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Living Well Is the Best Revenge

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 読む前から愉快な読書にならないであろうことはわかっていた。帯にはこのように記されている。「狂気と恐怖に凍りつくナチスの街で、たった一人の反乱が始まる。戦争直後に書き上げられてから60年以上を経て、いま世界を震撼させるリアリズム小説の傑作」タイトルはこの「反乱」の帰趨を暗示しているかのようだ。作者のハンス・ファラダ(これはグリム童話から引かれたペンネームとのこと)は第二次世界大戦直後、1946年に本書を発表した三ヶ月後に、作中人物の後を追うように没した。作家の死後50年を経て、最近フランスの出版社が本書の翻訳を刊行したことから再評価が進み、欧米でベストセラーになるとともに2011年にドイツでも完全版が出版され(従来の版には編集者による削除や変更があった)、この邦訳は完全版からの翻訳であるという。著者自身が関与しない、やや込み入った出版の事情からはこのブログで以前論じたワシーリー・グロスマンの大作「人生と運命」が連想されるかもしれない。奇しくも本書も同じ出版社から刊行されている。
 今、「奇しくも」と記したが、この時期に本書を刊行したことに私は出版社の意志を感じる。知られているとおり、この出版社は文学系というよりもむしろ社会科学系の出版に強く、本書の類書としてはフランクルの「夜と霧」やこのブログでもふれた「ホロコーストの音楽」がある。フランスが降伏したというエピソードで始まる物語はナチスが台頭する「前夜」のそれだ。出版不況の中で、「出せば売れる」嫌韓本や反中本、くだらないキャリアポルノばかりが書店の店頭に並ぶ今日、あえて「前夜」を描き、分厚く高価な本書を江湖に問うたことに私は出版社としての暗黙のメッセージを感じるのである。
 分厚いとはいえベストセラーになるはずだ。物語の運びは手練のそれであり、読み始めるや登場人物たちから目を離すことができなくなる。四部構成は比較的短い章に分かれ、内容を示すタイトルが付されているから物語の推移を追うこともたやすい。私は一つの週末で通読した。主要な登場人物はさほど多くない。ここで描かれるのはナチスが台頭する時代、ベルリンのヤブロンスキ通りのアパート周辺で生活するごく普通の人物たちの運命である。物語はオットーとアンナ、クヴァンゲル夫妻のもとに一人息子、オットーヒェンの戦死の公報が配達される場面で始まる。手紙を配達したエヴァ・クルーゲとその夫エンノ、同じアパートに住むファシストのペルジッゲとその息子でヒトラーユーゲントのエリート、バルドゥル、退職した元判事フロム、ユダヤ人の老婆ローゼンタール、密告者バルクハウゼン、彼らはそれぞれの立場からこの物語と関わることとなる。ナチスへの抵抗を扱った作品としては、例えばトム・クルーズが主演した映画「ワルキューレ」、あるいはクエンティン・タランティーノの怪作「イングロリアス・バスターズ」などが直ちに連想される。しかし本書において絶望的な抵抗を繰り広げるクヴァンゲル夫妻はドイツ軍の高級将校でも反ナチスの地下組織の構成員でもなく、市井の生活者であり、この点が本書を比類ないものとしている。本書は実話に基づいており、作者によるまえがきも重い。「この物語に描かれているのはほとんどもっぱら、ヒトラー政権と闘った人たちとその迫害者だということを指摘させていただきたいと思います。1940年から42年のあいだにも、それ以前にもそれ以後も、そうした人々から多くの犠牲者が出ました。この本の三分の一ほどは、監獄と精神病院が舞台になっています。そこでも、死は日常茶飯事でした。筆者としても、これほど暗い絵を描くのは気が重いと感じることが何度もありました。が、嘘にならないようにするためには、これ以上明るく描くわけにはいかなかったのです」オットー・クヴァンゲルは熟練した職工長である。彼が働く家具工場ではかつては注文家具を製作していたが、今や爆弾を収納する容器、物語後半では棺を生産している。寡黙で人嫌いのオットーは工員たちから煙たがられてはいるが、公正で実直な仕事ぶりゆえに一種の尊敬も得ていた。しかし一人息子が無益な戦争の中で殺されたことを知り、彼の中で何かが変わる。彼は葉書にナチスとヒトラーを弾劾する文章を記し、公共施設に放置するというレジスタンスを始める。ヒトラー暗殺でも親衛隊員襲撃でもない、葉書を書くというレジスタンスに対して妻アンナは「あんたがやろうとしていることはちょっと小さいんじゃないの」と感想を述べる。しかし同時に二人はこの行為の果てに刑務所とギロチンが待っていることを正確に予見していた。
 第一部においてはレジスタンスの開始までの出来事が描かれる。時代が悪くなるにつれ、クヴェンゲル夫妻の周辺でも不穏な事件が次々に発生する。街にはバルクハウゼンをはじめとする密告者たちが跋扈し、人々は相互監視を始める。ユダヤ人には公然と暴力がふるわれ、しばらく前に夫がゲシュタポによって理由なく検挙されたローゼンタール夫人の家にバルクハウゼンとエンノ・クルーゲは強盗同然に押し入り、民警のごときペルジッケ一家に見咎められる。この騒動の果てに、住民やゲシュタポに責め立てられた老婆は睡眠薬を飲み過ぎて自殺同然の死を遂げる。オットーの工場では怠業者が党員として権勢をふるう。一方、オットーヒェンの許嫁であり、オットーとアンナを実の父母のように慕う娘トルーデルは自らが共産党の支部を工場内に組織したことをアンナに告白する。全体主義が浸透する閉ざされた社会でオットーとアンナはナチスを批判する手紙を書いて市内に放置する絶望的な反抗を開始する。
 第二部では彼らを取り締まる側に視点が移る。葉書犯をクラバウターマン(海の妖精)と呼んで捜査を担当するゲシュタポのエッシェリヒ警部も本書の主要な登場人物である。秘密警察の構成員の多くが、彼の上役である親衛隊大将プラルのごとく下品で粗野な人物として描かれる中で、エッシェリヒはやや謎めいた陰影のある人物として表現される。彼が連行した人物に親衛隊が暴行を加えたように、会議の席での失言のためにエッシェリヒ自身も激しい暴行を受ける挿話からこの時代とこの組織の本質が暴力であることは明らかだ。この体験が彼の内面に一種の崩壊をもたらしたことが物語の中で明らかとなる。第一部で愚行を繰り返した密告者バルクハウゼンと女たらしのエンノはここでもまたみじめな悪事を働き、エンノにいたってはクラバウターマンと誤認され、エッシェリヒの取り調べを受ける。本書に登場する悪人たちは一様に卑しく悲惨であるが、同じエンノがかつては熟練工として尊敬されていたこと、戦争によって働くことの意味を見失い、ペルジッケに殴られて以来、身体の不調が続いていることが転落の原因であると書き込まれている点にも注目する必要があるだろう。後でも述べるとおり、時代の病弊が登場人物たちに内面化される機制がここにはとらえられている。
 第三部においてはクヴァンゲル夫妻のレジスタンスが続けられる一方、トルーデルは闘争から脱落し、彼に好意を抱いていた青年ヘアゼゲルと生活を始める。オットーが葉書を置いた現場をトルーデルに目撃されることによって両者は再会するのであるが、このようなエピソードは彼らのレジスタンスがいずれ露見することを暗示している。老ペルジッケは酒に溺れ、息子たちにも見放される。エッシェリヒの捜査は続き、次第にクヴァンゲル夫妻は追い詰められるが、いくつかの偶然によって追及を免れる。しかし幸運は続かない。ついに二人が葉書を書いていたことは発覚し、ゲシュタポに逮捕される。
 最後の第四部では主に逮捕後の二人の運命が語られる。彼らを担当するラウプ警部の尋問と取り調べは執拗をきわめ、トルーデルやアンナの弟のウルリヒら、無関係の知り合いも蜘蛛の巣に絡め取られるように連座して逮捕される。このあたりの尋問のリアリズムには背筋が寒くなる。さらに彼らが収監された留置所の状況、さまざまな手段を介してなされる迫害や拷問も生々しい。卑劣で苛烈な取り調べに対して、夫妻はともに毅然として臨みながらも、一方でうっかり口を滑らしたため自らを母と恃むトルーデルまでを巻き込んだことに対してアンナは苦悩する。そして実際にトルーデルをはじめ、巻き込まれた者たちも不条理で悲惨な運命をたどることになる。裁判長はもちろん弁護士までが検事役をかってでる裁判に正義が存在するはずはない。法廷で性的な嫌がらせの質問を受けたアンナは突撃隊や親衛隊がユダヤ人女性に性的暴行を加えたことを糾弾し、法廷に混乱を引き起こす。彼らの最期についてはここでは触れないでおこう。そこに救いはないが、一抹の光明も感じられるのは、彼らが最後まで暴力の時代に対して屈することなく、互いを信じ合っていたからであろうか。
 本書は暴力の時代には安易なヒューマニズムが通用しないことを明確に語っている。そしてふだんであればごく普通の、善意に満ちた人々が、暴力の時代にあってはたやすく密告者となり、通報者となり、迫害者となることが暗示されている。ナチス・ドイツとスターリン治下のソビエト、時代と場所こそ異なるが、「万物は流転する。あらゆる人間は密告する」という「人生と運命」中の箴言も思い起こされよう。作家がどの程度意識的に人物造形を試みたかはわからないが、ここに登場する人物の多くは戯画的なまでに卑俗で低劣だ。ペルジッケをはじめとするプラル大将やルッシュ警部、ファイスラー裁判長、ピンシャー検事(ピンシャーとはうるさく吠え立てる犬の種類、この検事には固有名詞さえ与えられていない)など、権力の側に立つ者は多く傲慢で他者への想像力を欠いている。(この点でエッシェリヒの存在は興味深い)一方、バルクハウゼンとエンノをはじめ、密告の常習者ミレック、夫のいる家で客をとるバルクハウゼンの妻オッティら、抑圧される側の人間にも共感する余地はない。あるいはトルーデルとともに共産党活動を行ったグリゴライトやベビーといった「革命家」も単なるエゴイストにすぎないことは読み進むうちに了解される。彼らに対して、権力も富も理想ももたぬクヴァンゲル夫妻こそが真に畏怖すべき存在である。二人は息子の死を介して、自分たちが生きる時代が不正義であることを見抜き、二人だけの抵抗を続ける。当事者であるアンナさえ「ちょっと小さいんじゃない」と批判するほどのレジスタンス、政権批判を記した葉書を人目に触れる場所に放置するというささやかな行為が死を招くという事態にファシズムと秘密警察という暴力装置が結びつく恐怖が浮かび上がる。この小説から明らかなとおり、ヒトラーのファシズムは、ユダヤ人たちへの迫害と体制に順わぬ者への弾圧をいわば車の両輪として押し進められた。しかしこれは別の世界の話だろうか。在日コリアンにヘイトスピーチが浴びせかけられ、沖縄では基地移設に反対する人々が公権力によって暴行を受けている現在の日本とここに描かれた情景の間に私は積極的な差異を見出すことはできないように感じる。そして人々が弱者への憎しみを公然と語り、国家が不気味な力を帯びる状況が、現在の政権の誕生とともに、ごく短い期間に成立したことを私たちは記憶しておくべきだろう。
 本書には時代に迎合することのない何人かの登場人物も存在する。ローゼンタール夫人を匿い、収監されたクヴァンゲル夫妻にある目的をもって面会を求める元判事のフロム、刑務所の中で希望のない囚人たちを励まし、時にメッセンジャーの役割を果たす牧師のローレンツ、そして絶望的な獄中の中に規則正しい生活と文化的な嗜みを持ち込み、同房のオットーに穏やかな感化を与えるライヒハルト博士。彼らの存在は本書を読むうえで一つの救いである。そして主たる物語が終えられた後、エピローグ的に付された一つの挿話、象徴的な意味において息子を失った母と父親を失った息子が農場で自分たちの播いた種を収穫するという明らかに聖書を連想させるエピソードはかろうじて未来への希望をつないでいる。とはいえ小説の中で語られた多くの悲劇は忘れられるべきではない。暴力が支配する時代には善き人々さえも善き人生を全うすることができないのだ。オットーは自分が撒いた300枚近い葉書と手紙のうち、わずか18通を除いて、ゲシュタポに「自発的に」届けられていたことを知り、激しく動揺する。クヴェンゲル夫妻のごときごく普通の市民が不正義に気づき、ささやかな抵抗を始める一方で、多くの者はかかる不正義を見ぬふりをして告発や密告に勤しむ。本書に登場するみじめな人間たちは一つの時代を象徴している。人は知らず知らずのうちに時代の悪に染まり、それを内面化していくのだ。
 先にも記したとおり、今日、在日コリアンの存在さえも否定する悪質な示威行動が公然と行われ、書店の店頭には隣国を蔑み、自国を美化する無内容な書籍が山積みされている。先ほど、私たちはISISに人質として捕らえられていた男性が殺害されたという報に接したばかりであるが、この事件に対しても、人質殺害の直接の原因となった首相の中東訪問の際のふるまいについて批判する報道は私の知る限りほとんどなく、インターネット上では人質となった者の「自己責任」を問う既視感にあふれた光景が広がっている。もはや私たちの国では、人が人種による差別を受けず、国家はその責任において自国民を保護するという民主国家の常識さえも通用しなくなっている。1938年11月、ドイツ各地で反ユダヤ主義の暴動が発生し、ユダヤ人商店の破壊されたショーウインドウのガラスが月明かりの中で水晶のごとくきらめいた。いわゆる「水晶の夜」だ。そして本書で語られる物語、全体主義の恐怖が人々を支配する世界はそのわずか二年後の情景なのだ。繰り返されるヘイトスピーチは私たちにとっての「水晶の夜」ではないか。好戦的で愚かな指導者、政治への絶望、疲弊する経済。現在の私たちを取り巻く状況とここに描かれた時代の相似は不気味このうえない。二年後、ここに描かれた世界が到来することに抗うためにも、本書はまさに今、日本語とされるべき物語であり、多くの人々に読まれるべき書物である。
by gravity97 | 2015-01-25 19:53 | 海外文学 | Comments(0)

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 年末年始にヨーロッパを訪れた。前にも記したが、海外に赴く際には長時間のフライトに備えて事前に読みやすい長編小説を準備する。私の場合、必ず携える作家はロバート・ラドラムだ。以前より海外で飛行機に搭乗する際、私は現地の旅行者がどんなペーパーバックを持ち込むかに関心があり、常に横目でチェックするのであるが、少なくとも私が頻繁に海外で仕事をしていた10年前から20年前くらいの間、ラドラムとダン・ブラウンは航空機内で読まれている作家の双璧であった。
 私の考えではフライトの際に読まれる小説はいくつかの特質を兼ね備えるべきだ。まず少なくとも往路もしくは復路を費やして読む必要のある長さ、これから旅する土地が舞台となること、そしてリーダビリティーである。大半が厚い文庫本で二分冊、アメリカとヨーロッパを謀略の舞台とし、場面転換が多く飽きることのないラドラムはまさにうってつけなのだ。フライトのたびに新しい小説を持ち込んだから、今、書庫で確認しただけでも私は20作品近いラドラムの文庫本を所持している。述べたとおり、ラドラムの小説は多くが二分冊、中には三分冊の長尺であり、文庫にもかかわらず一つの書架を占有するほどの量がある。逆に言えばそれほど多くの作品が日本語に訳されている訳であるが、訳者もあとがきで嘆くとおり、アメリカと日本で受容にこれほどの差がある作家、つまりアメリカでは売れているが日本では知られていない作家はほかに例がないだろう。実際、アマゾンで検索してみるならば、ラドラムの小説は多くが入手可能とはいえほとんどが中古本であり、市場では品切れ状態なのである。一般にラドラムの名前はベストセラー作家というより単に映画「ボーン・アイデンティティー」の原作者と呼んだ方が通りがよい。「ボーン・アイデンティティー」は邦訳タイトルとしては「暗殺者」。記憶を喪失した秘密工作員を主人公にしたスリラーはラドラム作品中でも白眉と呼ぶべき佳作であるが、ほかの作品も極端な出来不出来はない。ひとまず機内に持ち込めば、片道分のフライトは楽しめ、こちらとしても特にそれ以上は期待していない。それぞれの物語は全く異なっているにもかかわらず、読み終えるといずれもよく似た印象を与える点も日本でラドラムが人気のない理由かもしれない。この点は同じようなスリラーを量産したフレデリック・フォーサイスやトム・クランシーと比べる時、直ちに了解されるだろう。
 さて、今回機内に持ち込んだのは1979年に原著が発表された「マタレ―ズ暗殺集団」。いうまでもなくベルリンの壁が存在し、冷戦が続いていた時期に執筆された作品である。北上次郎によれば、ラドラムで読むべき作品は「マトロック・ペーパー」「暗殺者」そしてこの「マタレーズ暗殺集団」の三冊のみであり、あとは同工異曲ということである。この発言がどの時点でなされたかは不明であり、80年代以降に発表された小説にも親しんだ私としてはやや厳しい評価であるように感じられないでもないが、確かにこの小説はよく描けている。冒頭でアメリカとソビエト連邦(ロシアではない)の二人の要人、アンソニー・ブラックバーンという将軍とディミトリー・ユーリエヴィッチという核物理学者が謀殺される。米ソ当局は暗殺者として、それぞれソビエト連邦とアメリカの腕利きの工作員、ワシーリー・タレニエコフとブランドン・アラン・スコフィールドを容疑者として割り出すが、いずれの国も彼らの関与を否定する。冒頭から米ソの冷戦を強く意識した内容である。このうちタレニエコフはKGBで指導を受けた老人から死の直前に「マタレーズ」なる秘密組織が暗躍を再開したという警告を受ける。マタレーズとは要人の暗殺を請け負い、世界史の闇を支配してきた謎の集団であり、スターリンやルーズベルトの死にも加担していたという。冒頭の二つの暗殺もマタレーズの手によるものであったのだ。秘密の暴露、任務の移譲、未知の敵。これらの説話論的主題に彩られた冒頭は、例えば主人公がジュネーブで再会した旧友から世界的な蜂起計画の進行を警告され、その直後に旧友が殺されるという「戻ってきた将軍たち」のオープニングと同一であり、先に述べたようにラドラムの小説の読後感が相似した印象を与える点はかかる物語の構造に由来しているだろう。さて、タレニエコフはこの陰謀を阻止するために老人のアドバイスに従ってスコフィールドと接触しようとするが、実はこの二人はかつて冷戦の中で恋人と弟を殺しあった仇敵同士なのである。このあたりの強引さというか御都合主義には呆れもするが、機上で頁を繰る分にはさほど気にならない。したがって両者が宿敵と和解し、世界規模の陰謀に立ち向かうまでの緊迫したやりとりは本書の読みどころといえよう。手を組んだ二人はかつて20世紀初頭、マタレーズが設立されたコルシカ島に渡り、その秘密を探ろうとする。この過程で二人が何度も危機に陥り、多くの殺人に立ち会うことはラドラムの読者であれば誰でも予想がつく。コルシカ島で二人はマタレーズ結成の瞬間に立ち会った老婆とその孫娘アントニアに出会う。毅然とした美女アントニアの登場によって二人のうちのいずれか、おそらくはスコフィールドが彼女と恋に落ちるであろうこともラドラムの定石である。ジェフリー・ディーヴァーとは異なり、読者の予想が裏切られることがないのがラドラムであり、予定調和をその本質としている。しかしながらたたみかけるような事件の連続、スコフィールド=タレニエコフの側とマタレーズ側をたえず往還する叙法は緊張を持続させ、読者は物語の帰趨から一瞬たりとも目を離すことができない。予定調和と緊張の両立こそラドラムの名人芸というべきかもしれない。舞台はニューヨーク、モスクワ、アムステルダム、ローマ、レニングラード、エッセンとめまぐるしく変わる。いずれの都市でもマタレーズ・サークル(本書の原題であり、暗殺者たちの胸に刻まれた円形のタットゥーと二重の意味をもつ)の暗殺者が暗躍し、関係者は次々に殺害される。最初は守勢に立たされたスコフィールドたちであったが、マタレーズ結成に関わった各国の実力者の末裔たちを突き止め、彼らの上に君臨する「羊飼いの少年」なる黒幕の正体を次第に暴き出していく。携帯電話もインターネットもない時代のマンハント、その圧倒的なディテイルについては直接お読みいだくのがよいだろう。欧米の主要都市、高級ホテルやクラブを舞台にマッチョなヒーローが敵と闘い、美女とベッドをともにするという荒唐無稽なストーリーはイアン・フレミングの007シリーズなどとも共通し、20世紀末のホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの男性にとっては一つのファンタジーを形成しているだろうが、ジェンダーや階級といった問題意識をくぐり抜けた私たちにとっては少々居心地が悪くも感じられる。
 b0138838_20483992.jpgさて、本書には実は続編がある。原著としては18年後の1997年に発表された「マタレーズ最終戦争」(原題 Matarese Countdown)である。本書も文庫二分冊のほとんど同じ分量である。今回のフライトでこちらも通読したが、こちらはラドラムらしからぬ凡作であった。マタレーズが復活したというダイイングメッセージを残して実業家たちが怪死する。CIA副長官のフランク・シールズは若手のエリート工作員キャメロン・プライスを抜擢し、カリブ海に隠棲し、妻アントニアとともに悠々とした余生を送るスコフィールドに接触し、彼とともに情報の真偽を確認するように命じる。しかしここでもマタレーズは先手を打ち、彼らは何度も窮地に陥る。前作のスコフィールドとアントニアに代わり、本作のヒーローとヒロインはプライスと陸軍情報部将校のレスリー・モントローズであり、彼らに加えて空軍パイロットのルーサー・コンシダイン、イギリスの情報機関M15長官のジェフリー・ウォーターズらがいわばチーム・スコフィールドを結成してマタレーズの陰謀に立ち向かう。しかしながら人物の描写はきわめて平板で(もっともラドラムの場合、人物描写に深みを期待することは最初から期待できない)、東西冷戦を背景として前作に導入された緊張も欠いているため、本書を通読するのは少々辛く感じられた。そもそも原題にあるカウントダウン、マタレーズの蜂起計画の詳細が最後まで明らかとされないため、人物たちの動きにリアリティーや必然性が感じられないのである。
 しかしながらこの小説が発表された時期を考えるならば、内容には示唆的もしくは予言的な部分がある。1997年という時代は端的に冷戦と9・11のはざまである。「暗殺集団」の背景をかたちづくったアメリカとソビエト連邦の対立は「最終戦争」の発表時にはもはや存在しない。一方で昨今の欧米のスリラーではテロリストのステレオタイプとも呼ぶべきイスラム系の人物も登場しない。私の知る限り、ラドラムの小説においては『暗殺者』にベネズエラ人の実在のテロリスト、ジャッカルが姿を現す以外に特定のモデルをもったテロリストやイスラム過激派は登場しない。ネオ・ナチ、退役した狂信的な軍人によって結成された秘密組織、国連に巣食う陰謀、登場する敵役もまた先に述べたとおり、常にWASP的な想像力の範囲内である点にラドラムの限界を指摘できるかもしれない。ラドラムが没したのは同時多発テロの半年前、2001年3月のことであったから、もしラドラムが生き長らえて同時多発テロを経験していたら、どのような小説として結実したかという問題は興味深いし、巨視的な観点に立つならならば、それは欧米のフィクションに登場する「テロリスト」が「アラブ・ゲリラ」から「イスラム戦士」へと名指し変えられる状況と関連しているだろう。冷戦が終結した後、「最終戦争」においてマタレーズがその影に隠れて陰謀を押し進める隠れ蓑は何か。それは多国籍企業である。小説の中では新聞の報道等を引用する形式で多国籍企業が関連企業を買収し、世界的な寡占状態が進行する過程が随所で語られる。かかる寡占化とマタレーズの世界支配に向けてのカウントダウンがどのように結びついているかが具体的に説明されない点はこの物語の致命的な弱点である。しかし今、私たちはマタレーズ暗殺集団が暗躍せずとも「グローバル化」という名の産業の寡占化が世界規模で進行していることを知っている。のみならず私たち自身がそのような状況を歓迎しているのではないだろうか。それはかつてこのブログで触れたギュンター・アンダースが「世界機械」と呼んだ趨勢であるかもしれず、マタレーズが存在せずともこの小説で描かれた世界は実現されつつあるのだ。
 このたび久しぶりにトランス・ヨーロッパ・イクスプレスならぬインターシティーに乗車して驚いたことがある。車内で若者たちが携帯を手にしている風景は日本の通勤電車と変わることがない。しかも何というゲームか私は知らないが、彼らが夢中でのぞきこんでいるゲームは明らかに日本でも若者たちが興じているそれだ。かかる風景の世界的画一化に私は軽い恐怖心さえ覚えた。かつては言語も習慣も異なる海外へ赴くことは異文化の中に身を置くことであった。しかし今や若い世代においては、少なくとも日本と欧米で携帯端末を中心とした文化にほとんど差異がないのである。私自身、初めて海外からWi-Fiでラインやメイルに接続し、それがいかにたやすいかを実感したのも今回の旅行であった。おそらく若い世代はかかる情報インフラをはるかに豊かに享受することができるだろう。しかし私はこのような一元化を必ずしも好ましいとは感じない。世界が選択と集中を加速化するうえで一元的な価値への統合は望ましいかもしれない。しかし私たちが望むのはそのような世界であろうか。ラドラムの小説を絵空事と呼ぶのはたやすいが、マタレーズのごとき荒唐無稽の存在ではなく、より狡猾で非人称の意志が今や世界を制覇しようとしており、私たちもそれを進んで受け入れようとしているのではないか。かかる不安は果たして長いフライトの疲れによって兆した妄想であったのか。
by gravity97 | 2015-01-12 20:55 | エンターテインメント | Comments(0)

NEW ARRIVAL 150107

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by gravity97 | 2015-01-07 19:40 | NEW ARRIVAL | Comments(0)