<   2010年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

村上龍『歌うクジラ』

b0138838_23144676.jpg
村上春樹の『1Q84』に対抗するかのように村上龍が書いたもう一つの『1984年』、それが『歌うクジラ』だ。きわめて野心的な問題作であり、その内実を検討するためには内容にかなり立ち入って論じなければならない。
読者は冒頭から物語の中に強引に連れ込まれる。そこは性犯罪者や不法移民、毒素を分泌するクチチュと呼ばれる突然変異者が収容された「新出島」と呼ばれる隔離地域であり、このような設定は直ちに『半島を出よ』の冒頭、川崎のホームレス居住区の情景を想起させる。ディストピア小説は村上龍が得意とするジャンルであり、『愛と幻想のファシズム』から『五分後の世界』にいたる作品の系譜を形作っている。この小説で主人公は私たちの生と地続きのディストピア、荒廃した22世紀の日本を旅する。読み進めば了解され、結末でも明らかにされるとおり、この作品の主題は移動である。冒頭で新出島からの脱出を試みた主人公は西日本を横断し、最後は地上から宇宙ステーションへと移動する。
このようなディストピアの由来はタイトルに暗示されている。2022年のクリスマス・イヴ、ハワイ、マウイ島近くの海底でグレゴリオ聖歌中の旋律を繰り返し歌うザトウクジラが発見された。このザトウクジラの皮膚組織や神経組織のDNAを研究する過程でSW(Singing Whale)遺伝子という、人を不老不死にする遺伝子とその副産物とも呼ぶべき人の老化を急激に早める遺伝子が開発された。この発見によって人類の平等という原則が崩れ去る。ノーベル賞受賞者や宇宙飛行士はSW遺伝子を注入され永遠の生に恵まれ、殺人犯や性犯罪者は逆の処置が施されて老化を促される。このような分類を許容する社会は、差別が、階級性が公認された社会である。それから100年が経過した後、世界は「老人施設」と呼ばれる施設で安逸な生を送る少数の富裕層と彼らから遮断され、劣悪な環境で暮らす大多数の人々に二分される。後者は監視ロボットの制圧のもとに無機的な集合住宅に住み、パンと見世物よろしく、棒食と呼ばれる規格食品をあてがわれ、ガスケットという残酷なスポーツに熱狂する。集合住宅の周囲にはさらに犯罪者、移民、異常者らによって構成されたスラムが広がっている。これらの人々の間には全く交通がない。この時、移動が小説の主題となる理由も明らかであろう。老化遺伝子を注入される刑に処せられた父親の遺言に従って、主人公の少年、タナカアキラはヨシマツなる「老人施設」の権力者のもとへと向かう。アキラの移動は空間における水平的なそれであると同時に、階級社会における垂直的な移動でもあり、かかる移動を介して通常では交差することのない社会や階層、思想が攪拌されていくのだ。村上龍は22世紀の『神曲』や『夜の果てへの旅』を書きたかったと述べている。犯罪者の隔離施設に始まり、人種や文化の坩堝と化した奇怪な歓楽街、ホームレスたちが蝟集する羊バスと呼ばれる貧民街、もはや人間の形状をなさない高齢者たちが収容された悪夢のような施設、そして宇宙ステーションへといたる主人公の道行は確かに一種の地獄巡りであり、村上らしい緊張感のある文体と炸裂するイマジネーションは読む者をとらえて離さない。むろんこれは一つのフィクションである。しかし例えば日本でも小泉純一郎が唱えた「改革」が一定の支持を得た後、成果主義の名のもとに今も階級や差別の固定化が進行していることを想起するならば、本書は現実との接点を失っていない。
 この小説がきわめて刺激的である理由は内容以上に形式、端的にその文体に求められる。『歌うクジラ』とは実は言語を主題にした小説である。括弧を用いず、会話を全て地の文の中に入れた独特の文体はこのブログでも何度か取り上げたコーマック・マッカーシーなどとも共通し、語りにおいて状況と会話が区別されず、文章に対する集中を絶えず読む者に要求する。主人公の移動を可能としたのは父親のデータベースを介して習得した敬語を話す能力であった。なぜなら2050年代に始まった文化経済効率化運動の中で禁止され、もはや使用されていない敬語が薬物の闇取引に際して必要であったからだ。管理社会を言語の使用の問題と関連させたこのようなエピソード、そして「文化経済効率化運動」という言葉から、ジョージ・オーウェルの『1984年』における「ニュースピーク」を連想しないでいることは難しい。「ニュースピーク」とはオーウェルが描く全体主義国家、オセアニアの中で使用される極度に単純化され、語義が制限された語法であったが、オーウェル同様、村上も社会の管理が言語の統制をとおしてなされることに意識的である。それゆえ本書において最も注目すべきは、助詞の変則的使用という表現の形式なのである。サブロウというクチチュの男とアンという娘とともに監視ロボットの群れから逃れた主人公はアンの仲間である反乱移民たちと行動をともにすることとなる。反乱移民の頭目であるヤガラは主人公に向かって最初に次のように語りかける。良い発音からイントネーションをほぼ完璧だろう。正しくは、良い発音とイントネーションはほぼ完璧だろう、であろう。日本語の場合、助詞の使用によって文意は大きく変わる。したがって移民の能力を判定するにあたって助詞の使用にどの程度習熟しているかが試された。これに対して反乱移民たちは反抗の意思表示として助詞を故意に崩した言葉を用いて会話することになったのである。助詞の変則は一つの意志表明であり、反乱移民との会話においては意味を了解するために読者は常に緊張をもって言葉に対峙することを強いられる。あるいは小説中の数箇所で主人公は、記憶映像を強制的に喚起するメモリアックという装置の影響下に置かれる。その際に主人公は言語を介して見知らぬ男から話しかけられる。ここでは映像と言語が奇妙に歪んだ関係を結ぶ。さらに物語の終幕近くで主人公は、一人の登場人物の人格が崩壊していく過程に立ち会うが、このような崩壊の兆候は言い間違いや言葉の無意味な繰り返しとしてもたらされる。巨大な食品モールにおける虫のようなロボットの襲撃、貧民街や医療施設のグロテスクな描写、あるいは歓楽街の食堂における虐殺の情景、村上は視覚的な印象の表現に長けた作家であり、その技巧は本小説においても遺憾なく発揮されている。しかし同時にこの小説においては言語を介すことによってのみ表象可能な緊張がみなぎっている。しかもそれは助詞の変則的使用や言い間違い、意味のない繰り返しといった言語そのものを解体する契機をとおしてかろうじて実現されているのである。このような超絶的な技法、言語実験の先例として私が想起できるのはシュルレアリスムの一群の作品とフィリップ・K・ディックの『火星のタイムスリップ』くらいである。
 新出島を脱出し、サブロウやアン、反乱移民たちとともに老人施設を目指す苦難の行程は息苦しいような閉塞感と強い緊張を秘めている。いつもながら移動や破壊、差別と暴力、身体の毀損や変態的なセックスを描く時、村上の表現は精彩に富む。惜しむらくはこの小説においてかかる緊張は最後にやや失速する。クライマックスにおける失調は村上の小説に時折認められる。『半島を出よ』の場合も、それまで圧倒的な緊張をもって語られていた物語が終盤にいたってハリウッド映画的な予定調和に回収されてしまったように感じたのは私だけだろうか。『歌うクジラ』の場合、かかる失速の理由を問うことはさほど難しくない。宇宙港、宇宙エレベーター、あるいは宇宙ステーション、これらのSF的な設定をめぐって私たちの想像力はキューブリックの「2001年宇宙の旅」以来さほどの進歩がない。最後のいくつかの章におけるロボットや宇宙船、宇宙ステーションの船室の装備や機能についての記述は平板に過ぎ、それまで用いられていた濃密で鋭利な言語と乖離した印象を与えるのだ。最後の部分における宇宙への場面転換は果たして必要であっただろうか。トラックから汎用車、飛行自動車から宇宙エレベーターへ、主人公の移動手段がインフレーションを続けたように、物語の枠組は空間的に拡張される。しかし派手な道具立てに頼らずとも、言語においてのみ可能な負荷を物語に与えることは可能なはずであり、外宇宙というSF的、特異な状況を描写する中で逆に小説の言語はそれまでの密度を失ったような気がする。
 例によってやや辛口の評となったが、本作品は村上龍の小説家としての膂力を十分に示す傑作である。何よりも物語の内容のみならず形式、つまり言語が解体されるぎりぎりの実験をとおして組織される全編にみなぎるテンション、私の知る限り、それは近来日本の作家において類例がない。
by gravity97 | 2010-11-16 23:15 | 日本文学 | Comments(0)
b0138838_20302565.jpg ナチスの絶滅収容所に関する論考は読むことも、それについて考えることも辛く、通読が容易でない。本書もずいぶん前、ほぼ刊行されたタイミングで求めていたのであるが、ようやく先日読み終えることができた。
 書名にあるアイヒマンとはアドルフ・アイヒマン、ナチス治下のドイツでユダヤ人を担当する部署の課長であり、具体的にはヨーロッパ各地から絶滅収容所へ、ユダヤ人を鉄道で輸送する計画を立案、実施した責任者である。戦後、アルゼンチンに逃亡したアイヒマンはイスラエルの秘密警察によって1960年に逮捕され、裁判の結果、絞首刑に処せられた。本書は二つのテクストから成立し、いずれもアイヒマンの息子であるクラウス・アイヒマンに宛てた公開書簡というかたちをとっている。発表された時期と経緯がいささか複雑だ。アンダースによれば最初の書簡は1962年に執筆されたが、発表されたのはその二年後である。二番目の手紙はさらに四半世紀ほど後、1988年に発表されている。本書には高橋哲哉による解説が添えられているが、訳者解説や解題が付されていないため、出版にいたる経緯がいまひとつはっきりしない。原書自体は2002年に発行されており、書簡が執筆された時期と発表の時期との時間差の理由がよくわからないのだ。しかし半世紀近い時を経て、今世紀に入ってこれらのテクストが刊行され、そして日本語に訳出された理由を推測することは困難ではない。
 アイヒマンの名前から直ちに連想されるのはハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』である。アーレントはアイヒマン裁判を傍聴し、「悪の凡庸さ」という概念を提起した。アーレントの最初の夫であったアンダースによる本書も当然ながらアーレントによる問題提起を共有している。アーレントがいう「悪の凡庸さ」とは、ユダヤ人の大量虐殺という残虐な戦争犯罪を遂行するにあたって、責任者であるアイヒマンが非人間性の自覚や悪に対する後ろめたさをほとんど感じることなく、官僚機構の一員として日常業務を処理する以上の思い入れもないままに人類史上例のない集団虐殺に手を染めた点である。むろんアイヒマン自身、大量の死体からから流れ出た血を見て気分が悪くなったと証言しており、自分が何をしているかを知らなかったことはありえないだろう。しかしいわば組織の歯車になることによって想像力を、罪悪感を摩滅させたことは大いにありうる。
 アイヒマンの息子に語りかけながら、もちろんアンダースはホロコーストという犯罪を個人の資質や感情に帰することなく、また父と子の葛藤といった問題に焦点化することもない。二つ目の公開書簡がいつ公開されたかは不明であるが、1988年という年記をもつこの手紙が執筆された動機として、当時、ドイツ国内で高まっていた歴史修正主義への反発があったことは容易に想像がつく。あるいは最初の手紙を公開した理由としてアンダースは父親の判決に対してクラウスが「ユダヤの金の勝利」とコメントしたと報道されたことを挙げている。いずれも一種の憤りが執筆の原因となっており、またアンダースがクラウスに対して「贖罪のチャンス」として反核運動への連帯を表明するように促していることもアンダースが70年代の反核運動の理論的指導者であったことを念頭に置くならば理解しやすい。しかし執筆の具体的な動機や背景を超えて、さらにはナチス・ドイツによるホロコーストという文脈さえも超えて、本書の内容は21世紀にこそ意味をもつし、読まれるべきであるように感じた。
 アイヒマンの論理にみられる非人間性にアンダースは「機械」という呼称を与える。機械という概念がドゥルーズ=ガタリによって『アンチ・オイディプス』の中で提起された「欲望する機械」とどの程度関係しているかは興味深い問題であるが、私の印象としてはおそらく偶然の一致ではなかろうか。アンダースは怪物的なものを生み出す根源として今日の世界の機械性を指摘する。機械の原理とは何か。アンダースによればそれは「最大限の成果を達成すること」である。このような機械が世界を征服したらどうなるか。ヒトラーの機械がドイツを余すところなく征服したことはその小規模な発現であった。ユダヤ人虐殺という悲劇を生み出した第三帝国の成立さえも、機械による支配の小規模な実現とみなすところにアンダースの思想の奥深さがある。その先には一体何があるか。アンダースは一つの逆転を提出する。機械の支配、「機械が世界になる」のではない。「世界が機械になる」のである。このような状態をアンダースは「世界機械」と呼ぶ。アンダースの言葉を引こう。「こういう理由から私たちはこう主張してもいっこうかまわないでしょう。機械となった世界はまさに至福の千年(ミレニアム)帝国であり、すべての機械が、最初からその到達を夢見ていたのです。そして今日、ここ数十年間でこのような発展がますます急速調(ママ)に入りはじめたので、本当に千年帝国は私たちの眼前に現れているのです」かかるペシミスティックな歴史観に私はマックス・ウェーバーの合理化論の反映が認められるように感じる。
 今日、私たちはこのような「世界機械」の別名を知っている。それは本書の帯に大書された「グローバリゼーションという『世界機械』が駆動する」という一句によっても明らかだ。最大限の成果を達成するシステム、アイヒマンが考案したユダヤ人を絶滅収容所へ鉄道移送するプランもそのようなものであり、ガス室を用いたユダヤ人問題の「最終解決」もそのようなものであったかもしれない。しかしそれらのシステムは幸運にも「世界機械」とはならなかった。当時はなおも国家という制度が複数存在し、ナチス・ドイツという「世界機械」はほかの「世界機械」によって打倒されたのである。然るに今日、私たちは国家を超えた「世界機械」がついに稼動し始めたという不気味な予感にとらえられている。20世紀末の共産主義国家の崩壊(それはスターリン主義というナチス・ドイツ以上に凄惨な「世界機械」の結末であったかもしれない)を経て私たちは冷戦の終結を迎えたはずであった。しかし実際には民族間、地域間の暴力的な闘争は止むことはなく、グローバリゼーションの名の下に国境を越えた収奪が続けられている。日本でも新自由主義あるいは成果主義といった名の下に「最大級の成果を達成すること」のみを是とした政治家や事業家の跳梁跋扈以来、私たちはなんとも息苦しい生を送っている。このような状況をネグリ/ハートは『帝国』の中でグローバル資本主義として定式化した。今や国家ともイデオロギーとも異なった非人称のなにものかが「最大級の成果を達成する」ことを原理に世界を征服し、コンピュータ技術の発達は私たちの行動や思考をかつてない精密さで監視し、束縛することを可能とした。「世界が機械になった世界」がもはや比喩ではなく現実として私たちの生を脅かしているという恐怖を感じるのは私だけであろうか。
 ナチス・ドイツの残虐について論じた書でありながら、私は最後まで私たちの生と別の時代、別の体制について書かれた本であるという印象を受けることがなかった。アンダースはかかる「世界の機械化」が完遂された世界においてはヒトラーの全体主義、第三帝国でさえ「田舎での試演会の舞台」としか見えなくなるだろうと予言した。私たちが生きている現在とはまさにそのような世界であり、この時、「われらはみな、アイヒマンの息子」(原題はWir Eichmannsöhne)というタイトルはなんとも暗示的ではないか。
by gravity97 | 2010-11-11 20:31 | 思想・社会 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 101101

b0138838_18341923.jpg

by gravity97 | 2010-11-02 18:34 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック