NEW ARRIVAL 140623

b0138838_21161668.jpg

by gravity97 | 2014-06-23 21:16 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

b0138838_20195037.jpg 2012年はジョン・ケージの生誕100周年にあたり、この際に発行された『ユリイカ』のジョン・ケージ特集についてはかつてこのブログで応接した。その際、特集にテクストを寄せている佐々木敦がケージの[4分33秒]について各3時間、5回にわたる連続講義を行ったらしいと記した。待つこと2年、ようやくその講義が『「4分33秒」論』として刊行された。講義をもとに構成、加筆されたとのことであるが、ほぼ講義の書き起こしと考えてよいだろう。話し言葉で書かれているためわかりやすく、実に興味深い論考である。
 4分33秒の間、何も演奏されない楽曲について延べ15時間にわたって論じること。一見逆説的というか困難な試みのように感じられるが、あらためて4分33秒の沈黙の豊かさを思い知る。講義に沿って「一日目」から「五日目」という5章よりなる本書は章ごとに少しずつテーマを違えてケージの作品について語られる。まず「一日目」はいわば導入として[4分33秒]がいかなる作品であるかについて概説的な説明が加えられる。「二日目」はこの作品の本質を演奏家が一音も発さないという「無為という行為」と4分33秒にわたって続けられるという「時空間の設定」の二点とみなしたうえで、やや概念的なレヴェルから分析がなされる。「三日目」はこの作品が今までいかに論じられてきたという点をマイケル・ナイマン、近藤譲、庄野進、若尾悠といった音楽家や批評家のテクストを通して検証する。「四日目」はこの作品が後続する世代にどのような影響を与えたかという点が構造映画からミニマル・ミュージック、さらには「ヴァンデルヴァイザー楽派」なる作曲家たちの作品の引用とともに論じられる。最後の「五日目」は庄野の「枠と出来事」という言葉を手がかりにもう一度この作品についてきわめて刺激的な分析が加えられる。どの章も示唆に富むからひとまずは本書を手に取っていただくのがよい。ここでは私なりに関心を覚えた点をいくつか書き留めておきたい。
 以前より指摘されてきた点であるが、[4分33秒]が初演される一年前の体験がこの作品に決定的な影響を与えたことは間違いない。1951年、ケージはハーヴァード大学で音の反響が全くない無響室と呼ばれる部屋に入った。この部屋の中では音が存在しないはずであるにもかかわらず、ケージは高い音と低い音を聴取する。高い音は神経系統が機能している音、低い音は血液が循環する音であるという。つまり人は生きている限り、無音の環境に身を置くことはできないのだ。ケージの言葉に即しながら、「音」がある場所であればそれだけで「音楽」は成立するという発見が、演奏家は一音も発さない[4分33秒]へと発展していった点を佐々木は説得的に論じる。私はこのエピソードを美術にも敷衍できないか考えてみた。美術において[4分33秒]にしばしば準えられる作品は、本書において佐々木も言及する、レディメイドの便器を作品として提示したデュシャンの《泉》である。確かに両者は演奏会/展覧会という制度へのメタ的な批判という共通点がある。しかし今述べた問題、つまり全ての「聴取」が音楽たりうるという発見と関連づけるならば、私はむしろイヴ・クラインが1958年にパリのイリス・クレール画廊で開いた「空虚」展こそがそのカウンターパートではないかと感じる。この展示においてクラインは画廊の中からすべてのものを取り払って、画廊の内部を白く、外部を青く塗って文字通り「空虚」を展示した。クラインは「(この試みの目的は)不可視の絵画的雰囲気を、環境を作り出すことである。画廊の空間におけるこの不可視の絵画的状態は、これまで人が絵画一般に与えてきた最良の定義、〈光輝〉に文字通りになるほど、はっきりと現前し、自立した生を授けられねばならない」と記している。カバラの神秘思想などにも裏づけられたクラインの作品を安易にケージと結びつけることには注意が必要であるが、「画廊における不可視の絵画的状況」という概念を「演奏会における聞かないことの音楽的状況」とパラフレーズするならば、両者の相似は明らかであろう。クラインの場合、庄野/佐々木がいう「枠と出来事」のうち、枠としては演奏時間ではなく画廊という空間が設定されている。さらにケージの体験を「人は生きている限り、何かに眼差しを向けなければならない」と転換する時、眼差しを向けるという行為自体の意味を主題にした美術としてミニマル・アートが成立した点についてはかつてこのブログで[4分33秒]について論じた際に触れた。あるいは、より制度的な側面を問題とするならば、展覧会の初日に画廊を閉鎖するハイレッド・センターの1963年の「大パノラマ展」も展覧会の会期を一つの時間的な枠とすることによって興味深い比較が可能かもしれない。本書では美術との関係としてはフルクサスの一連の活動に言及される程度であるが、このように少し思いをめぐらせるだけでも、ケージが提起した問題は現代美術にも次々に新しい光を投げかける。
 それにしてもなぜ、4分33秒なのか。これについても冒頭で興味深い説明がある。もちろん定説というか、ケージ自身による説明はないのだが、佐々木は四つの説を示す。これらが面白い。最初の説は4分33秒とは秒に直すと273秒であり、零下273度、絶対零度を示しているという。なんとも怪しげな説だが「音楽の零度」といった言葉を考えるならば頷けないでもない。二番目はタイプライターのキーボード起源説。英文タイプライターのキーボードにおいて分を示す ’は4、秒を示す ”は3と同じキーなので4分33秒なのだという。三番目は美術起源説だ。4分33秒とは4フィート33インチのことであり、このサイズはケージと親交があったロバート・ラウシェンバーグのホワイト・ペインティングのいずれかの作品と関係があるのではないという怪しげな話。四番目の説には思わず吹き出す。それは佐々木がケージをテーマに講演した際のアンケートに当然のごとく記されていた怪説であり、「4分33秒というのは人が沈黙を守れるギリギリの時間ってことですよね」とのことだ。沈黙の作品がいかに饒舌を引き起こすか、この一事によっても明らかであろう。
 佐々木は時に独自の視点から、時に先人の批評を引用しながら、[4分33秒]をめぐる様々なトピックに光を当てる。いくつかの論点、特に「四日目」で論じられる問題は『テクノイズ・マテリアリズム』や『(H)EAR』といった佐々木の著書において詳しく論じられていた点だ。近藤譲の「外聴覚的音楽」あるいは庄野進の「聴取の詩学」といった概念もいまだに斬新であるが、詳しくは本書をお読みいただくこととして、このレヴューでは本書で最も刺激的かつ独自の分析が展開される「『聴取』から遠く離れて」と題された五日目の議論に注目したい。五日間の講義の中で佐々木は[4分33秒]が録音された、いくつものCDを再生する。『ユリイカ』の特集の佐々木の文章を読んだ際、私はこの「楽曲」を録音した音源があることを知り大いに驚いたのだが、この講義で紹介されたCDの中にはなんとオムニバス盤の[4分33秒]まであるらしい。さて、これらの存在を前提として、佐々木は[4分33秒]を聴取する体験が三つに類別されると指摘する。一つ目は1952年8月29日、ウッドストックでデヴィッド・チュードアによって世界初演された[4分33秒]に立ち会う体験であり、この場合、聴衆にこのようなコンセプトの「楽曲」が演奏されることはあらかじめ伝えられていないから、おそらく臨場したとしても何が起きているのか理解できなかっただろうと佐々木は推測する。二つ目の体験は私たちの多くが[4分33秒]を「聞く」体験、つまり、あらかじめ[4分33秒]が演奏されることを知り、しかもこの作品についての知識をもったうえでその演奏に立ち会う経験である。三つ目は何か。佐々木によればそれは録音された[4分33秒]を聴く体験である。佐々木がこの作品の核心とみなす、HEARがLISTENに変わる体験は最初の場合しかありえない。(この作品の本質が外聴覚的音楽を聴くことであると知っていれば、聴衆は最初からLISTENの態度で臨むはずだ)しかし実際には初演の際にこのような転換を意識した聴衆は皆無であったと考えられる。一回目は聴取することが不可能であり、二回目以降は聴取ではなく作品のコンセプトの追認しかできないとすれば、[4分33秒]は一種の不可能性の作品として成立しているといえるかもしれない。この点は確かにデュシャンの《泉》と似ている。アンデパンダン展に出品された便器は会場で美術作品と認識されることなく行方不明になってしまった。そしてこれ以後、既製品を美術館や展覧会に持ち込んだとしても、それは一つの認識論的切断の単なる繰り返しとなってしまう。しかし佐々木は録音された[4分33秒]を聴く行為に積極的な意味を見出す。この作品には4分33秒という時間的な枠がある。それは実際に「演奏」されている様子を聴く場合も録音された作品を聴く場合も一緒である。したがって録音された[4分33秒]を聴く場合、それを聴くために必要な4分33秒という持続は、実際の演奏に必要とされた4分33秒と二重化されているのだ。そしてこの枠組は内容を伴わない。ここで佐々木は実に魅力的な提案をする。[4分33秒]から聴取という問題を解除してしまおうというのだ。この時、そこに生起するのは単に4分33秒という時間でしかない。佐々木は次のように述べる。「[4分33秒]という作品は体験したら絶対に4分33秒後に行ってしまうんです。4分33秒の作品だから、4分33秒後の未来に行けるタイムマシンなんです」タイムマシンとしての[4分33秒]。この発想は私にはきわめて新鮮に感じられた。少なくともこの作品を聴取の問題と別の次元で思考する議論は私にとっては初めてであった。このような理解がケージの意図を反映しているかどうかはわからないが、私たちは日常において時間の経過、持続を意味のあるものとして認識することがあるだろうか。佐々木は次のようにも述べる。「人間は絶対にいつかは死ぬ、有限な存在だということです。せいぜい頑張っても百年くらいしか生きない。人生は有限である。あたりまえですが、でも有限だからこそ、時間が純粋に刳り貫かれるみたいなことが贅沢だと思うんです」私たちの生の中で「時間が純粋に刳り貫かれる体験」。[4分33秒]を聴取する体験の特性をけだし言い当てて妙だ。何度も論じられるとおり、これには二つの条件を前提としている。一つは4分33秒という具体的な持続、枠組が設定されていること、二番目は無為としての出来事が指示されていることである。何も演奏されない持続の中で、私たちはただ時間の経過を感受する。これに類した例として、佐々木は同じ時間芸術である映画からアンドレイ・タルコフスキーの「ノスタルジア」を挙げる。b0138838_20164420.jpg映画の終盤、主人公ゴルチャコフは火のついたロウソクをかざして温泉の中を歩む。風のため、火は何度も消えるがそのたびにゴルチャコフは最初の位置に戻り、何度となく往復を繰り返す。タルコフスキーの映像の中でも鮮烈に記憶に残る情景の一つだ。私の経験に照らしても、確かにこのシーンは[4分33秒]の経験と似ている。もちろんそこにはシジフォスのごとき苦行を続ける一人の男が映し出されている。しかし私もまたこのシーンから主人公の行為の成否よりも映画を見ている現実の時の流れを強く感じたことをよく覚えている。このような体験は稀有といってよい。佐々木はもう一つ、北野武の「あの夏、いちばん静かな海」における波乗りの練習シーンを挙げているが、私はその場面からはこのような印象を受けることがなかった。映像という点では講義の中でも言及されるマイケル・スノウの構造映画やウォーホルのフィックスト・ムービー「エンパイア」なども連想されようが、スノウの場合はあくまでも映像が問題とされており、ウォーホルの場合はこの作家特有のあざとさとあまりにも上映時間が長いため、時間や持続が意識されることはない。先になぜ4分33秒であるかということについて諸説を示した。「ノスタルジア」における水中歩行のシーンがどのくらいの長さであったか正確には記憶がないが、4分33秒とは沈黙を守れるギリギリの時間ではなく、人が集中して時間の持続を認識しうる限界の時間かもしれない。
 最後に一点、本書で十分に触れられていない重要な主題を指摘しておきたい。それは始まりと終わりという問題だ。[4分33秒]は特定の時点に起点をもち、4分33秒後に演奏が終えられることを意味している。しかし何をもって演奏が開始されるのかは必ずしも明確ではない。実際、本書においては何度かCDが再生されるが、多くの場合、改行されて「CDを再生」という言葉が記されるだけである。一度だけ佐々木が「最初にピヨーンってナゾな音が入っていましたが、それがスタートの合図で、この後、4分33秒無音状態が続きます」と解説する場面があるが、実際のCD、ことにいくつもの[4分33秒]が収められたオムニバス盤にいたっては一体どのようにそれぞれの演奏が区切られているのだろう。実際に演奏される場面では、おそらくはプログラムに曲目が印刷されているはずであり、ピアニストが登場して挨拶し、座った時点で演奏の開始が予想される。私が立ち会った演奏では何度かピアノの蓋を開け閉めする動作が伴い、確かストップウォッチも用いられていたから、聴衆は演奏の始まりと終わりをおおよそ理解し、拍手もできるわけだ。しかし少なくとも初演の際にはこのような首尾を理解することは不可能であっただろう。かつて佐々木健一は『作品の哲学』の中でケージも含めた現代芸術の諸動向を視野に収めたうえで、作品が成立する条件について検討した。その際に佐々木健一はアリストテレスを援用して、作品の全体とは「始めと中間、終わりをもつところのものである」と言明している。私がこの点に拘泥するのは、ケージがニューヨークで活動したほぼ同じ時期におそらくケージとも親交をもった作家たちによって繰り広げられたハプニングとの関係に関心をもつからだ。スーザン・ソンタグは1962年に発表した「ハプニング―ラディカルな併置の芸術」という名高いテクストの中で当時アラン・カプローやディック・ヒギンズによって演じられたハプニングを紹介したうえで、次のような重要な指摘を加えている。「ハプニングのもう一つのめざましい特徴は時間の処理にある。(中略)ハプニングの観客は、忠実で理解力に富んでいて、そのうえ大抵は経験を積んだ人々なのだが、ハプニングが終わっても終わったことに気づかず、合図をされてからやっと退場するようなことがよくあった。このことは決して観客がハプニングという形式になじんでいないからではなく、個々のハプニングの所要時間と内容が前もってわからないことがハプニングの効果にとっては必要なのだ。なぜならば、ハプニングにはプロットも物語もなく、したがってサスペンスの要素もないからである」佐々木は[4分33秒]の要件が、4分33秒という時間の限定であることを繰り返し論じるが、その起点がいかに示されるかについては十分に検討された形跡がない。私はこの点は決定的に重要であると感じる。なぜならもし起点と終点が存在しないとするならば、私たちの生そのものが「X分X秒」という作品と転化するからだ。別の言葉を用いるならば、もし私たちが永遠に続く[4分33秒]の中にいるとすれば、私たちの生と芸術は区別されない。そして生と芸術の境界を消滅させることを提唱した張本人こそケージではなかったか。4分33秒の沈黙のシニフィカシオンは実に深い。
 巻末に付された「6年後の補講、あるいは長いあとがき」の中で、佐々木は[4分33秒]をめぐる最近の話題としてツイッター上における2012年の「『4分33秒』著作権騒動」と2013年の「『4分33秒』カラオケ騒動」について触れている。いずれも爆笑を誘う話題であるが、同時に今述べた問題とも関連し、さらに著作権や商品性といった問題をも巻き込みながら、[4分33秒]は今なお私たちにも次々と新しい問題を提起し続けているのだ。初演から60年、[4分33秒]のアクチュアリティーは失われることがない。
by gravity97 | 2014-06-18 20:20 | 現代音楽 | Comments(0)

b0138838_1124527.jpg このブログでオースターについて触れるのは三回目となる。最初にレヴューした際には「新刊が翻訳されるたびに買い求め、一度も裏切られたことがない」と記したが、実は『オラクル・ナイト』の後、『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』の二冊を読み落としていたからこの言葉は撤回しよう。2007年に原著が刊行され、このほど翻訳が出た『闇の中の男』に目を通す。久しぶりとはいえ、いつもながらオースターを読む体験は快い。
 ブログで応接した「幻影の書」と「オラクル・ナイト」も楽しめたが、オースターの小説としてはいずれも話がいささか込み入り過ぎた印象があった。特に後者においてはオースターが得意とする劇中劇ならぬ小説内小説があまりにも錯綜していた気がする。『闇の中の男』もまた小説の中で別の小説が語られる。しかし次に述べるとおり、物語相互の審級は容易に区別されて、説話の構造は比較的単純だ。そしてこの小説にはオースターの新しい境地が認められる。「エレガントな前衛」という呼び名のとおり、これまでオースターの小説の多くはニューヨークが舞台であっても強い寓意性と抽象性を帯びていた。しかしこの小説においてオースターは現実の事件と深く切り結ぶ。発表の時期を考えるならば、それが9・11、同時多発テロやイラク戦争であることに不思議はない。本書がオースターの小説としては珍しく不穏さや暴力性を秘めていることはこの点と関わっているだろう。今回も多少内容にも立ち入りながら論じる。
 物語はタイトルどおり「闇の中の男」のイメージから始まる。闇の中で不眠に苦しむ男。家の中には娘と孫娘がいると記され、それぞれの年齢も記されているから、この男が年配であることも理解される。娘のミリアムは5年にわたって独り身で、孫娘のカーチャは最近タイタスという夫を失い、壊れた心を抱えていることが冒頭で語られる。これまでオースターのいくつかの小説に認められた父と子という主題に代わって、本書では父と娘、そして孫娘の関係が物語の一つの軸を形作っている。ここでは主人公の男に名前が与えられず、タイトルが定冠詞や不定冠詞を伴わぬ Man in the Dark である点にも注意を喚起しておこう。いうまでもなくこれは闇の中の男が固有名をもつ誰かではなく、端的に人類を象徴していることを意味している。無明の中にある人類。闇の中の男は自分に向かって物語を語り始める。(正確に述べるならば、闇の中の男は男をめぐる物語ではなく、男が語る物語によって小説の中盤で名前を与えられる。オースターらしい技巧だ)冒頭で読者は次のような言葉に出会う。「私は男を穴の中に入れた。これは悪くない出だしに思えた。話を動かしはじめる上で、有望な設定ではあるまいか」このパッセージを見落とさなければ、物語の構造を理解することは容易だ。すなわち物語の中で語られる物語は、眠れない男が闇の中で紡ぐ「穴の中の男」の物語であり、実際にこの数行後で、穴の中に横たわって雲のない夜空を見上げる男の物語が始められる。男の名はオーエン・ブリック、男は自分がクイーンズに住み、手品を生業とする30歳の男であること、フローラという女性と結婚していることも知っている。しかしブリックが穴の中に佇む世界は私たちが知り、彼もまたなじんできた世界とは異なっている。ブリックは直ちにニューヨーク郊外を舞台とする内戦の中に巻き込まれ、トーバック軍曹なる上官から「戦争を所有している男」を殺害することを命じられる。ブリックはこの世界の中でもうひとつの歴史と出会う。ブリックが生きるのは2007年の世界であるが、そこでは世界貿易センターが破壊された同時多発テロは存在せず、イラクではなくアメリカ国内を戦場として戦闘が続けられている。ブリックは独立州連合の側に加わり、彼らの敵、連邦軍の大統領の名はジョージ・W・ブッシュ。この小説の中に凶々しく書きつけられる唯一の固有名、かつての合衆国大統領の名はブッシュ・ジュニアに対するオースターの強い反感を暗示している。あとがきによればオースターにとって9・11以上に、その前年、共和党が勝利を「盗んだ」大統領選への憤りがこの小説の出発点にあったという。一つのカタストロフィーに対する考えうる限り最も愚かな対応、この点で二人の二世政治家、ブッシュ・ジュニアと現在の日本の首相もまたみごとな相似形を描いていることも指摘しておきたい。
 小説に戻ろう。これ以降、物語は「私」と「男」の間を往還する。二つの世界を往還する物語の形式は今日さほど珍しいものではない。それどころかエリクソンから村上春樹まで、私のお気に入りの作家がよく用いる手法だ。「闇の中の男」、名をもたない男は孫娘と毎日映画を観て、感想を話し合う。オースターと映画との親和はこれまでも指摘され、「幻影の書」では失われたフィルムが小説の主題になっていたことは既に論じたとおりだ。本書においても「大いなる幻影」「自転車泥棒」「大樹のうた」、そしてとりわけ「東京物語」について二人は語り合う。最初の三本を立て続けに見た後、カーチャは映画について鋭い洞察を加える。「人間の感情を表現する手段としての、命なき事物たち。それが映画の言語なのよ。そのやり方を理解しているのはすぐれた監督だけだけど、ルノワール、デシーカ、レイとなったら最高の三人だものね」彼女はこれらの映画に登場するシーツや洗い物の皿、ヘアピンがいかに映画の言語として魅力的であるかを語る。命なき事物たちの語り、例えば「ムーン・パレス」における伯父の蔵書、「偶然の音楽」における石の壁。私は同様の原理がいくつかのオースターの小説にも用いられていることに気づく。カーチャの洞察は一個の小説論としても成立しうるだろう。そして二人が映画を観ることにはもう一つの意味があった。とりわけカーチャにとって映画を観ることは、それによって別の映像を消してしまう意味があったのだ。このことを知った時、私たちは「命なき事物たち」、une nature morte という言葉に込められたもう一つの残酷な含意を理解する。このあたりの構成の巧みさはさすがオースターである。「闇の中の男」の語りは一種の意識の流れであり、彼は孫娘と会話を交わす以外にはほとんど行為することがない。彼は亡くなった妻ソーニャを回想し、第二次世界大戦下でのユダヤ人をめぐるエピソードをたどり、「穴の中の男」の物語を語り続ける。
 穴の中の男、オーエン・ブリックは軍曹の指示に従って内戦下のアメリカをウェリントンという街に向かう。破壊された街の中でブリックはモリーというウエイトレスやハイスクール時代の憧れの女の子、ヴァージニア・プレーンと出会う。オーエンがたどる奇妙な道行きはオースターの小説を読み慣れた者にとってはおなじみだ。ところで私は最近のアメリカ映画にこの小説と似た構造がしばしば認められことに興味をもった。例えばアルフォンソ・キュアロンの「トゥモロー・ワールド」(2006)あるいはマーク・フォスターの「ワールド・ウォーZ」(2013)、ほかにもいくつも例を挙げることができるが、これらのフィルムに共通する特質は、一つには近未来における内戦状況が描かれていること、そして登場人物たちは突然このような状況に投げ込まれ、物語の背景というか状況の説明がほとんどなされないことである。今世紀に入ってこのような内容のフィルムが次々に発表された理由は明らかだ。何の理由もなく、突然に内戦状態に巻き込まれる経験、それは明らかに9・11の同時多発テロの暗喩だ。かつては戦争には原因があり、宣戦通告があり、戦場と銃後があった。しかし今日の戦争は日常と戦時、兵士と市民、戦地と都市が地続きの中で継起するのだ。それは2001年のニューヨークだけではない。イラク、アフガニスタン、パキスタン、同時多発テロをさらに徹底するかのようにこれらの国においてアメリカ軍が理由のない、宣戦布告のない、見境のない戦争を続け、9・11をはるかに超える市民と兵士の死者が発生していることを私たちは知っている。映画に戻るならば、ビンラディン暗殺を扱った「ゼロ・ダーク・サーティー」にこのような状況が描かれていることはこのブログでも論じたとおりだ。したがってこの小説は同時多発テロを起源としており、物語の中でブリックがモリーに「9月11日」、「世界貿易センター」といった言葉から何を連想するかを問うことは必然的といえよう。私たちは同時多発テロを主題としていくつかの小説が執筆されたことを知っており、そのうちの一つ、ドン・デリーロの「墜ちてゆく男」(「闇の中の男」と「墜ちてゆく男」は韻を踏むかのようだ)という優れた小説についてはすでにこのブログでレヴューした。オースターは同時多発テロの存在しなかった世界を描くことによって、逆説的に暴力に支配された世界を浮き彫りにする。ブリックの物語の最後にオースターは次のような言葉を書き付けているが、それは9・11以後の私たちの世界を象徴するかのようではないか。「戦争の物語。一瞬でも気を緩めたら、それらはすかさず押し寄せてくる、ひとつまたひとつまたひとつ…」
 ブリックの物語は暴力的に、かなり唐突に終わる。むしろ断ち切られるという印象だ。そしてこの小説は形式のみならず内容自体も二重化されており、ブリックをめぐる物語の結末は小説の最後で繰り返されることとなる。それはすかさず押し寄せてくる戦争の物語だ。オースターの小説でこれほどまでに戦争と暴力が前景化された例はない。おそらく9・11とそれへの報復としての同時多発テロ同様に正義のないイラクやアフガニスタンへの侵攻を経て、世界は変わってしまった。アウシュビッツの後で詩を書くことが野蛮であるように、2001年を経過したオースターはこのような小説しか書けなかったのであろう。今引いた言葉が発せられる直前で闇の中の男は次のように自問する。「そう終わるしかないのか、イエス、おそらくはイエス、これほど残酷でない結末を考えることは難しくはないが。でも何の意味がある? 私の今夜のテーマは戦争だ。戦争がこの家に入ってきたいま、衝撃を和らげたりしたらタイタスとカーチャへの侮辱だと思う」この問いが作者オースター自身に共有されていることに疑いの余地はない。この意味で本書はポスト9・11をテーマとした最良の表現の一つといえるだろう。
 そしてこの小説には救いがある。ブリックの物語が終わった後、新しい物語が始まる。闇の中の男はやはり眠れずにいる孫娘カーチャをベッドの中に招き入れて、今度は亡き妻、ソーニャの思い出を語る。老人と孫娘の対話としてつづられる二人のなれそめ、諍いと和解の物語は戦争と暴力とは対極の営みがこの世に存在することを静かに表明する。21世紀という「戦争が家に入ってくる時代」を生きる私たちにとって、それはささやかな物語である。しかしこの物語がカーチャを癒し、最後の場面の希望を導いたことも明らかである。この時代にあっても物語は闇の中の光となりうる。物語によって闇を照らす存在、闇の中の男とは私たちにこの物語を届けたオースターのことかもしれない。
by gravity97 | 2014-06-09 11:35 | 海外文学 | Comments(0)

白井聡『永続敗戦論』

b0138838_1041373.jpg 遅ればせながら話題となっている『永続敗戦論』を読む。世評に違わずきわめて刺激的な論考である。それは本書の中で全く新しい思考が開陳されるからでも、思考のパラダイム・チェンジがなされるからでもない。実際に白井が論じる問題の多くは既に多くの論者によって提起されているといってもよかろう。しかしそれにも関わらず本書が感動的な理由はこの年若い学者の文章に現実を前に立ちすくむことなくその因由を正面から問う気迫がうかがえるからだ。白井自身もあとがきに次のように記している。「いま必要なことは議論の目新しさではない、『真っ当な声』を一人でも多くの人が上げなければならない、という思いに駆られて私は本書の執筆に取り組んだ」私の経験に照らしても、おそらく現在ほど私たちが「真っ当な声」を上げることの無力感に苛まれる時代はかつてない。
 三章から成る本書の劈頭で「私らは侮辱のなかに生きている」という中野重治/大江健三郎の言葉が引かれることは当然であろう。2012年7月、脱原発集会で大江によって発せられたこの言葉は私たちの怒りを代弁している。私も今に至る自民党政権に対して怒りを覚えたことは数限りなくある。しかし少なくとも自分が侮辱されているという思いを抱いたことはなかった。震災を奇貨として「ショック・ドクトリン」を繰り広げる安倍政権の異様さはまさに異次元的といってよい。例えば冒頭で例示される原子力政策だ。国民の大多数が福島の惨劇の前に原子力というエネルギーへ拒絶反応を示しているにもかかわらず、再稼働はいうまでもなく外国へ原子力プラントを売り込もうという厚顔無恥な発想、これはもはや政治家としての人格の問題であるように感じられるが、御用マスコミと官僚、御用学者の三位一体のもとにかかる不正義が大手をふるい、民意が反映されることはない。私たちはいつからかかる絶望的な状況の中に閉じ込められてしまったのか。白井も震災以後の状況の異様さを認識している。最初に白井はかかる状況を「『戦後』の終わり」と規定し、その特性を次のように粗描する。長くなるがそのまま引用する。

 今日の日本社会が「本音モード」に入ってきたとは、こうした「否認の構造」が急速に崩壊しつつあることを指している。社会は「本当は知っていたけれども建前上口に出すのを憚ってきた本当のこと」を次々と語り出している。それはある意味で当然のことではある。原発事故を契機としてこの国の社会・権力の地金がはっきりと露呈してしまった以上、いまや曖昧なかたちで隠されたままにとどめられるべき事柄など存在しない。それは、卑劣漢であることがバレた卑劣漢が卑劣な振る舞いを躊躇う理由はないのと同じことだ。

 もちろん本書においてこのような認識は次に述べる「永続敗戦」という問題と関連して論じられる。しかし私はこのような状況は震災以前より新自由主義の台頭と軌を一にしていたように思われる。利潤と効率を唯一の価値と奉じて、格差や不公平を肯定する感情はリーマン・ショック以後、この国を蝕み、教育や医療、文化といった領域にも広がりつつある。社会自体がディーセンシーを失いつつある状況を震災、とりわけ原子力災害をめぐる当事者たちの見苦しいふるまいが加速させたように感じるのは私だけだろうか。
 本書に戻ろう。白井のいう「本音モード」とは現在の日本において、「戦後」という歴史感覚の欺瞞性がもはや隠蔽できないまでに揺らいでいることを暗示しているだろう。私たちは長い間、第二次世界大戦の「戦後」を生きてきた。しかしかかる「戦後」の本質とは何であったのか。白井によればそれは「終戦」という言葉を用いることによって、「敗戦」を否認することであり、「敗戦後」は存在しないとみなすメンタリティーである。再び白井の言葉を引く。「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は『永続敗戦』と呼ぶ」この議論が加藤典洋によって1995年に発表された「敗戦後論」と関連して論じられたことは私には興味深く読んだ。b0138838_106960.jpg私も「敗戦後論」をほぼリアルタイムで読んだ記憶があるが、なんとも晦渋というより不透明な印象を受けたことを覚えているし、実際に加藤の論文は当時批判的に受容された。しかし白井によれば加藤の議論の本質は、戦争放棄という平和憲法の理想主義が冷戦体制の存続と天皇制の護持という暴力ないし不正義を前提としているという歪みを指摘した点にある。多くの日本人が敗戦をなかったものとして「永続敗戦」を生きたのに対して、徹底的に敗戦に拘泥した作家として加藤/白井は大岡昇平を評価する。戦時中捕虜となったことを理由に芸術院会員への推挽を拒否した大岡の真意は昭和天皇に対して「恥を知れ」というメッセージを送ることであったという。私は本書を読んであらためて加藤の所論を明瞭に理解することができた。
 続く第二章において白井は今日、最もクリティカルな二つの政治問題と関連させて「永続敗戦」の力学を説明する。一つは領土問題である。白井は尖閣諸島、北方領土、竹島問題という中国、ロシア、韓国との領土をめぐる係争を個別に分析しながら、日本の立場がきわめて場当たり的である点を指摘する。ただしここではどちらの国の主張が正しいかを検証することが目的とされているのではない。白井の論証は逐条的な入り組んだものであり、詳細については直接読んでいただくしかないが(ただしこれらの領土問題が沖縄問題と実は密接な関係にあること点にはあらためて注意を喚起しておきたい)、アメリカに対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めて永続化させる一方で、これらの国々に対する居丈高な態度はアジアに対して「敗北の否認」を持続させるという心性を反映している。そしてこのようなメンタリティーを象徴するのが、アメリカの右派シンクタンク、ヘリテージ財団という場で尖閣諸島購入を得意げに記者発表する「卑小なナショナリスト」、石原慎太郎のごとき存在である。そしてもう一つは北朝鮮問題だ。2002年、小泉首相は電撃訪朝し、以後、拉致問題を理由として強圧的にこの国と対峙してきた。しかし実はこれ以前、日本政府のプライオリティはむしろ国交正常化や核兵器問題にあった。かかる転換の理由、日本において拉致問題がことさらに重視された理由として(それが非人間的な蛮行であることは間違いない。しかし拉致被害者は日本だけでないのだ)、白井はこの問題がアジアに対する日本の立場を加害者から被害者へと転換させ、それゆえ永続敗戦の根幹をなす敗戦の否定という心情と親和したと指摘する。アメリカには従属しながら、アジアに対しては敗戦を否定するロジック、これこそが「永続敗戦」であり、この意味で「拉致問題に関して小泉首相から下駄を預けられた」現在の首相が、「憲法九条がなければ、拉致被害者を守ることができたかもしれない」といった妄言を繰り返す一方で、中国や韓国にも挑発的な言動をとり続けることは一貫した態度といえる。(ただし安倍政権がアメリカに従属どころか、今や見捨てられつつあることは最近の情勢が物語るとおりだ)
 本書の第三章は「戦後の『国体』としての永続敗戦」という表題をもつ。国体という言葉から直ちに連想されるのは天皇制である。先に大岡昇平に関連して触れたとおり、天皇制もまた本書の主題と深く関わっている。これもまた相当に入り組んだ議論であり、本書を直接参照していただくことが望ましいが、私の問題意識に引き寄せていくつかの点を指摘しておきたい。ひとまずこの問題について白井は次のように約言している。「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後レジームの根幹は永続敗戦である。永続敗戦とは『戦後の国体』であると言ってもよい」ついで白井は天皇機関説、あるいは久野収と鶴見俊輔の所論を手がかりに天皇制=国体の二重性について論じる。このような二重性は「永続敗戦」にも内在している。すなわち大衆レヴェルでは敗戦を否認し、その根拠として戦後日本の「平和と繁栄」を顕揚する。(ただしこの平和と繁栄も単に地政学的な偶然の結果であることも白井は指摘している)一方、指導層においては無制限かつ恒久的な対米従属を続けることである。白井は自民党の有力政治家たちの言動を負いながらきわめて逆説的なかたちでこのような心性を検証する。すなわち何人もの政治家によって言葉を変えて繰り返される「戦後」の総決算というスローガンは、逆にそれが永遠に実現しないこと、対米従属を永続させたいとする志向を暗示しているというのだ。本人たちに自覚があったか否かはともかく、反米を唱えつつアメリカに追従すること、それがきわめて高度な政治的テクニックであることに疑いの余地はない。しかし安倍政権にいたっては「屈従していることを自覚できないほど、敗戦を内面化」したため、かつては大衆レヴェルにおいて機能していた敗戦否認という心理の刷り込みが、政権内部において「抑えのきかない夜郎自大のナショナリズムとして現象し」、今やアメリカも日本を見放しつつある。このような状況を白井が「戦後の終わり」とみなし、第一章で詳しく論じたことは既に述べたとおりだ。さて、ここで白井は片山杜秀を引用しながら、国体の本質について次のような重要な指摘を行う。「里見(岸雄)は水戸学や『国体の本義』が声高らかには決して謳わず、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心とでも言うべきものを赤裸々に抽出してみせた。端的に言えば犠牲を強いるシステムとしての国体である」犠牲を強いるシステムという言葉から私が直ちに連想したのは、このブログでも応接した高橋哲哉の『犠牲のシステム 福島・沖縄』である。今回確認したところ本書のはるか以前に刊行された高橋の論考に片山杜秀や里見岸雄への参照はみられないから、「犠牲のシステム」という言葉は偶然の一致であろうが、この暗合は大いに示唆的だ。国体たる天皇制が戦前はおろか戦後も犠牲を強いるシステムであったことについて、白井は豊下楢彦の実証的な研究を援用する。それによればサンフランシスコ講和条約と同時に調印された不平等条約、日米安全保障条約において米軍の駐留を要請したのはアメリカではなく日本であり、驚くべきことに昭和天皇自身が共産主義勢力の侵入と国内での蜂起によって自らの立場が危うくなることを恐れて、時に吉田茂やマッカーサーをも飛び越えてアメリカの当局にかけあったという。この過程で沖縄は捨石とされ、結果として米軍基地によって要塞化されたことについては今挙げた高橋哲哉の論文でも明確に指摘されていた。高橋は「犠牲のシステム」を次のように定義していた。「犠牲のシステムでは或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常隠されているか、共同体(国会、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化、正当化されている」今日、「犠牲にされるもの」として福島と沖縄を名指しする時、高橋の主張はわかりやすい。そしてこの一節を白井の論考に重ね合わせるならば、戦後の日本社会は「永続敗戦」という国体を護持するために、犠牲のシステムという機制を内面化していることが理解されよう。今日、多くの政治家たちの言葉の端々に国民に犠牲を強いることを恬として恥じない心性が感じられることは何の不思議もない。
 しかし今や私たちは新しい段階、「戦後」の終わりに際会している。歴代の自民党政権の「永続敗戦」の下でひとまず多くの国民は「平和と繁栄」を享受することができた。それが例えば沖縄の住民に「犠牲のシステム」を強いることによって成立したことは明らかであり、震災に伴う原子力災害が明らかにしたとおり、今や原子力発電所の所在地の住民は明日にでも新たな「犠牲のシステム」の中に組み込まれるかもしれない。それを認めたうえでもなおこれまでの政権が反米と対米従属、敗戦の否認という「永続敗戦」を続けたことによって、私たちは一種のパクス・アメリカーナの恩恵に浴し、かつては一億総中流化と呼ばれた時代さえあったのだ。しかし今やアメリカの権威は地に墜ち、国内では格差が助長される一方で排外主義と差別主義が大手を振っている。「永続敗戦」という私たちの戦後史に誇るべきものなど何もない。しかし今や「永続敗戦」どころか「卑劣漢であることがバレて、卑劣な振る舞いを躊躇うことのない卑劣漢たち」が政権の中枢を占め、私たちを支配しているのだ。本書の読後感はまことに暗澹たるものである。しかし私はあえてこのレヴューを草した。なぜか。本書のあとがきにも引用されたガンジーの言葉を記してその答えとする。

 「あなたがすることはほとんど無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためのである」
by gravity97 | 2014-06-01 10:13 | 思想・社会 | Comments(0)