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 「ホロコーストの音楽」(Music in the Holocaust)とはなんとも含みのあるタイトルだ。ホロコーストにおいて音楽はいかなる意味をもったか。そもそもホロコーストに音楽は存在したのか。著者はワルシャワ・ゲットーを生き延びた後、ソビエト連邦での収容所生活を経てイスラエルに移住したユダヤ系ポーランド人祖父母をもち、彼らがその後移り住んだ南アフリカの大学を卒業した後、オックスフォード大学で音楽学と現代史の学位を取得し、アメリカのミシガン大学の助教時代に本書を書き上げたという。このような閲歴に既にいくつもの20世紀の負の歴史が見え隠れしている。
 近年、ホロコーストに関する研究は格段に深化され、例えば最近私は日本語に翻訳された『ホロコースト・スタディーズ』なる研究書さえ書店で見かけた。本書は語り尽くされた感のあるこの主題に「音楽」という新しい視点から切り込む。日本語のサブタイトルが示唆するとおり、本書はホロコーストと音楽の関係を二つの場に即して検証する。一つはユダヤ人が強制的に隔離されたゲットー、もう一つは強制収容所である。序章とエピローグの間にゲットーに関して二章、強制収容所について二章、計四章のケース・スタディが収められている。より具体的に述べるならば、前半ではヨーロッパで最も多くのユダヤ人が暮らしたワルシャワ・ゲットーと高度なユダヤ人文化が認められるリトアニアのヴィルナ・ゲットーが取り上げられ、後半ではザクセンハウゼンとアウシュビッツという二つの収容所が論じられる。このうち、最後の場、アウシュビッツにおいては(実際には収容者たちに近くの鉱山や工場での労働が割り当てられていたにせよ)最終的な目的は収容ではなく、収容者の絶滅に向けられていた。再びの問い。果たしてこのような場所で音楽は可能であろうか。予想されるひとつの解は、それがホロコーストの非人間性に対するひとつの抵抗となりえたというものである。しかし本書から浮かび上がる「ホロコーストの音楽」はそのような予定調和とはかけ離れている。
 まず私たちはユダヤ人のゲットーへと向かう。本書の中で語られるとおり、「ゲットーは『最終的解決』の過渡的な局面であり、大規模な移動と殺戮に先立って、ユダヤ人をまずは集中させる場所として計画された」のである。本書の前半、ゲットーにおける音楽をめぐる記述は収容所の場合ほど極限的ではないにせよ、この問題を考えるうえでの多くの手がかりを与えてくれる。例えばワルシャワ・ゲットーは先に述べたとおり、当時のヨーロッパでも最大級のユダヤ人社会であったから、ユダヤ人としての文化的統一がありえたはずである。当然そこには音楽の伝統もあっただろう。しかしギルバートはそこに無残なまでの分断があったことを語る。次のような証言が残されている。「ワルシャワ・ゲットーでは、大多数の住民の悲劇的な窮乏と、いぜん富裕で、気が遠くなるほどの値段が当然のようにつけられているあらゆる種類のレストラン、ケーキの店、食料品店に出入りする一握りの者たちの栄華とが、きわだった対照をなしている」私たちはナチス・ドイツとユダヤ人を加害者/被害者といった単純な図式で捉えがちであるが、実際には両者の関係は錯綜している。ゲットーのユダヤ人もきわめて複雑な社会構造を形成しており、そこには飽食と飢餓が同居していた。栄華をきわめる「一握りの者たち」にとって音楽は重要な娯楽であった。ユダヤ人評議会や秘密国家警察(ゲシュタポ)の手助けによって開設されたカフェでは豪勢な料理の横で楽士たちの演奏が繰り広げられているが、扉一つ隔てた屋外には無数の孤児や物乞いが存在した。ゲットーには多くの劇場があり、交響楽団も存在した。著者は当時の状況を歴史的資料によって確認しつつ、そこで実際に演奏されていた曲目を特定し、歌われていた歌詞を採譜する。その場限りのエフェメラルな「音楽」、言語化することが困難な「歴史資料」を丹念に検証する点が本書の独自性であることはいうまでもない。ゲットーの中で歌われていた歌の歌詞を分析したギルバートはそこにはゲットーの地獄が記録され、人々を内部から蝕んでいた退廃が暗示され、さらには大量移送される人々の行く末も正確に予見されていたことを指摘する。例えば次のような歌だ。「ユダヤ人は列車に連れていかれる/回転する車輪を/どのようなペンも描けない、/車両は満杯、/神の聖なる名のもとにユダヤ人が連れられていく/トレブリンカ、トレブリンカに。」トレブリンカ、それはクロード・ランズマンの「ショアー」の冒頭で、ポーランド人の農民が戦時中、自分が耕作していた畑の横に建設され、次々にユダヤ人が列車で運び込まれていたことを何の感情も交えずに証言した巨大な絶滅収容所ではなかったか。二章で扱われるヴィルナのゲットーはリトアニアに位置し、最初ソビエトに占領された後、ドイツが支配した。戦前よりヴィルナのユダヤ人たちは独自に高度な文化を育んでおり、音楽についても例外ではない。しかし現実は苛酷だ。最初ここには二つのゲットーが存在したが、職人や労働者が集められたゲットーに対して、孤児や病人、老人が集められたゲットーからは人々が連行されては射殺され、最初収容されていた三万人のユダヤ人の半数以上が殺された。そこではパルチザン運動が組織され、戦闘が繰り広げられた。ここで採譜された歌には悲惨な事件を記録し、自分たちの暗鬱たる未来を予言するのみではなく、パルチザンを鼓舞する内容も多く含まれていたという。一方でゲットーの劇場での音楽の公演は不幸な境遇にある住民を慰安するという目的があった。鼓舞と慰藉、ヴィルナの音楽は正反対の目的のために存在したのだ。ゲットーにおける音楽はなおも文化の内部にあった。続く二章、収容所において私たちはもはや文化とは呼べぬ音楽に出会う。
  「夜も遅く、すでに疲労困憊して、残されたきょう一日の時間を少しでも休みたいと思っているとき、われわれは中庭に立ったまま歌わされるという純然たる虐待を受けた。夜の暗闇の中で、とにかく歌い続けるのである。(中略)この歌唱の最中に多くの者が消耗の極みに達し、死んだ」収容所では歌うことが虐待の手段として用いられていたのだ。あるいは脱走者が処刑される時、収容者によって構成された楽団は処刑の伴奏を行うように求められたという。本書の中には処刑される脱走者を先導しながら楽器を演奏するオーケストラの写真が収められている。さらに彼らが奏でる行進曲は労働部隊が仕事に出かける際に歩調を合わすために演奏されたという。もし足並みを乱せばその者は容赦なく殴打されるのである。もちろん抵抗としての音楽、抵抗としての歌はありえた。ガス室に連行されたチェコのユダヤ人たちがチェコスロヴァキアの国歌を歌いながら、あるいはフランスのユダヤ人たちが「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら死んでいったという事実が知られている。クリスティナ・ジブルスカという若い女性の収容者は収容所で生まれて初めて詩を書き、それは「没収財産登録事務所のメドレー」として今日まで記録されている。このような詩だ。「列車はあえぎ、蒸気を吐き出す、それは誰にも聞こえる、スーツケースの山、そして謎めいた異様な煙/責任者が来る、でもそれはどうでもよいこと、大事なのは食物、まだ誰もわれわれを処置していないのだから」アウシュビッツに送られたユダヤ人の荷物を入れたスーツケースが山をなしている図版を見る時、この歌の意味は明確だ。そしてまさにその場でも音楽は機能していた。新しい収容者が到着するたびにオーケストラが動員され、降車場で歓迎の演奏をした。それは巧妙な偽装工作である。絶滅収容所に到着したユダヤ人たちは手入れされた庭、シャワーや更衣室の表示、そしてシュトラウスのワルツやオッフェンバックの楽曲が演奏されていることを聞いて安堵する。彼らが「それほどひどくはないかもしれない」と感じた降車場で実際に行われていたのは移送者の中からガス室に送る者を選別する作業であったのだ。楽士たちはもちろん自分たちの役割を承知しており、中には演奏しながら泣く者がいたが、親衛隊の将校に厳しく叱責されたという。絶滅収容所にも音楽は存在した。そしてその本質についてプリモ・レーヴィは深い洞察を加えている。「曲目は限られていた。十数曲であろうか。毎日、毎朝、毎夕同じ曲である。ドイツ人にとって耳慣れた行進曲と大衆音楽である。いずれも脳裏に深く刻み込まれている。収容所を忘れることができたとしても、最後まで残るのはこれらであろう。それは収容所が発する声であった。幾何級数的に増殖する狂気、もしくは、まずわれわれを人間として無力にしておいて、ついでゆっくり殺そうとする他者の決意の可視的な姿なのである」意志が可視化された音楽、矛盾された表現であるが、音楽がかくも残忍な姿をとった場所をほかに想像することは困難であろう。
 最初に述べたとおり、本書は収容所を被害者と加害者という二分法ではなく、様々な民族や階級、技能や思想をもった重層的な構造としてとらえている。音楽という主題はこのような重層性を見事に抉り出す。いうまでもなく音楽は収容所を管理する側にも存在した。親衛隊の隊員たちは自分たちの楽しみのために、収容者の音楽家たちに公私にわたって演奏を依頼していた。なぜなら彼らにとって音楽とは「文明」の指標であったから。アウシュビッツにおいてオーケストラはほかの収容所に増して援助され、推奨されていたという。絶滅収容所と音楽。誰でもアドルノの箴言を想起するであろうこのような事実に関する次のような指摘は重要である。「音楽に対する彼ら(親衛隊)の関心とその残虐な行為とをまったく矛盾するかのように考えたくなるが、実際には音楽は収容所の歪んだ論理の一部をまぎれもなく構成していたと思われる。なによりもまず、音楽は親衛隊員が洗練されたドイツ文化と個人の『品格』にもとづく自己像を保つことができる枠組を提供したのである。音楽は彼らが従事した職務と乖離するものではなく、まさしくそれに沿うものであった」洗練された趣味をもつドイツ人が列車で到着したユダヤ人の中からガス室に直行すべき者を選別しえたという、西欧的教養、全人的教養を否定する事態の出来を本書は暗示する。かかる事実を説明する一つの手段がハンナ・アレントのいう「悪の凡庸さ」であろうか。官僚性に組み込まれた悪がいかに仮借なく増幅するか。おそらくマックス・ウエーバーまで遡及可能なかかるテーマは本書の隠された主題である。一方で音楽は収容者にとってサヴァイヴするための手段でもありえた。アウシュヴィツ内の収容所の一つ、ビルケナウには四つのオーケストラ風のアンサンブルが存在したが、その一つである女子管弦楽団の楽員たちの待遇は、音楽家の華やかな家系に属し(伯父がグスタフー・マーラーであった)自身もヨーロッパ有数のヴァイオリン奏者であったアルマ・ロゼという女性が指揮者となったことで劇的に改善され、十分な休養や食料が与えられることとなったという。多くの収容者に苛酷な労働が課せられる一方で、労働部隊の出発と帰還の際に楽曲を演奏し、ほかの時間は演奏の練習をしていたという楽員たちの活動はなんともグロテスクに感じられるが、収容所においては演奏や歌唱、さらに写譜といった音楽に関する能力、収容者たちの文化資本は端的に生き延びるための手段に転じていたのである。
 アウシュビッツでは親衛隊の将校たちを相手にしばしばコンサートが開かれた。基本的に収容者たちは参加することができなかったが、何らかの理由でそこに立ち会うことができた収容者たちは音楽に涙を流して聴き入ったという、地獄のような収容所において音楽は彼らにとって避難所であり、おそらくは別の世界で家に家族といる姿を思い描きながら音楽を聴いたのであろうと著者は述べる。しかし一方で同じ音楽を聴く将校や看守たちは何のためらいもなく収容者に暴行を加え、ガス室へと送ったのである。ホロコーストでは音楽の全能と無力が交錯する。今や明らかであろう。ホロコーストとは音楽にとっても決して癒やされることのないトラウマであったのだ。
by gravity97 | 2013-01-25 22:22 | ノンフィクション | Comments(0)

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首都の街区に、もう幾度目か分からなくなった冬が来ている。街路のプラタナスは、葉を散らせ尽して、既に久しい。かつて夜の中でゆらめいていた十字路に立てば、炎は地下深く埋葬され、その上を窓のない車が通り過ぎるばかりだ。

未完成の散文詩は、このように書き出されていた。それはきみと彼女の合作ともいうべき作品であり、そこには幾つもの年代と、来るべき個体の死と再生の予感に充ちみちた言葉が刻みこまれてあった。僕たちの時代を総括しようとするその最初の努力は、1970年代の丁度中間の年に、きみから僕へと手渡されたまま、この時代の中で消し去られようとしているのだが、そして実際、その紙片は僕の部屋の中でどこへ行ったかもわからなくなってしまっているのだが、僕がいま譲り受けたいと思っているその散文詩の表題はといえは、それは明るいブルーのインクを使った橘素子の伸びやかな文字で―

風のクロニクル、と書かれてあったのだった。
by gravity97 | 2013-01-22 21:28 | PASSAGE | Comments(0)
 バルガス=リョサの小説について論じるのは二度目となる。このところバルガス=リョサの翻訳が進み、嬉しいことに読み落としていて入手困難であった『継母礼賛』、そして『官能の夢 ドン・リゴベルトの手帖』がいずれも中公文庫に入った。少し前には岩波文庫から『密林の語り部』も刊行されている。これらは文庫で手軽なこともあり、近いうちに読むことになるだろう。最近読んだ『悪い娘の悪戯』は一種のファム・ファタール譚であり、世界中の都市を舞台に40年にわたって一途な愛を捧げる主人公とそれを翻弄する娘の物語であった。主人公のもとを出奔した娘はなんと東京でフクダなるヤクザの情婦として登場する。語りの形式という点では比較的単純でありながら、物語を読む楽しさを満喫させてくれる佳作であった。
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 『アンデスのリトゥーマ』は今挙げた二つの「官能小説」、『継母礼賛』と『官能の夢 ドン・リゴベルトの手帳』にはさまれる形で1993年に原著が発表されている。リトゥーマという名前には聞き覚えがあった。バルガス=リョサの出世作で日本でも最初に翻訳された『緑の家』では治安警備隊員、中編『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』には警官として登場している。『緑の家』は砂漠の都市と密林の集落、現代と太古が共存するアマゾン川流域を舞台とした神話的な風格をもった小説であったが、私は『アンデスのリトゥーマ』を読みながらしきりと『緑の家』が連想された。それというのもこの小説もまた異なる文明の接触という主題と関わっているからだ。今回は内容にも深く立ち入って論じる。
 治安警備隊員のリトゥーマ伍長はアンデスの山岳地帯にあるナッコスという集落に助手のトマスとともに駐屯している。ナッコスではハイウエーの建設が進められており、インディオと工事の作業員たちが生活している。物語はリトゥーマのもとにデメトゥリオという工事の現場監督が行方不明になったという知らせが届く場面で始まる。失踪したのはデメトゥリオが最初ではない。駐屯所の手伝いをしている口のきけないペドリート、工事現場で働いていたワルカーヤに続いて三人目となる。彼らはどこへ消えたのか。誰が関与しているか。物語は捜査を開始したリトゥーマを中心に展開するから、一篇の推理小説として読めないこともない。登場人物はさほど多くない。今挙げた五人に加えてナッコスで酒場を経営し、リトゥーマが事件の黒幕ではないかとにらむディオニシオと占いや呪いに通じた妻のドーニャ・アドリアーナ、そしてトマスがナッコスに来る前に恋仲となるメルセーデスという娘。物語の中心を占めるのはこれらの人物だ。いつもどおりバルガス=リョサの小説は語りが素晴らしい。この小説は無数の断章の連続として成立しているが、それらは時間的な先後関係においてもメインストーリーからの距離においてもばらばらに感じられながら相互に絶妙の距離を保ちつつ、物語を形成していく。私たちは時にストーリーの帰趨を予想しながら、時に全く新しい物語に当惑しながら小説を読み進める。語りの巧さは例えば次のようだ。リトゥーマがトマスからメルセーデスとの馴れ初めを聞く場面ではひとまずはリトゥーマとトマスの対話として物語が続く。しかし彼らの会話に併記される地の文の中に「若い男」という人物が登場する。初めは誰のことか当惑するが、読み進めるうちにそれはトマスと同一人物であることがわかる。つまりここではリトゥーマにティンゴ・マリーアという町からメルセーデスとともに出奔した経緯を話すトマス(語るトマス)とトマスが回顧する自分(語られるトマス)が分裂して同じテクストの中に登場するのだ。このような構造は物語が本質的に何者かによって語られているという暗黙の前提を私たちに意識させる。
 バルガス=リョサの小説には時に凄惨な暴力が描かれる。前回このブログで取り上げ、独裁者の暗殺とその後の無残な粛正を描いた『チボの狂宴』に顕著であった残虐行為の描写はこの小説では多くレティサンス、黙説法で描かれる。バルガス=リョサとしては珍しくこの小説は全体に緊張感が張り詰めている。それは三人の人間が突如消息を絶つという謎によってもたらされるだけではない。時代を特定可能な固有名詞が少ないため、推測の域から出ないが、例えば物語の中で言及される「センデーロ・ルミノーソ」は80年代から武装闘争を本格化したペルーのゲリラ組織であるから、おそらくこの物語は近過去を舞台としている。物語の中にはセンデーロ・ルミノーソの指導を受けたとされる「土くれ(テルーコ)」と呼ばれる武装集団が登場し、住民や労働者を理由なく殺戮する。多焦点の語りを得意とする作家としては珍しく、ということは明らかに意図的に「土くれ」に属する登場人物が焦点化されることはない。正確には「土くれ」に属する人物は常に匿名的で内面化されることがない。このため私たちは、物語中に突然介入する暴力の意味や由来について、リトゥーマをはじめとする先に挙げた人物たち、いわばこちら側の視点を借りて推測することはできるが、真相を知ることはできない。例えば冒頭近くで私たちはクスコまでバスで移動しようとしたフランス人の恋人同士がゲリラと覚しき集団に拉致され、石で打ち殺される悲惨な場面に立ち会う。しかし今述べた通り黙説法で語られるこの悲劇の理由、殺人者たちの正体や意図を私たちは最後まで明かされることがない。物語の中盤に登場し、国際的な支援機関から派遣された女性も技官とともに石で打ち殺される。彼らはいずれも西欧からの来訪者である。本書において西欧とペルー、二つの文明の接触は悲劇的な結末を迎える。近過去のペルーにおいて大統領候補でもあったバルガス=リョサがこのようなエピソードを記す時、それは何かの暗喩として機能するのだろうか。この点については私もよくわからない。
 焦点化されない人物はテロリストたちだけではない。リトゥーマやトマスにとって自分たちが相手をしている共同体もまた理解を絶した存在である。ペルーの山岳地帯に土着の人々、リトゥーマは彼らを、おそらくは差別的な含意をもつ「山棲み」という名で呼ぶ。「山棲み」の世界は迷信に満ち、人間から脂を抜き取って殺すピシュターコと呼ばれる妖怪やムキと呼ばれる山の精霊が跳梁する。文明から遠い地に住む未開の民と政府から派遣された治安警備隊員、ここでも二つの文明の接触というテーマが浮かび上がる。興味深いことに先に挙げた5人の登場人物はいずれもほかの土地からナッコスに移り住んでいる。次第に明かされる失踪した三人の男の来歴、ティモティオ・ファハルドという男と別れ、ディオニシオと駆け落ちするドーニャ・アドリアーナの物語(解説によれば三人はそれぞれギリシャ神話のテーセウス、ディオニソス、アドリアーネと対応している)さらには思いがけず恋に落ちるトマスとメルセーデスの逃避行はいわば物語の横糸としてメインストーリーと絡み合う。緊張に満ちたテロリストたちとのやりとり、マルケスを連想させる奇想あふれる物語、恋人たちの道行に立ちふさがる障壁、リョサは見事な緩急で物語を繰り出し、それぞれの物語は次々に宙吊りにされながら次の語りへと繰り延べられていく。本書においては複数の語りの同時進行というリョサの得意とする技法が遺憾なく発揮された印象がある。しかし先にも述べた通り、登場人物全てに語りと視点の権能が与えられてはいない点には留意する必要がある。もちろんこの物語では一貫して三人称の語りがとられており、明確な一人称の語りは存在しない。しかしナッコスに寄寓する警備隊員や酒場の夫婦、流れ者の作業員は次々に焦点化されて、それぞれ来歴と現在が明らかにされて物語に再配置されるのに対し、舞台となるナッコスの原住民たち、「土くれ」や「山棲み」そしてインディオたちは顔も名前ももたない。次々に繰り出される物語に眩惑されて見落としがちであるが、おそらくバルガス=リョサは意図的にこのような不均衡、不平等を物語の中に組織している。物語の中心に言葉をもたぬ者たち、主人公たちの理解を超えた存在が位置することも本書を通底する緊張感と関わっているだろう。失踪した三人の男の運命については物語の最後で一応の解明がなされ、ディオニシオの酒場に集う「山棲み」たち、ナッコスの「未開」が関与したことが明らかとなるが、いささか強引な幕引きであり、私にはこの部分はむしろ蛇足のように感じられた。
 常に外部の視点をとおして語られ、自らの言葉をもたない人々。途中に意味ありげに挿入されるフランス人旅行者とヨーロッパ出身の技術者の悲惨な死のエピソードを考慮する時、そこになんらかの意味を見出すべきか、単に私の深読みか、私は判断を下しかねている。物語の終盤で山津波というカタストロフがナッコスを襲う。工事現場は壊滅し、ハイウエーの工事は中止される。労働者たちがいなくなることを見越してディオニシアとドーニャは店を畳んで別の土地へ向かう。リトゥーマとトマスもそれぞれ新しい赴任地が決まり、リトゥーマは単身で、トマスはメルセーデスとともに新しい任地に向かうことが暗示される。つまり主要な登場人物たちは舞台から去る。失踪で始まった物語は語り手たちの退場によって幕を閉じる。町の消滅による物語の終焉、私は反射的に『百年の孤独』を連想した。
by gravity97 | 2013-01-13 21:10 | 海外文学 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック