「マネとモダン・パリ」

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 遅ればせながら、三菱一号館美術館で「マネとモダン・パリ展」を見る。丸ノ内周辺の再開発の進展にも驚くが、リノヴェーションを経てその中核施設となったこの美術館の豪奢さには圧倒される。小部屋を連ねたかたちの展示空間は使いやすいとは思えないが、この展覧会のごとき小品を中心に構成された展示であれば空間によって作品が随分映える印象がある。それにしても空調の関係であろうか、それとも消防法との兼ね合いか、自動ドアが多いことには驚いた。予想したより来場者は少なかったが、ロケーション、展示内容のいずれを考えても今後も多くの集客が予想されるからメンテナンスが大変であろうなどとくだらぬ心配をしてしまう。
 開館記念展となる「マネとモダン・パリ」は期待に違わぬ充実した内容である。マネについて日本では過去にさほど大きな展覧会を見た印象がない。カタログの表紙となった《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》、あるいは《エミール・ゾラの肖像》といった名高い作品を含めて80点余のマネを見る機会は欧米の美術館でも多くはないだろう。とはいえ、極東の地で印象派屈指の画家にしてモダニズムの鼻祖たるマネの作品のみによって大展覧会を構成することは至難の業であり、「モダン・パリ」という第二のテーマが導入される。この美術館の館長で本展コミッショナーの高橋明也氏もカタログの巻頭テクストで説くとおり、マネは「多様」かつ「非一貫的」な作家である。《オランピア》から《草上の昼餐》、あるいは《フォリー・ベルジェールのバー》まで、代表作を想起してもさまざまなモティーフが入り乱れていることが理解されるが、都市生活あるいは近代の画家といったテーマは作品との親和性が高い。会場の劈頭に掲げられ、唐突な印象を与える無名の画家によるオスマン男爵の肖像もこの展覧会のもう一つのテーマがオスマニゼーション、オスマン男爵のパリ大改造によって出現した近代都市であることに想到すれば得心がいく。確かに娼婦や女給、カフェやブラッスリーといった都市的な主題は印象派の画家の中でも特にマネによって繰り返し描かれた印象が強い。同様の主題を描いたジェームズ・ティソ、ポール・ゴーギャンなどの作品も展示され、展示に一定の深みを与えている。それらは多くオルセー美術館のコレクションからの出品である。この展覧会はオルセー美術館との共同企画であるから特に不思議もないが、意地悪な見方をするならば、この展覧会からは既視感が拭えない。マネ、モダン、オルセー美術館、この三つ組みから連想される展覧会をかつて私は見た記憶がある。今回、書庫でカタログを確認してみるならばそれは1996年に東京で開かれ、「モデルニテ-パリ・近代の誕生」というサブタイトルを冠せられた「オルセー美術館展」である。マネの《バルコニー》をカタログの表紙に用いたこの展覧会と今回のマネ展は出品作がかなり重複し、写真や当時の建築のパースなどを多用する構成も共通している。何よりも本展の監修者は「オルセー美術館展」のコミッショナーとほぼ同一である。もっともこのような国際展は担当者の個人的な信頼関係がなければ成立しえないことも事実であるから、私たちは結果としてマネの優品の数々を東京で見ることの幸運を喜ぶべきなのであろうか。実際、これは得難い機会であり、私自身も今回の展覧会を機にいくつかの発見があった。
 これまでマネの作品をまとめて見る機会が少なかったこともあり、今回の展覧会では初めて見るいくつかの興味深い作例があった。中でもロンドンの個人蔵とされる《フォリー・ベルジュールのバーの習作》はコートールド研究所所蔵の有名な作品を制作する過程で制作されたものであろうが、作品の構造を考えるうえでも示唆的である。最終作においてはバーのカウンターの正面に立ち、鑑賞者に直接まなざしを向ける女性バーテンダーはこの作品においては斜めに視線を向け、見る者と視線を交差させることがない。背後の鏡面への映り込み、特にそこに写る男性との関係においてもむしろ自然なこのような構図が排され、鑑賞者を見つめかえす独特の構図が採用されたことは、マネにおいて描かれた人物とそれに眼差しを向ける鑑賞者との関係が主題とされている点を暗示している。マイケル・フリードは自らが説く没入と演劇性の対立の系譜の中にマネを置き、これらの絵画の特性を直面性(facing)と名指ししたが、ここに並べられたマネのごく一部の作品を見るだけでかかる構図の特異性とそれがマネにおいて検証されることの妥当性は了解される。
 この展覧会は「マネとモダン・パリ」というタイトルから予想されるとおり、マネに対して主題的なアプローチがなされている。しかし今回私があらためて感じたのは作品の形式と方法の斬新さであった。といっても特に新しい発見ではない。これまでも何度となく指摘されてきたことであるが、例えば今回のポスターやカタログで大きく扱われたベルト・モリゾの肖像でもよい、画面のここかしこに意図的に残された筆触の痕跡は女性の肖像という記号にとっては雑音でしかない。しかしこのような不協和が画面全体を引き締めている印象があるのだ。あるいは多くのマネの絵画においては画面の部分によって対象の描かれ方に明らかな粗密が認められる。精緻に写実的に描かれたモティーフの背景は突如不分明な筆触の戯れに転じる。マネが画面の連続性を意図的に破壊していることは明らかだ。これらの点は図版からもうかがえない訳ではないが、実際の作品を眼前にする時、きわめて明確に知覚される。当時のアカデミズム絵画のなめらかな表面の傍らに置く時、その異様さは明らかであっただろう。これらの特質は描かれた対象から、対象の描き方、そして対象を構成する物理的組成へと見る者の関心を転じさせる。内容から形式へ、マネがモダニズム美術の起源たる理由は明らかである。
 バーの女性バーテンダー、陽光あふれるレストランの中で見つめあう男女、これらのモティーフを描いたいくつもの絵画を見るならば、作品と都市生活の関係は顕在的であり、メトニミックである。今日につながる喧騒と享楽の大都市の成立に同期するかのような一連の絵画は時代の鏡といえるかもしれない。一方でアカデミズムのなめらかな表面の中に兆した転調、イメージの中の異和として浮かび上がる筆触そして絵具、これらの特異性の意味が了解されるのは例えばアングルの磨かれたような表面、例えばセザンヌの塗り残しとの対比においてであろう。この時、マネの絵画はその場に不在の作品と潜在的、メタフォリカルな関係を結ぶ。前者を主題性、後者を形式と言い換えてもよいだろう。マネにおいては鋭い緊張の中に拮抗している両者は他の印象派の画家においては比較的ゆるやかに結びつく。例えばモネにおいては無数の筆触が画面全体を均等に充填することによって、光の効果が途切れることのない一枚の表面として実現される。分割技法という手法がスーラら新印象派においてさらに革新され、光という主題と緊密な結合をみたことは知られているとおりである。これに対してさらに具体的、時に通俗的な主題を扱いながらもマネは主題に阿ることがない。時に主題と形式の分裂も恐れず、画面の中に現実の契機を意図的に露呈させたマネは後続する印象派よりもさらに現代的であった。

by gravity97 | 2010-06-16 20:54 | 展覧会 | Comments(0)

飛 浩隆『グラン・ヴァカンス』

 久しぶりに傑作と呼ぶに値するSFを読んだ。既に世評の高い作品であり、実は私はずいぶん以前に同じ作者の『象られた力』という短編集を読んで、それなりに感心もしたのだが、この短編集以後、約10年の沈黙を経て発表された本作は『象られた力』と比べても圧倒的に鮮烈な印象を与える。寡作とはいえ発表歴もあるから新人とはいえないだろうが、エンターテインメントの領域でこれほど独自かつ完成された文体をもった作家の登場は私の記憶する限り、京極夏彦以来である。もっともSFというジャンル分けはあまり意味がないように感じる。確かにAI(人工知能)というテーマに関しては多くの先例があり、日本でも神林長平の『あなたの魂に安らぎあれ』という傑作がある。リゾートという舞台からはJ.G.バラードの作品も想起されよう。しかし私がこの小説からまず最初に連想したのはポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』であり、谷崎や三島の小説であった。作家自身が語った「ここにあるのはもしかしたら古いSFである。ただ、清新であること、残酷であること、美しくあることだけは心がけたつもりだ」という言葉は小説の本質を衝いている。この小説を形容するには「美しく、かつ残虐」という言葉がまことにふさわしい。
 まずは設定が秀逸だ。舞台は「数値海岸」(コスタ・デル・ヌメロ)と呼ばれる会員制の仮想リゾート。南欧の港町を模した「夏の区界」で生活するAIたちは、本来であればそこにログ・インするゲストたち、すなわち現実の人間に奉仕するために存在していたのであるが、大途絶(グランド・ダウン)を境に1000年の間、ゲストたちはそこを訪れることがなく、AIたちは永遠の夏の午後を過ごしていた。なんと喚起的な設定であろう。永遠の夏の午後という言葉からは《デルフトの眺望》を評したプルーストの言葉が連想されるし、主の不在というテーマからはジョナサン・スウィフトに触発された寺山修司の《奴婢訓》も想起される。永遠の夏を謳歌していたAIたちの前に突然破局が訪れる。謎の力をもつランゴーニというAIが蜘蛛と呼ばれるプログラムを操って「夏の区界」を侵食し、崩壊させ始めたのである。ジュール、ジュリー、アンナ、ジョゼといった西欧風の名前をもつAIたちは「鉱泉ホテル」というホテルを砦として文字通り絶望的な戦いに身を投じる。このようにおおまかなストーリーを記しても小説の魅力が減じることはない。むしろこのようなかなり特異な設定を知っておいた方が違和感なく「夏の区界」のカタストロフに没入できるかもしれない。
 サイバーパンク以後のSFにとってはサイバースペースという仮想空間にどの程度のリアリティを賦与することができるかという点が大きな課題であったと思われる。「マトリックス」のような映像であればともかく、小説を介してこのような世界観に接する時、多くの場合、現実そして身体への参照を欠いた物語はきわめて抽象的な印象を与え、実感することが困難に感じられた。しかしこの小説では人間と仮想空間を媒介するAIに焦点化することによって、読者は登場人物たちに感情移入といってよいほど深い共感を覚える。さて、私は読書という行為と仮想空間への接続、つまりログ・インを一つのアナロジーとしてとらえることができるのではないかと考える。書物の頁を開くように私たちはPCにパスワードを入力して、その内部へと誘われる。私たちはしばしばサイバースペースの登場人物が実際には実体をもたないことに不審の念を覚えるが、それは小説の登場人物が身体をもたないことを考えるならばなんら不思議はない。「数値海岸」のAIたちがゲストの訪問を待ち受けるように、小説の登場人物は読者を待ち受けている。このアナロジーは次のように展開可能だ。すなわちAIと彼らに歓待されるゲストたちの関係は、『グラン・ヴァカンス』という小説とそれを読む読者、つまり私たちの関係と構造的に同一と考えられないか。ゲストを欠いた「数値海岸」におけるAIたちの挙動、すなわちこの小説の内容は、直ちに閉じられた書物の中で登場人物がどのようにふるまっているかを夢想することに等しい。そしてゲストと読者の同一化はこの小説の深いたくらみと関わっている。
 先に「美しく、かつ残虐」と記した。ランゴーニの登場とともにAIたちは次々に残酷に処理され、「夏の区界」は崩壊していく。要塞化された「鉱泉ホテル」で硝視体という特殊なガジェットを用いて蜘蛛に対抗する盲目の織姫イヴ、三つ子の三姉妹アナ、ドナ、ルナ。男勝りの船乗りアンヌ、魅力的な登場人物たちも圧倒的な力を持つランゴーニの手によって弄ばれ、耐え難い苦痛の中で解体されていく。仮想世界の中のAIは実体的な身体をもたないはずである。しかし小説の中に濃厚にみなぎる官能性はAIたちが味わう痛苦と快楽を直接読者に喚起する。『象られた力』を読んだ際にも印象づけられた点であるが、飛の小説においては例えば音や香り、味わいといった五感に関連したきわめてヴィヴィッドな記述が強い印象を与える。『グラン・ヴァカンス』においてかかる五感の広がりは圧倒的な広がりをみせる。五感の甘美と苦痛。とりわけセックスの快楽と死の苦痛がこの小説の中では文字通り深く融合し、それゆえ『O嬢の物語』や『憂国』、『刺青』といった作品が連想されたのである。しかし実はこの快楽と苦痛の混交はランゴーニの登場によって始まった訳ではない。かつてゲストたちのAIに対する加虐的、変態的な行為が、「数値海岸」のAIたちの無意識の中に投影されていることが暗示され、物語の冒頭近くで語られるb0138838_7342953.jpg、マンディアルグに触発された残酷なエピソードがそれを象徴している。このエピソードが実はこの物語を説く鍵であることが最後に明らかにされるが、サディズム、マゾヒズムをはじめ、近親姦、同性愛といった倒錯的な性愛が物語の随所で実に巧みに暗示される。先に述べたとおり、説話的次元で読者はゲストたちと同じ審級に立つことによってこれらの背徳的な行為に加担することを強いられるのであるが、このような暗示と同一化はきわめて巧妙になされるために、読者は物語をかなり深読みしなければこのようなセンセーションを味わうことはないだろう。この意味で『グラン・ヴァカンス』は読者を試す小説といえるかもしれない。
 物語の中でさらに大きな謎が開示される。ランゴーニがAIたちを苦痛とともに解体する理由は「天使」と名指しされる存在に対抗するためであると明言される。「天使」とは何か。そもそもランゴーニとは何者か。大途絶とはなにゆえもたらされたか。一つだけでも小説の主題となりうるような魅惑的な謎がいくつも置き去りにされてこの物語は閉じられる。『グラン・ヴァカンス』は最終的に三つの長編といくつかの短編によって構成される「廃園の天使」というシリーズの最初の巻であるという。この妖しくも魅惑的な世界が最終的にいかなるかたちで完結するか。寡作の作家であるから、その完結はしばらく先となろう。ひとまず先般文庫化された同じシリーズの短編集『ラギッド・ガール』を読んだうえでその行く末に思いを馳せたい。

by gravity97 | 2010-06-01 07:37 | エンターテインメント | Comments(0)