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Living Well Is the Best Revenge

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 国立国際美術館で「あなたの肖像 工藤哲巳回顧展」を見る。国立国際美術館で工藤の回顧展を開くのは二回目であり、現在の中之島に移転する以前、千里にこの美術館があった頃、1994年の回顧展にも私は足を運んでいる。国立美術館で同じ作家の回顧展を二度開くことは異例であり、600ページにも及ぶ厚さのカタログとともにこの作家に対する美術館の力の入れ方が理解できよう。94年の回顧展は岡山へ巡回したように記憶しているが、今回も東京国立近代美術館、青森県立美術館への巡回が予定されているから、この異端の作家の認知度が高まることは間違いない。
 工藤哲巳は1935年に大阪で生まれ、青森、岡山で青少年期を過ごした後、東京藝術大学に入学し、読売アンデパンダン展などで数々のスキャンダラスな作品を発表した。1962年にはパリに渡り、以後、パリを拠点としてヨーロッパで活動する。80年代以降はパリと日本を往復しながら作品の発表を続け、87年には東京藝術大学の教授に就任して私たちを驚かせた。しかしこの時すでに工藤は癌に冒されており、90年に55歳の若さで没した。94年の展覧会カタログには巻末にそれまでに判明している作品の300点に及ぶカタログ・レゾネ(ただし図版は一部)が付されていたから、ある程度の調査の蓄積はなされていたと考えられようが、今回の展示では作品の量も格段に増え、海外からも多くの作品が借用されている。工藤の作品はフラジャイルな素材で制作されている場合が多いため、輸送や展示にもずいぶん気を遣ったはずだ。美術館の力業という印象が強い。
 前回の回顧展でその全貌を見知っていたため、作品そのものに驚きはなかった。アンフォルメル風の絵画やアクション・ペインティングに始まり、たわしと紐を用いた一連のオブジェ、ペニスを連想させる「インポ哲学」の作品群、人体の一部が剥げ落ちたようなグロテスクなオブジェ群、鳥かごの中に身体器官や植物を配置した悪趣味な作品、そして糸巻きや凧を模した早すぎる晩年の作品、所狭しと展示された異様な作品の数々には圧倒される。中でも圧巻は一室全体を占拠する《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》である。1962年の第14回読売アンデパンダン展に出品され、大きな話題を呼んだこの作品はインスタレーションの早い例というか一つの部屋全体を用いた造形であり、それゆえ再現不可能であると考えられていたが、その後、オランダのコレクター、フリッツ・ベヒトによって収集され、現在ミネアポリスのウォーカー・アート・センターに所蔵されている。私は今年初めにニューヨーク近代美術館で開かれた「TOKYO 1945-1970」展にこの作品が出品されているのを見て大いに驚いたのであるが、今回の展示はその際と全く印象が異なる。ニューヨークではペニス状のオブジェは天井から吊された状態であったため数も限られており、正直言ってさほどの衝撃はなかった。しかし今回はペニス状オブジェが吊されるのみならず三面の壁の上のあちこちに密集し、観者は作品の中にインヴォルヴされた状態となる。このような展示が最初の発表に近いことはいうまでもない。あるいはデッキチェアの上に崩れ、溶けかけたような身体器官がなすりつけられた不気味な《あなたの肖像》がいくつも並べられたコーナー、鳥かごの中に不気味なオブジェがぎっしりと詰め込まれた作品が一堂に会したコーナーも衝撃的である。前回の回顧展に比して明らかに出品作品の数は増え、しかも代表的な作品が加えられている。前回は含まれていなかったベヒト旧蔵の代表作が内外の美術館に収蔵され、今回展示された意義は大きい。カタログを確認するならば、この展覧会に対して工藤夫人の全面的な協力があったことがわかるが、それにしても先に述べたとおり、作家としてのキャリアを海外で築いた作家についてこれほど多くの情報を集めることが大変な作業であったことは直ちに理解される。私がこの展覧会を力業とよぶゆえんであるし、この展覧会は一人の作家の回顧展のいわば理念型を示している。カタログの中にはこの展覧会を企画した担当者による20章から成る編年体のドキュメントが添えられ、工藤の歩みが手に取るようにわかる。前回の回顧展で試みられたカタログ・レゾネ・イン・プログレスの試みはさらに拡大されて、今回は448点に及ぶ作品が図版付きで掲載されている。このような展覧会が開かれ、カタログが作成されたことは作家にとって幸福なことであり、美術館が本来なすべき務めを果たしたということもできようが、それは国立美術館の潤沢な予算と多くのインターン・スタッフの存在によって初めて可能とされている点を忘れてはならないだろう。
 当然ながら展覧会を見て多くの発見があり、多くの思考が誘発された。先般、このブログでハイレッド・センターの回顧展について触れたが、オブジェという問題に関して、60年前後に近似した意識が共有されていたことがあらためて理解される。廃品の使用、アッサンブラージュの導入といった点において工藤と同時代の作家たちにさほど距離はない、それどころか紐という素材の導入において工藤と高松は一致するし、大量生産される卑俗な品物という点で工藤のたわしと中西の洗濯挟みに大きな差異はないように感じられる。工藤のオブジェが読売アンデパンダン展の中で独自性があったとすれば、ペニスを連想させる形態を導入したことであろうが、これとて赤瀬川の《ヴァギナのシーツ》や工藤の盟友であった吉岡康弘が出品してたちまち撤去されたという女性器の超拡大写真、TOKYO展にも出品されていた菊畑茂久馬の《奴隷系図》の丸太に添えられたペニスとヴァギナを想起するならば工藤のみによって探求された主題とは考えにくい。いかなる集団にも属さず、出品した時期も短かったにもかかわらず、工藤が読売アンデパンダン展の中核的な作家とみなされたことには理由があるだろう。このように考えるならば、工藤が真に表現のオリジナリティーを獲得したのは、フランスという異郷に渡り、ヨーロッパ文化を相対化して批判する視座を獲得した後と考えることができよう。後から述べるとおり、私は工藤の西欧批判、ヒューマニズム批判が作品によって十全に実現されているとは考えないが、少なくともこのような視座をもちえたことによって、工藤はしばしば類比が指摘されるエドワルド・キーンホルツやブルース・コナーといったアメリカのグロテスク・リアリズムの作家よりもはるかに深い問題を提起している。
 それにしてもヨーロッパでの工藤の活躍はめざましい。展示というよりもカタログを通して知ったのだが、工藤は渡仏して1年も経たないうちにきわめて重要なハプニングを挙行している。それはジャン=ジャック・ルベルの誘いに従って参加した63年2月のブローニュ映画撮影所における「破局の精神の悪魔祓いのために」である。ペニスか芋虫を連想させるグロテスクなオブジェをからだに縛りつけてのたうちまわる工藤のショッキングな写真は今回の展覧会のポスター等にも使用されていたが、この際に用いられたオブジェが先に読売アンデパンダン展の《インポ分布図》で使用されたものであったことを私は今回のカタログを読んで初めて知った。つまり読売アンデパンダン展からこのハプニングまでは一つの連続として捉えることができる訳だ。さらにこの時のハプニングの模様はアラン・カプローの大著『アッサンブラージュ・エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス』にも収録されている。早速、同書を確認したところ図版に示したような写真が確認できた。
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下の図版で工藤の左上に写っている女性はパリでギャラリーを開いたばかりのイリアナ・ソナベントであろう。ソナベントは工藤が滞在中のホテルの部屋を用いて作品を展示した際にもその場を訪れたという記述がカタログ中にあるが、かくも早い段階で工藤がヨーロッパとアメリカを結ぶ作家、ギャラリストたちのネットワークに接続していた点には驚く。そして工藤にとってニューヨークでなくパリを拠点に活動したという点は決定的に重要であるように感じる。60年代初めから開始され、展覧会のタイトルともされた「あなたの肖像」は工藤がいうところのヒューマニズム、人間中心主義を挑発、批判するにあたってはヨーロッパという前提が不可欠であったと考えるからだ。「あなたの肖像」はいくつもヴァリエーションをもち、単純に総括することは難しいが、多くが断片化された身体器官のアッサンブラージュとして構成され、しかもそれらは抜け殻、ケロイド、培養や増殖といったグロテスクなコノテーションをはらんでいる。ヒューマニズムの象徴として例えば劇作家イヨネスコのマスクが用いられ、工藤はこれに執拗な攻撃を加える。工藤がヒューマニズムを批判する際のキーワードは養殖、放射能、エコロジーといったものであるが、カタログの中でも指摘されているとおり、養殖 cultivation とは語源的に文化 culture や文明 civilization と関連し、放射能という言葉が3・11 以後の日本人に対してもつ意味については論じるまでもなかろう。さらに工藤の用語法はエコロジーという言葉が使われたきわめて早い例である。私はここから工藤の先見性や予言性を評価する見方には必ずしも与しないが、重要な問題であることは間違いない。
 70年代中盤より工藤の作品に転機が訪れる。78年、工藤はベルリンに長期滞在するが、その前後より経済的な困難、長女の出生に伴う夫人の多忙などを背景に工藤はアルコールに依存した生活を送るようになる。80年にパリで入院を伴う治療を受けたことによって、依存症から回復した工藤は作風を変え、オブジェは攻撃性よりむしろ内省的、思索的な性格を強める。それまで攻撃の対象とされていたイヨネスコのマスクに代わってパスカルのマスクが用いられることが増え、作家によればそれは自画像でもあったという。作品は多く鳥かごを枠組として、最初はグロテスクなオブジェが詰め込まれていたが、次第に色とりどりの糸が封じられるようになる。糸は綾取り、そして染色体といった多義的な意味をはらんでいる。80年にポンピドーセンターで行われた「灯は消えず」というセレモニーは白装束を身にまとった工藤が賛美歌と般若心経が流れる中、黙々と綾取りをするという内容であり、60年代の過激なハプニングとの相違は明らかであろう。これ以後、工藤はパリと日本を往還しながら生活するが、ほぼ同じ時期に70年代の工藤の仕事の大半に使用された鳥かごは用いられなくなる。中原佑介が「最大級の脱皮」と呼んだ情念的なオブジェとの決別である。工藤といえばグロテスクなオブジェのイメージがあまりにも強烈なため、私はかつての回顧展を見たことがあるにもかかわらず、作風の展開という点に思いをめぐらせることがなかった。しかし今回の展示を見て、80年頃に作品の大きな断絶があることにあらためて気づいた。これ以後、工藤は色のついた糸という素材を用いながらもそれを円錐形、円筒形、もしくは球状に巻きつけた比較的シンプルなオブジェを発表する。絡み合った紐状のオブジェという点で初期の作品を連想させないでもないが、両者の間には決定的な差異が存在するように感じた。工藤はこれらの作品に「天皇制の構造」というタイトルを与えたが、展示を見て、カタログを読んでも作家の意図するところは必ずしも判然としない。むしろ津軽塗や津軽凧といった工藤の生まれ育った環境との関係がうかがえる。80年代後半は闘病の時期でもあったから、作品がサイズとしても小さく、やや弱い印象があることは否めないにせよ、この時期の作品については今後さらに多様な角度から検証されることが望まれる。
 工藤の仕事の全幅に触れる体験は多くの発見と同様に、あらためてこの作家の限界についても思いを巡らす契機となった。この点は工藤が同時代の多くの作家が向かったニューヨークではなく、パリを拠点に活動したことと関係しているだろう。工藤はヨーロッパのヒューマニズムを徹底的に批判した。工藤によれば人間は自由にはなりえないし、今やヒューマニズムの破産は自明である。作家はそれを環境汚染や放射能といったキーワードをとおして作品化した。しかしアンチ・ヒューマニズムもヒューマニズムの一側面とは考えられないか。それは人間という存在を前提としている。「ヨーロッパから学ぶものは何もない」と信じていた工藤さえも西欧近代という磁場の中に呑み込まれてしまったといえるかもしれない。確かに工藤は断片化された人体、痕跡化された人間、養殖される身体器官といった一連のグロテスクな作品をとおして、人間を世界の中心に置く思想を否定した。しかしそれはネガティヴに人間の存在を認めることである。少し厳しい言い方をするならば、私は工藤の仕事はシュルレアリスムのリヴァイヴァルではなかったと考える。シュルレアリスムも人間の理性や意識を否定した。しかし人間そのものを否定することはなかった。工藤の仕事も人間という前提がなければ成立しえない。具体的な作品に即して論じよう。この意味でも今回の展覧会はきわめて興味深い対照例を用意している。工藤は活動の早い時期にペニスを模した一連のオブジェを制作する。それは時には天井から吊るされ、かごの中に入れられ、時に作家自らが装着した。私たちはほぼ同じ時期にやはりペニス状のオブジェを発表したもう一人の作家をたやすく思い出すことができる。いうまでもなく草間彌生であり、実際に常設展示においてはペニスを家具の上に密集させたこの美術館が所蔵する優れた作例が展示されていた。しかしこれら二つのペニスは対照的といってよい。工藤のペニスは例えば芋虫、あるいはさなぎといった気色悪いコノテーションを伴い、作品の中心に位置する。これに対して銀色に塗られた草間のペニスはそのような連想を拒み、作品の中心というより単なる構成要素として、アッサンブラージュによって独特の効果をあげている。つまり作品におけるデノテーションとしてペニスが問題とされているのだ。別の言葉を用いるならば、工藤のペニスはその場に不在の不吉な記号と関係を結ぶことによって暗喩的に機能する。しかし草間のペニスはどのように配置されるかという点において換喩的に機能するのだ。この意味で私が工藤における興味深い例外と考えるのは《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》である。この作品は単にペニス状オブジェの空間への拡張として成立しているのみならず、ペニスのメタファーに依存することなく一つのエンヴァイロメントの形成が試みられている。しかし多くの場合工藤のペニスは様々なコノテーションを秘めて作品の中心に君臨する。意味論的にそれはシュルレアリスムのオブジェと変わるところがない。これに対して草間のペニスは多く中性的な銀色に彩色され、空間を埋め尽くすように増殖する。それ自体のメタフォリカルな意味を逓減し、空間的、形式的な問題へと接続するのだ。草間のネット・ペインティングも同様の問題意識をはらんでいることは言うまでもない。そしてそれを最初に評価したのがドナルド・ジャッドであった点に注意を喚起しておこう。私の考えではミニマル・アートこそヒューマニズムと全く別の位相で作品を構想する重大な契機であった。それは工藤のような反ヒューマニズムではなく、端的に非ヒューマニズムとしての芸術へと道を開いた。ミニマル・アートはなおも観者の身体を要請したが、人間とは無関係に美術が存在しうるという発想は彼らに後続する一連の作家、例えばリチャード・セラやロバート・スミッソンの作品において実現され、全く新しい美術の地平を瞥見させた。しかしヨーロッパの重い歴史と戦った工藤にとっては、圧倒的な伝統としてのヒューマニズムに対してアンチ・テーゼを提出することが最重要の課題であり、ヒューマニズムとは無関係に美術が存在しうるという発想はありえなかったのではないか。この時、工藤にとって反ヒューマニズムは可能性であると同時に限界であったのだ。
by gravity97 | 2013-12-30 08:58 | 展覧会 | Comments(0)

岡田利規『地面と床』

 小説家を「炭鉱のカナリア」に準える発想はカート・ヴォネガットに由来し、大江健三郎がどこかで論及していたと記憶している。炭鉱夫は坑道に入る際にカナリアを入れた籠を携える。坑道の空気が悪化した場合、まずカナリアが異常を察知するはずだ。その挙動によって鉱夫に空気の不調を知らせるカナリアのように、表現を生業とする者は時代の空気の不調を最初に感知し、いちはやく社会にそれを警告する義務を負うという。
 私たちの社会も今、著しい不調の中にある。この不調が震災と原子力災害に由来するものであることは明らかだ。あれから二年以上が経過するが、何も解決されないまま時間ばかりが経過している。被災地の「復興」は滞り、原子力災害の責任者たちは誰一人として処罰されず、フクシマの地から流亡した人々は今も故郷に戻ることができない。一方で恥知らずの政権は原子力発電所の再稼働と海外への輸出を画策している。かつて私はこれほどの無力感に襲われたことはない。この国がおそらくは戦争と全体主義の地獄へとずるずると引き込まれていくことを自覚しながら拱手するしかない自分への無念さがある。以前にも記したが、私は5年前、自分がこれから出会う芸術に関わる楽しみに言葉を与えることを目的としてこのブログを開設した。しかしながらこのブログの持続的な読者であれば直ちに理解していただけると思うが、3・11以後、私はいかなるレヴューであっても自分が置かれた危機と無関係に論じることができなくなってしまった。スティーブン・キングのおよそ非現実的なホラーについて論じながらも、私は常に自分たちが置かれた現在へと思いを向けてしまうのだ。私は作品を形式的に批評することを身上としているから、作品にコメントした後に時評的な苦言を添える床屋談義的な物言いは好きではない。このブログが最初と比べて愉快でない、あるいは読みづらくなっていたとするならば、その理由は明らかにこの点にあるだろう。しかし着々と戦争への準備が進められる今日、私はいかなる表現も時代から自由ではないことをあらためて強く感じるし、少なくとも戦争前夜という状況を意識した表現についてはこのブログの中で記録として留めておきたいと考える。b0138838_21461545.jpg 例えばしばらく前になるが、私は神奈川県立近代美術館で「戦争/美術 1940-1950」という展覧会を訪ね、先般、兵庫県立美術館で「昭和モダン 絵画と文学」という展覧会に足を運んだ。どちらも企画力のある美術館らしい堅実でレヴェルの高い展覧会であったが、私は前者からは日本が破滅的な戦争にいたる1940年代の美術が表現のうえで決して戦争による断絶や中断を伴うものではなく、一続きの営みであったことを認識した。おそらく私たちも日常を繰り返す中で気がつかないうちに戦争と統制の時代に足を踏み入れていくのであろう。さらに後者からは貧困の差が拡大し、弱者が弱者であることの責任を問われる倒錯した現在がプロレタリア芸術運動の勃興する1930年前後の日本と何ら変わることがないことをあらためて思い知った。これらの展覧会は私たちの現在を照射する目的で構想された訳ではない。しかしいずれの展示もかつての暗い時代が今まさに反復されつつあることを暗黙裡に語っていた。

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 前置きが大変長くなった。先日発売された『新潮』を読む。この号のハイライトは蓮實重彦による「『ボヴァリー夫人』論」であろう。はるか以前から予告され、まもなく筑摩書房から刊行される大著の序章と第一章が掲載されており、いかにも蓮實らしい独特の文体と綿密な考証は圧倒的である。この大著については全貌が明らかにされてから論じるとして、今回、私が取り上げるのは岡田利規の新作戯曲「地面と床」だ。震災後に構想され、既にヨーロッパを巡回し、京都公演の後、ちょうど今、横浜で公演されているこの舞台を私は未見である。しかし今回、戯曲を読んだだけでも私は岡田の問題意識の深さ、そしてそれが紛れもなく現在の日本と深く結びついていることを知る。東日本大震災に対してすでに多くの表現が応じていることはこのブログでも論じたが、震災ではなく震災後の世界を描いたこの戯曲は、私には震災後まるで箍(たが)が外れたかのようにどこまでも崩れていくこの国の未来が投影された「炭鉱のカナリア」のように感じられたのだ。
 いつもどおりこの舞台もセットはシンプルで登場人物も少ない。私は岡田利規についてはチェルフィッチュによる二つの舞台と『遡行』という演劇論集を読んだ程度の知識しかないが、戯曲のみによっても舞台の模様、上演の様子はおおよそ想像できる。冒頭の記述によれば、舞台上に存在するのは板張りの床のみであり、その背後に字幕を投影するためのスクリーンが張り渡されている。舞台の上手には円形のふくらみをもったオブジェが置かれ、塚をあらわしている。舞台装置としてはこのほか舞台上手端に姿見大の鏡が置かれているが、観客からは見ることのできない方向に向けられているため、その存在に最後まで気づかない観客もいるという。登場人物は五名。由多加と由起夫という兄弟、二人の母で既にこの世になく、幽霊とも名指しされる美智子、由多加と妻である遙、そして由多加たちがかつて助けの手をのばしたが引きこもってしまった、さとみという女性である。かくも抽象的で禁欲的な舞台は俳優の身体さえも必要としないかのようだ。しかし「地面と床」はレーゼドラマでありえない。なぜならばこの舞台は常に複数の言語と関わっているからだ。先に舞台装置としてスクリーンを挙げたが、このスクリーンについては次のような記述がある。「これは、字幕を投影するためのスクリーンである。この劇のすべてのせりふは、もちろん日本語で語られるけれども、そのとき必ず外国語、たとえば英語や中国語の字幕が投影される。ときどき、せりふではない文が、文字として投影されることがある。このときは日本語も投影される。日本語の字幕はこの十字の中に垂直方向に投影され、外国語の字幕は水平方向に投影される」末尾に記されているとおり、この舞台は2013年5月にベルギーのクンステンフェスティヴァルバザールで初演された後、ヨーロッパ7都市を巡回した。外国語による上演に際してはせりふの翻訳が上映されることは珍しいことではない。しかし日本で上映される場合、「地面と床」における言語の投影は単なる翻訳ではなく、私たちを取り巻く多言語的な状況を暗示しているといえるだろう。劇作家そして演出家としてのキャリアをむしろ国外で築いた岡田にとって(この経緯についてはこのブログでもレヴューした『遡行』に詳しい)複数の言語を並置する手法は必要に迫られたものであったかもしれないが、日本人である私たちにとって日本で上演され、日本語で語られる台詞が外国語に翻訳されるという状況は不自然に感じられる。しかしこの点こそが重要なのだ。端的に述べるならば、この舞台は海外で見るか日本で見るかによって意味が異なる。海外であれば字幕は上演の補助手段にすぎないが、日本人にとってそれは不必要な過剰である。それにもかかわらずなぜ多言語が導入されるのか。現在の私たちの多くにとって「グローバリズム」を反映した多言語状況は決して快いものではない。日本語によって意思疎通が可能であるにもかかわらず、現実において私たちの生活の中にもほかの言語、しばしばリンガ・フランカとしての英語が介入しつつある。背後に投影される字幕の速度にいらつきながら、さとみは次のように述べる。「電車とかバスとか乗ると思うんですけど、そうすると英会話の広告とかってものすごくいっぱいあって目に入ってくるじゃないですか、あれをみるとなんかすごく脅迫されてるみたいな気がしてヤーな気持ちになるんですよね、なんか、これからの時代英語できないやつは社会のすごい下層ランクに落ちて掃き溜めみたいに、一生そこから上には絶対あがれないみたいな、そうなりたくなかったら英語しゃべれないと本気でヤバいですよみたいなメッセージでつけ込んでくる感じとかがすごくきらいっていうか、感じ悪いなーって思うんですよ」グローバリズムといわれる現象が端的にアメリカの正義を私たちに押しつけることにすぎず、この国の指導者たちがそれに抗うどころか唯々諾々と従いつつあることを私たちはTPP交渉から中学での英語教育にいたる最近の出来事で知っている。舞台の上で交錯する言語は相互理解や親和とはほど遠く、端的に抗争の中にある。そしてどうやら日本語は劣位にあるらしい。今挙げたさとみの発言に続いて舞台上には次のような字幕が投じられるという。

「あなたは思いますか? 日本語が 消えてなくなる」
「数千年後」(「千」の字がすりかわって)「数百年後」
「あなたは思いますか? ミサイルが海をこえて飛んでくる」
「あなたは思いますか? 日本が 交戦状態にはいる」

 これらの言葉が暗示するとおり、「地面と床」は物語の内容においても、現在の私たちが置かれた状況の暗喩であり、舞台全体に通底する閉塞感は私たちになじみのものである。最初に「遠い未来の日本」という字幕が映示されるが、果たしてどのくらい「遠い」のであろうか。舞台は二つの世界に分かれている。いうまでもなく由多加と由紀夫、遥とさとみは生の側におり、母である美智子は死の世界、地面の下にいる。両者は塚を通して交流するが、由多加が美智子に語りかけるのに対しては、遥は美智子の存在を否定する。「忘却に抗う権利をもつ」死者とは直ちに歴史の暗喩であろう。「死んでいる人の幽霊」とともにさとみという名を与えられた「生きているけれど幽霊みたいな人」の存在も遥は否定する。歴史と弱者、いずれをも否定するさとみのメンタリティーが震災後の私たちにとって何を表象しているかは明らかであろう。劇の冒頭で由紀夫は死者/美智子に対して「いい話を報告」するが、それは「前の勤め先の工場が閉鎖されてよその国へ移って」職を失った自分に新しい働き口が見つかったことであり、劇が進行するにつれて新しい働き口とは「破壊された、歪んだ道をこつこつ、元通りにならしていく仕事」であり、「たくさんの人間が力を合わせて、建物やトンネルを立て直す仕事」であることが判明する。この言葉に震災後の私たちを投影せずに舞台を見ることは不可能であろう。あるいは由紀夫は次のようにも述べる。「お母さん、俺がこうやって働けば、それはそのぶんだけ、俺はこの国を元通りにできたってことなんだよ、そんな仕事にいま俺はくわわっているんだよ。(中略)この国を前みたいに戻そう、いやもっとがんばって前以上にしようという、ものすごいたくさんの力があつまっている、そのあつまりに自分もくわわれているっていう実感がはっきりあるんだよ」このような昂揚にもかかわらず、なぜか深い絶望と不安が劇の全体を覆っている。不安は時に悪夢として具体的なかたちをとる。由紀夫に比べて恵まれた位置にいるはずの由多加夫婦も、由多加は日本と中国が交戦し、中国人兵士が近づいてくるという悪夢にうなされ、遙は美智子という幽霊につきまとわれている。悪夢や幽霊が具体的に何を暗示しているかが問題ではない。この舞台には日本という国が、日本語という言語がもはや存在しなくなる「遠い未来」がおぼろげに投影されているのだ。岡田の戯曲らしく、登場人物の言葉はかみあわず、多くの場合、対話は成立しない。しかし最後の場面で鋭く拮抗する二つの言葉が放たれる。遙は由紀夫に次のように語りかける。「わたしはきっと、そう遠くない将来、この国ではないところにいく。この子とふたりだけでいくのかもしれない。よいところだと思えたら、そこに家を建てる」移住と訣別、おそらくこの言葉には原子力災害後、家族とともに熊本に移住した岡田自身の思いが投じられているだろう。これに対して美智子もまた由紀夫に次のように語る。「由紀夫、わたしは信じてる。あなたの人生が、これからきっとよくなる。この国で、わたしが眠るのと地続きの地面で、これからも生きて、働く、それがむくわれて、あなたは幸せになる。ぜったいに。ねえ、これまでのようにこれからも、ときどきでいい、たいせつな、日本語で、わたしに話しかけて。わたしはそれ以上、なんにも望まない」
 全6場、誌面にしても15ページほどの、おそらくは短い舞台である。しかし私は震災後に私たちが味わっている漠然とした不安、自分たちがかつて足を踏み入れたことのないゾーンに迷い込んでしまったことへの恐怖をこれほど鮮やかに表現した作品を知らない。不安と恐怖、それは震災の再来や単に未だに放射能物質を撒き散らしている原子炉の解体作業だけではない。戦争を目的とした政治、ヘイトスピーチにみられる人倫の崩壊、時代は今やあらゆる局面で私たちを苛んでいる。今、私は表現という言葉を用いたが、おそらくこの戯曲はチェルフィッチュの優れた俳優たちを得て、演劇としても素晴らしい内容となっていることであろう。いくつかの劇評や岡田自身の言葉によればこの舞台は音楽劇としても圧倒的であるという。しかし私はあえて言語作品として「地面と床」を評価したい。先に引用した遙と美智子の言葉に続く、母であり幽霊である美智子の語りによってこの舞台は幕を閉じる。あえてここでは記さないが、最後の美智子の言葉がなんと感動的であることか。このような言葉を紡ぐことができる劇作家と時代を共有していることは、日本と日本語が消滅するかもしれない時代に生きる私たちにとって、かすかな希望であるようじ感じられる。
by gravity97 | 2013-12-22 21:51 | 演劇 | Comments(0)

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 師走に入り、今年一年を振り返る時期となったが、今年は日本の戦後美術を回顧する展覧会の当たり年だったといえよう。昨年暮れに始まった東京国立近代美術館における50年代をテーマにした一連の展示、ニューヨークでの「TOKYO 1955-1970」展と具体美術協会の回顧展、現在も国内を巡回している「実験工房」展、そして未見ながら先日より国立国際美術館で開催中の「工藤哲巳」展。今回レヴューする名古屋市美術館における「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡」展もこれらの展覧会に呼応し、これまで展覧会として検証されることのなかった戦後美術の重要なトピックを紹介する試みである。
 ハイレッド・センターとは何か。この問いに答えることは容易だ。「エンサイクロペディア・ハイレッド・センタニカ」なる怪しげな出典とともに当事者によって明確に定義されている。

 ハイレッド・センター Hi-red Center ある集合体。HRCと略称されることもある。発起人とみられる高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の最初の字、「高」、「赤」、「中」の英訳でその名称が作られたというのが定説である。(中略)構成員も、多くの記録では前記した発起人三名のほかに和泉達も含まれているが、その四名はあくまでも公式要員といわれるごく一部であるにすぎず、それ以外に非常に多くの非公式要員、別称、地下要員、または匿名センター要員がいるといわれている。そして最近の調査によれば、構成員の存在は流動的なものであるらしく、特定の状況のなかで一時的にかなりの人員の増加をみることもあれば、極端に減少することもあるらしい。(中略)この点から、ハイレッド・センターは集合体ですらないという説もある。(後略)

 HRCは匿名の集団として1960年代初頭の東京、多く街頭などの公共的な空間で奇矯なパフォーマンスを繰り返した集団である。しかし日本でこれまで彼らの活動が紹介される機会はほとんどなかった。もちろん今挙げた三人の作家の個展に際して、いわば活動の周縁として紹介されることはこれまでにもあったし、1999年に東京都現代美術館に巡回した「アクション 行為がアートになるとき」において、戦後日本のパフォーマンスを代表する集団の一つとして取り上げられたことはあったが、その活動が正面から展覧会の主題とされたことは今回が初めてである。このような遅延についてはおそらく二つの理由が考えられるだろう。まず彼らが繰り広げたイヴェントは本質的にエフェメラルであり、永続的な「作品」を展示する展覧会、あるいは美術館といった制度になじまない。第二にHRCの活動は、当事者の一人である赤瀬川が1984年に著した『東京ミキサー計画』の中で詳細にわたって総括されたため、これ以上検証する余地がないように感じられたのだ。この二つの理由は実は相互に関係している。つまり彼らのイヴェントは一過性で実体を伴わない、それゆえ美術館での展示になじまないが、情報として一巻の書物の中で十分に総括しうるという発想だ。今回の展覧会はこれら二つの予断がいずれも誤りであることを明確に示している。まずこの集団は実に多くの実体的な作品、さらに言うならば審美的なオブジェを残している。それどころかHRCほど特定のオブジェと結びついた活動を繰り広げた集団は存在しないのではなかろうか。彼らが使用したオブジェ(ないし手法)を私は直ちに個別に特定することができる。すなわち、高松の紐、赤瀬川の梱包、そして中西の洗濯挟みだ。これら日常に遍在する品物ないし操作がそれぞれ作品化されて美術館に収蔵されている点は会場をめぐる時、明らかである。のみならずそれらのオブジェは今日においても実にエレガントではないか。同様にアッサンブラージュの手法を用いて発表された同時代のネオ・ダダやヌーヴォーレアリスムのオブジェと比してもHRCのオブジェが圧倒的に洗練されていると感じるのは私だけではなかろう。第15回読売アンデパンダン展、二つの画廊で開かれた第5次と第6次のミキサー計画、さらには中原祐介が企画した「不在の部屋」といった展覧会に展示された多くのオブジェは美術館に収蔵されて今日に残され、この展示の中核をかたちづくっている。私はあらためて作家としての高松、赤瀬川、中西の力量を思い知った。HRCは匿名的な集団であるが、独立した作品としての品格を有したオブジェを残した作家がこの三人だけであったことは展示からも明らかであろう。HRCのオブジェについて語ることは興味深いが、それだけで優に数篇の論文の主題たりうる。そしてオブジェへ集中してしまうならばHRCの活動の本質は見失われてしまう。彼らは第一になんとも不穏なハプニング集団であったからだ。b0138838_22423911.jpg
 後述するとおり、彼らの活動の輪郭を見定めることは難しい。それにしても彼らの最初の主要なハプニング、「山手線フェスティヴァル」(ハプニングの呼称は以下、全てカタログに準じる)が当時の国電山手線という公共空間で実施されたことに私たちは驚きを禁じえないだろう。公共交通機関たる電車内での不穏な身振りから私たちが否応なく連想するのはほぼ30年の時を隔てて地下鉄の車内や駅構内で引き起こされた毒ガステロである。駅頭で奇怪な行為を繰り返す彼らの所業は毒ガスマスクを装着して街頭を行進したゼロ次元のアクション(「ベトナム反戦行進」1967年)同様、今日においては直ちに処罰の対象となっただろう。このような不穏さは中期の「シェルター・プラン」あるいは後期の「ドロッピング・ショー」、「首都圏清掃整理促進運動」などにも明らかである。一方で私たちはほぼ同じ時代に寺山修司が一連の市街劇を携えて都市空間に介入していたことも想起すべきであろう。これまで研究史がなく、私も具体的な接点については考えが及ばないが、匿名の送り手から不特定多数の人へインストラクションが郵送されるというシェルター・プランで採用された手法と寺山の書簡演劇、あるいはHRCが街頭で演じたハプニングと無関係の市民も巻き込んで演劇が上映される一連の市街劇が無関係であったとは考えられない。(中西と舞踏の関係、例えば土方巽の舞台美術との関係は知られている。あるいは寺山の行きつけのビルの屋上について高松が墓地のようだと評したエピソードが残されている。個々の作家レヴェルで交友があったことは確認できるが、ハイレッド・センターと寺山の関係はまだ十分に検証されていない)そして私たちは今やかかる芸術的挑発を許容する公共空間が消滅してしまったことを認識せざるをえない。市街地は監視カメラによって常に記録され、隣接する児童公園で朝礼を行った朝鮮学校に対しては「不法占拠」として在特会の常軌を逸した抗議行動が繰り広げられるのだ。その一方で「原発を止める人々」の中で語られたように、現在、反原発あるいは特定秘密保護法案への反対を表明するデモによって首都の街路が再び公共空間として整然と奪回されつつある。この意味においてもこの時期にハイレッド・センターの活動が検証される意義は大きい。
 話が逸れた。展覧会に戻ろう。多くのオブジェとともにこの展覧会にはたくさんの記録写真が展示されている。未見の写真も多く、興味深く確認した。この展覧会を企画する際の困難の一つはHRCの輪郭がきわめてあいまいであることだ。例えば集団名の「ハイレッド・センター」という名称にしても、各種文書を検証するならば「ハイ・レッド・センター」、「ハイ・レッドセンター」を含む少なくとも6種類の表記が確認されることがカタログのテクストの中で触れられている。このような錯綜、混同は明らかに意図的なものであるし、構成員の多様性は先に引用した一文の中にも明らかだ。最初に私は彼らの活動が赤瀬川の『東京ミキサー計画』の中で詳細に紹介されたために展覧会による回顧が遅れたと述べたが、この展覧会を見た後ではHRCについてはなおも多くの知られざる展示やハプニングが存在していたことに気づく。例えば四人目のHRCと呼ぶべき和泉達の二度目の個展「指紋検出」に関する展示があった。今、『東京ミキサー計画』を読み返してみるならば、確かにこの個展についての記述もあるが、デニス・オッペンパイムを連想させる和泉の作品の詳細を私はこの展覧会で初めて知った。この展覧会では1962年の「敗戦記念晩餐会」から1967年、村松画廊における「表現の不自由」展まで40項目にわたってHRCの直接行動がピックアップされ、それぞれの日時、場所、当事者、目撃者、証拠が列挙されている。企画者はカタログ・テクストの中でこの展覧会がいわば広義のHRCを対象としていることを言明している。先の定義から明らかなとおりHRCの構成員は特定されていないので、誰の、どのような行為をHRCの活動とみなすかはきわめて恣意的な選択となる。
 今、私は恣意性という言葉を挙げた。恣意性こそHRCの戦略ではなかろうか。先に私は紐、梱包、洗濯挟みという彼らが用いるオブジェや手法を特定した。なぜこれらのオブジェや手法が選ばれたか。この点についてはさらに精密な議論が必要であるにせよ、私の考えではこれらのオブジェや手法は例えばシュルレアリスムやダダイスムにみられたような必然性を伴っていない。先ほど、ピックアップという言葉を用いたが、それらは無数の選択肢の中から恣意的に選ばれたとは考えられないだろうか。同様の恣意性は彼らの「直接行動」にもあてはまる。日常の様々の行為の中から彼らが「直接行動」と呼ぶ一種の芸術的な営為はいかにして区別されるか。もちろん個展ないしグループ展として挙行されたそれもあれば、「山手線フェスティヴァル」のごとき明らかな事件性をもったハプニングも存在する。しかし雑誌広告や書籍の出版をあえて「直接行動」のリストに加える必然的な理由はあるだろうか。さらに言えば例えば途中で終えられたという説もある「山手線フェスティヴァル」において、どこからどこまでが「直接行動」とみなされるだろうか。それはHRCが駅に入った時点か、あるいはオブジェを取り出した時点か。このように考えるならば、一つの行為を芸術と結びつける決定はきわめて恣意的になされていることがわかる。そして一つの行為が恣意的に芸術と結びつけられるならば、それは同様に恣意的に犯罪と結びつけられはしないか。赤瀬川は1964年1月、オブジェと関連して制作した一連の作品、いわゆる「模型千円札」が通貨偽造にあたるとして任意の取り調べを受け、悪名高い「千円札裁判」が始まる。この事件をめぐる一連の裁判がHRCの活動と完全に同期していることは留意されるべきである。一つの行為が犯罪であると恣意的に断じられたこの事件に対して、HRCは逆に裁判そのものを芸術とみなすことによって反撃する。私はこの発想から本展にも出品された赤瀬川の《宇宙の缶詰》を連想した。蟹缶の中身をあけて、ラベルを内側に貼ったうえでハンダづけして密封し、缶詰の外側すなわち世界の全体を閉じ込めてしまうという発想は犯罪と名指しされた行為を逆に芸術と名指しして、意味を帳消しにしてしまうことと似ている。実際にカタログに収められたHRCの直接行動No.37は「法廷における大博覧会」と名づけられた1966年8月の公判であった。行為を犯罪とみなすか、芸術とみなすか、それは当事者の恣意に委ねられている。果たして裁判長にそれを判定する資格はあるのか。この裁判は恣意性をめぐる闘争であったとはいえないか。そして私は日常性への侵犯を本質とするHRCの活動がこの裁判においておおよそ終了したことは一つの必然であったと感じる。60年代後半より、三人の作家は次第に別の方向を目指す。高松はもの派の先駆とも呼ぶべき概念的な仕事に取り組み、中西は絵画の制作を本格的に開始する。赤瀬川はHRCを連想させないでもない一連の仕事の傍ら、小説の執筆を始める。もちろんそこにHRCの活動が反映されていない訳ではないが、おそらく彼らは恣意性と戯れることの危険に気づいたのではないだろうか。一つの行為を恣意的に芸術とみなすことが可能であれば、同様にそれは犯罪とも名指しされうる。消耗的な裁判闘争を経て、彼らは大文字の芸術へと回帰する。展覧会中、HRCのセクションとpost-HRCと題されたセクションとの断絶、彼らの作品の意図的な脱政治化は実はきわめて戦略的な選択であったと考えられよう。
さて、私はこの文章を12月8日に書いた。一昨日の国会参議院で特定秘密保護法案がまともな審議もないまま可決され、私たちはかかる稀代の悪法と共存せざるをえない状況に追い込まれた。もはや私はHRCの展覧会を単に美術史という観点のみからレヴューすることはできない。法案が国会を通過する同じ時期にこの展覧会が開催されていたことは私には一種の暗合のように感じられる。なぜならこの悪法も恣意性を本質としているからだ。既に報じられているとおり、「特定秘密」とは恣意的に決定される。かかる恣意性のゆえに私たちは権力に対して萎縮してしまい、それこそがこの法案の目的なのである。大きな震災から自由な表現を奪う法律の制定、そして東京オリンピックへ、かかる連鎖はこの国が泥沼のような戦争に陥っていった時代を正確に反復している。いうまでもなくここで言うオリンピックとは日中戦争で中止となった1940年の東京オリンピックのことだ。1964年の東京オリンピックにHRCは「首都圏清掃整理促進運動」によって応接した。2020年、もしも東京オリンピックが開催されたとしても、果たして私たちに「直接行動」の自由は残されているだろうか。
by gravity97 | 2013-12-11 22:44 | 展覧会 | Comments(0)

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オリュウノオバは或る時こうも考えた。自分の一等好きな時季は春よりも生きとし生ける物、力のありったけを出して開ききり伸び切った夏、その夏よりも物の限度を知り、衰えが音もなしに量を増し幾つもの管が目づまりし色あせ、緑色なら銀色に、紅い花なら鉄色に変りはじめる秋、その秋よりも枯れ切った冬、その冬よりも芽ぶく春。オリュウノオバは時季ごとに裏山で鳴く鳥の声に耳を澄まし、自分が単に一人のオリュウではなく、無限に無数に移り変る時季そのものだと思っていた。
by gravity97 | 2013-12-02 22:11 | PASSAGE | Comments(0)