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by gravity97 | 2012-10-19 22:08 | BOOKSHELF | Comments(0)

b0138838_9181282.jpg 今年はジョン・ケージの生誕100年、没後20年にあたる。昨年から今年にかけて名古屋と東京で開かれたポロックの回顧展もサントネールと位置づけられていたから、20世紀芸術を革新した二人の巨人が同世代であったことが理解される。このところケージに関する記事を新聞で目にすることが多く、先般、読売新聞に連載されていた一柳慧の自伝においてもケージに関する言及に多くが割かれていた。ケージに関連するコンサートも各地で開かれていると聞く。先日発行された『ユリイカ』の10月号でもケージに関する特集が組まれている。書庫で確認したところ、同じ雑誌の94年1月号でもケージが特集され、ケージに関してはこれまで『現代詩手帖』、『水声通信』や『アールヴィヴァン』でも特集が組まれてきた。それらと比しても今回の特集は格段に充実しており、読み応えがある。おそらくその背景には近年、ケージの主著である『サイレンス』の邦訳をはじめとして、ケージ研究が格段に深められたという事情があるだろう。そういえば私自身も比較的最近、白石美雪の新刊『ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー』を読んだ記憶がある。今回は『ユリイカ』の特集と関連してケージについて若干の考察を記しておきたい。
 今回の特集には多彩な関係者が執筆している。冒頭に一柳慧へのインタビューが掲載されているのは順当であろうし、音楽家としては坂本龍一の回想が面白かった。ナム・ジュン・パイクに連れられてケージのマンションを訪れた際、ケージへの献本にサインを頼まれた坂本が緊張してケージのスペルを間違えてしまったというエピソードは微笑を誘う。ケージの楽曲の演奏について論じる高橋アキ、記譜法を分析する柿沼敏江らのエッセイはそれぞれの専門分野からのケージ研究として短いながらも示唆に富む。中でも興味深く読んだのが佐々木敦による[4分33秒]についての論考だ。演奏者がピアノの前で一音も発さない伝説的な曲についてはこれまで多くが語られてきたにも関わらず、なおも多く未知の部分がある。なぜ、4分33秒なのか。初演は誰がどのように演じたのか。演奏にヴァリエーションはあるのか。佐々木によれば、この文章は2008年に行った[4分33秒]についての各3時間、全5回から成る連続講座の冒頭部であるという。この講義については書籍化の計画もあるというから、是非全文を通読したい。あるいはケージがきのこに造詣が深いこともよく知られている。イタリアのクイズ番組に出演した折りにはきのこについての問題に全問正答してイタリア留学の奨学金より多い500万リラを獲得したという。ケージとキノコの関係については「きのこ文学研究家」を名乗る飯沢耕太郎がエッセイを寄せている。さらに日本との関係についてもケージ受容の問題を含めて、いくつも興味深いトピックスが設定されている。ただし美術とケージの関係に触れた文章が少ないのはやや残念である。例えばケージ、ポロック、ラウシェンバーグという三人の名を挙げただけでいくつもの興味深いテーマが浮かび上がってくるではないか。
 私はこれまで何度か実際にケージの楽曲が演奏される場に立ち会ったことがある。もちろん私はケージの音楽については素人であり、私が上演に立ち会った曲がケージの楽曲の中でどのような位置を占めるかを説明できる知識はない。私の漠然とした理解によれば、ケージの作品はプリペアド・ピアノを用いた初期、続いていわゆるチャンス・オペレーションという手法を用いて作曲に偶然性を導入した時期、さらに演奏にも不確定性を導入した「聴取の詩学」の時期を経て、大編成の演奏者による「ミュージサーカス」にいたる。これらは必ずしも一方的な展開や成熟とみなされるべきではないが、特集に目を通した限り、基本的な理解としては間違っていないだろう。このうち私が聴いたのは初期のプリペアド・ピアノを用いた作品とチャンス・オペレーションによる作品、具体的には1950年代までの作品が多かった。プリペアド・ピアノが演奏される場合、ピアノは事前にプリペアされているため、いかにして弦に異物が挿入されたかはよくわからない。この点に関して高橋アキの記述が示唆に富む。彼女は作業の困難さとそれによって目指す演奏を次のように的確に要約している。「(目下練習中の曲において)プリペアはピアノ弦の半分以上に細かく指示されており大変な作業だ。しかしプリペアなしでも本当は音楽として実に素晴らしい。そこに、さらにボルトやスクリュー、ゴムなどを弦に挟み込むことで実音の美しさ以上のさまざまの豊かな音色を作り出すことがコンサートまでの課題だ」私たちはケージと偶然性という言葉を安易に結びつけているため、プリペアに関してもいわば行き当たりばったりで弦に細工をするような印象を抱きがちだ。しかしケージは何をどのように弦に挟むかといった点まで細かく指示している点が理解されよう。そしてそのうえで「豊かな音色を作り出すこと」がピアニストに求められている訳である。プリペアされた弦が発する音は確かに偶然的かもしれない。しかしいかに弦を操作するかについては厳密なインストラクションが存在するのだ。同じことはチャンス・オペレーションによって作成された楽譜の演奏にあてはまる。再び高橋アキの証言を引用する。「大体、不確定性の音楽でのケージの演奏指示自体が、不明確、あいまいなことが多い。まずは指示の謎解きから始めて、次々と難題を解いていく楽しみ。演奏できる状態になる以前の、この自分自身の楽譜を作り上げる作業。次いでついに仕上げた込み入った楽譜を納得いくまで練習していく時間」高橋はケージの曲を演奏する体験を「パズルを解くこと」に準えているが、別の言葉で言うならば、そこでも不確定性の原理によって作成された楽譜を一つの必然性な演奏へと導くことが演奏者に求められているのである。私はこのような原理から直ちに一連のコンセプチュアル・アートを連想する。例えばソル・ルウィットのウォール・ドローイングにおいては作業に熟練した職人が作家の指示書に従って、壁面にドローイングあるいはペインティングを施す。線の長さや数、あるいは色彩の選択や塗る範囲について、職人はあらかじめ定められたルールを厳密に遵守することを求められる。ルウィットの場合、実際に作品を制作する職人に与えられる自由度はケージの楽譜を演奏するピアニストに与えられたそれよりはるかに限定されるが、一定のルールの下で一つの作業を行う点においては共通する。あるいは河原温のデイト・ペインティング。この場合、作品は作家自身によって制作されるが、作品を制作する時間や日付が表記される言語、作品がその日付に制作されたことを示す新聞記事の収納にいたるいくつかのルールが事前に規定されている(ただし、ルールを明文化したテクストは存在しない)。コンセプチュアル・アートとは一面において、あらかじめ定められたルールに基づいた行為の記録であり、制作行為がしばしばタスクという言葉で呼ばれる所以でもある。これまでケージは世代や偶然性への関心、ブラック・マンテン・カレッジとの関わりなどで抽象表現主義との関係が漠然と想定されていたが、コンセプチュアル・アートとの関係に着眼するならば、むしろ両者の断絶が明らかとなる。
 さて、先に私はこれまでケージの楽曲が「演奏」される場に何度か立ち会ったと記した。[水の音楽]や[ウォーター・ウォーク]といった1950年代の楽曲においてはラジオから電気ミキサーにいたる非音楽的素材が次々に導入されて、演奏というより上演、パフォーマンスに近い印象を受けたのは私だけではないだろう。これらの上演はその場限りの出来事なのか、それとも再現の可能性をもった演奏なのか。今回の特集の佐々木敦の論考を読んで驚いたことには、[4分33秒]に関しては70年代にレコードよる録音、そしてそれを音源としたCDが存在するという。もちろんよく知られているとおり、ピアニストが一音も発さないからといってこの曲は無音ではない。それどころか、それによってかえって聴覚に集中した聴衆が聴き取る様々な音が主題とされている。しかしかつて「演奏」された[4分33秒]をCDによって「再現」できるのであろうか。この問題は実に奥深く、おそらく一編の論文の主題足りうる。ここでは美術と関連させて一つの解釈を加えるに留める。ケージの[4分33秒]は実は聴取という体験の絶対性、一回性と関わるものではなかっただろうか。つまり日常では私たちが音を聴き取るということは常に一度限りであって反復されることはない、同じCDを繰り返し聞くという体験はどうか、直ちにこのような反問がなされるかもしれない。しかし多くの場合、私たちはスピーカーから再生される音と同時にその場の別の音も聴取するし、そもそも音量から音質、聞き手と音源の位置関係にいたるまで同一の聴取体験はありえない。自明であるため意識されることは稀であるが、実は私たちが音を聴く体験は常に一度限りと考えることはできないか。このような発想からは直ちにミニマル・アートの体験が連想されよう。ミニマル・アートにおいては見るという体験の絶対性が問題とされた。作家たちは誰にとっても等しい視覚体験を与えることをめざして、単純な形態の立体を配置した。しかし今の議論と同様に、ミニマル・アートによって人は視覚体験を共有できないこと、作品を知覚する体験は常に一度きりであることが明らかとなった。興味深いことにこのような実験はケージにおいては無音の演奏という聴覚の零度、ミニマル・アートにおいては個性や表現性の最小化という視覚の零度、いずれも表現を切り詰める手法によって探求された。この時、ミニマル・アートとジョン・ケージの共通点が明らかになる。さらにケージの[4分33秒]において聴衆は自らの周囲の音、自分たちが置かれた状況へと目を(というより耳を)向けた。同様にミニマル・アートにおいて個々の作品ではなく作品が配置された状況が主題化された点も両者は一致する。
 通常、ミニマリズムと音楽といえば、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスといったミニマル・ミュージックとの関係が指摘されてきた。実際に作家同士も交流があり、ルウィットはライヒの[18人の音楽家のための音楽]のレコードジャケットを手がけ、(ミニマル・アートとは峻別されるべきであるにせよ)リチャード・セラはグラスの名を冠した作品を制作している。しかし以上述べたとおり、反復性や非関係的な構造といった楽曲の構造のレヴェルを超えて、その本質とも呼ぶべき精神においてミニマル・アートはケージの仕事と多くの共通点をもつ。さらにケージが[4分33秒]を着想するにあたって、ラウシェンバーグのホワイト・ペインティングが決定的なインスピレーションを与えたという事実を加えるならば、この異例の曲をめぐる前衛美術と前衛音楽の豊かな混沌は今日においてもなお研究されるべき多くの余地を残している。
by gravity97 | 2012-10-10 09:19 | 現代音楽 | Comments(0)

b0138838_20523299.jpg 「在特会」という団体がある。正式名称は「在日特権を許さない市民の会」という。名の通り、「在日コリアン」(在特会は韓国系と朝鮮系を区別しないのでひとまずこの言葉を用いる)の特権を剥奪することを求める「右派系市民団体」であり、街頭で派手な挑発活動を繰り広げることで知られている。冒頭で日本有数の在日コリアンタウンとして知られる大阪、鶴橋における街宣活動の模様が語られる。日の丸を掲げてトラメガ(拡声器)を携えた一群の男女が街頭で街宣活動を始める。特定の弾劾の対象がある訳ではない。いわばコリアンタウン全体を相手に、聞くに耐えない差別用語や蔑称を用いて在日コリアンの存在を否定するヘイト・スピーチを繰り返す。会費を伴わない「メール会員」が大部分を占めるにせよ、この団体は今や1万人以上の会員を擁し、右翼系の団体の中でも最大級の勢力を誇る。彼らの活動を体当たりで取材し、記録したノンフィクションが本書である。
 この団体の異様さは冒頭の情景からも明らかだ。まず不特定多数に向けられた極端に攻撃的な挑発(「ハネる」というらしい)、そしてそれを行うのがいわゆる「右翼」然とした構成員ではなく、スーツ姿の会社員やOLといった「どこにでもいるような人々」であることだ。インターネットという補助線を引けば、これらの理由を推測することは可能だ。著者の安田によれば、このような街宣はそれ自体を目的とするというよりも、その模様を動画としてインターネット上にアップロードするために実施される。こういった動画に惹かれて街宣活動に繰り出すのが職業右翼ではなく、彼らのアジテーションに共感した「どこにでもいるような人々」であるという訳だ。人が人に憎悪をぶつける映像を見ても不愉快に感じるだけであろうし、彼らを間接的にも応援するつもりはないから、私は今までそのようなサイトにアクセスしたことはない。しかし在日コリアンに対して憎悪を増幅する回路がインターネットという前提を介して成立したことはたやすく理解できる。
 この会のリーダーは桜井誠という。サスペンダーに蝶ネクタイという奇妙な出で立ちで街宣の先頭に立つ写真が掲載されているが、外見のみならず演説や存在感においても確かにカリスマ的な人物であるらしい。2007年に500名の会員によって設立された在特会は派手な行動とそれをインターネットで公開する独特の手法によって急成長し、今述べた通り、4年間で1万人という規模に膨れ上がる。動画サイトにアップされた桜井の画像には時に数万回というアクセスがあったという。この過程で在特会は次々に派手なパフォーマンスを繰り広げる。不法滞在のため娘を残して両親のみがフィリピンに強制送還を迫られ、入国管理局の非人道的な姿勢が批判された事件に対して、在特会は2009年4月に当局の処置を擁護する「カルデロン一家追放デモ」を行い、当事者の娘がいる中学校の前で一家追放のシュプレヒコールを上げた。インターネットの掲示板にはこのような処分を当然とみなす書き込みが大半を占めたという。同じ年の12月、在特会は京都市にある京都朝鮮第一初級学校に対して激烈なデモを敢行する。この学校には運動場がないため、隣接する児童公園を朝礼や運動会で使用したことが「不法占拠」にあたるとして授業中の学校の前で在日コリアンを追放せよと街宣を繰り返したのだ。あるいは2010年4月には募金を朝鮮学校に送ったとして、徳島県教職員組合の前で街宣行為を行い、最後には事務所内に乱入する騒ぎを引き起こした。後の二つの事件はそれぞれ「京都事件」「徳島事件」と呼ばれ、逮捕者を出すにいたった。これに対して在特会は時に記者会見を開いて自らの正当性を主張した。
 本書ではリーダー桜井の閲歴をはじめ、在特会の活動が丹念に検証される。独特の主張とスタイル、それに伴う運動の高まり、最初は新しい形の保守運動として注目された彼らがあまりのエキセントリックさに旧来の右派陣営から次第に疎んじられる経緯も多くの関係者へのインタビューから浮かび上がる。私が読んだ限りでも在特会の主張には独善的な内容が多いように感じられる。彼らがいう在日コリアンの「特権」、すなわち永住権、通名の使用、生活保護の受給、税制での優遇措置が果たして「特権」と呼ぶに値するかについて今は措く。また桜井をはじめ、個々の会員たちの主張の当否についてコメントすることも控えよう。私自身はいずれも愚劣な主張だと考えるが、たとえ「愚劣」であろうとも自らの信念を主張する自由は誰にでもある。あるいは街宣後の打ち上げで入った居酒屋の中国人店員に南京大虐殺の有無を問い、挙句の果てには店長を吊るし上げ、その顛末を得意げに自分たちのブログに書き込むという振る舞いについても当事者が責任をもてばよい。本書の中に在特会から攻撃された朝鮮学校のOBが彼らの印象を聞かれて「あの人たちだって、楽しくてしかたがないって人生を送っているわけじゃないんやろ。そりゃあ腹も立つけど、なんだか痛々しくて、少なくとも幸せそうには見えないなあ」と述懐する記述がある。この集団に対する私の感想もそれに近い。
むしろ私が関心をもったのは在特会の背後、つまりかかる驕慢な行為を繰り返す彼らの背後にそれを承認する一定の数の人々が存在することである。安田がこのドキュメントの中で繰り返し指摘するのは、街宣活動の場ではここに書き写すこともためらわれるような下品で差別的な言辞で在日コリアンを罵る会員たちが一対一で面談するならば、ごく普通の常識をもった若者であり、家庭人であり、会社員であることだ。街宣車で押しかけるいわゆる強面の「右翼」とは全く異なった人々が活動の主体を務めることと、彼らの活動がインターネットにおいて一定の支持を集めていることはおそらく深い関係がある。私の考えでは、桜井たちの主張や行動は一種の触媒であり、これまで同質性とゆるやかな連帯によって結びついてきた日本の社会(このような社会が望ましいかどうかは別の問題である)を根底から変化させた。在特会の登場は一つの兆候であろう。今、日本には一種の無力感と閉塞感が瀰漫している。それはバブル崩壊後の時代の空気であったが、大震災と原子力災害以後、それはもはや耐え難い絶望感にいたっている。このような状況において排外主義が台頭することを私たちは歴史から学んだ。原子力発電をめぐる迷走から理解されるとおり、まともな政治の存在しない国で弱者を叩いて喝采を浴びる小ヒットラーが跋扈し始めたというのが今日の私たちをめぐる状況ではないか。いつの頃からだろう、この国は弱者への寛容を失ってしまった。遠くはイラクで人質になった日本人ボランティアたちへの常軌を逸したバッシング、近くは不正受給を受けていた生活保護世帯に対する国会議員たちの鬼の首でもとったかのような攻撃。そこに共通するのは、批判する側が「三分の理」をもつことであり、批判される側が弱者である点だ。この点は在特会の活動と一致している。彼らの活動も彼らなりの大義名分を有しており、本音としてのコリアン憎し中国人憎しといったむき出しのレイシズムをかろうじて糊塗している。そして「京都事件」の発端が示す通り、インターネットの匿名性は漠然としたレイシズムを共有する不特定多数の人々をたやすく媒介する。朝鮮学校が児童公園を「不法占拠」しているという一本のメールからかくも激しい攻撃が引き起こされたのであり、不寛容な社会と通報装置、密告装置としてのインターネットはよく親和しているのだ。既にこのブログでも論じたとおり、一方で東浩紀はインターネットに民主主義の未来を見出し、グーグルの技術者たちは理想の未来社会を投影する。しかし私はそこに底知れぬ悪意の広がり、ネガティヴな社会的無意識の反映を認める。安田が報告するとおり、ごく普通の人々が街頭で弱者を罵倒することをためらわない異常な心理とは現実の社会を前にした無力感と仮想現実の中での全能感のギャップとして理解することができないだろうか。
 本書の中では在特会の街宣活動の情景がしばしば描かれる。例えば2011年8月14日の「フジテレビ抗議街宣」に集ったのはベビーカーに子供を乗せた母親や子供を連れた夫婦、カップルや会社員といった人々だったという。彼らは思い思いのプラカードを持参し、シュプレヒコールを上げ、デモの終点では「おつかれ」と互いを労い、感涙する女性もいたという。このような光景を私たちは最近どこかで見かけなかったか。いうまでもなく毎週金曜日に首相官邸前で繰り広げられている反原発集会である。もちろん私は両者を同一視するつもりはないし、実際、在特会は反原発集会にカウンターデモを仕掛けて、参加者に罵声を浴びせているらしい。しかしながら私は両者のメンタリティーがきわめて近い点に興味をもつ。ごく普通の人々が散歩にも出かけるかのように気軽に参加し、しかも警察の誘導に率先して従い、一つの儀式のように示威行為を繰り返す。私は単純にこれら二つをインターネットの光と闇とはとらえない。そもそもインターネットは単なる技術にすぎない。いや、そうだろうか。単なる技術にすぎないインターネットはそれを使用する人々の内面にも影響を与えるのではないか。本書の「ネットと愛国」というタイトルは暗示的である。在特会と反原発集会という正反対でありながらともに私たちがかつて経験したことのない二つの運動は単に組織や動員の方法といったレヴェルではなく、インターネットという全く新しいソーシャル・メディアによって可視化された集合的無意識の表象ではないか。メディアと私たちの集合的無意識の関係についてはこれまでフリードリヒ・キットラーやジョナサン・クレーリーが説得的な議論を提起してきた。東浩紀の『一般意志2.0』もこの問題に関する優れた分析であったが、インターネットと集合的無意識の関係については今後さらに多様な側面から検証されるべき問題であろう。それによって安田のいう「在特会の『闇』」にも新たな光を当てることができるのではなかろうか。
by gravity97 | 2012-10-04 20:54 | ノンフィクション | Comments(0)