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by gravity97 | 2009-12-29 20:54 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

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by gravity97 | 2009-12-22 21:17 | BOOKSHELF | Comments(0)

村上春樹『めくらやなぎと眠る女』

 少し前、ベルギー人のキューレーターと会食する機会があった。話が日本文学に及び、日本の作家で誰が読まれているか尋ねたところ、私より少し上の世代に属すると思われる彼女は「私の世代ではミシマ、でも今では圧倒的にハルキ・ムラカミ」と答え、私が発売された直後の『1Q84』を見せたところ、嬉しそうに携帯で表紙を撮影していた。
 村上春樹の長編が世界各国で翻訳されていることはよく知られているが、短編集に関してはアメリカのクノップフから刊行された『象の消滅』(1993)がいわば底本として存在し、同じ短編を収録した短編集が各国の言語で出版されているらしい。出版に付随する権利関係の錯綜を回避するためらしいが、そうであれば一層、どの短編を選択するかは重要であろう。日本では2005年に刊行された『象の消滅』に続いて、同じクノップフを版元とする第二短編集『めくらやなぎと眠る女』の「翻訳」が最近新潮社から刊行された。当初は日本の複数の出版社から出版された短編がアメリカの一つの出版社によってコンパイルされて翻訳され、それが再び新潮社という日本の出版社から短編集として刊行されるというのは考えてみると変な話である。
 さて、以前にも書いたとおり、村上春樹については『アンダーグラウンド』系列のノンフィクション以外、私はほぼ全ての小説を読んできた。『象の消滅』はアメリカ人の編集者によって収録作品が選択され、テクストそのものは(若干の異同はあるにせよ)日本語で発表された時と同一であるから新作を読む楽しみはない。それにもかかわらず、しゃれた装丁に引かれてこの本を買い求め、一読した私は驚いてしまった。作品のセレクションが素晴らしいのだ。村上春樹の作品はとぼけた味わいのあるショート・ショートからシリアスで不気味な短編まで多岐にわたる。日本語で読んでいてもなかなかつかむことができないその全体像がこの短編集によってくっきりと焦点を結んだように感じられたのである。収録された作品は必ずしもよく知られた作品ばかりではない。さまざまな短編集から選ばれた作品はこの短編集の中に位置を占めることによって、新たな魅力を得たように感じた。おそらくここには編集という、日本で軽視されている営みの真髄があるだろう。本書から私はマルカム・カウリーの『ポータブル・フォークナー』を連想した。カウリーという批評家によって編集され、入念な紹介を付したアンソロジーが刊行されたことによってそれまで難解さのゆえにほとんど無視されていたフォークナーの小説は一挙に世界文学として脚光を浴びた。もちろん村上は既に欧米でもある程度の知名度を得た作家であっただろう。しかしいくつかの短編集の中からテイストの異なる17の短編が選びぬかれ、配列され、そして英語に翻訳されることによって村上春樹はハルキ・ムラカミとなったのではなかろうか。この過程に日本人は関わっていない。私はあらためて編集という営為がきわめて創造的な行為であること、そして欧米圏におけるその成熟を思い知った気がした。
 『めくらやなぎと眠る女』には24の短編が収められており、二つを合わせると村上の主な短編はほぼ網羅されているといってよいだろう。村上には『神の子どもたちはみな踊る』という連作短編の傑作があるが、これは『地震のあとで』というタイトルで英訳が刊行されているらしい。もう一つの連作短編集として2005年の『東京奇譚集』があるが、この内容は本書に全て収録されている。村上は作品を新たに収録するにあたって手を入れる場合が多く、例えばタイトルにもなっている「めくらやなぎと眠る女」は最初『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録され、『レキシントンの幽霊』収録時に改訂され、さらに今回の短編集に収める際にも訂正がなされている。このあたりのテクスト・クリティークも個人的にはなかなか興味深いが、私は一愛読者であって研究者ではないので、ひとまず措く。
 『象の消滅』の巻頭には編集者であるゲイリー・フィスケットジョンの序文、自分の短編が英訳され、とりわけに『ニューヨーカー』誌に掲載された際の喜びを率直に語った村上の自序など、刊行にいたる経緯を記したいくつかテクストが付され、それなりに興味深く読んだ。これに対して『めくらやなぎと眠る女』は作家自選による短編集であるためか選択がいささか甘い。『東京奇譚集』は優れた短編集で連作といっても作品相互の関係がほとんどないとはいえ、これを全て収録するのはいかがなものか。あるいは「蟹」という短編は『回転木馬のデッド・ヒート』に収められた「野球場」という短編中で言及される小説を実際に村上が書き下ろしたもので、むしろ村上龍的な味わいのややグロテスクな小品である。この短編は英語版しか存在しなかった訳であり、日本語版を発表する際の読者サービスかもしれないが、私としてはほかの短編を採ってほしかった気がする。全般に作品の選択がわかりやすく、『象の消滅』にみられた意外性、端的に言って編集の批評性が見当たらないのだ。この短編集も日本語以外の言語の使い手によって、可能であれば編者のイントロダクションとともに刊行してほしかったと思うのは私だけだろうか。
 例によって形式的な側面からやや批判的なコメントを加えたが、実際に本書を読むこと、さまざまの短編を再読することは実に愉しい体験であった。例えば『ノルウェイの森』の原型である「蛍」は完成度の高い、とりわけ最後の場面が印象に残る抒情的な佳作であり、おそらく多くの読者にとって村上の短編のベストの一つであろう。(それゆえこの短編が『象の消滅』に収められていなかった点に編者の批評性を感じたのである)あるいは私は「とんがり焼の盛衰」「かいつぶり」といったシュールな笑いを誘う短編が大好きなのであるが、おそらくそれはこれらが収録された『カンガルー日和』を、修士論文を執筆する合間に息抜きのように読んでいたことが影響しているだろう。ちょうど今のような暗い12月のことだ。あるいは『東京奇譚集』冒頭の「偶然の旅人」は私が最も好きな村上の短編であるが、以前この作品を再読した折、ある知人と偶然の再会があった。小説自体も偶然の出会いを主題としており、現実と小説の不思議な一致は、村上の言葉を借りるならば「小説の神様が片目をつぶって微笑みかけている」かのようであった。
 
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村上の短編を読むならば、かくのごとく次々とさまざまな小説的記憶がよみがえる。不思議に楽しい思い出が多い。喪失や不安をめぐる小説の重い内容とこれに反してリラックスした記憶の鮮やかな対照もまた私がこの作家に魅せられる理由かもしれない。先に記したとおり、海外ではこれら二つの短編集と連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』以外に村上の短編は翻訳されていないらしい。これらに収録されていない多くの魅力的な短編を思う時、私はあらためて日本語を読めることの幸運を感じる。

by gravity97 | 2009-12-16 22:02 | 日本文学 | Comments(0)

維新派「ろじ式」

b0138838_2037577.jpg 演劇について特に詳しくない私でさえ、大阪に維新派というとんでもない劇団がおり、毎回野外に大掛かりな舞台を作り込んで、壮大なスペクタクルを上演しているという噂は以前より耳にしていた。しかし大規模な野外劇とは現地まで出向いて観劇することの困難も意味する。通常の上演に比べて野外劇の公演は時間的な限定も付されるため、残念ながらこれまで実見する機会がなかったが、この劇団としては珍しい小劇場形式の公演が開かれると聞き、大阪に出かけてみた。
 今述べたとおり、維新派の公演を見るのは初めてであるから、ほかの公演や会場と比較することはできない。小劇場における公演のため、この劇団の持ち味と呼ばれるスペクタクル性には乏しいが、理知的に計算された舞台からきわめて斬新な印象を受ける。
 会場に入ると舞台上に今回の舞台の主要な小道具である無数の標本が並べられている。注目すべきはその形態だ。全ての標本は同寸同形の黒い枠のキューブの中に配され、その数800個に及ぶ。開幕とともに顔を白塗りで同じ衣装を着た大勢の俳優が登場し、音楽に合わせて機械的な動作とともにキューブを移動し、あるいは運び込み、運び去る。白塗りの俳優が一斉に行為する夢幻的な情景から私は直ちに寺山修司を連想したが、天井桟敷との相違はすぐさま明らかになる。この舞台は「海図」、「おかえり」、「鍍金工」などと題され、相互に関係のないいくつかの場面が連結されて構成されている。捕虫網をもった白装束の少女たち、前掛けをした工員風の少年たち、あるいは楽器を手にしてアジア風の衣装をまとった童女たち。顔を白塗りし、揃いの衣装の俳優たちは個性や差異を失っている。個々の意味を失っているのは俳優だけではない。それぞれの場面で俳優たちは声を合わせて一群の言葉を羅列する。標本箱の中に収められた化石の年代を示す様々の地質的な年代の呼称、屋久島や沖縄といった南西諸島の島の名前、あるいは金属を加工する様々な過程の名前。それらは演じられる情景と漠然と関係しているようでもあるが、関係性は曖昧である。続けざまに事挙げされる言葉は相互に並列的な関係にある。例えばおそらく骨格標本と関連して身体の部位が大声で列挙される。ひざ、くるぶし、かかと、つま先。これらは身体に関して無数に存在する呼称のいくつかにすぎず、交換可能、記号論的に言うならばパラディグマティックな関係を結ぶ。私たちは言語を発する際にこれら無数の選択肢の中から例えば「指」という言葉を選んで文脈の中に織り込んでいく。しかし「指」に対して例えば「私の指」「指を絡める」といったシンタグマティックな関係を結ぶ言葉が発せられることはない。「ろじ式」の台詞は可能な選択肢をひたすら拡張し、言葉は列挙されればされるほど意味を失っていく。演劇の中から言葉という意味を放逐する作業自体はこれまでにも先例がある。一方で言葉そのものを追放する方法がある。大田省吾の一連の沈黙劇はその優れた例である。これに対して維新派においては逆に言葉の過剰が、そこから意味を剥奪する。羅列される言葉はどの一つをとってもほかと交換可能であり、確定的な意味をもたない。そして交換可能性はこの演劇全体の原理である。今述べたとおり、登場する俳優は誰一人として名前をもたず、主演と助演の区別もない。ある意味でこの芝居は徹底的に共産主義的といえよう。さらに黒いキューブの配置を変えることによって次々に転換される場面、それらもまた交換可能である。この演劇には起承転結といった時間的な脈絡がない。どの場面から始められてもどの場面で終えられても、私たちは特に意外な印象を受けないだろう。台詞が芝居の中で意味をもつこと、そして一つの芝居が時間的な結構、つまり始まりと中、終わりをもつことはドラマツルギーにとって自明の前提であり、反演劇を標榜した寺山においても基本的に踏襲されていた。最初に述べたとおり、私はこれまで維新派の公演を見たことがないため、このような特性がほかの舞台にも共有されているか、この舞台のみに指摘できるかについては確言できない。しかし大掛かりな群集劇、舞踏と音楽が渾然とした構成からは意味の解体という方向が示唆されているように感じた。
 役者によって自由に移動、置換されるブラック・キューブがかかる交換可能性の暗喩であることは明らかだ。私はこの舞台装置から直ちにソル・ルウィットのホワイト・キューブを連想した。厳密には維新派のブラック・キューブは内部に標本やら道具を収めており、容器としての機能をもつ。しかしそれらは劇の中では無限に連ねることが可能なユニット、ほかと置き換えても全体の構成になんら変化を与えることがないユニットとして使用されている。ルウィットはそれらを並び替え、順列組み合わせによって可能な全てのヴァリエーションを提示することを作品とみなした。作品を部分と全体が緊密に照応する統一体ではなく、交換可能な単位の単なる集積とみなす発想は例えばカール・アンドレらのミニマル・アートとも通底している。反復が多用される所作や台詞はロバート・ウィルソンの一連のダンスを連想させないでもない。この舞台において骨格標本や使い古された道具が並べられ、大阪弁が多用される情念的な内容とミニマリズムを連想させる無機的な形式の結合はきわめて衝撃的だ。
 「~式」というタイトルは以前にも使用されていたとのことであるが、「ろじ式」というタイトルとシュールな舞台美術から私はつげ義春の「ねじ式」ばかりが念頭にあった。今回の公演のパンフレットを読んで初めて思い当たったのであるが、「ろじ」とは同時に「路地」、中上健次の小説の特権的なトポスでもある。「ろじ式」でも台詞に『千年の愉楽』と『奇蹟』という路地を舞台にした小説からの引用があるという。12年前に上演された『南風』は中上の影響が濃厚であったと聞くが、この劇団を主宰し、作・演出を手がける松本雄吉はやはりパンフレットの中で、繰り返し中上的世界の親和を語っている。今回の上演でも南西諸島を介して暗示されるアジアへの眼差しは昨今のアジアブームというよりも、中上の未完の長編『異族』を反映しているように感じられる。逆に『千年の愉楽』において主人公を違えて繰り返し再話されるかのような各短編はその交換可能性において『ろじ式』を、そこに登場する淫蕩で短命な美少年たちはその匿名性によって白塗りの俳優たちを連想させないだろうか。
 随分前になるが、寺山修司が没した直後に見た「レミング」が私にとって本格的な演劇に接した最初の体験であった。演劇によって世界観を変えることさえ可能なのだ
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。その際に受けた深い衝撃は今でもありありと思い出すことができる。しかし寺山以後、プロットや言葉遊びの巧みさを競う小劇場が主流となり、演劇の枠組自体を問う舞台をあまり知らない。美術でも文学でも私はジャンルの枠組自体を問うメタ的な作品を好む。「ろじ式」は久しぶりにメタ・レヴェルの感銘を覚える舞台であった。次回は彼らの本領である野外劇を見てみたいと強く感じた。

舞台美術を示した図版は維新派のホームページより転載
 

by gravity97 | 2009-12-04 20:40 | 演劇 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 091203

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by gravity97 | 2009-12-03 07:21 | NEW ARRIVAL | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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