Living Well Is the Best Revenge

tomkins.exblog.jp

優雅な生活が最高の復讐である

<   2015年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

b0138838_2242861.jpg
スティーヴン・キングが2013年に発表した「ドクター・スリープ」の翻訳が刊行された。なんと1977年に発表された「シャイニング」の続編とのこと。読む前から期待が高まる。「シャイニング」を私はパシフィカ版で翻訳された直後に読んだ。いわゆる幽霊屋敷を主題とした傑作であり、この前後に次々に翻訳された「呪われた町」「キャリー」ともども、初期作品を立て続けに読んでたちまち私はキングという未知の作家に魅了された。パシフィカ版は今手元にないため、私はまず同じ訳者による文春文庫版の「シャイニング」を再読してから「ドクター・スリープ」に向かうことにした。本書のレヴューにやや時間がかかったのはこのためである。しかしこの迂回、あるいは準備は必要であった。30年以上の時を隔てて発表された「シャイニング」と「ドクター・スリープ」を通読することによって二つの小説の世界ははるかに広がるように感じられるからだ。
 このところ私はキングの長編が翻訳されるたびにこのブログでレヴューしてきた。私はこれまで「暗黒の塔」シリーズ以外、ほとんどのキングの長編を読んできたが、実はキングの長編にはかなり出来不出来のばらつきがある。これまで私は「悪霊の島」「アンダー・ザ・ドーム」「11/22/63」についてレヴューしたが、今となってみれば「悪霊の島」はさほどの名作ともいえない。しかし09年の「アンダー・ザ・ドーム」、11年の「11/22/63」そして13年の「ドクター・スリープ」とほぼ2年ごとに発表された作品の完成度の高さには目を見張る。この作家は60歳を超えて新たな黄金期に入ったかのようだ。「シャイニング」は「呪われた町」、「ペット・セマタリー」と並んで初期のキングを代表する屈指の名作であったが、キングとしても初めて先行する作品の続編として構想した本書は「シャイニング」に完全に拮抗している。今回は「シャイニング」にも論及しながら、内容にもかなり立ち入って論じる。
b0138838_226219.jpg「シャイニング」は後にスタンリー・キューブリックによって映画化され、これも歴史的なフィルムであるから先にキューブリックの映画をとおしてこの小説を知った者も多いだろう。しかし両者はいくつかの重要な点、とりわけ結末部において決定的な相違がある。言うまでもなく「ドクター・スリープ」は小説「シャイニング」の続編であるから、両者を混同するとわかりにくくなる。この意味でも事前に「シャイニング」を再読することをお勧めする。「シャイニング」のストーリーを手短にまとめるならば次のとおりだ。作家を志望するジャック・トランスは冬の間閉ざされるコロラドの由緒あるホテル、オーバールックホテルに管理人として赴任する。雪に閉ざされて外界から途絶するオフシーズン、この大きなホテルを保守することがジャックの仕事であった。しかしこのホテルには呪われた歴史があり、悪霊に憑依されていた。一方、ジャックの5歳の息子、ダニーは「かがやき(シャイニング)」と呼ばれる一種の超能力をもち、言葉を介さずに意思を疎通したり、他者の思考や未来を読むことができた。ダニーは空想の中で交信する想像上の友達、トニーから、ホテルは忌まわしい場所であるから行くべきではないという警告を受けるが、母ウェンディとともに父に同行する。穏やかな日々とともに平穏に始まった一家三人の暮らしはいくつかの不気味な予兆とともに暗転し、ホテルが雪に閉ざされる頃からジャックは精神に変調を来す。ジャックはホテル内に出没する幽霊のような者たちから、長年断っていた(実際には存在しない)酒を勧められ、妻と息子を殺すように唆される。雪によって隔絶された世界に次第に狂気が渦巻いていく描写はキングの独擅場といえようし、キューブリックの映画も原作をかなり改変しながらも鬼気迫るものであった。未読の読者もいることと思うから、物語の結末はここでは述べないが、「ドクター・スリープ」はオーバールックホテルの惨劇を生き延びたダニーの36年後の物語である。
 序章とも呼ぶべき「その日まで」という冒頭の章においては、いわば本編への緩衝として「シャイニング」の3年後、8歳のダニー、ダン・トランスの物語が語られる。(ちなみに「シャイニング」においても最初の章は「その日まで」と題されて、オーバールックホテル到着までのトランス一家の物語が語られているから両者は韻を踏んでいるともいえようし、いずれの小説にも「生死の問題」と題された章が存在する)ここではダンはなおも惨事のトラウマを引きずり、同時に「かがやき」と呼ばれる能力が健在であることも暗示されている。ダンほどではないが「かがやき」の持ち主で「シャイニング」においてダニーを救った黒人のコック、ディック・ハローランも登場する。ここでハローランがダニーに授けた「忌まわしい存在」への対処法は物語の終盤で大きな意味をもつこととなる。続いて既に成人となったダンが登場する。しかしあろうことか、ダンもまた亡き父、ジャックを破滅へと追い込んだアルコール依存へ落ち込みかけている。おそらくここにはかつて薬物に依存していたというキングの実体験が反映されていよう。アルコール依存との相剋は「シャイニング」「ドクター・スリープ」を通底する裏のテーマなのである。この章の最後でダンは一つの恥ずべき行いを犯し、以後の彼を苦しめるトラウマとなるが、これは「シャイニング」においてジャックが怒りにまかせて幼いダニーの腕を折った事件が何度となくフラッシュバックするエピソードを反復している。このほかにも「シャイニング」と「ドクター・スリープ」の対照はいたるところに認められる。
 ダンはアメリカ各地のホスピスで看護師として渡り歩いている。禁酒と飲酒を繰り返す生活が定職と定着を許さないのだ。ニューハンプシャー州のフレイジャーという町に流れてきたダンは、トニーの「ここがその場所だよ」という声を聞く。ダンは再び自分の中の「かがやき」が増したことを知り、ここから物語が起動する。同じ頃、フレイジャーの近郊の町で一人の女の子が生まれる。出生時に羊膜をかぶって生まれたというエピソードはいうまでもなく「シャイニング」におけるダニー誕生のエピソードの再話であり、この少女、アブラもまた強い「かがやき」をもっていることを暗示している。アブラは幼少時からサイコキネシスや予知といった超能力を使い始めるが、娘の力を彼女の両親、デイヴィッドとルーシーが初めて思い知ったのは2001年9月11日のことであった。この日、同時多発テロの発生を感知したかのごとく同じ時刻、幼いアブラは原因不明のパニックをきたして大声で泣き続けるのみならず、両親にそれぞれテロの現場を幻視さえさせたのであった。そしてアブラと同様に同時多発テロを予知し、ワールドトレードセンターの対岸に陣取ってその一部始終を見守る一団がいた。ローズ・ザ・ハットという女性のリーダーに率いられた「真結族 true knot」たちである。彼らは人間から「命気(スチーム)」と呼ばれる生気を吸い取りながら生き続ける長命の邪悪な種族であり、多くの人間が苦しみ死んでいく場に臨場しては命気を補給していたのである。同時多発テロの惨劇の場に彼らが赴いたのは、そこがありえないほどの栄養補給の場であったためだ。しかし長い年月が経つ間に彼らも少しずつ数を減らし(彼らの場合は「死ぬ」ではなく「転じる」と呼ばれる)、リーダーのローズにとって自分たちの勢力をいかに保持するかが喫緊の問題であった。彼らにとって「かがやき」をもった者の命気はことに貴重であり、彼らはそのような存在、多くは年少者を誘拐し、残忍な方法で殺害し、犠牲者たちから命気を吸い取ることによって生きながらえようとしていた。ダン、アブラ、そして真結族という三つの物語が出揃ったあたりで、物語は加速する。ダンとアブラは出会う前から互いを感知する。ダンはアルコール依存から脱しようとする者たちの会合で無意識のうちにメモ帳にアブラの名前を書き留め、アブラはダンの勤め先の黒板にメッセージを浮かび上がらせる。しかし彼らが互いに感応しあったように、「真結族」、とりわけローズも彼らの存在を感知する。ブラッドリー・トレヴァーという「かがやき」をもつ少年をローズたちが誘い出して殺したことを知って、アブラは「真結族」に強い敵意を抱く。そしてトレヴァーの命気を吸ったことは「真結族」にとって別の意味で決定的な意味をもった。第1部の最後の一文「おなじその二年のあいだ、『真結族』の血流のなかでなにかが眠っていた。それはブラッドリー・トレヴァー、別名、野球少年のちょっとした置き土産とでもいうべきものであった」はキングらしく暗示に富んだ先説法である。
 第2部以降、互いに様々の策略を弄して繰り広げられる正邪の死闘について、ここでこれ以上触れることは控える。ダンはアブラの父親のデイヴィッド、ダンとアブラをともに知る医師のジョンとともに、あるトリックを用いてローズたちに挑む。これ以後のジェットコースターのような展開はキングの近作に共通している。予想されたことではあるが、物語は終盤において「シャイニング」の舞台となった呪われた地、オーバールックホテルの廃墟へと向かう。明示はされないが、「シャイニング」においてホテルに憑依した悪霊と「真結族」は同一であるかもしれない。両者はともに「かがやき」を持つ子供、「シャイニング」であればダニー、「ドクター・スリープ」であればアブラを自らの中に取り込もうとする。あるいは「ドクター・スリープ」においてローズは直接アブラやダンの意識に語りかけるが、これは「シャイニング」においてダニーを救おうとオーバールックホテルへ向かうハローランを、悪霊が彼の意識に直接語りかけることによって恫喝したことと似ている。「真結族」については作中でバンパイアという言葉が用いられるが、確かに彼らのふるまいは血液ではなく精神力を貪るバンパイアといってよく、この点から太古よりのバンパイア伝説、キングであれば「呪われた町」に登場する邪悪な存在も連想されるかもしれない。一方で「シャイニング」において邪悪な存在は名をもたず、一種の匿名的な幽霊であるのに対して、「ドクター・スリープ」においては固有名詞と人格をもち、複数の具体的な存在として描かれる。「シャイニング」においてオーバールックホテルという場に憑依した正体不明の悪霊は「ドクター・スリープ」においては擬人化されている。物語の怖さという点で「シャイニング」の方が一枚上手に感じられるのはこのせいであろうか。「アンダー・ザ・ドーム」「22/11/63」はいずれもどちらかといえばSF的な設定の物語であり、そのためか先ほどジェットコースターと呼んだリーダビリティーに富んでいた。正統的なホラーに回帰した本作でも、「シャイニング」や「ペット・セマタリー」にみられた物語全体に霧のように立ち込める不分明な恐怖に代わり、具体的でわかりやすい擬人化された悪との闘争が描かれている。この点は本書を論じるにあたって評価が分かれる点かもしれない。
 「シャイニング」においては冬の間、雪によって隔絶されるホテルに閉じ込められた恐怖、移動できないことの恐怖が描かれる。この点も「ドクター・スリープ」とは対照的だ。「真結族」は多くのオートキャンプ場を所有し、多くの車を連ねてそれらをめぐりながら生活している。忌まわしい行為を通じて通常の人間とは比較にならない長命を得た彼らにとって、同じ場所に留まることは自分たちの異質さを周囲に気づかせる危険があるからだ。あるいは久しぶりにトニーの声を聞いてニューハンプシャーの小さな町に留まることを決意するまで、ダンもまた移動によって人生を消費してきた。移動と滞留という対立的な主題からキングの小説を分析することも可能ではなかろうか。「呪われた町」や「スタンド」、あるいは「セル」においては移動が優勢であり、「ミザリー」や「アンダー・ザ・ドーム」では滞留もしくは移動の不可能性が主題とされている。「シャイニング」と「ドクター・スリープ」を同じ物語の前編後編と考えた場合、滞留から移動へ、主題が逆転する様は興味深い。
最初に述べたとおり、「ドクター・スリープ」は36年後のダニーの物語であり、小説自体も「シャイニング」の36年後に発表されているから、物語の時間と現実の時間は同期している。そして物語自体も一つの歴史的現実と接している。いうまでもなく9・11の同時多発テロだ。警察署に保管されたビュイック、突然に立ちこめる霧、なにげない品物や現象が実はこの世界とあの世界を隔てる皮膜であり、それが破れておぞましい恐怖が私たちの現実になだれ込んでくる状況をキングはいくつもの作品の中で迫真的な筆致で描いた。思えば同時多発テロもそのような特異点、皮膜の破れではなかっただろうか。日常の背後に広がる暗黒、キングが繰り返し描いた闇はもはや超自然的なそれではなく、私たちの時代に遍在する。私は村上春樹から宮部みゆきにいたる現代日本の小説に同様の闇を認めることができるし、それはディケンズからドストエフスキーにいたる西洋文学の主流にも共通している。私がキングを読む切実さのゆえんでもある。
by gravity97 | 2015-06-30 22:08 | エンターテインメント | Comments(0)
b0138838_14541432.jpg クッツェーという南アフリカの作家の作品について論じるのは二回目となる。末期癌に冒された女性と黒人の浮浪者の葛藤を描いた「鉄の時代」も厳しい内容の小説であったが、本書もまた気楽に読める小説ではない。とはいえ後で述べるとおり、読後感は決して悪くない。私はクッツェーの小説をこの二つしか読んでいないのだが、両者は互いによく似ている。それは主人公たちの背景に広がる不透明な不穏さである。いずれの物語においても戦争あるいは暴動が発生していることが暗示されており、スラムや収容所といった不吉な状況が主人公たちといわば地続きでつながっている。しかしそのような状況と主人公たちの関係は明示されていないのだ。このため一種の不条理な状況が出現しており、本書から先日、このブログでレヴューしたアンナ・カヴァンの「氷」が連想されたこともこのような問題と関わっている。「鉄の時代」に描かれた虐殺事件には現実のモデルがあったとのことであるが、「マイケル・K」でKが彷徨する世界はさらに抽象度の高い内戦が続いているかのようだ。
 最初の数頁を読むだけで、主人公が担ういくつもの負性が明らかとなる。「マイケル・Kは口唇裂だった」という冒頭の一文に始まり、知的障害とみなされて学校から追い出され、恵まれない子供たちを集めた「ノレニウス学園」で保護を受けたことが記される。興味深いことに、Kの人種的アイデンティティーは明らかにされない。これは発表当時アパルトヘイト体制下にあった南アフリカで検閲されることを恐れての配慮ではないかと訳者はあとがきで述べている。やはり訳者によれば作中の「CM-40歳―住所不定―無職」というKの分類コードのうちCとはカラード、つまり混血もしくはアジア系を指しているというが、少なくとも人種的葛藤はこの小説においては前景化されることがない。「ノレニウス学園」を出た後、Kはケープタウンの公園管理局に庭師として勤務した後、公衆トイレの係員を務めるが、ある夜、二人組の男に気を失うまで暴行を受けたことを契機に夜勤を辞めて、再び庭師の仕事に戻る。この小説を通底する暴力のモティーフが最初に顕在化するエピソードである。31歳の6月、Kのもとに母親のアンナ・K(先に引いたアンナ・カヴァンとの頭文字の一致は偶然であろうか)から病院から強制的に退院させられたという知らせが届く場面から物語が起動する。アンナ・Kは家政婦として長く雇われていたが、浮腫のため寝たきりとなり、入院していたのだ。「マイケルは自分の義務と思うことから逃げたりはしなかった。何年も前にノレニウス学園の自転車置き場の裏でくり返し考えさせられた難題、なぜ自分がこの世に生れてきたのかという難題にはすでに答えが出ていた。母親の面倒を見るために生まれてきたのだ」アンナ・Kは自分が生まれたプリンスアルバートの農場に戻ることを願い、マイケル・Kはその望みをかなえようとする。しかし南アフリカでは移動することすら自由ではない。列車の座席の予約、さらには今居住する地区から出ることに対する警察の許可証が必要であり、いずれもカフカ的な官僚機構によって永遠に宙吊りにされている。Kは手押し車を改造して母を乗せ、文字通り自力でプリンスアルバートへの脱出を試みるが道中は難渋し、断続的に発生する市街戦が二人の行く手を阻む。時にトラックに乗せてもらい、時に間道を手押し車に母を乗せながら続けられる母と息子の道行きは弱った母の死によって突然に断ち切られる。Kはせめて母の遺灰をプリンスアルバート、彼女が働いていた農園に撒くことを願って旅を続ける。決して楽な旅ではない。時にKは兵士たちに徴用されて労働を課せられ、親切な一家に助けられ、旅を続ける。このあたりの描写はリアルでありながら、一種の幻想性さえ宿している。目的地のフィサヒー農場にたどりついたKはそこで山羊の群れ、ポンプと貯水池を見つけ、庭師としての経歴を生かして自給自足の生活を始める。人に見つからないように隠れ家を整え、携えていた種からカボチャとメロンを収穫する逸話からは誰しもロビンソン・クルーソーの物語を連想するだろう。しかしこのような生活も長くは続かない。街に出たKはそこで倒れ、キャンプに収容される。「ジャッカルスドリフ再定住キャンプ」の名が示す通り、Kのような流民を収容するために設置されたとおぼしきキャンプでKは労働の対価として食事と住居を与えられるが、そこに留まることを好まず再び脱走する。フィサヒーの農場に戻ったKは再び時に昆虫や植物の根さえを食用とする厳しい自給自足の生活を続ける。しかしその周辺を捜索に来た兵士たちによって再び発見されたKは体調の悪化とも相俟って病院へと送られる。続く第Ⅱ部では小説の中で焦点化される対象がKから彼を治療しようとする病院の若い医者へと転じる。この変化は重要である。このパートが存在することによって、私たちは初めてKを客観化する語りを知るのであるから。しかし予想されたことではあるが、Kはこの病院にも長居をすることはない。最後の短い断章、第Ⅲ部において、Kは母親が住んでいた街区に戻り、そこで知り合った男女と関係をもちながら、次のように独白する。「思い返してみるに、俺がやった間違いは十分な種子を持っていなかったことだ、Kはそう思った。ポケットごとに違った種子の包みを入れておけばよかった。(中略)それから、おれがやった間違いは種子を全部いっしょに一箇所に蒔いてしまったことだ。一時に一粒だけ蒔くべきだった」物語は再びKが農場への帰還を決意する場面で終わる。
 一読してわかるとおり、この物語は一種のロード・ノヴェルである。Kは物語の中で移動を続ける。ケープタウンやプリンスアルバートは実在の地名であるから、南アフリカの地理に詳しければ実際の距離や位置関係についても思いをめぐらしながら本書を読むことができるだろう。しかし冒頭のエピソードからも明らかなとおり、この国には移動の自由は存在しない。移動には官憲の許可が必要とされ、それがなければ流民とみなされて「再定住キャンプ」へ収容されるのだ。Kが一つの場所にとどまり、ゆったりとした生を送るのは「農場」に隠れ住み、作物を育てる場面であるが、その際にもKは兵士たちに見つからぬように細心の注意を払う。本書で描かれる世界は二つに画然と分かたれる。一つは農場における自由な生活であり、もう一つはキャンプや収容所における管理された生活である。後者において食と住居は保証されるが、前者においてはKの庭師としての能力がなければ生活は維持できない。実際に「農場」で時に虫を食べながら、ほとんど絶食して過ごすKの姿は非現実的にさえ感じられる。実際に病院においてもKはほとんど何も口にせず、第Ⅱ部で彼を治療する医師は次のように述べる。「もう一つきみのことで知りたいのは、あらゆる食物に対するきみの食欲を奪ったものとは、きみが荒野で食べていたものとは、いったい何かということだ。(中略)マナの味がきみの味覚を永久に麻痺させたとでもいうのか」マナという言葉が示されているが、食物を口にしない庭師からはいくつもの宗教的なイメージが連想され、本書が一種の寓意性を帯びていることは明らかだ。そもそもKという名前からカフカを想起しないでいることは難しい。本書に対してカフカとロビンソン・クルーソーの結合という評がなされたことはよく理解できる。とはいえKが何の寓意であるかは明らかとされず、第Ⅱ部でKを前にして当惑を隠しきれない医師は、私たちと同じ場に立っている。一方の世界が戦争や暴力、管理と結びついているのに対して、Kが希求するのは安らぎに満ち、大地と結びついた世界だ。種を蒔くことと遺灰を土に撒くこと、本書の核となるエピソード、生命が大地から到来し大地へと帰還していくイメージは美しい。キャンプや病院への収容と脱走を繰り返すKは二つの世界の間を往還する。二つの世界は共存しているといえよう。先にも述べたとおりこの物語に登場する地名は現実のそれである。一方でここに描かれた警察国家、誰ともわからぬ敵と永遠に戦争を繰り返す兵士たち、スラムと荒廃した土地の連なりのイメージは直ちに現実を反映しているとはいえないにせよ、私たちにとって決して未知のものではない。映画や小説で私たちは既にこのような光景に見慣れている。南アフリカという言葉からたやすく連想されるのはニール・ブロムカンプの「第9地区」に登場したエイリアンたちのスラムであり、あるいはアルフォンソ・キュアロンが「トゥモローワールド」で描いた警察国家、小説であればオーウェルの「1984年」は言うに及ばず、最初に挙げたカヴァンの「氷」、あるはポール・オースターの「闇の中の男」、そしてコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」。ブラッドベリの「華氏451度」から昨年の横浜トリエンナーレを連想してもよい。これまでこのブログで取り上げてきた作品やテーマばかりではないか。この小説は1983年に発表され、南アフリカの近未来を暗示しているとの評があったとのことだ。周知のようにアパルトヘイト体制は90年に崩壊したが、私の見るところ、この国はまだその傷から癒えてはいないようだ。そしておそらく30年前に予言されたこの小説の世界は現在、コロニアリズムに代わるグローバリズムという名の暴力によって南アフリカどころか世界的な規模で実現されつつある。日本でも人種隔離、端的にアパルトヘイトを称揚した女性評論家の発言は記憶に新しいし、フクシマに広がる荒廃した土地をKが旅したとしても何の違和感もないだろう。戦争に向かうこの国において、私たちはKのように一粒の種を大地に蒔くことができるだろうか。今という時点で読むことによって、私は本書が豊かな暗喩に富んだ傑作であることをあらためて思い知った。
by gravity97 | 2015-06-15 14:57 | 海外文学 | Comments(0)

iPod + K374 SILVER by AKG

b0138838_1948435.jpg

by gravity97 | 2015-06-09 19:49 | MY FAVORITE | Comments(0)
b0138838_20175416.jpg このところ新聞もあまり読まないし、TVにいたってはほとんど見ない。震災後、日本の劣化がひどいが、その最たるものの一つはマスコミであろう。完全に翼賛化して政権の広報部かと見紛うばかりだ。国会における首相のあまりに品性に欠けたというか、人として見るに堪えない言動に対してはさすがに一部の報道が批判を浴びせているが、編集委員が首相に招かれてのこのこ会食に出掛けるような新聞社に体制を批判する資格があろうはずはない。従軍慰安婦問題への「誤報」が政権と右翼勢力からの激しい攻撃にあったという事情はあるにせよ、朝日新聞の編集委員もこのような「会食」に参加したと聞いて、私は深く失望した。最初に述べたとおり、私はこのところ新聞をしっかり読んでいないのだが、二つだけ必ず目を通す連載があり、いずれも朝日新聞に掲載されているからだ。一つは不定期で連載されている長谷部恭男と杉田敦の対談、そしてもう一つは高橋源一郎が毎月一回寄稿する「論壇時評」である。このほど四年分の連載、48本の記事が『ぼくらの民主主義なんだぜ』としてまとめられ、刊行された。
 朝日新聞の論壇時評はこれまでも必ずしも政治学や社会学の専門家でない書き手を得て、時に興味深く読んだが、高橋の時評の鋭さとリーダビリティは圧倒的だ。天の配剤と呼ぶべきであろうか、これほどまでのひどい時代に対して、よくぞ高橋という異才を対峙させたと思う。この時評の一回目はあの震災のほぼ一月後、2011年4月28日に掲載されているのだ。私は最初に掲載された内容をよく覚えている。それというのもそこに描かれている情景を私もほぼ正確に体験したからだ。震災から10日は経ってはいなかったが、福島の原子力発電所が破滅的な事故を起こしたことは明らかになっていた時期、私はやはり震災そして原子力災害と関係した協議の帰路、名古屋から新大阪まで新幹線を利用した。乗るとすぐさま私は車内の異様さに気づいた。ほとんどの乗客が幼い子供を連れた母親だったのだ。隣に座った女性と短い会話を交わす中で、私は彼女たちが震災と原子力災害から避難する途上にあることを知った。私は今でも車中のなんともいえない異様さと張りつめた緊迫感をまざまざと思い出すことができる。そして今、私たちはさらに異常な状況にある。震災と原子力災害でかくも傷ついた私たちが、それから五年も経たないうちに、憲法が認めておらず歴代の政権もことごとく否定した集団的自衛権を可能とする法律を整備した国に住むこととなり、「東京オリンピック」の狂騒によって被災地の復興は明らかに阻害され、きわめつけと言うべきは数年間原子力発電がなくとも私たちの生活になんら不自由はなかったにもかかわらず(新幹線の車内で若い母親が怯えていた「計画停電」とは一体何だったのか)早ければこの夏にも原子力発電所が「規制委員会」のお墨付きを得て再稼働しようとしている。一言で言って狂気の国であり、破滅へひた走る現在の私たちは第二次大戦直前の日本の姿を彷彿とさせる。この問題についてはもう一冊の批評と関連させて、後で立ち戻ることにするが、高橋は今触れた連載の初回で次のように明察している。「もしかしたら、わたしたちが向かおうとしているのは(第二の)『戦後』ではなく、(第二の?)『戦中』ではないのか。だとするなら、わたしたちが目の前にしている『戦争』とは、何だろうか」不幸にも今まさにこの言葉は的中しつつあるように感じられる。48回にわたる時評で論じられるのはヘイト・スピーチであり、ブラック企業であり、特定秘密保護法であり、従軍慰安婦問題である。いずれも平時であれば良識によって抑制され、批判され、理性的に論じられた問題であったはずだ。震災と原子力災害以後、戦時にある私たちの社会を、あたかもたががはずれたかのように、差別と憎悪、隠蔽と欺瞞が猛烈な勢いで蝕みつつあることを高橋の時評は抉り出す。
 高橋の巧みさは、引用するテクストの豊かさに由来するだろう。かつて同じ高橋は同じ新聞に連載した文芸時評において、広告から新聞社説といったおおよそ非文学的なテクストの中に「文学」の本質を開示するスリリングな読解を行ったが、同様の問題意識はここでも健在だ。高橋はいわゆる論壇誌のみならず、実に多岐にわたるテクストを渉猟する。ツイッター、フェイスブックといったSNSはいうまでもなく、映画や展覧会、田村泰次郎の小説から自民党の「日本国憲法改正草案」までを引用しつつ刺激的な議論が展開される。(引用された「文献」は連載時同様、注釈から確認することが可能だ)新聞に掲載される文章であるから、ある程度のわかりやすさが求められたことは予想できるが、高橋は明らかに誰にも届く言葉で自らの思考を紡ぐことを意図している。ハーバーマスやピケティが引用されることはあっても、それは難解な思考によって状況を俯瞰するためではなく、あくまでも私たちが自分の目線を介して状況を理解するうえで有用な一つの補助線として引かれている。私たちは現在の首相のふるまいから、彼が言葉に一切の信を置いていないことを理解している。食言や虚言のみならず、この数カ月、彼が国会で発した言葉からは、あたかもオーウェルが『1984年』で描いたニュースピークあるいはダブルスピークといった倒錯的な話法が寓話ではなく現実に用いられている状況を示すかのようだ。戦争を平和と呼び、拘束を自由と呼ぶディストピアは現実としてかくもたやすく実現されつつあるのだ。それがナオミ・クラインのいう、災厄を奇貨とした「ショック・ドクトリン」であったのかどうか直ちに判断はできないが、おそらく2010年の終りにこの時評への執筆を打診された高橋もわずか5年のうちに、時代がかくも暗転するとは想像できなかっただろう。原子力発電所の事故処理、ヘイト・スピーチ、橋下「改革」、首相官邸デモ、従軍慰安婦問題、ブラック企業、朝日新聞の誤報問題、ISの人質事件、多く暗澹たる話題が続く。しかし私たちが本書を読み進めることが苦痛でないのは、高橋がさまざまな表現をとおして、未来を切り開こうとする人々の小さな声を聞き取るからである。高橋自身があとがきに次のように記している。「この国は、(おそらく)かつて一度も体験したことのない未知の混乱に入りこんでいったように見えた。だから、ぼくは、一回一回の『時評』を、ほんとうに手探りするように書いていくしかなかった。大きな声、大きな音が、この社会に響いていた。だからこそ、可能な限り耳を澄まし、小さな声や音を聞きとろうと努めた。もう若々しくはなくなったのかもしれないけれど、できるだけ、自分の感受性を開き、微細な電波をキャッチしようと思った」高橋の感性はまだ十分に若々しい。そして自らの感性を総動員して小さな声を聞き届けることができなければ、高橋自身にとってこの批評を書くことは辛い作業だったはずだ。逆に高橋は大きな声、大きな音に対して懐疑的だ。「甘えているわけじゃない」と題された章において、高橋は自分の経験に即して、曾野綾子の「私の違和感 セクハラ・マタハラ・パワハラ 何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員たちへ」(それにしても書き写すだけでも暗然とするタイトルだ)というエッセーを痛烈に批判する。高橋は自らが保育園に子供を連れて通った体験から説き起こし、保育園に子供を迎えに行く母親たちが(会社と子供の両方に対して)強い自責の念に駆られていることを指摘し、「産休」のような「女性をめぐる制度」を利用する女性は「自分本位で、自分の行動がどれほど他者に迷惑をかけているのかに気がつかない人」だという批判がいかに不当であるかを説く。この回の時評では高橋が珍しく正面から他者の言葉を名指しで批判しており、私も大いに共感したが、それというのもこのように弱者に対して一面的な「正義」を振りかざす「大きな声」が蔓延しているのが震災後、原子力災害後の私たちが置かれている状況であるからだ。在日朝鮮人、生活保護受給者、就職活動する若者、従軍慰安婦、これらの人々がいかに心ない言葉で傷つき、追い詰められているかについてはここで縷言する必要もないだろう。そして今日、最も大きな声で人々を恫喝しているのが国会という公の場で品性の下劣さを丸出しにしたぶざまな応答を繰り返す総理大臣や閣僚たちであることに私たちは絶望的な思いを感じる。「ぼく」あるいは「ぼくたち」という一人称が採用され、決して声を荒げる印象のない本書の中で二つの章のみ、「おれ」という一人称が採用されている。それは自民党が発表した「日本国憲法改正草案」について論じた「自民党改憲案は最高の『アート』だった」と言う章と朝日新聞バッシングについて論じた「〈個人的な意見〉『愛国』の『作法』について」という二つの章だ。怒りによって反駁することはかえって相手の術中にはまってしまう。高橋の冷静な筆運びには明らかにこのような認識がうかがえるのであるが、さすがにこの二つの章においては高橋も冷静に論じることができなかったと考えるべきであろうか。
b0138838_20183419.jpg さて、本書を読みつつ、あらためて震災後の年月を振り返るならば、先にも述べたとおり、いくらなんでもこちらには進まないだろうという方向にこの国が進んできたことが理解される。原発再稼働という方針(この経緯についてはこのブログでも触れた大鹿靖明の「メルトダウン」、それも単行本ではなくバックラッシュについても触れた文庫版を読むことをお勧めする)、特定秘密保護法案の成立、東京オリンピックの開催決定、憲法「改正」への策動、職業学校化される大学、そして今回の安全保障関連法案。常識的に考えてなぜこのような状況が発生するのか、私は全く理解ができなかった。しかし最近、このような疑問にきわめて説得的に答える対談を読んだ。示唆に富む内容であるから、本来ならばこの対談に関しても一篇のブログを割くべきであろうが、今まで述べた問題と関連して合わせてごく簡単に触れることとする。内田樹と白井聡の「日本戦後史論」である。白井についてはかつて「永続敗戦論」を論じた。この対談も基本的に「永続敗戦論」の延長上にあり、前半の議論はその確認といってよいが、後半になって二人は永続敗戦のレジームが今日の日本においてはさらに別の機制に転じているのではないかと論じる。それは一種の破滅願望である。内田は意見が拮抗して議論が生産される状況よりも一気にどちらかの極に触れることを日本人は好むと指摘し、白井は次のように述べる。「原発事故のことに関しても、なるべくそれを忘れようとする国民の傾向が非常に強い。だから一方でカタストロフィックなことが起きることを待望するような無意識がありつつ、実際そういうことが起きると、起きたら起きたで、『何も起きていない。あんなのは大したことないんだ』というこれまた現実の否認がある。なんだか奇妙なバランスというか、アンビバレントな状況にあると思います」確かに今、日本には無意識の破局願望が渦巻いているように感じられる。それは自分たちが破滅に向かって進んでいることを漠然と気づきながらも、なおも政府を、天皇を護持した結果、滅んでしまったかつてのこの国の相似形ではないだろうか。確かに愚かな政治家たちや内田のいう「忖度する小物」たちの恣にされているこの国を一回リセットしたい思いは私にもある。しかしそれは次の震災や原子力災害、あるいは戦争を期待することによってではなく、異なる意見を聞き入れ、対話を重ねるという、地道な努力を続けて達成されなければならない。弱者への憎悪と嫉妬が「大きな声」で語られる今日、それは気が遠くなるほどの時間がかかる作業かもしれない。しかし私たちは遅さをむしろ尊ぶべきなのだ。高橋、そして内田と白井もこのような救いに「民主主義」という名を与えていることは偶然の一致ではないだろう。
 「日本戦後史論」の中で白井は不気味な暗合を指摘している。東京オリンピック、1964年のそれではなく、1940年の戦争によって開催できなかった幻のオリンピックから2020年の東京オリンピックまで80年、その折り返し点の1980年に何があったか。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議してアメリカや日本がボイコットして実質上実現されなかったモスクワ・オリンピックである。40年の東京と80年のモスクワ、両者の暗合が示すのは、もし何らかの理由で予定されていたオリンピックが開催できなかった場合、それから10年以内にその国家は滅んだという事実の反復だ。震災や大噴火、何よりも原子力発電所の事故処理の失敗、2020年の東京オリンピックが幻に終わる理由を私は直ちにいくつも思い浮かべることができる。果たしてこの国が滅ぶ前に私たちは「民主主義」を回復することができるだろうか。
by gravity97 | 2015-06-06 20:20 | 思想・社会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック