CHINATI The Vision of Donald Judd

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 パリ、テキサスではなくマルファ、テキサス。テキサス州マルファはミニマル・アートを代表する作家の一人、ドナルド・ジャッドがその晩年に精力を傾けて設立したチナティ・ファウンデーションが所在する地として知られている。「ドナルド・ジャッドのヴィジョン」という副題が付された本書はジャッドが生涯にわたって追求した自らの作品にとって理想の場所、チナティ・ファウンデーションの全貌を紹介する内容である。やや内輪話めいた解説を加えるならば、ジャッドの没後、長くファウンデーションのディレクターを務めたマリアナ・ストックブラントは今年ディレクターの地位を退く。メインにストックブラントのテクストを据え、ファウンデーションの活動の記録を網羅した本書は彼女のマルファでの最後の仕事といえるかもしれない。ストックブラントのテクストはジャッドが建物を購入して最初に作品を設置したニューヨーク、ソーホーのスプリング・ストリートのビルから説き起こし、いかにしてジャッドがマルファに自らの作品の展示施設を設置していったか、さらにはDIAファウンデーションとの協力と訣別といったチナティ・ファウンデーションの歴史を丁寧に論じている。続いてジャッドの作品が恒久展示してある二つのカマボコ型の元兵舎の外観や展示の様子、野外に設置してあるコンクリート・ピース、次いでリチャード・ロングやデヴィッド・ラヴァノビッチ、ダン・フレイヴィンといったジャッドお気に入りの作家たちの作品の展示風景が紹介され、ヴィジュアル面も充実している。さらにリチャード・シフやニコラス・セロータら、ジャッドの関係の深かった研究者や批評家の論考が収録され、巻末にはコレクションやこれまでの活動についての詳細な資料が掲載されている。アーティスト・イン・レジデンスの継続的な実施や下に示すレヴェルの高いニュースレターの発行など、チナティ・ファウンデーションがストックブラントのディレクションの下に充実した活動を続けてきたことが理解される内容である。
 私事となるが、私は15年ほど前にマルファを訪れたことがある。エル・パソから陸路を半日ほどかけて到着した街の印象は強烈で、本書の頁を繰りながら展示施設のみならず街の風景の写真も懐かしく感じられた。私が訪ねた頃、ジャッドは既に没していたが、ストックブラントがディレクターを務めており、私たち一行は展示に用いられている施設の一角でろうそくの灯りの下、ストックブラントが自ら調理したステーキの歓待を受けた。私にとって生涯忘れることのできない一夜である。本書に収められた図版の中には私が訪問した後に整備された施設も多いが、今述べたディナーの会場となった広々としたアリーナ、あるいはジャッドが執筆に疲れると横になった長椅子といった今なお懐かしく感じられる情景も収められている。それほど長い滞在ではなく、私は一度しかマルファを訪れたことがないためであろうか、私には本書で紹介されている場所が一種のユートピア、現実ではない場所のようにさえ感じられる。果たしてこのような感慨が一旅行者の感傷にすぎないかという判断は難しい。それというのもニューヨークで活動したジャッドが晩年にマルファ、テキサスで試みたのは明らかに現代美術のユートピアを実現することであったからだ。
 本書を一覧してあらためて強く感じることは作品に関するジャッドの思いの強さ、そして商業主義に対する一貫した批判の姿勢である。ジャッドがこの施設を設立しようと決意したきっかけが1968年に開催されたホイットニー美術館における個展への不満であったことはよく知られている。「ニューヨーク(スプリング・ストリートのビルのこと)とマルファでの作品のインスタレーションは他の場所におけるインスタレーションにとって規範となるものである。私の作品はしばしばひどい仕方で展示され、展示期間も決まって短い。だからどこかに適切かつ恒久的に作品を設置する場が必要だったのである。このことは美術館がその使命を果たすのに不十分だという事実をはっきりと示している」私は必ずしも美術館が否定されるべきだとは考えないが、ジャッドにとって自らの作品を最適の状態で設置することは決して譲ることができない条件であった。ひるがえって考えるに現在も世界各地の美術館にジャッドの作品が展示されているが、おそらくその大半は作家にとって見るに耐えない状況における展示となっているのではなかろうか。このようなジャッドの主張を作家の理想主義といって閑却するのはたやすい。しかしながらミニマル・アート屈指の理論家であり、決して妥協を許さぬジャッドという作家がそこまで作品の設置という問題に拘泥したことは、ミニマル・アートの本質と深く関わっているように思われる。つまり作品が設置された状況をその函数とするミニマル・アートにおいて、設置場所を変えることは作品の意味を変えることであるからだ。したがってミニマル・アートは不定の場所に不定の期間作品を設置する展覧会(正確には借用を前提とした「特別展」)とは相容れないのである。スペシフィック・オブジェクトならぬ作品のサイト・スペシフィックな特質は端的に「近代美術館」に対する批判であり、反モダニズムとしてのミニマル・アートの位置を明確に示している。さらにジャッドは次のようにも述べる。「私の作品そして私が手に入れた同時代の作家たちの作品は財産にされてはならない。それはただ単に芸術なのだ。そうしたあるべき姿で作品を保存したいというのが私の願いだ。作品は市場に出回らず、販売もされず、大衆の無知や間違った解釈にさらされることもない」あまりにナイーヴな発言であろうか。しかし私は美術に関する商業主義を全否定したこの発言を全面的に支持する。ジャッドの作品が高額で取引されていることを理由に批判することは可能かもしれない。しかし高額で売買されることは作品の質の結果であって質を証明するものではない。先に『美術手帖』の村上隆特集を批判した本ブログの記事に関して、作品の商業的成功が美術の「本質」や「歴史」を形成するのではないかというコメントをいただいたが、ひとまずこのジャッドの発言をもってコメントを寄せた方への返答としたい。本書には今引いた二つの発言が収録されている「自分の作品を守るために」を含めたいくつかのジャッドの論文が再録されている。(このうちいくつかのテクストは1999年に埼玉と大津で開催されたジャッド展のカタログに日本語訳が収録されている)今日の日本においてこそ味読されるべき文章ではなかろうか。
 最後におそらくほとんど知られていないマルファに関するエピソードを紹介しておこう。マルファという街の名前はこの地に鉄道が敷設された当時、ここを運行していた鉄道の機関士がその時に読んでいた小説の登場人物にちなんでいる。彼が呼んでいた小説はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であったという。先年、亀山郁夫の新訳でこの小説を読み返す機会があったので、この点に留意しながら読み返してみた。すぐに想起されないことから理解されるとおり主要人物ではない。父フョードル・カラマーゾフに使える実直な下男グリゴーリーの妻マルファこそが地名の由来であった。ドストエフスキー、テキサス、ジャッド。本来ならばどの二項も結びつくことがない取り合わせが微笑を誘う。
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by gravity97 | 2010-12-25 21:40 | 現代美術 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 101221

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by gravity97 | 2010-12-21 20:19 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

b0138838_23264126.jpg 小説を読むことの愉しみをこころゆくまで堪能させてくれる作家。私にとってポール・オースターはそのような作家である。このブログでも取り上げた前作『幻影の書』はテーマ的に重すぎて、必ずしもオースターの本領が発揮された印象を受けなかったが、ニューヨークを舞台とした本書は紛れもなくオースターの傑作である。マンハッタンに舞台を限定した物語は初期のニューヨーク三部作以来久しぶりではないか。オースターとマンハッタン、クリスマス休暇にはうってつけの読み物であろう。
 オースターの初期作品には「エレガントな前衛」というキャッチコピーが付されていたように記憶する。オラクル・ナイト、神託の夜。本書もまた愛と不信をめぐるきわめてエレガントな物語である。本書ではオースターが得意とする物語内物語という手法が効果的に用いられている。主人公、シドニー・オアは大病から復帰したばかりの小説家である。彼と妻グレース、二人の共通の友人であるジョン・トラウズの三人が主な登場人物であるが、オアが書く小説や映画のシノプシス、あるいはトラウズが若き日に書いた寓話的小説などが作品内にいわば垂直に挿入されることによって物語は厚みを帯びる。
 オアはリハビリテーションを兼ねた散歩の途中、新しく開店したムーン・パレスならぬペーパー・パレスという文房具店でポルトガル製の青いノートを買い求める。この行為によって物語が起動し、文房具店主チャンもまた入り組んだかたちで物語に関わることとなる。物語自体も入り組んでいる。オアは青いノートに退院後初めての小説を書き始める。オアの小説、編集者ニック・ボウエンをめぐる物語の中に登場し、ボウエンの運命を変えることとなる小説のタイトルもまた『オラクル・ナイト』である。『オラクル・ナイト』の作者シルヴィア・マックスウェルの子孫であり、ボウエンのもとに原稿を届けたローザ・レイトマンなる女性に一瞬にして魅惑されたボウエンは妻イーヴァを置き去りにして奇妙な失踪を遂げる。イーヴァの造形にグレースの面影が深く関与していることからも理解されるとおり、オアとグレース、ボウエンとイーヴァという二組の夫婦は小説の中でパラレルな関係にある。さらにオアがボビー・ハンターというハリウッドの映画監督に依頼されて執筆するH.G.ウエルズの『タイム・マシン』の翻案、ボウエンの物語の中に登場する『オラクル・ナイト』、そしてトラウズが自らの若書きとしてオアに手渡す「骨の帝国」という政治的寓話。この小説の中にはいくつもの別の小説が重層的に織り込まれ、物語の奥行きをかたちづくっている。興味深いことにオアの物語の中に挿入されるこれらの物語はいずれも完結することがない。『タイム・マシン』の翻案は最終的に採用されず、「骨の帝国」の原稿にいたっては満員電車の雑踏の中に置き去りにされる。ニック・ボウエンをめぐる「架空の」物語における名前の喪失あるいは監禁といった主題はオースターの「現実の」小説である『幽霊たち』や『偶然の音楽』を連想させるが、ボウエンの物語はきわめて印象的な場面で中断され、再開されることはない。個人的にはオアの物語以上にボウエンの物語の帰結を見届けたいようにさえ感じた。過剰とも思われる物語の錯綜は何を意味しているだろうか。私の考えではそれは語ることへの希望である。オースターの場合、作家が主人公という小説が多く、いずれも彼らが何かを書き始めることによって物語は幕を開ける。いうまでもなくオアもまたオースターによって書き留められた人物である。あなたが読んでいるポール・オースターという現実の作家の小説『オラクル・ナイト』の主人公オアは別の小説の主人公ボウエンを創造する。そしてボウエンもまた『オラクル・ナイト』という別の小説の読み手なのである。このようなチャイニーズ・ボックスの構造は次のような可能性を暗示するのではなかろうか。私たちはオースターという作家を現実の存在と考え、オアをオースターによって創造された人物とみなす。なぜならオースターとオアは審級が異なるからだ。(ちなみにオアとともに小説中の「架空の」登場人物であるトラウズ Trause の名はオースター Auster のアナグラムである)同様の比較はオアに対するボウエン、あるいはオアと彼が翻案した『タイム・マシン』中のジャックとジルという人物に対しても可能であろう。『オラクル・ナイト』の構造はこのような関係が無限に連鎖しうることを示唆している。この時、読者である私たちが最上の審級にあることは果たして保証されているのか。私たちもまた物語中の人物ではないのか。むろん全ての物語内物語にはこのような問いかけが内包されている。しかしオースターほど優雅にかかる存在論的な問いを投げかける作家を私は知らない。ひるがえって考えるならば、シドニー・オア、あるいはニック・ボウエンはそれぞれオースターとオアが小説を書くことによって初めて存在する。人は語ることによって存在し、語ることによって生きるのである、私が語ることを希望と呼ぶのはこのような理由による。語ることはいかにして可能か、この問いはモダニズムの文学において絶えず問われ、書簡体小説や意識の流れといった多様な技巧が編み出されてきた。「エレガントな前衛」という名のとおり、かかる問題意識を共有する点においてオースターはモダニズム文学の系譜に連なるとともに、この難問をみずみずしい物語の魅力によって軽々と超えてみせる。小説中に子供の溺死を扱った長編詩を発表し、その詩のとおりに自分の子供が海で溺死したことを嘆き、豊かな才能に封印するフランスの詩人のエピソードが登場する。ここで言葉は単に事物を指し示すだけではなく、出来事を起こす力としてとらえられている。言葉が現実を模倣するのではなく、現実が言葉を模倣するのだ。オースターの描くチャイニーズ・ボックス、物語の中の物語にとらえられた読者は、通常であれば一笑に付してしまうであろうかかる魔術的な言語観をなんら違和感なく受け入れるだろう。
 ところで注意深く読むならば2003年に発表された『オラクル・ナイト』に描かれた事件は具体的な年記を伴っている。物語が始まる日、オアがチャンの店に立ち寄る日は1982年9月18日と特定されている。この年、オースターによる最初の小説『孤独の発明』が発表されたことは偶然ではないはずだ。先に述べたとおり、オースターは注意深く主人公のオアではなく友人のトラウズに自分の分身としての役割を与えた。しかし明らかにオアこそがオースターの分身であり、本書は書くことをめぐるオースターの葛藤の記録と読めないこともない。最初に『オラクル・ナイト』は愛と不信をめぐるエレガントな物語であると述べたが、終盤に立て続けに悲劇的な事件が発生し、物語は一つのカタストロフを迎える。そして真実は明らかとされないまま、オアはそもそもの物語の発端である青いノートを破棄する。しかし物語の結末には静かな明るさが満ちているように感じられる。読み終えた時、私たちはオアが再び新しいノートに向かって小説を書き始めることを確信するだろう。そしてこの時、私たちは語ることへの希望をオア、そしてオースターと確かに共有するのである。
by gravity97 | 2010-12-15 23:27 | 海外文学 | Comments(0)

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 辻井喬/堤清二の自伝『叙情と闘争』に続き、「セゾン文化」に関連する書物をこのブログで取り上げるのは二度目となる。著者は永江朗。評論家として知られるが、本書を読むとかつてアール・ヴィヴァン(株式会社ニューアート西武)で働き、渋谷西武にあった洋書店カンカンポアの店長を務めたこともあるらしい。アール・ヴィヴァンやカンカンポアには私もよく通ったから、もしかしたら美術洋書に関して店頭で会話を交わしたことがあるかもしれない。アール・ヴィヴァンのみならず西武美術館や軽井沢の高輪現代美術館でのアルバイトの経験も語られており、「セゾン文化」全般に通暁し、本書の書き手としては適任であろう。単なる内幕暴露やセゾン礼賛ではなく、関係者と適度な距離を保ちながら、時に自分の見解を述べながら淡々と語る姿勢には好感がもてる。序章を除いて全7章から成る本書ではアール・ヴィヴァンにはじまり、リブロ、セゾン美術館、無印良品といった「セゾン文化」と深い関わりのある店やプロジェクトの責任者のインタビューをとおしてそれぞれの文化的、社会的な位置づけが問われる。永江の予想がインタビューの中で当事者によって次々に否定されていく様子はなかなかスリリングである。インタビューに基づいているとはいえ、その内容を逐語的に記録した内容ではないし、ほかにも多くの関係者から聞き取りしたことが語られており、通読すると「セゾン文化」をめぐるアトマスフィアのようなものが理解される。
 本書を通読して、おおよそ1980年代から90年代の初め、つまりバブルと呼ばれた時代に銀座や新宿ではなく池袋と渋谷という街に成立した一つの文化、「セゾン文化」がきわめて異例の事態であったことをあらためて痛感した。時代と場所は重要だ。私もバブル期を体験しているから、当時の空虚な高揚感なくして、あれほどまでに消費を礼賛するコピーが氾濫することはありえなかったことはたやすく了解されるし、池袋と渋谷という、人の行き来はあったとしてもそれまで文化と無縁であった土地だからこそかくも大胆な冒険が可能であったことも推測することができる。本書で言及されるいくつかの店やプロジェクトに関しては既に各種の総括がなされている。セゾン美術館については美術館自身が総括めいた記録を発行しているし、書店リブロに関しては(私自身は未読であるが)関係者による回顧がいくつか公刊されているらしい。しかし「セゾン文化」とは本質において美術館や書店、劇場といった個々のプロジェクトを超えた一つの気風であり、本書のような横断的な視野がなければかかる気風をとらえることは困難であったように感じられる。
 本書を読むと「セゾン文化」をめぐる当時のいくつかのキーワードが浮かび上がる。音楽でいえばアンビエントやミニマル・ミュージック、美術であればデュシャンやジョーンズ、高踏的ではあるが、いずれもかなり癖のある趣味や作家であり、「セゾン文化」という非人称の意志のそれなりの見識をうかがわせる。それを可能にしたのはそこに連なる多様な人脈であろう。例えばリブロでラテン・アメリカ文学のフェアを開いた際に、ブラジル文部省の伝手を頼って作家たちのポートレートを集めたはよいが、どの写真が誰かを確認しなかったために、写真にキャプションをつけることができない。困り果てた担当者を前にマルケスやカルペンティエールの顔写真を次々に同定した人物が、当時、日魯漁業でコンピュータ・プログラマーをして荒俣宏だったというエピソードはもはやシュルレアリスムのデペイズマンの世界だ。本書を読んで実に多くの人物、そして意外な人物がそこに連なっていたことを知った。
 私が個人的に興味をもったのは西武百貨店の文化事業部長であった紀国憲一に関する記述である。確か紀国は西武美術館の館長も務めていたように記憶する。紀国の経歴が興味深い。ニューヨーク駐在中に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」の初演に立ち会ったという紀国は小樽商科大学を卒業した後、大正海上、電通を経て、堤清二の誘いを受けて西武百貨店に入社し、西武美術館の立ち上げに参画した。以前から感じていたことであるが、西武美術館/セゾン美術館は次々に画期的な展覧会を開きながら、学芸員や関連スタッフにいわゆる美学美術史学系の専門家が少ない。もちろんいちはやくゲストキューレーターという制度を導入したこと、一連のロシア関係の展覧会がいわばトップダウンで決められたことからもわかるとおり、展覧会の企画にあたっては西武百貨店本社、さらにいえば堤清二の意向が強く働いたといった理由もあるだろうが、なんとなく素人集団という印象があった。私は否定的な意味でこの言葉を用いているのではない。美学や美術史に思い入れがないがゆえに逆に次々に斬新な企画を打ち出すことが可能となったのではないかと考えるのだ。紀国はインタビューの中で学芸的な志向の強い人は位置づけ、価値づけができたものしか取り上げないから保守的になる、そういう人は必要ないとはっきり言明している。直ちに首肯することはできないものの、きわめて明確な哲学のうえに美術館の方針が構想されていることが理解されるし、彼が当時、文化事業をポスト・モダンという視点からとらえていたことは「セゾン文化」の背景となったバブル期の日本という特殊な時代を考えるうえで示唆的である。今から考えるならば西武美術館/セゾン美術館の展覧会の独特のラインナップ、そして当時の美術界における独特の存在感には紀国や堤のごとき異業種の発想と手法が大きく与っていただろう。文化事業と経営を両立させることの不可能性、別の言い方をするならば「セゾン文化」の分裂的な本質については堤自身もインタビューの中で述べているが、少なくとも西武美術館/セゾン美術館は特殊な時代と特殊なリーダーを得て初めて可能であった現象であり、それゆえ、時代と指導者が変われば直ちに消滅する運命にあった。美術館が冬の時代を迎え、「学芸的な志向の強い」人々が次々に大学教員へと転身していく今日、それをバブルの徒花と見るか、美術館のユートピアとみなすかは判断の難しいところだ。
 本書は堤清二のインタビューに基づいた記事で締めくくられる。例によって多くの文化人との華やかな交流が語られ、消費者の選択肢を広げることがひいては日本人の自立を促すという堤の信念が語られる部分は本書の中で最も鮮烈な印象を与える。一つの企業が文化を戦略として捉え、曲がりなりにも一つの文化を創造したことは日本においてもきわめて異例の状況であった。しかし同時に堤の発言には文化に対する希望というよりはペシミズム、より正確には深いニヒリズムが漂っているように感じられたのは私の思い過ごしであろうか。
by gravity97 | 2010-12-05 20:42 | ノンフィクション | Comments(0)

Celebrate the Season

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by gravity97 | 2010-12-01 20:42 | MY FAVORITE | Comments(0)