ワシーリー・グロスマン『人生と運命』

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 本書は全三巻、合わせて1500頁におよぶ大作である。さすがに読了まで時間がかかり、しばらくブログが更新できなかったこともこの理由による。しかしなんと深い感銘を与える小説であろうか。疑いなく20世紀文学屈指の傑作である。そしてそもそもこの小説が刊行されたこと自体が一つの奇跡なのである。その経緯については第一巻の巻末のマリーナ・スミルノーワ女史の解説に詳しい。著者グロスマンは1960年に本書の原稿を雑誌「ズナーミヤ」(ソ連作家同盟機関誌)編集部に持ち込んだ。しかし周囲が危惧したとおり、編集長V.M.コジェフニコフは本書を「政治的に敵意のあるもの」として国家保安委員会に通報し、家宅捜索によってこの小説の原稿、下書きの類は一切没収された。没収はタイプライターのインクリボンにいたる徹底的なものであったという。ソ連当局がいかに本書を危険視したかが理解されよう。グロスマンはフルシチョフに手紙を書いて小説の刊行を要請したが、受け入れられることなく、1964年に作家は本書の刊行を見ることなく没した。しかしグロスマンは事前にいくつかのコピーを作り、友人に委ねていた、曲折を経て、本書は最初国外で、そしてペレストロイカの追い風を受けてソ連国内では1988年に刊行された。実はこの小説はグロスマンによるスターリングラード二部作の後編にあたり、前編は1949年に「ノーヴイ・ミール」の編集部に提出された。しかし編集部から共産党の中央委員会に送られた原稿は徹底的な修正を加えられ(小説の九語ごとにコメントが付されたという)『正義の事業のために』というグロスマンが関知しないタイトルを付されて、1953年に「刊行」された。『人生と運命』に匹敵する長編でありながら、無残に改竄されたこの小説についてのグロスマンのコメントは残されていない。インターネットが発達した今日では想像もつかないが、言葉による表現が検閲、統制を受けたうえでなければ出版できないという体制、時代が存在したのだ。おそらくグロスマンはもはや原形もとどめない『正義の事業のために』に見切りをつけ、『人生と運命』の執筆を続けたのであろう。しかし一人の作家が一生をかけて書き継いだ小説さえも生前には出版されなかったという事実はあまりにも苛酷である。そしてこの苛酷さは確かに小説の内容と見合っている。
 出版の経緯について長々と記したが、このような事情は本書を読むうえで常に想起されるべきである。それではこの小説の内容はいかなるものか。スミルノーワは解説の冒頭で実に的確に次のように要約する。「『人生と運命』は読むのではなく、すべてはこんなふうではなかったと―現在あるもののためにこれほどの犠牲は払われなかったと―遠慮がちに願いながら、それを生きてみる本である」どの巻も巻頭に100人以上に及ぶ登場人物についての簡単な説明が付されている。ロシアの小説を読む時の常として長くて紛らわしい人名、複雑な親称や敬称を同定する苦労はこの長大な登場人物リストと文中の丁寧な注釈によってずいぶん軽減されている。登場人物は絶滅収容所で命を絶たれるユダヤ人の少年から、ヒットラーやスターリンに及び、私は久しぶりに「全体小説」という言葉を思い出した。この点で本書はソルジェニーツィンの『煉獄のなかで』を連想させるが、1968年に発表されたソルジェニーツィンの小説が本書に影響を与えたとは考えられない。多くの登場人物の中核に位置するのがシャーポシニコフ一家である。直系の人物としてはアレクサンドラという母親とリュドミーラ、マリーヤ、エウゲーニヤという三人の娘、そしてドミートリーという息子、さらにドミートリーの息子でアレクサンドラの孫にあたるセルゲイが登場する。しかしこのうち、マリーヤはヴォルガ川でドイツ軍の攻撃を受けて既に水死しており、ドミートリーはラーゲリに送られて音信不通のため、作中に直接には登場しない。マリーヤが水死する顚末はスターリングラード二部作の前半『正義の事情のために』の中に描かれており、無残に改竄された小説の梗概は第三巻の最後に記されているから、読者は最初にこの部分を読んだうえでこの小説にとりかかるのがよいかもしれない。シャーポシニコフ一家の姻戚関係は複雑であり、加えてこの小説が二部作の後半であるため、人間関係の把握に最初は手間取るが、登場人物リストを手がかりにすればさほど難しくはない。シャーポシニコフ家の三人の娘は物理学者ヴィクトル、赤軍のコミサール(政治将校)クルイモフ、戦車軍団の指揮官ノヴィコフ、スターリングラード国営発電所の所長スピリドーノフといった登場人物と結婚、あるいは愛人関係にあり、彼らをめぐる物語が複雑に絡みあって『人生と運命』という壮大な歴史壁画が浮かび上がるのである。
 この長大な物語は霧の中を強制収容所に向かう輸送列車の象徴的な情景で始まる。具体的な日時は特定されないが、第二次世界大戦における独ソ戦を舞台とし、とりわけ独ソ戦のみならず第二次世界大戦の転機を画したスターリングラード攻防戦を物語のクライマックスとしている。以下では内容にも立ち入りながら論じる。この小説に全体を貫く主人公は存在しない。ドイツ軍の捕虜収容所、物理学の研究室、凄絶な市街戦の戦場となったスターリングラード、ユダヤ人が収容された絶滅収容所、モスクワのルビャンカ監獄、あるいはシベリアのラーゲリで繰り広げられる様々な物語のモンタージュとして物語は成立している。いずれも実に苛烈な物語、「現在あるもののためにこれほどの犠牲は払われなかったと願わずにはいられない」物語だ。例えば第一巻でリュドミーラは前夫のアバルチュークとの間の息子、トーリャが戦争で重傷を負ったという知らせを受けて、サラトフという町に向かう。「同じ運命、苦労、悲しみで結ばれた人々の中にいることで、リュドミーラは今ではより楽に、よりましに息がつけるように思えた」しかしサラトフで彼女を待ち受けていたのは老人や弱者、盲人を酷く扱う人々の群れであった。「どこからこの非人間的な表情は生まれてきたのだろうか。何がそれを生んだのだろうか。―この女が幼少期に経験した1921年の飢饉なのだろうか。1930年の大量死なのだろうか。この上なく貧しい暮らしなのだろうか」そしてリュドミーラは三度の手術もかいなく絶命した息子の墓の上で涙を流す。この小説は無数の死者の記録である。トーリャに限らず、登場人物の多くは物語の中で犬のように意味もなく死んでいく。史実に基づいたフィクションとも呼ぶべきこの小説には多くの実在の人物も登場し、その生涯や職業が丁寧な註によって補足されているが、その大半は銃殺、処刑、自殺といった言葉によって最期を記述されている。実に多くの人が非業の死を遂げた時代、大きな犠牲が払われた時代が脚注からも浮かび上がってくる。むろんその背景には独ソ戦にともなうソビエト軍と一般人民の膨大な戦死者の存在があるだろう。この点について私は先にキャサリン・メリデールの『イワンの戦争』を読んで多くを知った。今述べたトーリャは戦闘で命を落とし、スターリングラード攻防戦で「第6号棟第1フラット」と呼ばれる市街の要衝にたてこもる、セルゲイを含む兵士たちの生と死の物語は小説の一つの中核をなす。戦場における死、戦争の非人間性は『西部戦線異常なし』から『裸者と死者』にいたる多くの小説の主題であり、日本でも大岡昇平や野間宏の作品が直ちに連想されよう。この小説の驚くべき点は戦争という普遍的な主題に、独裁と官僚性、そして強制収容所という1940年代のソビエトでなければありえないテーマを挿入することによって、平時と戦時が連続する悪夢のような社会を描き出したことにある。読み進めば明らかになるとおり、スターリン体制は密告と相互監視、強制収容所と処刑によって補完され、それゆえ人と人が人間的な交流をもつことを否定する社会なのだ。収容所を扱った小説といえばソルジェニーツィンの『収容所群島』が思い浮かぶが、『収容所群島』が主にそこに送られた後の人々の生を描いているのに対して、『人生と運命』では人が収容所に送られるゆえんが描かれる。例えばエヴゲーニャの元夫であるクルイモフ、忠実な党員であり、祖国のために身命を差し出した彼は突然拘束され、ルビャンカ牢獄に拘留される。尋問と虐待の中でクルイモフは自分に関する多くの情報が当局によって収集されていることを知る。同じ監獄に収容された囚人の「あらゆる人間は密告する」という言葉は重い。スターリン体制下ではよき者、心正しき者は逆に淘汰されるのだ。このような社会は何かに似ていないか。いうまでもなく絶滅収容所だ。物語の中にはユダヤ人迫害、絶滅収容所に関するいくつものエピソードが登場する。ユダヤ人ゲットーにいる母親からヴィクトルへ宛てた手紙はドイツ軍の占領地からどのようにユダヤ人が狩り出され、収容所へと追い込まれていったかについて語る。ユダヤ人を絶滅収容所に輸送する列車の中の情景、絶滅収容所で死体を処理する作業員たちの思い、アレクサンドラの友人であった女医ソフィアはユダヤ人であったために収容所に送られ、医者であることを申し出れば処刑を免れる可能性があったにも関わらず、列車の中で知り合った身寄りのない男の子の手を握ってガス室へ赴くことを選ぶ。スターリングラード戦に従軍したグロスマンは解放後、トレブリンカ絶滅収容所を取材した最初の外国人の一人であった。また彼自身、ヴィクトル同様に母をドイツ占領下のユダヤ人虐殺で失っているから、これらの物語には作家の実体験が色濃く反映されている。
 小説の中には、いくつかの興味深い対話が存在する。カザンという町で研究生活を送っていたヴィクトルは彼の同僚、ソコロフを介してこの町に住む友人たちと語り合う。ドストエフスキーやトルストイの小説をめぐる文学談義は白熱する。しかしそこで語られた文学観は党に批判的と解釈されれば直ちに密告の理由となるかもしれないのだ。ここには意見を自由に表明することが逮捕や拘留、ことによれば処刑の理由となるディストビアが暗示され、対話の緊張感は息詰まるかのようだ。実際にここで会話を交わした歴史家や翻訳家は後に粛清されたであろうことが示唆される。あるいはドイツの捕虜収容所に収監されたモストフスコイというボリシェビキと収容所に駐在するSSの少佐、リースとの対話はヘーゲルやマルクスに言及しながら、絶滅収容所の存在意義に及ぶ。『カラマーゾフの兄弟』を想起すれば理解されるとおり、私はロシア文学には裁判や尋問というかたちをとったディアローグによる物語の展開という伝統があるように感じる。私たちはこの小説の中でいくつかの主題が対話を通して弁証法的に深められていることに注意を払う必要がある。
多くのサブ・ストーリーが錯綜し、無数の登場人物が登場するが、中心人物の一人が物理学者ヴィクトルであることは間違いない。そしてヴィクトルの苦難と名誉回復の物語はスターリン独裁下における人間性という小説の主題と深く関わる。カザンの研究生活の中でインスピレーションを得て、画期的な論文を発表したヴィクトルはモスクワの研究所に転任する。しかし新しい職場における理不尽な人事を批判した彼は逆に当局から危険分子として迫害を受けることとなる。そこにはいうまでもなくユダヤ人というヴィクトルの出自が関わっている。有能で誠実な人間をいかに「人民の敵」に仕立てるか。この点についても本書は実に具体的にその手法を示す。ヴィクトルは官僚たちから「身上調書」の提出を求められる。30を超える設問はいかなる内容であったか。姓名や誕生日、性別であれば事実をそのまま記入できるかもしれない。しかし、民族集団、社会的出自、社会的地位、あるいは外国に居住する親戚の有無といった設問にいかに答えるべきか。例えば社会的出自に「富農」と記すならば、身上調書は直ちに強制収容所への入場券となるだろう。それでは民族集団をユダヤ人と申告すればどうか。ヴィクトルは苦悩しながら書類に記入する。いうまでもないが「身上調書」は党が管理する。そしてそのうちの一項目でも問題があれば、人は直ちに逮捕されうるのだ。私たちは身に覚えがない限り逮捕、拘束されることはないと信じている。しかし独裁体制の下では人は「(矛盾した言葉であるが)何の理由もなく合理的に」逮捕され、拘留されるのだ。おそらく共産党治下の中国における「檔案」も同じ意味をもつ。旧東ドイツ、ポル・ポトのカンボジア、あるいは現在の北朝鮮、このような恐怖政治が常に共産主義社会において成立したことの意味は今後検証されてよいだろう。ここで語られる恐怖とは人が理由もなく逮捕、拘束、そして処刑される恐怖であり、この意味においてカフカの『審判』は予見的であった。(ここでは詳述しないが、本書の中でも繰り返し語られる独裁体制の非人間性のもう一つの側面、官僚制についても『城』はみごとに予見している)ヴィクトルのエピソードに戻ろう。自身が信じる正義を貫き、研究所を去ることさえ決意したヴィクトルに思いがけない電話がもたらされる。なんとスターリン本人が研究の進捗を質したのである。このようなエピソードが現実にありえたかについて私は判断できないが、この電話を契機として状況は一変する。ヴィクトルを指弾した同僚たちは手の平を返すように帰順し、不公正な人事は撤回され、ヴィクトルは復職する。「ヴィクトルを乗せた列車が轟音を立てて走っている、そんな感じであった」一見するならば、逆境において正義を貫いたヴィクトルは報われたかに思われる。しかし1940年代、物理学者ヴィクトルの研究がスターリンの関心を引いたとするならば、それは核兵器の開発となんらかのかたちで関わっていることが予想される。それは彼の良心とどのように折り合いをつけるのであろうか。ヴィクトルのような人物でさえ独裁下で人間性を保持することは容易ではない。この点に関してグロスマンはきわめて巧妙に筆を進める。スターリンの信任を得た後、ヴィクトルはかつて自らを告発した上司や同僚たちと接する中で彼らの人間性を認め、「悪い人たちではない、それぞれに人間的な面がある」と感じるにいたる。しかしそれは人間的信頼ではなく、強者のみに許される倨傲ではないか。ヴィクトルでさえ、体制に組み込まれるやその歯車として機能すること、独裁下においては人間性が蹂躙されるという事実が密やかに暗示される。グロスマンの筆はきわめて抑制されており、私の読みは深読みと感じられるかもしれない。しかし次の章でヴィクトルはそれが冤罪であることを知りながら、ゴーリキーを毒殺したとされる二人の医師を告発する手紙に署名を求められ、一瞬の逡巡の後、署名するのだ。もちろん彼は自分の行為に自覚的である。「彼は自分の置かれている立場の恐ろしさがもうわかっていた。今日、ヴィクトルを処刑したのは敵ではなかった。身近な人々が彼に寄せる信頼によって処刑したのである」ヴィクトルはこの小説に登場する最後の場面で次のように自分に問う。「毎日、毎時間、一年また一年と、自分の人間である権利のための、善良で高潔な人間である権利のための闘いを続けなければならない。(中略)もし恐ろしい時代に、どうにもならない時がやってきても、人は死を恐れてはならない。人間であり続けたいと望むのであれば、恐れてはならない」ここで示唆されるのは彼らが「死を恐れずに、人間であり続けたいと望むことができない」時代を生きているということだ。この言葉はスターリン独裁下のソビエトに向けられているが、ユダヤ人の絶滅収容所そしてリュドミーラの元夫が党を批判することを覚悟したうえで真実を告発するシベリアのラーゲリにもあてはまる。従って互いに殲滅戦を繰り広げた宿敵の恥部とも呼ぶべき絶滅収容所と自らの体制が同質であるという恐るべき事実をソビエト当局が秘匿しようとしたことは当然であり、両者の共通性を白日の下に晒した本書は発禁処分となる「運命」を負っていた。
 長文のレヴューとなったが、まだ私はこの傑作のほんの一部について論じたにすぎない。主要な登場人物のうち、言及していない人物はあまりにも多いし、論じるべきエピソードも多数残されている。これは一つの時代が無数の人々の人間性を壊滅していく物語であるが、それにもかかわらず、ここには人間愛による救済と友愛に基づいた交流がある。収容所の情景など読み進むことがつらい場面も存在する。しかしこの長大な小説を最後まで読み進み、深い感動とともに頁を閉じることができるのは、陳腐な表現かもしれないが人間に対する作者の深い信頼が物語の根底に存在するからであろう。
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by gravity97 | 2012-09-26 20:39 | 海外文学 | Comments(0)

KASSEL. 1987.8.17

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 5年ごとにフランクフルト近郊の小さな町、カッセルでドクメンタと呼ばれる国際美術展が開かれている。大規模な現代美術展は往々にして厳しい批判によって迎えられるが、今年のドクメンタは例外的に評判がよい。もっとも以前であれば国際美術展は美術雑誌か新聞にずいぶん遅れて紹介されるのが常であり、日本語によるレヴュー自体、それほど存在しなかった。ところが昨今はツイッターやフェイスブックを通じて無数のレヴューがリアルタイムでもたらされる。展示についての批評だけでなく、展示の混雑状況、ホテルやレストランの情報までが現地に赴かずとも入手できる時代を私たちは生きている。今や批評という営みはその中心を活字媒体から電子媒体へ、過去の記録から現在の情報へと移行しつつある。このような転換は批評の内容にどのような変化をもたらすかという点は今後、真剣に検討されるべき問題であろう。
 今年は残念ながら出かける機会はなさそうだが、私はドクメンタを過去に三度訪れたことがある。最初に訪れたのは25年前、1987年の「ドクメンタⅧ」であった。私にとって海外の国際美術展を体験する最初の機会だったためであろうか、私が訪れた三回のドクメンタのうちでも圧倒的に印象に残る展示であった。時評を原則とする本ブログとしては異例となるが、今回はいささかの懐旧の念も込めて、この展覧会について論じておきたい。

 四半世紀前に見た展覧会であるが、私の中では展示の印象は今なお鮮烈だ。1987年に開催された「ドクメンタⅧ」に赴いた私はそれが一つの不在、あるいは服喪の気配に満たされていることに気づいた。いうまでもなくその前年に没したヨーゼフ・ボイスの面影である。フリデアリチアヌム美術館の最もよい展示室、天井が高く、明るい光の差し込む一区画がボイスの展示のために用いられていた。ボイスは1984年に来日して西武美術館で個展を開き、同じ時期に東京都美術館で個展を開いていたナム・ジュン・パイクとともにパフォーマンスを行った。私自身は作家を目にすることこそなかったが、これら二つの展覧会のために東京に出かけたことを覚えている。神話的な存在であった作家が日本で個展を開き、講演さえも行ったことは十分に衝撃的であったから、数年前に水戸芸術館で開かれた「ボイスがいた8日間」と題された展覧会はおそらくは私と同じ世代で同様の感慨を抱いたキューレーターによって企画されたのであろう。ただし私自身はこの際のボイスの行状に大きな違和感を覚えたことも率直に記しておきたい。ここで縷述する余裕はないが、西武という商業資本に抱き込まれたボイスの来日は彼の説く「社会彫刻」とどのように折り合いをつけるのか、ボイスが使用した黒板を作品として収集する姿勢は美術というよりフェティシズムではないのか、多くの疑問が生じた。しかしいずれにせよ、日本を含めた当時の現代美術界にとってボイスは特別な存在であり、87年のドクメンタが一面においてボイスを追悼する儀式としての役割を担っていたことは遠来の私でさえ直ちに理解できた。
 私の記憶ではこのドクメンタには三人の日本人作家が出品していた。吉沢美香は全く印象に残っていないが、カール・アンドレのシダー・ブロックをそのまま焼き焦がしたような遠藤利克の立体と廃墟と化した教会に廃材を配置した川俣正のインスタレーションは悪くはなかった。しかし彼らも会場に並んだ欧米の作家たちの作品の横では存在感は薄かった。そして今日では信じられないことに、少なくとも私が記憶する限り、この三人以外にアジア人の作家は一人も出品していなかったのではなかっただろうか。この一方、前回の「ドクメンタⅦ」がいわゆるニュー・ペインティングの台頭によって特徴づけられたのに対して、87年の展示では特にまとめて紹介される動向はなかった。しかし新表現主義の余韻は明らかであり、私は初めて見たアンゼルム・キーファーの絵画の強度に圧倒された。エジプト神話からタイトルをとった二点の作品が展示されていた様子は今でもまざまざと眼前によみがえる。キーファーをニュー・ペインティングとみなすことには異論もあろうが、会場でもう一人私を驚かせたのはロバート・モリスの新作であった。漆黒のレリーフの中に骸骨や人体、明らかにホロコーストを連想させるイメージからはもはやかつてのミニマリストの片鱗も感じられなかった。私は作家名を何度もキャプションで確認したことを覚えている。方向はわからないが、確かに新しい美術の胎動が始まっているという思いを強くした展覧会であった。
 ドクメンタではカッセルの市街や公園にも作品が配置されている。街の中心で私は異様な風景を目にした。H状に組立てられた巨大な鉄板によって街路が遮断されているのである。最初はその区画が封鎖されているのかと思ったが、周囲をめぐるうちにこれが一つの作品であることがわかった。いうまでもなくリチャード・セラ、《ストリート・レヴェル》と題された作品であった。私はその後、セラの「公共的」な作品をいくつも見たので、今となればこの作品の結構について理解できる。しかしセラの大作を見ることさえ初めての私は市街に理不尽に介入する作品からなんとも落ち着きの悪い威圧感、悪意に近い攻撃性を感じた。私は今でもこの印象は間違っていなかったと思う。セラの作品はオブジェクションとして交通を、往来を遮断するだけでなく、視覚的にも都市の風景を遮る。一件無造作に配置されたセラの立体が風景との、建築とのきわめて計算された関係として成り立っていることを私はその後、いくつもの作品を通して知った。それは人が自分の身体を作品の中に差し出して初めて感得される違和感であり、人の安定した視覚を突き崩す違和感である。今から思えば、私が感じた違和感は私がなじんできたモダニズム美術の失効を暗示していた。《ストリート・レヴェル》は一見してそれが作品と感じられないからではなく、美術館という制度、視覚という感覚になじまない点においてモダニズム美術への本質的な批判であり、セラにとってこのような態度は一貫したものであった。そして思えば今述べたモリスの作品もモダニズムからの反転を戯画的とも呼べる露骨さで示したものではなかったか。正直に言うならば、私は当時、セラの鉄板とアンドレの金属板の本質的な差異を理解しておらず、両者が本質的に異なる営みであることを知るためにはそれから何度も国内外でセラとミニマル・アートの作品を体験することが必要であった。しかしこの時、セラの作品から感受した不穏さはそれ以後の私の美術批評の原点となったと今になって思う。
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by gravity97 | 2012-09-09 20:54 | SENSATION | Comments(0)