「ほっ」と。キャンペーン

b0138838_1931194.jpg 最初に断っておくが、私は必ずしも大江のよい読者ではない。大学に入学した直後に読んだ『同時代ゲーム』に感銘を受け、それまでに発表されていた小説(大半が文庫化されていた)については一年ほどかけてほぼ全てを読んだ。その後も『「雨の木」を聴く女たち』から『河馬に噛まれる』にいたる連作短編集、『懐かしい年への手紙』のあたりまではほぼ発表と同時に読んだ覚えがある。しかしこのあたりから、新作の発表と実際に読んだ時期との間にタイム・ラグが生じたようだ。「燃え上がる緑の木」三部作、そして『宙返り』といった大作を私は単行本として所持しているし、読んだ記憶もあるが、やや印象が薄い。このあたりで大江への集中力は途切れてしまい、私は大江が言う「レイト・ワーク」のうち、『取り替え子』に始まる「スウード・カップル」三部作を読んでいない。長江古義人を主人公とした一連の擬似私小説に私はどうにもなじめなかったのである。しかし大江が東日本大震災というよりも福島第一原子力発電所の事故による原子力災害を受けて『群像』に「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」なる小説の連載を開始したというニュースに関心を抱き、連載完結後に刊行された本書を通読した。これから論じるとおり、「最後の小説」にふさわしく、この小説はこれまで大江が発表した小説と複雑に絡み合っている。先行する「レイト・ワークス」はもちろん、初期の短編である「空の怪物アグイー」そして特に『懐かしい年への手紙』はこの小説の前提を構成している。久しぶりに大江の小説を読む準備として、私はまず長らく書斎のNEW ARRIVALの棚に放置していた近年の長編『水死』を通読し、長江古義人の近況を確認した。老境に達した大江の分身である長江、そして大江光の分身としてのアカリとの葛藤が描かれるこの小説も私はそれなりに興味深く読んだ。本来ならばこれに先行する『取り替え子』や『憂い顔の童子』なども通読し、そして何よりも『懐かしい年への手紙』を再読したうえで本書は評されるべきであろうが、大江の長編を読むためにはいささかの覚悟が必要であり、今の私にそれほどの余裕はない。『水死』を通読したうえで、それ以前の小説についてはおぼろげな記憶とともに本書についてレヴューすることとする。
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 本書のタイトルはいうまでもなく、大江の友人であったエドワード・サイードの遺著「On Late Style」から引かれている。『晩年のスタイル』として既に邦訳も刊行されているこの刺激的な書物についてはこのブログでも論じた。大江は本書の「前口上として」の中でサイードについて触れ、サイードの著作が「晩年の様式について」であるのに対し、自分の文章は「晩年の様式を生きるなかで」書き記されるため、In Late Style であり、いくつものスタイルの間を動くことになるだろうから、さらに「晩年様式集」とルビをふることにしたと述べている。『水死』において古義人とアカリの決定的な衝突の原因となったのが、サイードの自筆書き込みのある楽譜にアカリがボールペンで書き込みをした事件であったことを想起するならば、これらの小説に亡きサイードの影は色濃い。
 この小説は主人公の長江/大江が東日本大震災の後、破壊された書庫と寝室の間の踊り場で「ウーウー声を上げて泣く」場面から始まる。この小説に登場する人物も私たちは既になじんでいる。長江の息子のアカリ、妻の千樫、娘の真木、長江を先導し、自殺した映画監督の塙吾良、大学の恩師である六隅先生、あるいは作曲家の篁さん、彼らのモデルとなった人物の多くについて私は固有名を与えることができる。一方、ギー兄さんやリッチャン、シマ浦さんといった人物については少なくとも私は特定のモデルが存在するか判断できない。しかし多くが大江の小説に既に登場した人物であり、この意味で本書を含む一連の小説は大江の家族をめぐる一種のサーガを形成している。しかしそこには微妙な変化が兆しつつあるようだ。先に述べたとおり、私は2000年以後に発表された「レイト・ワーク」については『水死』しか読んでいないので、理解の足りない点があるかもしれないが、一つは長江がもはや老齢に達したということだ。長江は今、自分の書いている小説が文字通り最後の小説となるかもしれないという予感を抱きながら小説を執筆する。長江は自らの「晩年のスタイル」を構築しなければならないという強い自覚を抱いている。この自覚は明らかにサイードの著作に触発されたものであろう。『水死』にはアカリと衝突した直後、長江が「大目眩」と呼ぶ発作を起こし、その後も断続的に発作に襲われたことが記されていた。長江にとってもはや死とは自分と無縁でないのだ。そしておそらく長江の加齢とも関係しているが、これまで一方的に小説の中に描かれていた人物たちが長江に反抗を始める。これまで長江に保護される存在であったアカリが長江を拒絶する『水死』は一つの予兆であったかもしれない。『晩年様式集』においては長江によって「一面的な書き方で小説に描かれてきたことに不満をもつ」女性たち、つまり長江の姉のアサ、妻の千樫、娘の真木が「三人の女たち」というグループを結成し、『「晩年様式集」+α』という私家版の雑誌を発行し、長江の語りの妥当性を追及する。彼女たちが語り手となる「三人の女たちによる別の話」と題された章は小説中に四回にわたって挿入され、長江は時に兄、時に父と名指しされるため、この小説は説話論的にはかなり複雑な構造をとる。そして本書ではもう一人の重要な人物が加わる。『懐かしい年への手紙』において主人公の教師であり、最後に不可解な死を遂げたギー兄さんの遺児で、アメリカでTVのプロデューサーとなったギー・ジュニアが来日し、長江にインタビューを行うのである。ギー・ジュニアは「カタストロフィー委員会」なる組織への報告書のためにこのインタビューを行っている。カタストロフィーなる言葉がサイードの『晩年のスタイル』から引かれていることはいうまでもなかろう。サイードにとって晩年性とは「円熟や老成といった境涯を否定するかのように晩年にあってスタイルを変えることを恐れず、時にそれまで営々と築いた成果を破壊してまでも新たな挑戦を続ける姿勢」であった。実際にギー・ジュニアは晩年に意志的にカタストロフィーを避けなかった芸術家としてサイードと篁を挙げ、長江がかかるリストにふさわしいか判定することがインタビューの目的であると述べる。このインタビューは長江の小説の舞台となる「四国の森」でなされており、この点に『晩年様式集』と『水死』の共通性を認めることができるかもしれない。すなわちいずれも長江の生活に闖入してきた者たち、前者ではギー・ジュニア、後者では「穴居人」という劇団を構成する若者たちとの出会いを契機にして長江は自分の根拠地たる「四国の森」に向かい、前者ではアカリの「森のフシギ」の演奏、後者では「メイスケ母出陣と受難」という演劇の上演が物語のクライマックスをかたちづくっている点である。しかし両者には大きな差異もまた存在する。b0138838_1953284.jpg
 今、私は主人公長江をめぐって『晩年様式集』の物語の骨格とも呼ぶべきストーリーを粗描した。一方でこの小説は執筆された時期の大江の活動が濃厚に反映されており、長江と大江は微妙な関係にある。本書は踊り場で「ウーウーと声を上げて泣く」長江と「ダイジョーブですよ、ダイジョーブですよ」と励ますアカリの情景で始まる。既にここに長江とアカリの立場の逆転は暗示されているが、長江の不安の原因は現実の原子力災害によってもたらされた放射能汚染であり、「四国の森」への移動も「アカリをどこに隠したものか、と私は切羽詰っている。四国の森の『オシコメ』の洞穴にしよう、放射性物質からは遮断されているし、岩の層から湧く水はまだ汚染していないだろう!」という一種の避難の意味をもっている。(このような危機感が震災直後、多くの表現者に共有されていたことに私は今一度注意を喚起しておきたい。例えばこのブログで触れた岡田利規。関東大震災後に関西に映った谷崎潤一郎のごとき作家と原子力災害というかつてない災厄によって、移住を強いられる者たちとを比較することは可能だろうか)本書は長江の東京から四国への移動、あるいは二つの土地の間の往復の物語であるが、一方で大江はあえて東京に留まり、時にル・モンド紙のインタビューに答え、反原発集会に参加し、外国人記者クラブでの記者会見に応じる。もちろん私たちも大江がこの時期に続けた様々の抗議活動を知っている。このためこの小説では主人公の長江に奇妙な分裂が認められるのだ。例えば『水死』であれば、私たちは老齢に達した「長江古義人」という主人公が最後の小説を断念し、出生地で自分の作品に基づいた演劇の上演を試み、あるいは障害のある息子アカリとの衝突し、やがて和解する物語であると理解することができる。しかし『晩年様式集』では長江はいつのまにか大江へと分裂し、物語の審級が不明確となるのだ。おそらくこのような破綻は意図的に導入されている。東日本大震災と原子力災害は、かつて『懐かしい年への手紙』の中で「黒い大水」の夜にギー兄さんを失い、『ヒロシマ・ノート』で原爆の非人間性に直面した大江にとって、もはや長江というダブルによって語ることが不可能なほどに自らに、自らの文学に直結した「カタストロフィー」だったのだ。途中からもはや説話的な構造を破壊しても作者が物語に介入する姿勢はサイードのいう「不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らいつづける、ある種の意図的に非生産的な生産性」であろうか。正直に言って私はこの小説がそこまで円熟や老成からかけ離れた破壊的な挑戦とは感じられなかった。むしろ本書は「レイト・ワーク」のクライマックスであり、全編にみなぎる切迫感と緊張においておそらく大江の小説の一つの頂点をきわめた作品ではないかと考える。大江にとっても困難な小説であっただろう。そしてそれゆえ、物語が一つの希望を感じさせる詩で終えられることに私は深い感銘を覚えたのだ。本書の巻末に掲げられた詩の最後のフレーズを引用してこの文章を終えることとする。

私のなかで/ 母親の言葉が、/ はじめて 謎でなくなる。/ 小さなものらに、老人は答えたい、/ 私は生き直すことができない。しかし/ 私らは生き直すことができる。
by gravity97 | 2013-11-26 19:08 | 日本文学 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 131126

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by gravity97 | 2013-11-26 07:13 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

b0138838_20245872.jpg このところドゥルーズに関する画期的な論考が次々に刊行されている。先般、河出書房新社から刊行された千葉雅也の『動きすぎてはいけない』も話題となっているが、しばらく前に岩波書店から岩波現代全書の劈頭を飾って刊行された本書はドゥルーズを学ぼうという者にとっては格好の入門となるだろう。これまでにも私は同じような役割をもついくつかの研究を読んだ覚えがある。ソシュールに対する丸山圭三郎、アルチュセールに対する今村仁司、デリダに対する東浩紀のごとき役割、つまり難解に思われていた思想家の思想に明確な見取り図を与える仕事は、私のごとき現代思想の門外漢にとっては大変ありがたく感じられる。本書を読んだからといって、ドゥルーズの思想が十分に理解できたとは到底思えないが、彼の著作がどのような布置を取るかおおよそ理解することはできたように思う。覚えの意味を含めて本書を読んだ所感を書き留めておく。
 私の世代、80年代に大学と大学院で文学や美術史を学んだ世代にとって、ドゥルーズやドゥルーズ=ガタリの名は現代思想と同義語であった。彼らに加えてデリダ、フーコー、アルチュセールといったフランスの思想家について私たちはひとまず翻訳書を求め、歯が立たないことを知るや日本語による解説を探した。浅田彰の『構造と力』が出版された1985年はこのようなフランス現代思想への憧憬が最高潮に達した時期であったといえるかもしれない。しかしその中でもドゥルーズは接近することが困難な哲学者であった。直ちにいくつもの理由を挙げることができる。まずこの時期、ドゥルーズは一人の哲学者というよりもドゥルーズ=ガタリという複数の名によって『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』という大著を著した書き手として知られており、しかも当時翻訳が刊行された前者は異様に難解な書物であった。『意味の論理学』をはじめ、ドゥルーズの主著は多くが翻訳されていたが、私たちはドゥルーズ=ガタリを経由してドゥルーズを知った気がする。一方でドゥルーズの著述の広がりも私たちを混乱させた。ベルグソンやニーチェ、ヒュームといった人名をタイトルあるいはサブタイトルに関した一連の著作が哲学研究であることは容易に理解される。しかしなぜかくも多くの思想家について論じるのか。さらにドゥルーズは『プルーストとシーニュ』というプルースト研究、あるいはガタリと共著でカフカ研究も発表している。さらに私がドゥルーズに関心を抱き始めた同じ時期、1983年にドゥルーズは『イメージ/運動』という映画を主題とした新著を発表した。ベルグソンの例があるとはいえ、そしてこの論文は一種のベルグソン研究であるにせよ、私は哲学者が映画を哲学の主題にすることに奇異の念を抱いたのである。つまりドゥルーズの難解さは一つにはドゥルーズとドゥルーズ=ガタリという著者の二重性に起因し、もう一つは先行する思想家から同時代の映画にわたる考察の対象の多様性に起因する。これに対して本書は快刀乱麻を断つがごとくこれら二組の難解さを整理していく。
 まず國分は「はじめに」においてドゥルーズの政治性という問題に触れ、多くの研究者にとってもドゥルーズとドゥルーズ=ガタリの混同が躓きの石であったことを指摘する。そして本書で扱うのが「ガタリ化」された政治的ドゥルーズではなく、思想家ドゥルーズであることを明言する。むろんこれは問題を単純化することを意味しない、実際に第Ⅳ章の「構造から機械へ」においてはガタリとの接近、そして『アンチ・オイディプス』という共著がもたらされた理由が、ドゥルーズに即してていねいに論じられる。しかしここではあくまでもドゥルーズの思想の展開の契機としてガタリとの関係が論じられているのだ。決して驚くほどの発想の転換ではないが、この断言によってドゥルーズへの接近は格段にたやすくなる。優れた入門書には常にこのような「コロンブスの卵」的な発見がある。
 最初にも述べたとおり、國分ほどのよきチチェローネを擁したとしてもドゥルーズの思想は相当に手強い。続いて私は五章から成る本書を私なりに読み解くこととするが、時に表面的な、時に誤った理解であるかもしれない点をあらかじめお断りしておく。五つの章にはそれぞれ「方法」「原理」「実践」「展開」「政治」というサブタイトルが付されている。最後の「政治」のみ異質である点はすぐさま理解されようが、これらのサブタイトルを念頭に置く時、議論の展開は比較的理解しやすい。すなわち第Ⅰ章においてはドゥルーズの哲学研究の方法が語られる。この点はなぜ彼がカントからベルグソンにいたる多様な思想家を対象にするかという問題に対する解答だ。つまりドゥルーズが問題としているのはそれぞれの思想家固有の思想ではなく、彼らの思想をドゥルーズ自らが語る方法なのである。この方法を國分は「自由間接話法的ヴィジョン」という卓抜な比喩によって説明する。詳しくは直接本書を読んでいただくのがよいが、國分はドゥルーズが先行する思想家たちについて何を語るかではなく、どのように語るかという点に注目する。以前、ローラン・ビネの『HHhH』をレヴューした際に引用した同じ箇所を引く。國分はかかる手法によってドゥルーズが目指すところを次のように的確に要約する。

もし哲学研究が、対象となる哲学者の思想を書き写すこと、まとめ直すことであるならば、それはその哲学者が述べたことをもう一度述べているにすぎない。そして、先に述べたとおり、対象となる哲学者の思想とは別の思想をその哲学者の名を借りて語っているのであれば、それは哲学研究ではない。ならば哲学研究は何をするべきか? 哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと、時にはその哲学者本人が意識して概念化したわけではない「概念」すら用いて、時にはその対象を論じるには避けて通れないと思われているトピックを飛び越えることすら厭わず、その問いを描き出すこと―ドゥルーズは、それこそが哲学研究の使命であると考え、そしてそれを実践した。

 つまりドゥルーズは先行するさまざまの思想家に思考を強いた問いそのものを描くことこそが哲学者の使命と考える。個々の思想家を超えた一種の「問いの系譜」の中に自らを置き、そこを出発点として自らの思想を鍛えるのである。
 最初の章でドゥルーズの問題意識の所在を明らかにしたうえで、第Ⅱ章では文字通り「ドゥルーズの哲学原理」が語られる。國分はそれを「超越論的経験論」と結論づけるが、超越論や経験論についての深い知識がない私にとってはきわめて難解な議論である。國分によればドゥルーズはヒューム、カント、ライプニッツらを批判的に検証する作業を繰り返す中で独自の思想的立場を形成する。ここでは「無人島」というドゥルーズの比較的知られることの少ない著作が引用されて興味深い議論が展開される。無人島、他者のいない島について論じながら、國分/ドゥルーズは他者を次のように再定義する。「他者とは、それなしでは知覚が機能しえなくなる『知覚領域の構造』である。言い換えれば対象の対象性を保証する構造である。他者は知覚領域における対象ではない。なぜなら他者がいなければ、知覚領域そのものが、したがって対象の対象性が成立しないのだから。それだけではない。他者こそが対象の対象性を保証しているのだとすれば、他者を欠いたところでは、そもそも自我というものを想定することができない。自我はア・プリオリに存在する基体ではない。対象の対象性の場合と同様、意識が他者によって『私はこうであった』へと落ち込んでいき、過ぎ去りつつも継起する〈私〉が対象として措定されて初めて自我というものが成立する」かなり難解な文章であるが、ここから読み取れるのはドゥルーズが対象や自我がいかにして発生するかという点に目を向けていることだ。このような関心からドゥルーズがフロイトの精神分析へ向かったことは理解できようし、この章でも最後に両者の関係が論じられるが、この部分も私には難解に感じられた。
 続く第Ⅲ章は比較的読みやすい。それというのもこの章で扱われるのがドゥルーズの実践であるからだ。その対象は小説と映画であり、『プルーストとシーニュ』、そして『イメージ/運動』と『イメージ/時間』といった著作が論じられる。この章が比較的わかりやすいのは、それらの著作に私が部分的に馴染んでいたこと、そしていずれも具体的な対象を擁したテクストであるからだろう。例えば特異なプルースト論である前者において、ドゥルーズはそれがマドレーヌの挿話にみられる過去への回想の物語ではなく、未来に向けられた「シーニュ」の習得の物語であると指摘する。なぜこの指摘が重要か。それはこの問題が思考の発生に関わるからだ。さらにドゥルーズは二つの映画論において主体の問題へと目を向ける。私はこれまでにもドゥルーズの映画論について論じた文章をいくつも読んできたが、このような観点からの分析は初めてであり、二つの映画論の間に主体性に関する認識の区別をみるという発想は斬新であった。きわめて入り組んだ議論であり、単純な要約を許さないが、このような読解が可能となるのは、文学や映画を対象としたドゥルーズの論文を単なる作品研究ではなく、自らの哲学の実践とみなす本書の枠組に依るところが大きい。多くの先行する思想家を「自由間接話法的ヴィジョン」によって語り直し、自らの哲学の原理を構築し、それによって具体的な対象を分析したとするならば、これまでばらばらに感じられていたドゥルーズの主著がそれぞれどのような意図のもとに執筆されていたか、きわめて明瞭に配置されるではないか。
 國分はⅢ章の最後でかかる図式にまとめられたドゥルーズの哲学の限界に本人が気づいたという仮説を提唱する。この結果、導入されたのが複数で書くという手法であり、『アンチ・オイディプス』という決定的な著作である。この点を論じて本書のクライマックスと呼ぶべき第Ⅳ章には「構造から機械へ」というタイトルが付されており、難解ではあるが読み応えがある。タイトルが示すとおり、この章では60年代に隆盛した構造主義の乗り越えという問題が扱われている。しかしながらドゥルーズは最初から構造主義に批判的であった訳ではない。それどころか1972年にフランソワ・シャトレの編集によって刊行された『哲学史』に「構造主義はなぜそう呼ばれるか」という緻密な構造主義論を寄せているのである。(國分によれば論文自体は1968年に完成されていたという)この論文を綿密に読み込み、そこに構造主義を覆す契機を見出す國分の議論はきわめて刺激的に感じられた。しかしドゥルーズが構造主義に関して抱いた違和感の由来は実は以前の章においても明らかであったのではなかろうか。すなわちドゥルーズが繰り返し論じた発生という問題に対して、構造主義は的確な説明を下すことができない。そこには時間的な機縁が存在しない。國分の言葉を引くならば、「ドゥルーズは、自ら構造主義に対するありうべき疑問を提示した上で、それに反論する、という論述を始める。その疑問とは、発生の問い、あるいは時間の問いである。ドゥルーズは『構造的なものに発生的なものを対立させることも、構造に時間を対立させることもできない』と言う。なぜなら『時間に対する構造主義の立場は明らかである。時間は、そこでは一つの現動化の時間である。それに沿って、潜在的に共存する諸要素が様々なリズムで実現されるのである』」かかる問題意識からドゥルーズがラカンを導入する必然性は容易に理解されよう。そしてラカン派の精神分析学者であったガタリとの協同がなされることとなる。両者が三冊の共著を著したことは先に述べたとおりであるが、異様に難解なラカンの理論に即して『差異と反復』そして『アンチ・オイディプス』が論じられる部分もラカンについての知識のない私にはハードルが高い。しかし最後に國分はドゥルーズとガタリによる分裂分析の目的として実に興味深い問題を提起する。「二人は、分裂分析の目標は、欲望する主体がいかにして自らの『抑制』を欲望することになるのかを明らかにすることにある、とも述べていた。ドゥルーズ=ガタリは、原抑圧の仮説を取り除くことにより、欲望をファルスの欠如によって説明する構造主義的なパースペクティヴからの脱却を図った。そのとき、欲望は、より広い社会的領野において決定されるものとして構想されることになる。そして、そのように構想された欲望を眺めた時、何よりもまず最初に発見されるのが、人はなぜ自らを抑制するのか、言い換えれば、なぜ自分たちの隷属を求めるのか、という問題なのだ」ここにおいてドゥルーズ(=ガタリ)の思想は政治哲学と接近する。最後の章の副題が「政治」と冠されたゆえんである。この飛躍こそ私が本書において最も感銘を受けた点である。b0138838_20255677.jpg
 発生という主題がラカンを召喚したように、隷属という主題がフーコーにつながる点は誰しも理解できよう。実際にドゥルーズは『フーコー』なる一書を1986年に上梓している。私はかねてよりドゥルーズに関心を抱いていたので、「ドゥルーズの思想」について論じたテクストをずいぶん読んできたつもりである。しかし國分も指摘するとおり、ドゥルーズとフーコーの関係について論じたテクストをほとんど知らない。興味深い例外はドゥルーズのフーコー論とフーコーのドゥルーズ論を一冊の本にまとめた蓮實重彦による小冊子であるが、慧眼と呼ぶべきか、1975年の時点で発行されている。國分はフーコーの権力論を仔細に読み込みながらドゥルーズに接続する。具体的には『知の考古学』で論じられた言説的編成という概念に対して非言説的編成という概念を提起し、『監獄の誕生』において両者が例えば法と監獄として密接に関連しながら作動する点を指摘した上で、フーコーにおける権力という問題が、ドゥルーズにおいては欲望と読み替えられて深化されている点を論じる。「権力とは、欲望の一つの変状である」そしてこのような読解によって「アンチ・オイディプス」から「千のプラトー」がひとつの文脈の中に浮かび上がるのである。このような補助線を与えるならばドゥルーズとフーコーの関係はラカンと比べてはるかにわかりやすい。それはラカンが難解であるからというよりも、ドゥルーズ/フーコーの哲学が今日において私にとってきわめて具体的で切迫したものと考えられるからだ。國分は巻末近くで次のように述べる。「なぜ人は自由になろうとしないのか? どうすれば自由を求めることができるようになるのか? これこそが〈政治的ドゥルーズ〉が発する問いなのだ」政治的ドゥルーズを排して続けられた分析が最後にこのような問いに帰着することは感動的ですらある。ドストエフスキーを連想するまでもなかろう、人と自由、それは文学において繰り返された問いかけではないか。私はここにきわめて先鋭なドゥルーズの思想がはらむ普遍性そして現在におけるアクチュアリティーを見た思いがする。最初に私は本書がドゥルーズの様々の著作の布置を明解に示した研究であると論じた。同時に本書は60年代のフランスの現代思想の知的達成の中にドゥルーズの仕事を位置づける作業でもあり、いくつかの箇所で私は目からうろこが落ちる思いであった。今なお私には『アンチ・オイディプス』を通読する膂力はない。しかし今、私は本書の光の下でいくつかのドゥルーズの著作を再読したい強い思いに駆られている。
by gravity97 | 2013-11-18 20:36 | 思想・社会 | Comments(0)

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 奥泉光に関してはかつてこのブログでも『シューマンの指』をレヴューしたことがある。その際に記した「奥泉の小説はあまり長くない方がよい」という言葉を撤回しよう。文庫にして1000ページ近いこの大作は傑作と呼ぶにふさわしい。私は以前本書を手に取った覚えがあるが、あまりの長大さと佐世保湾に停泊する軍艦云々という冒頭の描写を読んでそのまま頁を閉じてしまった。刊行の順とは逆になるが、実は私は以前に同じ作家のやはり軍艦を舞台とした長編『神器―軍艦「橿原」殺人事件』を読んでいた。私の印象では奥泉の作品は出来不出来の差が大きく、正直言ってあまり面白くなかった。本書はこの長さで、しかも軍艦というテーマが重複していることに辟易して敬遠したのであるが、文庫化されたことを契機に通読したところ、実に面白いではないか。タイトルにあるとおり、本書は一種のミステリーとしての結構を有しているから、種を明かすことなしにレヴューすることは難しいが、未読の読者の楽しみのために今回はあえて小説の核心には触れず紹介することにしよう。
 この長大な小説も実に奥泉らしい作品である。ミステリー仕立て、つまり謎の提示とその解明という枠組は『ノヴァーリスの引用』や『シューマンの指』といった代表作をはじめ、多くの作品に共通する。日本の軍隊という組織を直接にテーマにした小説としては今述べた『神器―軍艦「橿原」殺人事件』のほかにも私は『浪漫的な行軍の記録』を読んだことがある。さらに複数の時間が錯綜する構造も『石の来歴』をはじめ、いくつもの小説において認められる。つまり本書は奥泉がこれまでの小説で駆使した枠組やテーマ、説話的構造を全て投入した大長編といってよいだろう。
 まず「謎」について確認しておこう。本書はプロローグと七つの章によって構成されている。プロローグでは1934年に佐世保湾で謎の爆発を起こして沈没した水雷艇「夕鶴」について語られる。この短い断章が本書で提起される謎の伏線となることはミステリーの定石である。次いで物語は1941年12月8日の真珠湾、太平洋戦争の開戦時に舞台を移す。ここで語られる謎については文庫のカバーにも記されているから明かしてもよかろう。真珠湾攻撃に出撃し、空母「蒼龍」に無事帰艦した九九艦爆機のパイロット、榊原大尉が帰投直後、コックピットの中で服毒自殺を遂げたのである。ほぼ同じ時期にもう一つの事件が起きる。こちらは航空機ではなく潜水艦、同じく真珠湾攻撃に参加する伊二四号潜水艦の中で特攻任務に就く特殊潜水艇の乗組員が出撃前に艦長に託した遺書が金庫ごと盗まれてしまったのである。なぜ毒殺されたのか、どこに隠されたのか。二つの謎からクリスティーの「三幕の悲劇」とポーの「盗まれた手紙」を連想することは容易だ。そして無関係に感じられる二つの事件が次第にもつれ合って新しい真実を指し示すことも本格推理の常道だ。読み終わってみると確かにこの小説はこれら二つの謎解きと読めなくもないのであるが、小説的技巧に長けた奥泉は文字通り全編を通じて様々なたくらみをこらして読者を惑乱させる。先ほど本書が時間的に錯綜すると述べた。第一章の「真珠湾」以降、奇数章ではそれぞれ「ミッドウェー」、「ソロモン」、「硫黄島」という三つの戦地が章のタイトルに付され、舞台/戦場が次第に日本に近づく様子は開戦以降次第に敗色を濃くしていく日本を暗示している。一方偶数章は戦地ではなく内地を舞台とし、「東京〈1942〉」、「東京〈1943〉」、「鎌倉」というタイトルが場所と時間を示している。タイトルの順序は時系列に沿っており、いくつかのストーリーが並行し、戦地と内地が交錯するとはいえ、語られる事件は真珠湾攻撃から硫黄島での玉砕にいたる太平洋戦争中の比較的短い期間に生起する。ただしこの小説の中には一点、全く異なった時代、すなわち1970年代中盤のエピソードと思しき挿話が存在する。数頁の短いエピソードであり、例によって現実と幻覚のあわいのような書きぶりによって表現されている。実はこの箇所は小説の構造においてきわめて重要な意味をもつのであるが、初読でその意味を理解することは難しいだろう。三人称の語りのほかにも書簡や遺書、既に出版された手記などいくつものレヴェルの違うテクストを並列に織り交ぜる手法も奥泉が得意とするところだ。しかもそれらの手紙や手記の書き手自体が物語の中に登場するのであるから、物語はさらに錯綜する。そしてそれらのテクストは時に相互に矛盾し、互いを参照する。例えば第三章の冒頭で読者は思わず頁を繰って登場人物の名前を確認するだろう。合理的な物語としては説明できない状況が記されているからだ。それぞれの章はいずれも短い断章の積み重ねとしてクライマックスに達するや中断されるかたちで次の物語に引き継がれる。読者の推理や理解は物語の中でいわば宙吊りにされたまま次の物語が始まる。物語の解決を先延ばしにするこのような手法もきわめて効果的である。いくつもの謎が繰り出され、時に合理的に解決され、時に新たな謎を呼び、時にきわめて不可解な幕引きをみる。大森望は解説で本書を「本格ミステリーのモチーフと戦記文学の背景とSFの設定を借り、現代文学の方法論を使って書かれた一大エンターテインメント」と評する。確かにそのとおりではあるのだが、本書を読まない限り、一体どのような小説であるかイメージすることは難しいだろう。試みに私が本書から連想された作家を列挙してみよう。今述べたクリスティーとポーに加えて、スティーブ・エリクソン、フィリップ・K・ディック、チェスタトン、日本であれば吉田満に半村良、あるいは京極夏彦。これまた一つの像を結ぶことが困難な多様な作家たちだ。ミステリー、SF、ノンフィクションから純文学、異なったジャンルを文字通り自家薬籠中のものとして反映させたメタ小説はまさしく奥泉以外にはなしえなかった文学的壮挙といえる。
 先ほど述べたとおり、奥泉の小説はミステリーというかたちをとる場合が多い。しかしながらいわゆる本格推理がエラリー・クイーンにみられるとおり、徹底的な合理性と「読者への挑戦」が示すフェアプレイの精神を本質とするのに対して、奥泉の手法は魔術的レアリズムであり、非合理性を本質としている。狂気や意識の混濁、幻視や妄想といった精神の変調を介して、現実は多層化され、物語は倒錯する。本書においても先に触れた時空的な歪み、すなわち1970年代の銀座が突然に出現する場面は登場人物の一人がソロモン海戦で負傷し生死の境で味わう昏迷の境地に接続されている。しかしこの一方で本書が「グランド・ミステリー」の名に恥じぬ論理的な構築性を帯びていることにも注意しなければならない。ただしそれは実にSF的でアクロバティックな論理であり、常識的な物語の整合とは大きく異なる。この長大な物語のトリックの核心にあたる発想について、これ以上述べることは控えよう。ただしこの点は巻末に付された二つの解説の一つで大森望が明確に分析している。したがって本書を読む前に大森の解説を読むことは控えた方がよい。一つの「合理的」な解釈によって物語を図式化しながら読むよりも、混沌と矛盾の中をたゆたう体験こそが本書を読む醍醐味なのであるから。
 本書をタイトルのとおり、一つのミステリーとするならば、その先例は何か。クリスティーやポーではなく、私が連想したのは東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』である。この小説では最後まで犯人が明示されず、読者が文字通り推理しなければならない。私は講談社文庫版で読んだため、解説をとおして(名指しこそされないものの)あらためて犯人とそのトリックを認識した。『グランド・ミステリー』と大森望による解説との関係はこれに似ている。大森は解説の中で複雑に入り組んだこの物語を再構成して、新たなパースクティヴを設定する。大森の再構成はかなり大胆であるが、確かに『グランド・ミステリー』の錯綜を解き明かしている。この点は先にも述べたとおりこの小説が一面においては論理的に構築されていることを暗示している。しかし大森も記すとおり、これが最終的な解決であるか否かについては疑問も残る。幻想性と論理性の葛藤がこの魅力的な長編をかたちづくり、私たちは両者の間で幻惑される。そして最後に触れておくべきは、本書の魅力はこのような作品の枠組以上に、何よりもその細部に宿っていることだ。初めから謎解きを放棄して、ただ面白い物語を読むという愉楽に身を任せたとしても読者の期待は十分に応えられるだろう。さほど多くない主要な登場人物はいずれも精彩を放ち、魅力的だ。悪役や小人物として描かれる登場人物たちも強い存在感があり、読者は思わず感情移入してしまうだろう。二つの解説の中でいずれの解説者も脇役とも呼ぶべき人物を取り上げ、強い思い入れを表明していることはこの点を示しているだろう。稀代の語り手である奥泉が超絶的な小説技巧と人物造形の巧さを遺憾なく発揮した本書に対して「1990年代最高の一冊に数えられ、超弩級の傑作」という賛辞が与えられたとしても、それはあながち誇張ではなかろう。
by gravity97 | 2013-11-07 21:25 | 日本文学 | Comments(0)