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批評のテクストの持つ意義は、ほとんど全面的にその方法にある、と主張することができるだろうか? どのような評価的陳述にせよ-「これは優れている、重要だ」とか「これはよくない、ありふれている」-その内容が、シリアスな批評において、シリアスに読まれるべきことなのではない、と考えられるだろうか? それどころか、シリアスな批評とは、その議論の形式によって理解されるということ、すなわち、その方法が、批評対象を構成してゆく途上で、あらゆる判断行為に先行し、それを前もって決定することになったもろもろの選択を、目に見えるかたちで示していくそのやり方によって理解されるのだ、と。
by gravity97 | 2009-11-27 20:02 | PASSAGE | Comments(0)

 新訳でコンラッドの『闇の奥』を読む。『闇の奥』にはいくつかの邦訳が存在する。一番よく知られたものは中野好夫訳による岩波文庫版で、初版が1958年に発行されている。書庫を探すと私も一部所持していた。名高い小説であるが、読み通した記憶はない。今回初めて通読するにあたって両者の解説を読んでみたがいずれの訳者も翻訳の難しさについて縷述している点が印象的だ。新訳の訳者はいくつかの具体的な例を挙げ、これまでの翻訳と比較しながら自分が最終的な訳文を採った理由を説明している。中野にいたっては岩波版以前に自らが訳した日本初訳となる河出書房版について「正直にいってたいへんな難物だった。旧本の読者諸氏にはまことにすまぬ話だが、相当の誤訳のあることも十分予想できたし、まことに自信のない話だった」とそこまで言ってよいかと感じられるほど正直な感想を述べている。新訳を読んでから中野の訳にも目を通してみたが、活字のポイントがきわめて小さいことと、語りの途中でむやみに引用を示す括弧が用いられていることを除いて(この二点が読みにくさの最大の理由であるが)さほど差があるようにも思えない。もちろんそれは私が一度読み通して物語の全体を理解していたためであるかもしれない。
 前置きが長くなった。今回の訳者は黒原敏行。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』という難物を途切れることのない緊張感の中に訳した練達の若手である。コンゴ川を遡る暗澹とした道行きは『ザ・ロード』を連想させないこともない。物語の構造はさほど複雑ではない。物語はテムズ川に停泊する船上における乗組員マーロウの語りとして記述される。テムズ川とコンゴ川、二つの川の間をたゆたうように、語りも現実と回想の間を往還する。マーロウは若い時、ベルギーの貿易会社に雇われ、現地で殺された前任者の仕事を継ぐためにコンゴに向かう。コンゴ川の出張所で故障した蒸気船の修理を待つ無為の時間、マーロウはアフリカという野生に直面する。人を拒む密林と暗い川、意志の疎通を欠いた黒人たちと病気で次々に命を落とす白人社員たち。コンラッドの文章の濃密さは翻訳でも十分に堪能できる。出張所でマーロウはクルツという謎めいた人物の存在を知る。大量の象牙を出張所に届けながら、自身は姿を隠し密林の奥で隠然たる権力をふるう男。クルツが病床にあるという情報に基づき、マーロウはクルツを審問すべくコンゴ川を遡る。困難な航行と蛮族の襲撃。操舵手を失い、ようやく奥地の出張所にたどり着いたマーロウはクルツに仕えるロシア人青年、そして瀕死の床にあるクルツに会う。クルツは婚約者への手紙や写真をマーロウに託し、最後に「The horror ! The horror !」という謎めいた言葉を残して息絶える。
 物語の粗筋を知ったとしてもこの小説の魅力が減じることにはないだろう。密林を連想させる濃密で粘着的な物語を読み進むこと自体がコンゴ川遡上の比喩であるかのようだ。今日、この小説は多様な読み方が可能である。もちろん現地人に対する白人の蔑視や暴力を理由に人種差別的な小説と批判することも可能であるし、逆に植民地主義への批判ととらえることもできよう。あるいはポスト・コロニアリズムの洗礼を受けた我々は(女性はほとんど登場しないにせよ)ジェンダーや階級、あるいは資本主義、帝国主義といった様々な函数を介して分析することも可能であろう。しかしながら私はそれらの明晰な解釈に抗う異様な晦渋さこそこの小説の本領ではないかと感じる。この点はクルツなる人物の造形に関して明確となる。密林の奥に君臨するクルツがこの小説の影の主役であることは明らかである。詩を朗誦し、深い教養を備え、ロシア人青年に信奉されるクルツの正体は最後まで明かされることがない。クルツのみならず物語全体を一種の不透明さが覆っている。このような不透明感は内容のみならずおそらく文体そのものに起因しており、幾多の翻訳者を悩ませたゆえんであろう。残念ながら私はコンラッドのほかの小説を読んだことがないが、このような難解さが本小説のみに指摘される点は、それが意図的に導入されていることを暗示している。視覚的な比喩となるが、私はこの小説を読みながらさながら背後を見透かすことができないほど樹木が繁茂する川面を蒸気船で往航するような印象を受けた。手近の岸や叢ははっきりと識別できるのに対して、その背後、奥を見通すことができないのだ。個々のエピソードは比較的明瞭であるが、全体としてのストーリーの展開は不明瞭で方向が定まらず、全体を見通す奥行きが失われている。Heart of Darkness の邦訳タイトル「闇の奥」の当否については異論もあろうが、以上の点を勘案するに十分に喚起的な言葉が選ばれているように感じた。
 よく知られているとおり、フランシス・コッポラはこの小説を翻案して「地獄の黙示録」として映画化した。19世紀のコンゴはベトナム戦争下のインドシナに置き換えられていたが、両者は深いところで結ばれている。今述べたとおり、これらの作品は人が西欧的な合理性の埒外にある晦渋、不透明性と出会う物語である。アフリカやインドシナはそれぞれ植民地時代のヨーロッパ人、1960年前後のアメリカ人にとって自らの理解を超えた外部である。西欧が外部に直面した際、どのような反応を示したか。『闇の奥』の随所に暗示される植民地への暴力的支配、あるいは「地獄の黙示録」中、サーフィンに便利な立地であるという理由で一つの村落をナパームで焼き払う挿話はこの問いへの応答である。これに対して、コンラッドはクルツというきわめて独特の人物を造形し、今まで非合理対合理あるいは未開対文明といった外面的な対立としてとらえられてきた両者の関係を登場人物に内面化することに成功している。アフリカという絶対的な他者と出会う中で次第に内面を崩壊させるクルツというパーソナリティはコッポラのフィルム中でマーロン・ブランドが演じたカーツ(いうまでもなくクルツの英語読みである)大佐においてさらに深められ、一方、『闇の奥』におけるマーロウの役回りである「地獄の黙示録」の主人公ウィラード大尉もカーツを追ってメコン・デルタを遡航する過程で次第に精神を失調させる。ここにおいて、文化衝突がもたらす「闇の奥」Heart of Darknessは人間精神のそれへと転じるのである。
 19世紀にはアフリカが「闇の奥」であったかもしれない。しかし今日なお私たちは同様の文化衝突をさらに殺伐としたレヴェルで繰り返している。アメリカにとってのアフガニスタン、あるいはロシアにとってのチェチェンを現代の「闇の奥」と呼べないだろうか。おそらく「闇の奥」は時代と無関係である。いつであろうと、人にとっていかなる共感も交流も成立しえない絶対的な他者が存在し、それらと直面することは直ちに自らの内部に「闇の奥」を生ぜしめる。クルツの最後の言葉「地獄だ!地獄だ!」(あとがきにもあるとおり、これは中野好夫による翻訳。黒原訳は「怖ろしい!怖ろしい!」。ただしこの部分に関しては中野訳の方が適切であるように思われる)とは、絶対的他者の前であっけなく否定された啓蒙や進歩といった西欧的価値の断末魔の叫びであるように感じられる。そして20世紀以降も私たちは一体どれほど多くの地獄を体験してきたことか。ヒューマニズムの対極に存在する、かかる暗鬱な認識を白日のもとにさらして、刊行後一世紀以上経った今も『闇の奥』は古びることがない。
 
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蛇足かもしれないが 最後に一つだけ付言する。本書を通読し、私はアフリカの密林を舞台に同様の黙示録的世界を描いた小説としてJ.G.バラードの『結晶世界』を想起した。同じイギリスの作家によって発表されたSFならぬスペキュレイション・フィクションは果たしてコンラッドの嫡子であろうか。
by gravity97 | 2009-11-24 21:37 | 海外文学 | Comments(0)

『グーグル革命の衝撃』

 今日、コンピュータを用いる者であれば、誰でもグーグルと無関係ではない。グーグルとはもはや単なる検索エンジンではない。それは全ての情報を検索可能にしようとする非人称の意志であり、手段ではなく哲学である。この十年ほどの間に、グーグルが他の検索エンジンを圧倒して覇権を握る過程、そしてITの専門家が口々にグーグルを礼賛する状況を私たちはつぶさに見てきた。グーグルが今日これほどまでに強大な力をもった理由はまさにそれがコンピュータ知の世界を生きる私たちの無意識下の欲望を体現しているからではなかろうか。
 「グーグル革命の衝撃」と題された本書はNHKスペシャルの取材の過程で得られた知見と感想を何人かのディレクターがまとめたものである。民族浄化から藤田嗣治まで、NHKの記者が社費(つまり税金)で取材した内容を横流しする安易なドキュメントに私は心底うんざりしている。公私のけじめのなさ、批判精神の欠落は端的にジャーナリストとしてのモラルの問題であろう。本書も取材対象にべったり、たいした取材がなされている訳でもない。それにも関わらず内容は十分に衝撃的だ。
 b0138838_21462398.jpgコンピュータの発達を背景として、グーグルはかつてない利便性を私たちに提供してきた。書棚に行って参考文献を手に取る必要さえない。詳しく知りたい事項があれば、キーワードを打ち込むだけでほぼ正確な情報を入手することができる。世界中、どこであろうと地名を打ち込めは直ちに目的地周辺の地図や写真を確認することができる。そして今や私たちがなんらかの選択をするうえで「検索」という作業は不可欠になりつつある。もちろんこれまでも我々は商品を、サービスを無数の選択肢の中から選んできた。しかしグーグルの登場によってその手段はグーグルの検索エンジンに一元化されつつある。全てが検索数によってランキングされ、私たちは上位の項目としか関係を結ぶことがない。私たちが世界と出会う可能性は確実に狭められている。情報量の増大という点でグーグルの登場はしばしばグーテンベルクの活版印刷術に準えられてきた。しかし決定的に異なるのは、この技術が一私企業に独占されている点である。私たちは利便性と引き換えに何を失ったのか。この問題に対する詰めの甘さがいかにも三流ジャーナリズムだ。いずれの執筆者も取材対象に対して腰が引けている。本書ではグーグルの検索によって生じたビジネス面での利益と不利益をめぐるいくつかのエピソードが主として扱われている。確かにグーグルは検索というシステムを広告に結びつけることによって利益を得ているから、この問題は一つの主要な主題であろう。しかしグーグルという私企業が個人の情報を独占することの真の脅威はそれが管理社会の道具として使用されるであることに想到しない「ジャーナリスト」に一体存在意義などあるのだろうか。
 以前より不思議に思っていたのだが、ビル・ゲイツから梅田望夫までITの起業家は未来に関してなぜかくも楽天的なのであろうか。彼らによればコンピュータは人類の未来を照らす万能の利器であり、インターネットは善意に満ちている。本書の冒頭にグーグル本社を訪問した際のエピソードがある。社員は皆優秀で創造力に富み、会社は自由の気風に富み、会社内の食事やスポーツ・ジムは無料、福利厚生は万全で全てのサービスは社員が創造性を最大限に発揮できるようにアレンジされている。このあたりの記述は私にはなんともいかがわしく感じられる。NHKの記者によって無批判に礼賛される「エンジニアの楽園」から私が直ちに連想したのは独裁国家と新興宗教である。開放的で創造的、自由な社風を標榜する企業がなぜ検索アルゴリズムの詳細を秘匿するのか。もちろん表示される検索順位は広告というグーグルの基盤に密接に結びついていることは理解できる。しかし検索という行為がもはや生活の一部となっている現状を考慮する時、私たちの社会がこのようなブラックボックスに依存しているという事実はなんとも不気味ではないか。しかもこのアルゴリズムは一企業の秘密であり、詳細を知っているのは数名の幹部のみなのだ。それは機械的で非人間的なプロセスであるという。おそらくそうであろう。しかし私たちにそれを確認する術はないし、学知や科学技術が決して中立でないことを私たちは歴史の中から学んできた。
 検索以外にもグーグルの技術革新は様々の可能性をもたらす。例えばGPS機能と連動させて、携帯のキーボードを叩けばその場で必要とされるサービスを直ちに得ることが可能となるかもしれない。グーグル・アースで空港へのアクセスを確認したビジネスマンに空港までのリムジンバスの使用を勧める携帯電話がグーグルのコール・センターからかかってきたという奇怪な噂がネット上に出回ったという記述が本書の中にある。しかしグーグル本社が立地するマウンテンビュー市を無線インターネットで覆い、グーグルのアカウントをもつ者であれば市のどこにいようと端末をとおして個人履歴に基づいて有用とみなされる情報を無料でグーグルから受け取ることができるようなシステムが計画中であることを知るならば、この噂は決して荒唐無稽ではない。パーソナライズされ、その場に応じたサービスが無料で提供されるということは、裏を返せば個人の嗜好や趣味、所在が常にモニターされているということである。これはまさにオーウェルが描いたビッグブラザーではないか。あるいは自分が監視されているかどうか当人が判断できないという状況はフーコーが説いたパノプティコンである。
 本書を読みながら私は「地獄への道は善意で固められている」という言葉を頻りに思い起こした。確かにグーグルの技術は秀逸であり、それによって私たちの生活は豊かになるかもしれない。グーグルの優秀な技術者たちが純粋な善意から新技術を開発していることを私も疑わない。多くの読者は素晴らしい環境の中で新しい技術が次々に開発されるサクセス・ストーリーとして本書を読むことであろうし、記者たちもそのような物語へと収斂させようとしている。しかし私はそのような楽天的な立場をとることができない。ここで示された技術は諸刃の剣であり、コンピュータがかくも固く私たちを拘束する現在、グーグルが蓄積した検索や個人情報収集に関するノウ・ハウは歴史上かつてないほど効果的で残忍な支配の道具となりうるだろう。「グーグル主義者たち」が唱導する利便性や効率性は今や誰も表立って批判できない絶対的な価値である。私自身は多少不便があっても自らのプライヴァシーが尊重される社会の方を好む。しかし少数意見に対する不寛容が蔓延する今日の日本に果たして私の居場所はあるだろうか。
by gravity97 | 2009-11-12 21:47 | ノンフィクション | Comments(0)