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LONDON, 2002.9.19

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 2002年の秋、私は「ドクメンタ11」を含めたいくつかの展覧会とテート・モダンでのバーネット・ニューマンの回顧展を見るためにヨーロッパをめぐった。ロンドンに着いた初日、街角のキオスクで漢字の見出しが大書された国際版の日本語新聞を見かけて驚いたことを覚えている。ちょうど小泉首相が電撃訪朝し、多くの拉致被害者が死亡していたことを伝えられた同じ日であったのだ。携帯電話もスマートフォンも持参してはいなかったが、自分たちが時差のない世界に生きていることをあらためて痛感させる出来事であった。テート・モダンには午前中に入った。日本を発つ前に得た情報ではこの日が展覧会初日のはずであったが、会場に入るとその日は招待客のみのプレヴューであった。幸い英語で記されたIDを携行していたので、それを示してこの展覧会を見るために日本から来たと告げると会場に入ることができた。
 私はこの時初めてテート・モダンを訪れたから、発電所を改造した美術館の内部にも大いに驚いた。あるいはあえてテーマを設定して、モネとリチャード・ロングを併置する常設展示の手法も斬新に感じたが、それらについて記せばとりとめがない。ここではニューマンの回顧展についていくつかの所感を記しておく。
 私はこの数年前にもロンドンで抽象表現主義の巨匠の回顧展に立ち会っている。いうまでもなく1999年の初めにテート・ギャラリーで開かれたジャクソン・ポロックの回顧展である。私は幸運にもこの回顧展をニューヨークとロンドンという二つの会場で見ることができた。さらに同じ時期、ロンドンのロイヤル・アカデミーでは「20世紀のモネ」という画期的な展覧会が開催されていた。大画面を中心にして、明らかにポロックの回顧展を意識して開催されたモネの展覧会を同時に見ることができたのは得難い体験であった。私はポロックとニューマンという抽象表現主義の両雄の回顧展を同じロンドンで見た訳であるが二つの展覧会の印象は大きく異なる。一言で述べるならば、ポロックの大展覧会は(あらかじめニューヨークで見たうえで立ち寄ったことを考慮するにせよ)一人の作家の回顧展としてみごとな結構を有していたのに対して、ニューマンの展示はそのような調和を根底から突き崩す不穏さを内在させていたように感じられたのだ。ポロックの作品の展開は展覧会をとおして追体験することがある程度可能である。確かにポロックはオールオーバー・ポーリング絵画という絵画史上未曾有の達成を果たしたが、多くの研究が明らかにしたとおり、そこにはフランス近代絵画、とりわけキュビスムとシュルレアリスムの影響が濃厚であり、両者を止揚することによって独自の画面を創造したといってもよい。私は展示を通してこのような歴史的文脈を確認した。これに対して、ニューマンの場合、初期のシュルレアリスムや表現主義的抽象を連想させる小品からジップ絵画への移行は劇的であり、かかる飛躍の由来を推測することはかなり困難である。知られているとおり、ニューマンにおいてブレークスルーを画す作品は1948年の《ワンメントⅠ》であり、何ヶ月にもわたってこの比較的小さな作品に取り組むことによってニューマンは後年のジップ絵画の大作へと道を開いた。ニューマンの場合、《ワンメントⅠ》の前後で作品は断絶している。この点はロンドンの回顧展でもはっきりと認識できた。さらに意外にも私の印象としてニューマンのジップ絵画は作品によって質にかなりのばらつきがあるように感じられた。私はこれ以前にも主としてヨーロッパでニューマンの絵画を何度か見たことがあるが、実はその際にも同様の感触を得ていた。この点は奇妙に感じられる。なぜなら巨大な色面にジップと呼ばれる垂直線が陥入するニューマンの絵画は構造において比較的単純で、作品によって大きな差異を生じることがないように思われるからだ。しかし実際には強い存在感のある作品とあまり印象を与えない作品が混在し、これはポロックの場合と大きく異なる。ポロックの場合は早すぎた晩年のブラック・ポーリングを除いて(これらの作品をいかにとらえるかは今も私にとって大きな問題だ)作品は常に圧倒的な密度があり、クオリティーにぶれがない。一方でニューマンの落差は何によるのであろうか。一つのヒントは作品の状態にあるかもしれない。会場をめぐりながら私はコンディションのよくない作品が思いのほか多いことに驚いた。後年、私はニューマンの作品は状態が悪いものが多く、大規模な展覧会を開く際の障害となっていると聞いた。確かに同時代の抽象表現主義の作家、例えば同じ色面抽象で知られたロスコやスティルと比しても、ニューマンの絵画は薄塗りの場合が多く、さほど強い物質感を感じさせない。しかし会場で私が感じた異和は作品そのものに由来するばかりではなかった。それ以上に作品が会場となじんでいない印象を受けたのである。この点は検討に値する。先に述べたとおりテート・モダンは古い発電所を改装しており、中央にタービンホールが位置するかなり癖のある建築であるが、展示室は基本的にホワイトキューブの中性的な空間であったと記憶する。作品と空間の異和の一因はニューマンの作品が以前に味わった不幸に求められるだろう。すなわち1986年、アムステルダム市立美術館で展示されていたニューマンの作品がナイフで切り裂かれるという事件が発生した。この事件を現代のイコノクラスムと考えるならば、ニューマンの作品について興味深い議論を敷衍することもできるが、今はひとまず措く。世界各地から借用された作品を保護するために、テート・モダンでは作品と来場者の間に不自然なほどの距離が保たれ、多く結界が配されていたのである。もちろんニューマンは大作が多いから、ある程度の距離を置かなければ全体を把握できない場合もある。しかし私はこのような展示方法はニューマンの絵画の理解を決定的に妨げたと感じる。かつてニューマンはニューヨークの画廊で作品を展示した際、作品になるべく近寄って鑑賞するように求めるコメントを掲出した。その際に展示されていた作品もジップ絵画の大作であった。b0138838_20195370.jpgあるいは作家の生前、ジップ絵画の手前に作家と女性が写りこんだ写真が発表されている。この有名な写真はあたかも作品の鑑賞法を説明するかのようだ。二人ともごく近い距離から作品に対している。実はニューマンの絵画は作品としての在り方以上に、いかに知覚されるかという点を主題にしている。この問題については既にイヴ=アラン・ボアが「ニューマンを知覚する」という論文で詳細に論じ、同じ問題は2010年に川村記念美術館で開かれ、このブログでもレヴューしたニューマンの展覧会のカタログに掲載された論文でも扱われている。近接して初めて理解できる表面の精妙さ、あるいは近接した時と一望した時の知覚の隔たり、これらの問題はこれまで崇高、瞬間性、あるいは側向性などという概念と関連して論じられ、ニューマンの絵画の本質と深く関わっている。別の言葉を用いるならば、ニューマンの絵画はどのように知覚されるかという点が重要であり、その場合、当然ながら作品が設置された空間も重要な意味をもつ。したがってテート・モダンにおける展示は作家の意図に反している。ニューマンの作品は時に近接、時に遠望して設置された空間との関係において認識されるべきであり、空間を一つの函数としているのだ。展覧会の中でワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「ステーション・オブ・ザ・クロス」連作が非常に強い印象を与えたこともこの点を傍証しているだろう。私はナショナル・ギャラリーにおける展示を見たことがないが、当初から一つの空間に配置されることを想定して制作された14点の作品はロンドンでも一つの室内に展示されることによってみごとな効果をあげていた。連作という形式で連想されるのはロスコの壁画であるが、ここで両者を比較することも意味があるだろう。色面抽象絵画を代表する二人の作品は本質においてずいぶん異なる。ロスコの絵画が求心的であるのに対し、ニューマンの絵画を遠心的ととらえることはできないだろうか。ロスコの画面のにじみ出るような色彩は私たちの意識を絵画の内部へと向ける。ロスコの絵画がしばしば精神性といった言葉で語られることはこの点と関わっている。これに対して、ニューマンの絵画において私たちの視線は表面ではねつけられ、画面に沿って横向きに滑っていく。圧倒的な色面は崇高と結びつけられることはあっても精神性という主題とは無縁だ。ロスコあるいはポロックの絵画の表面は堅牢で仕上げられた印象があるのに対して、ニューマンのファクチュールは時に無造作に感じられ、おそらく作家自身もこの点をさほど気にしていない。先に私が述べた作品の質的な格差はこのような問題とも関わっているだろう。やや誇張して言うならば、ポロックやロスコが作品の充実に心を砕くのに対して、ニューマンは作品の体験を重視する。ここで想起されるべきはニューマンの次の有名な発言である。「絵画について私が必要と感じることは、それによって人に場の感覚を与えることである。つまり見る者が自分がそこにいる感じ、それゆえ自分自身を意識することである」一人の作家の作品が年代順に機械的に展示される回顧展の会場でこのような感覚を意識することは難しい。ニューマンの作品は通時的に配置されるよりも、共時的で空間的な配慮によってこそ意味をもつ。この意味でニューマンがミニマル・アートの作家たちに大きな影響を与えたことは必然であり、作品の自律的価値を説くヨーロッパ近代絵画を決定的に拒絶したのはポロックではなくニューマンであった。かかる過激さは例えば展覧会、近代美術館といった近代と深く結びついた制度さえも相対化する可能性を秘めている。このように考えるならば、展覧会自体は素晴らしい内容であったにもかかわらず、「ニューマンの回顧展」が本来的に一種の語義矛盾であり、最初に触れた一種の不穏さをみなぎらせていたことは当然であっただろう。

 2002年に開かれたこの大展覧会で最上の空間を占有していた作品は川村記念美術館に所蔵されていた《アンナの光》であった。当然であろう。横幅6メートルを超えるこの大作はニューヨーク近代美術館所蔵の《英雄的にして崇高なる人》と並ぶニューマンの最高傑作であり、ほぼこの作品のみを検証することによって2010年に川村記念美術館では「アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン展」が成立しえたのだ。私はやはりこのブログで同じ美術館で開かれたマーク・ロスコの展覧会をレヴューするにあたって、ロスコの壁画とニューマンの代表作を同じ美術館で見ることができる奇跡について論じた。(このブログで私は川村記念美術館の展覧会をしばしば批判したが、アメリカの現代美術を積極的に紹介するこの美術館の姿勢を私は高く評価していることをあらためて言い添えておきたい)しかし私はしばらく前に信じられない情報を得た。この美術館を運営する親会社、DIC株式会社によって《アンナの光》が海外企業に103億円で売却されたのである。作品は公開されるとのことであるが、現時点で私は売却先を確認していない。既に作品は海外に持ち出された模様で、もはや川村記念美術館で作品を見ることはできない。一体これはどういうことであろうか。むろん美術作品も所蔵する企業にとっては一つの資産にすぎないから、売却という選択肢はありうる。しかしこの作品はかつてその所蔵を理由として一つの展覧会を組織するほどの名品ではなかったか。私はこの美術館が所蔵する多くの名品のうち、レンブラントやルノアールではなく、バーネット・ニューマンを売却したことに注目したい。このような選択にこれらの作品を所蔵する企業の美術に関する見識が垣間見える。DIC株式会社にとっては《アンナの光》も一つの社有資産にすぎず、実際、この件を報じる同社のHPには「当社保有の絵画の譲渡に伴う特別利益の計上及び業績予想の修正について」というまことに散文的なタイトルが付されている。私は美術館がひとたび収蔵した作品を売却すべきではないとは必ずしも考えない。海外の美術館においてはコレクションの欠落した部分を買い足すために重複する作品を売却することはよくあるし、ましてや《アンナの光》は美術館に展示されているとはいっても親会社の「資産」である。美術館の学芸員の無念さは想像に余りあるとはいえ、親会社が存続しなければ美術館も存立しえない以上、「当社保有の絵画の譲渡」を一方的に批判するほど私はうぶではない。ここではこの作品売却から浮かび上がる問題を二点のみ手短に指摘しておきたい。
 一つは言うまでもなく、作品の売却という美術館の禁じ手が公認されたことだ。今述べたとおり、川村記念美術館は企業によって設置された私立美術館であるから、所蔵作品を売却することのハードルは比較的低い。私はこのような事態が直ちに公立美術館に波及するとは考えない。しかしこの美術館はこれまでにルイスやロスコ、ニューマンの展覧会を開いてアメリカ現代美術の紹介を先導してきた施設である。この美術館が自らのレゾン・ド・エートルのごとき作品を海外に売却したことの意味はやはり大きい。今日、各地の公立美術館に「評価」の名のもとに、アメリカでキャリアを築いた「経営コンサルタント」たちが出入りしていることは知られているとおりだ。彼らが「自分たちには理解できないが、資産価値の高い」現代美術の名品を手っ取り早い「特別利益の計上」の手段と考えることは大いにありうるし、私はそのような兆候が既に認められるように感じる。これに対抗する論理を構築するというミッションが、今後美術館と学芸員に課せられることとなるだろう。もう一点はこの問題に対する美術ジャーナリズムの反応がほぼ皆無であったことだ。日本では美術ジャーナリズムが機能していないと結論すればそれまでであるが、この問題は現代美術、美術館運営、作品のコレクションといった多くの問題と関わり、様々な議論の余地がある。そのような議論があってこそ、私たちの美術や美術館に関する認識は深まるはずだ。しかし私はこの問題が活字となった例をほとんど知らず、今、検索してみてもツイッター上のコメントばかりだ。真偽は定かではないが、各新聞社は川村記念美術館の親会社から印刷インクの供給を受けているため、この問題に関して新聞社の美術記者も及び腰にならざるをえないという。私はコレクションの売却というデリケートな問題に関してはいろいろな立場があってよいと考える。そして少なくとも議論の場を整えることはジャーナリズムの責任ではないだろうか。今に始まったことではないがこの国の美術ジャーナリズムはこのような責任を完全に放棄している。

 展覧会を見終わった後、私はテート・モダンの近くのパブに寄って遅い昼食をとった。もちろんビール、そして確かチキンカレーを食べたはずだ。ニューマンの回顧展は日本からはるばる訪れるに値する充実した内容であったが、最初に述べたとおり決してわかりやすいものではなく、一種の不全感も残った。かかる不全感が何に由来するか、まだはっきりとはわからなかった。しかし日本に帰れば今見た《アンナの光》があるではないか。遠からず佐倉を再訪し、再び作品に向き合って考えてみることにしよう、その時の私はまだ幸福に信じることができた。
by gravity97 | 2014-04-29 20:26 | SENSATION | Comments(0)

文藝別冊「辻静雄」

b0138838_2017515.jpg 開高健に「王様の食事」という短編がある。開高以下、食いしん坊の作家や編集者がヨーロッパの王侯貴族の宴を再現した朝食、昼食、夕食の饗応に与るというたわいもない内容であるが、このような饗宴を催したのが、辻調理師学校を経営する辻静雄であったことは作中でも触れられている。辻が主宰するディナーの豪奢については大岡玲もエッセーの中で言及していたと記憶する。あるいは私はずいぶん以前に海老沢泰久による評伝『美味礼賛』を読んで、辻静雄の生涯に強い印象を受けたことを覚えている。この評伝を読んだ後、私は興味を抱いて新潮文庫に収められていた辻の著作、さらにはちくま文庫で「辻静雄セレクション」としてまとめられたいくつかの著述に目を通した。今回『文藝』の別冊としてまとめられた辻の特集は、この不世出の文化人の輪郭を過不足なくとらえている。
 早稲田大学の仏文科を卒業し、読売新聞大阪本社に入社した辻は最初からフランス料理の研究を志していた訳ではない。新聞記者時代に辻は、父親が大阪で割烹学校を開いていた勝子夫人と交際を始め、結婚を機に、花嫁修業の割烹学校から近代的な調理師学校へと学校の建て直しを図っていた義父に乞われるかたちで新聞社を辞して、料理の世界に入ったのである。新聞記者から料理学校への転身には相当の度胸が必要であっただろう。この特集では辻を知る作家や文化人のみならず、教えを受けた辻調理師学校の講師陣、そして辻夫人らから多くの証言を引き出しており興味深い。かつて読んだ海老沢の評伝から浮かび上がるストイックな求道者の姿とはやや異なり、人間的魅力に富んだ辻の姿が証言の行間から立ち上がる。調理師学校を任された当初の戸惑いについても多くの証言がある。端的に述べるならば、当時日本には本格的なフランス料理を学ぶべき相手がいなかったのだ。辻は多くの洋書を買い込んで午前中は文献によってフランス料理を独習し、午後は料理学校で鯛を三枚におろす訓練を数限りなく自らに課した。このあたりの事情は海老沢の評伝にも詳しく記されていたと思うし、料理を具体的な手作業を通して覚え込む姿勢はこのブログでも評したHAJIMEのオーナーシェフ、米田肇を連想させないでもない。フランスでさえ入手困難な古書を用いた座学と現場での徹底的な手先の訓練、理論と実践の両面から料理の真髄に近づこうとする辻の態度はいかにも彼らしい。それにしても私が感銘を受けるのは、辻以上に辻の義父の態度である。高価な洋書を取り寄せて独習し、魚を捌く練習に明け暮れる辻に一人、舅だけは理解を示す。辻自身次のように語っている。「私が本ばかり読んでいるのをみて、まわりの人たちは軽蔑の眼差しを向けていた。一人家内の親父だけが、好きなことをしていなさい、いくらでもお金は使いなさい、と言ってくれたことを今でも思い出す」さらに義父は辻にとって決定的な体験となるアメリカとフランスへの旅に辻夫婦を送り出す。辻は直ちにフランスには向かわず、まずアメリカに滞在して、二人の専門家からフランス料理について学ぶべき事柄を教示され、会うべき人を紹介される。西川恵も指摘するとおり、あえてアメリカを迂回したことがフランス料理を学ぶうえで辻にとって大きなアドヴァンテイジとなった。この旅行については辻もいくつかの書物で回想しているし、本書においても勝子夫人が楽しそうに回顧している。夫人によれば結婚当初、辻はアレルギーで魚を食べることができず、フランスでレストランを回った際にもウサギや鰻といった癖のある食材は夫人に任せ、自分はスモークサーモンのような食べやすい料理ばかり食べていたという。勝子夫人は以前にロスアンジェルスで料理やサーヴィスを学んだ経験があったため、欧米の食材やテーブルマナーに通じており、彼女の経験と能力を得て初めて辻はフランスの一流の名店をめぐることができたのであろう。そもそも欧米の名店は夫婦を客の単位としている。戦後まもない時期に一人娘をアメリカに留学させたことからも私は辻の義父の先見性に大いに驚くのだ。この旅行を通して辻は食が一つの文化であり、人が一生の仕事とするに足ることをあらためて認識する。帰国後、辻は調理師学校の運営に本格的に取り組むとともに、フランス料理に関する啓蒙的な書物を何冊も執筆する。辻の仕事と生活は常に二つの特質を備えている。すなわち徹底性と一流志向であり、本書の中でも多くの執筆者が異口同音にこの点を論じている。調理師学校を経営していた時期、辻は時に教授陣を従えて年に三ヶ月ほどフランスに赴き、ミシュランの星が着いた店を食べ歩くことを常とした。美食とはいえ、外国でこれほどのハードスケジュールでレストランを巡ることが苦行であろうことは容易に想像がつく。単にヨーロッパの料理を楽しむためであれば、わざわざ渡欧せずとも日本で十分であり、私であればいくつかお気に入りの店を定め、多少の浮気はしながらもそれらの店に通い詰めることを選ぶだろう。しかし辻はあえて本場に向かい、とりわけ評判の高い店を網羅的に訪れるのだ。以前私は福田和也が『悪女の美食術』の最終章で編集者と日本料理の料理人を引き連れてフランスの名レストランをめぐった折りの随想を読んだことがある。(この旅行は明らかに辻が「吉兆」の湯木貞一を誘ってもちろん自費でフランスの有名レストランをめぐったツアーを模している)福田が嫌味なエッセーのテーマとした出版社のあご足つきパリ旅行は所詮三泊四日の小旅行であり、車を駆って毎年フランス中の名店をめぐる辻の壮挙には遠く及ばない。しかも訪れる店はミシュランに掲載された名店ばかりなのだ。辻は「安いけれどおいしいといったものは存在しない」と断じる。なんとも気障、傲岸にさえ聞こえる言葉であるが、辻が口にする時、異和感はない。むろん調理師学校の順調な経営によって得られた潤沢な資金が可能にした贅沢であるとはいえ、量と質、いずれにおいても現代フランス料理の頂点をきわめることなくしてガストロノミーの達人としての辻の業績はありえなかっただろう。
 この特集には実に多彩な人物の文章が収められている。大岡信や開高健、玉村豊男らさもありなんといった顔ぶれに加え、先にも触れた勝子夫人や辻調理師学校の教授陣の文章は辻の知られざる一面を伝え、調理師学校の卒業式式辞なども興味深い。作家や大学教授、ピアニストといった文化人と交流が深かったことは当然であるが、逆に政治家や官僚、財界人の名前がほとんど引用されないことは辻の見識を物語っているだろう。私がやや意外に感じたのは画家やギャラリストといった美術関係者についてもほとんど言及されることがないことだ。私の体験では最も洗練された美食家は往々にして美術と関わっていたのであるが、これは大阪という辻のバックグラウンドと関係しているかもしれない。多くの書き手が辻を貴族と呼ぶが、表紙からもわかるとおりの美男であり、多くの言語を堪能に操り、中村紘子が弾くラフマニノフを楽譜で追えるという音楽への造詣、いずれをとってもこの呼び名にふさわしい。しかし私たちが注意すべきは、これらの資質の多くは決して天性のそれではなく、辻がフランス料理に一生を傾注する中で自然に培われていった、正確には刻苦して学び取られたという事実である。料理とは記憶であり風土である。料理を学ぶとは歴史と土地、すなわち私たちの生の根源を学ぶことでもあろう。私は辻とは比べものにならない小粒のエピキュリアンであるが、自分なりに食という営みに拘泥するのは、それが味わうことの快楽のみならず私たちの知の本質と結びついていることを直感するからである。思うに一流のレストランとは、その店で饗応に与ることによって自分がそこに加わるべき教養を備えているかを問われる場ではなかろうか。いうまでもなくそれは単なるテーブルマナーや料理やワインに関する蘊蓄ではなく、かかる料理を生み出した文化全般への素養である。三木富雄風に言えば、私がレストランを選ぶのではない。レストランが私を選ぶのだ。いつの日か、私も辻が通ったようなレストランに赴き、ギャルソンやソムリエたちと談笑しながら料理やワインを楽しむことができるだろうか。
 
by gravity97 | 2014-04-24 20:17 | エピキュリズム | Comments(0)

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 彼は、予言の先回りをして、自分が死ぬ日とそのときの様子を調べるためにさらにページをとばした。しかし最後の行に達するまでもなく、彼はもはやこの部屋から出るときのないことを知っていた。なぜならば、アウレリャーノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたその瞬間に、この鏡の、すなわち蜃気楼の町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えてしまうことは明らかだったからだ。また百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえぬため、そこに記されていることの一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はないことが予想されたからだった。
by gravity97 | 2014-04-20 08:49 | PASSAGE | Comments(0)
b0138838_10353431.jpg 決して熱心な愛読者という訳ではないが、70年代以降、私は日本のSFを比較的丹念に読み継いできた。この10年ほどの間に星新一と小松左京という巨星が墜ち、一つの時代の終わりを感じないでもないが、一方で次々に新しい書き手も登場した。私は日本のSFの水準は世界的に見てもきわめて高いのではないかと感じる。私が最近の海外のSFをしっかりと読んでいないためかもしれないが、以前においては、例えば70年代から80年代にかけてのいわゆる日本SFの黄金期においても日本語で書かれたSFはその祖型を海外の作品に求めることができた。「継ぐのは誰か」から「幼年期の終わり」を、「宝石泥棒」から「地球の長い午後」を連想しないでいることは難しい。これに対し、90年代以降に発表された作品について私はその原型を海外のSFに探ることはかなり困難であるように感じられる。本書に収められた作家の多くの作品が逆に英訳されて海外に紹介されていることはこの証左であろうし、瀬名秀明の「新生」のごとき作品が海外作家ではなく、小松左京の「虚無回廊」へのオマージュとして構想された点も日本のSFの成熟を暗示しているように感じられる。私は短編よりも長編を好むが、例えば一つのディケイドのSF小説といった広い範囲の作品に接するためには短編のアンソロジーが好都合だ。実際にSFの分野においては、日本では珍しくアンソロジーという伝統が定着している。類似した試みとしては、ずいぶん以前であるが徳間書店からノベルズ版で筒井康隆の編集による年刊形式の「日本SFベスト集成」が刊行され、私は諸星大二郎の「生物都市」に衝撃を受けたことを覚えている。文庫版でも河出文庫から海外の作家に関して「20世紀SF」が刊行され、創元推理文庫からは「年間日本SF傑作選」が刊行されている。今回取り上げる「日本SF短編50」は日本SF作家クラブ設立50周年記念に編集されたアンソロジーであり、文字通り50編の短編によって半世紀の日本のSFを振り返る内容である。形式的にもきわめて整えられており、10年ごとに区切られた5巻にそれぞれ10編の小説が収められている。しかもそれぞれの年に発表された1編が選ばれ、作家の重複もない。したがって同じ年に優れた短編が二点発表されたならばそのうちの一つしか採用されず、このため必ずしもそれぞれの作家の代表作が取り上げられている訳ではない。しかしこれほど長い期間、多くの作家を網羅的にカバーしたアンソロジーはあまり例がないし、タイトルを見てもよく知られた短編が多い。
 1963年に始まる全5巻のアンソロジーのうち、2003年以降を扱った最新の巻を最初に求めたことには理由がある。収録されている10人の作家のうち4人について、私は比較的最近に長編を読み、強い印象を受けていたからである。実際に伊藤計劃、飛隆浩、宮内悠介の三人の長編については(共作も含めて)このブログにレヴューを記している。あらためて10編の小説を読んで、私は大いに驚いた。収録された短編がいずれも粒ぞろいで素晴らしいのだ。アンソロジーを読む機会は時折あるが、多様かつこれほどレヴェルの高い例は近年あまり経験がない。帯に「豊穣と疾走の10年」というフレーズが記されているが、このような充実も近年の日本のSFの水準を暗示しているだろう。
 この巻を読むのが最初であるから、ほかの巻との比較はできない。しかしこの最新の10年間の成果を前に私が深い感慨を覚えたのは、もはやSFというジャンルを設定することが困難になっているという事実だ。例えば最初に収められた林譲治の「重力の使命」(2003年)は典型的なファースト・コンタクトをテーマとしたハードSFだ。ずいぶん変奏されているとはいえ、この短編からマレイ・ラインスターの名作「最初の接触」を連想することは不可能ではない。あるいは高野史緒の「ヴェネツィアの恋人」(2005年)も多元世界テーマの佳作といえよう。しかし沖方丁の「日本改暦事情」(2004年)はどうか。映画「天地明察」の原作の原型とも呼ぶべきこの短編は江戸時代に新しい暦を導入することに生涯を賭けた一数学者の物語である。さらに宮内悠介の「人間の王」(2011年)はチェッカーをめぐる人と機械の勝負を主題とし、インタビュー形式という異例の語りによって成立する短編である。SF自体もジャンル小説であるが、さらにSFはその内部にいくつものジャンルを包摂する。時間旅行、人類滅亡、宇宙からの侵略。例えば最初に掲げた二組の小説は、人類進化あるいは超人類、そして変貌を遂げた未来の地球といったジャンルに結びついている。福島正実の名高い『SF入門』では古今のSFがジャンルごとに紹介されていたのではなかっただろうか。これに対して、ここに収められた作品を従来のSFのジャンルに分類することは困難である。逆に問うならば、何がここに収められた10編の小説をSFという範疇に回収するのであろうか。それはSFという表現によって何が可能かといういささか同語反復的な問いかけではないだろうか。SFという設定をとることによって、物語は現実から、時代から、そして身体からも自由となる。サイバースペース、人間の意識、進化や発生といったきわめて抽象度の高いテーマはSFでしか扱えないとはいえずとも、SFにおいては比較的容易に主題化することができる。ここに収められた小説の多くはこの可能性に賭けている。結果としてかつて子供向けの読み物とみなされていたSFが荒唐無稽どころかきわめて思弁的、観念的な内容をはらみ、サイエンス・フィクションならぬスペキュラティヴ・フィクションとしての性格を強めている点は、このブログで論じたいくつかの長編を読めば、たやすく理解されよう。
 もっともこの短編集に収められた小説の多くは昔ながらのSFのテイストを帯びている。印象に残った作品について簡単に紹介しておく。上田早夕里の「魚舟・獣舟」(2006年)は陸地が水没した未来の地球を舞台に海上民と異形の生物の交流を描いた作品で、先にも触れたブライアン・オールディス、日本では椎名誠の一連の作品を連想させる。印象的な短編であるが、ここで描かれる未来は明確な世界観のもとに統一されており、同じ世界を舞台としてこれ以後、上田は世評の高い長編を次々に発表している。「白鳥熱の朝に」(2008年)の作者、小川一水は名前のみ知っていたが、私にとって初めて読む作家であった。この作家の中でも異質の作品であろうこの短編は疫病による人類の破滅というテーマと関係している。小松左京の「復活の日」などが直ちに連想されるが、現在進行形、巨視的な観点からパンデミックの恐怖を描いた小松の長編とは異なり、この作品はインフルエンザのパンデミックが終息した後、生き延びた人々の生と鎮魂を私的な情景の中に描いて静かで清冽な読後感を与える。もっとも「復活の日」の疫病は軍事兵器に由来したが、ここで描かれるパンデミックは明日にでも発生しうるという意味において、この小説はより現実的かもしれない。山本和広の「オルダーセンの世界」(2010年)は「クラッシュ」と呼ばれるカタストロフの後、全体主義によって統制されるディストピアを舞台とした佳作であるが、ハクスリーやオーウェルとは異なり、人間の意識による現実の改変というSF的な発想が加味されている。宮内悠介の「人間の王」(2011年)は将棋や麻雀などのボードゲームを扱った連作短編集「盤上の夜」の第二話にあたり、チェッカーをテーマにしている。このような設定自体がきわめて奇想的であり、形式的である。人と人間機械(マン・マシーン)との闘争というテーマはアシモフ以来おなじみであるが、宮内はチェッカーの勝負というきわめて限定した局面でこの主題を扱い、思索的な深みさえ与えている。歴史的な事実が次々に提示され、語られる物語は実話か創作か判別しがたい。宮内のSF作家としての資質は第二作の「ヨハネスブルグの天使たち」で大きく花開いたことは知られているとおりだ。事実とフィクションのあわいという点では伊藤計劃の「The Indifference Engine」(2007年)も同様だ。タイトルから連想されるサイバーパンクとは関係なく、アフリカの少年兵問題を扱った短編である。アフリカの年端もいかない子供たちをめぐる現代の悲劇は、後年、高野和明の「ジェノサイド」でも重要なテーマとなった。伊藤は「虐殺器官」同様に仮借のない筆致で強制的に徴兵され、殺戮やレイプに手を染める子供たちを描く。ナノマシンによって人格を改造するというエピソードにSF的な発想を認めることはできるが、必ずしもそれは物語の核心ではない。この意味でもこの短編は「虐殺器官」で展開されるエピソードの一つの原型といえよう。そして秀作揃いのこのアンソロジー中、白眉と呼ぶべきは飛浩隆の「自生の夢」である。「グラン・ヴァカンス」同様にきわめて抽象度が高い傑作であり、一人称で語られるにもかかわらず、語り手の位置は定かではない。ここでも意識や言語の起源という問題がサイバースペースを舞台に問われる。あらゆる書字をデータ化しようとする欲望(いうまでもなくGoogleを暗示している)は人の意識にどのような影響を与えるか、そもそもかかる欲望の主体は誰であるのか。「私」とは何か。飛は小説の中にビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」やメルヴィルの「白鯨」といった先行する表現を折り込みながら独特の硬質の文体によってまさにSFでしか探求できない問いを追求していく。恐るべき傑作といえよう。そして巻末、つまりこのアンソロジー全体の最後に位置するのは瀬名英明の「きみに読む物語」(2012年)である。SF的な道具立てがほとんど登場しないこの作品が最後に置かれた理由は明らかだ。この短編のテーマは「本を読んで感動するのはなぜか」という私たち愛書家にとってきわめて根源的な問いであるからだ。それを科学的に解析しようとする点がSFと接するといえるかもしれないが、逆にこのような解析を逃れていく点に読書の秘密があるといえよう。そしてそれはSFに限らず、本を読むという営為の根底を問うことでもある。私たちの世代にとって、幼い頃の読書の有力なモティヴェーションがSF小説のセンス・オブ・ワンダーであったことを想起する時、この地味な短編が日本の半世紀にわたるSF史の掉尾を飾っていることはなんとも嬉しく感じられた。
 ここに収められた作品のテーマの広がりは直ちにSFの可能性を指し示しているだろう。そしてそれは私がSFを読み始めた頃には想像もできなかった可能性である。最新の10年から読み始めたことを契機にこれから私はこのアンソロジーを遡行して、日本のSFをもう一度逆向きにたどってみようと思う。
by gravity97 | 2014-04-07 10:39 | エンターテインメント | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


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