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 半年ほど前から国書刊行会よりボルヘスの『バベルの図書館』が重厚な装丁のもとに新編として刊行され始めた。私の記憶によれば同じ内容のアンソロジーは既に同じ版元から出版されていたが、確か作家ごとにまとめられていたため、いちいち買い求めるには煩雑であり、私は長く敬遠していた。今回の新編は作家ごとではなく国ごとの合本、つまりアメリカ編、イギリス編、フランス編、ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア編、ラテンアメリカ・中国・アラビア編の五部によって構成され、イギリス編のみ二巻、ほかは一巻にまとめられている。以前より関心をもちながらも、読むきっかけがなかった作家が多く収録されていることもあり、この機会に最初に刊行されたアメリカ編をやや時間をかけて通読する。
 周知のごとく「バベルの図書館」という叢書はアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが古今東西の文学の中から選りすぐった短編のアンソロジーである。したがって同じ叢書は日本以外でも出版されているはずであり、著作権に関する表記からおそらく最初イタリアで刊行されたのではないかと思われるが、、本書にはこのアンソロジー全体についての編者の意図の説明や翻訳者による解説が付されていないため、このあたりの事情はよくわからない。興味深いことにはボルヘス自身の短編集『伝奇集』の中にもやはり「バベルの図書館」という短編が収められている。ボルヘス自身もアルゼンチン国立図書館の館長を務めたというエピソードはさておき、無限を内包する図書館の構造の仔細について論じたこのメタフィクション自体もこのブログの一篇を用いて応接すべき深みを備えているが、ひとまずは措く。以上の説明からも『バベルの図書館』という叢書の特異性は明らかであろう。それはボルヘスという稀代の碩学が選んだ世界文学の見本帳であり、地域にしてアメリカからヨーロッパ、アラビア、時代にして『聊斎志異』からカフカまでを包摂する奇跡のような集成なのである。数カ国語に通じたボルヘスがコスモポリタンであることはいうまでもないが、それでもなお、かかる試みがアルゼンチンというヨーロッパからも北アメリカからも周縁とみなされる地域の文学者によってなされたことの意味は大きい。英語圏、特にイギリスの作家にやや比重が置かれていることはボルヘスが幼時より英語に親しみ、イギリス式の教育を受けたことが反映されているかもしれないが、ポーやワイルドはともかくマイリンク、パピーニといった私が初めて聞く作家を動員して世界文学を編集するという発想は一種のグローバリゼーションではないか。もっともかつて『汚辱の世界史』の中に吉良上野介の項目を認めて驚いた私としてはさもありなんというラインナップでもある。
 前置きが長くなった。本書の内容について触れよう。本書に収録される作家は五名、ナサニエル・ホーソーン、エドガー・アラン・ポー、ジャック・ロンドン、ヘンリー・ジェイムス、ハーマン・メルヴィルという面々だ。私はいずれの作家の作品も興味深く読んだ。メルヴィルのみ一篇、あとの作家は五篇ほどの短編が収められている。もちろん私は彼らの名前は知っていたし、ポー、ロンドン、ジェイムスについては随分昔に短編を読んだ記憶がある。これらの作家は現在でも真剣に読むつもりであれば主要な作品を日本語で読むことは不可能ではなかろうが、アメリカ文学の専門家でもなければなかなか手に取る機会のない作家であり、どの短編を読むべきかに関しては途方にくれてしまう。この時、優れた読み手によってまとめられたアンソロジーはよきガイドブックになる。先にこのブログでは池澤夏樹が編んだ世界文学の短編集について論じたことがあるが、池澤同様にボルヘスもまた信頼に足る小説の読み手である。彼の選択を信じることなしに私は生涯のうちにこれらの短編を読むことがなかったかもしれない。
 ボルヘスは1899年生まれであるから、その一生は20世紀に重なる。ここに収められた作品は彼が作家としての自我を形成した時期に読み込んだ小説であり、当然その大半が19世紀に発表されている。(収録作品については原題のみ記されているが、書誌的には少なくとも発表年についても明記してほしかったと思う)したがって大半の作品は20世紀の小説を読み込んだ私たちにとっては少々古めかしく感じられる。しかし決して古びてはいない。後で記すとおり私はこれらの小説を読んで、現代の日本の小説についても考えるところがあったのだ。少々乱暴な議論となることを承知したうえで述べるならば、小説において19世紀と20世紀を分かつものがあるならば、それは「物語を語る」ことが無前提に許されているか否かという点ではないだろうか。20世紀以降、文学はなぜそれが言語によって表現されなければならないかということを常に問題としてきた。この言い方が強すぎるならば、言語によって表出されるという自覚なくしては成立しえなくなったといってもよい。それをモダニズムと呼んでもよかろうし、形式への関心といってもよかろう。20世紀文学において視点や人称、意識の流れや時制といった問題が探求されたのはこのような理由による。これに対して19世紀以前の文学においては作家の関心は主として何を語るかという点に向けられた。それゆえバルザックならば社会、ドストエフスキーならば神といった重厚きわまりない主題を臆面もなく扱いながら多くの傑作に結実させることができたのだ。(むろんこれは彼らが作品の形式に無関心であったことを意味しない)重厚な主題に対しては重厚な小説。19世紀が長編小説の時代であったことには理由がある。しかし『バベルの図書館』に収録され、ボルヘスが好んだのはむしろ短編であった。それではこれらの短編で作家たちは何を語ろうとしたのであろうか。
 確かに本書に収められた作家は『白鯨』を著したメルヴィルを除いて短編の書き手が中心である。ほかの巻に収録された作家たちも国籍こそ異なるが、いずれも短編作家として知られ、それゆえ比較的知名度の低い作家たちである。まだアメリカ編を通読しただけの時点で、結論づけることは早計に過ぎるかもしれないが、私はこれらの小説の多くに共通する特質を見出したように感じる。それは「奇譚」を語るという姿勢だ。試みに劈頭のホーソーンの『ウェイクフィールド』を読んでみよう。ボルヘスが「文学における最高傑作の一つ」とまで激賞するこの短編はタイトルのとおり、ウェイクフィールドなる奇矯な人物の「失踪」をめぐる物語である。平凡な生活を送っていたウェイクフィールドはある日、旅行に出かけると言って妻のもとを立ち去り、そのまま失踪する。しかし実は彼は隣り合わせの通りに部屋を借り、妻にも友人たちにも知られることないまま20年以上暮らし続けていたという話である。しかもこの小説の核心は物語が語り始められると直ちに読者の前に開陳されている。「文学における最高傑作の一つ」であるかどうかはともかく、実に奇妙な小説といえよう。ちなみに辞書で「奇譚」の語を引くと、「世にも珍しく興味ある話」という定義がなされているが、本書に収められた短編、例えば催眠術によって死を遅延させる試み、残忍なコサックに囚われた毛皮泥棒のたくらみ、軍人の名門一族の屋敷に出没する幽霊、これらの物語はいずれも奇譚と呼ぶにふさわしい。これと関連して、ここに収められたテイストの異なった作品のいくつかに共通する一つのモティーフが見出せることは興味深い。ホーソーンの「人面の大岩」、ロンドンの「影と光」、ジェイムスの「私的生活」、本書には収録されていないがここにポーの不気味な短編「ウィリアム・ウィルソン」を加えるならば、いずれの小説もダブル(分身)、もしくは双子という主題系列に連なっている。もちろん作品によってこのモティーフはさまざまに脚色されており、そのヴァリエーションを読み比べることも本書の大きな楽しみであるが、ダブル、分身の物語とは古今東西を問わず、奇譚の典型であり、おそらく『バベルの図書館』の他の巻にも同じモティーフが頻出することを私は現時点で断言できる。
 ボルヘスもまた奇譚の作家であった。例えば「記憶の人、フネス」、「不死の人」、「死後の神学者」。これらの短編はそのタイトルを読んだだけで「世にも珍しく興味ある話」が語られることが予想される。『バベルの図書館』とはまさに一個の想像上の図書館として彼がこれらの作品を執筆するうえで参照される書架であり書庫であったといえるかもしれない。そしてもう一冊、「奇譚」という言葉から私が連想するのは村上春樹の『東京奇譚集』である。この短編集の冒頭で村上は次のように語る。「どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの『不思議な出来事』について、じかに語っておいた方が良いだろうと思ったからだ」村上は自分が語るのは奇譚であることを言明したうえで、相互に無関係な五つの物語を読者に差し出す。この短編集に限らず、村上の小説はなにものかの侵入によってごく普通の日常を送っていた主人公が「不思議な出来事」の中へ投げ出されるという構造をとる場合が多い。例えば『バベルの図書館』中、語り手が経営する法律事務所に新たに雇われた男の奇妙なふるまいを描いたメルヴィルの「代書人バートルビー」などは村上の短編とよく似た構造を有しているといえよう。
 偶然であるが、私はボルヘスが編集したこの長大なアンソロジーを読む途中で、その中に挟み込むように一冊の新刊を読んだ。いうまでもなく村上の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。たまたま同じ時期に読んだため、私は村上の小説が本質的に奇譚と深く関わっていることにあらためて思い至った。村上の新刊においてもサブストーリーとして一つの奇譚が語られる。それは主人公である多崎つくるの友人の灰田、正確には灰田の父親の話として語られる、人の背後に色彩が見える男の話である。ただしこの奇譚は必ずしもうまく機能していないように感じられる。このエピソードはメインストーリーとかみあうことなく灰田とともに物語の途中で退場してしまうのだ。私はこの奇妙なタイトルの小説をそれなりに楽しんで読んだが、語られる内容と物語の長さが村上としては珍しく不調和な印象を受けた。本稿は村上の新刊について論じる場ではないので、これ以上踏み込んで論じることはしないが、私は先に奇譚の典型として分身ないし双子という主題を挙げた。初期の村上の作品、例えば『羊をめぐる冒険』においても双子という主題が見え隠れしている点については既に蓮實重彦が指摘している。したがって少なくとも村上において奇譚を語ることは必ずしも短編ばかりと結びつく訳ではない。あるいは奇譚の積み重ねによって作品が成立するガルシア・マルケスや現代風の綺譚にカフカ的なひねりを加えたポール・オースターのような作家を想起してもよいだろう。19世紀の短編小説を特徴づける奇譚という語りは今日においてもきわめて有効な物語の原理なのである。
「文学とは幸福というものの数ある多様な形態のうちの一つである」とはボルヘス自身の言葉だ。本書を通読して、そして私が読んでいない『バベルの図書館』がなお5冊も残されていることを知る時、私はこの言葉に全面的に同意する。b0138838_9424537.jpg
by gravity97 | 2013-04-27 09:47 | 海外文学 | Comments(0)

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by gravity97 | 2013-04-21 14:13 | BOOKSHELF | Comments(0)
b0138838_15233455.jpg 大阪、肥後橋駅の近くにHajimeというフレンチ・レストランがある。2009年にミシュランが大阪、京都版を刊行した際にいきなり三つ星を得て話題になった店である。(現在は二つ星)オーナーシェフは1972年、枚方生まれの米田肇。シェフとしては遅咲きの米田に密着して、その修業時代から今日までを記録したのが本書である。
 巻頭にアミューズからデセールまで米田が作った美しい料理の写真が掲載され、本文は第一の皿「ひらめ」から第十の皿「恵」までそれぞれ料理の名を取った10章によって構成されている。読み始めると、いきなり米田の料理を食べた際の印象が絶賛の言葉の繰り返しとして記されている。批評の対象が何であろうと、私はこのように対象と密着した書きぶりが好きではない。また図版として示されたそれぞれの皿はあまりにも美しく、過度に洗練された料理は苦手な私としては、正直言って(今はほとんど予約がとれないというが)もし機会があっても特に食べたいとは思わない。これらの理由によって、さほど気乗りしないまま本書を読み始めたが、通読してみるとなかなか味わいのある内容であった。
 最初の章においてHajimeで味わった料理の印象が語られた後、第二章では2009年、ミシュランで三つ星を得た際の米田の対応が描かれる。書名に三つ星という言葉があるから、ミシュランのエピソードから語り始められることは当然といえば当然であろうし、全く無名であった米田のレストランを訪ね、「正当に」評価したミシュランの調査員たちを筆者の石川は高く評価する。以前このブログでも述べたとおり、私はミシュラン的な評価をさほど意味のあるものとは考えないし、後述する華麗な職歴を考えるならば、いくら新しい店であったとしても米田の店が専門家によって注目されていたことは明らかであろう。むしろ注目すべきは米田の醒めた態度だ。米田はミシュランの三つ星をエベレストの山頂に喩え、最初からそこに行こうと決意しなければ絶対に到達えないと説く一方で、それはスタートラインにすぎないと述べ、自分が求める料理はミシュランの三つ星より遙かに高いところにあると言明する。傲岸にも聞こえる言葉であるが、この言葉に米田の料理に向かう姿勢の本質が露わにされている。
 最初に米田の生い立ち、そして大学を卒業して一般企業に就職した後、本格的に料理人を志すまでの経緯が記される。小学校時の作文に「一流の料理人」になることが夢だという一文があるから、シェフへの道は予想できないものではなかったとはいえ、一般の大学と企業に進んだ後、身を翻して辻フランス料理専門カレッジに入ったのは25歳の時である。料理人をめざす者としてずいぶん遅いスタートであることは私にも理解できる。石川は米田のバックボーンを形成するにあたって関与したであろういくつかの要素を指摘している。まず彼の母親が料理上手であったこと、数学が得意であったこと、そして正道会館で空手を学び、かなりの腕前であったことなどだ。さらに石川は米田が学んだ辻調理師専門学校を設立した辻静雄と米田の実際にはありえなかった邂逅を夢想する。辻は米田が入学する5年前に亡くなっている。私もかねてから辻の書いた一連のフランス料理に関するエッセーや研究書、あるいは海老沢泰久の書いた辻の評伝などに親しんできたので、石川の思いはわからないでもない。米田の歩みが語られると同時に、日本におけるフランス料理の歴史、あるいは米田の少年時代、1980年前後の関西におけるフランス料理への関心の高まりなども記され、私たちは米田の立つ位置をおぼろげに想像することができる。
 学校での短い修業を経て、米田は実際にレストランの厨房に入る。この際のエピソードが興味深い。米田は一番厳しい店を紹介してほしいと学校に希望を出し、当時、大阪で最も名の知れた店の厨房に入る。店の名前が記されていない理由はすぐわかる。この店の厳しさは常軌を逸しており、殴る蹴るは当たり前、スタッフは次々に夜逃げ同然に店を辞めていったという。この店は昼も夜も満席のいわゆるグラン・メゾンであり、もしも当時ミシュランが存在したならば、三つ星に一番近いレストランで会ったと書いてあるが、そのような豪奢な店の厨房がかくのごとき修羅場であったとはにわかには信じがたいが、理解できないでもない。アミューズからデセールまで一日400皿以上の料理を完璧に調えることを課せられたシェフのストレスは想像に絶する。そのはけ口はスタッフに向けられて、仕事上の不始末や不注意を理由に胡椒挽きやパイ皿、土鍋で殴られたという。米田も精神的に追い詰められ、一年ほどで店を辞める。しかし米田はこの経験、そして件のシェフに対して今では恩義さえ感じるという。米田は学校で学んだことが、野球でいえばルールブックを作ったにすぎないということを知る。ルールを知ることと実際にプレーすることは異なる。料理についての知識をもっていることと実際に料理を作ることは別であることを米田はこの厨房で知ったという。そして米田は自分の店をもつ際に、かつて自分を殴ったシェフの思いを理解することとなる。
 最初の店を辞めた米田は運良く神戸のフレンチ・レストランに採用される。この店もパリの三つ星レストランで修業した優秀なシェフを擁する高級店で、店の名前も明記されている。米田はここで自らの仕事の本質を悟り、料理人として覚醒する。次の目標はフランスに渡り、現地で修業することである。米田は30歳になるまでにフランスに渡るという夢をかなえ、ロワールのジビエ料理で知られた「ベルナール・ロバン」という二つ星のレストランで修業を始めた。この店で彼は水を得た魚のごとく、多くを吸収し、一流のシェフに向かって成長していく。労働許可取得をめぐる軋轢や油絵に対する才能の開花(本書のイラストは全て米田自身の手による)といったエピソードを織り交ぜながら、「ベルナール・ロバン」から「オー・ランデヴ-・デ・ペシュール」、そして「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」へと店を移りながら成長していく米田の姿が描かれる。洞爺湖のウィンザーホテルの中にある「ミシェル・ブラス」は伝説的なシェフ、ミシェル・ブラスが世界中でただ一軒開いた支店である。スタッフの多くはライヨールという村にある本店の経験があり、毎年11月にはミシェル・ブラス本人が来日して料理を作るのである。ここで米田は本店においてはブラス自身が担当するヴィヨンドと呼ばれる肉料理担当のシェフを務め、来日したブラスから直接に指導を受ける。この時のエピソードも印象的だ。「ベルナール・ロバン」でジビエ料理、「オー・ランデヴー・デ・ペシェール」で魚料理の経験を積んだ米田は自分の包丁さばきには絶対の自信があった。ところが米田が鳩の胸肉を切り分けているのを見たブラスは上手ではないと評し、代わりに包丁を握る。胸肉への火入れと包丁の研ぎ具合についてはブラスも満足している。つまり問題は切り方なのだ。米田は次のように語る。「ミシェルの包丁を握る手のどこにも力が入っていない。剣の達人が棒ですっと肉の表面を撫でたら、肉が切れていたみたいな感じだった。思わず彼が切った肉の断面を見たら、これが何と言えばいいか、すごく美しいんです。頭を抱えました。自分では切ることに自信を持ってました。そのときだって、いつもどおり完璧に切ったんです。(中略)自分が世界一とは言わないけれど、本心を明かせば、世界一とそれほど大きな差はないというところくらいまでは来ていると思ってたんです。ところが、とんでもなかった。その時、これは怖い世界だなって思いました。包丁のことだけじゃないということに気づいたんです。今回はたまたま包丁だけに目が行っただけのことであって、ミシェル・ブラスが見ている世界というのは、お皿の選び方から、盛りつけから、火入れから、何から何まで全部、そのレベルでやってるんじゃないかって思ったんです。僕には見えてなくて、ミシェル・ブラスにだけ見えてる世界があるんじゃないか」滞在中、ブラスは何度となく米田の包丁さばきを検分しては駄目出しを重ねる。シェフが近づくことに恐怖を感じたのは最初に入った大阪の店以来であったという。何度も手を動かしているうちに米田は遂にブラスの境地を会得する。「切ろう切ろうとしているうちは駄目だったんです。切ることを忘れて、切るというか。あくまで感覚的な話だけれど、切るんじゃなくて、境目みたいものがあって、そこで肉を分けるという感じに近い。自分でもその感覚がつかめたと思った瞬間があって、それからミシェルはもう来なくなったんです」この言葉から私は中島敦の「名人伝」中の「不射の射」のエピソードを連想する。国内外のいくつもの名レストランを転戦し、ほぼ毎日肉を切り分けることを自らに課してきた米田にとってさえも「射の射」ならぬ「不射の射」の境地に達するにはブラスという「名人」の指導を必要とした。まことに料理という世界の奥深さを感じさせるエピソードである。
 このエピソードを最後に米田は「ミシェル・ブラス」を辞して、念願の自分の店を構える準備に入った。父の死が一つの契機であり、妻が二人目の子供を懐妊したことも転機の理由であっただろう。兵庫県の実家に戻り、関西各地で店としての適当な物件を探す。この作業も難航するが、最後に米田をとらえたのはビストロ向きの小さな空間ではなく、本格的なフレンチ・レストランを作るという考えであった。不眠不休の準備の果てに2008年5月にHajimeは開店する。完璧主義の米田が設えたレストランであるから、内装から家具、メニューからHPまで全てに米田のこだわりが生かされていた。しかし米田の思いは空回りする。初日は友人の客が二人だけ。翌日から米田は店を三日間閉めてスタッフに接客の訓練をする。当然であろう。米田はシェフとしては一流であっただろうが、レストランはシェフだけで成り立っている訳ではない。元々米田はシェフ・ドィ・パルティ、部門シェフであったから、レストラン全体を統括した経験がないのだ。「ほんとに素人のスタッフしか集まらなかったんです。フォアグラも見たことがないという人を何人も教えていましたから。食器洗いも、営業中は私が全部やってました。スタッフに任せると食器が山ほどたまって、仕事が回らなくなるんです。私は3人前は動けるから、食器をぶわーっと洗って、料理を盛りつけて、魚焼いて、肉焼いて、また食器洗ってって、ほとんど一人でやってました」このような仕事が報われるはずはない。最初に入った大阪の店のように、米田自身がスタッフを殴打することこそなかったが、米田が求めるレヴェルまでスタッフを育てることはまた別の苦労であったはずだ。しかし本書の中で明かされるいくつかのエピソードを介して、次第にレストランがかたちを整えて認知されていく様子、そして米田の料理に驚嘆する関係者の姿が浮かび上がる。かかる努力の結果が2009年、開店以来最短の記録とともに獲得したミシュランの三つ星であっただろう。米田は最初から三つ星をめざしていた。米田はパリの三つ星レストランの共通点を探り、米田によればそれは料理の洗練度であったという。もちろんこのような感慨については三ツ星レストランに縁遠い私としてコメントすらできないが、一つの目的に向かってきわめて綿密かつ知的に作業を進める姿勢からは、従来の天才肌、もしくは直情的な料理人というより、理詰めで料理の可能性を探る技師や職人の姿が連想されよう。このような態度は私が料理人に期す資質とは大いに異なるようにも感じるが、それについてここでは述べない。
 最初に引いたとおり、米田にとってはミシュランの三つ星はスタートラインにすぎなかった。それでは彼が求める遙かに高い目標とは何であろうか。最後の章がこの問題と関わっている。おそらく米田ならずとも名シェフは同様の悩みを抱えるのではないか。つまり日本人シェフによるフランス料理とは何か。果たして日本人にフランス料理をつくることはできるのか。さらに言えば、なぜ日本人がフランス料理を作らなければならないかという問いかけだ。おそらくこの時点で、米田はミシュランという権威からも自由になったのではないか。最初に記したとおり、今、Hajimeは「三つ星レストラン」ではないが、おそらく米田はそれを気にかけてはいない。それは米田がミシュランというフランス由来の「グローバル・スタンダード」から解放されたことを暗示している。最後の章で、昨年、米田が店名から当初Hajime以下に付されていたフランス語表記を取り去り、シンプルなHAJIMEという店名に変えるとともにディナーのみの一営業形態に変えたことが記されている。それはおそらく米田の料理がフランス料理とか日本人とかいったカテゴリーを超えた、食べることの真髄に達したということではないだろうか。それは一体どのような境地、どのような料理なのであろうか。おそらく私は今後も米田の料理を食べることはないと思う。しかし本書を通読して、私はあらためて料理とは人が一生を賭けるに値する創造であり、そして卓越した料理を味わうという行為もまた人の文化の根源に触れる営みであるという思いを強くした。モネを見ること、プルーストを読むことと同様にそれは私たちが生きている理由なのだ。
by gravity97 | 2013-04-15 15:27 | エピキュリズム | Comments(0)
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 最近、近似したテーマを扱う二つの映画を続けて見る機会があった。一つは今年度のアカデミー賞作品賞を受賞したベン・アフレックの「アルゴ」、もう一つはキャスリン・ビグローの「ゼロ・ダーク・サーティー」である。偶然ではあるが、二つの映画はいずれもCIAのエージェントを主人公として、アメリカと中東の関係を主題としている。しかし内容は正反対というか、ポジとネガとでも呼ぶべき物語となっている。今回は両者を合わせて、そして深い関係をもつもう一本の映画にも触れつつレヴューしておきたい。
 まず最初に二つの物語の粗筋を紹介しておく。まだ見ていない読者の興趣を多少削ぐことになるかもしれないが、いずれの映画も史実に基づいているから、あらかじめ内容を知っていたとしても十分に楽しめるだろう。具体的には「アルゴ」ではテヘランのアメリカ大使館人質事件の際にカナダ大使公邸に匿われていた大使館職員の救出作戦、「ゼロ・ダーク・サーティー」では9・11同時多発テロの首謀者とされるウサマ・ビンラディンの所在を突き止め、暗殺するミッションが描かれる。「アルゴ」では冒頭でパーレビ国王の圧政に反抗して蜂起した民衆が革命によって国王を追放し、アメリカ大使館に抗議のデモを繰り広げるまでの様子が記録映像を用いて紹介される。革命後の1979年11月、パーレビ王朝をアメリカの傀儡とみなす群衆はアメリカ大使館になだれ込み、大使館員を人質にとる。いわゆるアメリカ大使館人質事件である。この混乱の中で6人のアメリカ大使館職員がカナダ大使の公邸に逃げ込み、秘かに匿われる。イランの革命政府は彼らの存在を知らない。彼らを「アルゴ」というSF映画のロケ地の調査のためイランを訪れた映画関係者と偽り、国外に救出させるべく潜入するCIAエージェントの極秘任務を描いたのが「アルゴ」である。身分を偽っていることが露呈すれば処刑されるかもしれないという恐怖と戦いながら、イスラム革命防衛隊の捜索をかいくぐって巧みに偽装工作を行う主人公たちの物語はサスペンスフルであり、エンターテインメントとしても楽しめる。一方、「ゼロ・ダーク・サーティー」もまた冒頭で物語の背景もしくは前提が語られる。しかしこちらでは画面には何も映示されず暗闇の中でいくつもの声が重ねられる。それが9・11の同時多発テロの犠牲者たちが遺した肉声であることは語られる内容から直ちに理解される。続いてアラブ系と思われる男性に対して延々と繰り広げられる拷問の様子が映し出される。CIAの職員による容赦ない拷問は同時多発テロを実行したアル・カーイダの首領ビンラディンの所在を突き止めることが目的だ。「ゼロ・ダーク・サーティー」の主人公はマヤというCIAの女性分析官である。最初はその凄惨さに眉をひそめていた彼女も泥沼のような拷問とテロの応酬の中で何かに憑かれたかのようにビンラディン追跡にのめりこんでいく。ロンドンでの爆弾テロなど現実に起きた事件も随所に配されているが、すべてが事実か否かについては私には判断できない。おそらく関係者の協力もしくは内通があったのであろう、機微に触れる内部情報も多く盛り込まれており、実に生々しくビンラディン追跡の内幕が描かれる。外車ディーラーのショールームにおける関係者の買収、携帯電話の電波を用いた容疑者の特定、物語はサスペンスフルというよりむしろリアルである。マヤは様々な情報を分析してパキスタン国内にビンラディンが潜む邸宅を特定し、ゼロ・ダーク・サーティー、つまり深夜0時30分と定められたビンラディン急襲の瞬間へ向かってストーリーが収斂していく。
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 この二つの映画は構成にもよく似ている。つまりいずれの物語も最初から予想されるクライマックスに向かってじりじりと収斂していく。すなわち「アルゴ」では大使館員たちのテヘランからの脱出、「ゼロ・ダーク・サーティー」においてはビンラディンの殺害である。前者はいわば隠密的な作戦であったから、これまで私たちが知るところは少なかったとはいえ、おそらく両者が成功裡に終わることを観客は予想しながら物語の帰趨を見守る。クライマックスはテヘラン空港での尋問とパキスタンにおけるビンラディン襲撃である。考えてみればいずれもアメリカという国家によるイランとパキスタンの主権侵害にほかならない。密出国幇助と秘密部隊による暗殺攻撃、どちらも他国の領土内における一種の軍事行動である。しかし二つの映画の後味は大きく異なる。「アルゴ」において大使館員たちを乗せたスイス航空の民間機がイラン領空を脱するラストシーンからは(私がこの映画を日本に戻る帰路のフライトで見たことも影響しているのであろうが)大きなカタルシスが得られたのに対して、同様に成功した作戦から航空機で帰投するシーンであるにもかかわらず、「ゼロ・ダーク・サーティー」の最後、涙を流すマヤのクローズアップはカタルシスからはほど遠い。これは単に前者の任務が救出に関わり、後者のそれが暗殺であるからだろうか。私は後者があらかじめ一つの不在によって呪われていたのではないかと感じる。
 二つの映画の共通点はほかにもある。いずれも語りの視点が主人公たちの側にのみ与えられている点だ。「アルゴ」においては処刑された死体がクレーンに吊されたまま街頭に放置されている情景など、革命防衛隊の暴力が随所で暗示される。しかし実際に彼らはほとんど画面に登場せず、登場したとしても主人公たちの作戦行動の理由や結果を説明する役割しか与えられていない。「ゼロ・ダーク・サーティー」においてはこの点はさらに明瞭で、マヤたちが追うアル・カーイダの構成員たちはCIAの捜索や拷問の対象、つまり主人公たちの関係においてしか描かれることがない。革命防衛隊やアル・カーイダは焦点化されることがないので、私たちはアメリカの視点と論理に従いながら物語を追うことを余儀なくされる。「アルゴ」に対して反革命のプロパガンダ映画としてイラン政府が強く抗議したというエピソードは十分に理由がある。エンターテインメントの骨格をもつ「アルゴ」においてはこのような単視点がそれなりに機能している。私たちはCIAのエージェントや人質たちと一体化し、偽装工作や脱出工作に立ち会う。相手側の動きを知ることがないため、工作の成否は予断を許さず、このため、私たちは最後の瞬間まで脱出の帰趨から目を逸らすことができないのだ。これに対して「ゼロ・ダーク・サーティー」において私たちは主人公のマヤに必ずしもうまく焦点化することができないように感じる。いくつかのヒントとなる事件やエピソードは暗示されるもののマヤの心理の変化、感情の起伏に同調することは難しい。最後まで見終わってもマヤが見せた涙の意味を理解することは困難である。このような不透明感は実はこの映画の全体に漂っており、「アルゴ」の明快さと対照的である。この由来を問うために私は説話的にほぼ同じ構造を有すもう一つの映画を召喚したい。スティーヴン・スピルバーグの「ミュンヘン」である。
 この不吉なフィルムもまた報復と暗殺の物語である。1972年9月、パレスチナ・ゲリラ「黒い九月」はミュンヘン・オリンピックの選手村を襲撃し、イスラエル選手団を人質にとり、イスラエル政府に仲間の釈放等を要求する。イスラエルはこれを拒否し、ドイツの治安当局との銃撃戦の末、ゲリラと選手団の大半が射殺された。この悲惨な事件を受けて、当時のイスラエル首相ゴルダ・メイヤーは主人公であるアヴナーにヨーロッパ各地で活動するパレスチナ人指導者の暗殺を命じる。アヴナーは数名の仲間とともに次々に暗殺計画を実行する。しかし彼らもまた命を狙われ、アヴナーらは不安と恐怖の中で任務を遂行していく。全編にわたって殺戮の応酬が描かれるこの暗欝きわまりない映画はスピルバーグの作品としては珍しく、カタルシスや救いとは無縁である。きわめて興味深いことに「ミュンヘン」もまた「ゼロ・ダーク・サーティー」と同様に冒頭部で物語の起点が示される。いうまでもなく、それは「黒い九月」のメンバーによる選手村襲撃、正確には選手を偽装したテロリストたちがフェンスを乗り越えて選手村の中に忍び込む情景である。(この場面を物語の起点とみなすことには四方田犬彦から強い異議が呈されているが今は措く)最初に歴史的な惨事が示され、それへの国家的な応答/報復としてストーリーが組み立てられている点は「ゼロ・ダーク・サーティー」と同様だ。最後に任務、つまり関係者の暗殺を果たすも精神を病んだアヴナーが暗殺指令を下した上官とニューヨークで再会する場面がある。川沿いの公園を歩く二人の背後に映り込むのが同時多発テロで倒壊した二棟のビルであることはあたかも「ミュンヘン」から「ゼロ・ダーク・サーティー」までひとつながりであり、我々が暴力の連鎖の中に生きていることを暗示するかのようだ。しかし私が論じたいのはこの点ではない。「ミュンヘン」においてアヴナーを精神錯乱にまで追い込んだのは単なる罪悪感や恐怖ではないだろう。それは冒頭に示されたミュンヘン・オリンピック襲撃と関係者の暗殺という自分たちの任務の間に明確な関係が結べない不全感ではないか。彼らはローマで、アムステルダムで次々に標的を殺害する。しかしなぜ彼らを殺害しなければならないか、その理由は最後まで不明のままだ。このためであろうか、起点となるオリンピック襲撃事件の情景はきわめて不自然なかたちでフィルムの中に挿入される。先ほど述べたとおり、冒頭部ではフェンスを乗り越えるテロリストたちが示されるだけだ。選手村内での虐殺は物語の中途で突然挿入される。さらにこの事件のクライマックスであるミュンヘン空港における銃撃戦にいたっては映画の最後のシークエンス、アヴナーが寝室で妻と性交するシーンに重ねられ、銃撃戦の中で人質たちが順番に射殺される場面はアヴナーの射精の瞬間と同期さえするのである。私は劇場でこの場面を見て気分が悪くなったことを覚えている。このような屈折はこのフィルムが原因と結果という単純な説話の図式に収まらないことを暗示しているのではないか。物語全体が悪夢を見ているように、トラウマとなったシーンが間歇的に物語の意識を襲うのだ。
 ひるがえって「ゼロ・ダーク・サーティー」はどうか。私はこの映画もまた不全感に満たされているように感じる。「ミュンヘン」でオリンピック襲撃事件の後、関係者の暗殺が唐突に命じられたように、この映画でも9・11テロとウサマ・ビンラディン暗殺が国家によって何の説明もなく結びつけられる。この経緯を私たちも事実として知っている。同時多発テロ直後、大統領はあたかも待ち構えていたかのようにビンラディンなる固有名を首謀者として名指しした。しかしその十分な根拠を私たちは与えられたのだろうか。その証拠はすべて告発者たるアメリカという国家の手にあるのだ。むろん私はこれが冤罪であると主張するのではない。「ミュンヘン」にみられた説話論的な不備が「ゼロ・ダーク・サーティー」にも認められることを指摘したいのだ。おそらくこの点がこの映画を見終わった後の疲労感と関わっている。繰り返される拷問はビンラディンの所在を突き止めるための手段であり、パキスタンにビンラディンのアジトと思しき邸宅を発見した主人公たちは様々の方法で本人が潜伏している証拠を発見しようと試みる。しかし最後にいたるまで確証は得らないまま特殊部隊が突入する。当然私たちの関心は映像の中にビンラディンが登場するかという点へと向けられるのであるが、生きている彼の姿は一度も登場しない。唯一ビンラディンらしい人物が映像に留められるのは死体として搬送された担架に横たえられた姿であり、しかも私たちはそれを瞥見するにすぎない。「ゼロ・ダーク・サーティー」は実在するCIAや主人公のマヤではなく、ビンラディンの不在をめぐる物語とはいえないか。そして現実にも私たちは彼の死体を確認していない。報道によれば、パキスタンで射殺された死体の写真はあまりにも惨かったため反発を恐れて公開されず、埋葬地が聖地となることを恐れたアメリカ当局によって死体そのものもアラビア海に水葬されたという。少し歴史を遡るならば、同時多発テロ直後、この人物の引渡しをめぐってアメリカはアフガニスタンのタリバン政権に「対テロ戦争」を仕掛け、無数の民間人が死傷することとなったことが想起されよう。私たちは現実においても映画の中でも不在の人物に翻弄され、大きな代償を払うこととなった。この意味で「ゼロ・ダーク・サーティー」は「アルゴ」以上に現実を反映しているといえるかもしれない。それは人質の奪還によってカタルシスを得るといった明快なストーリーがもはや成立しない時代、存在ではなく不在によってしか自分たちの正義を確認できない私たちの現在を象徴しているかのようだ。
by gravity97 | 2013-04-07 11:31 | 映画 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 130405

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by gravity97 | 2013-04-05 21:16 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック