<   2010年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧


0004

闇……。私は頑固な不眠症を殆ど持病のように飼っているので、どちらかといえば、深夜、闇につつまれた寝床のなかで凝つと息をひそめたまま言い知れぬ不快を噛みしめている時間がむしろ多いくらいである。手をのばして微かな不安の裡にまさぐつてみる僅かな前方も、想像し得るかぎりかけはなれた数十億光年彼方の宇宙の果てもまた同質の闇にどつぷりとつつまれている筈のこの眼前を凝つと果てしもなく眺めつづけていることは、私にとつて、いきな猿臂をのばし、むずと掴んで締めあげたいほど忌まわしい痛憤の時間なのであるが、と同時に、それは、そんな自分を噛みしめて何物かを自分のなかに掘つてみる限りもなく抑えに抑えた時間、まあいつてみれば、一種の《静謐な歯ぎしり》の時間なのでもある。

by gravity97 | 2010-04-25 20:30 | PASSAGE | Comments(0)

復刻版『具体』

 
b0138838_21475474.jpg
今年初めに刊行されたとのことであるからやや時機を逸した感もあるが、一般には入手しにくい冊子が手に入ったので紹介する。1954年に芦屋で結成された前衛作家集団、具体美術協会が刊行した機関誌『具体』全12巻(欠号があるため号数としては14号まで)の復刻版、正確にはその刊行に際して編集された別冊である。オリジナルの『具体』は古書としてもほとんど市場に出ないから、稀覯書といってよいだろう。国内のいくつかの美術館の図書室に収められているはずであるが、少なくとも開架図書ではないし、全巻が揃っているか、一般の利用者が利用できるかについて私は確認していない。
これらの冊子は1950年代美術、特に日本と欧米の交渉史においてにおいてきわめて重要な役割を担った。具体美術協会は活動の初期にこの冊子を内外の美術関係者に送った。そのうちの一冊が死後、ジャクソン・ポロックのアトリエから発見され、このグループの神話化を促したことは知られているとおりであり、この経緯に関してごく最近大島徹也氏が新資料をもとに脱神話化とも呼ぶべき解明を行ったことについては以前このブログでも触れたことがある。
幻の機関誌が芦屋市立美術博物館の監修のもと、藝華書院という発行元から復刻されて刊行されるという情報はしばらく前から得ていたが、全12冊と別冊を合わせて12万円、しかも分売不可という条件は研究者であっても個人では購入に二の足を踏むだろう。後述するとおり、海外の美術館や研究機関をターゲットにした復刻であろうが、価格的にあまりにもえげつないと感じるのは私だけだろうか。
もっともこれらの機関誌に収録されたテクスト自体はこれまでも比較的容易に参照することができた。1993年に芦屋市立美術博物館から発行された具体資料集「ドキュメントグタイ」にほぼ全文が収録されていたからだ。この資料集は写真資料を含めて具体美術協会に関する情報を網羅した決定版とも呼ぶべき内容で、個人でも購入することが可能な価格であり、国内の大きな美術館の図書室にはほぼ常備されていたから、具体美術協会に関する日本語圏での研究の深まりに大きく資することとなった。美術運動の機関誌の場合、イメージに対し文字情報は軽視されがちであるが、資料集の中に全文が掲載されたという事実は既に90年代初頭においてこれらのテクストの重要性が広く認知されていたことを示唆する。ひるがえって考えるに、テクストのレヴェルにおける参照が比較的容易であったにもかかわらず、今回あらためて復刻版が刊行されたということは、オリジナルの機関誌にはテクストを再録するだけでは伝えることができない意味があった、あるいは今回の復刻版にはオリジナル版にも資料集にも欠落していた新しい意味が付与されたといういずれかの、もしくは両方の理由が存在したはずである。私の考えでは両方だ。  
まず欠落していた要素。すぐさま連想されるのはオリジナル版に収録されていた数々の図版である。しかしこれについては93年の資料集にも十分に反映されている。『具体』誌が創刊された理由の一つが初期にみられたアクションやパフォーマンスを図版として記録することであったことはよく知られているが、資料集を編集するにあたっては当初の『具体』誌に掲載された資料写真のネガプリントにまで遡って写真の選定がなされており、場合によっては『具体』誌以上に鮮明、貴重な図版が用いられている。ただし『具体』誌における図版の意味は号によって微妙に異なる。舞台を用いたパフォーマンスを特集した第7号では演目ごとに詳しい説明と図版が付されており、今なお資料価値が高い。また吉原治良とミシェル・タピエによって編集された第8号は機関誌というより欧米のアンフォルメルの代表的作家の作品集として発行されている。したがって復刻された巻によっては図版をとおして資料集から得られなかった多くの発見がもたらされることは十分にありうる。そしてそれ以上に注目すべきは、特に初期の『具体』誌にみられたデザイン感覚とアーティスト・ブックとしての特性である。この点についてはこの別冊に収録された平井章一氏の論文および加藤瑞穂氏の解題の中で触れられている。おそらくこれには当時の関西の前衛的な美術運動がしばしば機関誌を伴ったという事実が深く関わっているだろう。平井はその先例を吉原も関わった二科展系の『九室』に求めているが、同時代の関西にも例えば『墨美』や『墨人』といった内容、形式いずれにおいても参照可能な例は存在した。さらに吉原が所蔵した膨大な洋書や洋雑誌もこの点に与っていたことは間違いない。この点を確認するためには復刻というかたちにせよ具体誌本体を参照することが必要となる。
次に付加された要素。それは端的に上に示した別冊である。まず収録された三つの論文がいずれもきわめて興味深い。平井論文は『具体』誌をめぐる状況と、その意味を丹念に分析している。例えばこの冊子の売価がいくらであり、どのように流通したか。きわめて単純な問いであるが、些細であるがゆえにこれまで論じられなかった観点からこの機関誌、そして具体美術協会の活動を検証し、手際よくまとめている。英訳も掲載されているから、今後この問題に関して規範的な論文となることであろう。さらに注目すべきは加藤の論文である。加藤はこれらの機関誌が海外の作家や批評家に対して、いつ、どのようにして送付され、どのような反響があったかを具体的に検証する。このような検証は芦屋市立美術博物館が整理をすすめている吉原治良旧蔵の資料の分析を受けて初めて可能となるものであり、とりわけ吉原が国内外の関係者と交わした書信が重要な証拠となっている。ポロックとの関係について近年、リー・クラズナーの関係資料をとおして新発見があったことは述べたとおりであるが、同様に吉原の資料からは特にミシェル・タピエの世界戦略においてこの冊子がいかなる意味をもったかいくつも推測が引き出されて興味深い。例えば『具体』8号はニューヨークで100冊が完売されたというエピソード、あるいは『具体』9号の掲載論文をめぐる吉原と瀧口修造の微妙な確執など、いくつも新しい知見を得ることができた。平井も加藤も『具体』誌の内容ではなくむしろ形式的側面を論じながら、きわめて独自かつ刺激的な論点を提起している。現代美術に関する近年の実証的な研究の中でも出色の成果ではないだろうか。もう一篇、「『具体』と日本『現代美術』―表象批判の絵画とその周辺」と題された光田由里氏の論文も氏が近年進めてきた『美術批評』誌や戦後の美術批評家をめぐる一連の研究と絡めながら具体美術協会の達成を論じて示唆に富む。ただし具体の復刻版に付される論文としてはやや観念的ではないだろうか。当時の批評との関連を論じるにあたってこの書き手であれば『具体』誌と当時発行されていた批評誌や美術関係の雑誌との関係、あるいは美術批評における東京と大阪の地政学的な差異や断絶をそれこそ具体的に論じてほしかった。
収録された論文もさることながら、今回のこの別冊の最大の特色は具体誌に掲載されたテクスト全てが英訳されて収録されている点である。これまで海外での展覧会に際して個別に翻訳されたことはあってもこれほど網羅的な紹介は初めてである。これほどオリジナルな美術運動であっても、世界的な評価を受けるにあたって一度英語というフィルターを通さなければならないという限界には忸怩たるものがあるが、この雑誌の魅力が単にヴィジュアルの側面ではなく、作家たちが開陳した真摯な思考にある点を考えるならば、今回の別冊の意義はきわめて大きい。『具体』誌に収録された作家たちのテクストに関しては、これまでにも例えば建畠晢氏が白髪一雄とハロルド・ローゼンバーグのアクション観を比較した興味深い論文を残している。1996年にポンピドーセンターで開催された「アンフォルム」展などに端的に認められるとおり、白髪に代表される具体美術協会の活動はオリエンタリズムとは異なった、フォーマリズム批判という文脈で注目を浴びた。近年もアメリカにおいていくつかの展覧会を通してこの集団への関心が高まっているが、これを機にこれまで主に作品を通して、あるいはアクションのごとき先鋭な活動をとおして分析されてきた具体美術協会の活動について、より概念的、テクスチュアルなレヴェルでも再評価が進むことは間違いないだろう。
今回の復刻が海外の美術館や図書館、研究者を念頭に置いていることは明らかであり、復刻された形式と内容も十分にそれに見合っている。今回論じた別冊も資料的な価値がきわめて高い。それゆえに全体の価格の設定はともかくこの別冊だけでも分売を認めて、具体美術協会への理解を深める一助とすることはできなかっただろうか。今回の出版の詳細について私は詳しく知らないが、その点が残念に感じられる。

by gravity97 | 2010-04-20 21:48 | 現代美術 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 100416

b0138838_19552642.jpg


by gravity97 | 2010-04-16 19:55 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

「マイ・フェイバリット―とある美術の検索目録/所蔵作品から」

b0138838_20135141.jpg 原著が日本語に翻訳されているかどうか私は確認していないが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の冒頭で引用される有名なボルヘスの文章がある。「シナの百科事典」からの引用として紹介される次のような箇所だ。

動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)数えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごとく細い毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)今しがた壷を壊したもの、(n)遠くから蝿のように見えるもの

 なんとも奇怪な分類、というか分類という営みの不可能性を揶揄するかのようなテクストであるが、「マイ・フェイバリット」を見てすぐさま連想したのはこの一文であった。
 本展は京都国立近代美術館の学芸課長、河本信治氏が手掛ける最後の展覧会、いわば引退興行である。これまで「移行するイメージ」や「プロジェクト・フォー・サバイバル」、最近では椿昇の個展など、文字通り「近代美術館」の限界を確信犯的に露呈させるメタ展覧会を次々に企画してきた氏の花道が常識的な展覧会であろうはずがない。驚くべきことにこの展覧会は所蔵作品展である。展覧会に際して刊行されたカタログには背表紙に「京都国立近代美術館・所蔵作品目録Ⅷ」と印刷されている。それではいかなる所蔵作品が出品されたか。巻末のリストを見れば明らかだ。本展は京都国立近代美術館の所蔵品中、種別として【その他】に登録された作品を中心に構成されている。ある程度美術館という制度に通じたものであれば、この点から直ちに本展の批評性を理解することができるだろう。
 コレクションとは美術館の欲望であり、存在理由である。そしてある作品を美術館の所蔵作品として登記するためにはまずそれに位置を与える必要がある。一つの作品は種別に始まり、作家名、作品名、制作年、素材、サイズ、技法といった無数の分類の格子の中にその位置を定められる。同じような原理は例えば美術に関する学術論文、大学の講義、あるいはカタログ・レゾネといった諸制度に通底している。それらは多く「近代」と深く関わっている。河本氏が美術館における近代と現代の区別に拘泥する数少ない、というよりほとんどただ一人の学芸員であった点は留意されてよいだろう。実は「近代美術」とはこのような格子の厳密な設定によって成立している。試みに「作家」という分類を取り上げてみよう。「近代美術」において作家は個人でなければならず、成人でなければならず、多くの場合、男性、さらに言うならば白人男性でなければならなかった。マネに始まり、モーリス・ルイスに終わる「近代絵画史」の中でこのような枠組と矛盾する作家を私たちは一体何人挙げることができるだろうか。
 種別に関しても、「近代美術」はこのような分類格子の厳密な適用を要求する。クレメント・グリーンバーグは有名なテクスト「近代主義絵画」において、近代と絵画という二つの格子の交差の中で、絵画が還元的な営みとして一つの進化を遂げたことを説得的に論じた。グリーンバーグの所論に対して今日多くの批判が寄せられていることは私も理解しているが、彼は対象を絵画というメディウムに限定したがゆえにこれほどの影響力をもつ理論を提出しえたのであり、ネオ・ダダのごときクロスメディア的な表現への敵意も同じ理由による。河本氏が別の展覧会に際して論じたとおり、美術史の編纂を任務とした「近代」美術館がこのような制約から逃れらないことは必然であろう。近代美術館のコレクション・カタログを開いてみるならば、今述べたとおり、作家名から技法にいたる無数のデータが一つの作品を特定する条件として記載されている。そして多くの場合、そのような細目のさらに大きな前提として種別、作品のジャンルが設定されている。つまり大半のコレクション・カタログにおいては例えば彫刻、洋画といった種別に章立てがなされたうえで、作家や制作年に従って作品が配列されている。この点は作家や年代に比べて種別という分類が安定していることを暗示している。しかし少なくとも1960年代以降の美術を念頭に置く時、このようなジャンルの安定性こそが問題とされたこともまた明らかである。しかし単にジャンルの混交ということを主題にしたのであれば、この展覧会は底の浅い内容となってしまったであろう。この展覧会が真に革新的であるのは、企画者の問題意識が作品ではなく「近代美術館」に向けられているからだ。一例を挙げよう。京都国立近代美術館には工藤哲巳の《イオネスコの肖像》が収蔵されている。グロテスクなオブジェのアッサンブラージュによって構成されたこの作品は60年代的なクロスメディアの気風を伝えている。しかしこの作品は本展覧会には収められていない。その理由は《イオネスコの肖像》が「彫刻」に分類されているからではないだろう。工藤の場合、いかに従来の彫刻と異質に感じられるにせよ、作家の意識はジャンルそして「近代美術」という枠組をなんら問うことがないからである。《イオネスコの肖像》は一風変わった「彫刻」として大きな違和感なく、近代美術館のコレクションに収められる程度の作品である。この展覧会はこのような守旧的な作品を問題としない。これに対して同じ「彫刻」に分類されながらもこの展覧会の出発点に位置するのはデュシャンのレディメイドである。知られているとおり、京都国立近代美術館はデュシャンに関する優れたコレクションを有している。有名な《泉》や《壜乾燥機》は既製品に作家がサインすることによって作品として聖別される。これらの作品は既に美術史、さらに言えば現代美術史の劈頭に既に登記されているから、さすがに美術館としても「その他」という項目に分類することはできなかったであろうが、実はこれらこそ「その他」という種別にふさわしい作品ではなかろうか。私の考えではレディメイドとは絵画、彫刻といった近代美術のジャンルの外にある。先に引用したボルヘスの奇怪な分類に倣うならば、レディメイドはいわば「この分類自体に含まれていないもの」といった位置を与えられているのではないか。分類に属しながら分類の外にあることをその成立条件とするきわめてパラドキシカルな存在、その存在を内部に含むことが分類の意味自体を無効化してしまう、きわめて異様な存在としてレディメイドは「近代美術館」に受け入れられるのである。このような図式は直ちにゲーデル問題へと接続可能であるが、本論はレディメイドを論じる場ではないので、これ以上は敷衍しない。
 さて近代美術館が既成のジャンルに分類することが困難な作品を受け入れるためには二つの方法がある。一つは分類概念の可塑性を広げて、強引にいずれかの分類に引き入れる方法であり、本展の出品作であればクルト・シュヴィッタースのメルツ絵画を「油彩画」に分類することがこれにあたる。もう一つは新たにジャンルを加え、ジャンルを逸脱する作品をその中に投入する手法だ。実はこれに際して、近代美術館は二つの項目を設けている。一つはいうまでもなく「その他」であり、もう一つは「資料」である。後者は「作品」に対立するが、実は両者の区別に明確な規定はない。展覧会で壁面に麗々しく展示されるのが「作品」であり、最後のコーナーに展示ケースの中に一括して展示されるのが「資料」と考えるとわかりやすいが、ポスト構造主義を経過した私たちはこのような区別にそもそも意味があるのかという問いを立てる必要があろう。さらに美術館とアルカイヴの関係が様々な角度から検証されつつある今日、「資料」の問題もこれからの美術館にとって大きな課題となるだろう。「マイ・フェイバリット」に出品された作品の多くが「その他」とともに「資料」に分類されている点も、「資料」なる項目が今日の美術館に対して示す批評的な位置を示している。一方、分類の難しい作品をひとまず「その他」という融通無碍のジャンルに放り込む手法も多用されてきた。レディメイドのオブジェから巨大なカラー写真、家具にコーヒーセット、そこに含まれた「作品」のあまりに雑然とした様子、無規則性から私は思わず「シナの百科事典」を連想してしまうのだ。このような項目を立てることによってかろうじて保持される「近代美術館」という制度は一体どのような意味をもつのか。この概念的な展覧会を通覧し、細部から全体へ、瑣末から本質へのみごとな反転に久々にキューレーションという営みの妙を味わった思いがした。
 やや語弊があるかもしれないが、全館を使用した所蔵品展でありながら日本画がほとんど出品されていないこの展覧会から京都国立近代美術館の「名品」は意図的に排除されている。このような展覧会は東京国立近代美術館では開催しえないだろう。かくも過激な展覧会が許容される点にこの美術館特有のアナーキズムを看取することができる。聞くところによれば、近々実施される二回目の事業仕分けでは、国立美術館も対象とされるとのことである。美術館に市場原理を導入しようとする成果主義の台頭に私は心底うんざりしているが、もはや国立の施設もかかる趨勢と無縁でない。果たして今後もこのようなラディカルな展覧会を継続することが可能であろうか。それとも愚劣な収益主義の展覧会を垂れ流す多くの美術館に追随することとなるのか。美術館とキューレーターの真価が問われる状況である。

by gravity97 | 2010-04-11 20:15 | 展覧会 | Comments(0)

宮部みゆき『楽園』

b0138838_20183428.jpg
 天性のストーリーテーラーというのだろうか、どの小説を読んでも掛け値なしに面白い作家が存在するが、宮部みゆきもその一人だ。文庫化されたことを契機に『楽園』を通読し、あらためて痛感する。
 『楽園』は宮部の代表作の一つ『模倣犯』の後日譚という一面をもっており、『模倣犯』の中で稀代の凶悪連続殺人犯を追い詰めた女性ライター、前川滋子が主人公である。『楽園』は最初新聞に連載されたとのことであるから『模倣犯』の読者を想定して執筆された訳ではないが、本書の機微を理解するためには『模倣犯』を読んでおいた方がよいだろう。『模倣犯』で人間の内面に巣食う暗黒と直面した経験はなおもトラウマとなって滋子を苦しめている。このような滋子の内面を知る時、『楽園』の細部はさらに精彩を放つように感じられるからだ。そして宮部ほどの力量をもつ作家にとっても足かけ5年にわたって週刊誌に連載した3500枚に及ぶ大作『模倣犯』の執筆と改稿が大きな負担となったことは容易に想像がつく。前川はこの小説の中で自らの仕事を「喪の作業」と位置づけるが、それは作家においても同様であったように思われる。したがって本作は登場人物、作家のいずれにとっても一種の治療的な意味をもつように思われる。
 もちろん小難しいことを考える必要はない。読み始めるや誰もが小説に引き込まれてしまうだろう。「模倣犯」事件から9年後、なおも事件から立ち直れない滋子に奇妙な依頼がもたらされる。交通事故で亡くなった息子が誰も知るはずのないある事件の真相を絵に描き残していた。息子には本当に予知能力があったのか、それとも事件の関係者となんらかの関係があったのか。母親から調査を依頼された滋子は「模倣犯」事件以来、久々に犯罪に関わる事案を調査することとなる。事件そのものはきわめて単純で既に終結している。素行の悪い長女を殺害し、遺体を自宅の床下に隠していた夫婦が出頭する。偶然発生した火災の結果、事件が露頭することを恐れての出頭であり、殺人自体は既に時効となっていた。依頼主の息子が描いた絵の中には家族と床下の死体、そして事件の現場を特定する鍵となる奇妙な風見鶏が描きこまれていた。ミステリーと超自然的な謎を交えるのは宮部の得意な手法であり、『龍は眠る』や『クロスファイア』といった小説も想起された。『楽園』にはアクロバティックな謎解きや意外な犯人、驚くようなトリックは登場しない。謎の核心もある程度読み進むと推察することができる。しかしこの点はこの小説の魅力を減じないどころか、ミステリーといった単純な枠組に収まらない深みを与えている。
 私たちの日常の中には不気味な深淵が口をあけている。突然介入する「不気味なもの」によって私たちの日常が脆くも潰えるという主題は『オイディプス王』から『変身』、『死の棘』まで文学の一つの系譜をかたちづくっている。「不気味なもの」が村上春樹の多くの小説に共通するテーマである点についても以前記した覚えがある。若い女性を狙った連続誘拐殺人事件を描いた『模倣犯』の中では邪悪な意志によって被害者のみならず家族や周囲の者の日常や精神が次第に破壊されていく様子が鬼気迫る迫力で描かれていた。『模倣犯』ではいわば外部からもたらされた「不気味なもの」、邪悪な意志は『楽園』においては内部からもたらされる。タイトルの『楽園』が一つの暗喩であることは明らかだが、それはきわめてアイロニカル、さらにいえば逆説的な暗喩である。「楽園」とは家庭あるいは家族を暗示している。しかしここに登場する家庭や家族は「楽園」からはほど遠い。たった一人の息子を事故で失う薄幸の母子家庭。実の親に殺められるほどの悪行を重ねる娘。注目すべきは物語の中心となるこれら二組の家庭とそこで起きた事件が冒頭でほとんど全て明らかになり、しかも既に終えられている点だ。それにも関わらず、物語がみごとに駆動していく点にこの小説の魅力、説話論的な特性がある。もっともミステリーを読み慣れていればこの点はさほど驚くに値しない。犯人が最初から特定されたこの小説は一種の倒叙推理であり、謎の核心は犯人ではなく動機、つまり典型的なファイ・ダニットである。読み進むにつれて事件の当夜に何があったかという点に謎が絞り込まれていく構造はクリスティーの『ゼロ時間へ』なども連想されよう。
 しかし私は本書からミステリーよりもむしろスティーヴン・キングの一連のホラーを連想した。これは『模倣犯』に関してもいえることであるが、宮部はおぞましい事件の核心を巧妙に隠す。つまり物語は事後に語られ、犠牲者あるいは当事者は既に死んでいるために語り手をもたないのである。しかし読み手は提示される状況証拠から、彼らが味わった恐怖やそこで繰り広げられた惨劇を想像し、想像力の幅に応じた衝撃を受ける。これはかなり高度な説話的テクニックであり、このような技法に長けた作家として私はキングを思い浮かべるのだ。あるいは家庭という「楽園」の内部からもたらされる「不気味なもの」。このような発想から直ちに想起されるのはキングの中でも恐ろしさという点で屈指の傑作『ペットセマタリー』である。最愛の息子が「不気味なもの」へと変貌を遂げることの恐怖をキングは文字通りスーパーナチュラルな怪異譚として描いた。『楽園』においては娘の非行という、今日においてはある意味で日常的な物語として「不気味なもの」が家庭を、家族を脅かす。しかし同じ家庭内の悲劇が『楽園』の場合、どこかしら哀切を帯びているのは、それが進行中の物語ではなく、既に終えられた悲劇として当の肉親によって語られるからであろう。この点でも本書はその魅力を形式、時制においても話者においても特殊な話法によっている。
 基本的に悲惨な物語が語られる。しかし宮部のほかの小説と同様に読後感は悪くない。特に断片的に挿入され、最初は本編との関係がはっきりしないいくつかの断章が最後にみごとな効果をあげている。いつもながら人物造形も巧みで、読者は滋子をはじめとする何人かの登場人物にやすやすと感情移入してしまうだろう。『模倣犯』は人間の暗黒を描いて救いがなく、それゆえ深い余韻を残した。対照的に本書においては末尾に意外な、そして心温まる挿話が用意されている。先ほど著者そして『模倣犯』の登場人物であった滋子に対して本書は治療的な意味をもつと述べたが、それは前著で凶々しい暴力に触れた読者に関しても同様かもしれない。

by gravity97 | 2010-04-01 20:22 | エンターテインメント | Comments(0)
line

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
line