的な通史の記述に留まっている。このギャップはなんとも歯がゆい。掲載図版やほかの執筆者の選定に編者がどの程度関与しているかは不明であるが、この理由によって、ここでは本書に収録された作品と「よみがえる『戦後美術』―しかしこの車はもと来た方向へ走っているではないか」と題された椹木の長文の論考のみを考察の対象として私見を述べたい。
 知られているとおり、日本の戦後美術を「通史」としてとらえる試みはこれまでにもいくつか存在する。一人の批評家による論考としては針生一郎の『戦後美術盛衰史』、千葉成夫の『現代美術逸脱史』、そして今言及した『日本・現代・美術』などが挙げられようし、『美術手帖』やかつての『みづゑ』誌上ではこのテーマに従って何度か特集が組まれた。展覧会としても、時に一つのディケイドに区切りながらも、1980年前後に東京都美術館や東京国立近代美術館によって企画された一連の試みが存在し、さらに1994年にアレクサンドラ・モンローの企画によって横浜美術館で開催され、グッゲンハイム美術館ソーホー分館に巡回した「戦後日本の前衛美術」は初めて日本の戦後美術を総体としてとらえようとする野心的な試みであった。あるいは時代と地域に限定が課せられているものの、一昨年、ニューヨーク近代美術館で開かれた「TOKYO 1955-1970 : A New Avant-Garde」もある程度問題意識を共有しているといえよう。これらの試みについては必要があれば立ち戻るとして、ここで私が参照したいのは同じ小学館から35年前に刊行された美術全集「原色現代日本の美術」の第18巻「明日の美術」であるb0138838_143028.jpgこの全集は明治期以降の日本美術が時にジャンル、時に「日本美術院」「京都画壇」といったテーマで整理された内容であり、今回の「日本美術全集」とは対象を違えている。しかしこの全集の中でも最終巻が戦後美術に当てられ、斉藤義重から辰野登恵子にいたる多くの作家が紹介されている。乾由明が責任編集し、高階秀爾、藤枝晃雄、三木多聞、山口勝弘がテクストを分担していることからも暗示されるとおり、この画集は少なくとも1980年という時点において戦後美術の「正史」とみなされていた流れを理解するうえではある程度有用である。「戦後美術の転換期」「芸術とテクノロジー」「ポップ・アートの世界」「物質と観念」「新しい平面芸術」「空間と立体造形」「映像の芸術―写真とヴィデオ」という七章の構成にもジャンルと時代区分の混合がみられるにせよ、この時期の戦後美術観を反映しているといえるだろう。実際に先に述べた1980年前後に国内で開かれた戦後美術の回顧展、1986年のパリ、ポンピドーセンターにおける「前衛の日本」、そして『現代美術逸脱史』における概観などは運動や作家についての濃淡こそあれ、「明日の美術」のラインナップと極端な相違はない。わかりやすく述べるならば、50年代の具体美術協会の活動から60年代の読売アンデパンダン展周辺のジャンクアートや和製ポップ、そして70年前後のもの派にいたる戦後美術の見取り図はほぼこの時期に形成されたといってよいし、さらに1996年という時点からこの系譜を逆向きにたどった刺激的な論考が『日本・現代・美術』であったことも今や明らかである。
 それではこのような見取り図に対して、本書の過激さは何に由来するのか。まず注意すべきは、椹木もかかる系譜そのものを否定している訳ではないことだ。作家と作品の選定に関して独自の視点が加味されているとはいえ、具体美術協会や実験工房、読売アンデパンダン展周辺の作家、そしてもの派にいたる流れを戦後美術の本流とみなす立場は本書でも踏襲され、これらの作家、運動についてはしばしば否定的なニュアンスを伴いながらも論及されている。しかしこの一方で「拡張する戦後美術」というタイトルが示すとおり、椹木はこのような枠組の外側にも目を向けて、戦後美術の見失われた本質へ肉迫しようとする。このような「拡張」として直ちに了解されるのはジャンルの拡張だ。先に触れた「明日の美術」において扱われた対象は広義の絵画、彫刻とデザインであったの対して、本書においてはさらに写真、建築、工業デザインから作庭におよび、とりわけマンガが大きく取り扱われていることが理解されよう。むろん前者はまだパフォーマンスやインスタレーションといった言葉さえ定着していなかった時代に刊行されており、現在との間には大きな隔たりがあろうし、ジャンルの限定は美術全集の全体としての編集方針と関わっていた可能性もある。しかしこの点を考慮したにせよ、本書を特徴づけるのは従来「正史」から排除されてきた対象を積極的に美術史に導入しようとする姿勢である。マンガを大きく扱う姿勢はその典型であり(なにしろ後述するとおり、論考のタイトルもマンガから引かれているのだ)、さらに次のような対象も取り上げられている。まず山下清のごとく、これまでアウトサイダー・アートの文脈でとらえられてきた作家たち、そして佐藤溪、牧野邦夫、久永強らのように職業画家でありながら、これまであまり知られることがなかった作家、さらに出口王仁三郎、いわさきちひろ、小松崎茂のごとく、従来はファインアートとは異なった文脈で論じられてきた作家たちである。さらに東山魁夷、杉山寧といった作家の作品が加えられていることにも強い違和感を覚えないだろうか。東山、杉山といえば確かに日本画の巨匠であるが、これまで戦後美術といった文脈で語られることはまれで、もちろん「明日の美術」には掲載されていない。それは彼らが今名前を挙げた作家たちとは逆に、いわゆる「画壇」の頂点として、現代美術とは別のシステムに依拠していたと考えられるからだ。このように列挙するならば、ここに収録された作家たちがいかなる意図のもとに選ばれたかも明らかになってくるのではないだろうか。椹木が本書で拠って立つ理念、それは端的に前衛主義の否定だ。先に日本の戦後美術を概観する意図のもとに組織された展覧会をいくつか示した。それらのタイトルに前衛、あるいはavant-gardeという言葉が冠されていたことは偶然ではない。マンガのごとき不純なジャンル、作家性を欠いた作家、さらには従来「前衛」と対立するとみなされていた「画壇」の大物を投入することによって、前衛に拠らない戦後美術史の構築がめざされているのである。そして前衛の否定は別のコノテーションをもつ。前衛とはモダニズムと不即不離にある概念であり、したがって本書は広い意味で日本の戦後美術を律してきたモダニズム美術史観を批判する立場に立つが、それは次にみるとおり、かなり入り組んだかたちをとる。
 続いて椹木の所論をやや詳細に検証しよう。いくつかのキーワードが設定されているため、その議論を追うことはさほど困難ではない。まず椹木は本書が編年的に四部で構成されていることを告げる。すなわち本書の図版部は占領からの復興期を戦後の「再生」、高度成長期を戦後の「沸騰」、消費社会の成熟と退廃を戦後の「混沌」、そしてバブル経済の勃興と崩壊を戦後の「明暗」と名指しして、ほぼクロノロジカルに多様な作品を配している。続いて椹木は必ずしも歴史的な区分と対応しない五つの鍵概念を提起する。すなわち「サイエンス(科学)」「ラディカリズム(過激)」「ポスト・フェストゥム(祭りのあと・鬱)」「ポスト・フェストゥム(祭りのあと・躁)」「アイロニー(皮肉)」である。椹木も述べるとおり、これらの概念は日本の戦後美術に特徴的な症状であり、先に挙げた時代区分に対応するのではなく、むしろ横断的に認められる。このうちやや難解な「ポスト・フェストゥム」とは精神医学者、木村敏がフッサールを経由して提起した病理学的な概念である。まず椹木は先行する明治期や大正期、あるいは戦争期の美術と比較して、日本の戦後美術の特質を次のように指摘する。「そこには、明治期のような『理想』もなければ、大正期のような『理念』もなく、かといって戦争期の『野望』もない。それらがないまま、いや、それらを見失ったまま、近代化というシステムそのものが、復興の名のもと、ひたすら暴走したのが、戦後という時代の特徴であり、その上に乗って登場した戦後美術の素の顔つきだった。その様相をひとことで示すとしたら、『際限なき破壊と復興』ということになるだろう」いきなり結論めいた言葉を書きつけたうえで、椹木は時間軸に沿って戦後美術を概観する。彼によればほぼ同じ時期に結成された東の「実験工房」と西の「具体美術協会」、両者はグループ名が暗示しているとおり、「サイエンス」と深く結びついている。これまで全く異なった運動、正反対のヴェクトルをもつとみなされた二つの集団に共通性を認めたことは卓見といえよう。続いて椹木は60年代の読売アンデパンダン展をめぐる狂騒―いうまでもなく「ラディカリズム」という言葉にふさわしい―を「サイエンス」への反動とみなす。しかし無際限なラディカリズムによって発表の舞台であった展覧会そのものを失った60年代の作家たちには三つの選択肢しか残されていんなかったという。一つはアンデパンダン展を自主的に続けること、海外へ活動の場所を転じること、そして路上でアクションを繰り広げることであった。このような整理は60年代後半の美術状況を的確に要約している。そして「サイエンス」「ラディカリズム」、いずれの立場の作家たちにも巨大な国家的な「祭り」が影を落とすこととなる。いうまでもない、1970年の大阪万国博覧会である。私はかつて椹木の『戦争と万博』を読んで深い感銘を受けたから、かかる議論の展開は十分予想できたし、首肯しうるものであった。本書においても多くの作家たちに万博がいかに深刻なトラウマを残したかという点が語られ、まさに「ポスト・フェストゥム(祭りのあと・鬱)」としてもの派や美共闘の表現が論じられている。一方で椹木は赤瀬川原平や菊畑茂久馬が在野もしくは素人の作家に着目し、美術の未知の可能性に目覚めた点も、同じ「ポスト・フェストゥム」の徴候であったととらえる。最初に述べたとおり、本書にこれまでほとんど現代美術の文脈で取り上げられることのなかった作家たちが収められていることはこのような理由による。続いて椹木はクロノロジカルな分析を中断し、「巨大メディアとしてのマンガの登場」という一節を設ける。しかし私にはこの一節はきわめて唐突に挿入された印象がある。確かに石子順造や赤瀬川原平を媒介とする時、70年代美術と一連のマンガを接続することは不可能ではない。しかしそれは可能性であって、私は椹木のテクスト、あるいはコラムとして収録された「マンガと美術の『あいだ』」と題された伊藤剛の文章を読んでも、本書においてマンガがかくも大きな扱いを受ける理由が得心できなかった。あるいは椹木の論文の最後で論じられる「アイロニー」の傍証として挙げられる村上隆や会田誠、ヤノベケンジや中ザワヒデキらの作品の一起源としてもマンガが想定されているのであるが、両者の間に世代的な関係は認められるとしても、ここで論じられるほど積極的な関係は認められないように感じるのである。
 このように全面的に同意できる内容ではないが、本書及び椹木の論考はきわめて刺激的であり、戦後美術史に対して新たな視点を提起するものといえよう。最初にも述べたとおり、それを一言で述べるならば前衛主義の美術史観からの解放であり、戦後美術を水平方向に押し広げる視点である。しかし同時に私は椹木の論考に通底するペシミズムが大いに気になるのだ。例えば先に引いた引用に続いて椹木は次のように続ける。「際限がないのだから、見かけのうえではいくら発展しても、目的へと向かう進捗感はろくになく、おのずと『つくっては壊す』が基本となり、その先へと歩を延ばすための模索も、全方位へと延びることになる。だいたい理想や理念、野望がないのだから、失敗や失意、そして多少の反省はあったとしても、当然絶望はない。絶望がないということは、どんなときでも、いくばくかの希望はあったということだ。たとえ、それがどんなに無方向的なものであったとしても、とにかく希望だけはあった。それが託されていたのが、戦後における『明日』という言葉の響きだった」ここに漠然と示された諦念は日本の戦後美術を論じた椹木野多くの著作に共通しているように感じられる。例えば『日本・現代・美術』の序章において椹木は日本の戦後美術を、ジャンルがジャンルとして機能しない「悪い場所」であると断じたうえで、このように結ぶ。この引用自体が先に引いた一文を反復するかのようではないか。「戦後の日本において、問題は吟味され、発展してきたのではなく、忘却され、反復されてきたということ、そしていかなる過去への視線も、現在によって規定され、絶え間なく書き直されている以上、過去を記述する条件として現在を前提にせざるをえないということを挙げておく」私は美術批評が建設的、楽観的なものである必要は特に感じない。しかしかつて同じ著者の『後美術論』について論じた時にも記したが、今や日本を代表する批評家である椹木がペシミズムとアナーキズムを批評の根幹に据え、対象の異なった多くの批評の中で繰り返していることは単に批評家の資質のみに還元できる問題であろうか。
b0138838_14322269.jpg タイトルが示す通り、本書は1945年の敗戦からちょうど50年間を対象としている。そして1995年といえば、「震災とテロ」の年であった。椹木はこの50年間を「しかしこの車はもと来た方向に走っているではないか」と総括する。この言葉はつげ義春の「ねじ式」の中で、闇の中を疾走する機関車に重ねられたフレーズであり、そのイメージは見開きで本書に収められている。戦災の廃墟から震災とテロの廃墟へ、もし本書が20世紀末あたりに刊行されていたとするならば、私も同じ感慨をもっただろう。しかし周知のごとく、それ以後、もと来た方向どころか、時代は一層悪くなっている。同時多発テロと正義なき報復の戦争、止むことのない紛争とテロ、東日本大震災と原子力災害、そして戦時体制の強化。先にも触れたとおり、椹木には『戦争と万博』という名著があり、そこでは「人類の進歩と調和」を謳った1970年の大阪万国博がいかに禍々しい影響を作家たちに与えたかという点がつぶさに論じられていた。その帯に次の言葉がある。「戦争はまだ続き、万博は繰り返される」本書において「ポスト・フェストゥム(祭りのあと)」という鍵概念が用いられている点は先に触れたとおりであるが、私たちは今再び、オリンピックという巨大な祭りの前にいる。震災と原子力災害からの復興を明確に妨げるオリンピックが本質において呪われていることの兆候は、新国立競技場やエンブレムをめぐる迷走からも既に明らかであろう。私たちは「戦争がこれから始まり、オリンピックは繰り返される」時代、「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」のただなかにいるのだ。多くの示唆に富んだ椹木の論文を読み終えて私が抱いた暗鬱な読後感は、椹木のペシミズムがもはや否定しがたい現実として自分たちを取り巻いていることへの絶望かもしれない。1980年、私たちは「明日の美術」を信じることができた。そして2015年、私たちは美術を携えて「もと来た方向へ走っている」。
by gravity97 | 2015-09-13 14:40 | 現代美術 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 150909

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by gravity97 | 2015-09-09 07:44 | NEW ARRIVAL | Comments(0)