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ジェフ・クーンズは椅子から立ちあがったところだった。興奮のあまり両腕を突き出している。クーンズと向かい合って、白い革のクッションの上でやや体を屈めたダミアン・ハーストは、何か反対意見を述べようとしているらしかった。クッションの一部には絹織物が掛けられている。ハーストの顔は赤みを帯び、表情は陰気だった。二人とも黒いスーツ―クーンズのスーツは細いストライプ入り―に白いシャツという姿で、黒いネクタイをしめていた。二人のあいだに置かれたローテーブルには、フルーツコンフィがはいった籠が置いてあるが、両者とも見向きもしない。ハーストはバドワイザー・ライトを飲んでいる。
by gravity97 | 2014-02-26 22:26 | PASSAGE | Comments(0)

NEW ARRIVAL 140216

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by gravity97 | 2014-02-16 09:08 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

辺見じゅん『収容所から来た遺書』

b0138838_14132296.jpg 収容所にラーゲリとルビがふってあるから、ポーランドや北朝鮮ではない。スターリン治下のシベリア、矯正収容所ならぬ強制収容所を舞台とした感動的なノンフィクションが本書である。このレヴューでは内容の核心にも触れることをあらかじめお断りしておく。
 第二次大戦後、満州や樺太といった地域からソビエトの軍隊によってシベリアに連行された日本人は民間人も含めて60万人近くに及び、今なおその実数は確認されていない。彼らはシベリアの強制収容所に抑留され、苛酷な労働を課せられておよそその一割、7万人が抑留中に死亡したという。ソルジェニーツィンが「ベーリング海峡からボスポラス海峡にいたる」と形容した収容所群島は多くの日本人も巻き込みながら稼働していた訳だ。(ちなみにソルジェニーツィンが収容所生活を送ったのは1945年から53年であるから時期的にもここで描かれる内容とほぼ同期している)収容所内で信望を集めながら、無念にも病死した一人の抑留者の遺書が遺族のもとに死後三年を経て届けられる。しかし便箋二枚に認められた遺書は確かに夫が遺したものでありながら、夫の筆跡ではなかった。しかも同じ遺書はこの後、何度も妻の元に届けられる。昭和29年に病死した夫の「七通目」の遺書が届けられたのは昭和62年の夏、死後33年目のことであった。
 思わせぶりな書き方となったが、本書は決してミステリー仕立ての構成ではない。エピローグと筆者によるあとがきを読むならば、今述べた謎が明らかになるが、すでに本編の中でこの謎は解明されている。このノンフィクションは敗戦を経て多くの日本人(正確には韓国人や少数民族も収容されていた)が極寒のシベリア、強制収容所で味わった辛苦を記録するのみならず、そのような境遇でも友情と連帯が存在したこと、言葉や文学が希望を紡いだことを証して深い感銘を呼ぶ。本書の魅力はなによりも抑制された筆致にあるだろう。例えば同じシベリア抑留を扱った小説として私は山崎豊子の『不毛地帯』の冒頭を想起する。そこでは本書にも登場する関東軍参謀、瀬島龍三をモデルとした壹岐正という人物の受難が描かれる。これに対して本書には壹岐のごとく英雄然とした人物は一人も登場しない。それどころか最初のいくつかの章を読む限りではどの人物が主人公として焦点化されるかさえも明確ではない。フィクションである『不毛地帯』の劇的な構成と対照的な語りからは、むしろ「こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに3653日あった。閏年のために、3日のおまけがついたのだ」という印象的な一文で結ばれるソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』が連想されるだろう。そしておそらくこのような単調さこそが収容所の生活を正確に反映している。しかし私たちの主人公は無事に「刑期を終える」ことはできなかった。
 プロローグから第一章にかけて時間的なカットバックの手法が認められるが、語られる物語はほぼ時間軸に沿っている。第一章はウラルのスベルドロフスク、第二章はハバロフスクにあった収容所を舞台としている。プロローグにおいては日本に帰国するため、スベルドロフスクから列車で移送される日本人たちの中の数名がハバロフスク直前で呼び出され、何処へともなく連れ去られる。その中の一人、ロシア語の通訳をしていた山本幡男という人物のスベルドロフスク、ハバロフスク、二つの収容所における活動が次第に浮かび上がるにつれて、読者は山本こそ本書の主人公であることを理解する。といっても山本は英雄的な行動とは無縁である。「ウラルの日本人俘虜」「赤い寒波」と題された最初の二章においては、むしろ収容所の日本人たちの日常、彼らが置かれた厳しい状況が丹念に書き込まれる。極寒のシベリアにおける容赦ない強制労働、乏しく貧しい食糧、寒さと南京虫やシラミに苛まれる毎日、ソビエト兵たちの暴行と日本人同士の密告と反目。私には想像すらできない地獄が広がっていたことはおぼろげに理解できる。私はこのブログの中でこのような極限状況を主題としたいくつもの文学やノンフィクション、思想書について論じた。ナチスの絶滅収容所とは異なり、ラーゲリは囚人の絶滅を目的とはしていなかった。(ソルジェニーツィンが『収容所群島』の中で描くとおり、囚人は「機械を用いずに運河を造る」ための労働力であったから死んでいるよりは生きている方が望ましい)しかし帰国の展望もないまま、異郷で苛酷な労働を強いられる虜囚たちの心境はいかなるものであっただろうか。一方で収容所を管理するソビエト側としては、多く軍属の収容者を効率的に就労させるためには日本軍というシステムを収容所に組み込む必要があった。このために管理側によって「シベリア民主運動」が組織され、しかもそれは次第に変質する。この経緯を辺見は厚生省の記録に基づいて三期に分類している。すなわち当初の「懐柔期」、抑留一年目以降の「増産期間」、そして昭和23年以降の「教育期間」である。ソビエト側の対応、ラーゲリの組織化はこの三期で大きく異なるという。すなわち「懐柔期」においては日本軍の位階制は温存され、兵士と将校は待遇を違えたまま遇された。ハーグ条約が適用されていた訳である。しかし敗戦によって日本軍の組織は既に意味をなさなくなっていた。「増産期間」には兵士たちの中でもインテリ層がかつての将校に反抗し、ソビエト側の巧みな指導に基づいて「反軍」「反帝国主義」闘争が引き起こされ、マルクス主義の学習会が組織された。しかし「教育期間」になると「増産期間」を主導したインテリ層は理論先導、教養主義的としてむしろ排斥される。代わってソビエト指導部の方針に盲従し、活動的な農民、労働者層の人材が重用され、思想的に洗脳されたうえでアクチブと呼ばれる攻撃的な指導層となった。アクチブたちは「前職者」、つまり戦時中に日本軍に協力した収容者を狩り出しては吊し上げて糾弾した。本書中に山本が「豆を煮るに豆殻を焚く」という中国のことわざを引用する場面があるが、逆境の中で同じ日本人同士が互いに協力することなく、ソビエト側に対して密告や告発を繰り返す状況はラーゲリの地獄の一端をかたちづくっていただろう。かつて社会主義運動にも参加したインテリ、山本の境遇はこのようなパワーバランスの中で大きく変化する。「増産期間」において山本は「日本新聞」という収容所当局に翼賛的な新聞と関わり、同志会という勉強会を主宰する。しかし「教育期間」にいたるや「前職者」の烙印を押されて、アクチブたちの糾弾の標的とされたのであった。もっとも山本は決して社会主義に共感をもつインテリとして収容所の体制に迎合した訳ではなかった。山本は同志会の友人の不慮の死に対しては当局に猛然と抗議し、収容所の中で秘密裡に句会を主宰する。第三章の「アムール句会」においては「教育期間」の寒々とした相互監視の中で山本を中心として「アムール句会」と名付けられた句会が密かに続けられた状況が明らかになる。誰がスパイかわからぬ状況下にあって、句会の存在は信用できる相手にしか伝えることができない。そして収容所の中で文字を残すことはタブーであるから、参加者たちはセメント袋を短冊として用い、煤煙を水に溶かした墨汁と馬の尻尾を用いた筆で句を清記し、句会が終わると短冊は土に埋められ、刻んで便所に捨てられたのだ。私は極限的な状況において俳句という営みが彼らの生のよすがとなった点に感銘を覚える。かつて私はこのブログで「死刑囚」、大道寺将司の『棺一基』という句集について論じた。極限状況で死と向かいあうことを余儀なくされた人々が言葉、それも俳句というミニマルな表現形式を選んだことに私は一つの必然性を感じる。言い換えるならばわずか17文字で表現される俳句という言語芸術は死に拮抗しうるのだ。私はそれが31文字の短歌ではなく俳句であることに興味を抱く。
 考えてもみるがよい。わずか17字の文字を残す。それさえもラーゲリでは懲罰の対象となりえたのだ。このブログのごとく、自由に自分の思考を開陳することが自由ではない状況や体制がありうることを本書は明らかにする。しかし逆に自らの感慨を17字の文字に置き換えるというただそれだけの営為が多くの抑留者の人間性をかろうじて繋ぎ留めたのではなかろうか。極限的な状況において鉛筆や絵筆、あるいは楽器を手にすることで人がその尊厳を保ちえたというエピソードは珍しいものではない。創造とは人にとって精神の自由の証であるからだ。いかなる境遇であっても人は精神が自由である限り、人間として生きることができるのだ。ペンと紙がなくとも山本たちはセメント袋と溶かした煤煙でかかる尊厳を確保した。山本が句会を始めたことによって、多くの抑留者は精神的な拠り所を得る。山本の朴訥な人柄、そして句作への熱意は多くの友人の魂を救ったのではなかろうか。それゆえ山本は多くの抑留者に慕われ、本書は過酷な記録ではあるが救いがある。おそらくこれは先にも述べたとおり、シベリアの収容所が囚人たちに強制労働を強いたとしても絶滅収容所でなかったことと関係しているだろう。抑留者たちの生活は悲惨であるにもかかわらず、本書にはナチスの絶滅収容所でムーゼルマン、回教徒と呼ばれた歩く死体のような人々についての記述はない。この点は証言の可能性という問題と関連して深く思考されるべきであろう。
 抑留が長期化するにつれ、収容所をめぐる状況は次第に改善される。相変わらず収容所の監督たちによって酷使されながらも、抑留者たちは少しずつ余裕を得て、正月を祝い、野球や演劇に楽しみを見出すことができるようになる。昭和27年6月には日本との手紙のやり取りが許可される。もちろん当局の検閲は介在するが、抑留者たちは自分たちの無事を日本の家族に知らせ、近況を伝えることができるようになった。文通の再開は抑留者たちに悲喜こもごもの反応を引き起こす。第四章の「祖国からの便り」においてはこのあたりの事情が多くの証言をもとに詳細に語られる。そしてスターリンの死と、いわゆる雪解けを経てついに一部の抑留者の帰国(ダモイ)が実現されることになる。しかしこの時、山本は病に冒され、死の床にあった。長い抑留生活は確実に病状を悪化させ、山本は帰国を前に死を覚悟して、母、妻、そして子供たちに宛てて三通、そして「本文」と題された前置き、合わせて四通の遺書を書く。文字を残すことは禁じられている。いかにしてこの遺書は遺族のもとに伝えられたか。遺書が記されたノートの最初には次のように書かれていたという。「敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において親しき交わりを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝に銘じ給へ。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ。七月二日」病室で没する二月前に書かれたことが日付からわかる。なんと山本は記憶によって遺書を遺族に伝えるように依頼したのである。残された仲間たちはこれらの遺書、特に子供たちに宛てた遺書が単に個人の遺書ではなく、ラーゲリで空しく死んだ人々が祖国のすべての人へ宛てた遺書であることと理解し、山本の願いを実現しようとする。もちろん遺書を所持していたことが露見すれば直ちに営倉送りになる。任務を担った者たちは手分けをして、遺書の写しを隠し持ち、時折読み返しては自分の暗誦している内容と一致しているかを確認する作業を繰り返すこととなったという。このようなエピソードから連想されるのはレイ・ブラッドベリの『華氏451度』の最後の場面ではなかろうか。未来世界において、本を焼くことを職務としていた主人公モンターグは次第に焚書という行為に疑問をもち、ついには当局から追われ、レジスタンスたちと合流する。どんな本を持ち出したのかと尋ねるレジスタンスの指導者に対してモンターグは「伝道の書」と「黙示録」の一部であると答え、本の所在を問われると自分の頭を叩いてみせる。これに対して指導者は自分がプラトンの「共和国」であると答えるのだ。b0138838_14142121.jpg
 山本の没後三年が経過した昭和32年、大宮に住んでいた山本の妻のもとをシベリア帰りの山村昌雄と名乗る男が訪れ、「私の記憶してきました山本幡男さんの遺書をお届けに参りました」と告げ、便箋を渡す。続いて野本貞夫という抑留者から便箋25枚にわたって山本の思い出と死亡当時の状況、「遺書」と山本が遺した多くの詩や句を記録した手紙が届く。さらに愛知県からは「子供等へ」の遺書、兵庫県からは「妻よ!」の遺書が届く。そして福岡からは瀬崎清が字体まで真似て遺書全文を写したノートを持参する。その半年後、同じ島根県の県人会に属す新見此助から六通目の遺書が届いた。遺書はこれが最後ではなかった。最初に書いたとおり、33年後の昭和62年に横浜から七通目の遺書が届いた。それは糸巻きにカモフラージュして組み込まれ、実際に暗誦に用いられた写しの現物であった。
 ここに登場する人物は名も職位も無き存在であり、ここで語られる物語も辺見のルポルタージュがなければ世に伝えられなかった可能性は大いにある。しかしここで明らかにされる物語は私たちの胸をうつ。私たちはここから何を読み取ることができるだろうか。遺書/手紙の遅延というモティーフはポーの『盗まれた手紙』からマルケスの『コレラの時代の愛』にいたる文学上の主題系列を形成する。あるいは宛先に届いた手紙とは死の暗喩であるというデリダ/ジジェク的な解釈も収容所という場を念頭に置く時、いくつかの問題を提起するかもしれない。しかし私は次の二つの点のみを指摘して本論を終えたい。本書には山本の遺書以外にも多くのテクストが収められている。多くはシベリアで作られた詩や句である。先にも述べたとおり、収容所では文字を残すことは禁じられていたから、これらの詩や句も多くは記憶を介して今日に伝えられたはずだ。おそらく俳句という短詩形は記憶するうえでも比較的容易であり、それゆえラーゲリの極寒をも生き延び、今日に伝えられたのであろう。なぜアムール句会の参加者は大きな危険を冒しても、収容所の中で句作したのか。先にも述べたとおり、私は俳句を作ることは彼らにとって生きる理由となったのではないかと考える。人はパンのみで生きるにあらずという。極限的な生活であるからこそ、創造あるいは芸術は必要とされたのではなかろうか。芸術という営みが人間にとって本源的であることを本書は示唆している。多くの場合、芸術はなんらかの記録として残される。しかし記録が存在を許されない世界が存在する。書き付けが見つかれば帰国途上であってもシベリアに逆送されるかもしれないというリスクを負って抑留者たちは山本の遺書を伝えねばならなかった。あるいは収容所の真実をわずか四枚の写真によってしか「もぎ取る」ことができなかったポーランドの絶滅収容所。直接にはマッカーシズムへの批判として構想されたブラッドベリのディストピア小説はこのような世界の暗喩である。しかしこのような世界にあっても記憶は存在しうる。物理的な記録が焼き尽くされた時、記憶こそが唯一の抵抗手段なのである。「収容所から来た遺書」は芸術による救済と記憶による抵抗の物語だ。そして記憶が私たちの身体と分かち難く結びついている以上、生ある限り抵抗への希望は存在するのだ。
by gravity97 | 2014-02-04 14:27 | ノンフィクション | Comments(0)