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 ずいぶん長い間、本棚に積んだままにしていたマルカム・ラウリーの『火山の下』をようやく通読する。世評の高い小説であり、私は以前より大江健三郎の著作をとおして存在を知っていた。しかし実際には昨年、新訳として本書が刊行されるまで書店はもとより図書館でも見かけたことがない稀覯書であった。インターネットで調べたところ、最初の訳書が『活火山の下で』のタイトルで刊行されたのはほぼ半世紀前であり、絶版となった今では古書でも入手は困難という。
 決して読みやすいとはいえないが、形式的に入り組んだ私好みの小説であった。全12章のうち、最初の章は1939年の「死者の日」、11月2日と時間が特定され、以後の章ではそのちょうど一年前、1938年11月2日の出来事が語られる。第1章では小説の舞台がメキシコであることがいくつかの固有名詞によって示された後、ジャック・ラリュエルというフランス人とアルトゥーロ・ディアス・ビヒスという医者がホテルの前で語り合う場面から始まる。二人は「領事」ジェフリーとその妻イヴォンヌ、そしてジェフリーの腹違いの弟であるヒューというこの小説の三人の主人公について回想し、三人が既にその土地にいないことが暗示される。この章の最後でラリュエルは本にはさんであった一通の手紙、ジェフリーからイヴォンヌにあてられた未投函の手紙を発見し、読み終えた後、火にくべる。なるほどガルシア・マルケスが本書を愛読したはずだ。相手に届けられない手紙、それは『コレラの時代の愛』の主題であり、マルケスの自伝中のエピソードに連なっている。
 いささか謎めいた導入を受けて第2章以降、一年前の「死者の日」のジェフリー、イヴォンヌ、ヒューの挙動が語られる。第2章は早朝、物語の舞台となるクワウナワクという街に戻ってきたイヴォンヌがホテルのバーで酒を飲んでいるジェフリーと出会う場面から始まる。この小説は時間に関してはほぼ直線的で単純な構造をとるが、語りの構造は複雑で、第1章はラリュエル、第2章以降はジェフリー、イヴォンヌ、ヒューの三人が交互に焦点化される。注意すべきは彼らが語り手となるのではなく、彼らに焦点化される点だ。全能の話者は別に存在し、登場人物は三人称で語られるが、それぞれの章は中心となる人物が明確に指定され、時にそれらの人物の回想が重ねられることによって時間的な遡行さえ認められる。登場人物の思考や行動の表現と情景の描写の文章が融合した文体は粘着的でメキシコの炎暑を連想させる。訳者のあとがきの中に章ごとの「視点人物」とあらすじの一覧があるが、なんのつもりであろうか。複雑な小説であるから読者の便宜をはかったと思われるが、読者を馬鹿にした態度であるし、私の考えでは豊かな混沌とも呼ぶべきテクストを数行の「あらすじ」に還元する作業は読書という営みにとってなんら益することはない。
 興味深いことにメキシコという地を舞台にしながらも、主要な登場人物は外国人である。いまやアルコール依存症の深みにはまったジェフリーはイギリスの領事であり、イヴォンヌはハワイやハリウッドを転々とした女優としての過去をもつ。コンラッドを愛読し、ロンドンで最初は音楽家を志したヒューも挫折の後、船乗りとして世界を転々として、この地にたどり着く。最初の章で彼らを回想し、翌日いずこかに立ち去るラリュエルもまたフランス人だ。さらに彼らの多くは一種の敗残者としてクワウナワクで生を送っている。ジェフリーがイギリス海軍を追われて、酒浸りの生活を送るようになった理由は鹵獲したドイツ軍の潜水艦に乗っていた将校の扱いをめぐって何か問題が発生したらしいと暗示されているが、小説の中で詳しく語られることはない。したがってこの小説の主題は流謫の地で汚辱とともに余生を送る人物たちの葛藤、そしてその破滅といってよいだろう。
 私は本書から四方田犬彦の『モロッコ流謫』に登場する一人の人物を連想した。それは四方田がラパトで出会った三島由紀夫の実弟、平岡千之である。モロッコ大使を務める平岡は四方田を歓待し、深い教養の持ち主であることをうかがわせるが、深い影のある人物である。もちろん後に迎賓館の館長を務めた平岡はジェフリーのごとき破滅的な人生を送った訳ではない。しかしメキシコとモロッコ、遠く離れた炎暑の地に赴き、深いニヒリズムを漂わせ、さらに言えば一種の故郷喪失者である二人の「外交官」の相似は興味深い。
 冒頭の挿話が暗示するとおり、「領事」ジェフリーはアルコールに依存し、日中よりテキーラを飲んでは酩酊し、正気を失って路傍に倒れる。したがってジェフリーに焦点化された章においては語りの中に酩酊による幻覚や譫妄が侵入し、現実と虚構が入り乱れる。私は本書の文体からフォークナーが強く連想されたのであるが、それはフォークナーの『響きと怒り』冒頭の白痴の語りのごとき、脈絡のない意識の流れが地の文とつながって記述されることに由来している。本書の読みにくさの一因はこの点に求めることができようし、このような語りは小説に重い負荷を与える。
 きわめて形式的な小説でありながら、小説中の中で繰り広げられる登場人物たちの生活は作者ラウリーのそれを追体験するかのようである。実際にラウリーもヒューのように船に乗り込んで長い航海を経験し、メキシコでアルコールに溺れて最初の妻との生活は破局にいたる。小説の中でジェフリーはカナダに渡る夢を語るが、ラウリー自身もメキシコからブリティッシュ・コロンビアに移った後にこの小説を完成させたという。この意味において本書はラウリーの自伝的小説とみなすこともできようし、この点にこの小説の限界が存している。ラウリーは現代の『神曲』を書くことを意図し、『火山の下』を地獄篇として構想したという。特定の一日を描いた小説としてはジョイスの『ユリシーズ』も連想され、今述べたとおり本書の中にフォークナーやコンラッドの影響を指摘することも可能だ。しかしながら『神曲』はともかく、これらのモダニズムに連なる小説に比して、斬新な形式の中に臆面もなく個人的な半生を投影した点において本書はきわめて特異である。小説の中で象徴的に扱われる二つの火山のごとく、本書もまた20世紀文学の中に孤絶して屹立する印象がある。b0138838_10432325.jpg
by gravity97 | 2011-09-19 10:48 | 海外文学 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 110914

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by gravity97 | 2011-09-14 21:46 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
b0138838_21364148.jpg 今年の初めに国立新美術館で開催されたポンピドー・センター所蔵の「シュルレアリスム」展を機縁としているのであろうか、今年に入ってシュルレアリスム関連書の出版が続き、『水声通信』で何度かシュルレアリスムに関する特集を組んだ水声社がこの状況の一つの焦点となっている感がある。この出版社から最近刊行された齊藤哲也という若い研究者のシュルレアリスム研究を読む。
 序章とそれに続く六つの章によって構成された本書のうち、序章はある研究会における口頭発表に基づいており、既に『水声通信』34号に掲載されている。ほかの六章はいずれも書き下ろしであるが、序章に倣ってあたかも講演の記録であるかのような口語体が用いられている。このため語り口は平易な印象を与え、難解な文章が多いシュルレアリスム研究のなかでは異色である。そしてシュルレアリスム研究に対する姿勢そのものが従来の関連書と大きく異なる。各章のタイトルとして「シュルレアリスムとはXか」という共通の問いが立てられている。Xには章ごとに前衛、オートマティスムといったいかにもそれらしき言葉が代入される。だが早まってはならない。著者自身が「はじめに」の中で記すとおり、これらはいずれも偽の命題であり、著者にとってシュルレアリスムは「シュルレアリスムとはXである」という定言を逸脱するとらえどころのなさの中にその本質を開示するのである。
 私はシュルレアリスムの専門家ではないが、齊藤が提起する問題は自分自身に引きつけてもきわめて興味深く感じられた。齊藤の立場を一言で言うならば、シュルレアリスムがはらむさまざまな矛盾、あいまいさを肯定し、むしろこのような非一貫性にその本質を見出す、つまり「シュルレアリスムとはXである」という本質主義、還元主義を排すことによってその核心に迫るというものである。確かにこれまでのシュルレアリスム研究が例えばオートマティスム、複数性、あるいは非人称といった概念によってシュルレアリスムの全幅を説明することに固執したために、難解さや矛盾を帯びざるをえなかったのに対して、このような観点の切り替えは多くの発見をもたらす。同時にこのような転換はいくつかのパラダイム・シフトと結びついている。その一つは齊藤も指摘するとおり、作品から作家への焦点の移行である。従来のシュルレアリスム研究が作品から出発したのに対し、齊藤は矛盾をはらんだ主体としての作家にこそ目を向けるべきだと主張する。いうまでもなくこのような発想は先に述べた還元主義への批判とともにいわゆるモダニズム/フォーマリズムへの批判的な対案を構成する。
 一連の議論を進める中できわめて斬新な比喩が提起される。例えば序章で齊藤は『シュルレアリスム宣言』中の有名な「一語として置き換えることができないほど明瞭に発音されながら、なおあらゆる音声から切り離された一つの奇妙な文句」「窓ガラスをノックするようにしつこくせがんでくる文句」とは我々にとって「電話の着信音」であると喝破する。一見唐突に感じられるが、読み進めるならばこれがきわめて適切な理解であることに納得する。『シュルレアリスム宣言』の構造がミュージックTVなどで音楽のヴィデオとミュージシャンのインタビューを交互に流す番組に似ているという指摘、あるいはブルトンらのロートレアモン解釈が好きなロックバンドをコピーするギター少年の軽率さに似ているという主張、このような発想はこれまでの世代、従来のシュルレアリスム研究ではありえなかったものであり、「《シュルレアリスム》をアップデート」という帯のコピーにふさわしい。以前にも記したことがあるが、近年のシュルレアリスム研究の深まりは研究者の世代が一新されつつあること、そして瀧口修造というあまりに巨大な先行者の影からようやく脱しつつあることを暗示している。
 先に私は齊藤の立場がモダニズム/フォーマリズムという今世紀美術の主流理念に対抗するものであると述べた。本書がシュルレアリスムを主題としている以上、当然にも感じられようが、実はこの研究は両者を止揚する立場をめざしているとはいえないだろうか。図式的な理解であるが、前者が作品の形式を、後者が作品の内容に比重を置くのに対して(このような図式が不安定であることは今や自明であるが、ここではひとまず措く)、本書では作品ではなく作家の態度が問題とされているのである。もう少しわかりやすく述べるならば、シュルレアリスムという問題圏に触れて例えばブルトンが、ルイ・アラゴンが、あるいはテルケル派がどのように自らの態度を選んだかという点が本書の分析の中心とされている。別の言葉を用いるならば、シュルレアリスムを一つの理念によって統御された矛盾なき運動体としてとらえるのではなく、錯綜した共同体として理解すると試みといってもよいだろう。作品の分析ではなく、作家や思想家の態度について論じることの困難さはたやすく予想されようし、加えて齊藤によればシュルレアリスム的な態度とはあいまいさ、矛盾、非一貫性を本質とする。例えば神秘主義、非合理性、革命といった、シュルレアリスムに関連づけられたいくつもの常套句の間をすり抜けるかのような作家たちの(必ずしも作品ではなく)態度は確かにこれまで研究者にとって頭痛の種であった。『シュルレアリスム革命』に「シュルレアリスム、それは生を刈り込むことだ」という有名な一節があるが、いうまでもなくこの断定もまた「シュルレアリスムとはXである」という不毛な定言のヴァリエーションである。美術から文学、多くの作家や批評家を横断しながらていねいにこのような断定の不可能性を証明し、非決定性にシュルレアリスムの本質を求めるという本書の姿勢は従来のシュルレアリスム研究を一挙に相対化するだけの批評性を備えているように感じた。
 シュルレアリスムに触れることによって、人は自らの生に対する態度を選ぶ。それならば本書も一人の研究者が自らの立場を表明した一種の信仰告白ととらえることはできないだろうか。比較的平易な言葉が用いられながらも行間に漂う一種の切実さはこの点に由来する。本書の最終章は「シュルレアリスムは『死んだ』のか」と題され、第二次大戦以後のシュルレアリスムの帰趨をめぐるきわめて興味深い議論が展開されている。本書を読み終える時、答えは明らかだ。モーリス・ブランショを引くまでもない。シュルレアリスムの本質が作品ではなく態度の中に存する限り、それは死ぬことはない。それは今も「光まばゆい強迫」として我々とともに在るのだ。
by gravity97 | 2011-09-05 21:39 | 近代美術 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック