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NEW ARRIVAL 120630

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by gravity97 | 2012-06-30 20:55 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

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 第二次大戦における独ソ戦、スターリン治下の赤軍の実態についてはかねてより関心をもっていた。以前通読したソルジェニーツィンの『収容所群島』の中に大戦中ドイツの捕虜となった多くの兵士がスターリンによって収容所に送られたという記述があったためだ。祖国のために従軍した兵士たちが暖かく迎えられるならばともかく、収容所に送られたという事実は一体に何を意味しているのか。あるいはメイエルホリドをはじめ、多くの作家や文学者がスターリンの粛清の犠牲となったことはよく知られている。ナチス・ドイツの統治下においても退廃芸術展をはじめとする前衛芸術への弾圧が徹底された。かくのごとき相似性を帯びながら体制としては正反対のファシズムとスターリニズムが激突する時、戦争はいかなるかたちをとったか。しかしこれらの問いに直接答える作品や文献を私はあまり知らない。亀山郁夫の『大審問官スターリン』は力作であったが、文化的なバイアスが強いため時代の全体像は見定め難い。高校の頃に読んだショーロホフの『静かなドン』も中央ロシアを舞台としていたが、スターリンが愛読したという逸話が示すとおり、そこに描かれるのは革命期の動乱、独ソ戦の前史であり、まだ戦闘が機械化されていなかった時代の物語だ。
 著者のキャサリン・メリデールはイギリスの歴史家。ロンドン大学の現代史の教授を務め、本書の原著は2005年に刊行されている。巻末に膨大な参考文献が掲げられているが、それ以上にロシア各地の公文書館に保存された文書、そして実際に戦地に赴いた生き残りの兵士たちの証言に基づいて執筆されたことは一読すれば明らかだ。「イワンの戦争」のイワンとは旧ソビエトにおいて最もポピュラーな名前の一つで、転じて赤軍兵士一般の呼称である。アメリカ人をアンクル・サム、イギリス人をジョン・ブルと呼ぶことと同様であり、ちなみにイワンたちが戦ったドイツ軍兵士はフリッツと呼ばれた。このタイトルからも公文書の歴史からは読み取れない、個々の兵士たちの発言や記憶を重視する著者の姿勢がうかがえる。
 最初に歴史的事実を整理しておこう。内容的にはもちろんロシア革命まで遡ることができようが、具体的な事件として本書は1939年のフィンランド侵攻のあたりから説き起こされている。赤軍は当初甚大な被害を受けながらも、最終的には人員と兵器の物量によって勝利し、領土の一部の割譲に与る。同じ年、ドイツはポーランドに侵攻し、中欧とバルト諸国は西からドイツ軍、東から赤軍の脅威にさらされることとなった。しかしこの年の8月に調印された独ソ不可侵条約によって当面、両者の間には均衡が保たれるはずであった。翌年、ドイツはベネルクスへと侵攻し、ソビエトはバルト三国を占領する。そして1941年6月22日、ナチス・ドイツは不可侵条約を破棄してソビエトに侵攻し、泥沼のような独ソ戦が幕をあけた。攻撃を予想していなかった赤軍に対してドイツ軍は最初怒濤のごとく進撃し、モスクワ近郊まで占領を広げた。要衝の地、クリミア半島をめぐっても激しい攻防が繰り広げられ、ドイツ軍はじりじりと勢力を広げた。国家の危機に対してスターリンは1942年7月30日、「一歩も退くな」という簡潔な内容の命令第227号を発令する。実際に息もたえだえであった赤軍にとってこの過酷な指令はカンフル剤となった。この年から翌年にかけてのスターリングラード攻防戦を契機に赤軍は次第に勢力を回復し、占領地を奪回していく。1944年の中盤までに赤軍は一度ドイツ軍の手に落ちたレニングラード、キエフそしてクリミア半島を解放し、さらにルーマニア、ポーランドなどを占領したうえで1945年4月にはベルリンに突入し、翌月、ヒトラーをはじめとする第三帝国の首脳たちの自殺によってヨーロッパ戦線は終結した。さらに付け加えるならば、8月には極東においても日本に対して日ソ中立条約を破棄して満州へ侵攻し、シベリア抑留から北方領土問題にいたる多くの問題の遠因を作りだした。
 教科書的な歴史を記述するならば上のとおりであるが、本書はこのような公的な歴史から読み取ることができない多くの闇に光をあてる。冒頭で著者は「イワンの戦争」が歴史的にみても異様なそれであったことを統計的な数字によって示す。メリデールによればソビエトはこの戦争で多くの市民を含む2700万人もの犠牲者を出したという。このうち800万人が赤軍の兵士であった。第二次大戦の同じ連合国中、イギリス軍とアメリカ軍の戦死者が合わせても50万人程度であったのに対して著しい不均衡が認められる。つまり大戦における連合国の勝利は端的にソビエトの人民と兵士の圧倒的な犠牲の上に築かれたのであり、この点は大戦後、ソビエトが連合国中でも強い発言権を有した理由でもある。なぜかくも大きな犠牲が払われたか。メリデールは独ソ戦が通商や領土をめぐる争いではなかったと説く。彼女によればそれはナチズムとスターリニズム、イデオロギーをかけた闘争であり、相手の全存在を消し去ることを目的とした殲滅戦であった。冒頭で一人の兵士の言葉が引かれる。彼によれば赤軍とは「招集し、訓練し、そして殺す」ことを目的とした「肉挽き機」であった。ほんの一例を挙げるならば、赤軍が訓練した40万3千人の戦車兵のうち、実に31万人が燃料と砲弾の誘爆によって、炸裂し沸騰する車内で個人の判別ができないまでに焼かれたという。私は何よりもまず死者の数、むごたらしい死に圧倒されてしまう。これほどの数の死者を想像することは難しい。しかし数字は多くの場合、戦争の実態を隠す。メリデールはこれらの「客観的」事実を示すとともに、イワンたちの個々の体験を個別に克明に追うことによってこの前代未聞の殲滅戦の実態に迫る。
 長大な研究であるが、編年的な構成で語られるため、事実を追うことは比較的たやすい。イワンたちがいかに招集され、統制され、戦争の中でいかに変質していったかが歴史的経緯とともに語られる。直ちに明らかとなるのは農民の中から徴集された赤軍の兵士たちの大半が最初ほとんど軍隊に対する帰属意識をもたず、職業軍人からかけ離れた存在であったことである。このため国家は軍人を主人公に据えた叙事詩や映画を用いて「英雄的兵士」の姿を鼓吹し、彼らに兵士としてのアイデンティティーを与えようとした。一方でロシア革命の結果、共産主義化された社会は必ずしも人民、とりわけ農民に好意的に受け取られていなかった。猜疑心の強いスターリンによって統制された社会は密告と粛正が日常化し、NKVD、内務人民委員部と呼ばれる秘密警察が絶対的な権力を握っていた。このような統制は赤軍の内部にも浸透し、ポリトルクと呼ばれる兵士教育の中核であり、一種の思想警察とも呼ぶべき多くの政治将校が存在したという。帰属意識も使命感もない多くの兵士たちと兵士たちの統制に目を光らせる将校たち。両者の関係が良好であるはずはない。共産党はクラークと呼ばれる富農たちから農地を取り上げ、農業を集団化したが、この政策は多くの農民たちから反感によって迎えられた。兵士たちの士気は低く、戦地において脱走や投降が続出した。NKVDは彼らに対して、退く者を背後から射殺する「封殺部隊」なる兵士たちを投入し、恐怖によって制圧しようとした。先に述べたスターリンの命令第227号もこのような文脈で理解されるべきであろう。独ソ戦は殲滅線であったから、ドイツ軍は赤軍のみならず投降した兵士たち、一般市民に対しても暴虐の限りを尽くした。おそらくこれらの蛮行を見聞きしたことが、ドイツ軍への憎しみゆえにイワンたちを団結させ、反攻の動機となったのであろうが、それにしても外部と内部、前と後ろに敵を抱えて戦争を遂行するイワンたちが負ったプレッシャーは想像に余りある。今日、戦地で残虐行為を行い、あるいは見聞した兵士たちが帰還後、PTSDと呼ばれる神経症に悩まされることが知られている。ベトナム戦争あたりからクローズアップされた症例であるが、メリデールは聞き取りをとおして独ソ戦に参加した兵士たちの多くにPTSDが認められることを指摘し、いかに苛酷な戦争であったかをあらためて検証する。
 ナチズムとスターリニズムが同じ一枚の写真のポジとネガであるとするならば、そこにはいずれも絶滅収容所という人類史の暗部が写りこんでいた。潰走するドイツ軍を追撃する過程で(アウシュヴィッツに先立ち)赤軍はマイダネクという収容所を解放し、兵士たちはそれが何万人ものユダヤ人を効率的に虐殺する目的で建設された死の工場であったことを知る。ナチス・ドイツによる圧倒的な残虐行為の痕跡に触れたことが、赤軍の兵士たちに精神分析でいう一種の転移として作用したと考えられるかもしれない。「死体からの略奪」と題された第9章においてはマイダネクで人間性の破壊に遭遇した赤軍の兵士たちがハンガリーから東プロイセンを占領する過程で無関係の市民に対して殺人や暴行、そして無数のレイプを繰り返す身の毛のよだつような描写が続く。ドイツ軍にも赤軍にももはや正義はない。それは戦争の一面かもしれないが、その中心に絶滅収容所があったことは暗示的である。
終戦時、多くの赤軍兵士がドイツ軍の捕虜となっていた。ドイツ軍は彼らを奴隷以下の存在として虐待したが、戦後も彼らは解放されることなく、NKVDの厳しい審査を待たねばならなかった。メリデールによれば1945年にスターリンが署名した命令により、中欧の一万人規模の収容の力をもつ70を越える収容所が設立され、その目的は捕虜となっていた赤軍兵士を「フィルターに通して」スパイを発見し、「祖国に対する裏切り者」に罰を課すことであったという。スターリンはこのための設備やノウハウを得るためにさほど苦労はしなかったはずだ。なぜならこの地域には既にユダヤ人を収容してその絶滅をはかった多くの収容所があり、管理者を失ったこれらの施設をソビエトの兵士のための選別の場所に転用することは容易だったからである。収容所を支配し、帰還兵に対して敵意を剥き出しにした監督たちがかつて農地から追われたクラークと呼ばれる富農たちであったという指摘は多くの問題を暗示する。50年代に入ってこれらの地域が共産圏の衛星国として独立するにつれて、同じ施設をソビエトの国内に建設しようという発想が生まれたことは必然の帰結であった。かかる力学の中でベーリング海峡からボスボラス海峡におよぶ無数のグラーグ、収容所群島が成立する。
 冒頭に二つの問いを立てた。本書を読んで、これらの問いのいくぶんかは氷解した。ソビエト共産主義体制の中核にあった密告と相互監視、恐怖と猜疑による支配は社会のみならず赤軍という軍隊そのものを蝕んでいた。赤軍そのものが密告と監視によってようやくその結束を保持されており、兵士たちさえも信用されてはいなかった。そしてスターリンにとっては元捕虜に対する苛酷な扱いは国民に対する一種の見せしめとしての効果があっただろう。メリデールは次のように記す。「戦争はソ連の家族や人間同士のつながりを寸断した。さらに、相手をいたわり、助け合う気持ちや、簡単な礼儀作法まで損なってしまった。地域社会では亀裂が深まり、互いに蔑むような視線を向け合った。囚人、元兵士、民間人は生まれた時から世界が違う人間同士のようだ」このような非人間的な状況が共産主義と必然的に結びつくか否かは判断が難しい。しかし例えば旧東ドイツにおける密告と監視、あるいはポル・ポト治下のカンボジア、北朝鮮の金王朝に設置された無数の収容所を想起するならば、かかる地獄は旧共産圏に時代を問わず存在したことが理解される。その一方でナチズムのようにあからさまな優生思想をまとうことはなくとも、西側にそのカウンターパートが存在したことも明らかだ。独裁政権下の韓国、あるいは軍事政権下の南アメリカやアフリカにおける圧政と秘密警察の系譜を想起するがよかろう。この意味でもスターリニズムとナチズムは合わせ鏡のように20世紀を貫通しているのだ。
 このたび私がこの浩瀚な研究を手に取ったことにはもう一つの理由がある。私は近く、最近翻訳の刊行が完結した、ある長大な小説を読み始めるつもりだ。おそらく今年の私の読書体験のクライマックスとなるこの小説を読み進むうえでは、『イワンの戦争』で論じられた時代背景を理解しておくことが必要不可欠と考えたからだ。これほどの民族の苦難が文学によって総括されないはずはない。しばらく先になろうが、このブログでもその小説について論じることとなるだろう。
by gravity97 | 2012-06-21 20:43 | ノンフィクション | Comments(1)

b0138838_21434129.jpg 文学とワイン、意外な取り合わせを主題としたエッセイが収められた本である。しかしワインという言葉の甘い響きやカジュアルな装幀に反して、なかなか硬派の批評だ。著者の鴻巣友季子はエミリー・ブロンテやヴァージニア・ウルフの翻訳家として知られている。私はまだ彼女が翻訳した小説を読んだことはないが、書評家としても活躍し、以前より自分のテイストに近い感覚をもった批評家ではないかと感じていた。本書の中で取り上げられる書き手のうち、村上春樹やカズオ・イシグロならば誰でも知っているであろうが、クッツェーや奥泉光、さらには岡真理や佐々木中といったそれぞれに癖があり、このブログで論じた仕事が次々に論及されるにおよんで一層この思いを強くする。
 それにしてもなぜワインと文学か。冒頭で鴻巣は両者の関係を次のように説く。「ワイン発祥の地はグルジアと言われているが、ギリシャ・ローマからヨーロッパ全体に広がり、そこで造られる作品が元祖・本場・正統であると長年思われてきた。日本への移入のしかたも翻訳文学によく似ているし、その後の普及、味の変遷、モダニズムがあり、ポストモダニズムがあり、コロニアルがありポストコロニアルがあり、自然主義運動があり、ヌーヴォーロマンがあり、評論の歴史としても、作者の背景を排したニュー・クリティシズムがあり、テクスト批評があり、デコンストラクションがあり、古典回帰があり、古典の新訳があり、重訳があり、プリ・トランストレーションがあり、グローバリズムがあり、国際言語による均質化と個性の消失があり、およそ文学が経験したことはぜんぶワインも経験している。双子のように似ていると言っていい」なるほど、どこの国のワインであろうともテロワールと呼ばれる出自が反映され、しばしば異なる土地において受容される。テロワールを母国語、土地を言語のメタファーととるならばワインと文学の相似性は明らかだ。そして飲料の中でワインほど真剣に批評の対象とされてきた例もないだろう。もっとも実際に両者を比較しながら論じることは難しい。鴻巣は相当のワイン通とみえ、ワインの銘柄はもとより製法、ヴィンテージ、品種から料理との相性まで実に多様で玄人向きの話題を繰り広げる。最初に「蘊蓄ぬきの」と宣言するにもかかわらず、さほどワインに詳しくない私は少々辟易する。村上春樹の文体から「風味風格ともにボルドーのカベルネ、ヴォーム・ロマネのピノ・ノワール、カリフォルニアの品質のよいソーヴィニオン・ブランと比肩するが、和食にもよく合う上質の日本産ワイン、現在世界水準から見て遜色ないだけでなく、幅広く好まれる最上品のプティ・ベルドーや甲州やメルロー」を連想するなどと宣われても、なんのことやらわからない。ワインと文学のアッサンブラージュではなく、変わった切り口の文学論、翻訳論として読んだ方が腑に落ちる。
 内容はかなり高度だが一篇が比較的短いため、気楽に読み進むことができる。多様な問題が論じられるが、いうまでもなく主要なテーマは文学であり、彼女自身が翻訳したウルフやクッツェーはもちろん、ポーやジョイス、さらにはベンヤミンの翻訳論などが次々に俎上に上げられる。数年前に光文社文庫を中心にいわゆる「古典新訳」の試みが始められ、ドストエフスキーからコンラッドまで多様な作品が次々に達意の翻訳者によって新しい日本語に置き換えられていったことは記憶に新しい。鴻巣も新潮文庫で『嵐が丘』を新訳として刊行している。このエッセイがこの時期に書き始められたことは意味があるだろう。いわゆる「古典新訳」の登場で、私たちはドストエフスキーならば米川正夫、コンラッドであれば中野好夫、長く固定的にとらえられていた翻訳という営みが選択肢をもちうること、更新されうることを意識した。翻訳論ではなく翻訳そのものをとおして翻訳を、文学を再考する契機が訪れたのである。
 本書ではブルゴーニュやボルドーのワインのみならず、巻末に「フィールドワーク」として山梨のワイナリーの探訪記が収録されている。いうまでもなく翻訳とは双方向的であり、外国語から日本語への翻訳の問題と同様に日本語から外国語への翻訳に関する話題についても多くの頁が割かれている。今、新訳という問題について触れたが、近年、サリンジャーからチャンドラーまでそれなりに定評のある既訳が存在する小説に関して次々に新しい翻訳を発表している村上春樹がさまざまの主題と関連して取り上げられることはこの意味で当然であろう。鴻巣も記すとおり、『風の歌を聴け』でデビューした頃より、村上の文体はしばしば「翻訳調」といった形容がなされてきた。しかしよく考えてみると、私たちは外来語の多用や都市的、欧米的なモティーフの使用といったむしろ内容的な側面から漠然と村上の「翻訳調」を理解してきた。これに対して鴻巣は「もし作者作品名を伏せられても、この書き手が翻訳文学を読みこんできたか、自分で翻訳してきた人であるのがひと目でわかる」と断じ、この点を文体の問題として説得的に分析する。例えば以前より私は「アフターダーク」の冒頭部、「私たち」という人称とともに用いられる奇妙な鳥瞰的視点に不思議な印象を抱いていたが、この視点も無機物を主語とする英語独特の構文を参照するならば比較的容易に理解される。「アフターダーク」に関しては、もう一点、興味深い指摘がなされている。先に鴻巣の言葉の中に「プリ・トランスレーション」という聞き慣れない言葉があった。再び鴻巣の言葉を引くならば、「プリ・トランスレーションとは、時刻で周知の文化的知識や情報を、国外(特に西洋)の読者のためにあらかじめわかりやすく説明しながら書くことを言う」そしてその例として鴻巣は「アフターダーク」の中で欧米の読者はなじみのない日本におけるラブホテルの使用法を縷々説明した記述がそれにあたるというイルメラ・日地谷=キルシュネライトの指摘を引く。言い換えるならば、村上は英訳されて世界に紹介されることを前提に小説を執筆しているというのだ。村上の小説、特に短編の海外への紹介の様態を考える時、この指摘は実に興味深い。以前、このブログでも触れたが、英語に翻訳された村上の最初の短編集『象の消滅』は日本では複数の短編集に収録されていた村上の短編をアメリカ人編集者が選択したうえで訳出するという複雑な手続きをとっている。さらに英語以外の言語へ訳出される場合は、英語版の『象の消滅』をいわば底本としてそれぞれの国の言語に訳されているという。いうまでもなくここには鴻巣のエッセイの中で幾度となく論じられる重訳という問題が介在する。私は英語版以外の『象の消滅』の翻訳の事情に詳しくないが、おそらくは日本語に堪能なそれぞれの言語の使い手が英訳を参照しながら各々の言葉へと移し変えていったのであろう。(英語版の『象の消滅』の刊行と日本語版の出版の間には12年ものタイムラグがあるから、英語以外の翻訳者はまず異なった短編集から『象の消滅』に収められた短編を拾い出し、英訳を参照しながら翻訳した可能性がある。このあたりの事情はきわめて興味深いし、独訳された『国境の南、太陽の西』が英語からの質のよくない重訳であったため、ドイツで批判を受けた顚末などもこの問題と関係する)村上自身も柴田元幸との共著『翻訳夜話』の中で重訳をむしろ推奨しているという。なぜなら英語を底本として翻訳されることによって、日本語に通暁した訳者がいない言語にも比較的容易に翻訳され、それゆえ原著の発表から時間をおかず他言語での紹介が可能となるからである。いわば村上は日本語による原著とともに英語というリンガ・フランカを用いた世界共通版を作成し、英語以外の翻訳に供するのである。いうまでもなくこの前提としては、村上が個人的にも親しい優秀な翻訳者を擁すこと、自身も英語に堪能であること、「トイレット・ペーパーに走り書きしたものでさえ、アメリカの版元は出版するであろう」というほど作品が英語圏に親和していることといった条件が存在する。ノーベル文学賞云々といった深読みはさておき、翻訳に対する村上の姿勢は今や英語が世界共通語として一人勝ちしている状況にきわめて戦略的に対峙する作家の意識を示している。そしてこの問題は本書で触れられ、以前このブログでも応接した水村美苗の『日本語が亡びるとき』の主題でもあった。
 村上が最初から英語に翻訳されることを前提として、内容に関してもプリ・トランスレーションを加えながら小説を執筆しているかどうかは微妙な問題だ。ずいぶん以前に、安部公房が翻訳された際に誤解されにくい中性的な文体を意図的に採用しているという話を聞いたことがあり、本書の中でもカズオ・イシグロが翻訳を前提として言葉を選んでいるのではないかといった指摘がなされている。読者を想定して文体や内容を選択すること。実はこの問題は私にとっても無縁ではない。私は何度か海外の美術館で開催される展覧会のカタログに寄稿したことがある。多くの場合、それらの展覧会は現地のみの開催であるから、日本語の原文が公表されることはなく、読者も日本の戦後美術に対する知識を持ち合わせていない。私は日本の読者であれば当然理解している前提に関しても、それこそラブホテルの使用法を説明するようにまわりくどい説明を加えながら議論を進めた。このような条件がテクストに与える影響をどのように考えるべきであろうか。私の場合は必要に迫られてのプリ・トランストレーションであった訳だが、海外に日本の美術を紹介する際に、言語/テクストのレヴェルでは海外で理解されやすいように、よく言えば善意から、悪く言えば阿って日本趣味や東洋趣味を強調し、結果として誤った理解へと読者を誘導してしまうことはないだろうか。以前より私は日本の現代美術が海外に紹介されるにあたって、禅や神道、アニミズムといったいかにも日本的な記号としばしば関連づけられることに強い異和感を覚えてきた。書き手が日本人であるか否かを問わず、これも一種のプリ・トランスレーションといえよう。昨年の李禹煥の個展に引き続き、もの派や具体美術協会の本格的な紹介、そして秋には近代美術館における「Tokyo 1955-1970」と、このところニューヨークで日本の戦後美術の紹介が続いている。鴻巣の議論の文脈とはやや離れるが、ここで論じられた問題は私とも無関係ではない。日本の戦後美術が今日のニューヨークでどのように「翻訳」されるか、引き続き注視したいと思う。
by gravity97 | 2012-06-08 21:47 | エッセイ | Comments(0)

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by gravity97 | 2012-06-05 23:04 | BOOKSHELF | Comments(0)