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優雅な生活が最高の復讐である

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中村文則『掏摸』

b0138838_20361624.jpg 中村文則の作品を読むのは初めてではない。以前に『最後の命』という長編を読んだことがある。面白くなかった訳ではないが、暴行殺人、ホームレス同士の集団レイプ、あるいは自殺念慮といった主題があまりに重いというか露悪的に感じられて、辟易した。今回、本書を読んだこともあり、いくつかの短編に目を通してみたが、児童虐待や性犯罪といった物語の連続にいささか食傷してしまう。それらと比較する時、本書はきわめて完成度が高い。本書が大江健三郎賞を受賞したこともうなずける。全くの偶然であるが、私はこの一月ほどの間にこの賞を受賞した作品を立て続けに読んだ。岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』と星野智幸の『俺俺』、そして本書である。全くテイストの違うそれぞれにめちゃくちゃな小説に自らの名を冠した賞を与える選者大江の感覚も相当に凄い。岡田の作品については以前、岡田の演劇論と関連してこのブログでも触れたが、これら三冊は個別に論じるに値するだろう。
 ひとまずは中村文則の『掏摸』について。以前より世評の高かったこの小説を文庫化されたタイミングで通読する。タイトルのとおり掏摸(すり)を生業とする男の一人称によって語られるこの物語も実に重い。扱われるテーマは掏摸にはじまり、殺人、売春、万引き、そして育児放棄。登場する人物もことごとく救いがない。この意味で本書はほかの中村の小説とさほど変わるところがない。なぜ本書は特に優れているのか。それは一見、現代風の風俗をとらえながらも、作者が世界文学の中で繰り返し問われてきた普遍的な主題に正面から取り組んでいるからだ。この点を論じるうえでは内容に深く立ち入る必要がある。具体的なストーリーの細部にも触れることを断ったうえで若干の分析を加えたい。
時系列はやや錯綜するが、ストーリー自体は比較的単純である。腕のよい掏摸として都会の雑踏にまぎれこんで生活する「僕」は、かつて一緒に仕事をした立花という男と出会う。仕事といってもまともな仕事ではない。闇の組織に誘われて、主人公と仲間の立花、石川の三人はある老人の家に押し込み強盗を働いたのだ。正確にいえば、三人は命じられたとおりに老人ではなくそこにいた家政婦兼愛人を縛り上げて監視し、同行した名も知らぬ男たちが老人から金と書類を奪ったのであった。三人は自分たちの役目がさほど必要とも感じられないことに不審の念を抱きつつも、報酬の500万円を受け取って別れる。名のない男たちを途中まで車で送るように命じられた石川は別れ際に「僕」に翌日の待ち合わせ場所を記したメモをこっそりと渡す。しかし翌日指定した場所に石川は現れず、生き延びたければ口を閉ざせという何者かからのメッセージがその場にいたホームレスの老人の口をとおして「僕」に伝えられる。時をおかずして、書類の強奪が目的と聞かされていた強盗事件の現場で老人の死体が発見され、おそらくこの強盗殺人と関係があるいくつもの殺人や自殺がほぼ同時に発生していたことを「僕」は知る。闇の組織の巨大な陰謀が進められていたのだ。再会した立花は「あれが、また何かやるらしい。巻き込まれないうちに消えたがほうがよい」と不気味な忠告を残して姿を消す。
 同じ時期に「僕」は近くのスーパーで幼い息子に万引きをさせる女と出会う。「僕」から店側に疑われていることを耳打ちされてあやうく検挙を免れた薄汚い女は1万円で自分を買わないかと「僕」を誘う。まことにこの作家らしい救いのないエピソードを経て「僕」は次第にその少年にシンパシーを抱くようになる。おそらく「僕」も子供の頃に親から虐待を受け、少年にかつての自分を投影していることが暗示される。「僕」は少年に万引きや掏摸のテクニックを教え、両者の間には人間的な交流が生まれる。少年が母親と暮らす男から暴行を繰り返されていることを知り、「僕」は少年が保護施設に入所できるように手続きを始める。その矢先、「僕」は思わぬかたちで先の強盗事件の首謀者である木崎という男と再会する。「僕」が知らずして木崎から財布を盗み取ろうとした場を取り押さえられたのであるが、この再会は木崎によって計画されたものであり、木崎は「僕」に掏摸としての腕を生かしてこれから数日のうちに三人の男から三つの品を盗めと命じる。木崎は「僕」が完全に木崎の支配下にあることを宣告した上で、もし逃げれば女と少年を殺す、失敗した場合は「僕」を殺すと告げる。前回の強盗と同様にその目的や背景は語られることがない。「僕」は果たしてこの仕事をやり遂げることができるか。ここではその帰趨については触れない。
 木崎という男の造形が秀逸である。「ブランドのわからない黒のスーツを着込み、サングラスをし、ブランドのわからない時計を左手に巻いて」登場した木崎は、その場にいたやくざ風の男たちを一瞬にして威圧する。ドストエフスキーの「罪と罰」を知っているかと問いかけた後、木崎はそこにいた男の一人をいきなり理由もなくめちゃめちゃに殴打し、「突然こういうものを見ても動じないことだ」と告げる。ほとんど理由が説明されることのないこの男のふるまいから、私はこのブログでも論じた一つの小説の登場人物を連想した。コーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』中の「判事」である。残虐なインディアン狩り集団に随行する容貌魁偉なこの巨漢は虐殺したインディアン部族の中から一人の少年を救い、しばらく連れ回した後、思い出したように殺してその頭皮を剥ぐ。意味を欠いた酷薄な行動は木崎と判事に共通し、主人公たちに不気味な寓話を語る点でも似ている。あるいは圧倒的な存在感をもちながらほとんど人物の背景が語られない点において同じマッカーシーの原作をコーエン兄弟が映画化した「ノーカントリー」に登場し、ハビエル・バルデムが怪演した不気味な殺し屋が連想されるかもしれない。
 現実にありうるあらゆる悲惨を詰め込んだ点でこの小説はリアリズムかもしれない。しかし木崎という男の存在はリアリズムを内部から食い破る。例えば石川は行方をくらまし、「僕」はホームレスの老人から警告を受け取る。これが現実であるならば、石川は強盗を実行した名前のない男たちからおそらくは暴力を受けて「僕」と横浜で待ち合わせしたことを自白させられた後に殺されたのであろう。実際、木崎は石川が「消えたよ、跡形もない。正確にいえば、歯だけ残っている」と「僕」に告げる。この小説の中には絶えず暴力の風が吹いている。しかし木崎をめぐる暴力は超越的で現実感がない。人間的な個性をもたず、絶対悪を体現したかの木崎は一つのメタファーではないか。中村は文庫版のあとがきで次のように書いている。「この小説を書く前、『旧約聖書』を読んでいた。偶然ではなく、もちろん意図的に。この小説には、そのような古来の神話に見られる絶対的な存在/運命の下で動く個人、という構図がある」木崎がドストエフスキーについて尋ねる場面も象徴的だ。「僕」に対して絶対的な存在としてふるまう木崎とは神、もしくは運命の暗喩ではなかろうか。木崎は「僕」に対して、もはや自分の命令を受け容れるより術がないことを宣告したうえで次のような寓話を語る。奴隷制度が存在していた頃、あるフランスの貴族が使用人として美少年を買い取る。貴族はその少年の一生をあらかじめノートに書き込んだうえでその通りの人生を送るように差配する。偶然に起きたような出会いや別れも全ては貴族によって段取りされたものであった。最後に貴族は少年にノートを見せて、少年の一生があらかじめ自分によって定められていたことを知らせ、そこに記されているとおりに少年を殺すというものだ。これが神、あるいは運命と人との関係であることは明白だ。木崎は次のように語る。「他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似ていると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も味わっているのは神だ。俺は多くの他人の人生を動かしながら、時々、その人間と同化した気分になる。(中略)あらゆる快楽の中で、これが最上のものだ」この小説ではこれまで多くの作家によって繰り返し問われてきた神と人との関係が再話されているといってもよかろう。中村が小説の中で繰り返し凄惨な事件、残酷な境遇に置かれた人々を主題とするのは一方ではかかる状況の中にあっても神、あるいは神の摂理は存在するかというまことにドストエフスキー的、あるいは「ヨブ記」的な問いかけであり、この問題は直ちに私たちは真に自由であるかという問いにつながる。中村はクリスチャンではなかろうし、私たちが生きる現在はもはやかかるナイーブな問いを許す時代ではない。ことにあの3月11日以降、来るべき震災という迫り来るカタストロフ、放射能汚染という潜み行くカタストロフの下にいる私たちにとって、突然犬のように殺されたり、住む土地を追われたりすること、理不尽な苦痛を味わうことはありえないどころではなく、大いにありうる未来なのである。
 神なき時代にあって生の無残さといかに対峙するか。この問題は20世紀文学においても一つの主題系を形成している。セリーヌやカミュ、あるいは今挙げたマッカーシーを挙げてもよい。私たちはこの系譜をいくらでも拡張できる。しかし神という問題が直接に作品で言及されることの少ない日本において、この問いは十分に深められたとは言い難い。今述べたとおり、この小説は神、この言葉がそぐわなければ、運命や摂理と言い換えてもよいが、かかる存在と個人の関係を正面から主題に据えた点において異例であり、そして本書は両者の対立を超えた一つの地平を垣間見させる点において注目に値する。本書は18の章から成立しているが、終盤近くにストーリーとは直接関係のない奇妙な断章が挿入されている。それは「僕」が子供の頃から幻視した「塔」についてのエピソードだ。不幸な少年時代に「僕」は他人から盗むことを覚える。「光が目に入って仕方ないなら、それとは反対に降りていけばよい。(中略)今こそ、あの塔は、僕に何かを言うだろうと思った。あの塔は長く長く、立ち続けていたのだから。だが、塔はなおも、美しく遠くに立つだけだった。恥の中で快楽を感じた僕を、肯定も、否定もすることなく。僕はそのまま目を閉じた」このパッセージにこそ本書の核心が凝縮されている。木崎が支配する世界、神によって定められた世界のさらに背後に屹立する塔のイメージは鮮烈で喚起的だ。主人公は塔に励まされるかのように、かかる残忍な世界の中でも自らの意志をもって生きようとする。小説の最後で「僕」は木崎から掏った500円硬貨を空中に投げる。このエピソードに先に触れた「ノーカントリー」の原作であるマッカーシーの『血と暴力の国』においても、殺し屋アントン・シュガーが相手を殺す前にコインを投げて、裏か表のいずれであるかを問うイメージの反映を見ることは深読みに過ぎるだろうか。空中に投じられたコインとは自由意志の象徴であり、これゆえこの希望のない小説は結末で一縷の光明が差す。
 あとがきによれば、本書には『王国』という続編が存在するらしい。投じられたコインはいかなる未来を照らしたか。読まなければなるまい。
by gravity97 | 2013-05-26 20:42 | 日本文学 | Comments(0)
 引き続き東野芳明の美術批評選について論じる。前回は主にこの選集成立をめぐる形式的な側面について論じたが、今回は内容に関して検討を加える。本書の構成は「生中継の批評精神」と題された編者の序言に続いて、1960年から72年にかけて東野が執筆した20本余りのテクスト、インタビューをもとに構成された磯崎新の「反回想」、そして二人の編者による二つの論文がこの順に収められている。東野のテクストはほぼ発表順に収められており、行間から60年代の東野の八面六臂とも呼ぶべき活動が浮かび上がる。あらためて感じるのは東野が傍観者としてではなく当事者として美術のカッティング・エッジに立ち会う様子である。
 ジョン・ケージの「演奏会」の模様から説き起こされた本書には、東野自身も出演した草月会館での小野洋子の作品発表会、ブリヂストン・ホールでの「『反芸術』是か非か」公開討論会、「ヤング・セブン」に始まるいくつものギャラリーでの展覧会など、東野が実際に立ち会った多くのイヴェントや展覧会に関連するテクストが収められている。あらためて東野の透徹した認識に驚く。例えば最初のテクストで東野はヨーロッパの芸術家に比べ、アメリカの芸術家たちは「自己を表現する」のではなく、「今行っていることを正確に行うこと」を目指していると指摘する。このようなコメントは既にこの時点でミニマル・アートからコンセプチュアル・アートにいたるアメリカ美術の理路を正確に予見している。批評家は現代美術に伴走している。私はこれらのテクストを通して東野が1969年の「クロストーク/インターメディア」にも出演していたことを初めて知った。このほか関連文献は収録されていないが、東野は1964年の有名なラウシェンバーグへの公開質問会にも「出演」している。あるいはネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ関連の記録写真を見るならばいたるところでサングラスをかけた東野が作家たちと談笑する姿を見かける。このような姿勢は東野が私淑した瀧口修造と対照的である。瀧口もタケミヤ画廊での一連の企画をはじめ、作家たちと交流を重ねたが、常にいわば一歩下がった印象があり、その態度を赤瀬川原平は「目撃者」と呼んだ。瀧口が目撃者ならば、東野は共犯者であろう。批評家は積極的に街に出て、作家たちとともに状況にコミットする。そしてその背景には当時の美術をめぐる特異な状況を指摘することができるだろう。
 最初の章でジョン・ケージについて言及があり、二番目の章ではタイトルとして「チャンス・オペレーション」という言葉が用いられている。「チャンス・オペレーション」もケージによって導入された手法である。ケージはデュシャンとともに抽象表現主義以後の表現を模索する作家たち、つまりジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグといった東野と親交をもった作家たちに大きな影響を与えた。ケージは1962年に来日した際に、おそらく東野の仲介で『みづゑ』誌に「デュシャンに関する26章」というテクストを寄せるが(私たちはそれを東野の『現代美術 ポロック以後』のデュシャンに関する章の中で読むことができる)、その中に「音楽を書く一つの方法―デュシャンを研究すること」という断章がある。私は東野の批評を読む際には常にそのデュシャン研究を念頭に置くべきであると考えるが、ここで暗示されるのは音楽と美術といったジャンルを越境することの重要性だ。実際に50年代から60年代にかけてニューヨークでは様々な表現をとおしてジャンルの越境が試みられた。本書に収められた「コンバイン日記」には東野がアラン・カプローとナム・ジュン・パイクと会食するエピソードがあるが、当時、カプローが提唱したハプニングは「画家の演劇」と呼ばれ、実際に様々な作家によって演じられていた。さて、カプローはその著書の中でハプニングの条件をいくつか示すが、その中には「芸術と生活の境界は流動的で、可能な限り不明瞭なままに保たれるべきである」「結果として観衆は排除されるべきである」といった項目がある。これらの項目が生活/芸術、演者/観衆といったそれまで当然とされた区分に疑問を投げかけるものであることはいうまでもない。この点をいちはやく感受した東野にとって撤廃されるべき区分は作家と批評家の間にも存在したのではなかろうか。60年代以降、東野は一連のきわめてパフォーマティヴな批評を発表する一方で、知り合いの作家たちを批評的な営為へと誘う。例えば1971年に刊行され、自らが責任編集した講談社版の「現代の美術」のうちの一巻、『ポップ人間登場』を編集するにあたってはトム・ウェッセルマンらにアンケートを送り、返信を収録している。さらにいえば東野は自ら水中写真を撮影し、作品として個展で発表したこともあったらしい。批評家ならぬ写真家としての東野を語る際には重要なエピソードであろうが、私は未見であるから、これ以上立ち入らない。今述べた点との関連で興味深いのは、本書の中に二篇の「観衆論」が含まれていることだ。1967年の「現代観衆論」と1972年の「現代芸術と観衆」という二つの論文であり、前者は山崎正和の文章に対する反論として執筆されたと解題にある。観衆の分裂という問題を「手仕事」という概念と関連させて論じた前者と、メディアの隆替や「拒否によるアカデミスム」との関連で論じた後者は微妙に強弱を違えるが、私が注目するのはきわめて早い時期に東野が観衆という享受の側に目を向けている点である。奇しくもウンベルト・エーコの『開かれた作品』が発表されたのも1967年である。東野は記号学や受容美学とは全く別の文脈で早くから観衆や聴衆といった受け手の側に関心を抱いた。ケージやカプローを含む60年前後のアメリカの前衛芸術との交流が東野のかかる関心を育んだことに疑いの余地はないし、それは自らも演者と観衆を行き来した批評家ならではの着想であっただろう。私は現代音楽には詳しくないが、東野がケージに依拠するようにエーコも『開かれた作品』の冒頭で自身が「開かれた作品の詩学」に想到する機縁となった例としてシュトックハウゼン、ベリオ、ブーレーズといったヨーロッパの前衛音楽家の楽曲を挙げている。両者を比較することも意味があるかもしれない。
 巻末に磯崎新による「反回想」が収録されている。東野とともに一つの時代を画した建築家による回想だけに内輪の話も明かされて興味深いが、磯崎のごとき国際派にとっても東野の存在は別格であったようだ。このインタビューを磯崎が次のように結語する時、この点はよく理解できる。「東野には、現場でものを考え、それを説明できる力があったわけです。カラーフィールド・ペインティング、オールオーバー、ハードエッジ……美術界のコンセプトはめまぐるしく変化しましたが、ぼくらはこういったこと全部を東野経由で理解した。彼は、ひとつの時代的な変化を美術を通じて感じとっていた、そう思います」このような感慨は私も共有している。私が美術史学を学び始めた80年代初頭にあってもアメリカの戦後美術について書かれた文献はごく僅かであり、東野は最初に参照されるべき書き手であった。さすがに『現代美術 ポロック以後』で扱われた作家たちは既にビッグネームであったが、83年に連載が始められ、『ロビンソン夫人と現代美術』としてまとめられる一連の作家論については私も時代と同伴する作家たちについて東野からリアルタイムで情報を得た思いがある。この意味でもこの二つの著作は再刊が待たれる。しかし前者が主にアメリカの現地での交流や情報に基づいて執筆されたのに対して、後者は逆に作家たちが来日して東野と交流したことを契機として書かれた場合が多い。東野自身も『ロビンソン夫人と現代美術』のあとがきで、前者が「手に入る資料は限られていたし、原作を日本で見る機会は少なかった。こちらは、外国旅行の度につとめて見た体験をもとに、図版を眺めながらやっさもっさ書いた憶えがある」のに対し、後者の場合は「登場する作家にしても、彼ら、彼女らの展覧会やパフォーマンスをオーガナイズする日本の画商、美術館、プロモーターがふえたし、資料にしても、彼らを通して、かなり潤沢に手に入った」と述べている。後者の作家のセレクションがやや甘い気がするはそのせいであろうか。いずれにせよ、東野の本領は同時代の作家たちと直接やり取りしながら彼らの仕事に言葉を与えるダイナミズムにあり、それは外国の作家であろうが、日本の作家であろうが同様だ。本書の帯に「現代美術の生中継」という惹句が記されている。生中継とは編者の一人、松井茂の関心を反映してTV中継を暗示しているが、私はこの言葉にむしろ同時中継、つまりタイムラグなしに同時代の現代美術を紹介しようとする東野の批評の本質を見出す思いがする。同じ時期に作家たちとの対談をまとめて『つくり手たちとの時間』として上梓したことなども想起されよう。
 最後にもう一点、興味深く感じた点を記しておきたい。収録されたテクストの中に『アメリカ「虚像培養国誌」』に収められた「実体喪失の旅」と題された一文がある。妻の運転する自動車でニューメキシコからネヴァダまでアメリカ大陸の一部(サブタイトルによれば「アメリカ横断1/4」)を横断した際の旅行記である。インディアンの集落やグランドキャニオンといったアメリカ西部の表象からは例えばポロックの幼年時代が連想されるかもしれない。しかしここで東野が連想するのはポップ・アートに連なる作家たちである。車というイメージからアンディ・ウォーホルの衝突事故のシルクスクリーン、ジェームス・ローゼンクイストが描く車の車体、ハイウェイというモティーフからアラン・ダーカンジェロ、そして直線で裁断された州境のイメージからジョーンズの地図といった多様なイメージが提起される。ここで東野はマクルーハンを援用しながらポップ・アートの「虚像性」というまことに本書の主題にふさわしい問題を提起するのであるが、私はそれ以上に無人の砂漠をドライブすることが、人間にとって新たなセンセーションを喚起する点に興味をもった。私もかつてニューメキシコからテキサスにかけて無人の荒野を延々とドライブしたことがある。スピード感と距離感の喪失、不思議な空白感と風景の不在はこの地域ならではのものであろうが、ひるがえって私は東野に限らずドライブという体験がアメリカ美術に関する批評の中でしばしば引用される点に興味を覚えた。例えば次のテクストだ。

50年代の初めの一年か二年、私がクーパー・ユニオンで教鞭を執っていた時、ある人がニュー・ジャージーの未完成の高速道路に乗り入れる方法を教えてくれた。私は三人の学生を連れて、メドウズのある場所からニュー・ブランズウィック市までドライブをした。暗い夜で、灯も路肩標も白線もガードレールも何もなく、あるのはただ平地の風景の中を通って進んでいく暗い舗装道だけだった。風景は遠くのいくつかの丘に枠づけられ、だが煙突や塔や煙霧や色光が点々と見えていた。このドライブは意義深い体験だった。道路とほとんどの風景は人工的なものであったが、それは芸術作品とはいえないものであった。他方で、それは私にとって、芸術には決してなかった何かがなされていた。

この文章はマイケル・フリードの高名な論文「アート・アンド・オブジェクトフッド」において作家トニー・スミスの言葉として引かれている。詳しく論じる余裕はないが、ここでフリードはかかる体験を演劇と結びつけて、ミニマル・アート、彼の言うリテラリズムの芸術批判へとつなげていく。あるいは先述の『ロビンソン夫人と現代美術』の中で東野は自らの「実体喪失の旅」にも似たカルヴィン・トムキンス(!)の次のような文章を引用している。

 ラスヴェガスを飛び出して、乾ききった、何もないネヴァダの風景の中をドライブしてゆくのは、それ自体忘れがたい体験である。24時間営業のギャンブル・テーブルや奥様方に催眠術をかけるスロット・マシーンのある、空調のきいた豪華なホテルを後にして、焼けつくような砂漠の谷や浸食された丘に接すると、それもまた、負けず劣らず非現実的に見えたものだし、生活に敵意を見せている点でも、ラスヴェガスと同じだった。(中略)気温は華氏100度を超えたままで、車は煮えたぎったように熱く、身震いをやめない。7時過ぎ、太陽が地平線に近づく頃、ついに我々はそれを見つけた。

 「我々が見つけた」のはネヴァダの砂漠に刻まれた二つの巨大な切り込み、アースワークの代表的な作品の一つ、マイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》である。スミッソンの《スパイラル・ジェティ》にせよウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》にせよアースワークの作品について語られる時、それらがいかなる僻地に制作され、到達のまでのドライブがいかに苛酷かという点がしばしば言及される。ここではドライブの体験と作品の体験が一体化されている。ポップ・アート、ミニマル・アート、アースワーク、意図も構造も全く異なるこれらの作品がいずれもドライブという体験と深く関わっていることを知る時、私は戦後アメリカ美術にとってドライブという体験が隠喩であり換喩であったことを知る。この時、東野が発表した、少なくともタイトルにおいて美術と直接の関係をもたないエッセイ集に『クルマたちとの不思議な旅』というタイトルが付されていた点はなんとも興味深い。
 最後にもう一人、日本を代表する美術批評家が戦後アメリカ美術を主題として執筆した論文からの引用によってこの文章を終えよう。アクション・ペインティングからポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアまでをプロテスタンティズムという独自の視点で分析し、先にも触れたアリゾナへのドライブ旅行に関する東野の文章を引用した後、宮川淳は次のような言葉とともに「記憶と現在」という論文を締めくくっている。

 ハイウェイをどこまでもはてしなく疾走するドライバー、そしてフロントグラスに切り取られる風景はたしかにきわめてアメリカ的主題であるが、しかし、それにもまして、すぐれてアメリカ美術的な主題であるように思われる。そこにはほとんどポロック的な主題があらわれると同時に、しかし、またこの無限の時間論的現在はまさしく《表面》に吸い取られ、空間の現前に変換されてゆく。しかもそれはイメージと抽象的な色面とが《反イメージ的レベル》で出会う境界、ポップ・アートがその後の抽象的な動きに溶解してゆく瞬間でもあるのである。

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by gravity97 | 2013-05-09 21:15 | 現代美術 | Comments(0)
b0138838_9375343.jpg 河出書房新社から『虚像の時代 東野芳明美術批評選』というアンソロジーが刊行された。私が現代美術に意識的に関わるようになった80年代には東野芳明はいわゆる御三家として針生一郎、中原祐介とともに美術界において圧倒的な権勢を誇っていた。私自身熱心に東野の著作、そして様々の媒体に発表される東野の時評を読み継いだことを覚えている。おそらく影響力という点では当時この三人の中でも最も大きかったのではなかろうか。しかし東野は90年代初めに病に倒れたこともあり、今日必ずしも十分にその重要性が認知されていない。今回、このレヴューを書くにあたって調べてみて驚いたのだが、今日、東野の著作は一般的な画集の解説といったさほど本質的ではない仕事を除いて、新刊として入手することが困難である。東野に限らず、この国では現代美術に関する評論は刊行された際に入手しておかなければ時をおかずして絶版状態となり、参照することはかなり困難となる。この意味からも本書が刊行された意義は明らかであろう。
 残念ながら私は御三家のうち、東野のみ面識をもたない。しかし今述べたとおり、80年代にあって東野は私が最も愛読した美術批評家であった。抽象表現主義以降の戦後美術を作家ごとに列伝風にまとめた『現代美術 ポロック以後』は1984年に新装版が発行され、この時期、東野はその続編として後に『ロビンソン夫人と現代美術』としてまとめられる連載を『美術手帖』誌上に始めていた。時はあたかもニュー・ペインティングが勃興しつつあった時期であり、初回のフランク・ステラ論を読んだ際の興奮は今でも覚えている。また当時、デュシャンに関心をもっていた私にとって1977年に刊行された『マルセル・デュシャン』は幾度となく読み返した名著であった。そして単に多くの文章を発表するだけでなく、東野は日本の現代美術をめぐる状況を常に挑発し、活性化に努めていた。この点はそれなりに時代にコミットしていた針生や中原、さらには日本の美術状況に絶えず罵倒を投げかけた藤枝晃雄らと比べてもひときわ印象が強く、この時期、東野は日本の美術批評の中心にいたと言っても過言ではなかろう。美術批評に関わる中で私はごく自然に東野の独特の文体になじみ、東野の著作から多くを学んだ。今述べた通り、東野は90年代初頭、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』を上梓したあたりで病に倒れ、長い闘病生活に入った。まだ60歳という若さであるから無念であっただろう。かかる断絶は私にとっても残念ではあったが、東野の活動と著作に馴染んでいたため、既にその仕事については私なりに理解していたつもりであった。しかしそれから20年余、没後からも10年近くが経過した現在、書店の店頭で東野の主著がほとんど手に入らないという状況を誰が予想しただろうか。言い換えるならば、現在40歳以下の世代にとって東野の批評にリアルタイムで触れる機会はほぼありえなかったのだ。今回、この選集を編んだ二人の編者は1975年と79年生まれであるというからこの世代に相当し、序文には「私たち編者はもちろん、編集者も“ナマ”の東野芳明に会ったことはなく、そのテキストを通してのみ東野に出会い、その文章に“ハマッタ”」と記されている。
 この感慨は私も十分に理解できる。東野は独特の文体をもっている。口語に近いくだけた表現の導入。地口や悪ふざけのような表現の多用。文中であなたという呼びかけを繰り返し、読む者を誘い込むような表現。カタカナで表記される文章を文中に頻繁に挿入することにより、レヴェルの異なったテクストを論考の中に編み込んでいく手法。一言で言うならば、東野の文体は読者に向けられた一種のアジテーションであり、「評論家」の無味乾燥な文体の対極にある。先に挙げた何人かの批評家、針生や中原、あるいは藤枝らもそれぞれ独自の文体をもっており、私はそれらを比較する研究があってもよいと考える。あるいは椹木野衣が『日本・現代・美術』において先行する批評家や作家の文体をアプロプリエイトしながら一つの通史、いや反通史を語りえたことは彼らが文体に対して意識的であることを前提としている。その中でも東野の文体は挑発的であり、読者が「ハマル」ことは大いにありうる。しかもこのような文体は時評や軽い読み物だけでなく一篇のアカデミックな論文としても通用する『マルセル・デュシャン』まで一貫している。
 本書の目次を見て驚いたのは、東野の著述にはそれなりに精通したつもりでいた私にとっても初見の文献がほとんどであったことだ。書誌的事項を確認して納得する。ほぼ年代順に並べられたこれらの論考のうち、最も早い時期に執筆された文章が『音楽芸術』1960年7月号に掲載された「アメリカ前衛芸術論のためのノート」、最も遅いものが1972年に東野の編集によって刊行された『芸術のすすめ』に収められた「現代芸術と観衆」であり、東野の仕事としては初期にあたる。本書に収録された論文が60年代に執筆された内容にほぼ限定されている理由について編者たちは次のように説明する。「本アンソロジーが、1960年代のテキストを中心とした背景には、『思想的定見に固執し、立派な意見を吐くことには、どこか、うさんくささがある』という東野の批評精神の水脈が、自他共に認めるように、この時期にあるからに他ならない。言わば、1960年代を知るための東野芳明であり、東野芳明を知るための1960年代という換喩が本書のコンセプトである」後で論じるとおりいささか問題のあるコメントであるが、大阪万博以前の比較的早い時期の論考が収められていることと並んで、雑誌等に掲載された後、再録されることがなかった論文が多く収められている点も本書の新鮮さの理由だ。『芸術新潮』や『美術手帖』はともかく、『音楽芸術』や『ジャパン・インテリア』あるいは『季刊フィルム』といったかなり癖のある雑誌、さらには『展望』や『潮』といった美術史学の研究者にとって馴染みの薄い総合誌までを渉猟し、重要な論文を収録したことは本書の大きな功績である。この点を認めたうえで、私はあえて一つの疑問を呈しておきたい。
 まず東野に関して評伝的事実を確認しておこう。1930年、東京に生まれ、54年に東京大学文学部美学科を卒業した東野は卒業の同年に発表した「パウル・クレー論」で美術出版社の美術評論新人賞を受賞し、批評活動を始める。クレー研究で出発し、大岡信らとシュルレアリスム研究会を始めたことからもうかがえるとおり、当初、東野の関心はヨーロッパの近代絵画に向けられていた。しかし58年から59年にかけて、ヨーロッパとアメリカに長期滞在して同時代の作家たちと親交を結んだことによって、批評家の視界は大きく開けた。実際、この時期の美術界、特にニューヨークのそれは新たな表現が次々に勃興する活気にあふれており、東野はここでジョーンズとラウシェンバーグという終生の友を得る。1962年に三彩社から刊行された『パスポート No.328309』はこの際のヨーロッパとアメリカの旅行記であり、新しい表現を眼前にした衝撃がみずみずしく表現されている。この後も東野は欧米をしばしば訪れ、時に比較的長い期間滞在したが、批評家としての原体験が50年代末の最初の欧米体験であったことは明らかであろう。そして60年代以降、東野は旺盛な執筆活動を開始し、自らが出会った作家たちの仕事に言葉を与えていく。1961年から『みづゑ』誌に「現代美術の焦点」というタイトルで連載された作家論は65年に『現代美術 ポロック以後』という一冊の本に結実する。ポロックのアクション・ペインティングについて触れた有名な一節を含むハロルド・ローゼンバーグの『新しいものの伝統』を翻訳したのも同じ65年である。68年に刊行された『アメリカ 虚像培養国誌』は未読であるが、タイトルと本書に再録されたいくつかのテクストを読む限りやはりアメリカ美術をテーマとしている。この一方で同じ時代、東野が多くの展覧会評を発表し、展覧会の企画に関わったことも触れておかねばならないだろう。60年代初頭の読売アンデパンダン展の狂騒に東野は深くコミットし、展評の中で工藤哲巳の作品に与えた「反芸術」の語は60年代美術のキーワードとして、本書でも言及される「『反芸術』是か非か」論争を引き起こすことになる。本書を読んであらためて思い知ったが、この時期、東野はギャラリーや美術館における多くの展覧会を企画する。本書中に言及のある展覧会としては1964年、南画廊における「ヤング・セブン」展、66年、同じ南画廊での「色彩と空間」、同じ年、銀座松屋における「空間から環境へ」、そして東野がコミッショナーを務め、高松次郎らが4 ボソットというグループとして参加した1969 年の第6回パリ・ビエンナーレなどがあり、このほかにも東野は1970年と72年、二回にわたってヴェネィツィア・ビエンアーレのコミッショナーを務め、国内でも1970年に東京国立近代美術館で開催された「1970年8月―現代美術の一断面」を企画している。
 ひとまず本書と関連する60年代の東野の活動について述べた。70年代以降も東野は日本きってのデュシャンピアンとしての資質を遺憾なく発揮した一連のデュシャン研究や大ガラスの東京バージョン制作、あるいは多摩美術大学教授としての多様な仕事を手がけ、日本の現代美術の展開に深く関わったことは知られているとおりであるが、本書が60年代の東野をテーマとしている以上、ひとまずここで留めておこう。さて、以上述べた東野の活動を考慮する時、この選集の内容にいささか不審の念が生じないだろうか。つまり、この選集に収められたテクストは果たして東野が60年代に執筆した「美術批評選」と呼べる内容であるかという疑問だ。今述べたとおり、この時期の彼の仕事の中心は同時代のアメリカ美術を日本に導入することであり、同時代の日本の若手作家たちを批評することであったはずだ。50年代末の外遊から帰るや、東野は『パスポートNo.328309』という旅行記によってこの外遊を総括し『みづゑ』に充実した現代作家論の執筆を開始した。一方で新聞や雑誌に読売アンデパンダン展をはじめとする多くの展覧会の批評を執筆し、宮川淳との間に名高い「反芸術」論争を引き起こしたりする。いずれも時代にコミットすることを使命とした東野らしいテクストでありふるまいであるが、これらはなぜか本書に十分に反映されていないように感じる。確かにジョン・ケージのコンサートから書き起こしたアメリカ美術論や「反芸術是か非か」討論会への勧誘文など関連した文章もいくつか収録されている。しかし東野の本領は状況論よりも作家論にあり、この時期に執筆された多くの作家論、あるいは宮川との間で交わされた「反芸術」をめぐる応酬、例えば「異説・反芸術―宮川淳以後」が収録されていないのはきわめて不自然に感じられる。私はないものねだりをしているのではない。もしかすると著作権等の関係で本書に収録がかなわなかったといった事情があったかもしれないが、巻末に付された二人の編者の論文を読む時、これらのテクストの不在は端的にエディターシップという問題と関わっているように感じられる。
 二つの論文から編集者たちの関心の所在は明らかだ。伊村靖子は「デザイン」という概念を用いて東野が企画した「色彩と空間」展における「発注芸術」という発想について論じ、松井茂はこの時代に大衆化したテレビ放送との関係に注目して東野の一連の著作を読み解く。このような関心を知る時、「プライマリー・ストラクチュア」や福岡相互銀行大分支店の建築といったかなり特殊な主題に関連したテクスト、あるいはE.A.T.や大阪万博のパヴィリオンとの関わりといった東野の文章でもあまり知られることがなかった主題と関わるテクストがことさらに再録された理由は明らかだ。私はいずれもきわめて興味深いテーマだと思う。しかし逆に本書はこのような特殊な関心に従って編まれているのではなかろうか。私が残念に感じるのは、二人の編者に他者の言説を編集しているという意識が希薄で、この「批評選」自体を自らの関心に引きつけすぎている点だ。誤解を招かないように言い添えるならば、私はこの「批評選」のセレクションは高く評価するし、アンソロジーという営みが無数のテクストからの取捨を前提とする以上、編者の関心が介在することは当然である。しかしそれならば遺された膨大なテクストの中から自分たちがどのような基準に基づいて収録された文章を選んだかを明示する義務があるのではなかろうか。おそらく「生中継の批評精神」という巻頭言の中でこのような説明がなされるべきであっただろうが、連名によるこの文章においてそのような関心がうかがえるのは先に引いた「1960年代を知るための東野芳明であり、東野芳明を知るための1960年代という換喩」という一文のみである。確かに批評は時代の鏡であるかもしれない。しかし一人の批評家が様々な必然性に迫られて執筆した文章を単に一つの時代の換喩とみなすことはいささか礼を失した態度ではないだろうか。デザインやTVとの関わり、それらは東野のきわめて興味深い一面であるかもしれないが、決して本分ではない。最初に述べたとおり、今日、東野の主著を書店で入手することはきわめて困難であり、多くの若い読者にとって未知の批評家であるはずだ。それゆえまず東野の批評の全体像を概観したうえで、編者たちの関心の所在を示し、それに基づいて個々のテクストを選んだ理由を明記する、刊行にあたっては個々の独立した論文を添えるのではなく、本書のために新たにそのような一文が草されるべきだと感じるし、それがエディターシップというものではなかろうか。
 もっともインターネットが発達した今日、古書として東野の著作を入手することは比較的たやすい。アマゾンで検索したところ、現在でもほとんどの重要な著作を比較的安価で求めることができるようであるから、本書がいわば further reading の手引きとして多くの人が東野の批評に触れる契機となることは十分にありうる。この機会に絶版とされている書籍が再刊も望みたい。さらにいえば、東野以上に今日著作を入手することが困難であった中原祐介に関しては先年より全12巻より成る美術批評選集の刊行が開始されている。東野についても主要な著述を網羅した著作集の出版を望むのは私だけではないはずだ。その傍らに置く時、本書も初期東野の集成として重要な一翼を担うことになるだろう。
 例によって形式的な側面を中心にやや批判的なコメントも加えたが、本書の刊行は快挙と呼ぶにふさわしい。論じるべきことは多く、本書の内容にはまだほとんど立ち入っていない。このブログとしても異例であるが、本書の内容については次回にあらためて論じることとしたい。
by gravity97 | 2013-05-04 09:45 | 現代美術 | Comments(0)

HEARTLAND BEER

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by gravity97 | 2013-05-01 15:25 | MY FAVORITE | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック