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Living Well Is the Best Revenge

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 さすがに通読には時間がかかった。本書は宮部みゆきの小説の中でも最長の長編であり、量にして文庫六分冊。しかし文庫版が発売されてから読み始めるまでに躊躇があったのは長さばかりが理由ではない。同じ著者による本書に匹敵する長編としては文庫五分冊の「模倣犯」がある。私は「模倣犯」もまた傑作であると思うが、人間の悪意の連鎖、そして物語の展開の救いのなさに読み進めるのが辛かった。悪を通して人は自分たちの魂の深淵をのぞき込む。私たちの日常の中に陥穽のように潜む悪意を抉り出すことにおいて、宮部の筆は仮借がない。例えば私は杉村三郎を主人公とした連作長編のうち、「誰か」と「名もなき毒」をそれぞれ文庫化されたタイミングで読んでいるが、一見ごく普通の人間の内部に巣食う名状しがたい悪意を描くこれらの作品は一種のサイコホラーとしても読めなくはないし、思えば「魔術はささやく」や「火車」といった初期の代表作においても同様のデモーニッシュな悪意との遭遇が描かれていた。「模倣犯」や「名もなき毒」に類した物語がこれほどの長尺で続くのであれば少々きついなと感じ、さらに本書が学校で死んだ少年をめぐる物語だと聞いて、おそらく相当に深刻な内容となるのではないかと推測したからだ。
 読み始めると、私の危惧は杞憂に終わった。物語は実によく練られており、頁を繰る手は止まらない。10日ほどを費やして読み続け、私は深い感動とともに本書を読み終えた。確かに忌まわしい事件があり、輻輳する悪意がある。しかしここには人間が善でもありうることへの高らかな希望が謳われている。活躍するのは15歳、中学三年の少年少女たちであり、本書は一種の少年少女小説として読むこともできる。私は登場人物たちと同じ世代、そして実際にここで描かれているような状況の中で苦しんでいる若い人々にこそ読んでほしいと思った。
 物語は三部構成をとり、量的にもほぼ等しい。文庫版ではそれぞれが上下に分かれて六分冊となっている。後でも触れるとおり、この小説は形式的にもきわめて巧みに構成されており、三つのパートは時間的、内容的に画然と分かたれている。すなわち「第一部 事件」においては少年の謎の死とそれをめぐって次々に連鎖する出来事が描かれる。少年が学校の屋上から身を投げた日時は特定されている。1990年のクリスマス・イヴ。日付が特定されていることに留意しておこう。いうまでもなくバブルの絶頂期であり、ここで語られる事件の背景にはバブル景気に狂騒する社会がある。宮部の代表作「理由」の背景と同一であり、この時代に対する作者の拘泥がうかがえる。そして実際にこの小説の中でもこの時期でなければありえなかった事件が描かれている。第一部はこの日からほぼ三カ月間の物語であり、この時点で主人公たちは中学校2年生である。このパートの最後で主人公の一人、藤野涼子は一つの決意をする。それは少年の死の真相を自分たちの手で究明することであった。「第二部 決意」も冒頭に日付が与えられている。1991年7月20日、夏休みの直前の一日だ。この日、藤野はクラスメイトたちに中学3年に課題として与えられた「卒業制作」として同級生の死の真相解明を行うことを提案し、それは少年を突き落とした疑いをかけられている少年に対する「学校内裁判」という異例の試みとして実現されることとなった。陪審員制をとり、検事と弁護士、判事から廷吏までを生徒たちが務める模擬法廷の開廷に向けて、それぞれの役割を買って出た生徒たちは真相の究明に向かって調査を開始する。準備は8月1日から14日までの二週間。15日に法廷を開廷し、5日間の審理の後、20日に判決を言い渡すというスケジュールはあらかじめ定められている。第二部ではこのうち8月10日までの出来事が語られる。「第三部 法廷」はタイトルのとおり、学校内裁判を実況し、8月15日から20日までの出来事を描く。このあたりの構成も巧みだ。今述べたとおり、8月11日から14日までの主人公たちの動静は意図的に省略されている。つまり検事役と弁護士役の生徒たちがこの間にどのような調査をしたか知らされないまま、読者は法廷での証言に立ち会うこととなるのだ。宮部は読者が知りうる情報を巧妙に制限したうえで物語を進める。同様の工夫は話法にも認められる。第一部と第二部で話者は全能の位置にあり、登場する少年少女の家庭の情景がていねいに描き込まれる。刑事の父と司法書士の母をもち、両親と姉妹の愛情の中で育っている藤野、病弱な母と仕事に追われる父の間で疎外感に苛まれる野田健一、兄との冷たい確執の中にある柏木卓也、やくざのような父親の暴力に脅かされ、そのはけ口を求めるかのように橋田祐太郎と井口充を引き連れて校内外で暴力を働く大出俊二。いつもにも増して登場人物たちの周辺が丹念に書き込まれ、物語はくっきりとした立体感を帯び始める。いくつもの挿話の中に周到に伏線が張りめぐらされており、一見物語とは無関係なエピソードが重要な意味をもつ点は宮部のミステリーの定石だ。物語の展開も正統的なミステリーを踏襲している。すなわちまず第一部で事件=事実が提示され、第二部で関係者への聞き取りがなされる。そして第三部で「真相」が開示される。第三部において全能の話者に代わり、裁判の場に立ち会う関係者たちの視点をとおして物語が語られる点は注目に値する。多くの場面が裁判における証人とのやりとりとして記述される第三部に全能の話者を導入すると物語が平板化されてしまうためであろうか。いや、何よりもそこで明らかにされる真実が登場人物たちの内面と深く関わっているからではないか。裁判の中で明らかになる意外な事実に対して話者は自らの思いを開陳する。思いがけない事件で審理が中断される裁判四日目を除いて、初日から結審の日まで裁判の進行は物語と深く関わる四人の登場人物、少年課の女性刑事、廷吏、陪審員、検事の父、弁護人助手の目を通して、彼らの心の揺れとともに語られる。通常のミステリーであれば途中で語りの視点が変わることはありえないだろうし、少なくとも謎が解明される局面においては中立的な視点こそが要請されるはずだ。しかし宮部はあえて複数の登場人物たちを次々に焦点化して、謎解きを行う。さらに踏み込むならば、このような語りは真実が一つではないこと、それぞれの登場人物が異なった真実を見出したことを暗示しているとはいえないか。かかる発想は実はこのミステリーの根幹と深く関わっている。
 未読の読者も多いであろうから、ここでは裁判の終盤で明かされる驚くべき事実については触れない。ただし、それは決して意想外ではない。私自身、第二部のあたりでおぼろげに想像できたし、実際に何人かの登場人物は物語の中でそれを予感し、口にさえしている。そもそも少年の死が殺人であると告発する手紙を書いた人物は第一部において、つまり全能の話者によって名指しされているから、その真偽も含めて読者にはあらかじめ判断の材料が与えられている。先にも述べたとおり、本書の読みどころは唯一の真実をめぐるトリッキーな謎解きではなく、学校内裁判という前代未聞の試みによって登場人物たちがそれぞれの「真実」にたどり着くまでのさまざまな葛藤ととらえるべきであろう。最初から告発者が特定されている点から本書を一種の倒叙推理とみなすこともできようし、第三部にいたっては堂々たるリーガル・ミステリーである。しかし本書を何らかのジャンルに分類するならば、何よりもビルドゥング・ロマンスという名こそがふさわしい。ビルドゥング・ロマンス、教養小説とは登場人物が様々な経験を通して内面的に成長していく過程を描いた小説のことである。この小説では同級生の死をめぐる同級生を被告とした裁判という痛みを伴う体験をとおして、15歳の中学生たちがわずか数日のうちに大きく成長していく姿がみごとに描かれている。大人顔負けの駆け引きで不可能と思われていた学校内裁判を実現させる藤野涼子、判事として悠然と審理の総指揮にあたる優等生の井上康夫、転落死を遂げた柏木の知り合いでほかの中学に在籍しながら弁護人を引き受けた謎めいた少年、神原和彦。物語の中心となる三人のふるまいはとても中学生とは思えない大人びた印象を与える。一方で陪審員に名乗り出た藤野の親友とその幼馴染、バスケットボール部と将棋部の主将、あるいは被告とされる少年のガールフレンド、さらには廷吏を務める空手家の少年といった、どこにでもいるような、そしてこの事件がなければ交わることのなかった生徒たちもそれぞれの務めを果たす中で成長していく。宮部はもともと少年少女の描写に長けているが、この作品における描写は精彩に富み、細やかな書き込みを通して、読者は彼らの内面へと深く分け入っていく。とりわけ「決意」の章の前半、藤野の呼びかけに応じ、クラスメイトたちが次々に馳せ参じて来る場面はこの小説の一つのクライマックスであろう。「事件」の章を覆っていた暗い曇天に、さながら一条の光が差し込んだかのようであり、私たちはその光に導かれてこの暗鬱な事件の真相へと向かう。これに対し、真相を究明しようとする生徒たちに対して、学校側はそれを妨げようとする。体罰やいじめ、自殺といった現実の事件に対して多くの学校で教師たちがとった態度を知る私たちにとってこのような展開は意外ではないし、本書でも生徒たちに寄り添おうとする教師と事件を隠蔽しようとする教師たち、学校内裁判を支援する教師たちと阻止しようとする教師たちの葛藤が描かれる。しかしかかる抑圧は教師個人の問題といよりも学校という制度に固有のものではないか。学校という制度に内在する抑圧性は本書の隠れたテーマといえよう。死を遂げた柏木が中学校で唯一心を開いた美術教師、丹野は、裁判の席で柏木が好んだブリューゲルの絵の暗喩について次のように証言する。「学校という体制の中では生徒はそれに従うしかない。体制に反抗すれば処罰されるわけですから」「密告者と密告された者の関係は、たとえばいじめられている生徒と、その生徒がいじめられていることを知っていながら、自分に火の粉がかかることが怖ろしいばかりに、見ないふりをしているまわりの生徒たちの関係に似ています」「監視しながら同時に監視されている。先生に目をつけられたり、生徒同士の間でいじめの標的にされることを恐れて、本音を言うなんてとんでもない。本当の自分を見せることもできない、表面的なつきあいに調子を合わせて恭順を装うしかない生活」この主張は一面において真実であり、柏木の死の真相と深く関わっている。しかし一方でこの小説を読み終えて読者が感じる救い、カタルシスは学校という場で初めて可能となった生徒たちの友情、紐帯に負っている。この小説において学校という制度は一人の生徒を死に追いやる抑圧であると同時に、そこで育まれた連帯によってその死に意味を与えるという希望でもあり、両義的な意味をもつ。本書は学校という場でなければ成立しえない物語であり、それゆえ作者は「学校内裁判」というありえない設定を持ち込んだのであろう。
 裁判とは真実の前に人を傷つける場でもある。傷つく経験を共有し、それを乗り越えることによって少年たち少女たちは成長する。裁判をとおして成長するのは生徒たちばかりではない。教師や彼らの家族、学校内裁判に関わった者たちはそれぞれに傷つきながらも一種の浄化を経験することとなる。悪意が連鎖し、暗い緊張が張り詰めた第一部を読んでいる時には想像すらできないだろうが、裁判を経て「真実」が明らかになった最後の場面で、読者は登場人物たちに等しくいとおしさを覚えるはずだ。読後感は一言でいうならば清冽であり、ここで登場人物たちと別れることはあまりにも惜しい。彼ら彼女らがそれからどう生きたかを知りたいという思いに強く駆られるだろう。「2010年、春」と題され、最後に付されたエピローグ風の文章はこのような思いへ応答する。タイトルが示すとおり、そこには登場人物の一人の20年後の姿が短く書き留められている。さらに文庫版には最後に「負の方程式」という特別書き下ろしの短編も付されている。そこでは20年後の藤野涼子の活躍が描かれる。検事ならぬ弁護士となった藤野はここでも学校を舞台にしたもう一つの「偽証事件」に挑むこととなる。そして藤野の口をとおして語られるもう一人の登場人物の意外な消息に読者は思わず微笑することと思う
by gravity97 | 2015-02-19 20:50 | エンターテインメント | Comments(0)

MARFA, 1996.11.1

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 雑誌であったか新聞であったか、先日、私はカタールに完成した驚くべきプロジェクトについて知った。それはリチャード・セラによる「East-West/West-East」という作品であり、カタールの荒涼とした砂漠に等間隔で屹立する高さ16.7mもしくは14.7mの四枚の巨大なモノリスだ。この鉄板はドイツで加工されたとのことであるが、かかる巨大かつ重量のある作品をいかに製造し、輸送し、設置したか、私の想像をはるかに絶している。インターネットの記事などを参照するならば、セラ自身もこのプロジェクトを自身のキャリアにおいても最も成功した例の一つと見なしているとのことであるから、風景の中でいかなる偉容を呈しているか大いに気になるところだ。以前このブログでも触れたことがあるが、セラにはこの作品同様、野外に垂直的なモノリスを設置した例がある。アイスランドに設置された「AFANGAR」である。極寒と灼熱、二つの荒涼とした土地に設置された沈黙の作品群、その対照は私たちの想像力をかき立てる。カタールとアイスランド、二つの土地に設置された作品はほかにも共通点を有している。いずれも日本からは遠く離れ、訪れることが困難であることだ。私は出来ることならばこれらの作品を実際に見てみたいと願う。このうちカタールは、近年、国立美術館が中心となってオイルマネーを用いて現代美術の優品を次々に収集しているから、今後訪れる機会が全くないとはいえない。しかし設置された土地の苛酷さを写真からうかがう限りにおいても、少なくともこれら二つの「作品」を見るためには、それのみを目的とした旅程を組む必要があるだろう。それは現代美術の聖地巡礼だ。

 以前の記事と一部重複するが、今回はこのような巡礼の思い出を記すことにしよう。巡礼地はテキサス州マルファ。そこにはミニマル・アートの巨匠、ドナルド・ジャッドが自らの作品のために選んだいくつもの施設が点在している。今、この町の位置を確認するためにグーグル・マップを開いてみると、この周囲にいくつものランド・アートの名作が分布していることを知る。たまたま私は同じ画面にアマリロという地名を確認したが、現代美術に詳しい者であれば、この地名とロバート・スミッソンの最後の作品、制作中に飛行機事故で死亡した《アマリロ・ランプ》を結びつけることはたやすい。あるいは25号線を北上し、ニューメキシコ州に入るならば、ウォルター・デ・マリアの名高い《ライトニング・フィールド》まではおよそ一日の距離だ。自動車さえあれば、数日の間にこれらを巡回することは不可能ではない。もっともランド・アートは位置を記した地図の記述が恣意的であり、作品を見つけることができない場合が多いことを多くの研究者が指摘している。GPSを用いたナヴィゲーション・システムが発達した今日、ランド・アートへのアクセスはどのように変化したのだろうか、これは興味深い問題だ。
 私たちは空路でメキシコ国境の街、テキサス州エル・パソに入り、レンタカーを借りてマルファに向かった。エル・パソはメキシコと国境を接しており、橋を渡れば一時的にメキシコに入国することができる。エル・パソにはたまたま昼前に着いたこともあり、私たちは検問所を越えてメキシコ側のレストランで昼食を取ることにした。アメリカとメキシコの国境間の移動という主題からはさまざまの映像的記憶、文学的記憶が喚起されよう。映画であれば「バベル」、「トラフィック」から「フロム・ダスク・ティル・ドーン」、小説であればコーマック・マッカーシーの「すべての美しい馬」と「血と暴力の国」。実際、メキシコに入国すると奇妙に空気が変わる雰囲気があった。これに似た体験は壁の廃墟を境に町のたたずまいが明らかに異なるベルリンで味わったことがある。閑散としたレストランでメキシコ料理を注文した記憶があるが、この旅行ではいたるところでテクス・メクスを味わったためか、具体的に何を食べたかは覚えていない。
 エル・パソから南東に半日ほど走るとマルファに到着する。以前にも記したが、この町の名前はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に由来するという。この町に鉄道が敷設された当時、鉄道の機関士が読んでいたドストエフスキーの小説の登場人物にちなんで命名したという冗談のような話が伝えられている。主要人物ではないから注意深く読まなければわからない。フョードル・カラマーゾフに仕える実直な下男グリゴーリーの妻、マルファがこの町の名の起源のはずだ。ジャッドは1971年にこの地に移り、73年に町はずれの荒れ果てた建物を購入し、自分の作品を設置した。そして86年にはチナティ・ファウンデーションを設立し、自身の作品を含めた現代美術の作品を恒久展示する施設の本格的な整備に乗り出す。94年に没するまでの間、実に四半世紀近くにわたって、この地に現代美術のユートピアを築くことに作家は身命を賭したのである。ジャッドは「自分の作品を守るために」というテクストの中で次のように語っている。「チナティ・ファウンデーションの目的は、自分と他の作家の作品を、それらにふさわしいと私が考える空間に保存することである。私はそのために作品の制作に次ぐ努力を払ってきた。そして政策と保存という二つの関心は徐々に融合し、建築に繋がっていったのである。私や他の作家たちの作品は創り出されると同時に設置される。だから作品は、空間的にも社会的にも時間的にも制作された場から切り離されてはならない。しかしたいていの美術館ではそれが切り離されてしまうことになる。私の作品にとって、それを取り囲む空間は決定的に重要であり、作品そのものと同じくらい考え抜かれたものである。ニューヨークとマルファでの設置は、他の場所での私の作品の設置の規範となるものである」単に作品設置の理想を述べたにとどまらず、ミニマル・アートの本質と深く関わる重要なコメントである。このテクストを再読して私はあらためてジャッドの先見性を知る。作品は設置されるべき場所があり、多くの場合、それは都市ではなく田園、もしくは自然であるという発想である。それは端的に美術の商業性を否定している。
 この問題については後で立ち返るとして、私たちの旅に戻ろう。私たちというのは、ジャッドと懇意のギャラリストを含めて8名ほどの集団である。ソーホーのギャラリーを巡るのとは異なり、さすがにアメリカ中西部に点在するアート・スポットを単身で回ることは難しい。既に何度かマルファを訪ねたことがあるギャラリストを導き手として、私たちは車に分乗してマルファに入り、その日の夕方、ジャッドに関係する二つのファウンデーションを訪れた。一つは先に引いたテクスト中に「ニューヨークでの設置」と表現されたニューヨーク、スプリングストリートのジャッドの住居、そしてマルファにおいてジャッドの初期作品を展示した施設などを管理するジャッド・ファウンデーション、そしてもう一つがテクストの中にあったチナティ・ファウンデーションである。両者の関係については詳しくわからないが、私の印象としてはジャッド・ファウンデーションがジャッドの住居や作品を保守、管理する施設であるのに対して、チナティ・ファウンデーションはいわばジャッドの精神を未来に向かって伝えていく施設であるように感じられた。ただし作家の存命中にも何度かここを訪れたことがあるギャラリストによれば、ジャッドの没後、いずれのファウンデーションもかつての緊張感がいくぶん失われ、この一事によっても作家の存在の大きさがうかがえるとのことであった。しかし快活な若いスタッフと会話を交わす限り、このような機微について私が理解することはできなかった。その夜は、アルパインという隣町のレストランでリブ・ステーキを食べたことを覚えている。ファウンデーションの職員たちに薦められたこのレストランではアメリカン・スタイルの巨大なステーキが供され、一人で食べきることは困難であった。
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 翌日、私たちはあらためて二つのファウンデーションを訪れた。マルファは人口2000人というから、さほど大きな街ではない。ジャッド・ファウンデーションの事務所は二つの道が交差する中心部の近く、チナティ・ファウンデーションは南西のやや街はずれに位置する。このほか街のあちこちにジャッドと関連した施設が所在し、最初に訪ねたジャッド・ファウンデーションのスタッフが案内してくれた。私たちはまずジャッドの住居を見学した。先にも述べたとおり、私たちが訪ねる二年前にジャッドは他界していたが、ジャッドの書斎や読書に疲れると横になったというソファなどはまだそのままのかたちで残されており、私は書架の中にクレメント・グリーンバーグの全集をめざとく見つけた。近くにはジャッドの初期の作品が展示してある施設もあり、そこで見た作品のいくつかと私は99年に埼玉と大津で開かれたジャッドの展覧会で再会することとなる。一方、ジャッドの仕事場はその近くのメインストリートに面し、元々は銀行として使用されていた建物にあったと記憶している。ジャッドは立体だけでなく、版画や家具も制作し、建築にも関心をもっていた。確かこのビルディングは家具の設計のために用いられており、室内に置かれた家具は多くが作家自身によって設計されたものである。街の中に住居といくつもの仕事場、さらには作品の展示施設を配置し、職住接近というか生活と仕事、日常と芸術を両立させるライフスタイルがミニマリズムの作家によって営まれていた点はなかなか興味深い。
 いくつもの施設を案内してくれたジャッド・ファウンデーションのスタッフに感謝を述べた後、私たちはチナティ・ファウデーションに向かった。前日は不在であったディレクター、マリアナ・ストックブラントが戻っていたのだ。私はドイツ生まれのジャッドのパートナーと初めて会い、彼女の案内で広い敷地内に設置された作品群を巡った。このうち100点のアルミニウム・ピースが収められた体育館のような施設は写真等で私も見知っていた。この作品をめぐっては確かDIAファウンデーションとの間で確執があったはずだ。野外に配置された巨大なコンクリート・ピースもホイットニー美術館における個展のカタログの表紙として見覚えがあった。作品の近くにガラガラヘビがいるから注意するようにと言われたことを覚えている。私が驚いたのは、敷地や施設内に多くのほかの作家の作品も設置、展示されていたことだ。バーネット・ニューマンやダン・フレイヴィンはわからないでもない。しかしクレス・オルデンバーグやジョン・チェンバレン、さらにイリヤ・カバコフといったおよそミニマリズムのテイストからは遠い作家の作品も配置されているのだ。ジャッドは次のように記している。「この新しい社会構造は芸術を殺そうとしているのである。これに抵抗しなければならない。私は常に自分の作品を守ってきた。私は全ての公開される展示を自分で設置してきたし、自分自身の空間に作品を設置し、保存してきた。そのほとんどはマルファの自分の建物での展示である。チナティ・ファウンデーションは、これを大きなスケールで展開し、フレイヴィンとチェンバレンの作品にも広げようとする試みである。これは芸術の存在を完全かつ自然に見せようとする、私の知る限りほとんど唯一の試みだ」おそらくジャッドは自分の作品については厳しいミニマリズムの原理を貫いたが、ほかの作家の作品を判断するにあたってはその原理を機械的に適用することのない広い度量があった。そして美術館や学芸員によって汚染される前に、自らが評価する作品をふさわしい場所に設置する試みを作家はその晩年に続けていた訳である。このような芸術のユートピア思想の由来も私には興味深く感じられる。
 ストックブラントはその晩、私たちをディナーに招待してくれた。会場はファウンデーションの中の旧体育館。床にはコンクリートと砂利が整然と敷かれ、清潔でリジッドな印象の室内であった。中央にはおそらくジャッドが設計した長いテーブルが置かれている。明かりはロウソクだけであったように記憶する。ストックブラントはステーキを手ずから調理し、切り分け、私たちにサーヴしてくれた。二晩続けてのステーキであったが、その晩のビーフがことのほか美味に感じられたのは、私たちがユートピアにいたためであろうか。この夜はアメリカ中西部を訪ねた比較的長い旅行の最後の晩であったが、翌朝は早く宿舎を発たねばならない。意地汚い私としてはワインを自制しなければならなかったことが唯一の心残りであった。

 近年、日本でも現代美術をめぐる聖地巡礼が流行し、美術雑誌は「アートの旅」といったお手軽な特集を組んでいる。ツーリズムと現代美術の連動は一方では各地で開催されるビエンナーレ、トリエンナーレといった大規模な国際展の隆盛と関連し、もう一方ではサイトスペフィックな作品の増加と関わっているだろう。かくいう私もこのブログでも取り上げたとおり、横浜トリエンナーレを訪れ、犬島で演劇を見る日程に合わせて直島や豊島に設置された作品や美術館を回った。もちろん私はこれらの機会を大いに楽しんだのであるが、このような体験はマルファのそれとは大きく異なる。近年の日本のアート・ツーリズムは端的に商業主義と深く結びついている。言葉を換えるならばそれらは一種の「村起こし」の手段となっているのだ。この点に関して藤田直哉は「前衛のゾンビたち」という論文で「地域アート」について次のように論じている。「ここで重視されているのは、地元と『融け合う』ことや、産業を活性化させること、都市のアイデンティティーを失わせないこと、観光客を呼び込むことである。その芸術の中身や『美』については触れられていない」ジャッドがめざしたことはマルファに「地域アート」を興すことではないし、私たちのマルファへの旅もそれ自体が目的となることはない。私たちがはるばるテキサスまで赴いたのは端的にそこに行かなければ作品に出会えないからだ。ジャッドはマルファの町おこしのために作品を設置したのではない。それが芸術として存在するために場を選んだのだ。再びジャッドの言葉を引こう。「私たちの知っている芸術と建築は残ってきたものである。一番良いのはそれが描かれ、置かれ、建てられた場所にとどまることだ。移動可能だった過去の芸術のほとんどは、征服者たちによって奪い取られた。結局のところ、最近のほとんどすべての芸術作品は作られるはなから征服され、というのもそれは最初から売るために展示され、一度売れたなら見知らぬ美術館で外来者として並べられる。一般大衆は芸術とは買い取ることができて、持ち運び可能な何かにほかならないと思い込んでしまい、建設的な努力はなされない」移動可能な美術作品が征服者によって奪われ、本来あるべき場とは異なった地に存在することはヨーロッパの大きな美術館を想起すれば明確に理解できよう。近代以降はさすがに力によって強奪されることは少なくなったが、資本主義あるいは商業主義という別のかたちの暴力が「合法的な」作品の移動を生みだした。美が商業主義という全く別の体系に絡め取られていく状況に、私たちはもはや意識することないまでに馴致させられているのだ。マルファで作家が試みた抵抗とは作品を本来置かれるべき場所に留め、移動させないことであり、これによって初めて私たちは作品を場の体験として理解することができる。そしてミニマル・アートがめざした体験はそのようなものであったはずだ。かかる体験がむしろイレギュラーな出来事となっている状況は私たちの美術が完全に商業主義に冒されていることを暗示している。この一方、近年の日本で隆盛するその場限りの「地域アート」は、芸術体験の一回性を担保するためではなく、ツーリズムや「村おこし」という別のかたちの商業主義によって要請されている。「作品は財産にされてはならない。それはただ単に芸術なのだ」というジャッドの願い、マルファの奇跡を実現することはもはや不可能なのであろうか。
by gravity97 | 2015-02-03 20:54 | SENSATION | Comments(0)