Living Well Is the Best Revenge

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優雅な生活が最高の復讐である

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 未知の作家の抜群に面白い小説を読んだ。ハリ・クンズルという名前から直ちに作家の国籍を言い当てることは難しいが、クンズルはインド系のイギリス人。オックスフォード大学に学び、現在はニューヨーク在住とのことだ。インド系の英語作家といえば、直ちにサルマン・ラシュディが連想される。実際にクンズルはインドの文学祭に参加した際に、同国では出版が禁止されているラシュディの「悪魔の詩」を朗読するパフォーマンスを行ったこともあるという。しかしラシュディの小説がムンバイやカラチといったインド大陸を舞台としているのに対して、本書はアメリカ中西部の砂漠、きわめてアメリカ的な風景のもとに第二次大戦後から今日にいたるアメリカの精神史を凝縮するきわめて特異な内容の小説である。アメリカを主題としてインド系の作家によって英語で執筆された小説。日本という(実は特殊な)国家においては同一視される三つの要件、土地、民族、言語が一度分解されて、一つの必然性のもとに再び統合されたのがこの小説であるといえるかもしれない。今回はかなり内容に踏み込んで論じる。先入観をもたずに小説に向かいたい読者は先に本書を手にされたい。
 決して読みやすい小説ではない。特に冒頭部で読者は唖然とするだろう。「動物が人間だった頃、コヨーテはある場所に暮らしていた。『ハイキヤ! ここの暮らしにはもう飽きたぞ、アイキヤ、砂漠に行って、料理をすることにしよう』コヨーテはそう言って、研究所を作る場所を捜しにRVで砂漠へ行った。持っていったのは食パン十斤とラーメン五十袋。ついでに景気づけのウィスキーとマリファナも」冒頭から読者は珍妙でポップな神話風の語りの中に投げ込まれる。続いてエノラ・ゲイが広島に向かって飛び立つのを見送った飛行機整備士がUFOに拉致されるというこれまたぶっとんだエピソード、そして2008年、ニッキーという名のミュージシャンがロスアンジェルス郊外のモーテルでマリファナを吸って酩酊するという物語が続く。これらのばらばらなエピソードは果たして一つのストーリーへと回収可能なのであろうか。クンズルの手綱さばきは絶妙だ。断章形式で語られるいくつもの物語は相互にあいまいな文脈を形成し、時に矛盾しながら総体として「民のいない神」という傑出した小説をかたちづくる。ばらばらの断章から成立する小説形式から、私は最初、コルタサルの「石蹴り遊び」を連想した。しかし読み進めるうちに、この小説の断章形式はかなり綿密に構想されていることが理解された。それぞれの断章は西暦による暦年によってタイトルを与えられており、時系列として整理することが可能である。最初こそ相互に関係のないエピソードが重ねられているように感じられるが、読み進むにつれてこの小説はいくつかののサブストーリーを縄のように糾(あざな)っていることが理解される。中心となる物語は2008年と2009年の年記をもち、ほぼ現在の時制に立つ。アメリカに移住したパンジャブ人の家系に育ち、MITで物理学を学び、量子確率論を市場の予測に応用する投資会社の敏腕トレーダー、ジャズと妻リサ、彼らの息子で自閉症(この言葉を使用することに抵抗を感じるが、訳語として用いられているため、ひとまずこのまま用いる)のラージ、三人の親子をめぐる物語だ。ジャズの出自が作家を反映していることはいうまでもない。ジャズは多くの葛藤を抱える。インド系の一族とユダヤ人である妻の間には文化的な断絶があり、ことに一人息子が自閉症であることがわかってから、彼と妻、両親と妻の関係は悪化する。ヘッジ・ファンドとして荒稼ぎする会社の中にあっても彼は自分が正しいことをなしているという確信をもてない。とりわけ言葉をしゃべらず、頻繁に癇癪を起こすラージとの関係は緊張をはらんでいる。しばしば回想や連想が挿入されるため、必ずしも時間軸に沿っていないが、いくつも断章をとおして、ジャズとリサが知り合い、ラージが生まれるまでの物語、そして現在の彼らをめぐる不穏な状況が浮かび上がる。都会の生活に疲れた彼らは家族の再生を求めてカリフォルニアの砂漠に旅に出る。二番目のストーリーは1958年の年記をもつエピソードから始まる。この年、やはりカリフォルニア、モハヴェ砂漠で「アシュター銀河指令」なる宇宙的な存在との交信を主張する狂信者たちが大規模な集会を開く。この集会は一つの惨事とともに幕を閉じるが、そこに集まった者たちの後日談がもう一つの物語の系列をかたちづくる。彼らはカウンター・カルチャー、いわゆるヒッピー文化と親和し、フリーセックスと神秘思想、ニューエイジ思想によって結びついたコミューンを形成する。最終的に彼らは古い共同体から激しい弾圧を受けるが、彼らとそれを取り巻く人々の物語が二番目の系列だ。実はこれら二つの系列の物語は登場人物においてゆるやかに結びついていることが読み進めるうちに理解される。三番目の系列はわずか二つの断章から成り、年記としてはさらに以前の1920年、先住民の文化を研究するデイトンという男と妻の物語である。先住民の神話や言語を調査するデイトンに対して先住民たちは心を開かず、さらにデイトンが白人の子供を連れた先住民を見かけたことから、子供を誘拐した疑いのある先住民に対して人狩りが始まる。先住民=インディアンとの抗争という主題からはかつて論じたコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」も連想されよう。これらのストーリーに加えて一つの断章によってのみ語られるいくつかのエピソードが語られる。例えば18世紀のスペイン伝道師についての報告。19世紀にモルモン教徒たちが幻視した光景。語られる物語は時代も登場人物も多岐にわたる。
 一見ばらばらなそれぞれのストーリーを束ねているのは何か。以上の説明から想像できよう。それはモハヴェ砂漠という土地、正確にはそこにそびえるピナクル・ロックと呼ばれる三本の尖塔状の岩山である。UFO信者たちはその傍らで大集会を開き、修道僧は天使に出会い、ジャズたちは事件に巻き込まれる。砂漠に屹立する三本の巨大な岩山とはまことにアメリカ的な風景であるが、実際には存在しないこのような風景が三位一体という神秘的啓示を暗示していることも行間から明らかだ。岩山に引き寄せられるように集い、驚くべき体験をする人々、かかるイメージから誰もが想起するのはスティーヴン・スピルバーグの映画「未知との遭遇」であろう。実際にこの小説においても宇宙の高次な存在との交信について語られ、先にも触れた冒頭に近い挿話においては、ピナクル・ロックの上に浮かぶ巨大な円盤から降り立った宇宙人たちに招かれて、一人の飛行機整備士が光の中に歩み出る。この場面から「未知との遭遇」のラスト・シーンを連想しないことは難しい。あるいはカリフォルニアならぬネヴァダの荒涼とした土地のモーテルに様々な人物が呼び寄せられるように集まるというディーン・R・クーンツのSFサスペンス「ストレンジャーズ」も連想されよう。
 しかしクンズルの小説は遥かに深い。もう一つの映像的記憶を召喚しよう。砂漠に直立する尖塔、このイメージからスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスが導かれることに異論はないだろう。実際にクンズルはこの小説の冒頭に三つのエピグラフを記しているが、そのうちの一つはキューブリックのフィルムの原作であるアーサー・C・クラークの言葉から引かれている。さて、よく知られているとおり、この映画の冒頭で人類の祖先とも呼ぶべき猿人が空に投げた骨(人にとっての道具の暗喩だ)は空中で回転しながら、宇宙船へと変わる。骨も宇宙船も人にとって道具として同じ意味をもつことを暗示するシークエンスであるが、かかる対照はこの小説にもたやすく認められる。1958年、ピナクル・ロックの前に集まるUFO教の信者たちに対して案内人(ガイド)は次のように唱える。任意の部分を引用する。「われわれは、星々の間でアシュター銀河指令部として知られている組織の代表だ。指令部はあなた方の文明を、歴史の夜明けからずっと監視下に置いてきた。(中略)しかしながらわれわれは今回、ルールに反して干渉する決断をした。あなた方が今、大変な危機にあるからだ。人類は物質をある未熟なやり方で扱う方法を発見した。あなた方が原子力と呼んでいる、原子を分裂させるテクノロジーだ」いかにもニューエイジ思想やオカルトにかぶれた戯言と批判するのはたやすいし、一方で本書は文化が資本によって収奪された今日、カウンター・カルチャーを再評価する試みと読めなくもない。ジャズは勤務先のヘッジ・ファンドでサイ・バックマンという辣腕トレーダーのもとで「ウォルター」なるシステムの開発に関わるように求められる。「ウォルター」とは地球規模の新しい量的分析モデルであり、市場におけるある種の予測可能なふるまいを見つけ出し、それを取引に利用して莫大な利潤を生むシステムである。「ウォルター」を稼働させることによってジャズは「1960年以降のCPUトランジスタ数とアフリカ系アメリカ人単親家庭男児の知能指数と、タイと東南アジアにおけるメタンフェタミン系覚醒剤蔓延の疫学的分析との間に周期的相関サイクルがあることに気づいた」50年代のUFO教をオカルティズムとして批判することはたやすい。しかしその一方で私たちが生きる時代に跳梁するヘッジ・ファンドが拠って立つ理論も一種のオカルティズムではないか。両者の対比は最先端のヘッジ・ファンドの金融工学も怪しげなUFO教とはなんら変わるところがないと説くかのようだ。しかも現代のオカルティズムはその影響力によって一つの国家の財政を破綻させるほどの力をもっているのだ。実際に自分たちの投資行動によってホンジュラスが財政破綻する可能性を知ったジャズは取引の中止を社長に訴え、自らのキャリアに幕を引くこととなる。
 ピナクル・ロックは空飛ぶ円盤と人類、神と人が出会う場である。そこは二つの世界が奇跡のように接する場であり、そこから消失と帰還という主題が派生する。ジャズとリサはラージを連れて砂漠にピクニックに行くが、ラージはピナクル・ロックの下の洞窟で忽然と消える。ラージを捜す二人、敏腕トレーダーの障碍をもった息子の誘拐という話題にジャーナリズムは食いつき、二人はメディア・スクラムの嵐に見舞われる。この事件は実際に近年、アメリカやヨーロッパで起きた幼児誘拐や、さらには両親に嫌疑がかけられた事件をモデルとしているだろう。しかし子供の消失は初めてではない。1958年に同じ場所でUFO信者たちが集会を開いた際にも参加者の一人、ジョウニーは娘のジュディーを失っていた。目撃者によればジュディーは光る男の子(グロー・ボーイ)とどこかに遊びに行ってしまったという。1970年の年記が付された断章ではジュディーの帰還について次のように語られている。スペース・ブラザーに一度連れ去られたジュディーは「ある日、まるで散歩から戻ってきたみたいな様子で、砂漠からあらわれた」このエピソードは物語の中で再話される。エピソードの一つとして、湾岸戦争下のイラクから眷属とともにかろうじて脱出したライラという少女は、中東に派遣される予定の兵士たちがイラクでの生活をあらかじめ体験できるように、モハヴェ砂漠の中に建設された現地そっくりの街でその住民として生活している。(魅力的な設定であるが、果たして実話であろうか)ある晩、知り合った黒人兵士から借りたナイトヴィジョン(暗視装置)を装着して出かけた彼女は、夜の砂漠を歩いて来る「光る男の子」を見つける。それは行方不明のラージであった。さらに消失と帰還という主題はラージにおいて奇妙な屈折を帯びる。砂漠からの帰還後、ラージは言葉を覚え、自閉症が治癒したかのような言動をとる。しかしジャズは喜ぶどころか、リサに対して、ラージが別人になったのではないかという恐怖を語る。ここからも一つの映像的記憶が喚起されるかもしれない。クリント・イーストウッドの「チェンジリング」である。そして同じ題名の小説が大江健三郎によって発表され、チェンジリング(取り替え子)がヨーロッパに伝わる伝承であること、神隠しや隠れ里といったエピソードが日本の民話の中にも典型的に認められることまで思いを馳せる時、この物語の射程はさらに広がるかのようだ。いくつものストーリーが複雑に嵌入しあい、さらに神秘主義からSF、ニューエイジ思想から民話やゴシップまでが砂漠に屹立する奇岩のもとで交錯する。
 タイトルの「民のいない神」とは何の暗喩か。エピグラフに掲げられたバルザックの言葉がその答えだ。「砂漠には何でもある。と同時に、何もない。砂漠は神だ。しかし、そこに民はいない」「民のいない神」とは物語の舞台となる砂漠のことであろう。以前、よくLA経由でニューヨークに向かったが、その際に上空から白茶けた砂漠が一面に広がる荒涼とした光景を何度も目にした。アメリカ中西部の砂漠とはアメリカという国家にとっての無意識、あるいは原風景といえるかもしれない。スティーヴ・ライヒやコーマック・マッカーシーといった私のお気に入りの音楽家や作家が砂漠を主題とした作品を発表していることもこれと関係しているだろう。Gods Without Men 、神が複数であることに注目しよう。UFO教の信者たちは宇宙の高次の存在を信じ、辣腕トレーダーたちーは小さな国家が破綻しようとも自らの利潤を崇める。先住民を指導する神父は天使に会い、兵士はイラク人を殺すために別の砂漠に向かう。登場人物の多くがアメリカに移住してきた者たちであることにも留意すべきであろう。様々の神が、いくつもの歴史が、無数の血統がアメリカという場所で出会う。本書はイギリスに生まれ、アメリカで暮らすインド系の作家でなければ書くことができない、アメリカについての壮大な寓話といえるかもしれない。
by gravity97 | 2015-05-19 20:54 | 海外文学 | Comments(0)

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by gravity97 | 2015-05-17 20:17 | BOOKSHELF | Comments(0)
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 ロックに関する私の原基ははるか昔、中学時代にかたちづくられたから、よもや自分が仕事に就いてから当時聞いていたミュージシャンのライヴに接することなどありえないと考えていた。しかし時に奇跡が出来する。以前このブログにも記した88年のピンク・フロイドのツアーはそのような神の来臨の一つであったが、それからさらに30年近くが経過した今年、本当に信じられない体験をした。いうまでもない。ポール・マッカートニーのワールド・ツアー「OUT THERE」だ。
 私は少し遅れてきたビートルズ世代に属するから、ポールを最初に意識したのはウイングスを結成する前後のアルバムであったはずだ。[Band on the Run]と[Venus and Mars]という二つの歴史的名盤は私のロックの原点であり、その後に発表されたウイングス名義のいくつかのアルバムも愛聴していた。しかし1980年に来日した際、ポールは大麻の不法所持で現行犯逮捕され、この事件を契機としてウイングスも活動休止状態に入り、私も80年代以降、ポールからは遠ざかってしまった。このブログを書くためにインターネットを検索して驚いたのだが、ポールは80年以降も10枚以上のソロ・アルバムを発表している。しかし私はそれらを聴いておらず、一昨年に発表された[NEW]で久しぶりにポールの歌声を聴いた。知られているとおり[NEW]からは日本でも何曲かチャートインしたし、ダン・フレイヴィンの作品を換骨奪胎したようなカバージャケットも私の興味を引いた。思い起こせば、中学の頃はラジオでヒットチャートをチェックして一喜一憂しながらウイングスやらイーグルスを聴いていたが、そのようにしてロックと接することがなくなったことも80年代以降ポールから遠ざかった理由かもしれない。[NEW]はいかにもポールらしいのびやかな佳作であり、あらためてポールの魅力を再発見することとなった。[NEW]が発表された同じ年、ポールは久しぶりにジャパン・ツアーを行い、大阪、福岡、東京で公演した。もちろん私はそのニュースを知っていたが、正直言ってコンサートに足を運ぼうとまでは思わなかった。しかしこの公演に行った中学以来の親友からとんでもなく素晴らしかったという評判を聞き、彼がわざわざチケットを手に入れてくれたこともあって、今回いそいそと出かけたような訳だ。彼の言うとおりであった。生涯にわたって記憶される最高の夜となった。
 友人の勧めもあって早めに会場に着いた私は、まず記念グッズの特設売り場に並んだ。すでにここにも長蛇の列ができており、レジにたどりつくまでに30分を要した。会場限定のTシャツは既に売り切れており、私はツアーのTシャツとキャップ、公演のパンフレットを求めた。(ただし友人によれば会場限定のTシャツはデザインが一昨年のツアーとほとんど変わっていないとのことだ)ポールのコンサートであれば来場者は必ずこれらのグッズを求めるであろうから、もはやこれは一大産業といってよい。グッズをバッグに収め、さらにビールとチキンナゲットを買い込んで席に向かう。私は東京ドームを初めて訪れた。二階席から舞台ははるか遠いが、両脇に巨大なモニター画面がそびえ立ち、ポールやバンドの映像が映し出されるであろうことが理解された。開場は4時30分、開演は6時30分と記されていたが、ほぼ7時になろうかという頃、ステージが開幕した。
 オープニングは「Magical Mystery Tour」。ポールは既に大阪でも公演を行っており、その際の報道でこの曲でスタートすると聞いていたので驚きこそなかったが、ポールのヴォーカルをライヴで聴くことの感動は予想をはるかに超えていた。続いて[NEW]から「Save Us」が演奏された。このツアー自体も「OUT THERE」と銘打っているから[NEW]から何曲か演奏されることは当然予想されたが、このほかには「New」と「Queenie Eye」という妥当というかポールらしい名曲が演じられた。「OUT THERE TOUR」でありながら「Everybody Out There」は今回演奏されなかった。(23日の公演のサウンド・チェックの際に演じられたという情報がある)三曲目は「Can’t Buy Me Love」、おそらくこれを聴いただけでこの公演に行ったかいがあったと思うファンも多いことではないだろうか。続いて「Listen to What the Man Said」と「Let Me Roll It」というウイングス時代の名曲が続く。既にこのあたりで私は呆然自失の状態である。同行した友人は私以上のファンであり、今回の東京公演はその日が二回目。演奏された曲目のセット・リストはすでにインターネット上で入手可能であったから、あらかじめそれを持参して曲の異同を確認していた。実は今挙げた曲のうち、公演によっては「Magical Mystery Tour」が「Eight Days A Week」に、「Can’t Buy Me Love」が「All My Loving」に、そして「Listen to What the Man Said」が「Jet」にスイッチされていたらしい。ウイングス時代の傑作「Jet」を聴けなかったのは大いに残念であるが、「Listen to What the Man Said」とどちらを選ぶかと問われれば答えることは大変難しい。28日の武道館公演ではこれ以外にも若干の曲目変更があった模様だが、東京ドームではアンコールに「I Saw Her Standing There」と「Can’t Buy Me Love」の二つのヴァージョンがあった以外は同じ曲が同じ順で演奏されたらしい。続いて「Paperback Writer」や「The Long and Winding Road」といったビートルズ時代の名曲が続く。このあたりギターを次々に取り換えながら歌い続けるポールの姿は圧巻だ。私はオペラグラスで舞台の上の、そしてモニターに大きく映し出されたポールを見る。72歳だという。確かに老けている。しかしこれはこの夜、そこにいた者であれば誰でも感じたことであろうが、舞台の上のポールはエネルギッシュで年齢を全く感じさせないのだ。このコンサートは最終的にほぼ3時間、全37曲が演奏されたが、その間ポールは出ずっぱり、ギターとピアノを演奏しながらずっと歌っている。休憩は全くなく、水を飲むことさえない。信じられるだろうか。ここから最後まではひたすら突っ走る感じだ。実際、最初は少し声が出てないかとも感じられたのだが、初期のソロ・アルバムから選ばれた名曲「Maybe I’m Amazed」や「Another Day」のあたりから実に声ものびやかになり、まさにポールの独擅場だ。もちろんバックを固めるバンドも完璧である。以前触れたピンク・フロイドのライヴも完璧に感じられたが、彼らの場合、映像やライトワーク、スモークの演出といったステージ全体が完璧であった。これに対してポールの場合、ステージ自体はさほど凝っていない。あくまでもポールの歌と演奏、そしてバックバンドの力量によって奇跡のようなステージが実現されていた。ゲームソフト用に作曲されたという新曲「Hope for the Future」では背景におそらくゲーム用の映像が流される。そして後半はビートルズ時代の曲が中心に演奏された。「Lady Madonna」や「All Together Now」そして「Eleanor Rigby」、「Ob-La-di, Ob-la-da」といった誰でも知っている名曲が続く。ステージの上で、ポールはレノンとジョージのために一曲ずつを捧げる。思えばポールが日本で大麻所持のために拘束された同じ年、レノンは暗殺され、2001年にはジョージも没した。私は決して熱狂的なビートルズ・ファンではないが、今、自分がポールと同じ場にいるということの意味に思いをめぐらした聴衆は多かったはずだ。コンサートはいよいよ終盤に差し掛かる。ここからはたたみかけるように名曲が続く。まずは「Band on the Run」、まさかこの曲を日本で聴けるとは。ビートルズ時代の「Back in the USSR」そして「Let It Be」。ポールがピアノで弾き語る「レット・イット・ビー」を聴いているのだ。さすがに私もこのあたりで感極まって涙腺がゆるんだ。クライマックスは「Live and Let Die」。「007死ぬのは奴らだ」のテーマ曲として知られるこの曲はメリハリの効いたロックン・ロールで曲と連動して舞台で火柱が爆発し、最高の盛り上がりとなる。最後は「Hey Jude」、ポールの弾き語りに続いて、最後のフレーズをポールと客席が掛け合いで歌う。ポールと一緒に「ヘイ・ジュード」を歌っているのだ。一貫してポールは観衆に向かってサービスを続ける。「カエッテキタヨ」「ゼッコーチョー」「イッショニウタオウヨ」たどたどしい日本語で常に聴衆に語りかけるポールは本物のエンターテイナーである。もちろんこれで終わるはずはない。アンコールも二回。まずは「Day Tripper」定番の「Hi Hi Hi」そして「I Saw Her Standing There」。これで終了かと思っているともう一度ポールが現れた。二回目のアンコールはまず順当に「Yesterday」そしてなんと「Helter Skelter」、偶然ではあるが、先日このブログで椹木野衣の『後美術論』に触れて、ホワイトアルバムに収められたこのなんとも不吉な曲に言及したばかりだ。ロックン・ロールの名曲ではあっても、さほどポピュラーとも思われないこの曲が演じられたことに大いに驚く。そしてラストは[Abbey Road]の最後を飾る名曲「Golden Slumbers」「Carry That Weight」「The End」のメドレーであった。
 今でも夢のように感じられる三時間であった。先にも述べたとおり、私は80年代以降のポールのソロ・アルバムをほとんど聴いていない。知らない曲も多いのではないかと少し危惧していたのだが、ビートルズ時代の曲が多く演奏されたこともあって、ほとんどの曲に聞き覚えがあった。ただしさすがにビートルズのアルバムに収められた曲に関しては、直ちに曲名を思い浮かべることができない曲もいくつかあった。ポールほどのミュージシャンとなるとファンのマニアックさもただものではない。今回、この記事を書くためにインターネットを検索したところ、熱狂的なファンの手によって、全ての公演で演奏された曲目、さらには本公演前に行われたサウンド・チェック(ポールは公演の前に必ずサウンド・チェックを行い、しばしば本公演で演じられない曲目を演奏されるらしい。ごく限られた数の人に対して有料で公開されていると聞いたが、なんと「Junior’s Farm」や「Letting Go」が入っているではないか)のセット・リストが公開されている。今回、かなり具体的かつ詳細に公演の模様を記すことができたのはこのセット・リストの存在に負うところが大きい。私もあらためて演奏された曲目を確認した。ポールは90年頃からステージでもビートルズ時代の曲の封印を解き、今回も半分以上がビートルズ時代の、いわゆるレノン=マッカートニーの曲であった。一方でウイングス時代の曲がやや封印された印象がある。ウイングスを通してポールになじんだ私としてはもう少しこの時期の曲があってもよかったかと思う。実際、ポールの急病によってキャンセルされた昨年の来日公演では「Venus and Mars / Rock Show /Jet」という夢のようなメドレーや「Junior’s Farm」といったウイングス時代の名曲が演奏される予定であったという噂もあり、私と友人は破格の入場料で話題となった最終日の武道館公演では前者のメドレーが再現されるのではないかと話し合った。(実際にはそれまでの公演とほぼ同じ、それどころか、曲目数も少なかったようである)もっともこれらの曲については久しくCDの音源とならなかった3枚組ライヴ[Wings Over America]がようやく2013年に発売されたことによって、今では絶頂期の演奏として聴くことが可能になっている。そもそもポールに演奏してほしい曲のリストを作り始めたならばきりがないし、それこそ3時間どころか丸一日歌い続けても終わらないだろう。今回あらためて感じたのはポールのショーマンシップのみごとさというか、端的にミュージシャン、ロックン・ローラーとして誠実さである。私は音楽であろうと美術であろうと、アーティストに特に人格的な高潔さを求めようとは思わない。しかし多くの場合、優れた作品を作り出すアーティストは人格的にも秀でており、聴衆のためにあれほど熱心に演ずるポールの姿からは、遠く離れた二階席からも、人としての温かさや真面目さが痛いほど伝わってきた。聴衆の年齢層は高めであった。おそらく私より年上であろう、初老に近い男性がアンコールにいたるや口々に「ポール、ありがとう」と叫び出す気持ちは私にも十分に理解できた。
 コンサートが終了し、東京ドームを出ると10時を回っていた。私と友人は水道橋の居酒屋で牛タン料理を肴に、その日の興奮を何杯ものビールで鎮めた。彼とは中学以来の親友だが、高校と大学が別だったこともあり、久しぶりの再会でもあった。当時、田舎の中学の同級生であった私たちはLPレコードとしてリリースされたばかりの[Venus and Mars]に熱狂し、どの曲をシングルカットすべきか熱く論じあったものだ。よもやそれから40年ほどの時を経て彼と一緒にポールのライヴを聴くこととなるとは。震災以来、とめどなく堕ちてゆくこの国にあっても、人生は捨てたものではないとたまさか感じられた瞬間であった。
by gravity97 | 2015-05-07 10:32 | ロック | Comments(0)

アンナ・カヴァン『氷』

b0138838_15585816.jpg アンナ・カヴァンは近年、日本でも再評価の高まっているフランス生まれのイギリス人作家である。私も以前「アサイラム・ピース」という短編集を読んで、独特の文体と作品にみなぎる緊張に圧倒された覚えがある。本書は1985年にサンリオSF文庫に収められた後、2008年に改訳復刊されたが、版元の在庫がなくなったため、今年、ちくま文庫で再び復刊されるという数奇な運命をたどったカヴァンの代表作である。不安定な精神を抱え、ヘロインを常用していたというカヴァンは本書を刊行した翌年、1968年に不審死を遂げた。(当時、ヘロインは違法ではなく、自殺の可能性は否定されている)本書の読後感を一言で言うならばJ.G.バラードの終末感とカフカの不条理文学の結合であろうか。まことに鮮烈な印象を与える傑作である。
 この小説は「私は道に迷ってしまった。すでに夕闇が迫り、何時間も車を走らせてきたためにガソリンは実質的に底をついていた」という一文で始まる。実にこのパッセージに本書の核心が凝縮されている。つまり、「氷」は主人公たる「私」が常に別の場所に向かってひた走るロード・ノヴェルであり、同時に主人公を取り巻く世界は尋常ならざる緊張を負荷されている。世界は大規模な気候変動によって寒冷化し、氷に閉ざされつつあるのだ。終盤に象徴的な情景を主人公が飛行機から眺める場面がある。このような描写だ。「虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の屋根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった」大洋が氷に閉ざされてゆくヴィジョンは非人間的かつ幻惑的であり、本書の基調を形成している。気候変動による世界の破滅という物語はバラードをはじめ、SFに多くの先例があるが、物語の中ではそのような事態がなぜもたされたかについての説明は一切なく、破滅に抗う者もいない。人々はあたかも定められた運命であるかのごとく地表を、大洋を覆い尽くす氷からの脱出を試みる。終わりなき移動は本書に一貫するモティーフといえよう。寒冷化と呼応するかのように都市では内乱が発生し、略奪や暴行が蔓延し、伝染病や飢饉、戦争の噂も広がっている。崩壊しつつある世界の中をあてもなくさすらう主人公からは、以前このブログでも取り上げたコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」が連想されてもよい。しかしこの物語の異様さは登場人物たち、そして彼らの行動に背景や脈絡が与えらない点にある。今、あてもなくと述べたが、これは正しくない。名前をもたず外面的な描写を完全に欠いた主人公は物語を通じてひたすら「少女」を求めて彷徨する。主人公と少女の関係は冒頭で次のように述べられている。「あの少女に会いに行くという抑えがたい思いは自分でも理解できなかった。異国にいる間中、彼女のことが私の意識から離れることはひと時たりとてなかったが、かと言って、帰国の理由が彼女だというわけではなかった。この地域に何か不可解な切迫した非常事態が起こっているという噂を調査するためだ。だが、この国に着いた途端、彼女は強迫観念となり、私は彼女のことしか考えられなくなった」すでにこの時点で主人公の「少女」への執着は明らかであるが、「少女」とは誰か、主人公とどのような関係をもつか、物語の中では一切明らかとならない。今引用した一文からうかがえるとおり、主人公はヨーロッパの北部を連想させる地域(土地に対して「フィヨルド」という言葉が用いられている)が氷結する状況を調査するためにほかの国から派遣されたエージェントらしい。実際に身体能力の高さや多額の現金を所持していること、時に偶然を装って届けられる秘密の指示といったエピソードはこのような推測を補強する。しかし主人公の口からは自らの役割や少女との関係が一切説明されることがない。一人称による物語でありながら、読者と物語の間には常に不透明な膜が張りめぐらされているかのようだ。さらに作中にはもう一人、「長官」と呼ばれ、絶大な権力をもつ人物が登場する。物語の冒頭で夫のもとを逃れて出奔した少女を求めて、主人公は凍りつつある世界をさまよい、彼女が「高い館」と呼ばれる城館で長官に庇護されていることを知る。主人公は「高い館」から少女を連れ去ろうとするが、少女はしばしば主人公を拒絶し、逃亡する。いたるところで少女は消え失せるが、いたるところで見出される。私、少女、長官の「パ・ド・トロワ」(三人組の舞踏)として物語は進行する。しかしそれはいかにもかみあわないまま続けられるのだ。ここで三人がいずれも固有名を与えられていない点は注目に値する。カフカのK、オースターのブルーのごとく、登場人物は記号化、抽象化されているといってもよかろう。しかしこの小説を寓話と呼ぶにはあまりに鮮烈なイメージが次々に提示される。先に引いた凍結する大洋のイメージもその例である。さらに冒頭から任意の箇所を引く。「少女は私の正面、ほんの少し斜面を下ったところにうずくまっている。その体の白さも雪にはわずかに及ばない。巨大な氷の断崖が四方に迫っている。光は蛍光を帯びている。冷たく平板な影なき氷光。太陽もなく、影もなく、生命もなく、ただ絶対的な寒気だけが広がっている。私たちは押し寄せてくる氷の環の真ん中にいた」このようなイメージは描写というより幻視と呼ぶことがふさわしいのではないか。主人公の視界に少女はとらえられているが、主人公の位置ははっきりとしない。語り手の身体を欠いた奇妙な描写は頻繁に導入され、このため一人称で語られながらも読者は主人公に焦点化することが難しい。全編を通じて主人公たる私の視点と全能者の視点が混在する不思議な叙法が用いられている。別の言葉を用いるならば、読者はここで語られるのが現実であるか幻想であるか区別することが難しい。終末的で絶望的なヴィジョンを語るきわめて分裂的な語り。これがこの小説の魅力をかたちづくっているといえるのではなかろうか。
 物語の終幕で主人公たる私は軍用車を奪い、少女とともにブリザードの中を疾走する。先に記したような終末的ヴィジョンが横溢するこの小説はきわめて視覚的であり、それゆえ映像的記憶を強く喚起する。この小説における唯一の楽園的なヴィジョンとしては熱帯の島に住むインドリという歌うキツネザルについて語られ、そして実際に主人公は光と色彩にあふれた熱帯の町にごく短い期間、少女とともに滞在する。氷に閉ざされて崩壊の過程にある世界と、気候変動の予兆を秘めながらも陽光にあふれ、花々が咲き乱れる熱帯の町の対比は鮮やかであるが、かかる対比はこのブログでも論じたリドリー・スコットの「ブレードランナー」のいわゆる「インターナショナル・ヴァージョン」のラストシーン、暗鬱な雨が降り注ぐ街から抜け出し、緑と陽光の溢れる情景の中を滑空するデッカードとレイチェルのペアを連想させないだろうか。さらには氷結する世界をひたすら疾走する軍用車のイメージからは、車と列車という違いこそあるが、ポン・ジュノの「スノー・ピアサー」もたやすく連想されよう。
 本書にはクリストファー・プリーストの序文が付されている。プリーストは「氷」をスリップストリーム文学に分類される作品の中でも最重要の作品であると指摘している。スリップストリームとはメインストリームに対する概念で、主流文学に対する傍流文学とでも訳すべきであろうか。プリーストはこのような概念が最初にSFの領域で提起されたと指摘し、バラードと並んでジョン・スラデック、トマス・M・ディッシュ、フィリップ・K・ディックを挙げ、SF以外のジャンルからもアンジェラ・カーター、ポール・オースター、村上春樹そしてボルヘスとウィリアム・バロウズらの名を挙げている。なるほど私がこの小説に魅了されたはずだ。未読の作家も何人かいるが、スリップストリームの系譜は私のお気に入りの作家のラインナップとかなり重複しているではないか。最初に私はバラードとカフカの名を挙げたが、彼らもメインストリームの文学ではないだろう。ただし川上弘美は本書の文庫版のためのあとがきの中で、カヴァンの小説が、プリーストのいう「スリップストリーム」の小説よりもずっと「狭い」という的確な指摘を加えている。確かにカヴァンにとってスリップ/メインという対比は意味をもたないかもしれない。おそらくここに描かれた情景、次第に氷に閉ざされていく世界とその中を疾走する感覚は自殺未遂にいたる精神的な破綻を何度も繰り返し、ヘロインによって賦活された作家の心象風景であろう。そしてかかる極限的な精神から生み出された終末の光景に一種の崇高ささえ感じるのは私だけではあるまい。
by gravity97 | 2015-05-03 16:02 | 海外文学 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック