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足立元『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』

b0138838_20171826.jpg 日本の近現代美術に対する理解に新たな一石を投じる『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術』という研究が刊行された。大逆事件と小川芋銭から説き起こし、イサムノグチと岡本太郎まで、20世紀前半、ほぼ半世紀の日本美術を全く新しい角度から分析する刺激的な論考である。
 私も美術史を専門としているから、ここで扱われた作家や作品、事件や展覧会についてはおおよそ知っていた。とはいえ全く知らない事柄も多い。望月桂と黒耀会、あるいはエロ・グロ・ナンセンスの流行を支え、猥本出版の王と呼ばれた梅原北明、さらには日本におけるファシズム美学のイデオローグ、田代二見といった人物について私は本書で初めて知った。しかしこれまで見落とされていた人物を俎上に上げた点に本書の独自性があるのではない。逆に私は本書を読み進めながら不思議な既視感に襲われた。例えば次のような作品である。林倭衛の《出獄の日のO氏》(1919)、大月源二の《告別》(1929)あるいは内田巌の《赤旗》(1948)。名古屋市美術館における「戦後日本のリアリズム」や日本の近現代美術を通覧する展覧会、あるいは美術館のコレクションとしてこれらの作品を私は何度も見た記憶があり、それぞれ強い印象があるが、いずれも展示の中で覚えた強い異和感も拭い去ることができなかった。本書を通読すると、きわめて独特のパースペクティヴの中にそれぞれの作品がみごとに収められていることがわかる。本書で取り上げられるのはタイトルが示すとおり、明治末以来の「前衛」美術の系譜であるが、造形的、美術史的な立場から社会思想へと議論の軸足を移すことによって思いがけない「近代美術史」が浮かび上がるのである。
 まず八章からなる全体の構成を概観しておこう。足立の問題意識と構成を簡潔に論じた序章に続き、第一章では大逆事件と関連して幸徳秋水が主宰した『平民新聞』に漫画を寄せた小川芋銭を中心にアール・ヌーヴォーや俳画といった様々な運動や領域を横断しつつ当時の美術と社会主義との関係が論じられる。超俗の日本画家という印象をもっていた芋銭と幸徳との関係は意外であったし、漫画というジャンルとの関係においてもこのような問題が従来の美術史研究から見落とされていた理由は容易に推察される。幸徳秋水と交流があった画家としては西村伊作が連想されるが、近年、大逆事件との関係について文学研究の領域で多くの成果が上がっていることを考えるならば、さらに深められるべき余地のある主題である。続く第二章ではマヴォに先行する日本の「前衛」、望月桂と黒耀会の活動が検証される。先述したとおり、いずれも私には未知の作家と集団であり、実に興味深い活動を繰り広げている。望月と黒耀会の作家たちは大杉栄、堺利彦といったアナーキストと親交をもつ一方で、四回にわたって黒耀会展を開催した(実際に四回開催されたかについては本書を参照のこと)。出品作品の調査は相当に困難であっただろうと推測されるが、未来派風の絵画から漫画やリアリズム絵画、さらにはコラージュや抽象絵画まできわめて多様な作品が出品されていたことは興味深い。足立の同定によれば第三回黒耀会展とみなされる「民衆芸術展」には白樺派や与謝野寛、晶子といった著名人も参加する一方で《幸徳秋水の生血》といったタイトルからしてグロテスクな作品が出品されて「官憲の眼は異様に光り二三度繰り返して首を傾ける」といった状況であったらしい。かつては表現に対して検閲という制度が存在したという前提に私はあらためて思いを向けた。大正期の新興美術を取り上げた第三章は本書の一つの山場であろう。この分野に関しては既に五十殿利治の『大正期新興美術運動の研究』という記念碑的な大著が存在するが、本書は全く違う角度から三科およびマヴォの活動に光を当てて興味深い。三科とマヴォの確執について詳細な分析がなされる一方で彼らがめざした「革命」に関してもいくつもの興味深い指摘がなされる。美術におけるアナーキズムの解明は本書の主題の一つであるが、当時のアナーキズムと共産主義(ボルシェビズム)の関係は極めて錯綜している、黒い背広(黒はいうまでもなくアナーキズムの暗喩である。前章の黒耀会、黒の輝きも同じ意味として了解されよう)を着ていた柳瀬正夢が酔って革命歌を歌いながら背広の裏表をひっくり返すと内には真っ赤な繻子が現れ、皆の喝采を浴びたというエピソードはこのあたりの微妙な事情を暗示している。村山知義はもとより、柳瀬、岡本唐貴といった作家についても新たな理解が重ねられ、当時制作された作品にしばしば爆弾というモティーフが認められたという指摘も興味深い。先日より葉山で開かれている村山知義展をまだ私は見ていないが、事前にきわめて有益なインフォメーションを得た気分だ。続く第四章ではやや時代を下って、大正期のいわゆるエロ・グロ・ナンセンスの風潮が分析されるが、ここで興味深い点は、大衆に迎合するかのエロ・グロ・ナンセンスという路線と大衆を啓発すべきプロレタリア美術が必ずしも異なったものではなく、それどころか権力への反逆という点で手を結んでいたことである。エロ・グロ・ナンセンスについてはこれまで社会史、風俗史的な観点から検討されてきたが、美術という視点からも再検討されるべき主題であろう。第五章で取り上げられる主題も今までほとんど分析がなされたことのないテーマである。すなわち戦時下、1941年に瀧口修造と福沢一郎が検挙された「シュルレアリスム事件」、シュルレアリストたちへの弾圧を検証する一方で、このような弾圧を可能にした美術史観、皇国主義的なイデオロギーが『原理日本』という雑誌とそのイデオローグであった田代二見という画家の言説を手がかりに分析される。とはいえ本書では紙数の関係もあり、この問題に関してはまだ十分な研究がなされたとは思えない。シュルレアリスム批判の本質をファシズムの美学によって解明しようという発想、さらに田代による日本のシュルレアリスム批判が、個性主義批判という点で実はシュルレアリスムの本質と深く関わっていたという指摘は鋭い。足立も指摘する通り、これまでのファシズム研究は左翼への弾圧とそれへの抵抗という図式で語られてきたが(シュルレアリスム弾圧についての研究も同様だ)、ファシズム/皇国主義美学という内部からの検証の必要性が主張されているのだ。続く第六章においては近似した問題意識から建築の問題が検証される。すなわち丹下健三が戦時中に発表した一連の建築プランを介して、当時西欧やモダニズムがいかに相対化されたかという問題が扱われる。ファシズムの建築としてはナチス・ドイツにおけるシュペーアなどが連想され、シュペーアに関しては八束はじめによる研究が存在したように記憶しているが、日本のファシズム建築、足立の言葉を用いるならば「大東亜建築様式」をめぐる分析は私の知る限りほとんど先行例がない。ここで詳述する余裕はないが、この問題の射程は実に広い。続く第六章においてもこれまでほとんど論じられたことのない問題が扱われている。すなわちGHQによる占領と前衛美術の関係である。ここで論じたい問題は数多いが一点に絞るならば、検閲の問題だ。大正期以降の前衛美術を概観する中で本書は既に何度も検閲の問題と関わった。まず大正期の社会主義的、共産主義的傾向を秘めた芸術全般に対する検閲と弾圧であり、続いて戦時下のシュルレアリスムに端的にみられる前衛芸術への検閲である。そして戦後も同じ問題がGHQの手によってなされたことを足立はいくつかのアルカイヴを渉猟して検証する。前衛美術会の活動と東宝争議について概観した後、足立は興味深い問題を指摘する。それは当時日本で普通に見られたであろう占領軍の兵士の姿が日本の戦後美術においてほとんど見受けられないことだ。この問題はおそらく戦後文学とも関連づけて考察されるべきであろうが(この主題に関して私が直ちに想起したのは大江健三郎の「人間の羊」である)、描かれた主題ではなく描かれなかった主題について思考することはきわめて困難であり、それゆえきわめて示唆的に感じられる。本書には論及がないが、私の知る限りでは河原温が1955年に《黒人兵》という作品を制作している。この作品と占領軍との関係は今後研究されてよいのではなかろうか。足立も指摘するとおりこのような視点を持ち込む時、いわゆるルポルタージュ絵画についても多くの新たな発見がもたらされる。最後の章では「伝統論争」と関連して50年代以降の建築、陶芸、彫刻といった領域が瞥見され、イサムノグチと岡本太郎、そしてもう一度丹下健三が分析の対象とされるが、この部分は本書における位置づけが不明瞭でややまとまりに欠ける印象である。
 タイトルからわかるとおり、本書では「前衛」という概念によって日本の近現代美術の総括が試みられる。著者が最初に示すとおり、「前衛」にはいくつかの含意がある。すなわち軍隊で本隊に先遣する部隊としての軍事的な意味、政治的には社会主義的、共産主義的な動向、そして芸術における実験的、先駆的な表現である。本書はこれまで美術史においてこのうち三番目の意味として了解されてきた「前衛」概念を押し広げ、日本美術の本質として適用したものである。したがって本書から読み取れるのは、自律的でスタティックな美術史ではなく、きわめて戦闘的でダイナミックな日本の近代美術の姿である。このような理解は作家主義、フォーマリズムのいずれの立場とも異なり、日本の近代美術に対して全く新しい理解を可能とする。「前衛」という言葉のコノテーションもこの中でしばしば変容する。つまり黒耀会周辺ではあからさまに社会主義、無政府主義と直結したこの言葉は、三科やマヴォの活動においては例えば村山知義といったコスモポリタンの活動家を得て、アヴァンギャルド、芸術における前衛として花開く。戦時下において共産党と深い関係をもつシュルレアリスムの同義語として権力によって明らかに敵視された「前衛」は、占領期においては逆にGHQによって検閲を受けるが、ここにも芸術のアヴァンギャルトとしての前衛と、政治的左翼の芸術としての前衛の奇妙な共存が暗示されている。
 このような込み入った関係を分析するために最後に「結」という章が付され、本書のタイトルでもある「遺伝子」という概念を用いて図式化が試みられるが、この部分は蛇足ではなかろうか。足立はリチャード・ドーキンスを引用して生物学の「ミーム」といった概念を用いて説明を加える。日本の近現代美術の様々な側面に様々な意味とともに露出する「前衛」が影響や様式化といった概念になじまないことは理解できるが、添えられた図式は私には意味不明に感じられる。そもそも本書の内容は最後に申し訳のように加えられた短い章で提起された図式的な枠組で理解される範疇をはるかに超えている。日本の近現代美術に潜むかかる可能性を明らかにしたことこそ、本書の魅力であろう。先に私は本書の内容を章ごとに短くまとめたが、このような要約を超えて行間から実に多くの問題が提起される。個々の議論についてはなおも多く検討の余地があるようにも感じられるが、それぞれの章に一篇の論文の主題としても十分な問題が数多く収められ、多産性という点で本書は近来まれにみる充実を示している。日本の近現代美術に関心を持つ者にとっては必読の書といえよう。
by gravity97 | 2012-02-27 20:21 | 近代美術 | Comments(0)

ジャスパー・ベッカー『餓鬼(ハングリー・ゴースト)』

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 1997年に中央公論社から翻訳が刊行されたジャスパー・ベッカーという研究者の『餓鬼(ハングリー・ゴースト) 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』がこのほど中公文庫に収録された。以前よりこの問題には関心があったのだが、最初に刊行された際に買い逃し、しばらく入手することが困難であったため、このタイミングで通読した。1958年から62年にかけて、毛沢東の失政がもたらした未曾有の大飢饉の地獄絵を克明に活写したノンフィクションである。
 以前、同じ問題を扱ったフランク・ディケーターの『毛沢東の大飢饉』を通読していたので、この惨事の概要は理解していたが、本書を読んであらためて考えることも多かった。最初に本書の問題点を指摘しておくならば、記述の根拠とされる資料に新聞記事や回想録などの二次的な文献が多く、書誌的事項がしっかり記載されていない。直接のインタビューや取材が引用される場合も日時や場所、取材相手が明記されていない。情報源を秘匿するという意味があるかもしれないが、このため引用について検証できず、オーラル・ヒストリーとしては問題があるのではないだろうか。公文書として遺されたいわゆる「档案」を渉猟して執筆されたディケーターの論文と比べて事実関係を検証することが困難である。もっともディケーターの論文は近年、中国各地の公文書館で档案の閲覧が可能になったことを前提としているから、本書の大半が聞き書きのかたちをとることは仕方なかったかもしれない。半世紀前に隣国にこのような悲惨な状況が発生したことはまぎれもない事実であるにもかかわらず、今日にいたるまで国家によって公式に認められていないことは驚き以外のなにものでもない。
 この大飢饉が失政という人為的な原因に由来することは明らかである。なぜならば第一にこの飢饉は一つの地域ではなく、共産党が支配する中国全土で発生している。広大な中国大陸では一部の地域が干魃や水害のために飢饉を体験することがあったとしても、ほかの地域から食糧を調達することが可能なはずである。一国全体が飢えに苦しむという状況は、飢饉が自然ではなく社会に起因することを暗示している。さらに恐るべきことには無数の民が餓死し、共同体が崩壊し、食人が横行する傍らで、倉庫には十分な食糧の備蓄が存在していたという。十分な食糧が存在したにもかかわらず、必要な者へと流通せず、3000万人(ディケーターによれば4500万人)に達する餓死者が発生したのだ。一体いかなる制度がこのような異常な状況を可能にしたのであろうか。実は20世紀にはいくつかの地域で同様の飢饉が繰り返されている。1930年代初頭のウクライナ、1960年前後の中国、1970年代のカンボジア、そして現在に至る北朝鮮。ただちにいくつかの共通点が浮かび上がる。共産主義と土地私有の否定、そして独裁者の存在。そしてこれらの時代と地域にはさらにもう一つ重要な共通点がある。おわかりだろうか。本書の中には飢えた農民がネズミやゴキブリ、おがくずや土までを口にしたという凄絶な記述があるが、私はこれらのエピソードから直ちにソルジェニーツィンの『収容所群島』の冒頭の印象的なエピソードを連想した。ソルジェニーツィンは『自然』という科学アカデミーのb0138838_13592726.jpg雑誌中の小さな記事に目を留める。それはシベリアのコルイマ河の岸で発掘作業が進められた際に、地下の氷層から数万年前のサンショウウオが凍結された状態で見つかり、その場に居合わせた人々が早速その場でそれらの動物を喜んで食べたという記述である。多くの読者が氷結された生物の新鮮さに注目するであろうこの記事に対して、ソルジェニーツィンは全く別の意味を見出す。「私はその場面が微細な点にいたるまでありありと念頭に浮かんできた。その場に居合わせた人々がどんなに慌てふためいて氷を叩き割り、崇高な魚類学的興味などには目もくれず、氷を融かし、がつがつと腹にためこんだか。(中略)なぜわかったかといえば、私たち自身もその場に居合わせた人々と同類の、強大な囚人族の一員だったからである。この地上で、サンショウウオを喜んで食べることができる唯一の種族は囚人(ゼック)だけである」コルイマとは多くの収容所(ラーゲリ)が所在した土地の名である。ソビエト、中国、クメール・ルージュ、北朝鮮、これらはいずれ悪名高い強制収容所が存在した国家にほかならない。おそらく飢饉と強制収容所は補完関係にある。多くの国民を強制収容所に収容することは手っ取り早い口減らしの政策であり、その恐怖を盾として国民に飢饉という受苦を強いることが可能となるのであるから。この点においても本書の構成は興味深い。ベッカーは毛沢東の大飢饉について語る前に、冒頭部の一章を割いてスターリン治下におけるソビエト、ウクライナの飢饉について分析し、それがほぼ正確に30年後の中国で反復されたことを立証する。(今述べたとおり、それはさらにポル・ポトによって反復され、今もなお金体制のもとで反復されている)また途中でやはり一章を費やして何百万人もの人が収容された強制労働改造所における苦役や拷問、暴力と虐待について論じられている。これらの20世紀の飢餓は、単に食料が不足したそれまでの飢饉とは様相を違える。それが人為的な災害であり、共産主義や強制収容所と深く結びついた事象であることを本書は的確に論じている。
 1958年から62年という時期は、「大躍進」という事業が進められた時期と一致する。「大躍進」とは毛沢東の指導のもとに農業と工業の分野で自由主義の盟主アメリカのみならず、それまで比較的友好的な関係にあったソビエト連邦をも凌駕する経済的な躍進を遂げるべく、繰り広げられた異常なキャンペーンのことである。「大躍進」のために様々なナンセンスな手法が導入された。例えば苗を異常に稠密にうける密植、土を異常に深く耕す深耕といった非科学的な耕作法が党の指示によって導入され、実際には成果を上げるどころか、不作の原因となったにも関わらず、毛主席の指示のおかげで収穫が倍増したといった虚偽の報告が次々に寄せられる。「種・密・土・日・工・管・保・水」という八字憲法と呼ばれる中国農業の基本が示され、全ての農民がこれに従うように求められたが、今みたとおり、それらは似非科学とも呼ぶべき内容であり、結果的にはむしろ農業生産を悪化させた。それにも関わらず、あまりの豊作のために農民たちが余った食糧を家の前に並べたといった虚偽の報告や小学生が実験農場で十種類の新しい穀物を開発したといったとんでもない宣伝がなされたという。実際には1959年に蘆山で開かれた蘆山会議と呼ばれる共産党の最高幹部会議で毛の方針を修正しうる可能性があった。しかしこの場で反対派は逆に駆逐され、引き続く飢餓地獄の幕が開いた。その惨状については本書に詳しい。まず河南省と安徽省という飢饉が最も悲惨だった地域の状況が報告され、次いで四川省や甘粛省、さらにはチベットといった地域における同様の惨劇に言及されることによって、この飢饉が中国全土に及んだことが理解される。続いてベッカーは先にも触れた収容所での虐待、あるいは餓死とは実際にどのような死であるか、そして人肉食の横行といったいくつかのテーマに沿って悪夢のような時代を概観する。身の毛のよだつようなエピソードが次々に紹介され、わずか半世紀前の隣国にこのような地獄が出現していたとはにわかには信じがたい。実際に当時にあってもこのような惨事は隠蔽されていた。最後の章でベッカーは、当時の西側のジャーナリズムや知識人もこの事態を見抜くことができず、それどころかしばしば毛沢東と「大躍進」を高く評価した点を指摘する。フランソワ・ミッテランやハーバート・リードといった西欧の知性さえも実際に中国を訪問しながら異常事態に気づかず、毛を高く評価したコメントを残しているのだ。おそらく日本の進歩的知識人も同様であっただろう。広大な土地で発生していた事象を海外の目から完全に隠蔽することが可能であるとは今日信じられないが、党の高官や訪問者が訪れる場合には、飢えた農民が食用のために剥ぎ取った樹皮の上にペンキで色を塗るような姑息な隠蔽工作が日常化していたという。
 本書を読み終えてもいくつもの謎が残った。例えば飢餓は主として農村部で発生した。とはいえ、都市部の住民が農村部で進行している事態をほとんど知らなかったという点はにわかには信じがたい。実際に農地が荒廃し、餓死者が出現しているにも関わらず、なぜ地方の党組織は多くの収穫があったという偽りの報告を提出したのか。一体、共産党の幹部はどの程度、現実を知っていたのか。もし知っていたとしたら、なぜ何らかの対策をとらなかったのか。人はあまりに巨大な危機に直面する時、集団的な一種の判断停止に陥り、現実ではなく幻想を信じるのかもしれない。このように考える時、私はこのドキュメントを過去、別の国の物語として読むことができない。今なお続く原子力災害の下で私たちもまた判断停止の状態にあるのではないだろうか。事故を起こした原子炉の状態についても、食品の汚染についても東京電力や政府から繰り返される大本営発表以外に私たちは何一つ真実を知らされていないにも関わらず、根拠のない安定を生きている。ここに描かれた惨劇や狂気を自分たちと無関係な歴史的事件とみなすのではなく、未来の自分たちに投影する想像力こそが必要とされるのではないだろうか。  
by gravity97 | 2012-02-13 14:05 | ノンフィクション | Comments(0)

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by gravity97 | 2012-02-12 21:16 | SCENE | Comments(0)

綾辻行人『Another』

 文庫化されたことを機に久しぶりに相当に怖いホラーを読んだ。単行本としては2009年に刊行された綾辻行人の『Another』である。綾辻に関しては既に館シリーズなどをいくつか読んだことがあり、ホラー色の強い短編集『眼球奇譚』にも感心した記憶がある。それらと比してもこの長編は出色の出来である。日本語で書かれた小説でこれほど怖い思いをしたのは鈴木光司の『リング』以来ではないだろうか。
 未読の読者もいるため、例によって内容には深く立ち入らず、ひとまず冒頭で明らかとなる物語の導入について記しておこう。主人公は榊原恒一という中学三年生。恒一は大学に勤める父がインドに長期出張するため、東京から亡き母の故郷である夜見山という地方都市へ移り、一年間だけ暮らすこととなる。母も学んだ夜見山北中学校の三年三組に編入した恒一は運悪く新学期の直前に気胸を患い、数日間の入院と欠席を経た後、新しい学級に登校する。
 実はこのなにげない設定の中にこの物語のいくつもの糸口が潜んでいる。綾辻といえば『十角館の殺人』以来の本格推理の名手として知られているが、このホラーも実に緻密に伏線が張られている。いかにも手慣れた本格ミステリーの作家が全力を傾注したホラーであるなというのが私の感想だ。例えば文庫で上下巻に分かれたこの小説の目次を参照するならば、上巻には What? …Why? 下巻には How? …Who? という言葉が付されている。この意味は明白だ。上巻では一体「何が」起きているか、続いて「なぜ」それが起きているかという二つの問いが立てられる。内容と関わるので深くは述べないが、読み進めるならば直ちに了解されるとおり、続く下巻では「いかにして」、そして「誰が」という二つの問いが物語のテーマとなる。周知のとおり、ミステリーには主題に関していくつかの類型がある。なぜ、いかに、誰が、といったテーマを主題にすることによって、例えばアガサ・クリスティーであればホワイ・ダニットとしての『三幕の殺人』、ハウ・ダニットとしての『オリエント急行殺人事件』、フー・ダニットとしての『アクロイド殺人事件』といった分類が可能である。つまり『Another』は一篇の小説でありながら、読み進めるに従って次々にミステリーの類型を更新していくような贅沢な構造を保持しているのである。
 新しいクラスに編入した恒一は見崎鳴というクラスメイトと出会い、次第にクラスが抱える緊張と秘密に気づく。このあたりの物語の運びは実に巧みである。今述べたとおり、タイトルも含めて何重もの伏線が張りめぐらされ、一見無関係な記述や出来事、登場人物が発する言葉のずれ、微妙なニュアンスが読み進むにしたがって大きな謎と密接に結びついていく。詳しく述べることはできないが、三年三組で起きている事態は一見、今日の学校で時折みられる事件であるかのようにも感じられるのだが、実はそこには恐ろしい秘密が隠されている。問いが「何が」から「なぜ」へと転じるあたり、物語の緊張は否応なく高まる。このような設定から理解されるとおり、『Another』は学校という制度と深く結びついたホラーであり、青春小説、学園小説といった側面ももっている。端的に言って、学校や学級といったシステムがなければこの物語は成立しえない。したがって冒頭で語られる「学校の怪談」は単なる導入というだけではなく作品の本質と関わっている。学校という制度と結びついたホラーとしては近年話題となった貴志祐介の『悪の教典』が連想されるかもしれない。しかし高校に潜むサイコパス教師の恐怖を描いた貴志のスプラッタ・ホラーは全能の話者の視点をとることもあって、直線的、換喩的である。これに対して綾辻の学園ホラーにおいて語りは恒一の視点に統一され、物語は錯綜して暗喩に富み、最後の部分では綾辻が得意とする叙述トリックも使用されている。
 上巻を通じて主人公たちが直面する災厄が次第に明らかとなる。それはきわめて不合理で人智を超えた恐怖である。一つだけ種明かしをするならば、ここで語られる災厄は発生する年としない年、正確には学年が存在し、なぜそれが起きるのか、あるいは起きないのかは明らかでない。物語の中で進行する恐怖は理由も意味も明かされることがない。遠からず訪れるかもしれぬ災厄を前にじりじりと日常が続く下巻の最初のあたりまでは恐怖を核とした緊張が頁を繰るたびに増して実に怖い。思うに恐怖とは理由や意味がわからない時にこそ高まるのではない。因果応報や禁忌の侵犯といった図式が明らかになれば、私たちは恐怖を一つの既知の体系の中に整理することができる。このように分析できない非合理が私たちの日常に挿入される時こそ私たちは言い知れぬ恐怖を感じる。この小説の中でも言及されるキングの『呪われた町』では吸血鬼、先に触れた『リング』では視聴することによって死を招くビデオテープ、意味や理由を欠いた非合理が日常の中に強引に介入することの恐怖は優れたホラーの主題である。いうまでもなくそれは死の暗喩であるからだ。この意味で私は村上春樹のいくつかの小説も一種のホラーとして読めないかと考えている。
筆が滑りすぎた。このような前提に立つならば、綾辻行人という本格推理の名手の手による『Another』は本質的に一つの難問を抱えている。つまり非合理な恐怖を描くホラーと合理性によって解決されるべきミステリーは本質的に相容れないのである。最初は「何が」起きているかわからず、「なぜ」起きているのかを知ることによって急激に加速される恐怖は、「いかに」と「誰が」という二つの問いにかなり強引かつ不自然に接続されることによってやや失速する。下巻の途中で物語の展開はある程度予想がつき、ほぼ予定調和的な展開となってしまうのだ。言い換えるならば中学校という合理的なシステムのなかで「なぜか」起きている「何か」忌まわしい出来事はその非合理さのゆえに読む者を震え上がらせるのだが、それが「いかに」「誰が」というキーワードで応接される時、この二つの問いに答えることによって合理的な解決が可能な出来事へと転じ、恐怖は薄れるのである。そして読み終えてみるならば、本書はいかにも綾辻らしい叙述トリックが駆使された「合理的」なホラーであることが了解される。
 非合理と合理という二つの顔をもつ本書が日本のホラー/ミステリーの一つの達成であることは間違いない。現在映像化が進行中と聞くが、映像の場合は叙述的なトリックを用いることは困難であるため、まずは本書を読むべきであろう。綾辻でなければ書きえない、疑いなく代表作の一つである。
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by gravity97 | 2012-02-04 21:44 | エンターテインメント | Comments(0)