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by gravity97 | 2010-05-23 08:43 | BOOKSHELF | Comments(0)

村上春樹『1Q84』BOOK3

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 一年ほど前、このブログに刊行まもない『1Q84』のレヴューを書いた折には「完結性が高いので続編が執筆されるとは考えにくい」と記したが、しばらくして続編が執筆されていることが明らかとなり、先日、BOOK 3が刊行の運びとなった。一篇の小説を二度批評することは変な感じもするが、それに値する小説ではある。最初に二巻まで発表され、時間をおいて三巻が刊行されるという経緯は『ねじまき鳥クロニクル』と同様である。新作を読むにあたり最初からもう一度通読したため、やや遅れての書評となった。
 ここではBOOK2までを既に読了した読者を想定したうえで、これから読む読者の感興を殺がぬ程度に内容に立ち入って論じたい。といっても最初に目次に目を通すならば、物語の帰趨は明らかだ。前回も書いたとおり、『1Q84』は形式性がきわめて高い。BOOK1とBOOK2ではいずれも、青豆と天吾という二人の主人公をめぐって拮抗する物語が交互に語られる。二つの物語は次第に接近するのであるが、最後まで交差することはない。この点は目次からも明らかだ。いずれの章もタイトルに二人の名前のいずれかが表記され、それぞれ12章ずつ、分量的にも均等である。この形式は長調、短調それぞれ12曲で構成され、作中でも言及されるバッハの平均律クラヴィーアと対応しているかのようだ。グレン・グールドの演奏によって名高いこの楽曲集が1巻と2巻から成立しているという事情も私が『1Q84』はBOOK2をもって完結と考えた理由であった。これに対してBOOK3は全31章で構成され、青豆と天吾に加えてもう一人の人物の名前が章のタイトルに冠せられる。新たに加わるのは、「空気さなぎ」の発表後に天吾のもとを訪れ、恫喝とも買収ともつかない申し出を行う奇妙な風体の男、牛河である。ちなみに村上春樹の小説にはいくつかの小説に同じ名前をもった人物が登場するが、牛河は『ねじまき鳥クロニクル』にもほぼ同じ役回りとして登場していた。BOOK3でも牛河、青豆、天吾の章が順序よく整然と配置された後、「青豆と天吾」と題された最終章が配される。既にこの時点で作品の内容がほぼ予想されるし、実際にこの予想が裏切られることはない。しかしたとえ結末が予想されたとしても本書を読む楽しみは損なわれないだろう。
 BOOK2の最終部で1Q84年が閉ざされ、そこからの脱出が不可能であることを知った青豆は拳銃を口にくわえる。この場面で青豆の章が終えられたため、私たちは青豆の死と天吾との再会が果たされずに物語が終わった印象を受けたのであるが、正確には「引き金にあてた指に力を入れた」という記述に留まっている。今回再読してみると、BOOK2からBOOK3への移行はきわめて滑らかであり、自殺を思い止まった青豆はごく自然に物語に復帰する。実は青豆の翻意はBOOK2の最後の章、父親が入院する療養所を訪れた天吾の不思議な体験と密接に関わっており、この物語の緻密な構成の一角を占めている。再開された物語の展開は比較的容易に予想される。青豆と天吾はいつ、どの世界で再会することとなるか。読者の興味はこの点に向けられ、いくつかの新たなエピソードを加えながら、物語は再会の時に向けてゆるやかに動き始める。その過程でBOOK3に持ち越された謎のいくつかについては一応の解決が与えられる。前回のレヴューで私はこの小説において村上の作品の中でも「言葉が最も念入りに彫琢されている印象」について論じた。この印象は今回も変わることがない。世評も高く、大ベストセラーとなったBOOK1、BOOK2同様に、構成そして表現いずれにおいてもきわめて綿密に練られた印象があり、物語はみごとに完結する。
 しかしかかる完結性は果たしてこの小説にとって望ましいものであっただろうか。かつて蓮實重彦は『小説から遠く離れて』という興味深い小説論の中で、当時発表された、作者も内容も全くことなるいくつかの小説が実は同じ構造をもっていることを指摘したことがある。その際に引用されたのは例えば村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、井上ひさしの『吉里吉里人』、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』、さらに中上健次の『枯木灘』、そして村上春樹の『羊をめぐる冒険』であった。私はBOOK3を読み終えて、この評論を連想した。『1Q84』はきわめて独創的な物語でありながら、その構造において非常に単純というか、伝統的な説話構造に立脚している。青豆と天吾、「さきがけ」と「柳屋敷」、NHKと証人会そして1984年と1Q84。この小説にはいたるところに対立的、二元的な構造が成立している。物語を駆動するこのデュアリズムは神話や伝説でもおなじみのものである。二つの物語の並立がフォークナーの『野生の棕櫚』のごとく最後まで無関係に交差するのであれば、そこには物語の構造に対する批評性が成立するし、少なくともこの小説がBOOK2で完結していればこのような可能性がありえた。しかしBOOK3で再び青豆と天吾をめぐるラブ・ストーリーが再開された時、それは予定調和的な結末を予想させる。さらに1984年と1Q84の往還というモティーフもきわめて図式的である。高速道路にあるエッソの広告看板のエピソードをめぐり、二人が最後に別の「1Q84」へ移行した可能性は暗示されつつも、この小説は一種の異界伝説として読むことができよう。そしてBOOK2まで漂っていた村上の小説特有の不気味さもBOOK3ではいくぶん希薄となる。特に「梃子で持ち上げた岩の間から這い出してきたとんでもないもの」と形容され、正体不明であった牛河が主要な登場人物の一人となって、その履歴や言動がつぶさに語られる時、もはや彼は読者に負荷を与える存在ではない。BOOK2の途中で一旦姿を消した小松をめぐるエピソードも同様だ。BOOK3を読むと、それまで物語に緊張を与えていたいくつかの問題に解決が与えられる。小説の冒頭に登場した天吾の母のイメージ、あるいは天吾の父と母の関係。父というモティーフが初めて村上の小説に導入された点は何人もの論者が指摘している点であるが、父をめぐる謎解きはやや安易ではなかろうか。私は小説とは必ずしも因果論によって説明されるべきではないと考える。むしろ因果論を超えた奇妙な歪みが与えられた時、精彩に富むように感じるのである。
 『1Q84』は単にベストセラーになったということだけでなく、小説家としての村上の到達点を示す高い完成度をもつ小説である。結末も多くの読者にとって受け容れられやすいものであり、おそらく作家の代表作の一つとして今後も長く読み継がれることとなるだろう。ただ私はこの小説を最後まで通読し、多くの未完の小説の書き終えられた姿を夢想するのと逆に、もしこの小説がBOOK3まで書き進められることなく、BOOK2で終えられていたらどうであったかというありえざる夢想もまた禁じることができない。
by gravity97 | 2010-05-17 09:58 | 日本文学 | Comments(0)

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 私は一度だけオノ・ヨーコと話したことがある。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで開かれた回顧展の折である。会場の一角に電話機が置かれ、その前で観客が列を作っている。しばらく列に並んで様子をうかがっているうちに、これが「テレフォン・ピース」という作品であり、受話器の向こう側にいるのがオノ・ヨーコ本人であろうことが理解された。残念ながらその際には「こんにちは、日本から来ました」といったくだらないことしか話せなかった(しかしそもそもオノ・ヨーコと電話で話すのにふさわしい話題など思いつくことができるだろうか)。列に並んで順番に話すというのはあまり風情がないが、個展の会場に置かれた電話機が突然鳴り、受話器を取ると作家が語りかけるというシチュエーションはそれなりに詩的である。メイルやツイートと異なり、電話のベルは向こう側に肉声によってあなたと語りたい誰かがいることを暗示しているのだ。誰もいなくなった火星で時を隔てて電話のベルが鳴るといった情景をレイ・ブラッドベリが書いていた。
 現在、ニューヨーク近代美術館でマリーナ・アブラモヴィッチの個展が開かれている。残念ながらニューヨークに赴く予定はないが、少しずつ展示に関する情報がもたらされ、カタログも入手した。インターネットの発達に伴い、私たちは展示の状況をリアルタイムで参照することが可能となったが、この展覧会はその恩恵に大いに与っている。インターネットを検索してみると、展覧会に関するいくつもの動画がヒットする。とりわけ興味深いのは(配信は美術館開館時間に限定されているようであるが)MOMAのホームページから直接参照可能なライヴ映像である。
 展覧会のタイトルは「Marina Avramović The Artist Is Present」という。このタイトルがまさに展覧会の内容を示している。会期中、アブラモヴィッチは美術館に在館する。作家自らによって演じられる「The Artist Is Present」というパフォーマンスは1981年以降何度か実施された「Nightsea Crossing」のヴァリエーションである。このパフォーマンスは日本でも85年に牛窓芸術祭で行われたことがあり、今回のカタログテクストでもこのことに言及されている。「Nightsea Crossing」はアブラモヴィッチと彼女のパフォーマンスにおけるパートナーであったウーライがテーブルをはさんで両端に座り、一定の時間(原則として美術館の開館時間中)飲食や用便を一切しないでひたすらみつめあうという作品であった。今回の展示ではテーブルの片端にアブラモヴィッチ、もう片端に来場者が座る。来場者は各々の意志に従って一定時間(5時間以上座っていた者もあるという)席を占める訳であるが、アブラモヴィッチはこれらの来場者全てを相手に二月半という長期間、苦行に近いパフォーマンスを今も行っている。「Nightsea Crossing」に関しては、パフォーマンスが挙行される時間は会場によって最短1日、最長16日というインストラクションがなされていたから、これに比べても圧倒的に長く、作家が気力と体力の限界に挑戦する試みであることが理解されよう。先に述べたとおり、パフォーマンスの模様はMOMAのホームページを介してライヴ中継されるが、作家だけではなく相対する来場者の様子も中継され、参加した来場者全員の顔写真もインターネットを通じて配信されているから、もはや観客も作品の一部といってよい。このほかにも過去になされた彼女のパフォーマンスが若い男女によって再演されている。以前、このブログでも取り上げたとおり、アブラモヴィッチは05年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開かれた「Seven Easy Pieces」という個展において、自分の作品も含め過去に演じられた有名なパフォーマンスを自らの身体によって再演するという離れ業を行った。写真やヴィデオではなく現実の身体を用いてパフォーマンスを再現するという画期的な手法の意義については先のブログで触れたとおりであるが、例えば全裸で向き合って立つアブラモヴィッチとウーライの間の20センチほどの空間を潜り抜けて会場に入るという77年の「Imponderabilia」の衝撃は写真やヴィデオではなく、実際の男女の肉体を前にして初めて理解できるものであろう。このほか私が確認しただけでも全裸の男女が全身の骨格模型とともに横たわるパフォーマンスややはり全裸の女性が高い位置に設えられた自転車のサドルに跨るパフォーマンスなどが実際に再現されているようである。
 今回のカタログは資料性が高く、全てではないにせよ、アブラモヴィッチの重要なパフォーマンスの多くが網羅されている。「Seven Easy Pieces」のほかに2002年にニューヨークのシーン・ケリー・ギャラリーで12日間にわたって続けられた伝説的なパフォーマンス「The House with the Ocean View」の写真も掲載されている。このパフォーマンスはギャラリー内に外から丸見えの三つの部屋を作り、きわめて禁欲的な条件のもとで作家が文字通りプライヴァシーなしに生活する(睡眠、シャワー、放尿の様子も露出される)という内容であり、TVドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の中でも言及されたとカタログテクストにある。このパフォーマンスは作家が展示施設に常駐するという点で今回のパフォーマンスと共通点をもつ。このほか初期の概念的な作品や音と関連した作品については初めて知るものも多く、作家の問題意識を探るうえで意義深いものであった。
 あらためて感じる点はアブラモヴィッチのパフォーマンスは大半において他者を必要としているということである。周知のとおり、彼女は1976年より10年余りにわたってウーライというパートナーとともに一連のパフォーマンスを演じた。二人は互いの髪の毛を結えあい、同じバンに乗り込んで美術館の中庭を16時間にわたって周回し、90日かけて万里の長城を両端から歩いた。いくつかのパフォーマンスはアブラモヴィッチ一人では実現しえない内容であった。しかしウーライという共演者がいなくても彼女のパフォーマンスは他者の関与を要求する。つまりその場に居合わせた観客の関与である。「リズム0」と題された74年の有名なパフォーマンスにおいてアブラモヴィッチは自らが全ての責任を負うとしたうえでテーブルに置かれたナイフから懐中電灯にいたる72の品を自分に対して行使するように来場者に要求した。あるいはいくつかの自傷的なパフォーマンスの場合、それをやめさせようとする観客の介入によってパフォーマンスは終了した。これらの場合ほど能動的な役割を果たさずとも、自虐的なパフォーマンスの前で来場者が感じる強い不快感、あるいは裸体や放尿する姿を差し出された時に感じる強い当惑はアブラモヴィッチのパフォーマンスの本質と深く結びついている。さすがに自傷的あるいは極度の集中もしくは忍耐を要する作品は除かれているが、今回の展示において映像だけではなく実際の男女の裸体によって作品が再現されていることはこれを傍証するだろう。
 私は最初にオノ・ヨーコの「テレフォン・ピース」について触れた。個展の会場で直接作家に直面する体験はアブラモヴィッチと共通しており、それゆえ私はこの文章を書き始めるにあたってごく自然に自分の体験を連想したのであった。さらにカタログを参照するならば、オノとアブラモヴィッチの共通点が浮かび上がる。二人とも作品に関してシンプルなインストラクションを提示する。オノであればこんな具合だ。「あなたの人生の悲しみに番号をつけて表にする。悲しみの数だけ小石を積み上げる。悲しいことがあるたびに小石を加えていく。表を燃やし、小石の山の美しさを愛でる/あなたの人生中の幸せに番号をつけて表にする。幸せの数だけ小石を積み上げる。幸せなことがあるたびに小石を加えていく。できた小石の山を悲しみの山と比べてみる」これに対してアブラモヴィッチは例えば次のような指示を書きつける。「その女性はアムステルダムのデ・アペル・ギャラリーにおける私の個展のオープニングに私の代わりに出席する/同じ時間、私はアムステルダムの「飾り窓」街区にあるショーウインドウに彼女の代わりに座る/私たちはともに自らの役割に関する全ての責任を引き受ける」これは75年に行った「役割交換」というパフォーマンスの際のインストラクションである。これを実施するにあたってアブラモヴィッチはアムステルダムの合法売春地域でプロフェッショナルの街娼と契約を交わす。さて、私の考えでは両者は本質的に全く異なる。それは単にオノの指示が夢想的で予定調和的、暗喩的であるのに対して、アブラモヴィッチのインストラクションが具体的で予測性を欠き、換喩的であるからではない。この対比は本質においてパフォーマンスのみならず、現代美術の本質、さらにいえば美術における近代と現代の区別に関して問題提起を行うように感じるのだ。オノは芸術が日常とは異なった位相に成立することを疑わない。来館者が積み重ねる石は単なる石ではなく悲しみや喜びの表象である。このような発想のなんとナイーヴなことであろうか。オノの立場をヒューマニズムと呼んでもよかろうし、かかる楽天性は「あなたが望むなら、戦争は終わった」と大書し、平和のためにベッド・インする作家にふさわしい。しかしアブラモヴィッチは芸術を日常と別の次元に置く発想を排する。この点は冒頭で記した二つのパフォーマンスを比較しても明らかだ。電話を介すことによって、別の場に位置を占める作家は聖別される。ここではない、どこか別の場所に作家、作品、そして芸術が存在することを来場者は暗黙裡に了解する。しかしアブラモヴィッチの場合、当の作家がテーブルの向こう側から自分をみつめているのだ。両者の対比は一見きわめて近似した「リズム0」とオノ・ヨーコの「カット・ピース」の比較によってさらに明瞭となる。「リズム0」同様に観客がオノの着衣をはさみで切り刻むという攻撃性を内包しながらも、「カット・ピース」は舞台の上で上演されるから、それはあくまでも現実とは審級の異なる場で挙行される「芸術」なのである。そこでは全てが「芸術」の中に回収される。しかし「リズム0」における暴力は「芸術」というアリバイをもたない。むろん私は美術を現実とは別の世界、一種のユートピアとしてとらえる姿勢を否定しない。それどころか今まで美術とはそのようなものとして構想され、理解されてきた。作品が現実の中に存在し、現実の一端にしかすぎないという認識は私の考えでは(デュシャンのレディメイドのごとき特異な先例を別にするならば)1960年代中盤以降、ミニマル・アートという美的感性を経由することによって、わずか半世紀ほど前にもたらされたにすぎない。いずれが正しいかを問うことはあまり意味がない。おそらく日本的感性にとってオノの夢想を受け入れることはできても、アブラモヴィッチの現実を美術とみなすことは困難であろう。全裸の裸体、苦痛あるいは常軌を逸した忍耐や集中、何が起きるか予測できない不穏さは美術と呼ぶにはあまりにも生々しい。
現実とは異なった地点に成立し、私たちを慰撫する美術。現実の一部であって、いかなる形而上学とも無縁の美術。いずれを選ぶかは自由である。後者がモダニズム美術の一つの帰結であることは明らかであり、今日、美術を一種の精神性の表明、あるいは現実の反映とみなす反動的な趨勢もまた台頭しつつある。しかしミニマル・アートを経由した私たちはもう後戻りできない。苛酷な現実としての美術から出発すること。作家としてのアブラモヴィッチがそうであったように、私たちにとってもそれが美術史を真摯に引き受けることなのだ。
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by gravity97 | 2010-05-05 10:42 | 展覧会 | Comments(0)

阿部和重『ピストルズ』

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 『群像』に連載時は「ピストルズ」と片仮名表記されていたから、pistols、拳銃のことであろうと思いこんでいたが、表紙にあるとおり、pistils、雌しべという意味らしい。『シンセミア』同様、ダブル・ミーニングの謎めいたタイトルであるが、「雌しべ」というタイトルからは直ちに作品の内容と深く関わる二つの主題系列が浮かび上がる。一つは植物、花、さらに香りといったフローラルな主題であり、もう一つは女性性という主題である。この長大な小説にこれら二つの主題が横溢していることは直ちに明らかになる。物語が始まるや、様々な花の名前が言及され、物語の主人公たる一族が操る秘術は植物や香水と深い関係を帯びる。「シンセミア」もsin semillaとsinsemilla の二つの含意をもち、前者は「種子がない」、後者は高純度のマリファナというやはり植物と関連した意味をもっていたことも想起されよう。「シンセミア」は一つの町を暴力と騒擾が襲うマッチョな物語であったのに対し「ピストルズ」は秘術によって他者を操る特殊な能力をもった菖蒲(あやめ)という一族の四人姉妹をめぐる年代記である。しかし女性性という問題に関して注目すべきは内容以前に文体だ。一人称によって語られるこの小説には、二人の話者が存在する。書店主石川と菖蒲家の次女で小説家のあおばである。説話的にはやや複雑な構造をもち、あおばの語りは石川に対してなされ、石川はそれをPC内に文書ファイルとして記録する。つまりこの小説は本人の独白も含め、PC内に残された石川の手記として読むことができる。石川という男性によって記された手記にいかにして女性性を賦与するか。語りにおける性差の問題は実はこの小説の成否に関わっており、阿部は巧妙な手法によってこれに応える。つまりあおばによる独白としては、ですます調の慇懃きわまりない特異な文体が導入される。石川の語りとあおばの語りは小説の内容において区別される以前に、文体をとおして弁別されるのだ。通常私たちは一つの文章が男性、女性のいずれによって書かれたかを意識しないが、「ピストルズ」における過度に女性的な語りに読む者は一種の居心地の悪さを覚える。文体における女性性の発露は語尾のみならず表記のレヴェルでも周到に計算されている。一例を挙げよう。文中には「ひみつ」という言葉が頻出する。もちろん「秘密」のことであるが、地の文中にこの言葉だけ平仮名で表記され、きわめて異様な印象を与える。しかし若い女性による語りの中であれば、「ひみつ」という言葉は様々なコノテーションとともにさほど違和感なく収まる。阿部は小説の形式的側面に拘泥する作家であるが、本作においても様々な形式的、文体的配慮がなされていることが理解されよう。女性の語りという手法が部分的に初めて用いられたのは『ミステリアス・セッティング』であったように記憶しているが、今から思えば、それは『ピストルズ』の準備ではなかっただろうか。私にとって本小説はまず文体の実験であるように感じられた。
 例によって形式的な側面ばかり論じてしまったが、続いて内容についてやや立ち入って検討することにしよう。この小説の舞台は山形県神町。阿部の出身地であり、実在する地名である。阿部はこの地を舞台にしたいくつもの作品を発表し、これらはヨクナパトーファ・サーガならぬ神町サーガと呼ばれている。本作品はほかの作品で言及された事件との関係が特に強い。私が気づいた限りにおいてもこれまでに発表された四つの小説と関係している。まずこの物語は全体として『シンセミア』の後日譚であり、『シンセミア』で語られた6年前の事件が別の角度から再話される。ついで『グランドフィナーレ』の主人公がこの小説の終盤で重要な役割を果たす。さらに登場人物の一人は、その特殊な苗字から中篇「ニッポニア・ニッポン」の関係者であることが推測される。そして最後でとってつけたように言及される事件は明らかに『ミステリアス・セッティング』のカタストロフであるはずだ。小説が互いに嵌入しあう構造は、フォークナーは言うに及ばず日本でも大江健三郎や中上健次の一連の作品にも認められ、阿部がこれらの作家を強く意識していることをうかがわせる。
 阿部の小説は日付が明確に書き込まれる場合が多い。再び形式的な話題に戻るが、本作品が実際に『群像』に連載されたのは2007年から09年である。物語の冒頭が設定されているのは2006年であり、物語の終盤で語られる「血の日曜日事件」は05年8月に発生している。したがってこの物語は05年8月をクライマックスとする一連の事件を06年という時点で語ったものであり、さらに最後に「補遺」として2013年の年記をもつ章が挿入されている。この小説における年記の明確さには理由があるだろう。この小説では一つの歴史を語ることが主題とされているからだ。出所の怪しいいくつもの文献を参照しながら菖蒲という特殊な能力をもつ一族の活動が遠くは弘法大師の時代から説き起こされる。このような発想が作中でも言及される半村良の『産霊山秘録』を直接に反映していることは明らかであろう。ただし半村が「ヒー族」なる超能力を操る家系の歴史を戦国時代から現在までの長いスパンで扱ったのに対して、『ピストルズ』で描かれるのは比較的最近、1970年頃以降という比較的短い期間の菖蒲一族と神町の関わりであり、その発端はいわゆるフラワー・ムーブメントである。フラワー・ムーブメントがこの小説の一つの主題であることは本書のカバーの下に隠されたよく知られた写真が暗示しており、語り手の石川が初めて菖蒲家を訪れた際、広大な敷地で繰り広げられる風景は1960年代から70年代にかけてのヒッピー文化のそれである。マリファナ、神秘体験、瞑想、あるいはフリーセックスといったヒッピー文化特有のモティーフがこの長大な小説の内容ときわめて親和的であることは読み始めると直ちに理解されよう。菖蒲一族は様々な植物を調合して作り出した薬品や歌声によって他者を思いのままに操るアヤメメソッドとよばれる秘術を一子相伝で伝える。しかもこの継承は一族の内部における権力の委譲を意味するから、子は親を倒すことによってこの秘術を我がものとする。したがって四女みずきによる秘術の継承はジェンダー間の闘争でもあり、みずきの修行を描いた箇所は作品の一つのクライマックスを形成する。『ピストルズ』は過去から未来へ、親から子へという時間軸を物語の原理としており、物語は時間軸に沿っていわば垂直的に展開されるのであるが、最後の部分で一挙に水平化され、この点は物語の成立とも深く関わっている。垂直と水平、ここで時間に対比されるのは空間ではない。石川がPCに文書ファイルとして残した菖蒲一族の物語はウイルスに感染したファイル共有ソフトを介してインターネット上に流出してしまうのだ。かくしてアヤメメソッドによって本来ならば石川の記憶から消去されるはずであった一族の物語を私たちは『ピストルズ』という小説として読むこととなる。情報の秘匿を意味する一子相伝というモティーフと遍在する情報としてのインターネットを対比させ、両者の対立に絡めて語りの必然性を導入する構造も巧みである。
 かくのごとく小説の形式的完成度は高い。阿部との対談の中で蓮實重彦が本作品を高く評価する理由も理解できる。しかし私はいくつかの不満を感じた。阿部の小説にみられた疾走感が感じられないのだ。『ピストルズ』は七つの章によって構成されているが、それぞれは例えば菖蒲家におけるフラワー・ムーブメントの高まり、あおばの異母姉妹の紹介、あるいはみずきの修行といったテーマに細分され、有機的な統一性を欠いている。章によっては冗長に感じられる箇所もあり、最初に述べたほかの小説との関係も、いささか強引、時にこじつけめいてちぐはぐな感じがする。クライマックスの「血の日曜日事件」もあまりにあっけない。端的に言って、形式における完成度にまで内容が達していない印象が強いのである。形式と内容の乖離はこれまでも阿部の小説を読む際に時折感じていた点であるが、『ピストルズ』においては文体の実験が一定の成果をあげているだけに惜しまれる。
聞くところによれば『シンセミア』と『ピストルズ』は神町サーガ、長編三部作のうちの二篇として構想されているという。作家の力量に疑問の余地はない。最後の一篇を鶴首して待つこととしよう。
by gravity97 | 2010-05-01 08:06 | 日本文学 | Comments(0)