b0138838_11213384.jpg 書店で新刊を確認していると、講談社文芸文庫から井上光晴の『西海原子力発電所|輸送』が刊行されていることを知った。思わず自分の不明を恥じる。原子力災害を経験し、このブログで何度もこの問題について論じながら、私はこの二つの小説について全く失念していた。1986年と88年に発表されたこれら二つの小説を私はリアルタイムで読み、いずれも単行本を所持している。執筆された年代から推測されるとおり、これら二つの小説は直接にはチェルノブイリ原子力発電所事故を反映している。実際に井上は『輸送』のあとがきに次のように記している。「小説『西海原子力発電所』の執筆中、チェルノブイリ原発の爆発に直面して、私は急遽テーマを改変したが、今になって思えば、構想した通り、西海原子力発電所の原子炉事故によってこの上もなく汚染されて行く町や港の状況を克明に描写ればよかったのである」西海原子力発電所が佐賀県の玄海原子力発電所を暗示していることはいうまでもない。実際に原子炉事故を体験した私たちには、井上の想像力をもってしても現在のフクシマの惨状を予測しえたかという思いもある一方で、原子力災害から三年が経過し、あまりにも酷い現実はもはやノンフィクションではなく小説によってしか応接できない域に達しているとも感じる。私は直ちに書庫からこれら二つの中編小説を取り出して再読した。先に私は今回の震災と原子力災害の結果、東北地方が国家から見捨てられることを30年以上前に予見した西村寿行のパニック小説について論じた。今引用したとおり、井上は原子炉事故そのものを小説の主題とすることをあえて避けた。(「輸送」ではタイトルが暗示するとおり、核物質の運搬事故によって引き起こされた原子力災害が描かれている)しかしいずれの小説も原子力発電所の本質である差別と非人間性をみごとに主題化してきわめて今日的であり、私はあらためて井上の作家としての感覚の鋭さに脱帽する。今回は物語の内容にも立ち入りながら論じる。
 新しいテーマが扱われているからといって、井上の小説が一新された訳ではない。それどころか本書の幕開けに私は強い既視感を感じた。忌まわしい不審火の原因について人々が口々にあらぬ妄想を口走る冒頭は「西海原子力発電所」の20年前に発表された「赤い手毬」という短編と同一といってよい。物語の舞台はいつもどおり九州西部の荒廃した漁村であり、無人となった炭鉱住宅、マルタンと呼ばれる炭鉱離職者たち、廃坑地域に跋扈する新興宗教といった道具立ては井上の小説で見慣れたモティーフばかりだ。さらに物語の中で重要な役割を果たす廃坑地域を巡業する旅芸人の一座も「ミスター夏夫一座」をはじめとする井上の多くのマルタン小説に登場する。
 焼け跡からは二人の焼死体が見つかる。一人は原子力発電所で勤務中に被曝し、その後精神に変調をきたして自殺した作業員を夫にもつ水木品子、もう一人は原子力発電所で特殊な仕事に従事していると噂される名郷秀次という男である。名郷は親愛会という新興宗教にも関わっており、やはり親愛会に入信している妻をもつ魚市場の主任、小出は独自にこの事件の真相を調べ始める。この過程で登場人物の関係が次第に浮かび上がる。水木品子は夫の死後、自らも精神を病み、放射能の影響で動物の奇形や住民の健康への障害が発生しているという妄言を公然と繰り返していた。寡婦となった水木のもとに愛人然と通っていたのが、この地域を巡業する有明座という旅芸人の一座の役者、浦上耕太郎であり、長崎で被爆した経験のある座長、浦上新五が主宰するこの一座は一連の反原爆・反原発の芝居を主たる演目としていた。一方、名郷は原子力発電所で反原発運動を切り崩す仕事に従事していたことが明らかとなる。水木品子の葬儀に水木と親交があったという二宮ソノ江という女性が出席し、席上で水木は殺されたと主張する。二宮は浦上耕太郎と名郷が知り合いであることも暴露するが、浦上は否定する。火事は謀殺か痴情のもつれか、そもそもなぜ火災の現場に名郷がいたのか。手法を重視する井上の小説らしく、この中編も重層的な構造をとる。物語はしばしば小出に焦点化しながら進行するが、ほかにも複数の視点が交錯し、物語は一人の話者に収斂することがない。さらに物語にはレヴェルの異なるいくつものテクストが混在している。「プルトニウムの秋」という芝居の台本、登場人物の一人が書いた手紙、電気事業連合会が発行するPR誌の記事、アメリカ原子力協会が発行した「核燃料と廃棄物」という核物質輸送マニュアル、このうち「プルトニウムの秋」は実際に井上がこの小説に先立って発表した戯曲らしいが、私は未読である。後の二つも現実に存在する記事とマニュアルであろう。かくして物語という虚構の中に巧みに現実が導入される。そして電力会社が地域の家族の構成員や思想傾向まで個人レヴェルで情報収集しているという噂、あるいは反原発の芝居を上演する劇団に対し、旅費や遊興費は電力会社の負担でアメリカの演劇を視察してこないかと籠絡を試みる場面なども、福島の事故と関連した多くのノンフィクションを読んだ今となっては単なる作家の創作とは感じられない。
 井上は「地の群れ」以来、差別の重層構造という主題に一貫して取り組んできた。「地の群れ」においては被差別部落と被爆者部落というともに差別される集団相互の憎悪を介して差別が再生産される状況が仮借ない筆致で描かれていたが、原子力発電所ほど差別が重層的に構造化されている場所はほかに例がないだろう。東京電力を頂点に下請け、孫請けときわめて入り組んだピラミッド体制が敷かれていることは知られているとおりである。小説中に挿入される「プルトニウムの秋」の中では作業で被曝したことを申請するために就業していたことを証明してほしいと懇願する作業員を発電所の技師が玄関払いするエピソードが語られる。しかし原子力発電所が生み出す差別は就業者間で発生するのみではない。さらに深刻な差別は被害者である被曝者に向けられる。被爆した夫が自殺した後、水木品子は近いうちに西海原子力発電所で事故が発生して近隣の住民が犬か猫のような顔になると触れ回る。被曝者に対する差別のステレオタイプといえようが、福島の原子力災害の後、福島県の若い女性が自らの出身地を隠そうとする事実を知る私たちに水木を笑う資格はない。このように考えるならば、核兵器と原子力発電の同質性もまた明らかとなる。両者はいずれも差別を生産し、共同体を破壊する。かつて私はこのブログで集英社の「戦争×文学」のうちの一巻、「ヒロシマ・ナガサキ」を論じたことがある。そこには広島と長崎の被爆体験と並んで、一編のみ原子力発電所と関わる作品が収められていた。水上勉の「金槌の話」である。しかし水上の小説はどちらかといえば暗示的で寓意的であった。最初に触れた講談社文芸文庫版の井上の新刊の解説を担当しているのが、「ヒロシマ・ナガサキ」に解説を寄せている成田龍一であることは偶然ではない。おそらく「西海原子力発電所」もこのアンソロジーの中に収められるべきであり、それが可能であれば被爆/被曝の連綿たる歴史が日本の戦後史の裏面をかたちづくってきたことはより明確になったであろう。
 今、私は井上の作品において被爆/被曝という主題の連続性が認められることを指摘した。さらに私はもう一つの主題にも注目したい。それは石炭から原子力というエネルギーの転換に関わっている。知られているとおり、井上は「階級」や「妊婦たちの明日」といった多くの小説で廃坑地域における人心の荒廃を描いた。戦時中、炭鉱では徴用された多くの朝鮮人によって石炭が採掘され、戦後もエネルギーの基幹として多くの炭鉱が栄えた。しかし石炭から石油へというエネルギー・シフトの中で多くの炭鉱が閉山に追い込まれ、大量の炭鉱離職者が発生し、共同体が崩壊していった。かかる背景を想起するならば、廃坑と原子力発電所という小説の主題の選択は現実と完全に平仄が合っている。そして実際に福島においてかかる転換は常磐炭田から福島原発へ労働力の転入を引き起こしたのであり、さらにいえば廃坑によって一つの共同体が荒廃し、崩壊していったように(長崎の軍艦島を想起するとわかりやすい)、原子力災害によって近隣の住民が故郷を追われ、結果として共同体が破壊されつつある状況を私たちは今まさに目撃している。炭鉱と原子力発電所、戦後の日本におけるエネルギーの基幹はいずれも資本によって一方的に支配され、想像を絶する峻烈な差別構造によってかろうじて成立していたという事実を井上の小説は明らかにする。さらに「地の群れ」「手の家」「明日」といった長崎の被爆を主題にした一連の小説を想起するならば、井上が生涯にわたって戦時における核兵器、平時におけるエネルギー問題という相互に密接に関連し、しかもともに差別の再生産と深く関わる主題を扱ってきたことが理解されるだろう。
 物語の終盤でもう一つの問題が浮上する。有明座を主宰する浦上新五はかつて長崎で被爆し、この経験によって有明座の前身となる「原子爆弾専門」の浦上座を旗揚げした。しかし水木品子との関係を詰問する新五に対して、浦上耕太郎は原爆が投下された当日、新五は長崎市内にいなかったのではないかと問い、新五の原爆体験は偽物であると糾弾する。これに対して新五は当日ではなく三日後に救援隊として長崎に入ったことを認めながら、自分の立場は被爆者となんら変わるものではないと反論する。ここでは被爆体験が何によって担保されるかという点が問われている。さらにほかの劇団員も同様に被爆を詐称していたことが判明し、反核兵器という一座の存在意義が問われる。体験の詐称はこれに留まらず、浦上耕太郎自身が自ら語っていた/騙っていた幼時の被爆という経歴が、胎内被爆したもう一人の耕太郎の愛人によって虚偽であると断罪されるクライマックスへとつながっていく。ここでは何がフィクションを成立させるかという、井上が生涯をかけて追及してきた問題があらためて浮かび上がるとともに、私は以前見た原一男のフィルム「全身小説家」において、そもそもの井上自身が自らの経歴を虚構として提示していたといったエピソードを連想した。しかし私がここで論じたいのはこの問題ではない。浦上新五の原爆体験の真偽はまさに被爆/被曝という問題に関わるのではないかと考えるのだ。浦上のケースは今日、入市被爆と呼ばれている。すなわち原爆投下後、救援もしくは肉親捜しなどのために広島や長崎に入った者が残留する放射能によって被曝し、放射能障害に苦しむこととなった。これについては先に触れた「戦争×文学」の「ヒロシマ、ナガサキ」の巻でいくつかの小説や戯曲の中で描写されていたことが想起される。原子爆弾の高熱や破壊による直接の被爆ではなく、残留放射能による被曝。それは現在の福島の警戒区域と重なり、実際に福島の原子力災害の後で入市被曝の問題が再びクローズアップされたことは記憶に新しい。今回はあえて論及しなかったが、もうひとつの小説「輸送」において、西海原子力発電所から核物質を搬出するトレーラーが海中に転落する事故の後、事故現場に近接する孤島の老人施設で頻発する健康障害は明らかに入市被爆の症状を連想させる。したがって浦上新五は自身の体験をなんら隠す必要はなかったのだ。原子力災害における被曝がヒロシマ、ナガサキ同様に非人間的な災厄であることを私たちはかつてチェルノブイリで知り、今まさにフクシマで確認しつつある。長崎の原子爆弾と福島の原子力発電所は悪魔の双頭なのである。b0138838_11221577.jpg
by gravity97 | 2014-03-23 11:27 | 日本文学 | Comments(0)

VENICE, 2007.8.19

b0138838_21522320.jpg  2007年の夏、私としては三度目となるヴェネツィア・ビエンナーレを訪ねた。ジャルディーニのパヴィリオンをめぐった後、街の中に設置してある作品を探して迷路のような市街をさまよっていると、突然異様な光景を目にした。古い建築のファサードに上方から巨大なタペストリーが垂れ下がり、建物を覆っているのだ。後に日本でも個展が開催され、このブログでも論じたナイジェリアの美術家、エル・アナツイの作品を見た最初である。その場所を通りかかったことは偶然であるが、そこで開かれている展示の噂は日本を出発する以前から聞いていた。ジャン=ユベール・マルタンらが企画し「時間が美術になる場所 Where Time Becomes Art」というサブタイトルを付した「ARTEMPO」という展覧会であり、サブタイトルはゼーマンの69年の伝説的な展覧会を反映しているだろう。
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 展覧会の会場はフォルトゥニー宮というデコラティヴな邸宅である。ヨーロッパの美術館は王侯や貴族の居住していた屋敷が転用され、ホワイトキューヴからほど遠い建築である場合も多いから、会場自体にさほど驚きはなかった。私が驚いたのは展示方法である。多くの作品が机の上や棚の上に無造作に配置され、どれが作品でどれが装飾か判別できないのだ。フンラシス・ベーコンの歪んだ人物像やフォンタナのスリット絵画など、直ちに作家名を言い当てることが可能な作品も存在する。しかし大半は作品とも室内の備品とも判然としない謎めいたオブジェなのだ。なるほどデ・キリコのマネキンはシュルレアリスムの絵画だ。しかし全身の血管の浮き出た不気味な解剖模型は作品なのか調度品なのか。キャビネットの中の鉱石は展示の一部であるのか否か。このような混乱を初めは不審に感じたが、部屋をめぐるうちに、このような併置こそがこの展覧会の一つのテーマであることが了解された。例えばメダルト・ロッソの手による女性の頭部とイヌイットのマスク、両者は形態的には相似するが、通常の美術展においては決して併置されなかったはずだ。なぜなら前者が展示されるべき場所は美術館であり、後者が収められるべき場所は博物館であるからだ。しかしこのような囲い込みは実はきわめて恣意的ではないか。かつて吉田憲司は『文化の発見』という示唆に富んだ著書の中で、「西洋」の「天才」たちの「傑作」が作者名と制作年を表記されて麗々しく展示される「近代美術館」と「異文化圏」の「作り手」による「器物」が民族名のみを記されて展示される「民族学博物館」を対比させ、両者がみごとなまでに相互に排他的な関係を築いてきたことを指摘している。むろん両者を同じ場に展示する試みがなかった訳ではない。例えば1984年、ニューヨーク近代美術館でウィリアム・ルービンによって企画された悪名高き「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」においてはピカソからアース・ワークにいたる「モダン・アート」の系譜に連なる作品150点とそれらに「対応」する部族社会の作品200点が展示され、両者の類縁性、affinityが検証された。しかしこの展示に対しては人類学者のジェイムズ・クリフォードから根底的な批判が加えられ、ルービンも応酬している。ここでその詳細について立ち入るつもりはないが、クリフォードはまず類縁性という概念に疑問を呈したうえで、部族社会の作品が結局のところ西欧モダニズム美術の価値を確認するために利用されていると批判する。いうまでもなくここには他者の表象を最終的に西欧の優越を保証するアリバイとして用いるオリエンタリズムの発想がある。私はルービンの展覧会は見ていないが、カタログを参照する限りにおいてもかかる批判はそれなりの根拠がある。私は近代美術館の展覧会への批判は、良くも悪くもこの展覧会の真剣さ、キューレーションの厳密さに由来しているように感じる。これに対して今回はずいぶん印象が異なる。もちろん時代が違うということもあるだろうが、さすがにポンピドーセンターでポスト・コロニアリズムの里程標となった「大地の魔術師たち」を企画したマルタンの企画だ。「ARTEMPO」の展示には緻密さよりおおらかさが横溢し、正統と異端、中心と周縁の区別がなく、意外な発見、思いがけない出会いに満ちている。端的に会場をめぐることが楽しいのだ。
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 私は日頃から、展覧会とは畢竟、選択と配置の技術だと信じている。配置はともかくこの展覧会ほど、近年、選択の妙を味わった展覧会はない。予備知識なしに会場に入った私は驚愕した。なんと村上三郎の《六つの穴》が展示室の中央に置かれているのではないか。(ただし私は2006年に再制作されたというこの作品のアトリビューションを現時点では確認できていない)作品の対比も鮮やかだ。入ってすぐ、私はやはり具体美術協会の作家の思いがけない写真を目にした。白髪一雄の名高いアクション「泥に挑む」である。そしてその傍らに配されているのはなんとアルテ・ポヴェラのアリギエロ・ボエッティの作品だ。不定形のコンクリート片を人型に並べた作品と泥の中でのたうつ作家の写真、さらにその横ではアントナン・アルトーの制作したフィルムが上映されているのだが、その内容たるやアルトーが文字通り泥の中で転げ回っているというものだ。同じ会場に白髪の物質性の強い絵画も展示されているから、白髪のアクションをめぐる道具立てとしては完璧ではないか。残酷演劇と具体美術協会という取り合わせは多くのインスピレーションを呼ぶ。私は会場に展示された作品/器物を介してこのような取り合わせの妙を何度となく体験した。例えばウォーホルの酸化絵画と水銀の表面が剥落した17世紀にイタリアで製作された鏡、そして村上三郎の剥落する絵画、アメリカ、ヨーロッパ、日本の時代も意図も全く異なった三つの作品/器物が併置され、金属片をかき集める動作を撮影したリチャード・セラのヴィデオの傍らには自らの掌を描いた17世紀のスペインの画家のテンペラ画が展示されている。中国の北宋代の仏像はオパルカのホワイト・ペインティングに囲まれて瞑想する。仏陀の姿はさらにキム・スージャのヴィデオ作品に反復されているとみなすのは考えすぎか。私はこれまでに数え切れない展覧会を見てきたが、かくも異質の作品/器物が様々の地域や時代、ジャンルから選ばれ、かくもみごとに展示された例を知らない。類縁性といった固苦しい概念の代わりに企画者の自由な直感によって作品が選ばれ、配置されている印象がある。
 さて、先に記したとおり、この展覧会は時間を主題としている。この時、私は一つの参照項を連想した。それは1984年にブリュッセル、パレ・デ・ボザールで開かれた「美術と時間」という展覧会だ。b0138838_2149017.jpg私はこの展覧会は未見であるし、手元のカタログ、というよりその際に発行された論集には出品作品のチェックリストが付されていないため、実際の展示がどのような内容であったかは不明である。しかし二つのカタログを比較するならば、「ARTEMPO」の特異さもまた明らかになる。「四次元に関して」というサブタイトルが付された「美術と時間」はその名のとおり、抽象美術を時間性という観点から検証しようとする当時広く共有されていた関心を反映している。リンダ・ヘンダーソンの『近代美術における四次元と非ユークリッド幾何学』が刊行されたのはその前年のことであり、ロスアンジェルスのカウンティ美術館で「抽象美術における霊的なもの」が開かれたのは1986年のことであった。ブリュッセルの展覧会はあくまでも美術という枠組を前提としている。カタログによれば展示は(実際に出品されたとは思えないが)ブロンツィーニからナム・ジュン・パイクにいたる広い時代を対象としているが、展覧会の力点は未来派、キュビスム、オルフィスム、シュルレアリスムといった西欧近代、モダニズム美術の中枢に置かれている。この意味でこの展示はきわめて美術史的であり、啓蒙的といえよう。これに対して「ARTEMPO」はなんとも不穏な気配をみなぎらせている。それは美術史の範疇を逸脱するオブジェが多く含まれているからであり、見る者は美術と美術あらざるものの間の緊張に直面するのだ。しかしなぜ、それらの美術あらざるオブジェはフォルトゥニー宮に召喚されたのであろうか。ここで私たちは時間という概念を造形の問題にとらわれることなく、より広い観点からとらえなければならない。
 「美術と時間」における時間とは表象された時間であった。未来派における運動、キュビスムにおける同時性、モネにおける瞬間、これらは全て絵画というメディウムを介して表象されている。これに対して「ARTEMPO」には現実の時間が介入している。世界各地より集められた儀式に用いるマスク、木像や石像、これらは長い時間を閲(けみ)している点で共通する。そこに記録されるのは現実の時間であって時間の表象ではない。この点を認識するならば、「ARTEMPO」に展示された作品の多くが、第二次大戦後に制作されていることの理由はたやすく理解される。つまり美術において現実の時間が作品に介入することとなるのは現代美術、1945年以降の美術であるからだ。具体美術協会の作品が多く展示されていることに不思議はない。アクションを用いて絵画に現実の時間を封入する実験を始めたのは彼らであったからだ。そしてこの時、「具体美術宣言」の中の次の一節の意味があらためて明瞭となる。「ここに興味あることは過去の美術品や建築物の時代の損傷や災害による破壊の姿に見られる現代的な美しさだ。これ等は頽廃の美としてとりあつかわれているけれど、案外人工の粉飾のかげから本来の物質の性質が露呈しはじめた美しさではないか。廃墟が案外に温く(ママ)親しみ深く我々を迎え入れ、さまざまな亀裂や剥だつの美しさをもって語りかけることは物質が本来の生命をとりかえした復讐の姿かもしれない。以上の意味に於て、現代の美術ではポロック、マチュウ等の作品に敬意を払う」私は具体美術協会における物質性の意味はなおも十分に検証されていないと感じるが、この展覧会は初期具体におけるアクションと物質性の結合の必然性について大きな手がかりを与えてくれるだろう。つまり物質は時間が介入することによって作品へと昇華されるのだ。このような発想は常識的な作品観の対極にある。すなわち通常はイメージを、あるいはかたちを永続させるために絵画や彫刻は制作される。肖像画や肖像彫刻と念頭に置くならば、この点はたやすく理解される。これに対して物質が時間の経過による蚕食、瞬間的激発による変形をとどめることが「時間が美術になる場所」なのだ。
 テマティックな展覧会を見る際の一つのテクニックとして、出品された作品ではなく、どのような作品が不在であるかを確認する方法がある。「ARTEMPO」に不在の作品とは幾何学的、抽象的な作品である。時間をテーマにしながらもフォンタナが出品されているにもかかわらず、ボッチョーニやバッラは不在だ。(19世紀以前の作品も出品されているから、この選択が制作時期に由来しないことは明らかだ)例えばボッチョーニの一部の作品が抽象的であるのに対し、フォンタナのスリット絵画は抽象ではない。先に用いた言葉を繰り返すならば、それは抽象ではなく現実なのだ。かかる選択は企画者の見識の高さを示しているだろう。この展覧会が崩壊や風化を主題としている以上、調和や永遠性と関わる幾何学的抽象の不在はたやすく理解できる。この一方、この展示で多くの作品に共通して認められるのは身体というモティーフである。仏像や仮面、骨格標本や人型(インプリント)、さまざまな表現をとおして時に明示的に時に暗示的に身体が主題化される。身体もまた時の移ろいの中で朽ち果てる。かくして多くの現代美術の名品に彩られた画期的な展覧会はメメント・モリという中世以来の主題系列に接続するのだ
by gravity97 | 2014-03-16 22:04 | SENSATION | Comments(0)

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 このブログはどちらかといえば高踏的な内容が中心であるから、今回、突然に一昔前のきわめて通俗的なパニック小説を取り上げることは不審に感じられるかもしれない。そもそもこの小説の一部の表現はフェミニズムを経由した私たちにとってあまりにマッチョで女性蔑視的であり、もはや時代錯誤的とさえ感じられる。しかしながら東日本大震災と福島における原子力災害から丸三年が経過しようとする現在、あらためて読み返すならば、この物語は荒唐無稽な内容にもかかわらず、今日きわめてアクチュアルであり、実に予言的であったことが理解される。
 この小説は『小説現代』に1977年から78年にかけて連載され、物語の舞台としても同時代が設定されている。1977年7月、航空自衛隊のレーダースクリーンに大陸から日本海を経て、日本に接近する巨大な影が写し出される場面から物語は始まる。巨大な影の正体は飛蝗、トノサマバッタの群れであった。飛蝗とは旧約聖書の出エジプト記にも記述があり、当時は三大災厄の一つとみなされていた。飛蝗は古代エジプトでは「神の罰」と呼ばれ、英語ではローカストという。ローカストとは焼け野原という意味であり、無数のバッタが襲来した土地は草一本残らず喰い尽くされることに由来する。総重量2億トン、想像を絶する巨大な飛蝗の群れは青森県に降下し、津軽平野から青森平野の青々とした大地を文字通り焦土と変える。これに対する青森県知事、野上高明はかつて中央政界で首相の候補とみなされていた実力者で東北六県の知事会長を務める。未曾有の危機の襲来を知った野上は素早く手をうち、パニックを防ぐために東北地方守備隊という組織を結成し、カリスマ的な資質をもち、弘前大学理学部で昆虫学の講師を務める刑部保行に総隊長を命じる。このあたりも既に相当に強引な展開であるが、緊迫した物語に一気に引き込まれる。守備隊に警察権を与えることは国法を犯すことであるが、地方自治体は中央政府の隷属組織ではないという信念のもとに野上は決然と政府に対峙する。飛蝗禍が全国に及ぶことを見越して政府は東北地方からも備蓄米を搬出しようとするが、守備隊は実力でそれを阻止する。国会でも東北地方選出の野上シンパの議員たちが畦倉首相と鋭く対立し、暗闘が続く。「神の罰」という言葉どおり、穀物と野菜を喰い尽くし、家畜や人さえも噛み殺すおびただしいバッタの前には自衛隊も警察もなす術がない。青森から南下した飛蝗軍団は北上川沿いに雫石盆地、仙台平野を劫掠する。もともと西村は動物を主人公にした小説に長けており、これ以前にも南アルプスに発生した鼠の大群が東進して東京に向かう『滅びの笛』という傑作を発表している。無数の昆虫集団の恐怖を西村は例えば次のように描写する。「ふとみると稲が消えていた。稲ではなかった。黒い虫の木だった。一本の稲に何百という飛蝗がたかっていた。吐き気のする光景だった。一匹一匹の飛蝗の目玉が晦冥の中で横目使いに見つめていた。異様に光る、小さな目だった。バリ、バリ、バリ、バリと咀嚼音が周囲を埋めている。かん高い共鳴音だった。共鳴した音はよじれ合ってなんともいえない恐怖感を抱かせた。自分の体が喰われているような苦悶が襲った」飛蝗の襲来という(巨大津波や原子炉の爆発と同様に)にわかに想像しがたい事態に対して、西村の具体的で歯切れのよい筆致は臨場感あふれる圧倒的なリアリティーを与えていく。パニックに襲われた群衆の描写はこの作家の独壇場だ。この作家らしいマッチョな妄想が全開し、飛蝗に襲われる農村と恐慌が発生する都市、暴力と略奪、陵辱が東北地方を蹂躙していく様子が活写される。野上は東北各地の大学のコンピュータを用いて今後の被害の推計を計算させ、飛蝗の第三世代が消滅する3年後、1980年冬までに100万人の死者と東北六県壊滅という恐るべき予測が明らかになる。野上は大量の流民が東北を南下し、多くの死者を路傍に置き去りにしながら首都へと向かう地獄絵図を予想する。むろん野上は拱手してはいない。東北地方守備隊を用いてパニックの収攬をはかるとともに、東京の商社をとおして大量の食糧を買いつけ、戦時に有用な人材を自衛隊や諜報組織から引き抜く。そして自ら喚問された衆議院の地方行政委員会の席上で、地方自治は国権を凌駕すると主張する。これに対して野上に敵意を燃やす首相畦倉は国家存亡のためには犠牲もありうると主張し、わずかな支援とおざなりの政策で東北地方を見捨てようとする。
 飛蝗襲来から半年が経過し、蕭条の冬を迎える。青森から宮城まで草という草、緑という緑が飛蝗によって喰い尽くされ、未曾有の食糧難とともに東北の経済活動は逼迫し、野上が予想したとおり大量の流民が発生した。折しも卵を抱えた第一世代の飛蝗たちは移動を開始する。しかし彼らは大陸に帰ることなく、奥羽山脈に降下し、東北地方の脊梁に無数の卵を産みつける。再び発生する飛蝗群は140億トンと推定され、第二世代の飛蝗群によって再び東北六県が劫掠される運命が定まった。餓死者が続出し、村落がうち捨てられる地獄の中で150万人の人々が故郷を捨てて難民となり、このうち60万人が徒歩で首都へ向かう。これに対して東京都知事は県境を封鎖して、難民の流入を拒絶する。見捨てられた流民たちに対して、野上はTVを用いて驚くべき発表を行う。すなわち東北六県が奥州国として日本から独立することを宣言し、流浪する人々に対しては直ちに北に戻ることを呼びかけたのだ。むろん畦倉は東北地方の独立を実力で阻止しようとする。物語は終盤において内戦状態に突入する日本、そこに渦巻く陰謀とテロリズムの連鎖を速いテンポで描き、悲劇的な結末へと向かって進行する。
 パニックSFとポリティカル・フィクションを合体し、強烈なサスペンスを加味した西村の「ハード・ロマン」(当時はこのような呼称があったのだ)において注目すべき点は、国家的な災厄とそれへの対応が主題とされているにもかかわらず、小松左京の『日本沈没』に典型的な上から目線の「危機管理小説」とは全く趣を異にする点である。飛蝗禍という未曾有の大惨事の中で、国家の存在はむしろ災いを拡大する。この小説に主人公を求めるならば、東北地方守備隊の総隊長である刑部であるが、作者は明らかに巨視的ではなく微視的な状況に目を向け、東京より東北、首相より知事、為政者より民衆に寄り添って物語を進める。国家に順わぬ(まつろわぬ)者の命運というテーマは西村のいくつかの小説に共通しているが、これほど直截に提示された例はないだろう。いうまでもなく国家に順わぬ者の系譜は、東北地方の歴史と直結している。国会に喚問された野上は日本書紀から江戸明治の凶冷害、満蒙開拓団への使役まで言及しながら、東北地方が常に国家の、中央の収奪を受けてきた歴史を指摘する。今や野上の主張は私たちにとって理解しがたいものではない。とりわけ東日本大震災、なかんずく福島第一原子力発電所の事故による原子力災害を経験した後では、私たちはこの受難の歴史が今も更新されつつあることを理解するのだ。このブログでも高橋哲哉や開沼博の論考に触れながら論じたとおり、東北とは常に首都圏の後背地として労働力や資源、電力を供給してきた。震災は自然災害であるから不可抗力かもしれない。しかし原子力災害は明らかに人災であり、東京に電力を供給した対価として、故郷を、土地を奪われ、健康についての間断なき不安を強いられるのは福島と宮城の人々ではないか。本書の中では流民と化した人々が病人や死人を道端に打ち捨てて東京に向かう情景が描かれる。女たちは人買いに買われて、わずかな金のために男たちに身を任す。むろんそこには「ハード・ロマン」特有の誇張はあろう。しかし現在、実際に放射能から逃れるために今なお万を単位とする人々が日本各地に離散し、震災後、多くの東北の女性たちが風俗業やアダルトヴィデオに従事せざるをえなかった状況を知るならば、西村のパニック小説と現実との間にさほど距離はないように感じられる。さらに野上の演説を引用するまでもなく歴史を遡行する時、このような悲劇は冷害や凶作のたびに繰り返されてきた。そして今回の震災/原子力災害において最も被害を受けた東北の人々が原子力発電所の事故の復旧に携わり、深刻な被曝環境にあるという倒錯は現在も進行中だ。
 野上が奥州国の独立を宣言した五日後、飛蝗群団は再び一斉に飛翔を開始する。東北を劫掠した飛蝗が南下し、関東一円に降下すれば再び同じ災厄が繰り返される。関東が飛蝗禍を受けることになれば、政府はその対応に追われて奥州国の独立を認めざるをえず、逆に東北地方では農作物の作付けが可能となる。奥州国の独立は明らかにこのような時機を読んでいた。しかし青森、岩手、秋田の接する山岳地帯から飛び立った飛行群団の黒雲は南ではなく、真西に向かい、母なる大陸へと戻っていった。この時点で奥州国独立の夢は潰え、独立を阻止するために政府軍は反攻を開始する。西に向かう飛蝗群団の黒い雲、この情景から原子力災害、福島第一原子力発電所の事故を連想せずにいることは難しい。知られているとおり、原子炉が次々に爆発を起こした際、福島の海岸部には東風が吹いていた。このため多くの放射性物質(岡田利規は『現在地』の中で「青い雲」として表象した)は太平洋上へと撒布されて首都圏は直接の被害から免れることができた。この時期、この地域では東風が優勢であるとはいえ、東京が放射性物質の洗礼を受けずにすんだことは飛蝗が西に向かった程度の偶然にすぎない。震災から三年が経過して、原子力発電所の事故の状況もいくつかのドキュメントでかなり正確に再現されている。そしてここでも事故によって東日本が壊滅しなかったのは単にいくつかの幸運に負っているということが明らかとされた。私たちはこのような幸運を十分に認識しているのであろうか。現在の政権は原子力発電所が稼働せずとも電力不足が発生しないという事実があるにもかかわらず、原子力発電所の再稼働と海外への輸出を死にものぐるいに進めている。被災地の復興が遅滞し、破壊された原子炉からは今も放射性物質が放出されている一方で、7年後の東京でのオリンピックの開催だけが決定された。この一連の出来事に中央/東京の度しがたい驕り、他者への想像力の欠如を感じるのは私だけであろうか。この小説が発表された35年前、まだ日本には成長の余地があり、地方もそれなりに繁栄していたから、一つの地方が日本から独立するという物語は一定のリアリティーをもちえた。しかし「小泉改革」を経て、東京の一人勝ちの傍らで地方は救いがたく疲弊し、中央/政府に拮抗する力も矜持ももちえない。今後、被災地である東北が核廃棄物の貯蔵地とされることは大いにありうるが、その時、命を賭して反抗する野上のごとき首長がもはや存在しないことを私たちは先の沖縄県知事のふるまいを通して学んだ。このような中央と地方の関係はごく少数の富裕層と大多数の貧困層が乖離する今日の社会の縮図であり、かかる格差を当然の前提とみなすがゆえにこの国の中心にいる者たちはこれほどまでに傲慢なのではなかろうか。
 今日再読するならば、この小説における飛蝗はあたかも原子力発電所事故に由来する放射性物質の暗喩であるかのようだ。小説の中で飛来した飛蝗群は奥州国を壊滅に追い込み、関東以南の沃野はそのままに残して母なる大陸に向かった。しかし現実において東北の地に放出された放射性物質はその土地に残り、半永久的にダメージを与え続ける。青森の六ヶ所村から福島の浜通りまで、原子力災害によるローカスト(焼け野原)の連なりを私は明確にイメージすることができる。このようなローカストがいかなる社会的、政治的な力学のもとに特定の地域に広がったかについては、すでにいくつもの研究が存在する。先に述べたとおり、今回、東京がかかる災厄を免れたことは偶然にすぎず、次の震災が起きれば、東京も新たなローカストとなるかもしれない。そしておそらくそれほどの災厄なくして、為政者や高級官僚はかかる不均衡がこの国を深く蝕んできたことを自覚しないだろう。
by gravity97 | 2014-03-12 20:56 | エンターテインメント | Comments(0)

b0138838_1484865.jpg 御存知のとおり私は書物フリークであるから、店頭で書斎、書架、書店といったテーマを冠した雑誌を見ると必ず手が伸びてしまう。『書庫を建てる』という新刊にいたっては、タイトルを見た瞬間に手に取ってキャッシャーに向かった。二人の著者のうち、松原隆一郎は経済学者であり、私も新聞や雑誌で文章を読んだ覚えがある。堀部安嗣という建築家の名前は初めて聞いた。タイトルが示すとおり、施主は松原、建築家は堀部、二人によって進められた「一万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト」の記録が本書である。
 巻頭に二人によって建設された書庫の写真が掲載されている。円筒形、三階建ての室内の壁面を書架で設え、各階を螺旋階段でつなぐ美しい内景だ。このような書庫をもつことは「男のロマン」であるらしいから、松原がその経緯を記録に残そうと思い立ったことに不思議はない。しかし本書は建築の苦労話や自慢話に終始するのではなく、随所に建築という営みや本というオブジェへの洞察がうかがえる点が興味深い。本書を読んで私は自分がこれまで書庫や図書館、文書館や美術館、博物館の建築に対してことに深い興味を抱いてきた理由をあらためて理解した。それらはすべて記憶と関わっているのだ。
 書庫の建築について語るにあたって、松原は意外な起源を語る。それは後に取り壊された実家に残された一枚の写真であり、二隻の船の進水式の情景に祖母が写り込んでいる。冒頭に掲げられた図版中、書庫内のデスクの上に確認できるこの写真を手がかりに松原は自分の家族史を遡行し、防水帆布と鉄鋼業で財を築いた祖父の個人史をたどる。しかし祖父の事業を松原が引き継ぐことはなかった。松原の父は事業家としても父親としても適性を欠き、事業は続かず、家族間にも不和が生じる。このあたりの事情を松原はかなり赤裸々に記述している。神戸、魚崎にあった祖父の邸宅は阪神大震災で全壊し、松原の父はその跡に自分だけが住む家を建てるが、2008年に没する。松原は魚崎の家屋はいうまでもなく、そこに植えられていた樹木、配されていた庭石を残すことができないか奔走するが、相続に関わる係争もあって支えきることができず、実家の敷地は更地となり、巨大な仏壇だけが残された。私は松原がなぜかくも仏壇に執着するかという点にも興味を抱くが、このような挫折を経て、松原の脳裏に一つの考えがふつふつと湧き出ることとなったという。それは「(生まれ育った)神戸で買おうと思った仏壇と本のための別宅を、(今自分が居住している)阿佐ヶ谷で探そう」というものであり、松原は祖父が生きた証としての仏壇を書庫の本とともに収納することによって「松原のイエ」の鎮魂をも目的とする「書庫と仏壇の家」を阿佐ヶ谷で探すことになったのである。
 以上のエピソードが語られる最初の章は「家を建てるわけ」と題され、「書庫を建てる」物語の前史をかたちづくっている。しかし私の考えではこの章は重要である。なぜならここで語られる動機こそ、建築の本質と関わっているのであるから。私たちはしばしば一つの場の記憶について語る。しかし多くの場合、それは建築に関する記憶ではなかろうか。場所は失われることはないが、建築はしばしば失われる。記憶を保持することはいかにして可能か。ユベール・ロベールを想起するまでもなく、絵画から文学まで廃墟という主題が一つの系列をかたちづくっていることはこの問題と関わっている。さて、私は最近のブログでレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を取り上げ、書物もまた一つの記憶であると述べた。この意味で書物と建築は調和する。そして仏壇も一つの家族の記憶であることはいうまでもない。興味深いことに建築家の堀部は松原の書庫と並行してもう一つの建築プロジェクトを進めていた。それは高知の由緒ある寺院に設置される納骨堂のプランであり、今日プランを比べるならば両者には多くの共通点がある。この意味において本書の中で紹介されている、竣工後に書庫を訪れたある作家の印象は興味深い。「丸い弧を描く本の背表紙を眺めたり、オーナーの御祖父様の仏壇に灯されたろうそくを見つめたり、ところどころに飾られた古い写真に眼をやったりする。この空間の感覚は、何か覚えがある。(中略)地下の床に腰を下ろして上を見上げたとき、アクレサンドリアのカタコンベを訪れたときの記憶が不意によみがえった。エジプト地中海岸の街アレクサンドリアにローマ支配時代の1、2世紀頃につくられた地下共同墓地だ」続いてこの作家も私と同じことを指摘する。「古い図書館にある書物の著者の大半は死者である。そこは、書物という名の死者たちの遺言が集められた場所だ。アレクサンドリアには古代最大の図書館があったかが、そこもまた沈黙の中にいる死者たちの記憶を掘り起こすための巨大な装置だったはずだ。そう、書物とはかつては記録の道具ではなく記憶のための道具だった」私は書庫や図書館にことさらに死者や死という含意を認めようとは思わないが、それが膨大な記憶の蓄積であることは明らかだ。蔵書に見合った記憶の場を与えることは、愛書家の私にとっても松原や堀部同様に一つの責務のように感じられていた。
 「どんな家を建てるのか」と題された次章では実際に設計を依頼してから、最終プランが確定するまでの約一年間が描かれる。いうまでもなく施主と建築家が書庫のプランを具体化していく過程だ。施主としてはこの時期が一番楽しいのではないだろうか。私の経験では実際の建築が始まると、もはや施主が介入する余地はほとんどないが、建築家とプランをキャッチボールしならが細部を詰めていく過程では自分のコンセプトが明確に形をとり、時に変貌を遂げる現場に立ち会うことができるからだ。私も自らの「書庫を建てた」経験があり、書庫のプランについては少々うるさい。松原/堀部の書庫プランがいかに構想されたかについては本書を読んでいただくとして、この機会に私も自分なりの書庫についての思考の一端を書き留めておきたい。私の場合、「書庫を建てるわけ」は明確であった。私が高校までに読んだ書籍、大学以降に求めた書籍、さらに家族の記憶としてはかつて祖父が求めた美術書、さらに(量はさほど多くないが)父が集めたフランス文学関係の書籍、これまでばらばらに収納されていたこれらの膨大な書籍を同じ空間に配架し一望することが長年の私の夢であった。これらの書籍はこれまで祖父のアトリエ、父の寝室、私の部屋などに分散され、時には段ボール箱に詰められたまま収納されていたため、全体の量はおろか、どのような内容であるかも判然としなかった。私の場合、書斎にとって最も重要なコンセプトはすべての書籍が開架にあり、一望できる空間を実現することであった。したがって集密書架、移動書架は最初からありえず、建築家からは四囲を書架で囲む、三層の書斎兼書庫が提案された。このプランは本書で堀部が提出した「初期プラン」に近い。本書の中にもストックホルム市立図書館の写真が掲載されているが、私が念頭に置いたのはむしろ安藤忠雄の司馬遼太郎記念館である。書物にインヴォルブされるにあたって、曲面ではなくリジッドな感覚が望ましく感じられたからだ。
 さて、私は書物とは記憶であると述べた。しかし実は書物がはらむ記憶とは重層的である。例えば読書の体験をとおして私にとって一冊の書物は具体的な時と場に結びつけられる。ドストエフスキーであれば、高校の放課後の図書室、高橋和巳であれば大学に入学した直後の狭い下宿、プルーストであれば厳寒のニューヨークのスターバックスだ。そして特定の時間と場所に結びついた書物は書棚に配架されることによってあらためて空間化される。書庫とは記憶が空間化される場所とはいえないか。本書の中には松原の書庫にどのような内容の本が配置されたかという図が示されている。経済史や経済学はいうまでもなく小説やCDから古武術まで、整然と分類された書架はわかりやすく、松原はそれを「論文を書くための樹系図」と読んでいる。しかし私は必ずしもこのような配列に与しない。私は自分が読んだ本をジャンルや判型を問わず読んだ順に並べることができないかと夢想する。もしそのような書架が可能であれば、私は自らの知的変遷を縦覧することが可能になるはずだ。むろん実際には私の書斎においても空間的経済、あるいは検索の利便といった理由で同じ作家や同じ叢書の書籍は同じグリッドに収められる場合が多い。しかしそれにせよ、私は同じ作家の小説を集中的に読み、同じ主題の研究をまとめて読む場合が多かったので、書斎には時系列的な秩序が残存している。例えばソルジェニーツィンとトルストイ、ショーロホフの文庫本がぎっしりと詰まった書棚は高校二年から大学一年、文春文庫に収められたディーン・R・クーンツとスティーヴン・キングの青い背表紙の棚は80年代後半だ。一つの書棚は直ちに一つの時代のノスタルジアを喚起する。
 ほかにもいくつかの点で私は書庫/書斎に関して、松原と考えを異にする。巻頭の写真には書庫の全景が網羅されている訳ではないが、写真から見る限り、書架には既にぎっしり本が詰まっており、空いているスペースが少ない。松原は「書庫に望むこと」という章の中で、今後の人生において持つ本を一万冊に抑えようと思うと述べている。私は今後自分が読む本を制限しようとする発想が理解できない。私は梯子を用いないと届かぬ高い位置に多くの空の書架を準備した。おそらく私が生きているうちにそれらのグリッドが書物で満たされることはないだろう。しかしそれらの空白が私の生に余裕を与えることは間違いない。本を読み続けても満杯となることのない書庫が存在することは私にとって幸福の条件にさえ感じられるのだ。よりプラクティカルな次元において、収納の余地がない場合、人は本を求めることを抑制してしまう。私の体験でも狭いマンション住まいの折りには図書館で本を借りることが多かった。私はもちろん今でも図書館を利用する。しかし少なくとも全巻の通読に値する本については、私は身近に置きたいと考える。空間的な余地の有無は書籍を購入する意欲に無意識のうちに影響する。
 写真を見て、もう一点違和感を覚える点はグリッドによっては本の上に本が横積みされて重ねられていることだ。これは私の美意識にそぐわない。横積みにされた本は識別しにくく、一望性を阻害する。松原は個々の書棚にテーマを与えたため、一つのグリッドに配列しきれないほどに本が増えたためであろうが、テーマによる配列は位置を変えることが難しい。私の場合は(意図したというより偶然であるが)書架の奥行きを深くして、必要があれば上下ではなく前後に本を配置するようにした。もちろん奥に並べた本は認識しづらいが、この方法を用いるならば、一人の作家については一つのグリッドでほぼ完結することができる。(今のところ、大江と井上光晴の棚のみが満杯だ)文庫本と単行本の配置を違えることで美しく配架することも可能だ。
 蔵書を一覧できることは私にとってきわめて重要だ。先にも述べたとおり、書物という記憶は一覧することによって空間的に把握されるのだ。人は通常自らの記憶、あるいは知識の総体といったイメージをもつことがない。しかし書庫/書斎で私をとりまく無数の書籍はそれを数量として実体化する。これに似た体験として、私が連想するのは初めて i Podを手にした際の感銘である。私にとって i Podの革新性は単に膨大な音楽が小さな筐体に収められているということではなく、タッチホイールをスクロールすることによって、そこに納められた全ての音楽を視覚的に認知できることであった。現在、私の i Podには私が所持するほとんど全てのCDが収められているが、これは私が意識的に聴いてきた音楽の総体に等しい。人が生涯に聴く音楽という抽象的かつ膨大な対象が可視化されたことは私にとって大きな驚きであったが、私にとって書斎/書庫もまたそのような装置である。近年、 i Podに対応するかのように電子書籍の利便性が声高に語られる。私は電子書籍を使用したことはないが、確かに膨大な情報がコンパクトに収められた点で両者は相似する。しかしながら本とは情報であると同時にオブジェである点において決定的に異なる。(音楽もLPレコードが媒体であった頃はアートワークとしてのオブジェ性があったが、小さなCDジャケットにそれを求めることは困難だ)さらに私は職業柄、美術書の蔵書が多い。むろん美術書自体がオリジナルの作品の複製であることは認めよう。しかし今後いかに液晶技術が発達しようとも決して紙という物質に定着されたイメージを超えることはありえないことを私は断言することができる。それは端的に映像表現がいくら洗練されたとしても絵画表現の強度をもちえないことのアナロジーとして理解することができるだろう。
 堀部は冒頭で一万冊の本と仏壇が書庫に収められることによって、建物全体に血が巡り始めた感じがしたと述べている。仏壇はともかく、このコメントには深く共感する。書庫は次々に新しい書籍が届くことによって日々更新される。何度も述べるとおり、書庫とは記憶であり、私の書庫は祖父や父の蔵書も組み込むことによって家族の記憶でもあるのだ。更新される記憶とは個人を超えた身体のメタファーとはいえないだろうか。書斎/書庫で深夜、一人、本に向かう際に感じる安らぎはよく馴染んだ記憶に囲まれていることからもたらされているかもしれない。b0138838_1485980.jpg
by gravity97 | 2014-03-08 15:45 | エピキュリズム | Comments(0)

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 20世紀の美術史は展覧会によってかたちづくられたといっても過言ではない。印象派展から「大地の魔術師たち」まで、かかる系譜をたどることはたやすい。その中でも1960年代後半は展覧会の名が一つの運動の代名詞となるような歴史的な展覧会が陸続と開催された時期であった。私はその中でもほぼ同じ時期に開かれた三つの大展覧会が現代美術の極北を示していると感じる。すなわち1969年3月、スイスのベルン美術館における「態度がかたちになるとき」、同じ年の5月、ニューヨークのホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン 手続き/素材」そして70年5月に東京都美術館で開催されたいわゆる東京ビエンナーレ「人間と物質」である。これらはいずれもコンセプチュアル・アート系の作家を多く含み、通常の展覧会の形式を逸脱した作品が多数出品されていた。それらの作品は永続的なかたちをもたない場合が多く、今日では写真によってかろうじて展覧会の状況を知ることができる。
 このうち、ハロルド・ゼーマンによって企画された「態度がかたちになるとき」について、このところ関連する展示や出版が続いている。まず一昨年から昨年にかけてジェンス・ホフマンによって企画されたWhen Attitudes Became Form Become Attitudes、―「態度がかたちになるとき」が態度になるとき、といった意味であろうか―という展覧会がサンフランシスコとデトロイトを巡回した。現在活躍する80名以上の作家が参加したこの展示は「態度がかたちになるとき」へのいわばオマージュとして構想されており、図版で示すとおり、69年の展覧会カタログを踏襲した奇抜なデザインのカタログが刊行されている。このカタログにはジェンスとゼーマンの対談なども収録されていて興味深いが、出品作家について私はほとんど知らない。一方、国内では昨年10月にイオスアートブックスから発行された「Contemporary Art Theory」の創刊号にゼーマンが「態度がかたちになるとき」に寄せた序文などが訳出された。この批評誌のほかの記事もこのブログで応接すべき興味深い内容をはらんでいるが、今はひとまず措く。そして昨年のヴェネツィア・ビエンナーレの開催に合わせてプラダ財団でジェルマーノ・チェラントの企画によって69年の展覧会が再現されるという企画が開かれ、この際に刊行された大部のカタログを先日入手した。私は展覧会を実見していないが、このカタログ自体がきわめて充実した内容であり、今回はこのカタログをとおして69年/13年の二つの「態度がかたちになるとき」について考えてみたい。
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 今回のカタログでまず圧倒されるのは巻頭に365頁にわたって掲載された69年の「態度がかたちになるとき」の記録写真である。先に挙げた三つの展覧会のうち、「アンチ・イリュージョン」と「人間と物質」について、私はコピーも含めてカタログを所持しており、さらに前者については1995年に同じホイットニー美術館で開かれた「新しい彫刻」展でかなり入念なドキュメンテーションが残され、後者については当時の『美術手帖』などを参照すれば展示の状況をかなり具体的に確認することができる。したがってこれまでほとんど情報のなかったこの展覧会についてかくも詳細なドキュメントを与えられたことは幸運であったといえよう。あらためてこの展覧会に多くのエポック・メイキングな作品が出品されていることを知る。リチャード・セラの《ベルト》と《スプラッシング》は同じ部屋に展示されている。ヤニス・クネリスは穀物や石炭を麻袋に詰め、ボイスはフェルトと脂肪を出品している。ボイスがフェルトを床に重ねたのに対して、同じフェルトに切り込みを入れて壁に掛けたのはロバート・モリス、同じ部屋に設置されたロープ・ピースはモリスではなくバリー・フラナガンの作品だ。日本からは長沢英俊が野村仁を連想させるドライアイスの作品を出品していたことを私は初めて知った。セラの《スプラッシング》の傍らには思いがけずフィリップ・グラスの姿を認めることができるし、オープニングの来客の中にはパンザ伯爵もいる。これらの写真を眺めていると私はいつまでも見飽きることがない。
 これらの写真と一緒に詳細な会場の図面も掲載され、出品された作品の一つ一つに番号が振られてキャプションによって同定されている。無理もない。展示された作品は多く放置された素材の印象を与え、どれが作品でどれが設備か、判然としない場合も多いのだ。室内に置き忘れられたような金網や木箱、鉄パイプ、四角形に剥ぎ取られた壁面が作品であり、美術館の前の公道の窪みが作品なのだ。私がこの展覧会を現代美術の極北とみなす意味がおわかりいただけるだろう。この展覧会には「作品―概念―過程―状況―情報」というサブタイトルが付されている。いうまでもなく概念や過程、状況や情報といった本来はかたちをもたない要素が作品となるという意味であり、記録写真を見る限り、まさにそのとおりのことが発生している。ゼーマンはカタログに寄せた文章で次のように述べている。(ただしこのカタログにはゼーマンのテクストは収録されていない。先に言及した『Contemporary Art Theory』所収の河田亜也子の翻訳からの引用である)「(これまでこれらの作品に与えられた様々な名称は)形態に対する外見上の抵抗、個人的かつ感情に支えられた関与の度合の高さ、それまで芸術とみなされていなかった物体が芸術であるという宣言、結果から過程への興味の移行、ありふれた素材の使用、作業と素材の相互作用、作品の素材あるいは作品の場所としての母なる大地、または概念としての砂漠、という側面である」「この展覧会に出品している作家たちはいずれもオブジェの作り手ではない。反対に彼らはオブジェからの自由を希求し、それによってオブジェを超えた極めて重要な状況に至るようにオブジェの意味層を深化させる。彼らは芸術的過程が最終的な制作物や『展覧会』でも目に見えるようになることを望んでいる」最後の一文からはロバート・モリスの「アンチ・フォーム」の概念なども連想され、かかる気風が当時広くアメリカとヨーロッパで共有されていたことを暗示している。あるいは私はこれらの写真から、ここに展示された作品が数年後に日本で勃興する「もの派」の動向とあまりにも多くの共通点を有すことにあらためて驚く。「もの派」のオリジナリティーはもう一度検討されるべきではなかろうか。展示の雑然とした状況、そして炎(ゾリオ)やコンクリート片(ボエッティ)といった「素材」の使用、鉄球で公道を破壊するハイザーの所業などから68年の学生叛乱を連想しないでいることは難しいし、おそらくこのような印象は来場者にも共有されたのではなかっただろうか。過程や状況といった「関係」への関心からは当時注目されつつあった構造主義との関係を指摘することができるかもしれない。かくのごとくカタログに軽く目を走らせるだけでいくつもの発見や疑問が湧き上がるのは優れた展覧会の常とはいえ、ここで論じたいのは69年の展覧会ではない。むろんこのようなドキュメントが刊行された以上、その再検証は直接展示を見ることができなかった世代の研究者によって今後なされることとなろうが(このあたりの事情は例えば2001年に発表されたジェイムス・マイヤーによるドキュメントがその後のミニマル・アート研究に切り開いた可能性と比較できるだろう)、ここでは私は69年のベルンの展覧会がほぼ半世紀の時を隔ててヴェネツィアで「再現」されたことの意味について考えてみたい。
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 今回の展示はアルテ・ポヴェラを主導した批評家ジェルマーノ・チェラントの手によってヴェネツィアで「再現」された。69年の展示にはアルテ・ポヴェラの作家も多数参加したから、アルテ・ポヴェラ再興/再考といった意図があるのかもしれない。分厚いカタログには多くのテクストも収められており、いくつかには目を通したが、もしかするとこのあたりの事情を論じたテクストが収録されていたかもしれない。序文の冒頭でチェラントは展覧会以前、69年1月にゼーマンと面会し、作家に関する情報を交換したことを記している。チェラントが「アルテ・ポヴェラ」を企画したのは68年のことであり、二つの展覧会の出品作家はかなり重なっている。この意味でゼーマン亡き後、この展覧会を「再現」するうえではチェラントが最もふさわしい批評家であった。しかしそもそも69年のベルン美術館で開かれた展覧会を13年のプラダ財団で「再現」」―カタログではremakeとreconstructionの二つの言葉が用いられている―することは可能であろうか。例えば出品作家だ。カタログには二つの展覧会の出品作家リストが添えられているが、よく見ると微妙な異同がある。例えばダニエル・ビュランや長沢英俊といった作家が69年のリストには加えられていないが、13年のリストには挙がっている。しかし図版を参照するならば彼らはゼーマンの展覧会にも出品しているはずだ。単純な表記のミスか、深い意味があるのか、私としては判断する材料がない。しかしながら今回の展覧会がゼーマンの展覧会の可能な限り忠実な「再現」を目指していることもまた明らかだ。69年の出品作家はほぼ網羅されており、カタログの中には二つの展覧会を対照するかたちで69年の全出品作品のリストが付され、作品ごとにExhibited / Not Exhibited という表記によって今回の展示に加えられているか否かを確認することができる。さらにカタログには二つの展覧会の作品の配置図が掲載されており、驚くべきことに今回の展覧会ではプラダ財団の会場内にベルン美術館と同じ空間が挿入されるかたちで壁面が構成されたようである。カタログの表紙には会場のデコラティヴな装飾を分断するように白い壁面が設置されている写真が掲載されているが、おそらく仮設的な構造を用いてベルンの美術館の空間がヴェネツィアの宮殿に移設されたのであろう。カタログを参照するならばこのような再現に協力したのが建築家のレム・コールハースと写真家のトーマス・デマンドであり、チェラントと二人の短い対談も掲載されている。チェラントは当時の図面に基づいてまず作品が展示される空間を再現し、そこに存在した作品をあらためて再配置したのである。これが大変な事業であることは直ちに理解されよう。当時展示された作品のうち、かたちを有して今日まで伝えられている作品については現在の所蔵者と交渉して借用し、かたちをもたない作品については作家が存命であれば再制作を依頼しなければならない。69年の展覧会にはそれぞれの作家にとって代表的な作品が多く出品されているとはいえ、それから四半世紀以上経過した後に所在を確認し、作家と交渉する作業がいかに困難であるかは容易に理解される。ことにかたちをもたない作品に関して作品は再制作によって再現されるしかない訳であるが、この場合、オーセンティシティの問題も浮上する。つまり作品の真正性を保証するのは何かという問題だ。なおも作品と作家を結びつける発想が強い私たちにとっては同じ作家が時を隔てて同じ作品を制作することがその保証であると感じられる。しかし構造主義を経過した私たちにとって作品とは作家、時代、場所、素材といった要素の函数にすぎない。ロラン・バルトが作品に代わるテクストという概念を提起した今日において、作家だけをオーセンティシティの起源とする発想はもはや時代遅れだ。例えばソル・ルウィットは69年の展覧会に典型的なウォール・ドローイングを出品している。この際にルウィット自身が制作にあたったか否かは判然としないが、ルウィットが没した後に企画された今回の展示では「ル・ウィット・エステイトによる再現」という注釈とともに同じ作品が壁面に直接描かれている。ルウィットの場合は作家の生前より、作品の制作は作家が抱えるドラフトマンたちによって代行されていたので、今回の展覧会にも真正のルウィットの作品が出品されたことに疑いの余地はなく、この場合、作家は作品の起源ではない。コンセプチュアル・アートにおいては常に作品のオーセンティシティが何によって保証されるかという点が問われてきた。そして今回の展示では会場の同一性、つまり作品の配置がその根拠とされている。これはきわめて斬新な発想ではないだろうか。通常私たちは作品が選択、配置されることによって展覧会が成立すると考える。しかし13年のヴェネツィアにおいては作品が一つの展覧会において特定の位置、つまり69年と同じ場を占めることによって意味を与えられている。極言するならば作家も制作年も無関係なのだ。先ほど私はゼーマンの展覧会と構造主義の関係に触れたが、かかる意味で13年の展覧会はテクストの織物としてきわめて構造主義的な特質を有しているといえよう。
 しかしながら、この展覧会は多くの問題もはらんでいる。まず69年において革新的な意味を持った展覧会をおよそ半世紀後に再現することにいかなる意味を見出せるかという問題だ。美術、ことに現代美術はカッティング・エッジとして意味をもつ。今回の展覧会に関して目にした数少ない日本語によるレヴューが69年の展示を今日、再現することの意味を問う内容であったことは当然であろう。チェラントはゼーマンというビッグネーム、「態度がかたちになるとき」という歴史的な展覧会の権威を利用して、確信犯的に展覧会の再現という類例のない試みを挙行したといえるかもしれない。そもそも展覧会のアイデンティティーは何に求められるか。企画者のコンセプトか、展示された作品か、展示された場所か、あるいはカタログや記録写真か。この問題はなかなか奥が深い。ことに「態度がかたちになるとき」のごとき、実体的な作品を伴わない作品が多く出品された展示においては、たとえ同じ会場が使用されたとしても同一の作品を展示することは困難である。この問題を考えるにあたって一つのヒントを与えるのは、2005年、グッゲンハイム、ニューヨークにおけるマリーナ・アブラモヴィッチの[Seven Easy Pieces]であろう。アブラモヴィッチは歴史的なパフォーマンスを自らの身体によって再演するにあたって、それらのパフォーマンスを初演した作家の許諾を得て著作権料を支払っている。アブラモヴィッチの例はパフォーマンスにおいては作家の意図やコンセプトが実際の上演より重要である点を暗示している。今回の展示において、ゼーマンの展覧会に出品した作家もしくは遺族の意図はどのように反映されているのだろうか。この問題はさらに作品を再制作する権利は何に由来するかという問題へと敷衍されていく。今日、失われた作品を作家や美術館が「再制作」する例は数多い。しかしそれらのオーセンシティは何に求めることができるだろう。ちょうど一年前にグッゲンハイムで開かれた具体美術協会の回顧展についてはこのブログでも触れたが、そこにも多くの「再制作」が展示されていた。作家自らの手によるもの、国内の美術館が収蔵する「再制作作品」、そして現地で展覧会のために再制作された作品、かかるヴァリエーションの広がりはコンセプチュアル・アートの本質と直結しているように感じられ、この意味においても具体美術協会は戦後美術の出発点であった。
 この展覧会自体がいくつもの論考の端緒となる。展示を実見しておらず、まだカタログを読み込んでいない私としては、ここではひとまず問題の輪郭を粗描するに留めたが、あらためて展覧会という営みの批評性を痛感させる出来事であった。実際に展示を御覧になった方からコメントをいただくことができればありがたく感じる。
by gravity97 | 2014-03-01 21:39 | 展覧会 | Comments(0)