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 先日より京都で「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」が開かれている。ひとまずメインとなる京都市美術館と京都府京都文化博物館を訪れてみた。予想通りあまたの国際美術展と比べても遜色のない、充実した内容の展示であった。
 知られているとおり、このところ国内で国際芸術祭が相次いでいる。昨年夏の横浜トリエンナーレについてはこのブログでも評したが、その後も札幌で札幌国際芸術祭が開かれ、あいちトリエンナーレと瀬戸内国際芸術祭は来年に開催が予定されている。町おこし地域おこしを絡めた芸術祭のラッシュの中で、後発の京都国際芸術祭にとってその内容をいかに差異化するかということが大きな課題であったはずだ。展覧会に先立っておびただしいプレ・イヴェントが開催され、出品作家が数次にわたって発表されたが、出品作家を知って私はやや失望した。多くの作家が国際展の常連であり、さらにこの国際展のディレクターである河本信治氏が企画する展覧会への出品者であったからだ。ウィリアム・ケントリッジ、ピピロッティ・リスト、やなぎみわといった作家たちは既視感が強い。実際に展覧会を見た印象としても映像が多用される展示、あるいはカタログの形式は「プロジェクト・フォー・サバイヴァル」や「STILL/MOVING」といったかつて京都国立近代美術館で企画された展覧会を強く連想させる。しかし作家や展示方法の類似にもかかわらず、実際に会場を回ってみるとPARASOPHIAは国際現代美術展を知悉し、自身も第一回横浜トリエンナーレのディレクターの一人を務めた河本氏ならではたくらみや仕掛けに満ちた企画であり、国際展の在り方を相対化する、批判的、自覚的な意識が反映されているように感じた。以下、この展覧会の特質を三つの点から論じる。
 この展覧会の成功の第一の理由は、作家を国際展としては比較的少数の40組に限定し、それぞれに十分なスペースを与えた点だ。出品作家はこれまでに何度も国内で作品が展示された作家から、初めて名前を知り作品を見る作家まで多様であるが、数はさほど多くない。展示は二つの美術館以外にも市内に散在しているが、京都市美術館で8割以上を見ることが可能である。市内に設置された作品についても地図等のインフォメーションは豊富であるから、この時期、京都くらいの大きさの町であれば、ミュンスターの彫刻展のごとく自転車を借りて作品巡りをすることも楽しいだろう。現代美術ファンならずとも手頃に作品に親しむことができる作家数とスケールである。国際展に赴くととにかく作品数が多くて疲れ切ってしまうことが多い。確かにたくさんの作品を一度に見ることができるのは国際展の醍醐味であるが、作家数や作品数を増やすことに腐心して、結果として必ずしも質の高くない作品が散見される場合が多いのに対して、PARASOPHIA は明確な対案を提起している。次に論じる問題とも関わっているが、開催にあたって、主催者は出品作家に現地を確認させている。展覧会のフライヤーに次の言葉がある。「PARASOPHIAは準備期間の2年間を通じて参加作家のほとんど京都に招聘しました。作家たちは京都の歴史や文化遺産からだけでなく、人々の暮らし方からも多くのものを読み取り、京都と関わることで新しい作品に挑戦しました。京都市内の場所と出会い、その場の人々や歴史と対話することで新しいビジョンを得た作家たちもいます」予算規模にもよるだろうが、国内外から作家を招聘し、適切に対応するためには確かに40組という出品作家の規模は適正というか限界であったかもしれない。個々の作家には作品に応じてかなり広い空間が与えられる。美術館の場合、時に展示室を数室利用して作品が設置されている。このような贅沢な空間は国際展というより、連続個展といった方がよいかもしれない。映像を使用する作家が多いため、空間的な余裕は大きな効果を上げていた。充実した展示が多いためであろうか、PARASOPHIAは中心的な作品、一人の作家や一つの作品で展示が代表されることがない。確かにメインヴィジュアルのピピロッティ・リストややなぎのトレーラーは強い印象を与えるが、例えば横浜トリエンナーレにおける塩田千春やダニエル・ビュレンのごとき中心的な作品は存在しない。今回のカタログにはディレクターによる出品作家の選定基準が端的に記されている。「参加作家は『私が、いま(も)興味深いと思える作家』という基準で選びました。40組を統合するテーマや表現傾向があるわけではありません」興味深いことに2年前から始めた準備作業の最優先事項は、親しみやすい呼称を決定することであったという。PARASOPHIAとは「向こう側の別の知性」という意味で、言葉の意味と女性的で軽い音感の結合によって選ばれたという。展覧会のテーマや出品作家以前に呼称を決めるという発想は斬新であり、確かにパラソフィアという語感はこの展示にふさわしい。
 b0138838_2055227.jpg第二の特質は作品と会場、とりわけメイン会場とされた京都市美術館との強い親和性に求められる。以前から強く感じていたことであるが、1933年に開館したこの美術館は壮麗な帝冠様式の建築で、内装も実に凝っている。しかしながら恒常的に貸し会場として用いられてきたため、建築は展示壁の中に隠され、全貌をうかがうことができなかった。今回の展示では美術館のほぼ全体を用い、ふだん見ることのできない場所も実に効果的に使用されていた。例えば私としても初めてその存在を知った地下室を利用して二つの展示がなされていた。一つは高嶺格の《地球の凹凸》というインスタレーション、もう一つは「美術館の誕生」という展示だ。後者はおそらく事務局によって企画された展示であろうが、「大礼記念京都美術館の誕生」「接収期から京都市美術館の誕生まで」「現代美術と京都市美術館」という三つのテーマのスライドショーが上映されており、実に興味深かった。昭和天皇の即位の奉祝事業として建てられたこの美術館は戦後、米軍に接収された経緯がある。地下室で70年の時を隔てて私たちの前に示されるSHOE SHINEの文字、当時の靴磨きの看板はあたかもコンセプチュアル・アートのようではないか。そしてこの展示を見て私は長年の疑問の一つが氷解した。「現代美術と京都市美術館」のセクションでは1970年に中原祐介が企画した名高い展示、東京ビエンナーレ「人間と物質」の京都巡回について触れられている。その際にリチャード・セラは市美術館の庭に鉄製のスクエアを敷設し、セラの作品集にも掲載されている(設置場所が京都国立近代美術館と誤記されている文献もある)。私は以前より市美術館に赴くたびにそれとなく建物の近くを捜してみたのだが、見つからず、長らく不審に感じていた。しかし今回の展示に付されたキャプションによればこの作品のあった場所は現在収蔵庫が新設されているとのことなので、おそらくその際に撤去されたのであろう。同じように上野公園に敷設された鉄のサークルは多摩美術大学に移設されたと聞くから、この顛末を聞いてセラは《傾いた弧》同様に怒るのであろうか、それとも場と関係をなくした作品にもはや存在理由を認めないだろうか。
 この問題は国際展の在り方に一つの問いを突きつけるし、PARASOPHIAでかかる問題が問われたことは意味がある。「人間と物質」にあたってセラは東京で次の言葉を残している。「たいていの作家は(東京ビエンナーレのごとき国際展に)来る前にプロジェクトが出来ていて、いわばパッケージをもってやってきて、それを開いて見せているだけだ。それでは来た意味がない。ここ東京にいるなら、東京にいるという事実に立つべきだ。おれはいつもその場所での経験だけに興味がある」東京ビエンナーレの際にも多くの作家が来日したが、今回の展示においても作家たちを招聘し、自分たちの作品が展示される施設や街を体験させたことは大きな意味があるように感じる。作品と場との関係はミニマル・アート以来、何度となく作品とされてきた。この問題に関して注目すべき作品を発表していたのは田中功起である。田中はこの美術館をリサーチして、先にも触れた二つの出来事、米軍による接収と「人間と物質」展の開催に着目する。事前に田中は地元の高校生たちを集め、ワークショップを開催した。彼らは在日米軍に関するレクチュアを聞き、戦争と平和について討論する。展示室の床に布を設置するパフォーマンスはいうまでもなく「人間と物質」におけるクリストの展示の追体験だ。さらに彼らがバスケットボールの練習に励む映像は、接収されていた時期、展示室内にバスケットのゴールが設えられて、米兵たちがバスケットボールに興じていたというエピソードに由来する。この作品からは戦争と芸術とスポーツが一つの場に重ねられた美術館の記憶が立ち現れる。田中は必ずしもサイト・スペシフィシティーを原理とする作家ではないが、今回の発表はこの展覧会でなければありえない内容であった。
 今再び「人間と物質」に触れた。PARASOPHIAは35年前に同じ会場で開かれた国際美術展への応答と捉えることができるかもしれない。この機会に「人間と物質」関係の資料を確認したところ、奇しくも「人間と物質」にも同じ数、40名の作家が参加している。「人間と物質」の場合は日本人作家が12名含まれているが、全ての日本人作家と17名の外国人作家が最初の開催地である東京での陳列に参加したという。この点は「参加作家のほとんどを京都へ招聘した」というPARASOPHIAの取り組みと似ている。展覧会コミッショナーの中原祐介は次のように記している。「それ(人間と物質の関係の協調や体験)はまた、多くの参加者が、アトリエのなかであらかじめ作品をつくり、それを展示するのではなく、直接、場所をたしかめ、その状況を知ったうえで、仕事をするという行為とも結びついている。場所もまた抽象的なものではなく、この人物と物質の触れ合いのなかに包含される無視できない要素だからである」「人間と物質」あるいはほぼ同じ時期に開かれた「態度がかたちになるとき」、あるいは「アンチ・イリュージョン」といった国際展においても同様の臨場主義が認められ、「態度がかたちになるとき」についてはこのブログでも論じた。これらの展覧会においては作家が実際に現地で作品を構想し、設置するという意味において場と換喩的に関係が結ばれるのに対して、PARASOPHIAにおいてはむしろ事前に京都を訪れプレ・イヴェントなどに参加した作家たちがそこでインスピレーションを得て、あらためて出品作品を構想するという隠喩的な関係性が成立している。映像という表現はこのような手法に向いており、「人間と物質」とPARASOPHIAのかかる潜在的な関係性は私には大変興味深く感じられた。
 b0138838_207850.jpg三番目の特質は展覧会と関連した出版物に関わっている。今回、感心したのは会場入口にうずたかく積まれた無料のガイドブックである。来場者はそれを手に会場に向かう。このガイドブックが優れているのは、ほぼ作品の展示順に作品が掲載されていることだ。その点は冒頭に明記されており、逆に言うならば、このガイドブックに従えば展示作品を全て見ることができるのだ。当たり前のことのようであるが、これは親切な配慮である。巨大な美術館や倉庫で開かれる展覧会の場合、私たちは適切な順路を見つけ出すことができず、往々にして作品を見落とすことがある。もちろん必ずしもその順序に従って会場を巡る必要はないが、ガイドブックを片手に作家名を確認しながら進むことによって、来場者は正しい順路と作家についての最小限の知識を知ることができる。通常の国際展でも会場にガイドブックが用意されることがある。しかし多くの場合、それらは有料であり、ガイドブックというより、カタログが刊行されるまでの間、(多くの国際展でカタログは会期中、場合によって終了後に発行される)カタログの代用品としての中途半端な位置に留まっている。今回のようなガイドブックを作成するためには事前に作品の設置場所を定め、作品や作家についての情報を得ておくことが必要となる。PARASOPHIAにおいてこれが可能となったのは作家数の限定、そして事前の下見によるところが大きいだろう。それがなければ地下室が使用されたり、美術館の備品である巨大な展示ケースが展示に組み込まれることはなかったはずだ。無料かつ情報に富み、書き込みやマーキングが自由なガイドブック。決して驚くほどの工夫ではないのだが、その存在はていねいに作り込まれたこの展覧会にふさわしい。そしてかくも充実したガイドブックが無料で準備されたことによって、開幕と同時に会場に準備されたカタログは別の役割を帯びることとなった。350ページに及ぶカタログは出品作品に関するインフォメーションに富んでいる。デザインは河本氏の企画した展覧会のカタログを一貫して手掛けてきた西岡勉氏による。いつものように企画者による簡潔なイントロダクションに続いて、それぞれの作家について作家の言葉や関係者による解説が加えられている。例えばアラン・セクーラのセクションでは表象文化論学会で発表されたセクーラについて研究が掲載されており、それ自体が作家論を形成するかのようだ。インデックスがないため、検索に時間がかかる点が(おそらくは意図された)不便であるが、これほどの情報量をもった国際展のカタログを私は知らない。確かにディレクターや関係者が文章を書き連ねたカタログは数多い。しかし、このカタログでは展示の理念やコンセプトが長々と論じられるのではなく、あくまでも出品作家の資料集であることが目指されている。国際展に関する出版物は単なる報告と考えられがちであるが、PARASOPHIAにおいてはこの点に関しても深い配慮が認められる。
 以上、個々の作家や作品についてはあえて詳しく言及することなく、展覧会全体について論じた。実際には私も会場で多くの興味深い作品に出会ったのだが、それらについてはここでくどくど述べるよりも、まず実見していただくのがよいだろう。私たちは次々に開かれる国際展やらビエンナーレ、トリエンナーレにいささか食傷している。それは多く美術の本質とは全く無関係の、国威発揚、地域おこし、あるいは記念事業といったくだらない目的のアリバイとして作品が召喚されてきたことに起因する。しかし昨年の横浜トリエンナーレ、そして今回のPARASOPHIAと、ディレクターに人を得た時、日本においてもそれなりに興味深い展覧会を実現することも可能なのだ。奇しくも今、信楽のMIHO MUSEUMでもバーネット・ニューマンの奇跡的な展覧会が開催中である。春に向かい、まもなく京都も桜が満開となろう。この時期、二つの展覧会を合わせて出かけてみるならば、現代美術の素晴らしく充実したエクスカーションとなることを私は保証する。
by gravity97 | 2015-03-28 20:11 | 展覧会 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 150324

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by gravity97 | 2015-03-24 20:41 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

b0138838_19322938.jpg 震災に関連したレヴューを続ける。といっても東日本大震災ではなく、今年の初めに20周年を迎えた阪神・淡路大震災と関わる内容である。
 先日、神戸の兵庫県立美術館で「阪神・淡路大震災から20年」という展示を見た。通常は常設展示に使用される展示棟を用いた三部構成の展覧会である。兵庫県立美術館の前身である王子公園の兵庫県立近代美術館は阪神大震災で最も激しく被災した美術館であったから、この館が震災と表現の関係を検証することを自らの責務とみなすことは十分に理解できる。実際に震災から5 年が経過した2000年、兵庫県立近代美術館時代にも「震災と美術」という展覧会が企画され、私も見た記憶がある。この展覧会では震災に触発された多くの作品が展示され、カタログも震災から展覧会が開かれた時点までの詳細な記録を掲載し、震災の記憶の生々しさをうかがわせた。それに対して、阪神大震災から相当の時間が経過した今回の展示では、より巨視的で抽象的なレヴェルで震災と美術の関係を検証する内容となっており、さらに興味深い。今回の展示の三部構成はそれぞれ「自然、その脅威と美」「今、振り返る―1.17から」「10年、20年、そしてそれから-米田知子」と題されている。タイトルから推測されるとおり、最後の第三部のみ個展形式をとり、第一部は他館から借用された作品、第二部はこの美術館のコレクションと震災の際にレスキュー作業の対象とされた作品を中心とした展示である。かかる構成は震災と美術というテーマが重層的な意味をもっていることを暗示している。私の言葉に置き換えるならば、第一部においては美術が震災を含めた自然災害をいかに表象するかという問題が問われ、第二部では逆に震災が美術作品と美術館にいかなる問いを突き付けたか、そして第三部においては震災の表象不可能性という問題が扱われている。
b0138838_19332571.jpg 第一部に展示された作品は比較的理解しやすい。文字通り、自然の脅威としての災害を描いた作品群が展示されている。噴火、台風、そして震災や津波といった自然現象を主題とした黒田清輝から大岩オスカールまで多様な作家による作品が展示されているが、自然災害の被害を記録した作品は比較的少ない。震災後の風景を描いた作品として私は以前、東京都現代美術館で鹿子木孟郎、京都国立近代美術館で池田遙邨という二人の画家のスケッチをまとめて見た覚えがあり、後者は今回も展示されていた。鹿子木には震災を描いた油彩画もあったように記憶する。震災の直後の情景を記録にするには手早く制作できるデッサンやスケッチが有効であるが、記録性において写真には及ばないかもしれない。展示の第二部には阪神大震災を主題とした作品も数点出品されているが、写実的な作例は少なく、上に掲げた福田美蘭の作品のごとく一種コンセプチュアルな表現さえ用いられていた点は留意すべきであろう。この点は東日本大震災においても反復されている。原子力災害という不可視の災害が発生したこととも関連しているであろうが、例えばChim↑Pom や竹内公太の作品は、いずれも映像として成立しており、私たちを襲う災厄が今や絵画のリアリズムを超えていることを暗示している。ところで自然の脅威は災害をもたらすと同時に美に匹敵するセンセーションの起源であることも今日広く知られている。それは崇高という感覚だ。自然の圧倒的な脅威とそれを前にした人間の卑小さの自覚は崇高という観念を呼び起こした。知られているとおり、ロバート・ローゼンブラムはかかる系譜をドイツロマン主義から抽象表現主義への理路として位置づけ、抽象的崇高という概念を提起した。しかし黒田清輝の筆による桜島の噴火から金山平三の描く荒天の海にいたるまで、日本においては崇高という感情を喚起するほどの自然現象や風景を眼前にすることは稀であり、この意味でここに展示された作品はやや中途半端な印象を与える。抽象的崇高という点から私はここに近年の中村一美の作品を加えたい思いがあるが、さすがに展覧会としては分裂的な印象を与えるかもしれない。
 第二部ではかかる夢想を断ち切るリテラリズムが徹底される。最初に津高和一の作品が象徴的に置かれている。いうまでもない、関西を代表する抽象画家であった津高は震災によって夫人とともに落命した。私は作家が存命中にアトリエを訪れたことがある。日差しのよいアトリエでたくさんの猫に囲まれていた夫妻の姿が今も目に浮かぶ。作家のみならず作品も震災で大きなダメージを受けた。この点は既に何度か報告されているが、今回の展示では震災によって物理的に損傷したジュリ・ゴンザレスやメダルト・ロッソの彫刻、マックス・クリンガーの版画などがその修復の記録とともに提示されている。天災とはいえ作品が損傷を負ったという事実は美術館としてはなかなか公表しにくい。今回このような形で展示に加えることが可能となったのは、それらが今日最善とされる方法で修復されたこととともに、やはり震災から20年という時間が経過したことが大きな理由であろうし、美術館が新築され、かつての機能が王子公園から岩屋に移ったことも影響しているだろう。美術館が倒壊した現場で破損した作品の記録を展示することはさすがに生々しい。とはいえ会場には被災した美術館の写真や当時の新聞記事が多数展示され、当時の記憶を留めている。当時、この美術館に勤務していた学芸員が何かのインタビューで、震災直後、美術館を遺体安置所として使用できないかという打診があったと述べていたことを記憶する。かつてキャロル・ダンカンは「美術館という幻想」の中で霊廟としての美術館について言及していたが、美術館と死者との関係は深く思考するに値する。この美術館は損傷が激しいため遺体安置所としても使用できなかったが、当時、避難所として使用され、展示室で人々が生活していた美術館も阪神間には存在するのだ。一方でこのセクションでは被災直後より続けられたレスキュー活動についても紹介されている。中心として取り上げられているのは芦屋にあった写真家中山岩太のスタジオから救出された作品と資料であり、会場にはカメラや資料群、救出されたネガからプリントされた写真作品などが展示されていた。このレスキュー作業は当時の芦屋市立美術博物館や兵庫県立美術館の学芸員、文化庁の呼びかけに呼応した「文化財レスキュー」の専門家チームが参加し、この事業としても最初の試みであったという。余震が続く中での作業は相当に困難であったと思う。展示されていた作品の中には中山が神戸の風景を記録した何枚かの作品があった。そこに写っていた阪急三宮駅の駅舎は戦災には耐えたものの震災で倒壊したとキャプションにあり、いささかの感慨を覚えた。この写真については後でもう一度触れる。このセクションの最後の部分は作品の保存・修復と教育・普及活動を扱い、この美術館で修復された作品や作品に寄せられた子供たちの感想などが紹介してあった。この部分には若干の異和感を覚えた。というのはここで紹介されている作品は例えば1998年に東灘区の邸宅から取り外された北村四海の鋳造レリーフであるが、年代からわかるとおり、直接震災との関係を有していない。先に述べたとおり阪神大震災に始まる「文化財レスキュー」のノウ・ハウは引き継がれ、先の東日本大震災の折にも多くの作品を救出した。レスキュー事業の全貌は二つの震災に関して全国美術館会議から発行された報告書に詳しい。震災は美術館で保存・修復にあたるスタッフにとっても修羅場であり、震災とコンサヴェーションは深い関係がある。しかしこの部分の展示では震災と直接関係のない作品が例示されているため、緊張感が殺がれるのだ。むろん修復作業にせよ普及活動にせよ美術館で日常的に続けられる活動である。いわば戦時の美術館を主題としたこの展覧会で平時の姿を見せられても少々当惑してしまう。今述べたとおり、阪神大震災直後、戦時の美術館においても修復や普及は続けられた。当時の資料を確認するならば、被災後日を置かずしてLAよりポール・ゲッティ美術館の担当者が来場し、破損した作品の処置について助言したという。(奇しくもゲッティ美術館も阪神大震災のちょうど一年前に地震で被災していた)先に述べた文化庁の文化財レスキューの活動もあったはずだ。被災し、修復された作品とともにこれらについて詳しく紹介した方が本展の趣旨にふさわしかったのではなかろうか。あるいは普及活動についても、会場に置かれたパンフレットによれば、世情が落ち着いた3月頃より、全国の美術館から寄せられた作品の絵はがきを避難所等に配布する作業のためにボランティアが活動したこと、あるいは市内の銀行のロビー等を利用して一種の移動美術館を開催したことが触れられている。震災下における修復や普及活動こそ展示に組み込まれるべきではなかっただろうか。
b0138838_19353486.jpg 第二部までが震災と美術の関係を多様な角度から問う内容であったのに対し、米田知子の個展として構成された第三部は趣を異にする。展示されたのは101×120cmのカラー写真が8点。いずれも無人の市街や風景、室内が撮影されている。実はこれらの写真は震災10年後の2005年、芦屋市立美術博物館で開かれた個展「震災から10年 米田知子展」に出品された作品であり、タイトルが示すとおり、震災から10年が経った芦屋市内の風景が写し出されていた。パンフレットによれば、この際には震災から間もない時期に被災地の風景を撮影したモノクロ絵画も合わせて発表され、二つの風景が対比されていたという。私はこの展示を見ていないので、出品作品数や二つの風景がどのように「対比」されていたかはわからないが、撮影対象は作品名として明示されている。例えば《空地Ⅱ―市内最大の被害を受けた地域》、《教室Ⅰ―遺体安置所をへて、震災資料室として使われていた》といった具合だ。これらの写真の意味については会場のパンフレットに的確に要約されている。少し長くなるが引用する。

 震災から10年近く経った時点で撮られたこれらの写真にはたとえば倒壊した建物のように震災に直結するイメージは全く見当たりません。人気のない部屋や、ぼっかり空いた更地など、むしろそこに何も「ない」ことが強調されているようにさえ見えます。写真は目の前にあるものを記録し伝える媒体であるという一般的な理解からすれば、なんとも逆説的なことかもしれませんが、この作品の場合は、震災の具体的なイメージが「ない」がらんと静まりかえった世界であるからこそ、見えない不安や恐怖、そして喪失感が、より強く感じられるのではないでしょうか。そこにはたった10年で「見えないもの」になってしまう、という怖さも含まれているかもしれません。

 美術でも文学でも映画でもよい、私たちは表現によっていかなる対象も表象 re-present できると考えている。字義通り、それは出来事を再=提示することだ。しかし果たしてそうか、歴史の中には表象しえない事件が存在するのではないか。正確にいえば表象することによってその本質を逸する事件が存在するのではないか。このような問題はユダヤ人問題の「最終解決」、ホロコーストをめぐって提起された。具体的にはクロード・ランズマンの1985年のフィルム、「ショアー」だ。現在、東京で上映されているらしいこの作品を私はかつてNHKのBS放送で見たことがある。今、確認すると奇しくも阪神大震災の年、1995年のことだ。私はTVを見る習慣がほとんどないから、この映像を見ることができたのは奇跡的な偶然であった。当時、私はこの作品について知らず、おそらく深夜、何かの理由があってTVをザッピングしている時に偶然に視聴したのであるが、一度目にすると私は目を離すことができず、最後まで見たことを覚えている。私が記憶しているのはかつて絶滅収容所があった場所を映しながら、サヴァイヴァーの回想がヴォイスオーヴァーされる場面、そして確か床屋でランズマンの質問に答える元SSの証言を隠し撮りする場面である。かくも強い印象を受けながら私がこの際の放送による上映を翌日以降見なかった理由は内容のあまりの重さに耐えかねたためであろう。震災がホロコースト同様に表象不可能な事件であるか否かという問題には議論の余地がある。しかしランズマンのフィルムは表象しえないものの表象という難問にいくつかのヒントを与えてくれる。知られているとおりランズマンは記録映像の類を一切使用せず、現在の絶滅収容所跡の風景と関係者へのインタビューによってこのフィルムを構成した。つまり徹底的に現在の視点に立つのだ。かかる視点を得て、不在という問題が浮かび上がる。彼が表象しようとしたのはそこに収容された万を単位とするユダヤ人がもはや存在しないという事実なのであり、それこそがホロコーストの本質なのだ。一事業者の善意によって何人かのユダヤ人が救われたという事件をあたかもホロコーストの表象のごとく差し出すスピルバーグの「シンドラーのリスト」をランズマンが全否定することは当然であろう。物語による表象は事件の本質を隠蔽する。さて、ジャン=フランソワ・リオタールは同じ絶滅収容所について、地震と関連した比喩によって論じている。人間の歴史にとってこの事件は地震計、つまりそれを外部から測定する基準までも破壊するあまりにも大きな地震であったというのである。ホロコーストと地震の類比、そして「ショアー」が制作されて10年後に日本で放映され、同じ年に阪神大震災が発生し、そしてさらにその10年後に米田知子がこれらの風景を撮影したという暗合は興味深い。ここに提示された風景は「ショアー」同様に惨事が発生した場所の現在の風景なのである。先に中山岩太が撮影した阪急三宮駅のイメージについて触れた。それはイメージの充実として存在する。しかし米田は充実ではなく空虚、存在ではなく不在によって事件を表象する。私たちはそれによってしか1995年1月17日の出来事に達することができないのではなかろうか。そして今、私たちは震災から20年、ここに撮影された風景から再び10年を経て作品に向かう。この作品においては時間が重層化されている。表象されるべき事件、表象された風景、作品を見る経験、それぞれが(偶然にも10年という等間隔で隔てられた)異なった時間に帰属しつつ、作品を見る体験の中で一体化されているのだ。この作品、そしてこの展示は深い思索性を秘めている。そして先に引用した一文の中でも明確に述べられているとおり、かかる距離感は経験の風化という問題にも関わっている。
さらに私はここに福島の原子力災害という補助線を引きたい。いまだに放射能を発しながら崩壊を続ける原子力発電所に隣接する地域では、更地さえも造成することができない。そこには2011年3月11日という、あの日のままの不在の光景が広がっているはずだ。かつて収容所にいたユダヤ人たちが殺されて存在しないように、かつてはそこで生活を営んでいた住民たちが強制的に疎開させられてもはや存在しないフクシマの光景。不可視でありながら致命的な放射能。かかる主題の表象は本質として不在の表象、表象の不可能性と関わるのではないだろうか。これに対して例えば現地で若者たちを集めてシュプレヒコールを上げ、それを記録することによってなにがしかの表現が成立したと考えるのは果たして正しい行いであろうか。震災をめぐる表現は作家の倫理の問題へと立ち返るのだ。
 今回の展覧会は未曾有の震災に対して美術家と美術館がいかに対応したかという記録として大きな意味をもつ。かつての私は阪神大震災のごとき体験は生涯にただ一度であろうと考えていた。しかしまもなく私たちはさらに悲惨な震災と原子力災害を経験し、一つの都市どころか東日本が死滅するかもしれない状況を経験した。ミロスワフ・バウカではないが、私たちが食間ならぬ災間にたまたま生を与えられているに過ぎないことは今や明らかだ。果たして私たちは時に表象の可能性さえ超えた出来事に、なおも表現で応じ、さらにその表現を後代に伝えていくことができるだろうか
by gravity97 | 2015-03-17 19:39 | 展覧会 | Comments(0)

b0138838_209341.jpg 東日本大震災から4年目の3月11日を前にして、いとうせいこうの「想像ラジオ」を読む。2013年に発表されたこの小説については発表当時から賛否があったと聞く。確かに軽妙な文体の背後に、書くことをめぐる深い問題が提起されており、評価は分かれるかもしれない。私が感心したのは、東日本大震災という未曾有の災害に対して、いとうが正面から対峙していることだ。これはなかなか出来ることではない。本書から連想される類書の一つは村上春樹の「神の子供たちはみな踊る」であろう。村上は自身の生地である阪神間を襲った95年の阪神大震災に触発されてこの連作集を執筆した。しかしいずれの短編においても震災そのものが描かれることはない。例えば冒頭の「UFOが釧路に降りる」は妻に失踪された男が受けた奇妙な依頼をめぐる物語であるが、そこでは妻が失踪の直前、阪神大震災の被害を報じるTVを終日見ていたという記述があるばかりで、具体的に震災に触れる記述はない。ほかの短編においても震災は微妙な残響を残しているものの、直接の主題として描かれることはない。村上ほどの書き手であっても阪神大震災を小説の主題とすることがいかに困難であったかうかがえよう。かかる困難は表象の不可能性という問題と関わっている。このブログの中でも既に多様な作品に即して論じた点であるが、ある人々が体験した大きな災厄について、果たして他者はその代理として表現に関わることが出来るかという問題だ。現在、クロード・ランズマンの「ショア―」が東京で上演されていると聞くが、実際に生存者がいなかった可能性さえ大いにあったユダヤ人絶滅収容所の体験を一体誰がいかに表象しうるか。5時間に及ぶランズマンのフィルムはこの問題についての真剣な応答であった。ランズマンはスティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」を繰り返し批判する。それはスピルバーグが絶滅収容所という本来的に表象不可能な事件を誰にとっても了解可能なメロドラマに転化しているからであり、表現しえないというこの事件の本質を隠蔽してしまうからである。表象しえないものの表象に対して、ランズマンのフィルムはぎりぎり可能な閾を探求している。この問題については最近も深く考える機会があったので、次回のブログで触れるつもりであるが、地下鉄サリン事件に際しては当事者へのインタビューさえ行った村上が、この連作短編集の中であえて直接に阪神大震災に触れなかった点はかかる困難と関わっているだろう。大きな災害を体験した者、端的に述べるならば死者に代わってなにごとかを語るということは傲慢ではないか。東日本大震災を言語によって表象しようと試みる者にとって、かかる問いは最初の躓きの石であるはずだ。以下、このブログでは本書の内容に深く踏み込んで論じる。白紙の状態で小説に臨みたい方はまず書店に向かうことをお勧めする。(単行本の書影を掲げているが、本書はごく最近文庫化されたから、今であれば書店での入手も容易なはずだ)
 いとうは問いの立て方を変えることによって、このアポリアを巧みにかわす。すなわち死者の代わりに語ることは可能かという問いを、死者と言葉を交わすことは可能かという問いに置き換えるのである。この小説の冒頭部を引く。

こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
 (中略)
でもまあ、まるで時間軸がないのもしゃべりにくいんで、一応こちらの時間で言いますと、こんばんは、ただ今草木も眠る深夜二時四十六分です。いやあ、寒い。凍えるほど寒い。

 この引用だけでもこの小説についていくつかの示唆が与えられる。この箇所において語りは書き言葉ではなく、話し言葉によってなされ、語り手は非時間とも呼ぶべき一種の幽冥の場に存在している。そして2時46分という特定の意味をもつ時刻、具体的には東日本大震災が発生した時刻が記されているのだ。今、思わず幽冥という言葉を用いてしまったが、物語を読み進めるうえで次第に語り手についての情報が与えられる。語り手はDJアークを名乗るラジオ・パーソナリティ。海沿いの町に育ち、結婚して中二の息子をもつ38歳の男性だ。DJアークは高い杉の木に引っかかって、そこからラジオ放送を行っている。彼がパーソナリティを務める「想像ラジオ」という番組は異なったいくつもの時間に向かって届けられ、同じ時間に別の曲をオン・エアすることさえ可能だ。DJアークは時折音楽を流しながら際限のないおしゃべりを続け、しばしばラジオのリスナーから届いたメールや手紙を読み上げる。現実と非現実が混交する語りの中で私たちは両者の境界を探る。第一章の最後でDJアークの同級生を名乗る「箪笥屋のアタシ」という女性はDJアーク、本名芥川冬助が津波によって高い木に向かって流されていくのを目撃したとメールで伝える。これによって私たちは語り手、DJアークが既にこの世にいないことをおぼろげに理解する。
第二章では話者が交代する。語り手は作家のS。この章は震災のボランティアの帰りに福島から東京に向かうバンの車中におけるSの内的独白として語られる。最初にその一月ほど前、航空性中耳炎のためにSの耳が聞こえなくなり、耳の手術を受けたというエピソードが回想される。このエピソードにトマス・ピンチョンの「V」における登場人物の鼻の手術の描写の反映をうかがうことは強引であろうか。いずれにせよ耳の手術というモティーフはこの小説の本質と関わっている。なぜなら聞こえる/聞こえないというディコトミーはこの小説に一貫するライトモティーフであるからだ。内的独白の常としてSの語りはめまぐるしく話題を変える。癌による父の死を看取った経験。バンに同乗しているカメラマンとともに東南アジアを取材した際のエピソード。広島平和公園でのシャーマンたちとの集会、被災地に跋扈する自称霊能者たち。とりとめのない語りの中に死というモティーフが散りばめられていること、そして時折、広島における被爆や東京大空襲といった戦災の記憶が喚起される点には留意する必要がある。この章の最後で同乗者の一人はカーラジオが切られているにもかかわらず、頭の中にDJの語りと音楽が響いてくると述べる。聞こえてくるのはカルロス・ジョピンのボサノバ、[三月の水]だ。この曲は第一章の終りでDJアークがオン・エアした楽曲であり、ここに至ってこの章の冒頭に置かれた「その声が私には聴こえない」という謎めいた一文がDJアークの放送を指していることが理解される。
 第三章は再びDJアークの語りによって構成されている。DJアークは海や津波を連想させる曲を次々にオン・エアしつつ、放送を続ける。この放送は双方向であり、逆にリスナーからも電話やメールを介して情報がもたらされる。DJアークは時に廃墟となった建物に残された会社員、衰弱しつつ横たわる老夫婦からのメッセージを伝え、一方で自身の過去を回想する。多くの人が想像ラジオに耳を傾けているが、想像ラジオが聞こえない人もいるらしい。DJアークは自分の妻にこの放送が届かぬことを不審に感じ、やがてそれは妻が別の側、すなわち生の領域にいるためであると悟る。先に述べたとおり、この小説においては聞こえる/聞こえないという区別が決定的に重要であり、ここから「死者の声」というモティーフが導かれる。これについては後述しよう。第四章は男女の対話によって構成されている。「結局、いまだに僕にはなにひとつ聴こえないんだよ」という冒頭の言葉が暗示するとおり、話者の一人は第二章の語り手、作家Sである。Sには美里という妻がいるが、ここにおける対話の相手は妻ではなくSの恋人であろう。会話の履歴を消す消さないといった言葉がこの点を暗示する。Sの恋人は自分が見た夢について語る。それは杉の木の上に男があおむけに横たわり、その傍らに白黒の鳥に身を代えた自分が位置しているというものだ。男がDJアークであることは明らかである。そして対話の終盤、Sの口をとおして、彼女が震災の前、「秋の天気のひどくいい日」に事故死したことが語られる。二人はともに再会を願って会話を終える。ここでは死者と生者は互いの声を聞き、対話が成立している。最後の第五章は再びDJアークによって語られる。この章では彼が「多数同時中継システム」という手法によってDJアークの語りに対する反応が次々に寄せられる。このような形式から今日誰もが連想するのは例えばブログやフェイスブックの記事に寄せられるコメントであろう。DJアークは自らの初恋や息子の草助の思い出を語る。一方、缶詰工場で働く21歳の女性リスナーから、彼女の平凡な一日を語る比較的長いメッセージが届き、震災以前、東北の地で営まれていた安穏とした生活に私たちは思いを馳せる。物語の最後でDJアークはリスナーたちに励まされて、向こう側の妻と息子の声を聞こうとする。彼らの声を聞くことによって傍らの白黒の鳥、ハクセキレイもはばたきを始め、中空に飛び立つ。それは放送の終了を意味する。自分の後にも次々に新しいDJが出現することを予感しつつDJアークは最後の曲としてSからのリクエスト、ボブ・マーリーの[リデンプション・ソング]をオン・エアする。redemptionが贖い、あるいは救済という意味であることを付け加えることはもはや蛇足であろう。
 以上のように分析するならば、本書が相当に考え抜かれた小説であることが理解される。例えばDJアークというニックネームが芥川という本名からとられていることは明らかであるが、そこにark 箱舟の意味を見落とす者はいないだろう。小説の中でも言及されているとおり、ここでいう箱舟の物語は旧約聖書というよりギルガメシュ神話であろう。この神話の中にも世界を覆い尽くす洪水の物語があり、杉の木、あるいはDJアークの父や兄が語る杉の木に巻き付いた蛇、そしてなによりも最後に鳥が空に飛び立って洪水が引いたことを知るエピソードが認められる。あるいは今述べたとおり、五章から構成されたこの小説は奇数章をDJアーク、偶数章を小説家Sが語り手ないし対話者を務めるかなり図式的な構造をとる。ここで注目すべきはこの小説において話者は常に誰かに語りかけている点である。それは時には固有名をもつ個人であり、時には放送を聞く不特定のリスナーであるが、言葉は必ず誰かのもとに届けられる。この意味において主人公がラジオ・パーソナリティ、あるいはDJという仕事に就いていることは必然的である。このうち、DJアークは死者の側、作家Sは生者の側にいることが暗示されているが、DJアークの放送をSのバンに同乗している青年が聞き取り、あるいはSのリクエストがDJアークによって取り上げられることによって両者の交流の可能性が暗示される。声を上げる、聞き届けることがこの小説の主題であり、最初に述べたとおり、ここでは死者の代わりに語ることではなく、死者と言葉を交わすことが表現されている。
 なぜ、死者と言葉を交わさねばならないか。第四章の対話の中でその理由が明確に語られる。「他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか? しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」「なぜか?」「声を聴かなくなったんだと思う」「…」「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者とともに」この会話自体が震災の前に事故死した恋人、すなわち死者との間で交わされていることに留意しよう。ここでは本書の主題が提示されている。先にも述べたとおり、死者の声というモティーフだ。このモティーフ自体は文学にとって決してなじみのないものではない。しかしそれが切実なものとして感じられるのは、多くの人々が死んだ出来事の直後であろう。今引用した対話の冒頭、「他の数多くの災害」の前には東京大空襲、広島、長崎への原爆投下という事件が具体的に記されており、これらについて登場人物の語りの中でも触れられていることは先にも述べた。二つの震災以前にも私たちは多くの人々の死を体験した。それはいうまでもなく第二次世界大戦であり、その直接の影響のもとに創作活動を開始した野間宏や大岡昇平、あるいは埴谷雄高といった第一次戦後派の作家たちの作品は死者の声で満ちていた。このブログでも何度か取り上げた集英社の「コレクション 戦争と文学」の中にも「死者たちの語り」と題された巻があり、そこに収められたいくつもの作品、あるいは同じ全集に収録された多くの作品には死者が戦争について語るという趣向が認められる。戦時にあって死者の語りは特異な出来事ではなかったのだ。戦時と平時。戦後の日本は奇跡的というか単なる偶然として大きな自然災害を受けることがなかった。少なくとも1959年の伊勢湾台風と95年の阪神大震災の間に死者が5000人を超える自然災害は存在せず、平和憲法に守られた日本人は戦地に赴くこともなかった。日本の復興、経済成長がこの間に成し遂げられたことの意味を私たちはもう一度考えてみるべきであろう。しかし注意深く耳をすませば、この時期にあっても私たちは死者の声を聞くことができたはずだ。たとえば石牟礼道子は「苦海浄土」の中で水俣病の犠牲者たちの声を聞き、桐山襲は一連の小説で未完の革命に殉じた若者たちの声を聞いたのではなかったか。おそらく死者の声に耳を傾けることは作家にとって必要な資質の一つである。死者の声による文学、「想像ラジオ」も間違いなくこの系譜に連なり、一つの豊かな結実として私たちの前にある。
 ひるがえって今、私たちに東日本大震災の死者たちの声が聞こえるだろうか。彼らのひそやかな声を「復興」という大きな声が押し潰し、さらに「東京オリンピック」の轟音が私たちの耳を聾している。私はかくも人々が疲弊している時代に、札束で築かれたような大都市で「オリンピック」を開催することの意味が全く理解できない。杉の木を下から見上げながら父親はDJアークがいる場所には放射能が降り注いで何十年も人が入れないかもしれないと告げる。実際にこの国にはそのような場所が存在するし、さらに現在の政権のもとでは死者の声ならぬ軍靴の音さえ聞こえてくるようではないか。最後の場面からは redemption、救済が感じられ、2013年という発表の時点において本書は一種の鎮魂の書と読むことができたかもしれない。しかしそのわずか二年後、奈落に向かって転げ落ちていくこの国で、「強者」がわめき散らす騒音の前に「想像ラジオ」の鎮魂の声はもはや完全にかき消されている。
by gravity97 | 2015-03-08 20:15 | 日本文学 | Comments(0)

「温故知新」

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 先のブログでドナルド・ジャッドのパーマネントのインスタレーションが設置されたチナティ・ファウンデーションを訪れた際の印象を記したが、先日、ジャッドがその場に立ち会ったならば卒倒してしまうような展示に立ち会った。4日間という短い期間であるが、京都の中心、室町通りに面した古い日本家屋で開かれていたジャッドと河原温の二人展、タイトルを「温故知新」という。この展示は公益財団法人現代芸術振興財団という組織によって企画され、出品された作品はこの財団の理事長が保有する「数ある現代アートコレクション」の中から選ばれたジャッドと河原温の作品の一部とのことである。会場は古くからの帯問屋であり、重厚な造りの日本家屋であるが、この財団との関係はわからない。
 会場にはジャッドのプログレッション系の作品2点と河原温のデイト・ペインティングが多数展示されている。(カタログにはこのほかに2点1組のジャッドの作品が掲載されているが、この作品は展示されていなかったと思う。さほど広い会場でもなかったから、このサイズの作品を見落としたとは考えにくい)このうちジャッドの作品はエナメルを塗ったアルミニウムの箱を組み合わせた作品であり、今述べたとおり壁に取り付けるプログレッション系の作品であるが、ジャッドのカタログを参照するならば1980年代後半に制作された比較的珍しいタイプの作品だ。展示方法に唖然とする。なんと台座の上に置かれているではないか。床置きならばまだわかる。そうではなくて、おそらくこのために制作され、作品と同じサイズの底面をもつ黒い台座の上に設置されているのだ。b0138838_20533215.jpgここでミニマル・アートの特性について詳述する必要もなかろう。作家によってそれなりに多様なそれらの作品に共通する特質の一つは台座をもたないことだ。ジャッド自身、あるインタビューの中で台座なき彫刻という概念が完全に彼自身の着想であることを言明している。ミニマル・アートが台座を排除した理由は明らかだ。それは作品が現実の空間に存在することを明確に示すためだ。ジャッドは「明確なオブジェ」という名高い論文の中で次のように述べている。「三次元とは現実の空間である。それはイリュージョニスムの問題、およびリテラルな空間、描かれた印や色彩の周辺や内部にみられる空間の問題から自由になる。作品は考えられる限り力強くなりうる」彫刻の台座とは絵画における額縁だ。それらは作品が現実とは別の世界に存在することを暗示する。ジャッドは作品に強度を与えるためにはそれが現実の中に存在することが必要だと考えたのである。ここでアンドレやモリスにまで言及する必要はないだろう。ミニマリズムの感性において作品は私たちが存在する現実と切り離されるべきではない。確かに今回の展示では底面積を同一にし、黒く塗られることによって台座は存在感を切り詰めている。しかしそれはあくまでも台座であり、現実とは審級の異なる「芸術」、会場の掲示に倣えば「現代アート」をその上に据えるために召喚されている。台座の存在は作品の意味構造を変えてしまう。プログレッションとは等比級数やフィボナッチ級数を原理として構成されたレリーフ状の作品であり、通常は壁面に直付けされる。今回の展示を見た後、私は手元にあるジャッドの展覧会カタログや作品集にもう一度目を通してみた。確かにプログレッションのうち、このタイプの作品のみ、壁付けされず床に設置された例が存在する。しかしそれらはいずれも巨大で奥行きのある作品であり、プロポーションとして壁付けに馴染まず、おそらく重量の点でも壁面に設置することが困難であったのだろう。それらは全て床に直置きされている。先に述べたとおり、今回の展示は古い木造の日本家屋が使用されているから、比較的小品とはいえども壁面に設置するための造作を施すことが構造的に不可能であったと推測される。奥行き30cmというサイズから直に床に置くことが躊躇されたかもしれない。しかし台座はないだろう。今回の展示はこの展覧会の企画者の作品への無理解をはしなくも露呈している。
 河原温はどうか。カタログで確認するならば今回は11点のデイト・ペインティングが展示されている。このうち、床の間に展示された《1987年5月1日》は巨大なサイズの作品であるが、ほかの作品はデイト・ペインティングで見慣れた比較的小さなサイズである。日付を確認するならば2005年8月と9月に制作された6点の作品が時期的に集中しているから、同じ機会に収集された可能性がある。デイト・ペインティングに関しては既にいくつかの研究があり、作品の制作にあたって制作の時間や表記、作品の色彩やカンヴァスのサイズについて厳密なルールがあることが指摘されている。《1987年5月1日》はおそらく最大級のサイズであり(デイト・ペインティングは表記された一日、24時間以内に完成されなければならないから、これ以上巨大な作品を制作することは不可能であろう)1998年の時点で10点が制作されているようだ。デイト・ペインティングには制作された当日の新聞の切り抜きが一種の証拠書類として同梱されている。 b0138838_20541377.jpg今回の展示ではそれらの資料も展示されていて興味深かった。日付を描くという一種匿名的な作品でありながら、その真正性を担保する工夫は随所に認められる訳である。河原は個展のオープニングはおろか、一切のインタビューに応じず、ポートレートも公開せず、自らの匿名化をはかっている。河原の大規模な個展は過去に何度か開かれ、偶然、現在もニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催中であるが、作品の展示方法に関して作家は指示を与えるのであろうか。作家によってオーソライズされたであろう過去の展覧会を見た限りにおいて、デイト・ペインティングはホワイトキューブに機械的に設置された印象がある。少なくとも床の間はありえないし、そのように推測するいくつかの理由がある。今回、作品を掛け軸のごとく床の間に展示することによって企画者はそれが「現代アート」である点をことさらに強調しようとしている。確かに日付のみを記したカンヴァスは現代美術の文脈を理解していない者にとっては麗々しく床の間に飾らなければ「アート」と了解することは困難かもしれない。しかしカール・アンドレの煉瓦やダン・フレイヴィンの蛍光灯を想起するまでもなく、これらの作品は展示される場所によって意味を与えられるほど弱くはない。逆に作品が場を定義することさえあるはずだ。かかる作品をことさら和室のハイライトとして設置することは「和の空間との融合」ではなく、端的に作品に対して礼を失しているように感じられる。さらにこの作品は大作ではあってもデイト・ペインティングの一点にすぎない。デイト・ペインティングにおいては作品のサイズや完成度ではなく、そのコンセプトとそれを継続する行為が重要であり、作品は全て対等であるはずだ。サイズの大きな作品をことさらに重視する姿勢もまた作品の本質への無理解に起因しているように思われる。
 今回の展示に批判的に言及したが、この展覧会は逆説的な意味で現代美術、特にミニマル・アートとコンセプチュアル・アートにとってきわめて重大な問題を提起している。それは作家のインストラクションをいかに徹底するかという問題だ。ジャッドが作品の図面を工場に渡し、ソル・ルウィットがウォール・ドローイングの指示をドラフトマンに示すことから理解できるとおり、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートは実は作家のインストラクションがどの程度リテラルに実現されるかという問題と関わっている。作品の制作/遂行については作家がほぼ完全に掌握し、作品のオーセンティシティーの根拠をかたちづくる。しかし作品の展示という局面においては作家以外に多くの函数が存在する。例えば美術館における展覧会の場合、展示には必ず学芸員が介入する。伝聞であるが、以前、北九州と静岡を巡回したジャッド展の折、作品のインスタレーションに立ち会った作家は作品が多すぎるとしていくつかの作品の撤去を求めたという。それらの作品もカタログに掲載されているから、学芸員としては受け容れることが困難な要求である。結局どうなったかは知らないが、ジャッドがチナティに恒久インスタレーションを設置しようと考えた直接の理由はホイットニー美術館における回顧展の展示がひどすぎたからだというエピソードも知られている。ジャッドは次のように記している。「作品を注意深く設置するには、莫大な時間と思考が必要である。この点はいつも心に留めておくべきである」美術館や学芸員にとってなんとも耳が痛い言葉ではないだろうか。河原温に関してはさらにデリケートな問題が発生する。それは展示権という問題だ。通常、作品を所蔵する美術館はその作品を常設展示の一部として展示する権利を有するし、作家も作品が展示されることを望むから両者の利害は一致する。しかしテーマ展においてはどうか。実は河原は自身が望まないテマティックな展覧会に作品を加えることを一貫して拒否してきた。日本の美術館の場合、作品を貸与するにあたって作家が展示に同意したかまで確認する例はあまりない。日本の戦後美術を概観するような展示にデイト・ペインティングが出品されているような例を時折見かけるが、おそらく作家は出品を承諾していないだろう。この問題に関してはかつて井上有一の作品の展示にあたって、一緒に展示されている書家が気に食わないとして関係者が井上の作品を撤去することを要求し、係争となった事例があったように記憶するが、展示の可否について作者と所蔵家のいずれを優先するかは微妙な問題だ。ここではこれ以上敷衍しないが、歴史を遡れば、例えば退廃芸術展のようなケースもこの問題に対して示唆を与えるように思われる。もっとも私の知る限り、河原はいかなるテーマ展に対しても出品を拒否している訳ではない。かつて私はニューヨークに作家を訪ねたことがあるが、その際に河原はカスパー・ケーニッヒの企画による、デイト・ペインティングと他の作家の作品を年ごとに一点ずつ組み合わせた展示を高く評価していたことを記憶している。しかしおそらく河原が存命であったとしても、日本家屋を用いたジャッドとの二人展への出品を肯ったとは思えない。
 この問題は作家とコレクターの関係と深く関わっている。いずれの作家も実力のあるギャラリーによって作品が管理されていたから、作品が売却されるにあたっては作家もしくはギャラリーを介して作品の設置や展示について具体的なインストラクションを所蔵家に示したはずだ。実際にジャッドの作品を設置するにあたってはしばしば所蔵館の学芸員が立ち会いを要求し、デイト・ペインティングの借用にあたっては作家の同意書を確認する美術館を私は知っている。しかし私の推測では今回展示された作品はセカンダリーな市場、つまり最初の所蔵者が手離した後、別のギャラリーもしくはオークションを介して収集されたのではないだろうか。入口にサザビーズからの大きな花輪が飾られていたことがこのような推理の根拠だ。この時、作家の意図が所蔵者に正しく伝えられるかという点は大いに疑問であるし、存命であっても作家と直接のコンタクトがないまま、所蔵家は作品を所有し、展示することとなるだろう。
 誤解なきように直ちに言い添えるが、私は所蔵家が展示にあたって作者の意図に必ず従わなければならないと主張するほど傲慢ではない。今回の展示はそれなりに興味深いものであったし、成功していたか否かはともかく、日本家屋とミニマリズムを掛け合わせるという企画者の意図に一定の意味を認めることにやぶさかではない。私が指摘したいのは、奇しくもここで展示されたジャッドと河原温の作品は実体としての作品のみならず、それがどのように展示されるかという点もまた作品の構造の中に組み込んでいる点である。興味深いことにこの二人は展示との関係において記号論的に異なった文脈に拠っている。ジャッドの場合、作品が展示空間内でどのように配置されるかという顕在的で換喩的な意味構造が問題とされる。これに対して河原の場合はデイト・ペインティングがほかの作品といかなる潜在的な意味を取り結ぶかという隠喩的な意味が問題とされている。いずれも作品自体ではなく作品が展示と取り結ぶ関係を主題としている。このような問題はこれまでモダニズム美術の文脈では意識されることがなかった。例えばセザンヌの絵画はコレクターの客間に飾られようが物置に置かれようが、ピカソの横に展示されようが森村泰昌の横に展示されようが作品自体の意味は変わらない。しかしジャッドと河原の作品は展示される場やともに展示されるべき作品を選ぶのである。作品と場との関係はミニマル・アートにおいて決定的に主題化されたが、抽象表現主義の中にも明らかに同じ意識が兆していた。例えばロスコ・チャペルをはじめとする一連のロスコの建築的作品群、あるいは近く日本で公開されるバーネット・ニューマンの「十字架の道行き」連作。これらの作品は場をかたちづくり、本来的に移動することができない。この発想とチナティ・ファウンデーションは連続している。あるいは共に展示される作品との関係について、私はクリフォード・スティルのエピソードを想起する。狷介孤高として知られるスティルは多くの作品をバッファローのオルブライト=ノックス美術館に寄贈するにあたって条件を付したが、それは自分の作品を決してほかの作家の作品と一緒に展示してはならず、作品をほかの美術館の企画展に貸し出してはならないというものであった。彼らは建築によって、あるいは契約によって自らの作品が展示される状況を守ったのである。本来的に「場の美術」であるミニマル・アート、同一性を保証されて初めて成立するコンセプチュアル・アートにとって、作品のみならず作品の外部、作品をめぐる場も決定的に重要である。しかし残念ながら多くの作家たちはこの点について十分な戦略をもちあわせていなかった。今や「現代アート」は消費材として流通しており、金さえあれば誰でも手に入れることができる。この事実を端的に示す台湾の「現代アート」の「コレクター」の展覧会が現在、国立美術館を巡回し、『芸術新潮』の最新号には同じ「コレクター」のバスルームに飾られたマン・レイの油彩画が「アートと暮らす」麗しき実例として恥ずかしげもなく紹介されているのだ。彼らにとって作品は自分たちの資産であるから、どこに展示しようとどのように展示しようと自由なのである。しかしある一群の作品にとっては展示の状況も作品の一部であり、切り離して考えることはできない。偶然としては出来過ぎている気もするが、ジャッドと河原温はまさにそのような作家の代表なのだ。台座の上のジャッド、床の間のデイト・ペインティングは単なる消費材と化した「現代アート」の無残さを私たちに知らせ、「現代アート業界」をめぐる悲喜劇的な倒錯を象徴している。
 会場内は撮影が許されていたため、当日撮影した写真を示している。もし掲出に問題があれば、コメント欄にて連絡いただきたい。
by gravity97 | 2015-03-02 21:04 | 展覧会 | Comments(0)