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b0138838_16481871.jpg 年末に実に重い内容の本を読んだ。自身も写真家である小林紀晴がオーストリア在住の写真家古屋誠一について記した12章から成るエッセイである。タイトルの「メモワール」とは古屋が発表した何冊かの写真集に共通するタイトルでもある。サブタイトルが示すとおり、小林は1991年に初めて古屋の個展を訪れて以来、その作品に惹かれ、何度となくグラーツの古屋のもとを訪ね、世界各地で開かれた展覧会を訪れ対話を続けた。小林は対話の中で写真という表現についての思索を深め、本書は写真論として読めなくもない。一方で古屋の写真について語ることは写真家の個人的な歴史と関わることでもあるから、本書は一個の評伝でもある。
 私は写真の専門家ではなく、古屋についてもその存在は知っていたが、展覧会を見たことはなく、おそらく作品も図版のかたちでした見たことがない。またこの文章を書くにあたって、あえて私はカタログや写真集を参照することを控えた。古屋の作品には写真という芸術の本質に関わる問題がむき出しで提示されており、私はこの問題を具体的な作品を経由せずあくまでも原理的、抽象的なレヴェルで考えてみたいと思ったからだ。
 小林は古屋について語るに先立ち、プロローグで二つのカタストロフについて論じる。一つは自身がマンハッタンで遭遇した9・11 の同時多発テロであり、もう一つは東日本大震災である。10年の時を隔てて発生した二つの事件が私たちの精神に決定的な影響を与えたことは今や自明であろうが、小林はニューヨークのラボでWTC崩壊直後の瓦礫を撮影した写真に手を加えようとする男との出会い、あるいは震災の被災地に行くべきか逡巡する中で、作品にしてよい被写体と作品にしてはいけない被写体があるのではないかという思いに達する。この発見こそがこのエッセイの出発点であった。先に述べたとおり、小林と古屋の交流は1991年に始まる。しかしこのエッセイが執筆されたのが、震災後であり、小林も述懐するとおり、震災の体験によって初めて執筆が可能となったことの意味は何度注意を促したとしても促しすぎることはないだろう。
 古屋の写真の被写体は多く彼の妻であるクリスティーネであった。本書の冒頭にはクリスティーネを撮影した何枚かの写真が掲載され、続いて小林が2005年にグラーツで撮影した古屋のポートレートが掲載されている。その傍らにはやや異例にも古屋の略歴が掲載されている。古屋の出身やヨーロッパに向かった経緯が簡単に記された後、記事は次のように続く。「古屋は妻となる女性と知り合ってすぐ、その姿を撮り始めた。結婚後も日常的に撮り続けた。やがて妻は精神を病んだ末に、東ベルリンのアパートの上階から身を投げ、自殺。その直後の姿も古屋はカメラに収めた。/1985年のことだ。妻・クリスティーネ・フルヤ・ゲッスラーと共に過ごした時間は7年8ヶ月ほどだった。現在、オーストリア第二の都市グラーツで暮らしている」精神を病んで自死した妻のポートレート。これほど苛酷な被写体を思いつくことは難しい。そして同様に私たちはこれほどに深刻な来歴をもつ作品の由来について写真家を問い質したいとは思わないだろう。しかし小林は最初に古屋の作品に「魅了」されて以来、およそ20年にわたって古屋と密接なコンタクトをとり、残された家族の中に分け入るように(後述するとおり、古谷はクリスティーネとの間に光明という息子がおり、さらに最近までクリスティーネの母と一緒に生活していた)古屋へのインタビューを続けた。私はこのような小林の姿勢にも一種鬼気迫るものを感じる。おそらくそれは小林が写真という営みに関わるうえで、一連のクリスティーネの肖像から逃げることができなかったからであろうし、さらに小林の思考がかくのごとき形をとって結実するためには、今世紀に入って人類が味わった最大級のカタストロフが必要であったという事実もまたきわめて暗示的に感じられる。
 1991年、初めて訪れた個展の会場に置かれた写真集の中に、小林はクリスティーネが投身した現場が撮影されている写真を見つけ、大きな衝撃を受ける。個展の会場に展示されていたのは妻の肖像だけではないが、いずれも「負のエネルギーが充満していた」という。それから数年のうちに二度、小林は帰国していた古屋と短い時間会話を交わし、面識を得る。そして古屋について取材したいことを伝え、承諾を受けて小林はグラーツへ向かう。2000年5月のことである。古屋について何か書きたいという漠然とした思いはあっただろうが、具体的な当てもないままにオーストリアに向かう小林が強い衝迫に追われていたことに疑いの余地はない。この時点までに古屋は「メモワール」と題した写真集を三冊出版していた。最初の『メモワール』(1989)が、小林によれば混乱した心境を露呈させた「過去」の記録であるのに対して、二冊目の『メモワール1995』(1995)は「現在」を感じさせ、必ずしも重くない。三冊目の『メモワール1978-85』(1997)は古屋の文章も添えられ、265枚もの写真が収められているという。この年記は古屋がクリスティーネと出会ってから彼女が自殺するまでの期間であり、全ての写真にクリスティーネが写っている。多く海外で出版されたこれらの写真集を通して、古屋の評価は高まっていった。2002年の『ラスト・トリップ・トゥ・ヴェニス』で古屋は伊奈信男賞を受賞する。精神を病み、突然に頭を丸刈りにしたクリスティーネは病院からも半ば強制的に退院させられ、最後の逃避行のように古屋とともにヴェニスに向かった。文字通り最後の旅、私はこのエピソードからプルーストを想起せずにはいられない。小林は執拗なインタビューを通じて、これらの経緯の詳細を古屋から聞き出す。精神を病んだ妻との生活、このような主題から直ちに連想されるのは島尾敏雄の『死の棘』であろう。島尾の場合は言語を介すことによって現実との間に若干の距離を保つことができたかもしれない。しかし写真という表現はあまりにも直截にクリスティーネの病状を記録する。小林との対話の中で古屋は少しずつ当時の事情について語る。対話を通して、私たちの関心は次第に一つの時間と場所に向かう。1985年10月7日12時30分過ぎ、東ベルリンの彼らのアパート、いうまでもなくクリスティーネが身を投げた地点だ。この直後に古屋はおそらく彼のその後の半生に限りなくその意味を問い返すこととなる二つのふるまいにおよぶ。一つは息子の光明との会話である。母が死んだことを告げる父に対して、光明は「パパがママを殺したの」と問い、古屋は「そうだ」と答える。そしてもう一つ、妻の亡骸を確認した古屋は部屋に戻ってカメラを取り出し、あらためて自死した妻の姿を撮影したのだ。私たちも本書の中でこの時間と場所に縫いつけられる。
 2006年、古屋は『メモワール1983』という写真集を発表する。小林はこの写真集への当惑を隠さない。「私は『1983』を出版された直後に手にした。しかし、最後のページまで進むことができなかった。思わず途中でページを閉じてしまった。それは古屋が踏み込んではならない領域に入ってしまった気がしたからだ」小林の当惑の理由は単純だ。古屋がこの中にクリスティーネが残した多くのメモを収録したためである。それらは半ば狂気の領域にあった妻による走り書きであり、常識的に考えれば文字にせず、ましてや公刊しない内容である。実際に古屋にとってもそれらのメモを読み下すことは困難であり、古屋は(ネイティヴでない古屋にとって妻の乱れたドイツ語の筆記を判読することが困難であったこともあり)二人と関係をもたないドイツ人に依頼してそれらを読み下してもらったうえで活字にする。いうまでもなく誰に宛てた訳でもないきわめてプライヴェイトな文章であり、しかも書き手が精神を病んでいたとするならば、本来公表の必要はない。私はこの写真集を見たことはないが、古屋でさえグラーツを離れたパリでなければ読めなかったというクリスティーネのメモは本書によれば例えば次のようなものである。「この遊びは死ぬまで続く。私は殺人者になる。母かまたは光明の、あるいは二人の、あるいは三人すべての」死者を鞭打つという言葉があるが、確かにこれはあえて公にする必要のある言葉ではないだろう。それではなぜ古屋はあえてこの写真集を出版したのか。この謎をめぐって小林は古屋をよく知る評論家と写真家のもとを訪ねる。飯沢耕太郎と荒木経惟である。亡くなった妻を写真に残すという発想から私も本書を読み始めてすぐに荒木の『センチメンタルな旅・冬の旅』を連想した。少々驚いたことに古屋と荒木は実際に親交があり、それどころか荒木がヨーロッパで受容されるにあたっては古屋の協力が大きかったという。飯沢と荒木はともに古屋の写真に対して興味深い解釈を与える。しかし二人とも『1983』にいたる古屋の仕事にネガティヴな態度をとる。飯沢は古屋とクリスティーネの人生に関わるのはもう引き受けきれないと述べる。荒木の妻、陽子に対する写真を通しての関わりが「一回きり」であるのに対して、古屋は執拗すぎるというのが理由だ。一方、荒木は亡き妻、陽子の写真を撮ったとしても、それを発表するかしないかについては自分の中に明確な一線があると述べる。なぜ古屋は『1983』を出版したか。小林が暗示する解答はきわめてデリケートなものである。実はこの写真集は実は息子の光明に向けて発表されているのだ。古屋はクリスティーネが残した狂気のメモを活字、それも日本語にするにあたって一人だけ許可を求めた。それは息子の光明であった。先に引いたメモから推測されるとおり、当然そこには光明のことも書かれており、狂気に陥った母が子に向けて書いた(発表を前提としない)文章が含まれていた。私はこのあたりの壮絶な葛藤についてコメントできる立場にない。いつか『1983』を光明が見るのではないかという問いに対して、古屋はおそらく既に見ている、自分は写真集をそこらに置いておくから、自分がいない時に見ているはずだと答える。続いて古屋はこの写真集が光明への間接的なメッセージなのかという問いに対して全面的に肯定する。「すべての写真集はそういう意味合いがある。いつか光明が見るという意識がずっとあるわけね。言葉で直接言えないことを、要するに、そういう部分を写真集に託すということ」村上龍の小説であったと思うが、精神を病んで人との直接の対話ができないため、握りしめた人形に話しかけるかたちで他者と会話する人物が登場した。本書から私は反射的にこのエピソードを連想した。他者とは息子、人形が写真である。そして古屋の場合は語り手の精神が失調しているからではなく、語るべき話題があまりにも重いためにかかる間接話法がとられたのではないだろうか。言葉で表現しえないことを伝えるメディアとしての写真。私は写真論に精通している訳ではないが、写真が端的に死の表象であることについて多くの議論が費やされてきたことは知っている。最初に述べたとおり、本書は無数の死を眼前にした震災の経験を介して(しかし私たちは震災の写真を通して一人の死者も見ていない、この問題は考えるべき余地がある)あらためて書き起こされたことはきわめて重要である。小林はプロローグの最後にスーザン・ソンタグが『他者の苦痛へのまなざし』の中で引用したプラトンの言葉、死者を見ることについての言葉を引く。「さあ来たぞ。お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」かかる主題からはソンタグやバルトはいうまでもなく、絶滅収容所の表象をめぐるジョルジュ・ディディ=ユベルマンの議論までが射程に入るだろう。しかしそこまで議論を敷衍することは私の能力を超えている。
 2010年に古屋は東京都写真美術館などで個展を開き、それに際して新しい写真集『メモワール. 1984-1987』を出版する。メモワールの後にピリオドが打たれていることからわかるとおり、古屋の中では「メモワール」はこれで完結した。写真は厳密な時系列に沿って掲載され、クリスティーネの文章が一篇だけ収録されているという。小林の質問に古屋は「何もわからなかったということが、わかった」と答える。いうまでもなく写真を介して他者を理解することの不可能性を指し示している。写真を生業として、妻のポートレートを撮り続けた写真家がそれによっては何もわからないことを知った時の感慨を私は想像することもできない。このような会話を交わしてグラーツから小林が日本に帰国した直後、古屋は脳出血で倒れ、九死に一生を得るものの、個展のオープニングへ参加することはできなかった。その後の古屋の動静については本書では触れられていない。エピローグで小林は再び震災について、そして自分の父のデス・ポートレートについて語る。同じ写真家として小林は古屋の仕事をとおして写真とは何かという根源的な問いに向き合っている。20年に及ぶ二人の関係は友情と呼ぶにはあまりに壮絶だ。ともに写真という魔に魅入られ、愛する者の生と死の往還の中でその可能性を探る同志と呼ぶべきであろうか。
 私は本書を四日前に書店で求め、ほぼ一日で通読して、年末の二日間という多忙かつごく短い期間で一気にこの原稿を書き上げた。書き足りぬことは多いが、小林をグラーツに向かわせたような衝動、古屋の写真についてなんとか自分の言葉で応接したいという止むにやまれぬ衝動が、読み終えるや直ちに私の中に生まれたのである。これまでこのブログにたくさんの書評を書いてきたが、このような経験はかつてない。今年の読書の最後を締めくくるにふさわしい凄絶かつ喚起的な記録であった。
by gravity97 | 2012-12-31 17:00 | 評伝・自伝 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 121230

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by gravity97 | 2012-12-30 09:18 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
b0138838_21154787.jpg 以前、このブログで堀江邦夫の『原発労働記』について論じたことがある。原子力発電所で日常的に繰り返される下請け労働者の被曝に関するルポルタージュであった。通常の運転を続けている原子力発電所でさえ、あれほどの過酷な労働状況であったから、レヴェル7という史上最悪の事故を起こした原子力発電所の「収束作業」はいかに進められているのか。本書は事故直後から現地に入り、「収束作業」の実情を作業員たちの目線で記録した報告である。「イチエフ」とは事故を起こした福島第一原子力発電所に対する作業員たちの呼称だ。最初に東日本大震災直後、死を覚悟して進められた事故対応の生々しい情景が記され、続いて第二章で作業現場から休憩所、宿舎にいたる作業員たちの生活全般に目を配りながら事故から4ヶ月後の時点における「収束作業」の現実が記述される。ある意味で現在の日本をかろうじて支えている労働者たちを取り巻く環境のあまりの劣悪さには息を呑む思いだ。第三章と第四章ではこのような環境を作り出す構造的な要因が明らかにされる。すなわち多重下請けによる中間搾取、ピンハネの問題、そして東京電力を頂点としてピラミッド状に広がる労働者間のヒエラルキー構造の問題である。さらに最終章では実際に作業中に亡くなった労働者をめぐる補償の問題が扱われる。
 プロローグの最後に次のような注記がある。「なお、原発作業員の大半は日給制の月払いの非正規雇用であり、非常に不安定な弱い立場にある。私の取材を受けたことで、彼らが失職したり、仕事上の不都合を受けたりすることのないよう、とくに断りのない場合以外は原則としてすべて仮名としている」福島第一原子力発電所の「収束作業」の歪みは既にこの注記の中に明らかだ。作業員はこの作業に関して実名で真実を語ることができないのである。それにしても文字通り自分たちの命を削って、汚染された原子力発電所の解体という前例のない作業に取り組む人々に対してもう少しまともな待遇ができないのだろうか。本文中に自分たちの衣服や作業着を洗うために数少ないコインランドリーの前で長時間待たされる作業員たちの姿が描かれているが、筆者も述べるとおり、作業員の数や負担を考慮するならば、無料で使用可能な大規模なランドリー施設くらいすぐにも設置可能であるように思われるのだが。あるいは多くの外資系企業で取り入れられている無料の社員食堂のようなシステムがあってもよいのではないか。おそらくここには原子力発電特有の、作業員を使い捨てと考え、人を人と見ない非人間的な論理が働いている。
 今日ではブログやツイッターというメディアが存在するから私たちは、作業に従事する人たちの声を直接に知ることができる。あるいは先日も線量計を遮蔽するように下請け作業員たちに指示したという事例がスクープされていたように、新聞や雑誌の記事をとおして「収束作業」の進行についておおよその知識を得ることもできる。この「事故」が現在も「収束」から程遠い、つまり今なお崩壊した原子炉からは放射性物質が撒き散らされていることを含めて、私たちは廃炉の目処さえ立っていない困難な事業の全貌を漠然と知っているし、このルポを読んでも関係者による秘密の暴露のごとき新たな知見は得られない。それは現地で進められている作業が、比較を絶するほど困難とはいえ、これまでも何十年も続けられてきた原子力発電所のメンテナンスという不正義の延長に過ぎないからかもしれない。下請けと被曝の闇はこれまでとなんら変わることはないし、本書の中で幾度となく繰り返される「使い捨て」という言葉も『原発労働記』の中で何度繰り返されただろうか。その一方で、本書を読んであらためて思い至ったことも多い。例えば以前より私は通常のメンテナンスに比べて圧倒的な線量を「食う」、事故処理の作業員たちをどこからリクルートするのか疑問に思っていたが、本書を読んでこの謎は氷解した。つまり平時にあっても点検等のメンテナンスのために大量の作業員が各地の原子力発電所で働いていた。今、ほとんどの原子力発電所が稼働していない状況で、それらの人は職を失っている。原子力発電所での勤務の経験をもつ彼らは事故処理にあたっても有能で手っ取り早い代替要員なのである。彼らは平時にあっても戦時にあっても「使い捨て」だ。作業員たちの宿舎の前に停められた車のナンバーが青森、長岡、福井、島根といった原子力発電所の立地地域のそれであるという一見何気ない指摘からはこのような背景がうかがえるとともに、基幹産業をもたない「地方」が原子力発電所という非人間的なシステムに既に絡め取られていることを暗示している。それにしても今後数十年単位と予想される廃炉に向けて十分な人員が集められるとは思えない。このため、現場での線量管理がきわめて杜撰になっていることについても本書の中で詳しい言及がある。複雑な下請け関係によって責任の所在が明確とならず、特に経験の浅い作業員は線量管理のための規則を守らない。そもそも1シーベルト以上の放射線をはらんだ瓦礫、殺人スポットが不規則に点在するような敷地での作業は果たして労働管理という点で許されるのであろうか。しかし目に見えることなく、被害がすぐに発現することもない「低」線量被爆のリスクは事業者の責任をも不可視化する。規定の線量を被曝した東京電力の社員や作業員は被曝線量の少ない部署へと交代する。このような交代が円滑に進んでいるかは大いに疑問であるが、事故現場の高い線量のため、作業員たちはごく短い時間しか作業に従事できない。通常の原子力発電所のメンテナンスに関しても同様であるが、私は労働とは正当な対価によって贖われるべきだと信じる。原子力発電所内の作業が危険であることはいうまでもないが、この危険性ゆえに作業員たちはごく短い時間の作業であるにもかかわらず異常に高額の賃金を得る。むろんそれはピンハネされた命の対価であるが、このようにして得た文字通りあぶく銭のような報酬を多くの作業員は「ストレス発散で全部使っちゃいましたね」と言う。「労働時間が短いので仕事は楽でした。でもあそこで働いても、あとには何も残らないですね。その時のお金だけで、何か技術が身につくわけでもないし、将来病気になっても何か保証があるわけじゃないですからね」。『原発労働記』の中でも触れられていた退廃、命を削る労働の対価がパチンコや飲酒にひたすら浪費されていく現実は福島でも正確に再現されている。今引いた言葉の最後に触れられているとおり、今後、きわめて高い確率で作業員そしておそらくは近隣の住民にも放射能による健康被害が発生するだろう。しかし東京電力そして国家がその事実を死に物狂いで隠蔽しようとすることは火を見るよりも明らかだ。
 このルポの中で私が興味深く読んだのは、作業員たちの宿舎がある湯本という温泉地が歴史的に炭鉱と深い関係にあり、かねてから首都圏へのエネルギーの供給地であったという指摘、そして炭鉱労働と原子力発電所での労働の比較である。常盤炭鉱には「一山一家」という伝統があり、炭鉱労働者間には濃密な人間関係があった。今、「収束作業」にあたる作業員たちも多くが地元出身であり、彼らがあえて危険な作業に従事する理由は故郷を守りたいという強い意識にあるだろう。実際にイチエフでの作業に強い「絆」を感じたとインタビューで語る作業員も存在する。普通の現場ではバラバラに仕事をする作業員たちが、イチエフでは早く作業を終えるために協力している。自分たちは危険手当のためではなく、ここに早く住民が戻れるように作業を続けているのだと彼らは自負を語る。しかし一方で原子力発電所の作業とは「絆とは真逆」と語る労働者たちもいる。両者の違いは何か。布施は端的に危険手当の支払いの有無、つまり原発労働ヒエラルキーの位階の違いであると述べる。身も蓋もない指摘であるが、本書のなかで繰り返して示される労働者間の差別構造を考慮する時、正確な指摘であろう。かつて炭鉱が閉山した後も、炭鉱会社は社員たちの再就職先の確保を優先し(その一つが「フラガール」で知られた常盤ハワイアンセンターだ)、「一山一家」の気風を示したのに対して、彼らの再就職先の一つとなった原子力発電所は複雑な下請け構造によって労働者を分断し、労働者の協同を不可能にした。いうまでもない、それは非正規雇用の拡大によって労働者の連帯と権利意識を奪い、「自己責任」(この言葉が作業現場でしばしば使用されることについても本書中に言及がある)の名のもとに労働者の当然の権利であるセーフティーネットを破壊した「小泉改革」以来の日本社会の縮図であり、息苦しい今日の日本の原型である。
 エピローグで布施は「官邸前デモ」に対する作業員たちの違和感を記し、両者の距離について語る。この指摘は重い。人が人として遇された社会が破壊され、原子炉が崩壊した後も私たちはその「収束作業」を、人と人とが分断される非人間的なシステムに依存しながら進めている。しかし人々はこのような分断を断ち切るためにこそやむにやまれず官邸前に集ったのではないか。私は命を削って作業を続ける不可視の原発労働者と子供たちの世代を思ってシュプレヒコールをあげる可視化されたデモの参加者とをつなぐ回路を一刻も早く構築することが必要だと感じる。この問題に関しては誰もが当事者であるのだから。  
 奇しくも今日、疑いなく原子力発電所の再稼働を目指す勢力が総理官邸に入った。果たして私たちはこの国が、そして私たちの人間性が滅ぶ前に、これらの原子炉を廃炉とすることができるだろうか。
by gravity97 | 2012-12-26 21:20 | ノンフィクション | Comments(0)
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 12月2日、やなぎみわのプロデュースによる鉄道芸術祭「駅の劇場」の一環として「プリペアド・トレイン―失われた沈黙を求めて」が実施された。ジャンルの区分が難しいイヴェントであるが、ジョン・ケージの生誕100年記念と銘打たれていることもあり、現代音楽のジャンルで紹介する。ケージとの関係が謳われたのはほかでもない、このイヴェントは1978年にイタリアでケージのディレクションによって初演されたからである。私はケージの専門家ではないし、この芸術祭に関わっている訳でもない。さらに当日、終演後に開かれたアフター・トークを聴講することができなかったため、直接関係者から情報を得ておらず、以下の記述には誤りがあるかもしれないが、120名を定員とするこのイヴェントはレヴューされる機会がさほど多くはないはずだ。以下、ひとまず記録としてイメージと所感を付す。もし誤解等があればコメント機能によって訂正いただければ幸いである。
 最初にジョン・ケージによって初演された際の状況を確認しておこう。「プリペアド・トレイン」はボローニャ音楽祭の一環として1978年6月26日から28日まで三日間にわたって、イタリアのボローニャとポレッタ間約50キロを走行する列車内で繰り広げられたイヴェントであり、スコアはティト・ゴッツィへの書簡というかたちで残されている。イヴェントは今回と同様、「失われた沈黙を求めて」と題され「プリペアド・トレインによる三つのエクスカーション(遠足)、ティト・ゴッツィとジョン・ケージによる主題に基づくヴァリエーション、ファン・イダルゴとヴァルテル・マルケッティの助けを借りて」という長い副題をもつ。「プリペアド・トレイン」は一日一回ずつ三回運行され、日時、行先、タイムテーブル、停車駅などがそれぞれ「楽章」として予告された三楽章の「音楽」である。実際の上演としては各車両に二個のスピーカーが取り付けられ、一つは車内の、一つは車外の音を拾うマイクと接続されている。さらに停車中は各車両の屋根に取り付けられたスピーカーからはボローニャ駅と停車している駅の音があらかじめ録音されたカセットテープを音源として流れる。ただしそれらのカセットテープは列車内の参加者によって自由に入れ替えることが可能である。一方、走行中の車内ではケージの曲が演奏され、さらに各車両および停車駅にはTVカメラとモニターが設置され、乗客は各車両で生起している事件をリアルタイムで知ることができたという。
 以上の予備知識があれば、今回のイヴェントの輪郭はほぼ理解できるだろう。もちろん初演から34年後にボローニャではなく大阪で上演されることによって変更を余儀なくされた点は多い。カセットテープに代わってCDプレーヤーが用いられたのは技術革新を反映している。初演は三日にわたって挙行され、列車は途中の駅でも停車して「乗り遅れた人や途中で降りる人のために駅にはタクシーが準備されていた」のに対して、今回は一回のみ上演で、途中の乗車降車は許されず、折り返しの樟葉駅でも列車のドアが開くことはなかった。時代とお国柄を考えるならばおそらく牧歌的なイヴェントに終始したであろう初演に対して、大都市間を分刻みで運行される電車のダイヤグラムに新たに一組の車両を挿入することはそれなりにリスキーな試みであったと想像される。ひとまずはかかる試みがアクシデントなく終了し、それに立ち会えたことを喜びたい。
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 実際の上演は次のようなものであった。事前に申し込んだ参加者たちは当日、京阪中之島駅に集合し、整理番号に従って整列した。出発30分前に係員に誘導されて改札を抜け、(一般客が乗降するそれとは別の)プラットホームに降りると、すでにそこには何組かの演奏者が楽器を奏でている。車両に入った参加者たちは思い思いの座席を占める。出発まで時間があるため、プラットホームに出て各車両を見回ると先頭車両内に白いコスチュームをまとってスタンバイする「案内嬢」たちの姿が目に入る。出発時刻の14時が近づくと演奏者たちも楽器や譜面台を撤収して車両に乗り込み、折り返しの京阪樟葉駅まで往復2時間足らず、「ケージ音楽小旅行」が始まった。私の記憶によれば使用された車両は8両連結で、そのうち先頭と最後尾の車両それぞれ2両は使用されない。つまり中央の4両の車両にパフォーマーと参加者が乗り込む訳である。樟葉駅に向かって先頭の車両の最前部の座席に8名の「案内嬢」が行儀よく腰掛けている。車両の中央には足元を固定したピアノが置かれている。続いて2両目の車両には弦楽器を中心にした演奏者たちのアンサンブル、アイリッシュ・フィドルの演奏家らが乗り込んでいる。3両目の車両には中程に無数のCDプレーヤーを設置したテーブルが設置されている。それぞれのプレーヤーには京阪沿線の駅名が示され、それぞれのCDに収録された音響を採取した場所を示している。最後尾の車両には京阪電車の車掌の制服を着込み、それぞれ拡声器とラップトップ・コンピュータ、アコーディオン、ギターを抱えた珍妙な三人組が陣取り、中央では一人の作家が針金のような素材を用いて立体を制作している。初演の際と同様に各車両にはスピーカーとTVモニターが配置され、各車両の音声と映像をリアルタイムで流している。2両目のアンサンブルはほとんど移動することなく演奏を続けていたが、ほかのパフォーマーや演奏家たちは自由に車内を移動しながら上演を続けた。さらに女性ヴォーカリスト、門付けよろしく三味線を弾きながら新内節を吟ずる着流しの女性、狭い車内を自由自在に移動するダンサーらがこれに加わる。先ほどの車掌姿の三人組(後でフォルマント兄弟という二人組のユニットであると知ったが、あと一人は何者であったのだろうか)は昭和歌謡らしき歌曲を電子音に変換するという奇怪なパフォーマンスを繰り広げながら車内を練り歩く。彼らは時に相互に絡みながら、折り返しの樟葉駅までの1時間弱の間、車内でのパフォーマンスを続けた。
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 私も含めた多くの参加者もまた時に彼らに従い、時に彼らを避けて車両を行き来し、車内は異様な熱気に包まれた。これらのパフォーマンスのクライマックスの一つは「案内嬢合唱団」による合唱であろう。ピアノの横に整列した彼女たちは伴奏に合わせて「兵隊さんの汽車」(「きしゃきしゃしゅっぽしゅっぽ」で始まるよく知られた童謡である)と「花嫁」(「花嫁は夜汽車に乗って嫁いでいくの」)の二曲を合唱する。これらが汽車というテーマとの関係において選択された点は容易に想像される。前者は今日では「汽車ぽっぽ」というタイトルで知られているが、案内嬢たちが歌ったとおり、原曲は「兵隊さんを乗せて、しゅっぽしゅっぽしゅぽっぽ」あるいは「僕らも手に手に日の丸の旗を振り振り送りませう」という歌詞を含み、軍国主義と深い関係がある。鉄道と戦争という主題は今年の夏に鳥取で初演され、今回の鉄道芸術祭で改訂版として上演されるやなぎの新作「パノラマ」と深く関わっているから、案内嬢たちがプリペアド・トレインの中でこの曲を合唱する必然性は明らかである。一見ピクニックのように楽しげなこのパフォーマンスに歴史性、政治性を導入する点はいかにもやなぎらしい。
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 今述べたとおり、車内では多様なパフォーマンスが繰り広げられ、祝祭的な雰囲気が支配する。中之島駅のプラットホームではケージの楽曲が演じられていたが、往路の車内で演奏される曲、上演されるパフォーマンスは大半がケージと関連することなく、参加者は同時多発的に繰り広げられる思い思いの演奏やパフォーマンスを楽しみながら過ごした。事前に簡単なパンフレットが手渡されたため、参加者は出演者とプログラムを知ることができる。復路ではケージの「ウインター・ミュージック」が演奏者全員によって演奏された。1957年にニューヨークでケージとデイヴィッド・チュードアによって初演されたこの曲は演奏時間に関しては不確定、1台から20台のピアノのために作曲されたということであるから、おそらく乗車した20人程度の演奏家がそれぞれのスコアに基づいて演じたのであろう。実際、往路では勝手にふるまっていた印象のある演奏者たちが復路ではスコアとストップウォッチをにらみながら佇んでいる様子を随所で見かけたので、それぞれが音を発するタイミングをスコアによって確認していたと推測されるが、誰がどのタイミングで演奏したか判然としない。列車内で踊るダンサーやフォルマント兄弟(+1)もこの演奏に参加していたのであろうか。さらにパンフレットには「4分33秒」を含むいくつかの曲目が等号で結ばれるという奇妙な表記で演奏曲目が予告されていたが、一音も発されない「4分33秒」にいたっては、そもそも実際に演奏されたかすら判然としない。このあたりの詳細がアフター・トークでは明かされたのではないだろうか。各人が好き勝手に演じていた往路に比して、復路ではパフォーマンス全体の統一感が感じられた気もする。しかしこれはあくまでも事後にパンフレットを確認しながら得た印象であって、実際には往路と復路のパフォーマンスに決定的な差異があったようには感じられなかった。
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 さて、今回の「プリペアド・トレイン」を検討するにあたってはアラン・カプローによるハプニングの概念を援用することが有効かもしれない。カプローはハプニングの条件を次のように要約する。1.芸術と生活の境界は流動的かつ可能な限り不明瞭に保たれるべきである。2.テーマの出自や素材、アクション、それらの関係は芸術とその派生物、その環境を除いたすべての場所と時代から自由に引き出されるべきである。3.ハプニングは複数の離れた場所、時には移動し、位置が転ずる場所で上演されるべきである。4.時間は可変的かつ不連続であるべきである。5.ハプニングは一回のみ上演されるべきである。6.結果的に観衆は排除されるべきである。7.ハプニングの構成は厳密にアッサンブラージュとエンヴァイロメントのコラージュとして展開される。カプローとケージはブラック・マウンテン・カレッジで実際に交流があり、「プリペアド・トレイン」がカプローによるハプニングの定式化のはるか後に実施されたとしても両者の関係を否定する必要はないだろう。それどころかハプニングが「芸術と生活の境界」を不問とし「移動する場所」で上演されるべきであるとういう主張はあたかも「プリペアド・トレイン」を予言するかのようではないか。
b0138838_10164432.jpg私が興味深く感じたのは列車という舞台である。列車は「移動する場所」という点で特異であるだけでなく、形状としてきわめて長く、一望することが不可能である。しかも多くの演者たちが車両内を移動しつつ上演を行うので、全てを見通す視点はありえない。おそらく8両中4車両が使用されたことは、この問題と関わっているだろう。全車両を使用したとすれば、一望どころかパフォーマンスとしてあまりに散漫になってしまう。先ほど私は当日の上演の模様について記述したが、それは参加者の一人として私が見ることができた範囲の状況であって、同時にほかの車両では別のパフォーマンスが進行していたはずである。実際、私はパンフレットにクレジットされた演奏者のうち、トランペットやトロンボーンといった管楽器を用いた演奏の心当たりがない。(楽器をもった演奏者は見かけた)抽象表現主義以後の平面や立体を通して、このような特権的な視点をもたない作品の構造に私たちは見慣れている。体験が常に部分的であって、全体へといたらないという構造はカプローがハプニングの条件の最後に掲げた「アッサンブラージュとエンヴァイロメントのコラージュ」とはいえないだろうか。通常の演奏会における全能の話者ならぬ全能の聞き手という立場を否定する作品の構造はいかにもケージらしい。一方で観衆と演奏者の役割の交換についてはやや不十分に感じられた。おそらくCDプレーヤーを操作することによって、参加者もまた音源を作り出すことができたはずであるが、少なくとも私が体験した範囲では説明が不十分であった気がするし、何より参加者は次々に繰り広げられるパフォーマンスの方に興味をもち、自分から主体的にこの実験に加わる余裕をもちえなかったように感じる。またいくつかのブログを参照したところ、「ウインター・ミュージック」の演奏にはランダムに選ばれた参加者も加わっていたという記述もみられたが、私は確認できなかった。あるいは途中でダンサーが参加者を挑発する場面もみられたが、概して参加者は観衆という本分を逸脱してまでパフォーマンスに参加する積極性をもちえなかったように感じる。観客/聴取者を積極的な演奏家に変えるためにはもう少し巧みな戦略を取り入れる必要があったかもしれない。むろん「プリペアド・トレイン」をカプローの理論に従って理解する必要はないが、以上述べたとおり、今回の試みをハプニングという観点から検討することによっていくつかの知見がもたらされるように感じる。いずれにせよケージとカプローの関係についてはなお多く研究の余地があるだろう。
 鉄道と音楽という主題から私が直ちに連想するのはクラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」である。速度もリズムも変わることなく20分以上にわたって繰り返される単調な鉄路の響き。ケージが駅頭の音響を列車の中に取り込んだことを考えるならば、両者の距離は意外に近いかもしれない。しかし「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」が(「イギー・ポップとデヴィッド・ボウイに出会う」といったエピソードをはらむにせよ)ヨーロッパ横断特急の単調で機械的な走行、鉄道の形式を主題にしているのに対して、今回の企画でやなぎは中之島と樟葉を結ぶ貸切列車に「兵隊さん兵隊さん万万歳」といった唱歌をさりげなく挿入して、鉄道という機関の意味へと私たちの思いを差し向ける。ここから私の思いはさらにスティーヴ・ライヒの「ディファレント・トレインズ」へと向けられる。ライヒは1939年と1940年、アメリカとヨーロッパを走る別々の列車(ディファレント・トレインズ)にユダヤ人としての自分を投影する。ケージ、クラフトワーク、ライヒ、そして今回の「プリペアド・トレイン」。かかる系譜からは様々の思いを込めた鉄道をめぐる音楽史が浮かび上がってくる。

[付記]当日、車内は撮影自由であったので、演奏者を中心に私が撮影したイメージをいくつかアップしている。もし差し障りがあれば連絡いただきたい。
by gravity97 | 2012-12-10 10:32 | 現代音楽 | Comments(2)

「美術にぶるっ!」

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 先日、東京国立近代美術館の開館60周年記念展「美術にぶるっ!」を訪れた。周年にコレクション展が開かれた場合、アリバイ的な味気ない展覧会となる場合が多いが、さすがに近代美術館、一筋縄ではいかぬ刺激的な内容となっている。このところ、海外、特にアメリカで日本の戦後美術を主題とした展覧会が次々に開かれ、英語による原資料の紹介、そして作品研究が進められている。私としてはこのような状況に一つの危機感を抱いているが、それについては別稿で論じることとして、かかる趨勢に対して一矢を報いた内容としてもこの記念展の意義は大きい。
 「美術にぶるっ!」はいつものコレクション展示同様、4階に始まり、時代を下るにつれて階下へと降りて行く。最初にベスト・オブ・ベストと呼ぶべき作品を一室に集めたり、開館の折りに収集された作品で展示の一角を構成したり、それなりに工夫もある。作品に付されたコメントもよく練られており、美術館の建築を取り入れた展示も含めて、若手のキューレーターの視点がうかがえて楽しめる。展示では人の表現、前衛の登場、戦争の世紀といったテーマに基づいて編年体で日本の近代美術史が紹介される。このうちいくつかのテーマについてはこの美術館で、あるいはほかの美術館で近年、一つの企画展の主題とされたことが思い起こされる。テーマのみならず作品も見慣れたものが多いからさほど新鮮な印象はないが、この美術館の使命は日本の近代美術の「正史」を編纂することであり、このような「正史」への批判は当然ありうるとしても、ひとまずはこの展覧会では多くの名品を一度に見ることができることを純粋に楽しめばよいと思う。大観の《生々流転》であれ劉生の切り通しであれ、今まで何度も見たことがあるにもかかわらず、付されたコメントを介して個人的に新たな発見があり、この美術館のコレクションの層の厚さをあらためて思い知る機会となった。しかしそれだけでは最初に述べた通り、名品揃いであってもキューレーションの要素が少ない味気ない展覧会でとなっただろう。今回の展示の注目すべき点は一方で名品をたどる水平的な構成をとりながら、通常企画展が開催される一階の展示室において展覧会に垂直に切り込むかのようなきわめて批評性の高い一連の展示がなされていることである。いうまでもなくこの展覧会の第二部と位置づけられた「実験場 1950s」である。
 このような二部構成自体は特に目新しくはない。第一部に出品された作品が展示の構成上、東京国立博物館等から一時的に借用された内容を含むとはいえ、基本的にコレクションから出品され、その意味でも「MOMATコレクションスペシャル」と銘打たれていたのに対して、第二部は明確な意図とともに他の美術館から借用された作品群と東京国立近代美術館のコレクションによって構成されている。つまりコレクション展と企画展が並立しながら、全体としては企画展も通時的な構成の中に組み込まれるという二重構造によってこの60周年展は成立しているのである。《騎龍観音》など近代洋画の濫觴から時代を下りながら作品を巡覧した観者は二階のあたりで奇妙な中断を体験する。近代美術館が所蔵する海外作家の作品を集めたコーナーは国籍の違いによって説明できるにせよ、日本の近代美術の文脈が唐突に断ち切られ、荒川修作や高松次郎の概念的な作品に出会うこととなるのだ。一階に降りると私たちはこの中断の意味を知る。欠落していた時代、とりわけ1950年代を集中的に取り上げる「実験場 1950s」の展示に立ち会うからだ。そして第二部に歴史的、通史的な文脈は初めから存在しない。
 第二部の展示において1950年代が特集された理由、正確に述べるならば1952年が起点とされた理由は単純だ。1952年は東京国立近代美術館が開館した年であり、周年展にふさわしい。しかしここで冒頭に展示されるのは作品ではない。それは原爆投下から7年後の広島市の復興の模様を撮影した朝日ニュースの映像である。映像は新しい家並みを映し出して戦争からの復興が順調である点を示しながらも、原爆投下直後の酸鼻極まりない被害と広島の光景、あるいは52年当時も残存する被爆の影響についても詳しく述べている。いうまでもなくここには2012年が二重化されている。被爆直後の焦土と化した広島のイメージからは東日本大震災の津波によって廃墟と化した東北の被災地を連想せずにはおられず、同様に半世紀後に原子力災害として放射能による災厄が同じ日本で繰り返されたことに思いを向けずにこの映像を見ることは困難である。私はこの映像から直ちに椹木野衣が日本の戦後美術(椹木の場合は1955年以後が想定されていたが)を一種の「悪い場所」、閉じられた円環とみなしたことを連想した。今回の展示に同じ意図があるかどうかはひとまず措き、展示は50年代の美術を政治的な文脈との関連において検証し、その際には記録映画や写真、週刊誌や宣伝文書といった異なったジャンルの表現が多く参照されている。私はこのような発想と展示が先日まで埼玉県立近代美術館で開催されていた「日本の70年代 1968-1982」の展示と近似している点に興味を抱いた。企画者の鈴木勝雄はこの展示と関連して刊行された論集の冒頭で今回の企画の動機を列挙している。まず美術という制度の中で自閉する既存の美術史によっては50年代美術の豊饒を把握することができないこと、そしてこれまで50年代美術がリアリズムとモダニズムの二律背反的な対立として捉えられてきたことへ違和感などである。続いて鈴木は文化の政治性を美術史の文脈において論じることの必要性と「リアリズム」概念の再検討、そしてこれまで広く「リアリズム」と括られてきた表現の変遷や形式に対する分析の必要性を説く。鈴木によれば本展に先行して目黒区美術館における「1953年ライトアップ」と名古屋市美術館における「日本のリアリズム」という二つの展覧会が存在するが、これらの観点に立つならばいずれも不十分であった。私も両方の展覧会を見たが、確かに前者からはなぜか「社会主義リアリズム」が排除され、後者は大量の作品をただ羅列した趣であり(それはそれで展示の手法として一つの明確な意図のもとになされたと考えるが)、いずれも不徹底な印象があった。今回は重要な作品が網羅されるとともに記録映像が充実し、当時の熱気を背景に作品が制作された必然性が強く意識される。たとえば亀井文夫の記録映画の横に中村宏の《砂川五番》が置かれ、北朝鮮への帰還事業を伝えるニュースの横に曹良奎の《密閉せる倉庫》や《マンホール》が展示されている状況からは、時代の熱気と閉塞感がともに伝わってくる。私の記憶によれば後者の作者はこれらの鮮烈な作品を発表した後、北朝鮮に「帰還」し、その後の消息が不明となったのではなかっただろうか。
 個人的に私が関心をもったのは「静物としての身体」と題されたコーナーである。鶴岡政男の《重い手》と阿部展也の一連の絵画、村岡三郎の《背》、浜田知明の「初年兵哀歌」そしてなによりも河原温の「浴室」シリーズ、これらの一連の作品は手法も表現もそれぞれ異なるにも関わらず、明らかに一つの時代の気風を表象している。先に触れた論集の中で大谷省吾は「静物としての身体」というセクションのタイトルそのものが死体を暗示しているという興味深い指摘を行っている。これらの作品の息詰まるような閉塞感から私が連想したのは欧米の絵画ではなく、野間宏の「暗い絵」や椎名麟三の「深夜の酒宴」といった同時代の文学であった。論考の中で大谷も浜田知明の「初年兵哀歌」と野間の「崩壊感覚」で表象された二つの縊死体を対比的に論じ、さらに河原温の「浴室」と大江健三郎の「死者の奢り」における死体の集積に言及して論を終えている。これらの作品はすべて死体を主題としている。序論でも指摘されるとおり、当時は花田清輝や佐々木甚一といったジャンルを超えたイデオローグが存在したという事情はあったにせよ、文学と美術がきわめて親和し、主題において共通性をもつのみならず、形式的な比較さえ可能であることにこの時代の表現の特異性をみる思いがする。この意味において通時的な分析を一度解除したうえで、ジャンルの横断性に50年代美術の特質を認める本展の姿勢は有効といえよう。
 以上の点と深く関連するが、今回の50年代の特集展示を見て私が強く印象づけられたのはジャンルや作家を横断して実にさまざまの身体が登場することだ。あたかもコレクション展示の中でも圧倒的な存在感を見せつけた藤田嗣治の《アッツ島玉砕》中に累々と横たわる死体のごとく、作品の中に身体が表象される。最初の部屋に展示された被爆者のケロイドの写真はこの意味においても象徴的である。50年代をとおして繰り返し私たちが出会うのは切断され、積み重なり、時に不気味に変形し、虐待の跡を留めた身体である。同じ時代、海外に目を向けるとやはり人体を主題とした記念碑的な作品が存在する。デ・クーニングの《女》、フォートリエの《人質》。第二次大戦の記憶も生々しいこの時代に身体が作品の共通の主題とされたことは時代の必然であったかもしれないが、これらと比してもこの時期に日本で描かれた身体の異様さは突出している。「実験場50s」においては主として50年代の具象的な表現をたどりながら、この点が確認された。しかし私は同じ系譜を60年代以降の美術、そして同じ時代の抽象絵画の中にも伏流水のごとく認めることができるのではないかと考える。すなわち読売アンデパンダン周辺、具体的には工藤哲巳、荒川修作、あるいは三木富雄から赤瀬川原平にいたる作家のオブジェに執拗に反復される切断された器官のイメージ、あるいは性器や胎児を連想させるグロテスクなイメージ。一方で今回は展示された作品が少なかった50年代の具体美術協会の活動において作家の身体は泥と格闘し、紙の衝立を破り、絵具壜をカンヴァスに叩きつけた。前者を河原温の(この展示には加えられていないが)「死仮面シリーズ」(1955/56)に、後者を反基地闘争の写真にとどめられた参加者の肉体と熱気と関連づけることは決して強引ではないだろう。この意味においてもこの展示で紹介され、「実験場」と名づけられた50年代美術は実に日本の戦後美術の原基なのである。
 ひるがえってこれらの表現に徹底的に欠落している要素、それは視覚性という主題である。視覚と身体を対立的にとらえることに議論の余地は大いにあるが、作品の視覚的な在り方がこれらの作品においてさほど重視されていないことは明らかである。いうまでもなくこのような美術の在り方は欧米のモダニズム美術の対極にある。再び「MOMATコレクション」に戻るならば、明治期以降の日本の近代美術にあって萬鐵五郎、岡本唐貴らわずかな例外を除いて、絵画の視覚的、形式的な探求がなされたことはなく、60年代以降の美術はもはや視覚ではなく概念や観念が主題とされている。例えば辰野登恵子や中村一美のごとき、絵画の形式的な探求者が日本にいなかった訳ではない。しかし意図的であろうか偶然であろうか、彼らが登場する80年代以降の美術を欠いたことによってこの展覧会は日本の近代美術の充実と同時に一群の作品の不在を強く意識させる内容となっている。私は欧米の「美術史」を規範とみなす立場には立たない。しかしここで日本の近代美術の正史として登録された作品群は、逆説的にも充実ではなく欠落をとおして美術史における近代日本の特殊性を物語っている。b0138838_2246959.jpg
by gravity97 | 2012-12-04 22:49 | 展覧会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック