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四方田犬彦『書物の灰燼に抗して』

 四方田犬彦は私がかねてより愛読する批評家である。比較的最近ではテルアヴィヴとコソヴォという峻烈な地に半年ずつ教師として滞在した記録『見ることの塩』、あるいは大学時代の恩師である由良君美との交流と断絶をつづった『先生とわたし』などが印象に残る。『ハイスクール1968』など一連の回想記における事実誤認と自己美化がインターネット上で散々に批判されているが、世代と問題意識が比較的近いためであろうか、扱われる多様な主題もその大半が私の関心の内にあり、新刊が出るたびに必ず店頭で手に取る書き手である。
 四方田の名から最初に連想されるのは映画批評家としての側面であろうか。『映画史への招待』『日本映画史100年』といった概論からルイス・ブニュエルや若松孝二といった特異な監督に関する作家論まで私も四方田の研究から多くを学んだ。さらに四方田は紀行文の名手でもある。今挙げた『見ることの塩』、三島由紀夫の実兄や石川三四郎といった意外な名前が次々に召還されるモロッコ紀行『モロッコ流謫』、さらには自らが居住した東京の下町について様々の薀蓄を傾けた『月島物語』など土地と関係した一連のエッセーも忘れがたい。さらに白土三平から水木しげるにいたる漫画評論からマラーノ文学、中上健次についての卓抜な分析まで関心の幅はきわめて広い。このため、四方田が最初、どのような分野の研究からスタートしたかは意外に知られていない。実は四方田は東京大学の文学部で宗教学を、大学院で比較文学を学び、修士論文はジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」を論じたものであった。この修士論文は後に公刊されたらしいが、私は未読である。これに関連して、かつて80年代に四方田や浅田彰の編集によって発行され、いわゆるニューアカデミズムの牙城といった趣を呈した『GS たのしい知識』という雑誌の創刊号で「反ユートピア」が特集され、四方田が長い論文を寄せていたことも想起されよう。なるほど中上健次を論じた『貴種と転生』でマハーバーラタが引かれ、大島渚を論じた文章の中でジュリア・クリステヴァに言及されるように、四方田のエッセーは常に文化やジャンルを越境する自由さによって特徴づけられていた。しかし多くの映画論、文学論あるいは紀行やエッセーの陰に隠れるかのように、四方田の本来の専門である比較文学の分野についてはこれまでまとまった著作が発表されたことがない。本書の帯に「著者初の比較文学論集」とあるのはこのような意味である。全8章から成る本書はなんらかの機会に発表された文章と書き下ろし論文のアマルガムとして構成されている。しかし既出とされる文章もアンソロジーや訳書の解説、あるいは学会やシンポジウムの原稿といった比較的目に触れにくい機会に執筆されており、私にとっては全て初見であった。テーマとなる対象は映画、小説から絵画、詩と多岐にわたり、論及される人物も数多い。アンドレイ・タルコフスキー、フランツ・カフカ、ウィリアム・フォークナーであれば誰でも知っているだろう。しかしタデウシュ・カントル、センベーヌ・ウスマン、マフムード・ダルウィーシュはどうか。これらの顔ぶれからも地域や文化、ジャンルを横断する四方田のエッセーの特質は明らかである。
 各章は数編の論文から成り立ち、それぞれがゆるやかに一つの主題を形成する。「ノスタルジー」という概念を鍵に何人かの映画監督、作家や思想家たちを渉猟する章もあれば、パゾリーニやル・クレジオといった固有名の周囲を旋回しながら分析を加えた章もある。内容のばらつきはそれぞれの章が成立した経緯と関わっているだろう。しかしながら自らの専門とする領域で議論を進める余裕であろうか、雑然とした印象は受けず、いずれのテクストも犀利で刺激的である。例えば死という主題を扱った「死の領分」という章においては文学、演劇、美術の領域からカフカ、カントル、そしてアンセルム・キーファーという三人のKが召還され(四方田も指摘するとおり『審判』の主人公でもあるKとは、ヨーロッパ語圏では頭文字として使用されることは稀少であり、それゆえ不吉なコノテーションをはらんでいるのだ)、さらに幕間としてウォーホルと私の大好きなピーター・グリーナウェイが導入される。「死と惨禍」を連作のテーマとしたウォーホルはともかく、グリーナウェイの怪作「ZOO」をかかる系譜に並べる四方田の手つきは鮮やかであり、確かに「数に溺れて」「建築家の腹」そして「コックと泥棒、その妻と愛人」といったグリーナウェイのフィルムがいずれも死という主題と親しく戯れていたことに今さらながら気づく。後から述べるとおり、基本的に短いエッセーの集積として成立していることもあり、徹底的な思索がなされることはないが、美術を専門とする私からみても例えばこの章のキーファーとウォーホルをめぐる議論のレヴェルはかなり高い。
 いずれの章も個別に検証すべき多くの問題を提起するが、シュルレアリスムのデペイズマンのように比較文学が既知の作家や作品の思いがけぬ出会いを糧とするのであれば、私には特に二つの章が刺激的であった。まずラフカディオ・ハーンの『怪談』の劈頭を飾る「耳なし芳一」とその翻案であるアントナン・アルトーの「哀れな楽師の驚異の冒険」をめぐる書下ろしの論考である。もちろん私はアルトーが「耳なし芳一」を翻案していたというエピソードを初めて知ったのであるが、残酷演劇の創始者と身体の毀損をモティーフとした血なまぐさい物語の結合はなんとも興味深い。四方田はさらに演奏と恍惚、琵琶法師の社会的帰属、さらには小林正樹によってこの物語が映画化された際に使用された武満徹と秋山邦晴の音楽などにも論及しながら議論を深めていく。私ならばさらに表面としての皮膚というモティーフからデニス・オッペンハイムやサンチャゴ・シエラへと論を敷衍したい誘惑に駆られる。もう一つはイタリアの映画監督(として通常は知られる)パオロ・パゾリーニとイギリスの詩人エズラ・パウンドを重ね合わせる論考である。パゾリーニとパウンド、まるでミシンと蝙蝠傘のような二人が現実に会話を交わしたこと、のみならずパゾリーニが悪名高いフィルム「ソドムの市」の一シーンの中でパウンドの詩篇を引用していることを私は初めて知った。といっても具体的に言及がなされる訳ではなく、砲声の合間、権力者たちの酒池肉林の傍らに置かれたラジオから「詩篇(キャントーズ)」を朗読するパウンドの声が聞こえてくるのだという。四方田も指摘するとおり、登場人物の台詞ならばともかく、背景のラジオの音声、それも映画が制作された国の言語ではない英語で語られる内容が意識されることはありえない。(それがかろうじて可能なのは英語圏の観客であろうが、それにしてもパゾリーニにパウンド、である)私もこのえげつない映画を見たことはあるが、もちろんこのような企みに気づくことはなかった。なぜパウンド、そしてこの作品が引用されたか、四方田の分析はきわめて鋭い。
 表題となった最終章も書下ろしである。「書物の灰燼」という言葉が暗示するとおり、ボスニア=ヘルツェゴビナの廃墟と化した図書館から説き起こし、四方田は二通りの文学者を措定する。私なりにパラフレーズするならば統合の文学者と逃走の文学者。知の宇宙を構築する前者としては例えばボルヘスとエーコ、図書館と僧院はそのメタファーとしてまことにふさわしい。これに対して図書館から、生地から追われ亡命を続ける中で思索する後者の例はベンヤミンとサイードであろうか。前者に一定の評価を与えながらも、四方田がこの章の主題とするのは後者であり、宇宙に対しては星座が彼らのエンブレムとなる。星座、コンステレイションという概念からはたやすくアドルノが想起され、四方田の議論が最終的にアドルノを経由してエッセーの賛美へといたることは必然であろう。四方田は「短く書く者」について語り、それが制度的な学知から絶えず排除されてきたことを指摘する。しかし短く書くことによってしか接近しえない真理もまた存在するのではないか。ここで体系を拒み、統合を否み、意図的に短く書いてきた者たちのリストを考えてみよう。アドルノとベンヤミンは明らかにそのような人たちであった。バルトとカフカはどうであろうか。『アンフォルム』におけるクラウスとボアはどうか。従来否定的な語調とともに語られることが多かった断章、パッサージュ、あるいは事典的配列といった変則的文体は意志的に選び取られる時、逃走の文学にとってきわめて有効な形式となるだろう。
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 私は常々徹底的に考えることの重要性を説いてきた。しかしあらためて本書を通読する時、別の形の思考、つまり徹底的に考えることによって損なわれてしまう思考もあるのではないかと考えるに至った。四方田に倣ってそれをエッセーの思考と呼ぼう。深く考えるなということではない、体系性や整合性を重んじて思考停止することなく、矛盾や齟齬をあえて許容することによって思考のみずみずしさを保つこと。非体系性、矛盾と偶感という点でこのブログに記す記事もまたエッセーである。今名前を挙げた知的巨人たちとは比べるべくもないが、今あなたが読んでいる私の拙い思考は果たしてそのようなエッセーの精神の一端に連なることができるだろうか。

by gravity97 | 2011-06-23 21:09 | 批評理論 | Comments(0)

ジョン・ヒルコート『ザ・ロード』

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 コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』については以前、このブログで取り上げたことがある。文明が崩壊した後の世界を旅する親子の過酷な旅路を描いた物語であった。この小説を原作とした2009年の同名の映画を見る。ジョン・ヒルコートという監督は私にとって未知の名前であったが、なかなか優れた才能である。原作をみごとに視覚化した鮮烈な終末のイメージに思わず引き込まれる。厚く雲が立ち込めた空、降り積もった灰、立ち枯れた林と廃墟と化した街。灰と雪に閉ざされた世界にほとんど色彩は存在しない。ここでは海も森も色彩をもたないのだ。時折、画面に現れる不吉な血の赤だけが、カラー映画であることを想起させる。
 ストーリーも原作に忠実である。小説と同様に見る者は何の説明もないままに終末の世界に放り込まれ、「男」と「少年」とともに道なき道を彷徨する。全編にみなぎる緊張と絶望が見る者を苛む。映画においてもこのような破滅が何によってもたらされたかについては一切語られない。以前にも記したかと思うが、世界の破滅と道行きというこの小説/映画の設定は1980年前後に発表された二つの小説、スティーヴン・キングの『ザ・スタンド』とロバート・マキャモンの『スワンソング』を連想させる。そこでは登場人物たちが生物兵器や熱核戦争がもたらした文明の崩壊や邪悪な存在に決然と対峙した。これに対して、『ザ・ロード』において終末はすでに所与のものである。文明の崩壊に対して抗うことは初めから放棄され、既に終えられた世界をただ生き抜くことが主題とされている。神や奇跡といった超自然的な要素は映画においても一切暗示されることがない。唯一この映画で小説以上に説明が加えられているのは、「少年」の母についてのエピソードだ。文明が崩壊する以前の幸福な思い出、彼女が二人を捨てて闇の中に歩み去る情景などが挿入されている。このうち「男」と「少年」の母が睦みあう情景は暖色を中心とした色彩が用いられている。つまりこの映画においてはカラーとモノクロームという色彩の二分法によって文明の崩壊以前と崩壊以後が画然と区切られているのである。緊迫したモノクロームが映像の基調を形成し、カラー映像が象徴的に使用される手法から私はアンドレイ・タルコフスキーの名作『ストーカー』を連想した。
 『ストーカー』が連想されたことは偶然であろうか。タルコフスキーのフィルムは何かの原因によって(『ザ・ロード』と同様にその理由は明らかにされない)隔離され、立ち入ることが禁止された「ゾーン」という区域にストーカー(今日私たちがなじんだ変質者という意味ではなく密猟者という意味だ)の案内で侵入する男たちの物語であった。この映画が数年後に発生するチェルノブイリ原子力発電所事故を予言していたという説が今日広く流布している。無人の街、木々の立ち枯れた林、『ザ・ロード』の黙示録的な情景もまた、今、フクシマの地に広がる現実の光景を予言するかのようだ。
 ブログの日付を確認するならば私は『ザ・ロード』を2008年7月に読んでいる。そしてつい先日、映画化された『ザ・ロード』を視聴した。私はこの二つの体験の間に目がくらむような懸隔を感じざるをえない。両者を隔てるのは小説と映画という表現形式ではない。それは2008年と2011年という日付であり、それ以前とそれ以後という時間である。断絶は小説を読む私と映画を視聴する私、同じ私の内側に兆しているのだ。『ザ・ロード』を読んだ時、この酷薄な物語にそれなりに感銘を受け、同じ幼い息子をもつ身として「男」に対してある程度の感情移入があったが、なおもそれは現実とは別の世界の物語に対してであった。(もちろんマッカーシーは小説世界の臨場性を際立たせるために様々の形式的技巧を操っている。それについてはかつてのブログを参照されたい)一方で初めて見た『ザ・ロード』の映像からは何重もの既視感が拭えず、映画と現実とは地続きでつながっている印象がある。広大な廃墟と荒廃した山野、人の影のない街。いうまでもなくそれはTVに映し出された震災後の惨状であり、事故を引き起こした原子力発電所周辺の立入禁止区域の映像だ。『ザ・ロード』の映像がそれ以前と以後でカラーとモノクロに分かれたように、私たちも3月11日以後、何の説明もないままに色彩のない世界に放り出されてしまった。「男」と「少年」ではない。今や私たちこそが世界が突然に激変し、以前の世界には絶対に戻れないという非日常的な感覚を味わっているのだ。

by gravity97 | 2011-06-16 22:36 | 映画 | Comments(0)

堀江邦夫『原発労働記』

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 福島第一原子力発電所の事故はいまだに収束の糸口さえ見出せないでいる。唯一明らかになったのは、この事故に関して東京電力と政府は国民に対して一切情報を開示する意志がない点である。もはや東京電力や原子力安全保安院が自分たちにとって都合のよい情報以外を発表すると信じる者はいないだろう。私たちは自らの手で情報を集め、自らの頭で分析しければならない。さいわいこの問題に関して比較的正確な分析を提供してくれるであろう何人かの論者の著作が既に発行されている。さらに私たちはインターネットを介して通常であれば知り得ない情報にもアクセスすることができる。いかなる情報と分析を得ることが出来るかは端的に3・11以後のサヴァイヴァルと関わっている。幼い子供をもつ身として私はこの数ヶ月、きわめて切実な思いとともに本や雑誌を読み、インターネットを検索した。
 先日、私は東京を訪れる(正確には東京を経由して旅行する)機会があった。私は震災の直後にも東京に滞在することがあったが、震災後に感じられた息詰まるような緊迫感が早くも奇妙に薄らいでいる気がした。もちろんこれは旅行者である私が数時間滞在した印象であるから、実際に東京が今どのような状況であるかについて正確な判断とはいえない。しかし例えば小出裕章も上に掲げた近著の中で次のように述べている。「ところが時間が経つにつれ、事故の成り行きに楽観的な見方が広がっているようです。1、3号機の原子炉建屋が吹き飛ぶショッキングな映像が流れていた頃、多くの人が西日本や外国に逃げました。首都圏で乳児の摂取制限を超える放射能ヨウ素が検出された頃、人びとはミネラルウォーターの買い占めに走りました。マスクをつけて街を歩きました。ところが報道が少なくなったこともあるのでしょうか。『何とかなりそうじゃないか』という雰囲気が漂っています」続いて小出はこのような楽観論が何の根拠も持たない点を指摘し、最悪のシナリオとしていまだに解決をみていない原子炉が水蒸気爆発を引き起こし、炉心の露出に伴う放射能汚染によって首都圏が壊滅する事態までも想定している。むろんこれは一つの、そして最悪のシミュレーションである。しかし無数の情報が入り乱れる中で、どのような情報を選ぶかは今や私たちの生死に関わる。私が信を置くのは、事故後に突然転向して放射線の危険を唱え始めた原発推進派の学者たちではなく、かねてより原子力発電の危険性を指摘し、それゆえ疎んじられてきた小出のような学者の見解だ。事故後に執筆された小出の書き下ろしは事故の本質と今後の推移を考えるうえで示唆に富む。
 ところで今回の事故を受けて、かねてより原発に批判的だった人々の間にも一種の無力感が蔓延しつつあるような気がする。それは原発を批判しつつもその本当の恐ろしさを知らず、有効な手立てをとらなかったためにこのような大惨事が出来してしまったという自責の念に由来し、放射能の影響が中学生以下の若年層、つまり原発に直接の責任をもたない世代に最も苛酷に現れるという事実はこのような無念さを増幅させる。しかし一方でそれゆえ原発を推進した者が免責されるという倒錯は徹底的に批判されねばならない。いずれのメディアであっただろうか、父が東京電力に勤務する小学生が、なるほど会社も悪いかもしれないが、父は真剣に事態に対応しており、原発に由来する豊かな電力を享受してきた我々全てが事故に責任を負うべきではないかといった投書があったことを伝えていた。冗談ではない。実際に「小学生」による投稿であったか否かについてはひとまず措くにせよ(原発推進シンジケートによってこのような情緒に訴える「投書」が捏造された可能性を私は否定しない)、これは第二次大戦に対する一億総懺悔論と同様の恥ずべき責任転嫁である。刑事処罰も含めて、そして時間的に遡行しても徹底的に責任を追及されるべきは第一に東京電力を筆頭とする電力会社、そして「国策」と称して原子力発電を推進した官僚と政治家たちである。なぜなら彼らは以前より原子力発電の本質的な非人間性と差別性を熟知していたに違いないからであり、私たちが「知らなかった」のではなく、当然伝えるべき情報を彼らが「知らせなかった」のだ。
 私がこのように確言できるのは本書を読んだためである。私は既に1980年代後半、チェルノブイリ原発事故の直後より広瀬隆から水戸巌、高木仁三郎にいたる反原発のイデオローグの著作に親しんでいたつもりであった。しかし最初1979年に『原発ジプシー』というタイトルで現代書館より刊行され、改稿改題のうえ、あらためて出版された本書をこれまで読んでいなかったことは大いに悔やまれる。本書を通読する時、電力会社の暗部、原子力発電所というシステムの犯罪性は最初に本書が刊行された時点で既に明らかであったからだ。
著者の堀江は1978年9月から約半年にわたって、日本各地の原子力発電所で下請け作業員として定期点検に従事する。具体的には福井県の美浜原子力発電所、そして今回の事故を引き起こした福島第一原子力発電所、そして再び福井県の敦賀原子力発電所である。わずか半年の作業を記録したルポルタージュであるが、この短い体験をとおしても原子力発電所がほとんど犯罪と呼んで差し支えない虚偽と搾取、欺瞞と差別のうえにかろうじて成立したシステムであることが明確に浮かび上がる。ことさら新しい知見は得られない。劣悪きわまりない作業環境、杜撰な放射線管理、事故や問題をなりふりかまわず隠蔽しようとする労務体制、複雑な下請け、孫請けによって何重にもピンハネされる給料、そして何よりも放射能障害の恐怖。このような過酷な労働条件から私が連想するのは大陸から強制連行された人々によって維持されていた大戦前の炭鉱であるが、本書でも日本人労働者が作業できないような高線量区域での仕事に従事するためにゼネラル・エレクトリック社から福島や敦賀に大量に派遣される「英語もろくに話せない」外国人労働者についての記述がある。作業員を確保するために暗躍する手配師たちとともに、これらの作業員の存在は原子力発電所の闇の部分を象徴している。下請け作業員たちに危険な汚れ仕事を押し付けながら、原発内で電力会社の社員を見かけることはほとんどない。その一方、休日には乗馬に興じる様子が地元の新聞に紹介されるというのだ。そして堀江の跋文によれば、今日にいたるまで非社員の作業員の被曝量は変わることなく大量であるのに対し、社員の被曝量はごくわずかで、しかも年ごとに逓減している。今、福島第一原子力発電所内で作業にあたっている人々がどのような位階構造をとり、それぞれがどのように異なった被曝環境の下にあるか、本書を読むならば容易に推測することができる。
 10年ほど前、仕事のために北陸線で金沢に向かっていた折、私は敦賀原発で作業に従事していると思われる数人の作業員の会話を偶然に耳にした。季節は真冬であったが、彼らは除染のために冷水のシャワーを浴びること(彼らによれば温水では放射性物質が除去できないとのことであった)が大変に辛いと口々に不平を述べていた。本書にも同様の記述がある。堀江が作業に従事したのは30年以上も前であるからこのエピソードはそれから20年以上が経過した後も状況が全く改善されていなかった点をはしなくも示している。車中の作業員たちが従事していた作業は堀江と同様にテイケン(定期点検)であっただろう。今回の事故と関連して、日本で現在稼動している原発が何基あるかといった図が示されることが多い。以前より私は「日本の電力を担っている」はずの原発の半分近くが常に定期点検中であることに不審の念を抱いていたが、本書を読んでこの点も理解できた。原発を稼動させるためには定期的な点検が不可欠であり、そのためには多くの下請け作業員が必要なのである。そして本書で詳しく記述されているとおり、この作業の中で多くの労働者は不可避的に被曝する。逆に言うならば、下請け作業員たちの大量被曝を前提とすることなしに原子力発電所を運転することは不可能なのである。
 半年ほど各地の原発のテイケンを渡り歩いた後、堀江は肉体的にも精神的にも限界を感じ、さらに被曝の高線量に恐怖を覚えて、退職を決意した。堀江の場合、このルポルタージュを書くことが就業の目的であったから、退職という選択肢がありえた。しかし本書の中に登場し、堀江と人間的な交流をもった多くの同僚たちには退路がない。低賃金で収奪され、被曝によって精神的、肉体的に疲弊し、使い捨てられていく無数の下請け作業員たちによって原子力の「明るい未来」は支えられているのだ。私はあらためて原子力産業に関連する利権の巨大さとその構造的な非人間性に戦慄を覚えた。いうまでもなくそれは私たちが大量の電力を消費していることと全く無関係の問題である。今、福島第一原発ではテイケンとは比較にならないほどに困難で大規模な復旧作業が続けられている。作業員が足りなくなることも危惧されているというが、このような異常事態の中で一体どのようにして作業員がかき集められ、どのような労務管理のもとで作業が続けられているのか。当然ながら東京電力が詳しい情報を発表することはないし、発表されたとしても誰もそれを信用しないという退廃の中に私たちはいる。
 これほどの事故があった以上、原発が設置された地方自治体も現在定期点検中の原発に容易に運転再開の許可を与えると思えない。全ての原発が運転を停止し、それでも電力が不足しないことが判明した時、おそらくこの国は初めて原子力発電という呪縛から自由になる。そしてこの災厄から私たちが何かを学ぶことができるとすればこれ以外の道はありえない。しかし果たしてそのための時間は私たちに残されているだろうか。b0138838_2054044.jpg

by gravity97 | 2011-06-13 20:55 | ノンフィクション | Comments(0)

「アンフォルメルとは何か?」

 ブリヂストン美術館で開催されている「アンフォルメルとは何か?」を訪れた。「抽象絵画の萌芽と展開」と題された導入部と付け足しのようなザオ・ウーキーの作品群はコレクションを無理やり加えた印象を与えてやや苦しいが、全体としてはこれまで紹介されることの少なかったアンフォルメルという運動の全貌を伝える充実した内容である。
 1950年代にヨーロッパに勃興したアンフォルメルはその輪郭をつかむことが難しい。アンフォルメル、別の芸術、タシスム。入り乱れる批評家によって様々の呼称が時に肯定的、時に批判的に使用され、フォンタナやアペルが展示に加えられている点からも了解されるとおり、空間主義やコブラといった多様な運動やグループが時にその内部に配置される。本展ではアンフォルメルをその主要な唱導者ミシェル・タピエによって定義された狭義のそれに限定することなく、むしろその周縁を含めた広がりの中に捉えている。このような姿勢は妥当であろう。なぜなら時にダリまでも包摂するタピエのアンフォルメル(タピエ自身は「別の芸術」という呼称を用いる)についての認識自体がきわめて融通無碍であるからだ。ただしタピエがアンフォルメルをそれ以前の近代美術との決定的な断絶としてとらえていたことを想起するならば、マネやモネからクレー、カンディンスキーまでブリヂストン美術館のコレクションによって抽象絵画へいたる道程をいわば教育的観点から概観する第一部、「抽象絵画の萌芽と展開」のセクションは適切な導入とはいえないだろう。しかしさらにうがった見方をするならば、これら一連の作品が存在することによって、同じ抽象絵画であってもフォートリエやデュビュッフェら、「『不定形』な絵画の登場」と題された第二部の作品の異質さが明白となり、結果的に第一部と第二部との断絶が際立つこととなったとも考えられよう。
 第二部を構成するのはフォートリエとデュビュッフェ、ヴォルスという三人の画家の作品である。これら三人の作家はアンフォルメルではなく、アンフォルメルの先駆としてタピエによって高く評価された。正確には「アンフォルメル以前」と呼ぶべきこの部分がこの展覧会で最大の見所になっていることは皮肉である。後年、NRFより刊行された『アンフォルメルの芸術』の著者がジャン・ポーランであったことからも推測されるとおり、彼らは専門的な美術批評ではなく、文学者や哲学者による趣味的、さらに言うならば余技的な批評によって応接された。この点はアメリカにおける抽象表現主義の勃興とアンフォルメルの凋落を対比的にとらえる時、大きな意味をもつ。これまでアンフォルメルに焦点をあてた展覧会としては1985年、千里にあった国立国際美術館で開催された「絵画の嵐 1950年代 アンフォルメル/具体美術/コブラ」が知られている。私はこの展覧会も見たが、これと比しても今回出品された作品の質の高さは目を見張るものがある。この点は端的に国内の美術館のコレクションの充実を反映しており、特にフォートリエとデュビュッフェに関して、私は近年収集された国内のコレクションの質的な高まりに驚いた。例えばフォートリエに関して大阪市立近代美術館準備室、デュビュッフェに関して東京国立近代美術館に収蔵された作品は彼らの代表作と言って差し支えないだろう。特にフォートリエは点数こそさほど多くはないが、並べられた作品の質は作家に対する評価を一新するほどだろう。しかもそのほとんどが国内の美術館に所蔵されていることは特筆されてよい。そしてこれら三人の画家が必ずしもタピエを評価していない点も重要である。日本を訪れたタピエたちの行状をフォートリエが「フランスから行ったサーカス」と痛罵したことはよく知られている。先行するこれらの画家と「アンフォルメル」との錯綜した関係は重要な問題であるが、本展覧会においては両者が併置されるだけで、その関係について検証された形跡はない。
 「戦後フランス絵画の抽象的傾向と『アンフォルメルの芸術』」と題された第三部はいわゆるアンフォルメルの作家によって構成され、この展覧会の核心を形成する。アンリ・ミショーに始まり、ハンス・アルトゥングやピエール・スーラージュといったジェストの要素の強い作家、そしてアンフォルメルを代表するアクション・ペインターであるジョルジュ・マチウ、さらにセルジュ・ポリアコフ、ニコラ・ド・スタールといった日本の美術館でも比較的なじみ深い作家の作品が展示されている。日本人作家としては堂本尚郎と今井俊満そして菅井汲の作品がブリヂストン美術館のコレクションから出品されている。最初に述べたとおり、この展覧会ではアンフォルメルを定義することを慎重に避け、その多様な広がりの中にこの美術運動を概観している。ジャン=ポール・リオペルとド・スタールの優れた作品を見ることができたことは本展覧会の大きな収穫であった。これらの作家は特に日本においてはまだ十分に紹介されていないが、この展覧会によって再評価されることになるのではないか。しかしながら作家のラインナップを見る時、展覧会の大きな欠落もまた明らかである。本展には「20世紀フランス絵画の挑戦」というサブタイトルが付されている。確かにアンフォルメルはフランスを中心にした運動であった。しかし私はその本質的な革新性は単にフランス一国にとどまらない第二次大戦後最初の国際様式として成立した点にあると理解している。ないものねだりの感がないでもないが、この意味で(所蔵されているポロックとサム・フランシスは出品されているにせよ)アメリカ、さらに日本の具体グループの作家が含まれていない点に、アンフォルメルを冠したこの展覧会の限界を指摘することができる。結果的に成功しなかったにせよ、タピエは50年代の表現主義的絵画をアンフォルメルの名の下に一括することを試み、アメリカの抽象表現主義さえもその一分肢として回収しようとしたのである。このためにタピエはニューヨーク・スクールの画家たちを意欲的にヨーロッパに紹介するとともに世界を旅行して作家を発掘し、マチウは南アメリカを含む世界各地で珍妙なアクション・ペインティングのデモンストレーションを繰り広げたのである。アンフォルメルはその本質を戦後最初の美術におけるグローバリズムに求めることができるのではないか。この意味で四半世紀前に大阪で開かれたアンフォルメルの展覧会が北欧と日本という地政学的な含意をはらんでいたことは暗示的である。アンフォルメルは歴史との断絶を空間的な連帯によって補償しようとしたのだ。スペインでもよい、ドイツでもよい、今日、ヨーロッパの主要な美術館でそれらの国の50年代美術を通覧する時、アンフォルメルの濃厚な影響に驚く。タピエの戦略の政治性が災いして、今日否定的な語調で語られることの多いアンフォルメルであるが、本展を一覧する時、実に多くの可能性をはらむ運動であったことが了解される。そしてこれらの可能性は今日もなおほとんど未解明のまま残されている。
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 さて、私は本展が日本国内の美術館の優れたコレクションによって構成されていると述べた。とりわけ1957年、タピエが企画する「世界現代芸術展」でアンフォルメルを紹介したブリヂストン美術館、そして大原美術館という二つの私立美術館から出品された作品の質の高さは誰の目にも明らかであろう。一方、カタログを参照するならば、この展覧会にはニューヨーク近代美術館を含む海外のいくつかの美術館から借用される予定であった数点の作品が出品されていない。おそらく先般の大震災と原子力発電所の事故によって貸出がキャンセルされたと推測され、実際私たちは同じ理由でいくつかの海外展が中止になったことを知っている。しかしそれらの作品の不在は国内から借用された作品の充実によって十分に補われている。今回の震災と核災害は相変わらず量産される海外の有名美術館からの大量借用によるブロックバスターのコレクション展、あるいは客寄せパンダよろしく一点のフェルメールによって上げ底式に仕立てた無内容の名品展に冷水を浴びせかけただろう。そして核災害が一向に収束しない以上、今後、海外からの作品借用は困難となり、保険は高騰するはずだ。しかし私はかかる状況は日本の美術館にとって一つの好機ではないかと考える。札束で顔を叩くようにして海外の名品を借り出さずとも、国内の美術館のコレクションを仔細に調査し、ていねいに作品に文脈を与えれば、日本にいながらにして海外の美術の動向を検証することさえ可能なのだ。新聞社や放送局の事業部に言われるがままにいかがわしい借用料をかき集める必要はない。学芸員の日頃の研究とフットワークによって意義のある展覧会を組織することを可能にする程度に日本の美術館のコレクションが成熟していることを私は確信している。

by gravity97 | 2011-06-01 21:43 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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