ツイッターであったかフェイスブックであったか、ピンク・フロイドの新譜が発売されるという知らせに接した際には驚愕した。1994年の[The Division Bell]から20年、よもや今世紀に新しいアルバムが発表されるとは予想していなかったからだ。この間にシド・バレットとリチャード・ライトの訃報が届き、デイヴ・ギルモアが「ザ・ウォール」のライヴに客演してロジャー・ウォーターズとの和解を暗示する映像をユーチューブで見た。以前はピンク・フロイドの新譜は発表されるまでほとんど情報がなかったが、インターネットが発達した今日ではSNSを介して事前に次々に関連情報が入る。今度のアルバムにはロジャー・ウォーターズは関与していないらしい。音源は[The Division Bell]のセッションの際の録音を使用しているらしい。雲海をボートで漕ぎゆく幻想的なジャケットのイメージさえずいぶん以前に確認した。
 アルバムは四つのパートに分かれ、18曲が収められている。最後の「Louder Than Words」を除いて全てインストルメンタルという構成はこれまでのピンク・フロイドのアルバムと比べても異例である。厳密には冒頭の「Things Left Unsaid」と「Talkin’ Hawkin’」には言葉が導入されているが、それらはいわゆるリリックではなく、事前に録音されたレディメイトの音声だ。これら三つの曲に収められた言葉がいずれも「言葉がもつ力」を主題としている点は興味深い。この点はunsaid、talking、words という言葉と関わる三つの語がそれぞれに冠せられていることからも明らかであろう。ただし今述べたとおり、このアルバムは基本的にインストルメンタルであり、メッセージを読み取ることは困難だ。この点こそギルモアのピンク・フロイドとロジャー・ウォーターズを隔てている。周知のごとく、後期のピンク・フロイド、とりわけ[The Wall]と[The Final Cut]はほとんどロジャー・ウォーターズのソロ・アルバムといってよい。これらがきわめて強い社会批判のメッセージを備えていたのに対して、[The Momentary Lapse of Reason]と[The Division Bell]は大半の曲にヴォーカルが入っているとはいえ、先の二つのアルバムに比して社会性は希薄だ。ライナーノートによれば[The Division Bell]は本来二枚組で一枚をアンビエントなインストルメンタルアルバムとする計画もあったということであるから、このアルバムを[The Division Bell]の遅れてきた分身と考えるならばこのような構成は理解できる。
 新しい音源が含まれていないとしても、新作はパワフルで私は十分に堪能することができた。ピンク・フロイドが新譜を発表するにあたって編集に徹底的にこだわることはよく知られている。このアルバムにも最新の音響技術が駆使されていることは容易に想像される。20年の間隔はさすがに長すぎるにせよ、ここで繰り広げられるのは紛れもなくアップデイトされたピンク・フロイドのサウンドだ。ライトのキーボード、ギルモアのギター、そしてメイスンのドラムが絡み合うセッションは[A Momentary Lapse of Reason]以降のギルモアのピンク・フロイドのテイストだ。しかしながら収められた曲のいくつかは「One of These Days」や「On the Run」あるいは「Us and Them」といった初期の名曲を連想させないでもないし、「Summer ‘68」ならぬ「Autumn ‘68」という曲さえ収められているのである。そして新しいアルバムは今までのどのアルバムとも似ていない。この点はピンク・フロイドがデビューからおおよそ半世紀、周囲の音楽状況に全く影響を受けることなく、まさに孤高と呼ぶべきスタイルを貫いてきたことを暗示しているだろう。
 今回は個人的な記憶を記す。私が最初に聞いた彼らのアルバムは[Atom Heart Mother]であった。タイトルもアーティストも示されず牛の姿だけが大きく写ったヒプノシスによるショッキングなデザイン(いうまでもなかろうが、私はLPレコードを求めたのだ)「原子心母」というなんとも絶妙な日本語タイトル。A面の全てを占める原子心母組曲を聴いて私は唖然とした。それまで聴いたどのような音楽とも異なっているのだ。仕事柄、従来の価値観を根底から覆す美術作品に出会うことが数年に一度くらいの頻度である。それは必ずしも新奇な作品という意味ではない。時にはロスコの、時にはキーファーの、そして時にはフェルメールを前に感じたかかるセンセーションを音楽の領域で感じたことはさほど多くない。おそらく私にとってそのような体験の最初だったのではなかろうか。それから私は憑かれたように彼らのアルバムを聴いた。既に[The Dark Side of the Moon]は発表されていた。私がリアルタイムに彼らのアルバムを聴いたのは1975年の[Wish You Were Here]以降である。この時期は比較的コンスタントに新しいアルバムがリリースされたが、それでも数年のブランクがあり、その間彼らに関する情報はほとんどなかった。このあたりも凡百のミュージシャンとは格を絶していた。私は中学後半から高校にかけて一日として彼らのアルバムを聴かずして過ごすことがない、いわばピンク・アディクトとして青春を送った。狂気や孤独といったアルバムの主題が思春期の精神に親和したためかもしれない。1977年の[Animals]も衝撃的であった。ウォーターズのピンク・フロイドの開幕を告げるこのアルバムでは内面に沈潜する代わりに社会が痛烈に批判されていたからだ。実はこの前後、ここに収められた曲の原型を私はいくつかの海賊版(ライヴの音源をレコード化したもの)を通して聴いていたが、それらと比してもこのアルバムの攻撃性は明らかであった。当時は若干の異和感があったが、今から思えば紛れもなく彼らの代表作の一つである。そして1979年の[The Wall]は[Animals]の社会批判をさらに展開しながら、ミュージシャンとオーディエンスを隔てる壁という、きわめて内発的な問題も主題としていた。モントリオールでのライヴの際に態度の悪い聴衆にウォーターズが唾を吐きかけたことから着想されたというこのアルバムもまた名盤中の名盤であり、とりわけ「Comfortably Numb」は私としてはピンク・フロイドの楽曲中のベストではないかと思う。88年の大阪でのライヴでこの曲が演奏された時、私は思わず鳥肌が立った。1983年の[The Final Cut]も素晴らしい。このアルバムは[The Wall]の三枚目、ファイナル・カットという印象が強く、内容としてもウォーターズのピンク・フロイドを強く印象づけたが、結果としてウォーターズのピンク・フロイドの最後のカットとなった。(カットにはレコードの意味もある)
 ギルモアのピンク・フロイドとウォーターズのピンク・フロイド、私はいずれにも強い思い入れがあるから、好悪あるいは優劣を論じることはできない。確かに両者が結合した感のある[The Dark Side of the Moon]や[Wish You Were Here]はプログレッシヴ・ロック史上に残る名盤であろう。しかし私は両者がそれぞれの個性を強調した70年代後半以降のピンク・フロイドのアルバムもそれぞれ愛好するし、さらに言えば、ピンク・フロイドを脱退した後のウォーターズのアルバムも傑作揃いだ。ピンク・フロイドの名義としては87年に[A Momentary Lapse of Reason]が発表される。ウォーターズが抜けた後、新しいアルバムが発表されるとは思っていなかったから大きな驚きであり、何よりも私はこの際のワールド・ツアーを大阪で体験したから、このアルバムには強い思い入れがある。ギルモアのピンク・フロイドの誕生を告げるこのアルバムについてウォーターズは「非常に精巧なピンク・フロイドの贋作」と評したと伝わっている。逆に言えばウォーターズをして「非常に精巧な」と言わしめるほどの傑作であったと考えるべきであろう。同じ時期にウォーターズも[Radio KAOS]を発表し、ツアーを行う。ツアーとしては前者の圧勝であったと聞くが、私はウォーターズのこのアルバムもお気に入りである。大阪で体験した衝撃的なライヴは[Delicate Sound of Thunder]として今でも聴くことが可能だ。そして新譜の発売から7年後、ライヴの発売から6年後にピンク・フロイド名義の新作[The Division Bell ]が発表された。これもほとんど予告なしの突然のリリースであった。ギルモアのピンク・フロイドの円熟を示すアルバムであるが、私はこれに先んじて92年に発表されたウォーターズのソロ・アルバム[Amused to Death]の方に強い感銘を受けていたので、ほかのアルバムほど聴きこんでいない。むしろ今回の新譜の内容を知って最近集中的に聴いた。2002年にウォーターズは来日公演を行っている。この際にはピンク・フロイド時代の曲と[Amused to Death]に収録された曲が披露された。天安門事件や湾岸戦争を主題とした[Amused to Death]はウォーターズの楽曲の本質である社会性がかつてなく濃厚に表明され、ウォーターズのピンク・フロイド時代のアルバムと比しても屈指の名盤ではないかと考える。来日公演は[In the Flesh]のタイトルでCD化されているが、新作の発表からあまりにも時間が経過していたこともあり、88年のピンク・フロイドのライヴほどの衝撃は受けなかった。そしてそれからさらに10年以上が経過してから届いた今回の新譜である。音源が[The Division Bell]の際のセッションであるからウォーターズの関与はありえないし、ウォーターズ自身も早くからこの点を明言していたとはいえ、この時点でギルモアとウォーターズの全面的な和解がなされなかった点は少々残念に思われる。
 今回、ワールド・ツアーは行わず、ピンク・フロイドとしてはこれが最後のアルバムであることが明言されている。彼らの年齢、そして新作発表までのインターバルを考えるならば致し方ないかもしれない。アルバムの最後に収められ、終曲(フィナーレ)という日本語のサブタイトルが付された「Louder Than Words」は文字通りピンク・フロイドの最後の曲となるのだろうか。注意深く聴くとこの曲の最後は最初の「Things Left Unsaid」(二つのタイトルの対照も暗示的だ)の冒頭とつながり、アルバムは一種の円環構造をかたちづくっている。興味深いことにウォーターズの[Amused to Death]も全く同じ構造をとっていた。ジョイスの「フィネガンズ・ウエイク」のごとく、半世紀にわたるピンク・フロイド・サーガもかくして一つの輪廻を終えたということであろうか。なんとも深い余韻を残すアルバムであり、長く彼らの音楽に魅了されてきた者としては聴き終えて万感胸に迫る思いがある。レヴューというより単なる個人的回想を書き連ねてしまった気もするが、さすがの私も個人的感情を交えずにこのアルバムを評することは困難である点を了解いただきたい。
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 なお、今回の新作に関しては日本版に50頁以上に及ぶ「永遠のピンク・フロイド」という別冊の冊子が付いている。立川直樹の巻頭テクストに続いて、レコード会社の歴代担当者が興味深い文章を寄せている。私自身は初期を除いて、ピンク・フロイドのアルバムの日本語タイトルはほとんど感心したことがないが(そのためこのレヴューでは英語タイトルを示した)、日本語タイトル命名の事情やらメンバーとの交流など担当者以外には知り得ない裏話が満載でなかなか楽しめる。これから求める方には日本版の購入をお薦めしておく。
by gravity97 | 2014-11-25 20:50 | ロック | Comments(0)

b0138838_20433256.jpg 安楽椅子探偵の究極の姿、全身不随の科学捜査官リンカーン・ライムを主人公としたシリーズもこれで10作目となるという。このブログでも以前に「12番目のカード」について評したことがある。このシリーズに関して、私はこれまでに「エンプティー・チェア」以外は全て読んでおり、またこのシリーズからスピンオフしたキャサリン・ダンス・シリーズについても何冊か読んだ。「ボーン・コレクター」とともにライムという異形の主人公が登場した際は大きな衝撃を受け、現場に残された微細な手がかりから容疑者を特定していく緻密な推理も実に新鮮であったが、さすがに10作も発表されると作品によって出来不出来があることがわかる。とは言いつつ、毎年秋が深まる頃に翻訳が発売される新作を求めて、期待を大きく裏切られたことはない。本作もシリーズ中ではおそらく標準的な出来といえようが、読み始めるとしばらくほかの事に手がつけられないページターナーという点はいつもどおりだ。
 未読の読者も多いであろうから、ここでは帯に書いてある程度の情報しか内容に立ち入らないようにするが、今回はディーヴァー特有のけれん味あふれるどんでん返しはさほど盛り込まれていない。プライヴェイトにおいてもライムのパートナーの位置を占めるアメリア・サックス。ロン・セリットー、フレッド・デルレイといった捜査官たちから成るチーム・ライムの面々、さらに依頼者、今回はナンス・ローレルというニューヨーク州の女性地方検事補(彼女とサックスとの葛藤が一つのストーリーをかたちづくる)がライムのタウンハウスを訪れて捜査への協力を依頼するというオープニングもいつもどおりである。今回、ライムが立ち向かうのはアメリカの架空の政府組織、テロリストとみなされる人物を謀殺する諜報機関である。開幕冒頭、バハマのリゾート地に潜んだ反体制派ジャーナリストが2000メートルという超遠距離から狙撃されて死亡する。内通者からこの殺人が計画的な暗殺であることを知らされたローレルは国外であれ、アメリカ人を殺害したことを理由に関係者の訴追に乗り出す。(被害者の国籍はこの物語では重要な意味をもつ)ビンラディン暗殺の報に触れた私たちにとってこのような組織が架空であると断言することはもはや難しいとはいえ、このシリーズとしては珍しくサイコパスや殺人狂といった個人を相手にするのではなく、組織対組織の暗闘にライムが関わることとなる。といっても人物造型に長けたディーヴァーであるから、本作にもジェイコブ・スワンなる殺し屋を登場させて物語を引き締める。このような連作の場合、仇役とも呼ぶべき殺人者とライムとの死闘が物語をかたちづくるから、作を追うに従って悪役のインフレーションとも呼ぶべき事態が発生する。つまり新しい仇役は前作に登場したそれより劣ってはならないという法則だ。これは書く側にとっても一つのハードルとなるだろうが、今回登場するジェイコブ・スワンは残忍なナイフの使い手であり、しかも料理を得意とする。このあたり、来日した際には各種の包丁を買い求め、週末ごとに招いた客を自ら腕を振るった料理でもてなすという作者ディーヴァーの姿が投影されており、実際にスワンが小説の中で作る美味そうな料理のレシピはディーヴァーのホームページに掲載されているらしい。偏執的な殺人者と優れた料理人はしばしば一致する。いうまでもこのような存在から直ちに連想されるのはトマス・ハリスが一連の作品の主人公としたハンニバル・レクター博士であるが、この小説のジェイコブ・スワンのキレぶりもなかなかのものであり、悪役インフレーションをみごとにクリアしている。そして彼を操る政府の謀略機関も情報の収集という点において徹底的であり、サックスが発する電話やメイル、あらゆる通信を傍受して、関係者の暗殺をスワンに命じる。実際にこのような操作が現在可能とされているか否かについては、テロリストを未然に暗殺する謀略組織の存在同様、絵空事とはいえない気がする。実は私は本書を読む直前にやはり最近訳出されたテリー・ヘイズの『ピルグリム』という長いスリラーも通読し、どちらをレヴューするか迷いもしたのであるが、そこでもアメリカに対して大規模なテロを企てる顔のないテロリストに対し、アメリカ政府がインテリジェンス能力の全てを投じて追いつめていく様子が描かれていた。『ピルグリム』においてはエシュロン、アメリカの軍事目的の通信傍受システムの存在は自明のものとして描写されていたが、かくも電子機器が発達した社会において、ひとたび政府に抗うならば私たちのプライヴァシーはきわめて危ういことをこれらの小説は暗示している。
 先に登場人物や冒頭がいつもどおりだと記したが、このシリーズを読み続けてきた者としては驚くべき展開がいくつかある。冒頭に記したとおり、最初の設定では全身不随であったライムが本作においては右腕の自由をほぼ取り戻しているのだ。前作『バーニング・ワイヤー』の最後で最新の治療を受けリハビリに取り組むライムの姿が粗描されていたが、今回の物語は明らかにその延長上にある。そして驚くべきことに今まではマンハッタン、セントラル・パークを臨むタウンハウスから動くことのなかった/できなかったライムは今回の物語の中で証拠を求めてバハマまで自ら出向くのである。南国のリゾート、ビーチの上のライムとは想像しがたい情景である。この情景は今回の犯行現場が野外を含むことを暗示しているともいえようが、そのためであろうか『ゴースト・スナイパー』ではライムの独擅場とも呼ぶべき見せ場、つまり自分の部屋にいながら、グリッド捜索を行うサックスからの情報をもとに現場の遺留品から次々に犯人像を推理するライムの姿があまり登場しないのは残念である。ライムとサックスはこのシリーズにおける静と動、推理と行動、安楽椅子と現場という対比を象徴しているが、シリーズを追うに従って次第に前者から後者へと比重が移っているように感じるのは私だけだろうか。もう一点、本書においてはかなり時事的、今日的な問題が作品の中心に置かれていることも興味深い。トリックの核心とも関わるのでこれ以上は説明しないが、インターネットや最新の操作技術を駆使しながらも、これまでライムが扱う事件は重大事件の証人の警備や密入国者の捜査、あるいは天才的な犯罪者のトリックといったさほど時局と関わることがない内容であった。これに対して、今回の事件は9・11以後のアメリカの恥部とも呼ぶべき問題と深く関わっており、政府の機関を州の地方検事が告発しようとする物語の枠組自体に既にこの点は暗示されている。ひとつだけヒントを述べるならば、本書は原題を The Kill Room という。本書を通読するならば意味深長なタイトルであることはすぐさま理解されよう。
 このシリーズは登場人物の成長の記録でもある。以前、(どの事件であっただろうか)捜査の中で頭に重傷を負い、深刻なPTSDに苦しんだサックスの部下、「ルーキー」ことロナルド・プラスキー巡査は今回目を見張るような活躍をして、ライムやサックスを驚かせる。そして今回もまた物語の最後で一人の登場人物が重大な決断をする。おそらく次作に反映されるであろうこの決断がいかなるものであったかは本編を読んでお楽しみいただきたい。既にアメリカではリンカーン・ライム・シリーズの新作が今年発表されている。 The Skin Collector というタイトルからは「ボーン・コレクター」やトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」も想起されよう。邦訳は例によって一年後であろうか。楽しみに待ちたい。
by gravity97 | 2014-11-16 20:47 | エンターテインメント | Comments(0)

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 ブリヂストン美術館で「ウィレム・デ・クーニング展」が開催されている。デ・クーニングはポロックと並び称される抽象表現主義の巨匠であるが、印象派や近代日本画の上品なコレクションで知られるこの美術館で、ある意味で相当に悪趣味のデ・クーニングの展覧会が開催されるとはやや意外に思われる。現代美術を直接の対象とした展覧会は、以前このブログでも応接したアンフォルメルに関する展覧会以来であろうが、50年代から60年代にかけてブリヂストン美術館が現代美術とも深く関与したことを想起し、デ・クーニング自身もこの美術館を訪れた記録があると知ってようやく得心する。
 今回の展示の中心となるのはコロラド州、アスペンのパワーズ・コレクションに収められた作品群である。ジョンとキミコ、パワーズ夫妻によって収集された現代美術コレクションのクオリティーの高さはよく知られており、近年、国立新美術館でパワーズ・コレクションによる大がかりなポップ・アートの展覧会が開催されたことは記憶に新しい。このコレクションはポップ・アートとミニマル・アートの優品によって知られているから、デ・クーニングの作品がこれほど収められていたとは驚きである。サインとともにパワーズ夫妻への献辞が付された作品も散見され、作家とコレクターの親密な関係は明らかである。このほかに国内の美術館に所蔵されているデ・クーニングをほとんど借用して総数にして35点、二室を用いた展示は決して大規模ではないが、結果的に60年代のデ・クーニングに焦点がしぼられ、見応えがあるとともに、多くの問題に思いをめぐらす興味深い内容となっている。
 デ・クーニングに関しては1983年にホイットニー美術館ほかで、2011年にニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開催されている。私はいずれも未見であるが、手元にあるカタログを参照する限りでは、今回の展覧会で展示された作品はいずれの展示にも出品されておらず、この意味においても貴重な機会といえよう。パワーズ夫妻は自分たちの邸宅に作品を展示していたとのことであり、このため比較的小品が多いが、作品の質は高い。50年代前半に制作された二点のドローイングを含め、ほとんど全ての作品において「女」が主題とされている点は興味深い。おそらくこの点は作品が集中的に収集された時期と関連しており、かかる選択にコレクターの趣味がどの程度反映されているかは微妙な問題であるが、これらの絵画を自宅の壁に掛けるにあたっては相当の神経が必要ではないか。これから論じる問題とも関わっているが、展示された作品は個人の住宅のリヴィングルームを飾るにはあまりにも生々しく感じられるのだ。この点はこれらの「女」たちを50年代に制作された「女」たちと比べると理解しやすい。最初キュビスムの影響を濃厚にとどめた独特の抽象絵画を携えて登場したデ・クーニングは1952年に現在ニューヨーク近代美術館に収蔵されている有名な《女Ⅰ》を発表して、大きなセンセーションを引き起こした。50年代前半には「女」と題された作品が多く制作され、「マリリン・モンロー」という固有名を与えられた「女」さえ存在する。この後、50年代後半に作家は再び抽象へと回帰し、激しいストロークが刻まれ、多く風景のコノテーションを有する絵画を制作した。絵画を生の方法(way of living)と断じるデ・クーニングにとって、具象/抽象という区別は大きな意味をもたず、このような転回はさほど重要ではない。むしろ50年代の「女」たちと60年代の「女」たちの区別こそ注目に値する。50年代の「女」たちはなおも女性像としての結構を有していた。具体的には目や口(しばしばむき出しの歯として表現される)、乳房や手足が凶暴なストロークとともに描きこまれ、たとえ彼女たちが「醜悪の使徒」であろうとも、女性が描かれていることは理解できる。これに対してやはり激しいストロークで描かれた60年代の「女」たちは風景の中に溶け込んだかのようだ。この時期の作品において50年代に時を追って探求された二つの主題、女性像と風景のイメージが統合されたと考えることは不可能ではない。実際にいくつかの作品には《風景の中の女》あるいは《水の中の女》といったタイトルが付されている。風景と女性、あるいは水面と女性といったモティーフからは古今の名画の系譜がたどれる。「私の絵画は多くが他者の絵画から来る」と説くデ・クーニングがヴェネツィア派からフランドル絵画にいたる様々な絵画からインスピレーションを得たことは明らかだ。インタビューの中ではキミコ・パワーズが「絵画同様に完成することのない」アトリエのために準備されたドアのフォーマットをデ・クーニングが気に入って、しばしばそのサイズで作品を制作したという興味深い証言を残している。確かに出品された作品はかなり縦長のフォーマットが多く、直立する人物を描くには好都合であるから、支持体のフォーマットがなんらかのかたちでイメージを規定した可能性はある。今回の出品作が制作される直前、1960年に《Door to the River》といった抽象表現による傑作が残されていることも考慮するならば、デ・クーニングとドアという問題は一つの研究の主題となりうるかもしれないが、ひとまずは措く。
 このレヴューにおいて私が注目するのは風景の中に溶解するがごとき60年代の女たちにおいて、女性性の象徴のごとく反復される一つの記号が確認できることである。それは唇のイメージだ。今回出品された多様な女性像において唯一共通するのは赤く塗られた唇であり、時に《歌う女》のごとく口を開き、木炭画や版画においては唯一の色彩が与えられた場として画面の焦点をかたちづくっている。唇に関しては50年代の「女」たちとは興味深い対照が認められる。先にも触れたとおり、50年代の「女」において、女たちの口がむき出しの歯として描かれることは《女Ⅰ》に典型的にみられるとおりだ。女たちは多くの場合、英語であればgrinと表現されるであろう、にやにや笑いを浮かべている。しかし60年代の女たちは歯が描かれることがない。今、私はニューヨーク近代美術館の分厚いカタログを参照してみたが、このような対比は今回の出品作のみならず二つの時期に描かれた「女」たちにほぼあてはまる。かかる変化は何を意味するのか。ひとまず私は二つの仮説を提起しておこう。一つは歯ではなく唇を描くことによって接触性が強く喚起される点だ。私たちにもっとも身近な唇のイメージはキスマークであり、リップスティックを塗った唇を何かに押し当てることによって得られるイメージであり、かかるインデクス的なイメージは物理的な接触を前提としている。デ・クーニングは実際に妻エレーヌの唇を押し当てて描いたいくつかのドローイングを残しており、あたかもイヴ・クラインの「人体測定」のフェティシズム版であるかのようだ。実際、唇というモティーフはデ・クーニングにおいてフェティシズムの問題とも絡めて検証可能かもしれないが、これについても今後検証されるべき課題として指摘するに留める。これに対して歯は接触的ではない。なぜならば、人は歯をみせた状態で唇のイメージを転写することができないからだ。デ・クーニングの初期の抽象絵画にも歯のような形状がしばしば認められる。明らかにピカソとキュビスムを経由するこれらの形態は60年代には一掃される。そしてこの問題とも関わる点であるが、唇のイメージが喚起する二番目の意味とは端的に女性器である。歯の生えた性器、ヴァギナ・デンタタとは精神分析の領域で提起された概念であり、シュルレアリスムあるいはポロックの精神分析ドローイングなどに頻出するイメージである。デ・クーニングの場合、女たちが歯を失うことによって、唇は性器というダブル・ミーニングを得たのである。人体において女性器ほど触覚的な器官は存在しないだろう。したがってこの点も60年代のデ・クーニングの女性像が本質において触覚的であることを暗示している。
 さらにここでは十分に検討する余裕がないが、絵画の触覚性に関連して指摘すべきは、この時期、デ・クーニングが多くのコラージュの実験を重ねていることである。私も会場で作品を実見して驚いたのであるが、《サッグ・ハーバー》という作品にはマスキングテープが貼りつけられたままであり、《リーグ》という作品ではイメージの基底に新聞紙が貼られ、絵具の間に垣間見える LEAGUE という文字が作品タイトルの由来となっている。実際にコラージュはこの作家が多用した技法であり、初期作品以来、多くの作品に認められるコラージュの重要性について既に多くの研究者が指摘している。ここで初期の抽象絵画においてキュビスム、それもピカソの分析的キュビスムの影響が濃厚であった点を想起しよう。ウィリアム・ルービンはポロックの絵画の展開を総合的キュビスムから分析的キュビスムへの遡行として位置づけたが、デ・クーニングにおいては分析的キュビスムから総合的キュビスムという展開が反復されている。ただしデ・クーニングの場合、今述べたとおりコラージュ技法の導入は比較的早い時期から認められ、総合的キュビスムにおける現実との接点の回復という意味は認められない。異素材は時に激しいアクションを受け止める抵抗として、時にイメージを物理的に切断する手法として導入されており、いずれの場合もイメージは視覚ではなく触覚、端的に手と結びついている。
手や触覚と結びついたイメージ。私たちは60年代の「女」たちを「手によって塗りたくられたイメージ」と表現することができるかもしれない。それは50年代の「女」たちがなおも視覚的な再現性を留保していたことと対照的である。ここで視覚と触覚を対比させていることは意図的であり、この問題は例えばアクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングの対比といった抽象表現主義全体に応用することも可能であろう。しかし私はむしろデ・クーニングの女たちをもう一つの人間のイメージと比較したいのである。b0138838_20221828.jpgフォートリエの「人質」だ。それはたまたまブリヂストン美術館を訪ねた翌日、大阪でフォートリエ展に足を運んだことにも由来しているかもしれない。抽象表現に関心を示さなかったフォートリエと抽象と具象を往還するデ・クーニングが資質において大いに異なることはいうまでもない。しかしながら私は戦後美術の二人の巨匠が人間をともに「塗りたくられた絵具の痕跡」として表現した点に関心をもつ。(ちなみにフォートリエも技法に強い関心をもっており、さらに二人が制作した彫刻を通してもこの問題は検証可能かもしれない)そこには人間観の決定的な変質が兆しているのではないだろうか。正確に述べるならば人間をもはや「塗りたくられた絵具の痕跡」としてしか表現しえなくなった状況とはいかなるものであるか。第二次大戦中、レジスタンスたちが銃殺される情景から着想されたという「人質」であればこの点は理解しやすい。しかし60年代にデ・クーニングが描いた女性像がかくも触覚的、物質的な印象を与えたのはなぜであろうか。私はこれらの絵画から「肉」を強く連想した。暖色を中心にした色彩、輪郭のはっきりしない形状、そして何よりも唇/性器の存在感がこのような印象に大いに与っている。最初に私はこれらの絵画を自宅に飾ることへの異和感を指摘したが、それがこのような印象と関わっていることはいうまでもない。絵画と視覚という問題はフォーマリズムに連なる論者を得て戦後美術における重要な主題系をかたちづくった。これに対して絵画と触覚という問題は今日にいたるまで十分に究明されていない。触覚の絵画の系譜は50年代の広義のアンフォルメル、あるいは具体美術協会の絵画を経て、ミニマル・ペインティング、そしてニューペイティングまでの広がりを有している。これらの絵画は体系的に記述されたことがないし、記述の方法も確立されていないが、例えば「アンフォルム」といった作業仮説を得て、近年、再び注目を浴びていることは知られているとおりだ。この系譜の中でもデ・クーニングの異質さは際立っている。今まで論じたとおり、60年代のデ・クーニングは「女」の「肉」というきわめて特異なモティーフによってこの系譜に応接する。私は当時男性誌に掲載されていたピンナップ・ヌード、あるいはリップスティックの広告といったマス・イメージと関連させて社会学的な視点からこの問題を考察することが可能であろうと考える。そこには当然ジェンダーや階級性の問題が持ち込まれるだろう。かくのごとく、この展覧会に並べられたデ・クーニングの絵画が指し示す問題の射程は広く、きわめて今日的である。しかしながらあまりにも多くの問題が未解明のまま残されているのだ。
by gravity97 | 2014-11-09 20:30 | 展覧会 | Comments(0)