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 このブログに映画に関する記事を寄せるのは二回目となる。前回は若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を取り上げたから、主題的にあまりにも偏向しているように感じられるかもしれないが、全くの偶然であり、特に意図するところはないことを最初にお断りしておく。また今回は結末についても言及するため、白紙の状態でこの映画を見たい方はお読みにならない方がよいかもしれない。
 西ドイツの暗い70年代については既にファスビンダーらが制作した「秋のドイツ」によって知られているが、この映画が9人の監督によるオムニバス形式で、むしろ事件の余波を描いたのに対して「バーダー・マインホフ 理想の果てに」はアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフに主導された西ドイツ赤軍(RAF)の活動を事実に即して検証するドキュメンタリーに近い内容であり、この点でも「実録・連合赤軍」を想起させる。フィルムの冒頭の場面は1967年、イラン、パーレビ国王のベルリンでのオペラ観劇に対する学生たちの抗議行動とそれへの弾圧である。多くの学生が暴行を受け、一人の学生が警官によって射殺された事件は後年のバーダー・マインホフ・グループ成立の起源を画した。ベトナム反戦運動を背景に高揚する学生運動、指導者であったルディ・ドゥチュケに対する暗殺未遂など、高らかに掲げられた理想の下で暴力が蔓延する状況は当時の日本にも共通しており、ヨーロッパと日本、この映画と若松のフィルムは同じ現象の表裏を映し出しているようにも感じられる。多くの登場人物の中から次第に活動の中心的な人物が浮かび上がる。左翼系の女性ジャーナリスト、ウルリケ・マインホフと過激派のリーダー、アンドレアス・バーダーの二人である。冷静な論客である前者と粗暴な印象を与える後者の人物造形がどの程度事実に基づいているかは判断する材料がないが、彼らによって創設されたバーダー・マインホフ・グループ、後の西ドイツ赤軍は反帝国主義、反資本主義を唱えて次第に過激化し、武装闘争にのめりこんでいく。銀行強盗、米軍基地や右翼系の出版社への爆弾闘争、さらに要人暗殺。物語は基本的に時系列に従って展開されるため、知識としてこれまでばらばらに知っていた多くの事件や闘争の関係が整理された印象がある。監督であるウリ・エデルは登場人物にも、彼らが攻撃した体制(映像の中にはブラント首相やシュミット首相らしき人物も登場する)のいずれにも加担することなく、事実を淡々と再現する。映画では当時、西ドイツ赤軍が大衆からある程度の共感を得ていたことが暗示されているが、連合赤軍同様、バーダーらの行動に大義を見出すことは難しい。日本と違い銃器の入手が比較的たやすいドイツにあって、武装は容易であるが、強権的な態度をとったという理由で検事総長や高等裁判所長官が銃殺されてよいはずがない。いかなる思想であろうと、人の命を代償とするような思想は唾棄すべきであるというきわめて常識的な感慨を私は抱いた。
バーダーらがパレスチナに赴き、PFLPと合流して砂漠の中で訓練に参加する様子が描かれるが、バーダーは都市ゲリラにこのような訓練は不要と断じてPFLPの指導者たちと反目する。シンパであった弁護士の仲介が暗示されているが、彼らがなぜ、いかにしてパレスチナに赴いたかについてはもう少し説明がほしかった。西ドイツ赤軍という名が中東で勇名を馳せた日本赤軍からとられていることからも理解されるとおり、日本と西ドイツ、ほぼ同時代に活動した二つの運動の関係はなおも検証されるべき余地を残しているように感じるからである。パレスチナとの共闘は西ドイツ国内において別の非劇を生む。1972年、ミュンヘン・オリンピックにおける武装組織「黒い9月」によるイスラエル選手団襲撃とその帰結としての人質とゲリラの虐殺である。私たちはこの映画の中でも触れられたこの事件に基づいてスティーヴン・スピルバーグが「ミュンヘン」という苛烈きわまりないフィルムを制作したことを知っている。四方田犬彦が全否定するこのフィルムに関して私はやや異なった見解をもっており、機会があれば披歴したいと考える。無謀な闘争の結果、西ドイツ赤軍の構成員たちの多くは実際には意外に早い時期に逮捕、収監される。しかし彼らは直ちに法廷闘争に突入し、時に獄中でハンスト闘争を決行し、時に法廷内で傍聴席のシンパたちとともに検事と裁判官を嘲弄する。このような状況は、同じ赤軍を名乗りながらも組織としては無残な「総括」の果てに山岳ベースで自壊し、構成員の多くが刑期を務めて出獄した連合赤軍とは対照的である。刑務所と法廷での闘争の激しさは日本においてはむしろ70年代に連続企業爆破を繰り広げた東アジア反日武装戦線を連想させる。西ドイツ赤軍の構成員たちは自らを囚人と認めることも、裁判所の法によって裁かれることも潔しとせず、刑務当局に徹底的に抵抗する。
今回、私が視聴したDVDには制作者のインタビューなどを収めた特典ディスクも添えられており、それを参照するならば関係者の証言から映像の細部まで当時の記録を綿密に調査して作り込まれていることが理解される。しかしこの映画には決して証言や証拠に基づいて再現することができない部分が存在する。いうまでもなく刑務所の内部である。確かに刑務所内で喫煙し、男女を同じ部屋に収容することを要求するバーダーらの姿からは、日本の刑務制度と異なり、ドイツの収監施設がある程度の自由を許容していることを暗示している。しかし1976年5月、ウルリケ・マインホフは獄中で「自殺」を遂げる。このエピソードのあたりからこの映画は奇妙な晦渋さを帯びる。法廷闘争でのアグレッシヴな姿勢と突然の自殺が結びつかないのである。実際に(この映画では描かれていないが)マインホフの妹と弁護人は彼女の性格と政治的信条に照らしてマインホフが自殺することはありえず、謀殺であると主張した。マインホフの「自殺」に対して西ドイツ赤軍は直ちに反撃し、検事総長や銀行会長といった司法界、経済界の要人を次々に暗殺する。このあたりの描写は「ミュンヘン」におけるモサドの秘密部隊による「パレスチナ・ゲリラ」のシンパに対する連続テロを連想させないでもない。77年になると西ドイツ赤軍の攻撃はさらに加速され、9月に西ドイツ経営者連名会長ハンス・シュライヤーが誘拐され、10月にはルフトハンザ機がパレスチナ人ゲリラによってハイジャックされた。誘拐犯、ハイジャック犯たちはいずれも西ドイツ赤軍のメンバーの釈放を要求する。これに対して当時の西ドイツの首相、ヘルムート・シュミットは一切の取引を行わず、ソマリアのモガディシオ空港に特殊部隊を派遣し、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕して乗客全員を救出する。映画の中ではこの事件の直後、独房内で収監されていたバーダーをはじめとする3名のメンバーが一夜にして自殺を図った。ルフトハンザ機ハイジャックが失敗に終わったことによって彼らが絶望して自殺したという解釈は可能かもしれない。しかし法廷や刑務所における彼らの戦闘的な態度になじんだ私たちにとってこのような結末は受け入れることが困難である。このフィルムが謎に満ちた「集団自殺」にどのような解釈を与えるかという点を私は大いに関心があったが、少なくとも映像において制作者は巷間に流布する陰謀説、つまり当局の手によって獄中で全員が虐殺されたという立場をとることはない。しかしそのためのアリバイのように挿入されたいくつかのシーン、例えば弁護士が法廷内で密かに獄外からの通信や武器をメンバーに手渡すエピソードなどは現実には到底ありえない印象を与える。彼らが殺されたとすれば、それは権力の手による密室内の殺人であり、事実であれば国家の正統性さえも危うくする。西ドイツ赤軍に参加した若者たちが、ナチス・ドイツの時代を生きた世代を親としていること、映画の中でもこの理由によって親たちを批判している点は暗示的に思われる。つまりドイツ帝国がナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺という国家犯罪によってその正統性を失ったように、親の世代を批判して登場した西ドイツ赤軍のメンバーたちが監獄の中で国家によって謀殺されたとするならば、ドイツという国家の正統性は二重に否定されるのだ。この映画はきわめて慎重に事件の輪郭を粗描するに留まり、少なくとも検証できない問題については無用の推測を控えている。それゆえ映画の終盤であたかも物語が失調するかのように不自然な死が挿入されることに、私たちは違和感を覚えるが、もしかするとこのような違和感こそが制作者の意図するところであったかもしれない。
それにしても事件から30年以上の年月が経ってようやくこれら一連の事件が映像として総括されたことは、連合赤軍事件同様、バーダー・マインホフ・グループが一つの社会に深いトラウマとして作用したことを暗示している。そしてドイツにおいてもこの事件を芸術の主題とする一連の試みが発表された。最初に触れた「秋のドイツ」もその一つであるが、私にとって忘れることができない作品は〈1977年10月18日〉と題され、ゲルハルト・リヒターが1988年に発表した15点の連作絵画である。リヒターはこの事件に関する資料を丹念に収集し、雑誌の写真や警察の証拠写真に基づいて事件の現場を直接描いた作品から葬儀の模様、マインホフの若い頃の肖像などをモノクロームの大画面に描いた。この連作については既にベンジャミン・ブクローらが興味深い分析を加えており、私もいずれ稿を改めて論じたいが、私はニューヨーク近代美術館でこれらの絵画を見て深い衝撃を覚えた。もちろん主題の重さも無関係ではない。しかしリヒター自身がインタビューの中で西ドイツ赤軍のイデオロギーを拒絶すると述べていることからも了解されるとおり、この衝撃は必ずしも内容によるものではない。むしろこれらの暗鬱な絵画が死者たちと同時に、イヴ=アラン・ボアがいう絵画という形式に対する「喪の作業」であるように感じられたからだ。この問題はこの映画の余白で論じるには深すぎる。ひとまずここでは下に図版を示すに留める。
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by gravity97 | 2011-01-29 20:01 | 映画 | Comments(1)
b0138838_2215672.jpg 思想家であればラカン、ジョルジョ・アガンベンからジョナサン・クレーリー、概念としては無意識や生政治(ビオス)、注意(アテンション)。岡田温司の著作はルネッサンスから現代美術にいたる様々な美術の営みを、多く美術史の外部で提起された人文学の新知見に基づいて分析する犀利さが持ち味といえよう。今回、本書で扱われるテーマはタイトルからうかがえるとおり「半透明」である。
 美術における半透明という言葉から一つの問題系を連想することはさほど難しくない。透明と不透明という対比を措定するがよかろう。ルネッサンスからデカルト的合理主義にいたる系譜が透明性に価値を見出したのに対して、モダニズム美術においてはメディウムの特性、絵画においては表面の物質性、不透明性が強調された。この点は写真のごとき澄明な視界が開ける近世の風景画とクリフォード・スティルの視線をはねつける画面を比較するならば、端的に了解される。このディコトミーの間にあえて半透明という第三項を提示する時、本書の批評的な位置は自ずから明らかである。
 最初の章を岡田はロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボアによって提起されたアンフォルムという概念から説き起こす。アンフォルムとは彼らが1996年にポンピドーセンターで企画した名高い展覧会の名でもある。翻訳が完了したとは聞くがいつまでも刊行されないカタログの日本語訳も待たれるところであるが、確かに合理主義とモダニズム、共に距離をとる「半透明」という概念を説くにあたってアンフォルムは適切な出発点である。なぜなら「不本意のモダニズム」というサブタイトルが冠せられたこの展覧会は本質においてモダニズム美術への批判であり、同時にアンフォルムという概念をバタイユから得ている点から明らかなとおり、西欧の合理主義への対案を示すものでもあるからだ。続いて岡田は絵画の起源として影と痕跡と鏡像を挙げ、いずれも媒介性、半透明性と関係がある点を指摘する。巧妙な導入であり、引き続き絵画の問題が扱われることが予想されるのだが、次章で岡田は突如アリストテレスの「ディアファーネス」という概念を導入して議論の方向を変える。私の印象としては本書の奇数章はきわめて具体的で示唆に富むが、偶数章は問題が抽象化され、それぞれの思想家に通暁した者でなければ議論を追うことが難しい。すなわち第2章においてはアリストテレスからアヴェロエス、ロジャー・ベーコン、ダンテといった古代から中世、ルネッサンスにいたる哲学者や作家が論じられ、第4章においてはメルロ=ポンティ、ドゥルーズ、ジャンケレヴィッチそしてデュシャンという20世紀の思想家や作家について言及される。岡田によれば彼らが提起する議論はいずれも半透明の美学と深く関連しており、従来の芸術観を乗り越える可能性を宿している。アリストテレスやアヴェロエスといった古典的な哲学者についいて私は全く無知であり、正直に言って第2章に関してはほとんど理解できない。おそらく多くの読者にとっても読み解くことは難しいのではなかろうか。「半透明」という問題系を歴史的に遡行する岡田の意図は理解できるが、それは視覚的な問題と関わっているはずであるから、聖書やダンテの著作と関連づけて論じられても判然としない印象を受けるのである。第4章においては半透明が今述べた四人、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、ジャンケレヴィッチ、デュシャンという(ジャンケレヴィッチを除いて)比較的知られた思想家と作家によって提起された「肉」、「クリスタル-イメージ」、「何だかわからないもの」、「極薄(アンフラマンス)」という四つの概念と結びつけられて論じられる。ここでもセザンヌの絵画やネオ・レアリズモの映画と関連づけて論じられるメルロ=ポンティやドゥルーズについての記述は比較的わかりやすいが、ジャンケレヴィッチとデュシャンにおける半透明性の主張はやや強引に感じられる。「半透明」という主題に即しながらもドゥルーズのベーコン論ではなく「シネマ」への思いがけない跳躍、あるいはジャンケレヴィッチに関してこれもまた思いがけない『失われた時を求めて』中の《デルフトの眺望》の挿話への言及など、話題としては個人的にさらに深めたい問題もあるのだが、この章をとおして必ずしも岡田のいう「半透明の星座(コンステレーション)」が明らかになったようには感じられないのだ。
 本書の読みどころは「半透明のイコノグラフィー」と題された第3章であろう。ここで岡田は灰色、埃、ヴェールという三つの概念を手がかりに具体的な作品をとおして「半透明」という概念の射程を検討する。ゲルハルト・リヒターに始まり、パウル・クレー、フランシス・ベーコン、ジャコメッティからモランディ、そしてデュシャンの作品が俎上に上げられる一方で、ドラクロア、スーラ、コレッジョからレオナルドといった画家の作品も参照される。ディディ=ユベルマンがいう「アナクロニズム」を例証するかのように時代も表現も異なる作家たちが一つの主題のもとに次々に召還される議論は刺激的である。古典的絵画の範例としての透明な絵画とも、モダニズム絵画の理念である不透明の絵画とも異なった不透明な絵画の系譜はきわめて独特である。例えばリヒター、ベーコン、モランディの三人の名を挙げてみるがよい、いずれも全く共通点がなく、一筋縄ではいかぬ作家たちでありながら、20世紀絵画の本質を体現しているとはいえないか。
 半透明という問題に関して、本書においてはアリストテレスからデュシャンまで、体系的な記述が試みられているが、私の感想としてはむしろ思想家、作家に即して個別に検討した方が問題の輪郭が明らかとなったのではなかろうか。ここで示唆された問題から私はいくつもの関連する具体的な作品を連想することができる。例えば文中でも言及があるとおり、ゲルハルト・リヒターの場合、半透明という主題に連なる一連のグレイ・ペインティング以上に興味深い作例として巨大な鏡のごとき表面をもった絵画が存在する。DIAビーコンで見る者の姿を鈍く反映するこれらの作品の前に立ち、私は非常な衝撃を覚えた。鏡とも物質ともつかないこのような表面は少なくとも絵画のそれとしては類例がない。いうまでもなくそこには鏡像の問題も介入する。あるいはポロックのポアリング絵画についてそれがイメージを誇示/隠匿することによって成立すると考えるならば(この理解の妥当性については大いに議論の余地があるにせよ)、ここにも半透明という概念を適用することができないだろうか。この時、半透明性は痕跡性と深く結びつくはずである。あるいは半透明性とは文字通りモーリス・ルイスのヴェイル絵画とも親和的な概念であり、ルイスの絵画の「視覚性」「平面性」に疑問を投げかける。ここで鏡像や痕跡という言葉を用いたことには意味がある。本書の中で同じ著者による、本書と対をなす『絵画の根源へ―影・痕跡・鏡像』という研究が近く上梓されることが予告されている。半透明という問題は聖書から映画まで射程が広いが、むしろ対象を限定した方が深い分析が可能となるはずだ。そしておそらくそれは絵画という場において最も多産な概念ではないだろうか。タイトルにある影、痕跡、鏡像はこれまでの岡田の著作の中で何度も論じられてきた主題であり、予告される新著が大いに期待されるゆえんである。そしてその前哨という意味において、さらに内容の深さにおいて本書もまた繰り返して読むに値する。

27/01/11追記
本文中で言及のある『アンフォルム』の翻訳はごく最近刊行され、私も本日入手した。この画期的な「事典」についてはこのブログで近くレビューすることとなるだろう。
by gravity97 | 2011-01-20 22:15 | 批評理論 | Comments(0)
 『失われた時を求めて』については既に何度かこのブログでも触れた。この大著の翻訳をめぐって、昨年いくつかの動きがあった。11月に吉川一義の新訳による岩波文庫版全14巻の刊行が開始され、それより少し早く光文社古典新訳文庫からも高遠弘美の手で全巻訳し下ろしの初巻が刊行された。この機会に再読したいとも考えているのだが、いずれの翻訳も全巻完結までにしばらくの時間が必要とされるだろうし、読み始めたら最後、ほかの本が読めなくなってしまうことも懸念され、新訳を手に取るにはいたっていない。やはり留学か長い海外出張の折に携えるのがよいかもしれない。代わりにプルーストを読む楽しみを語った格調高いエッセーを読む。
 この大長編については私なりに思うところも多いが、もちろんフランス語で味読する能力はないし、小説のテーマについて論じようにもあまりにも長大かつ豊饒な内容であるため、整理することが難しい。この時、フランス文学の碩学にして実際にプルーストの翻訳者でもある筆者が語る読書の喜びはまことに適切な導きであるように感じられる。例えば「水中花のように」と題された第二章で筆者は有名なプチ・マドレーヌの挿話に即しながら、そこでフランス語における時制が巧みに使い分けられ、具体的には過去形と現在形を混在させつつその緩衝として不定法動詞を配すといった巧みな構文によって情景が生き生きと浮かび上がるさまが説得的に説明される。翻訳では必ずしも判然としない原語のニュアンスについて私たちは多くを知ることができる。もちろん作品に即して文法を学ぶことが目的ではなく、この豊かな小説が周到な形式的配慮の上にも成り立っていることを私たちはあらためて了解するのである。
 『失われた時を求めて』同様、本書も読みどころが多い。例えば吉田秀和に捧げられた第三章ではこの小説の中で音楽という主題がいかに描出されているか、実に丹念に論じられている。もちろん筆者も論じるとおり、音楽という、本来的に言語化することが困難な対象をプルーストがこの小説の中で精彩に富んだ言葉を用いて表象していることもみごとなのであるが、この長い小説の随所に現れる音楽のモティーフがいかに登場人物の内面と関わっているかを論じる保苅の分析も素晴らしい。保苅の文章をとおしてヴェルデュラン夫人の夜会で聞いたソナタの一楽節は登場人物の一人、スワンにとって愛人オデットとの官能的な記憶、そして恋の苦しみと深く結びついていること、音楽的記憶が浮かび上がるのだ。確かに私たちも偶然聞いた音楽によって様々な感情がよみがえる体験を味わうことがある。記憶の回帰を一つの主題とするこの小説の中でプルーストはプチ・マドレーヌやヴェネツィアの舗石を契機として、このような回帰について幾度となく語る。長い小説を読み継ぐ中では往々にして読み過ごしてしまうこのような挿話相互の照応を筆者は音楽という主題に関してもみごとに探り当て、流麗な訳文とともに私たちに説明してくれる。
 以前このブログに記したとおり、ノルマンディーの海辺の町、バルベックに逗留する主人公のもとに、後の物語で主人公と恋仲になるアルベルチーヌという娘を含む「花咲く乙女たち」が姿を現すシーンは私にとってこの小説の中でも最も印象深いシーンである。「海と娘と薔薇の茂み」という章でこの情景に関する詳しい分析があることも嬉しい。私はこの情景がかくも強い喚起力を帯びていると感じるのは単に個人的な感慨かとも思っていたが、本書を読むとこの場面の表現がきわめて入念に構想されており、小説全体のテーマとも深く関わっていることが理解される。これほど長い小説であるにも関わらず、細部が全体のテーマと密接に照応し、しかも細部の表現がよく考え抜かれているのである。保苅が示す一例を引こう。「花咲く乙女たち」が最初に登場する際に、彼女たちの一団をプルーストはまずロングショットでとらえ、風景の中の「斑点」と記述する。この箇所から原著で30頁ほど進んだ箇所でプルーストは彼女たちの少女時代に思いを馳せ、同じ「斑点」という言葉を用いている。もちろんこのような言葉の一致は意識的であり、この二つの言葉の間には時の経過にともなう移ろいと同一性が暗示されているのである。さすがにここまで精緻な読解は保苅ほどのプルースト読みでなければできないだろうが、本書ではいたるところでこのような仕掛けや構想の妙がきわめて具体的に解き明かされるのだ。同じ著者には『プルースト・印象と隠喩』という研究があるが、この著作が学究的なプルースト研究としてやや硬い印象を与えたのに対して、本書ではタイトルのとおり、読書の喜びというテーマに沿って筆者も肩の力を抜き、しかしながら驚くべき観察力と綿密さでプルーストの大著を読み解いている。
 汽車や電話といったテーマを扱った章もプルーストの現代性を考えるうえで非常に興味深く感じられたが、本書の圧巻はやはり「死の舞踏」と題された最終章、『失われた時を求めて』においてもクライマックスであるゲルマント大公夫妻の邸宅におけるマチネを扱った章であろう。知られているとおり、この場面はこの長大な物語の最後に位置し、登場した人物たちが次々に集まってくる極めて印象的な箇所である。(余談であるが、私はこの箇所からいつもクロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」の終幕を連想してしまう)それまでの物語の中でそれぞれに強い印象を与えた登場人物たちは皆一様に同じ相を刻まれている。それは老いである。時を主題とした小説にとって必然であろうか、彼らの多くは老残あるいは落魄という言葉がふさわしい。ゲルマント公爵、シャルリュス男爵。かつて権勢を誇った人物の現在は無残である。しかし老いとは万人にとって避けることができない。物語の語り手たる主人公もこの場で自分の老いを自覚したこと、老いという概念の抽象性について筆者は語る。老いの先にあるのが死であることはいうまでもない。しかしプルーストは最後の場面に死に抗する二つの希望を置く。一つはジルベルトとサン・ルーの娘、サン・ルー嬢である。うかつな話であるが、本書を読んで彼女がジルベルトの属すメゼグリーズ、サン・ルーの流れを汲むゲルマントという二つの流れの合一を体現する象徴的な存在であることに私は初めて気づいた。老醜無残な面々の中に唯一人香り立つような美しい娘の存在は確かに一つの希望である。富と名誉の結節点に位置するサン・ルー嬢はやがて名もない文学者を夫としてつつましい生活を送ることになる。ここには死に抗するもう一つの希望が暗示されている。それはいうまでもなく芸術である。フェルメールの絵の前で絶命するベルゴットの挿話を引きながら保苅は死に対抗する営みとして、プルーストが芸術を措定していることを示唆する。このような対照を念頭に置く時、私はこの長大な小説が本質において芸術家小説でありエルスチール、ヴァントゥイユそしてベルゴットといった登場人物を介して、美術が、音楽が、そして文学の本質が幾度となく物語の俎上に上げられることの意味をよりよく了解することができた。
 本書は文字どおり全編本を読むことの喜びに満ちている。幾度となく語られる(プルーストに限定されない)読書体験の楽しさは読書が好きな者にとっては誰しも共感される内容であろう。本書を通読するならば、もう一度最初から『失われた時を求めて』の頁を繰りたいという誘惑には抗しがたいものがある。思わずかつて読んだ巻を書架から取り出してみた。読み始めた日と読み終えた日を書き入れた覚えがある。読み始めたのは2004年1月17日、ほぼ7年前、厳寒のニューヨークであった。b0138838_20583133.jpg
by gravity97 | 2011-01-14 21:01 | 海外文学 | Comments(1)

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ただひとり、私はグランド・ホテルのまえにぽつんと立ちつくして、ふたたび祖母のところに戻ってゆく時間の来るのを待った、とそのとき、浜の堤防のまだほとんどはずれのあたりに、奇妙な一つの斑点が動くように見えて、五、六人の小娘たちがこちらに進んで来るのを私は見たが、バルベックで見なれているどんな人たちとも違ったその様子、そのかたちは、あたかも、一群のかもめが、どこらかともなく上陸して、渚の上を―遅れたものは飛びながらまえのものに追いついたりして―歩調を合わせながらさまよっているかのようであり、ただそれが何のためにさまよっているのか、鳥の精のような娘たちにはその目的がはっきりしてるのであろうけれど、彼女たちの目にもうつらない海水浴客たちにはいっこうに不可解に見えた。
by gravity97 | 2011-01-04 21:00 | PASSAGE | Comments(0)

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by gravity97 | 2011-01-03 11:22 | MY FAVORITE | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック