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 ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵のバーネット・ニューマン「十字架の道行き」連作14点が信楽のMIHO MUSEUMで特別展示されるとの情報を得た時には二重の意味で驚愕した。このような展覧会が日本で開かれることが一つ、そしてMIHO MUSEUMという会場で開かれることが一つ。しかしいずれにも理由があった。まずワシントン・ナショナル・ギャラリーは現在改修中のため、作品の大規模な貸し出しが可能となったようである。そういえば先日も私は三菱一号館美術館で印象派を中心にしたこの美術館のコレクション展を見たばかりであった。ニューマンの14点組はミュージアム・ピースと呼ぶべき作品であるから通常であれば貸出しはありえない。(唯一の例外は作家の回顧展であろう。私は2002年、テート・モダンで開かれたニューマンの回顧展でこの作品を見ている)このような機会に、こともあろうに日本への貸与が実現したことは奇跡のように感じられるが、これには二番目の事情、つまりMIHO MUSEUMという会場が関わっている。この二つの美術館はいずれもI.M.ペイが建築を手がけており、建築がとりもつ縁でこのような展覧会が可能となったらしい。私は以前にもMIHO MUSEUMを訪ねたことがある。レセプションから美術館まで電気自動車で向かう行程はロスアンジェルスのゲッティ・ミュージアムを連想させ、地上から楽園へ、宗教法人でなければありえない豪奢な造りの美術館である。しかしコレクションに現代絵画は含まれておらず、展示はガラスケースが多用されるから、果たしてニューマンの大作が映えるのだろうか。このような懸念は会場に入るや霧消した。ゲストキューレーターにポロック展の大島徹也氏を迎えた展示はさすがによく練られている。出品作は連作14点、そしてこの連作に深く関係する《Be Ⅱ》のみに限定され(ワシントン・ナショナル・ギャラリーはこのほかにもニューマンを所蔵しているから、ニューマン展と銘打って点数を増やすという選択肢もありえたはずだ)、特別展示室ではなく狭い常設展示室に八面の壁を設えて、集中的な展示がなされていた。展示効果は劇的といってよい。その完成度において私は以前このブログでも論じた川村記念美術館でのロスコ展を想起した。今述べたとおり、私はこの連作を2002年にロンドンでニューマンの回顧展でも見ている。その際にも強い印象を受けたが、今回とは比較にならない。これらの作品は回顧展の一部としてではなく、あくまでも独立した連作として見られるべきであろう。それどころか展覧会全体の印象としては今回の方が強いかもしれない。まさにモダニズム絵画の絶頂を画する作品であり、必見の展示といえよう。
b0138838_21515662.jpg 「十字架の道行き Stations of the Cross」とはキリスト教美術にとって伝統的な図像の一つである。キリストが死刑を宣告され、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩み、そこで磔刑に処されるまでの物語を14の場面に分けて描くものであるが、場面が多すぎるせいか、「聖衣剥奪」といった図像が単独で描かれることはあっても連作として知られる例としてはマティスのヴァンス、ロザリオ礼拝堂の装飾プランしか思い浮かばない。マティスの作品に関して岡崎乾二郎が「ルネサンス 経験の条件」の冒頭で詳細な分析を加えたことは記憶に新しい。私たちはまずニューマンがここに展示された連作を長い期間にわたって制作した点に注目しなければならない。《第一留》と《第二留》が1958年に制作された後、この連作は基本的に二年間に二点ずつというペースで制作され、1966年に最後の二点が完成された。つまり連作の開始から完成までには8年もの時間が費やされている。これらの作品は66年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で、今回も展示された《Be Ⅱ》とともに初めて公開された。これらの連作に関して私は二つの事実を指摘しておきたい。一つは遅さである。14枚の作品は8年の年月をかけて制作された。少し長くなるが、ニューマンのステートメントを引用する。

 誰かが私にこれらの「十字架の道行き」をつくるように求めたのではない。それらはどこかの教会から委嘱されたものではない。それらは慣例的な意味における「教会」芸術ではない。だがそれらは私が感じ理解するところの「受難」にまさにかかわっている。そして私にとって一層重要なことは、それらが教会なしに存在しうるということである。
 私はこれらの絵画を8年前に始めた。何であれ絵画を始めるに際して私がとってきた仕方で、つまり描くことによって、自分が何か特殊なものをここで扱っていることに思い至ったのは作品を描いているさなかのことであった。(そのとき私は4番目のものに取り組んでいた)あの瞬間、それらの絵画がもっていると感じられた強度が、私に「十字架の道行き」のことを思い起こさせたのである。

 作家が述べるとおり、委嘱された仕事ではないから期限があった訳ではなかろう。しかし今回のカタログの論文にもあるとおり、当時ニューマンは不遇の中にあった。ほかの抽象表現主義の画家が華々しい成功を収める中で、作品は売れず、57年には最初の心臓発作が作家を襲っている。しかし逆境の中にあっても作家は実にゆっくりとしたペースでこの連作を制作している。上の引用にあるとおり、自分が何を扱っているかを想到したのが四番目の作品を制作している時であったというから1960年、最初の作品を描き始めてから2年後のことである。作家自身も自分が何を描いているのか理解するまでに2年もの時間がかかったのである。それはニューマンにとって初めての体験ではなかっただろう。1948年、作家にとってブレークスルーとなる《ワンメントⅠ》の制作の途上で、作家は自分が何をしたかを確かめるために作品をイーゼルの上に留めたまま数ヶ月にわたって思考したことが知られている。ジップ絵画、そしてこの連作は作家にとってもそれがどのような意味をもつかを確信するまでに長い時間を必要としたのである。もう一つの事実も《ワンメントⅠ》との比較が有効だ。色彩や構図といった要素を可能な限り排除した二つの絵画は垂直のジップのみによって成立する点で共通している。しかし根本的な相違として《ワンメントⅠ》は一点の作品として構想されたのに対して、「十字架の道行き」は二点ずつの組として描かれている。絵画が対として構想されている点が二番目の事実だ。《第一留》と《第二留》は1958年に制作され、《第三留》と《第四留》は1960年といった具合に二年ごとに二点というペースがほぼ踏襲されている。
 先にも述べたとおり、「十字架の道行き」はよく知られた物語であり、伝統的な図像である。しばらく前に私はメル・ギブソンの「パッション」を見て、この道行きの苛酷さと凄惨さをあらためて思い知った。もちろんニューマンの作品にはキリストはおろか具象的な対象は一切描かれていない。色彩は白と黒に限定され、注目すべきは地塗りされないカンヴァス、いわゆるロウ・カンヴァスが導入されている点だ。ただし今回、作品を実見して初めて気づいたが、作品中、《第十二留》(主題としてはキリストの死、クライマックスとなる箇所だ)は黒ではなくグレーが用いられている。きわめて微妙な色調の変化なので、実物を見なければわからないし、複製をとおした場合、今回のカタログのような大図版で、あらかじめ差異を見出そうとしなければ識別することの困難な相違である。ロウ・カンヴァスの意味については後で論じる。もう少し子細に作品を見てみよう。198×153cmという作品のサイズは14点とも同一であり、作品の構造もおおむね相似している。《第十四留》など面的な構成がとられた数点を除いて、垂直のジップが画面の左端と画面に向かって右四分の一あたりに貫入している。ただしジップは時に絵具を塗り込んで、時に塗り残して実現されており、色彩の存在と不在、ポジとネガとして成立している。画面にはニューマンとしては比較的珍しい刷毛や滴りの跡が残されているが、興味深いことには多くイメージの右側に残されているため、全体としてこの連作は左から右への方向性を帯びている。今回の展示においても、《第一留》から《第十四留》までは展示室内で時計回りに、つまり左から右へ向かって陳列されている。カタログで確認する限り、64年のグッゲンハイム美術館においても同じ方向性を伴って展示されていた。この点においても《ワンメントⅠ》との比較は有効だ。《ワンメントⅠ》は比較的小品であるが、シンメトリカルな構成をとり、観者に対して垂直的で直面的な印象を与える。時に崇高に擬されるニューマンの絵画における特殊な享受の体験はこのような直接性、そして非時間性と関わっている。モダニズム絵画の知覚の特殊な時間性はマイケル・フリードがミニマル・アートを批判する根拠となった。ニューマンの絵画における時間性はこれとは異なり、作家自身のテクスト「崇高はいま」にいたる豊かな問題群を形成しているが、ここで詳述することは控える。私が指摘したいのは「十字架の道行き」においては明らかに《ワンメントⅠ》とは異なった時間性へのアプローチが用いられている点だ。そこでは一枚の絵画ではなく連作として一つの主題を確立することがめざされている。この連作の主題については先にも引用したステートメントの中でニューマン自身が次のように述べている。「レマ―何のために?―という叫び、これが〈受難〉であり、私がこれらの絵画において喚起しようと試みたものである」レマ・サバクタニ、何故私をお見捨てになったのですかという十字架上のキリストの叫びはこの展覧会のサブタイトルとして与えられているほどに重要である。4枚目の絵画を制作する中で初めて得られたというこの主題はこの連作においていかに実現されているであろうか。
私の予断を述べよう。ニューマンにおいて絵画の主題は、私たちの体験の審級を知覚から事件へと転じることによって実現されている。通常私たちは絵画を視覚的に認知する。絵画とは視覚的であるがゆえに、図版を介しても再現可能であり、作品に直面せずとも同じ経験が与えられるとみなされてきた。しかしニューマンの絵画の知覚はやや異なる。先に色彩に関して述べたとおり、一見黒に見える色彩は実見するならば濃いグレーであり、図版として再現するにはあまりにも精妙なのである。おそらく同様の困難は例えばロスコの絵画にも認められる。ロスコ・チャペルの深い紫の壁画は天井から差し込む自然光の効果とも相俟ってその相貌を刻々と変える。抽象表現主義の大画面はその巨大さゆえに単純な視覚的体験に還元されない特殊な視覚を形成する。ニューマンの大画面は観者の身体を函数として成立しており、見る者に対していわばその場限りの知覚を与える。作家自身が鑑賞に際してなるべく作品に接近するように求めたというエピソードはこのような知覚の成立に関与している。このような体験がミニマル・アートの作家たちに大きな示唆を与えたことに疑いの余地はない。一度きりの視覚、再現されない視覚とは知覚ではなく事件と呼ばれるべきではないか。さらに「十字架の道行き」においては作品のみならず、観者も事件の契機となりうる。キリストが十字架を背にヴィア・ドロローサを歩んだように私たちも時間をかけて絵画の中を歩むのだ。私たちが事件を体験することによって主題が実現されると言ってもよかろう。私はワシントンを訪れたことがないので、ナショナル・ギャラリーでこれらの作品がどのように展示されているか知らない。しかし作家の生前になされたグッゲンハイム美術館での展示の写真を確認する限り、観者は建築の構造上、《第一留》から《第十四留》までを順番にたどったはずだ。この行程は不可逆的だ。つまり一つの方向性とともに展示室をめぐることが作品の構造に組み込まれている。ニューマンのジップ絵画に特徴的であった、瞬時的あるいは非時間的な知覚と、「十字架の道行き」の知覚は大きく異なる。この点はカタログの中でも次のように指摘されている。「《ワンメントⅠ》などの作品が『私はここにいる』という高らかな宣言を引き出すものだとしたら、〈十字架の道行き〉は『私はどこにいるのか?』という疑問を提起しているように思われる」私たちは「十字架の道行き」において複数の場所、複数の時間をもつ。ニューマンは「場の感覚」の重要性について繰り返し論じている。通常のジップ絵画において私たちが絵画によって「場の感覚」を与えられるのに対して、「十字架の道行き」においては私たち自身が「場の感覚」をつかみとらなければならない。ジップ絵画の単数性に対して「十字架の道行き」の複数性。最初に述べたとおり、この連作が二点ずつ対比されつつゆっくりと制作された事情はかかる問題と関わっているだろう。
 グッゲンハイムの展示に際して、ニューマンは連作とは直接関係をもたない《Be Ⅱ》を加えて15点の作品を展示した。「復活」という別称から、《Be Ⅱ》は端的にキリストの復活を暗示しているとみなされている。両端にオレンジと黒が細く塗り込まれたこの作品も構図において特異である。私はこの作品にニューマンがあえて「存在せよ」というタイトルを与えた点に興味をもつ。カバラ的解釈に立つトマス・ヘスはこれをユダヤ教において創造主が被造物に発する命令であると理解する。しかし私はこの命令は私たち観者にこそ向けられているのではないかと考える。つまり絵画という場の中に「存在せよ」と命じられているのだ。「十字架の道行き」において色彩が白と黒に限定されていることはすでに述べた。このほか地塗りされないロウ・カンヴァスも作品の重要な構成要素だ。ニューマン自身もロウ・カンヴァスが必要に迫られて導入されたと述べ、次のように続ける。「それは数ある色彩のなかのひとつとしてではなく、(中略)私は素材それ自身を真の色彩へとつくりかえなければならなかったのである。白い光のように、黄色い光のように、黒い光のように」ロウ・カンヴァスは色彩ならざる光として導入されたのである。「十字架の道行き」がモノクロームと光によって描かれているとするならば、それは「教会なしの受難劇」の表象にまことにふさわしい。これに対してオレンジという「数ある色彩のなかのひとつ」が加えられた《BeⅡ》とは神意ではなく世俗、神に対する人、受難を目撃する民衆、あるいは作品に対する観者の位置を占めると考えるのはいささか安易な発想であろうか。ニューマンの絵画の前に立つ時、私たちを満たす圧倒的な感情については多くが論じられてきた。「十字架の道行き」をめぐりながら、私たちは作品の主題から現実の展示まで重層的に「場の感覚」が実現されていることを知る。本来ならば作品が設置された場でなければ体験できないかかるセンセーションをもはや《アンナの光》なき日本において体験すること、それはまさに一つの奇跡といえよう。
by gravity97 | 2015-04-22 21:54 | 展覧会 | Comments(0)

椹木野衣『後美術論』

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 本書は『美術手帖』に過去14回にわたって連載された内容をまとめた600頁を超える大著である。以前にも記したとおり、しばらく前から私はこの雑誌に愛想を尽かしているので、時折書店でこの連載を立ち読みすることはあっても、不定期の連載でもあり、単行本化されてから通読するつもりでいた。ところが本書が刊行されるとほぼ同時に版元の美術出版社が民事再生を申し立てたという報道があり、入手が不可能となるかもしれないと慌てて本書を求めた。いささか不謹慎な物言いかもしれないが、このあたりの混乱は本書にふさわしい。私は椹木の著作はほぼ読んできた。『シミュレーショニズム』から『爆心地の美術』にいたる美術論と『テクノデリック』『原子心母』といった音楽論が交差する本書は椹木の批評にとっても一つのメルクマールを画す内容であるように感じる。同じように『美術手帖』の連載が単行本化された例として『日本・現代・美術』がある。この著作も実に挑発的な批評であったが、誤解を恐れずにいえば椹木ならずとも書けるというか、椹木が書かずとも誰かが書くべき日本の戦後美術の反・通史であった。しかし『後美術論』は椹木以外には書くことのできない内容であるように感じる。『日本・現代・美術』で論じられる対象については戦後美術に関心のある美術関係者であればある程度の知識を有している。しかし『後美術論』で論じられる対象、とりわけ音楽については美術プロパーの研究者ではとてもカバーすることができない広がりがあるからだ。もっとも椹木のデヴュー作である『シミュレーショニズム』にも「ハウス・ミュージックと盗用芸術」というサブタイトルが付されていたこと、今引いたいくつかの著作の多くが美術と音楽の両方に紙幅を割いていたことなどを想起するならば、筆者の関心はデヴュー以来一貫しているといえるかもしれない。
 本書が狭義の美術批評に収まるか否かはひとまず措くとして、美術批評はしばしば新しい概念を提起することによってその射程を広げた。本書の場合、タイトルとされる「後美術」という概念がそれにあたる。「後美術」とは何か。椹木は本書のカバーに次のような定義を示している。「美術や音楽といった既成のジャンルの破壊を行うことで、ジャンルが産み落とされる起源の混沌から、新しい芸術の批評を探り当てる試み。例えば、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの活動を同じ『後美術(ルビ アート)』と呼ぶこと。(中略)このジャンルを溶解させる婚姻から授かる創造の地平が『後美術(ルビ ごびじゅつ)』である」今示したとおり、本書におけるルビの多用は注目に値する。同じ言葉がルビをふられることによって、時に美術の文脈で、時に音楽の文脈でとらえられる場に私たちは何度となく遭遇する。この定義からも明らかなとおり本書のキーワードは「音楽と美術の結婚」である。本書においてはほとんどの章において、通常音楽家と考えられている作家と美術家と考えられている作家がペアで取り上げられ、両者の関係が論じられている。今の定義にあったとおり、最初に引かれる例はレノンとヨーコであり、現実にパートナーの関係にあった二人から本書を説き起こすことはきわめて自然だ。「後美術」という言葉からはポスト・アート、つまり時間的先後性に関する議論が予想されるのだが、注意しなければならないのは「後美術」とは時間とは無関係な、ややトリッキーな概念である点だ。本書に参照されるべき椹木の著作は2010年に刊行された『反アート入門』であろう。『反アート入門』においては「美術史」が制度としていかに恣意的に構築されたかという問題が、冷戦や近代美術館といった「歴史的」諸問題と関連づけて論じられていた。このような態度を「美術史」に対して垂直的とみなすならば、本書において椹木は水平的、共時的な観点から現代美術の分析を試みる。本書の核心が「音楽と美術の結婚」である以上、美術と音楽のジャンルの関係が問われるように思われる。しかし本書で論じられるのは口当たりのよい「ジャンルの横断」ではない。あとがきの冒頭に椹木は次のように書きつけている。「この本で私は、一貫してジャンルの破壊を行っている。ジャンルの横断ではない。破壊であることが重要なのだ」本書の中で椹木はこのような破壊を繰り返し溶解(メルトダウン)という言葉で言い換えている。震災を経た私たちにとってこの言葉がはらむ不吉なコノテーションは明らかである。一方で、本書と『反アート入門』の共通点としては美術ではなくアートという言葉を使用し、それに積極的な意味を与えていることが挙げられよう。バブル期を連想させる「アート」という言葉は美術に関わる者であれば使うことがためらわれる。確か森村泰昌はどこかで自分が「芸術家」であって決して「アーティスト」ではないことを強く主張していたように記憶する。しかし椹木は「アート」という言葉の融通無碍を逆手にとって文字通りジャンルの溶解を試みるのだ。確かに「アート」という言葉なくしては美術家としてのロバート・メイプルソープの仕事と音楽家としてのパティ・スミスの仕事を共通の地平において論じることは不可能かもしれない。
 本書は記述においても斬新な形態をとる。多くの章の冒頭に椹木自身の体験が語られ、続いて関連する歴史的事実が記述され、さらにそこで提起された主題をめぐる考察などがいわば併置されて連なる。椹木の体験は世界中を舞台にしている。最初の章こそ、オノ・ヨーコとの対談の申し出を東京の自宅で受けたエピソードが記されているが、その後、椹木がそれぞれの章の冒頭に記述する体験は1990年のモスクワ、2005年のウィーン、1997年のロンドン郊外、1991年のニューヨーク、同じ年のロスアンジェルス、そして2012年のMOMAを舞台としている。このような記述が意図的であることは明らかだ。1990年代以降、つまり椹木が美術批評家として活動を始めて以来の様々な記憶が本書の輪郭をなしており、同時にそれは椹木のいう「後美術」がこの四半世紀、もはや場所を問わず看取できる事態であることを暗示している。そしてこのような記憶の中に、突然、現在が挿入される個所がある。「スローターハウスの聖母たち」の章の前篇の途中、113頁である。

……ここまで書いてきたとき、突然、文章を書いている机がカタカタと揺れ始めた。2011年3月11日に起きた、恐ろしい震災の、それは最初の前触れだった。揺れは次第に強さを増し、しかも長く長く続いた。

 1755年のリスボン大震災がヴォルテールの著作に強い影響を与えたように、本書も震災と原子力災害を内部に挟み込み、その圧倒的な影響下にある。もっとも3月11日以降、一体日本に住む誰がそれと無関係に思考を鍛えることができるだろうか。先ほど「後美術」の「後」は時間的な契機を有さないと書いたが、「後美術論」が震災と原子力災害という不可逆的な事件の「後」に置おいて初めて可能な産物であることは、地の文としていきなり乱入するこれらの記述において明らかである。椹木もその事実をわざわざ書き記すことによって、私たちがもはやそれ以前へと戻ることのできない「後震災」の状況にあることを読者に自覚させるのである。
 本書で論じられる主題の射程を粗描しておこう。最初の章では先に述べたとおり、オノ・ヨーコに対談の相手として指名されたエピソードを契機として「音楽と美術の結婚」すなわち「後美術」という概念が提起される。レノンとヨーコのペアを通して本書では例外的に幸福な時代の記憶が語られる。次いでソビエト連邦崩壊直前にモスクワを訪ねた経験から説き起こし、ライバッハという私にとっては未知の音楽ユニット、そしてU2の「ZOO TV」という試みが、共産主義の崩壊と内戦化する世界を背景に論じられる。この部分が書かれた時点ではまだ震災は起きていないにもかかわらず、ZOO TVとの関連においてセラフィールド原子力発電所への抗議行動について言及されている点は予言的でさえある。続く「スローターハウスの聖母たち」の章においてはまずウィーン・アクショニズムのヘルマン・ニッチのOMシアターと関連して初期キリスト教において異端とされたグノーシス主義についてかなり理論的な検討がなされる。私はキリスト教の教理については全く知るところがないが、ヒプノシス、言わずと知れたプログレッシヴ・ロックのジャケットデザインを手がけたデザイナー集団の名称がグノーシスからとられたといった指摘を読むと大いに納得してしまう。この章の後編で扱われるのはシェーカー教徒とエルヴィス・プレスリー、そしてロバート・メイプルソープとパティ・スミスだ。メイプルソープについては、私も登場人物の多くがエイズで悲惨な死を遂げるパトリシア・モリズローによる評伝を読んでいたが、本書の記述も救いがない。例えばモリズローも言及していた伝説的なキューレーター、サム・ワグスタッフについては私もミニマル・アートに関して早い時期に重要な展覧会を企画した人物として知っていた。彼がメイプルソープと交流する中で次第に内面を崩壊させていく記述は痛々しい。実はメイプルソープとワグスタッフのみならず「後美術」に関わった者の多くが悲惨な境遇を生き、あるいは悲惨な死を遂げていることが、本書を読み進めると明らかになる。「後美術」はなぜもかくも悲惨と死の影に彩られているのであろう。我々の時代の表現とは本来的に深く呪われているのであろうか。
 続いて舞台はイギリスへと転じる。ここでも椹木は暗鬱な回想から始める。1997年に椹木はデレク・ジャーマンがエイズで没する直前に築いた庭園をロンドン郊外に訪ねた。今は亡き清水アリカらが同行し、荒涼とした庭園の背後には原子力発電所がそびえていたという。この章のタイトルである「残虐行為への展覧会」が作家J.G,バラードに由来していることはたやすく理解される。「結晶世界」のSF作家として知られるバラードとブリティッシュ・ポップのエドゥアルド・パオロッツィの意外な関係が検証され、さらにスロッピング・グリッスル、あるいはCOUMトランスミッションといった70年代にスキャンダラスなパフォーマンスを繰り返したバンドやユニットについて分析が続く。これらの作家や集団について、日本では美術の文脈でほとんど論じられたことがなかったため、この章は私にとっても学ぶことが多かった。ブリティッシュ・ポップは近年再評価が進んでいるが、椹木はその周辺にこれら全く出自の違う表現者が集い、破壊的な所業を繰り広げていたことを明らかにする。それは私たちがなじんできたお上品なイギリス現代美術とは全く異なる。しかし彼らをいわゆるYBAの起源と考えるならば、「後美術」が地下茎のように70年代以後の西欧に深く根を張っていたことが理解されよう。続く「次は溶解(メルト・ダウン・イズ・ネクスト)」の章ではニューヨークのパンク・ロックが取り上げられる。私はパンクを聴かないのでこの章は十分な理解からは遠いが。セックス・ピストルズに代表されるロンドンのパンク・ロック、ギー・ドゥボールのシチュアシオニスト・インターナショナルの活動に続いて、シンディ・シャーマンとしばしば比較されるフランチェスカ・ウッドマン、パンク・ロックの死の女王リディア・ランチ、写真家デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチといった私にとっても全く未知の美術家や音楽家が「後美術」に連なる系譜として召還される。彼らもまた死や悲惨を濃厚に身にまとっている。続く章は「地獄と髑髏」と題されて「ヘルター・スケルター」というルビがふられ、東海岸ではなく西海岸、ロスアンジェルスの「後美術」が論じられる。「ヘルター・スケルター」とは1992年にポール・シンメルによってロスアンジェルス現代美術館で開かれた伝説的な展覧会である。私はカタログを通して知っており、何人かの作家については西海岸の美術館で見た経験がある。椹木も論じるとおり、東海岸の洗練や主知主義からはかけ離れた悪趣味と不気味な表現の横溢はショッキングであった。例えば代表的な作家であるマーク・ケリーとポール・マッカーシー、彼らの作品に顕著なほとんど犯罪的なフェティシズムやスカトロジーはこれまでに名前を挙げたニッチ、メイプルソープ、あるいはCOUMトランスミッションズと親近性があり、「後美術」の広がりを暗示している。今、犯罪という言葉を挙げたが、「ヘルター・スケルター」は西海岸においておそらく本書の中でも最悪に陰惨な局面と接続する。「ヘルター・スケルター」はビートルズの「ホワイト・アルバム」に収められた異様な楽曲であるが、この曲は西海岸のドラッグ・カルチャーの洗礼を受けたチャールズ・マンソンとそのファミリーに決定的な啓示を与え、女優シャロン・テートらを犠牲者とする一連の惨殺事件の一種の依り代となったのである。椹木が述べるとおり、「後美術」は地域や世代を問わず、この四半世紀の先端的な表現に特徴的な在り方であったかもしれない。しかしその系譜は死と悲惨に彩られており、マンソンをめぐる挿話はその頂点といってよい。さらに椹木は議論を広げ、とりわけこの章で論及される作家や主題は興味深い。例えば私はここではマンソンと「ルシファー・ライジング」の映像作家ケネス・アンガーの関係についてはあえて触れない。あるいは椹木はやはり「ホワイト・アルバム」中の「レボリューションNo.9」と関連して、日本赤軍や足立正生、そして赤瀬川原平(三者の関係について知りたければ、現在、広島市現代美術館で開催されている赤瀬川の回顧展を訪れるのがよい)に論及し、マンソン・ファミリーの世紀末思想をオウム真理教へと関連づける。さらにティモシー・リアリーとアシッド・ロックの関係が語られた後で、奴隷制とジャズとブルースの起源といった文化史的な主題さえも論じられるのだ。それらについては私が下手に解説するよりも本書を精読していただくのがよかろう。最初に述べたとおり、私はひとまず論じられる主題の幅の広がりを画定するに留めておく。
 最後の「歌う彫刻と人間=機械(ルビ マン・マシーン)」と題された章では文字通り、「歌う彫刻」、つまりパフォーマンスと彫刻を一体化したイギリスの二人組、ギルバート&ジョージと「MAN MACHINE」というアルバムを1978年に発表したクラフトワークのペアが論じられる。ギルバート&ジョージが活動した70年前後のロンドンが「後美術」にとって一種の創造的なカオスであったことをあらためて思い知る。スーツで正装した二人組の作品もラディカルさという点は相当なものだ。そしてクラフトワークは1975年のアルバム「放射能」によって本書の隠された主題に直接連なる。私自身も震災直後にこの楽曲についてこのブログで詳しく論じたことがあるので関心のある方は参照していただきたい。本書に散りばめられたセラフィールド、チェルノブイリ、スリーマイル(これらは「放射能」で連呼される土地の名でもある)といった固有名が暗示する原子力発電所への批判は彼らにおいて明確な形をとる。そして実際、椹木は2012年4月11日、MOMAで開かれたクラフトワークの連続公演第二夜、「放射能」の演奏に立ち会っている。レノンとヨーコの生身の身体(平和のためのベッド・インを想起せよ)で始まった「後美術」の系譜は、人の代わりにマネキンが機械的な音声で放射能の恐怖を警告する情景とともにひとまず幕を閉じるのである。
 本書の読後感はかなり暗い。内戦やエイズ、悪魔主義と無政府主義、自殺と幻覚、ここで論じられる主題がしばしば死や悲惨と関連している点については繰り返し述べたとおりだ。椹木は「後美術」を20世紀後半期の芸術の核心をかたちづくる営みとみなし、説得的な議論を展開している。しかしここで紹介される作家は少なくとも美術の領域においては周縁的な作家であり、モダニズム美術が失効する70年代以降の主流と考えることは少々無理があるのではなかろうか。ジャンル、あるいはメディウムを限定したうえで表現の強化、あるいは純粋化をめざすモダニズム美術と「ジャンルの破壊」を標榜する椹木の立場は正反対といってよい。むしろ私は「ジャンルの破壊」という発想が今挙げたような暗鬱な主題を前面に押し出すために捏造された一種のアリバイではないかと考える。言葉を換えるならば、私は椹木の著作に濃厚なペシミズム、あるいはアナーキズムの由来が気になるのだ。最初に私はもう一つの主要な著作『日本・現代・美術』について触れた。そこでも椹木は日本の戦後美術を歴史を形成することなく、忘却と反復を繰り返す「悪い場所」としてとらえるきわめてペシミスティックな立場をとっていたことを想起しよう。歴史に関して水平的な立場をとる『後美術論』においてその水平性を支えるジャンルが「破壊」されたように、「90年代の前衛」から「暗い絵」に向けて逆通史的な体裁をとる『日本・現代・美術』においても歴史の垂直軸に対して、反復と忘却を事挙げて「歴史の破壊」が試みられているのだ。二つの著作の共通点はそれのみに留まらない。『日本・戦後・美術』が阪神大震災とオウム真理教による一連のテロを直接の契機として執筆されたように『後美術論』においては執筆の途中に発生した東日本大震災と原子力災害という体験が文字通りテクスト内に介入している。これら二つの著作を戦後日本において例をみない惨事のトラウマととらえることは考えすぎであろうか。そしあてあらためて思い返すに、椹木の美術批評にはデヴュー作の「シミュレーショジズム」以来、一種のペシミズムがつきまとっていたように感じられるのだ。沈滞する現在の美術批評界において私たちは椹木ほど活発に評論活動を行う批評家を知らないし、近年、その活動の幅はさらに広がっている。しかしその批評の本質がペシミズムにあるとすれば、それは椹木の個人的な資質、私たちの時代の表現の特質、震災以後に瀰漫するファシズムの予兆のいずれに由来しているのだろうか。「後美術論」は現在第二部の連載が続いている。まずはその帰趨を見届けたうえであらためて考えてみたい問題である。
by gravity97 | 2015-04-15 20:19 | 現代美術 | Comments(0)