Living Well Is the Best Revenge

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優雅な生活が最高の復讐である

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 リドリー・スコットの「ブレードランナー」は1982年に公開されたカルト的人気を誇るSF映画である。フィリップ・K・ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を原作とするが、おおよその枠組は保ちながらも別の物語と考えた方がよいだろう。ディックの小説は映画化されることが多いが、「トータル・リコール」から「マイノリティー・レポート」まで怪作、凡作のオン・パレードという印象が強い中で、さすがにこの映画は原作に拮抗する強烈な現実感を獲得している。ただし封切られた最初はさほどの評判を呼ばなかったように記憶している。私もロードショーではなく名画座でジョン・カーペンターの「遊星からの物体X」との二本立てで見た。「遊星からの物体X」も怪作と呼ぶにふさわしいめちゃくちゃな内容であり、封切り時に足を運ばなかったのは私の良識のせめてもの抵抗であったか。もっともカーペンター好きの私は「遊星からの物体X」を目当てに名画座に足を運んだのであるが、見終わってみると「ブレードランナー」の印象があまりにも強く、呆然としたことを覚えている。
 先日、この映画をDVDで見直して驚いた。私が30年近く前に映画館で見たフィルムと結末が異なっているのだ。実はこのフィルムはいくつものヴァリアントをもつ。私が視聴したDVDは1992年に発表された「ディレクターズ・カット」と呼ばれるヴァージョンである。見比べるとほかにも多くの異同があるだろうが、ディレクターズ・カットと私が劇場で見たオリジナル(「インターナショナル・ヴァージョン」と呼ぶらしい)の最も大きな相違は結末部である。後者の最後の場面でハリソン・フォード演じるブレードランナー、デッカードは恋人である最新型レプリカント、レイチェルとともに緑の大地の上を滑空する。絶えず雨の降る陰鬱なロスアンジェルスから陽光が降り注ぐ草原への転調は重苦しい物語に対する救いといえば救いであるが、なんとも唐突な印象は否めず、劇場で観た際にも違和感を拭えなかった。これに対して今回DVDで視聴したディレクターズ・カットではこの部分は削除され、物語は断ち切られたまま何の救いもなく終了する。一篇の映画に対して、劇場で上映されたヴァージョンに対して、監督が最終的に手を入れたヴァリアントを「ディレクターズ・カット」として流通させ、さほど変わるところのない二つのフィルムによって倍の収益を得るという、考えようによってはかなりあざとい手法は私の知る限り「ブレードランナー」を嚆矢としている。しかし実に興味深いことに、この二つのヴァージョンのうち、興業的配慮や観客への阿りを排して映画としての完成度を高めたはずの「ディレクターズ・カット」の方が優れているかといえば、そうではなかろう。私の考えでは二つのヴァリアントのうち、映画の主題をより深く実現しているのはプロデューサーの指示で改変され、とってつけたような結末とともに最初に劇場で上映されたフィルムなのである。映画の内容に深く踏み込むこととなるが、この点をディックの小説とも関連させながら形式的に分析しておきたい。
 このカルト映画に関してはいくつもの謎が提起されている。よく知られた謎の一つはレプリカントの数である。人間そっくりに製造され、4年という寿命しかもたず、苛酷な環境での労働に従事することを強いられるレプリカントと呼ばれる人造人間。反乱を起こして地球に潜入したレプリカントたちとレプリカントを「処理」するプロフェッショナルであるブレードランナー、デッカードの死闘が映画の主題であることは直ちに明らかとなる。潜入したレプリカントの人数はヴァージョンによって異同があるらしい。なにぶん私は一度見ただけの記憶しかないので、以下に論じることも含めて記憶に誤りがある場合があるかもしれないが、「インターナショナル・ヴァージョン」においては潜入したレプリカントは6名で、そのうち1名は死亡したという発言があったように思う。ところが映画の中でデッカードによって「処理」される脱走レプリカントは男2名、女2名の計4名であり、1名足りないのである。この矛盾によって残る1名は実はデッカード本人ではないかというまことにディック的な推論が可能となる。(「ディレクターズ・カット」ではレプリカントの数は4人に修正されており、一応の平仄は合っているが、これがかえって物語を貧しくしていることは以下で論じるとおりである)
 この点と深く関わるのが映画そのものの構造と関わるヴァリアント間の相違、すなわちヴォイスオーバーの存在である。私の記憶では「インターナショナル・ヴァージョン」においては少なくとも二箇所、デッカードの声が映像に重ねられる部分がある。一つは冒頭部、中華街ともリトル・トーキョーとも判然としない奇怪な未来都市の雑踏に初めてデッカードが登場するシーンであり、ここでデッカードは自らの語りによって自己紹介する。もう一つは最終部、ルトガー・ハウアー演じるレプリカントの頭目、ロイが目を開いたまま死んでいく映像に重ねられる印象的な語りだ。これに対して「ディレクターズ・カット」においてどちらの場面にもヴォイスオーバーは存在せず、私たちはデッカードの内的な声を聞くことはない。映像に音声を重ねる手法はありふれているが、これによって登場人物の中から主人公が特定される。通常の映画において内的な語りを画面に重ねることができるのは主人公だけである。この結果、映画を見るに際して観客は主人公、「ブレードランナー」であればデッカードにあらかじめ焦点化したうえで物語との関係を結ぶ。しかし「ディレクターズ・カット」において観客はデッカードに焦点化する根拠をもちえず、デッカードは登場人物の一人にすぎない。別の言い方をするならば、デッカードが内的独白を行う前者は一人称の映画であり、デッカードとほかの登場人物が区別されない後者は三人称の映画ということができよう。
 レプリカントはたえず自分とは何かを問う。自分がレプリカントではなく人間であることを証明するものは何か。偽の記憶を与えられたレイチェル、あるいは脱走レプリカントのレオンは憑かれたように幼い時の写真を収集する。写真こそが四年以上前にも自分が存在していたことの唯一の物証なのであるから。それではあなたが人間でありレプリカントではないことを保証するものは何か。荒唐無稽な問いと感じられるかもしれないが、自分が人間であるか機械であるか決定することの不可能性は「贋者」から「変種第二号」までディックのサスペンスフルな短編で頻繁に導入される主題であり、追う者が実は追われる者であったという設定は直ちに『暗闇のスキャナー』の主題ではないか。人間/レプリカントという区別は便宜的なものにすぎない。かかる問いかけは自分とは何かという哲学的な思索へと敷衍することが可能だ。先に述べた最後のシーンで絶命し、降りしきる雨を受けるロイの顔のクローズアップに次のような語りがヴォイスオーバーされる。ロイは自分の寿命を知りたがった。ロイはレプリカントとしての自分がどこから来て、どこへ行くのかを知りたがった。しかし実は自分(デッカード)たちも同じではないか。私も自分に与えられた生の意味、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知らない。繰り返しの弁解となるが、私は20年以上前に見た記憶に基づいて書いているので、細部の誤りはあるかもしれない。しかしロイの顔のクローズアップに添えられたヴォイスオーバーは今でも強く印象に残り、「ブレードランナー」が単なるフィルム・ノワールではなく深い思弁性を備えた作品であることに感銘を受ける理由となった。しかしこの部分も「ディレクターズ・カット」では削除されているのである。この映画を通底するディック的な問いが「自分とは何であるのか」と定式化されるならば、それは「私」をとおして問われる時に切迫感をもち、必然的に一人称の話者を要求するはずだ。(ただし原作の『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』にはこのようなテーマは特に設定されていない)「ディレクターズ・カット」における「彼」としてのデッカード、三人称的な視点はこのような緊張を殺ぎ、最後のヴォイスオーバーの不在ともあいまってディック的な問いが明確に提起されることはない。
 私が私であることを保証する要件とは何か。私の考えではそれは記憶と身体である。このうち記憶についてはディックの作品でしばしばその真正性が問われた。「ブレードランナー」において提起された「植えつけられた記憶」という可能性は例えば怪作「トータル・リコール」の原作である「追憶売ります」の主題とされていた。一方、身体に関しても、「マトリックス」から「インセプション」にいたる近年のSF映画においてその根拠が問われている。これらの問題についてはまた別の機会に論じたい。
 最近入手して、今も読み進めているため、以上の分析には必ずしも十分に反映されていないが。加藤幹郎の『「ブレードランナー」論序説』はこの迷宮のような映画がはらむ可能性を主としてシークエンスの分析を用いながら解き明かし、多くの示唆に富む。ヴァンゲリスによる音楽も忘れてはならない。ただし以前私が聞いたLP(死語であろうか)のサウンドトラックと1994年にリリースされたCDはかなり内容が異なるように感じる。手元に以前聴いたLPが見当たらないため、これも記憶による判断となるが、サウンドトラックに関しても当初の編集の方がよかった気がする。映像も音楽も監督や音楽家によってブラッシュアップされる以前のヴァージョンの方が優れていることは「ブレードランナー」という傑作の大いなる逆説ではなかろうか。
by gravity97 | 2011-03-26 11:44 | 映画 | Comments(0)

One More Red Nightmare

 阪神大震災の三日後、確か金曜日であった。私は阪急電車がかろうじて通じていた夙川駅から徒歩で西に向かった。道路はいたるところで寸断され、倒壊した家屋が何度も行く手を阻んだ。最初は驚いていたが、いくつもの現場を過ぎるたびに次第に無感覚になり、私は同僚二人とともにひたすら歩んだ。寒空の下、街はくすみ、時折ヘリコプターの音が聞こえた。何人かの人たちが集まり、道端の空き地で執り行われていたのは通夜であったはずだ。こちらに向かって来る若い女性は大きなスーツケースを格闘するように引きずっていた。道なき道を私たちは無言で歩き続けた。

 今回の大地震と津波で亡くなられた方々の御冥福を祈るとともに、被災地にいらっしゃる全ての方に神の御加護を。
by gravity97 | 2011-03-15 21:37 | ONCE IN A LIFETIME | Comments(0)

石牟礼道子『苦海浄土』

b0138838_21391125.jpg ほぼ半世紀前に発表された本書を初めて通読する。それはきわめて辛い体験であり、私は何度となく頁を閉じたいという思いに駆られた。
 水俣病といっても、今日では特別措置法や未認定患者をめぐる訴訟問題が時折話題となるくらいで忘れ去られつつあるが、かつては日本の公害問題の象徴として耳目を集めた公害病である。新日本窒素肥料株式会社(チッソ)が無処理のまま水俣湾に垂れ流した工場排水中の有機水銀が魚介類の中に蓄積され、食物連鎖の結果、水俣湾周辺の漁民を中心に水銀中毒による神経障害が発生し、多くの者が死に至った。さらに胎盤を通じて胎児の段階で水銀中毒となり、生まれつきの障害に侵される胎児性水俣病という悲劇を生んだ。水俣病という言葉から私は例えばユージン・スミスの有名な写真を連想するし、かつてこの問題を扱った吉田司の『下下戦記』を読んで感銘を受けたことも覚えている。しかしスミスの写真があくまでも水俣病をめぐる一つの情景を切り取ったものであり、『下下戦記』がいわば水俣病のその後をグロテスク・リアリズムという手法で描いた内容であったのに対して、本書からは水俣病を共に生き、告発する著者のひたむきな熱情が感じられた。
 水俣病は昭和30年代にいわゆる高度経済成長を突き進む日本の暗部を象徴している。私は本書を読んで、人間の尊厳という言葉に思いをめぐらした。水俣病が悲惨であるのはそれが人間から尊厳を奪い去るからである。数年前まで一家の大黒柱として、熟練した漁師として、地域のリーダーとして周囲から尊敬されていた人物が、口から涎を垂らし、言葉も思うにまかせず、全身を痙攣させて、ゆっくりと悶死していく。あるいは生まれつき言葉も話せず、意志を表示することさえできず、排泄すら自由にならぬ胎児性水俣病の患者たち。何の罪もない人々がおおよそ人間の想像できる最悪の地獄を味わうこととなったのだ。チッソが垂れ流した有機水銀は患者の身体だけでなく、家族や地域社会を破壊し、蝕んでいく。そもそも魚が、貝が汚染されているとするならば漁業を生業とする人々にとって生活の糧を奪われることに等しい。本書の中には詳しい言及はなかったがかつて『下下戦記』を読んだ際に、わずかな日当のために出漁した漁師たちが、港まで持ち帰りながらも汚染されているため市場に出荷できない魚をタンクの中に廃棄する寒々とした光景の描写に慄然としたことを覚えている。しかし当然の対価である漁業補償そして水俣病に対する補償に対しても、一般市民たちからは怠業あるいは詐病ではないかという白い目が向けられる。無責任な風説の広まりと病気に対するいわれなき差別は人間性の暗部をのぞきこむ思いがする。チッソという企業は単に患者の健康のみならず地域という共同体、人々の人間性までも回復不能なまでに破壊したのである。本文中に胎児性水俣病の患者を前にしたカネミ油症患者の青年が「神さま、罪のない人をなぜこんなにしたのですか。どうして救ってあげないのですか」とつぶやく描写がある。あるいは死後、病理解剖された胎児性水俣病の少年の耳から頭蓋にかけて残された縫合の跡とそこににじむ血の色。この本を読むことの辛さが理解していただけよう。
 それにも関わらず、私が本書を閉じることがなかったのは、『苦海浄土』が高い文学性を有しているからである。単に被害の実態を報告し、チッソを告発するだけのルポルタージュであれば、あまりの悲惨さにおそらく私は最後まで読み通すことができなかっただろう。しかし本書は水俣病を告発すると同時に、それによって失われた豊かな自然、自然との共生の記録であり、それによっても失われることのない人間性の記録でもある。例えば胎児性水俣病の患者である江津野杢太郎という少年について語るにあたって、筆者は練達の漁師である祖父の口を借りる。江津野家は祖父と祖母、やはり水俣病患者であるその息子、そして杢太郎少年を含む三人の孫の六人家族である。(杢太郎少年の母は出奔した)水俣病によって壊された家庭にあって、焼酎を晩酌に祖父は少年に語りかける。「杢よい、」と少年を呼びながら、老人は不知火の海の上がいかに豊かであるかを説く。「あねさん東京の人間な、ぐらしか(かわいそうな)暮らしばしとるげななばい。(中略)それにくらべりゃ、わしども漁師は、天下さまの暮らしじゃあござっせんか」池澤夏樹も指摘するとおり、水俣病の犠牲となった数百人の漁民に対置されるべきは、チッソが象徴する高度経済成長の恩恵にあずかった全ての人々、とりわけ都会に居住する者であったはずだ。これに対して身体の自由も奪われた孫の前で、老人が自分たちの暮らしの方が人間的であると淡々と言い放つ様に私は深い感動を覚えた。それにしても本書の語りを貫く水俣のダイアレクト(方言)のなんと豊かで勁いことか。この作品の魅力は多くを独自の語りによっている。『苦海浄土』は漁民たちと同じ言葉を操り、「あねさん」と呼ばれるまでに彼らの生活に入り込んだ石牟礼でなくては著しえなかった惨禍の記録であろう。
 むろんこの惨禍は人によってもたらされた。第一部の巻末に昭和34年にチッソによって提示された患者との間の「紛争調停案契約書」が掲載されている。水俣病が工場排水を原因とするものであることが判明しても新たな保証金を求めないことを条項に含んだこの契約書の内容たるや、死者に対して年30万円、発病した成人に対して年10万円という冗談のような見舞金を支払うことによって事態を隠蔽しようとする、人権意識のかけらもない内容である。あるいは本書の中には交渉の場で患者たちに傲岸な態度で接する厚生政務次官橋本龍太郎に関する短い記述がある。産業の発展のためには貧しい漁民たちの健康や命などとるに足らないとする「強者」のメンタリティは行間からも明らかである。しかし弾劾や告発は本書の目的ではない。本書が優れた文学作品である理由は怒りや苦しみの吐露ではなく、ゆえなくしてこれほどの業苦を味わいながらも、漁師たち、母たち、そして患者たちが水俣の豊かな自然の中で人間としての誇りを捨てることがなかったことを、彼ら自身の語りを通して、おおらかなダイアレクトによって記録しているからである。職業作家でもルポライターでもない一人の主婦がかくも言葉を巧みに用いて一つの悲劇を文学として結晶させたことに私は驚く。
 今日、未認定患者の問題は残るにせよ、水俣病問題は一応の決着をみており、この海域の漁獲についても安全宣言が出されているという。しかし私は暗鬱な感慨を抱かずにはおれない。水俣病が終わったのは発生から半世紀が経過して、劇症の患者はもちろん、多くの患者が死に絶えたからではないだろうか。死者は言葉をもたない。今日、私たちがかかる不条理な悲劇、高度成長の暗黒面をかろうじて知ることができるのは、ただ石牟礼という才能による『苦海浄土』という傑出した記録が存在するという理由によっているのではないだろうか。彼女がいなければ私たちは一企業によるこの未曽有の犯罪について知ることさえなかったのではないか。『苦海浄土』は人を慰安する文学の対極に位置する。しかし現実に拮抗するただ唯一の営みとしても文学は存在しうることをこの作品は雄弁に語っている。
 本書は2004年に藤原書店から刊行された石牟礼の全集の第二巻と第三巻を底本としたうえで、池澤夏樹が個人編集した河出書房新社の世界文学全集の中の一巻として刊行された。今月刊行されるコンラッドの『ロード・ジム』によって完結するこの全集を通読した訳ではないが、私はこの全集の編成を評価している。三島でもなく大江でもなく、日本の作家としてただ一人、石牟礼を「世界文学」に登記したことによっても、この全集の批評性は明らかだ。『苦海浄土』は『ブリキの太鼓』や『存在の耐えられない軽さ』と比してもなんら遜色はない。語りえぬ死者に代わって水俣病を語り継ぐ本書は、この全集に収められたことによって、あらためて多くの新しい読者を得たことと思う。
by gravity97 | 2011-03-11 21:41 | 日本文学 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック