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Living Well Is the Best Revenge

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 久しぶりにスティーヴン・キングの新作長編を楽しむ。実は私はキングの最初期からの愛読者であり、『シャイニング』はパシフィコ版、『呪われた町』は集英社のプレーボーイ・ブックス版で刊行直後に読んでいる。その後も長編に関しては(全体の完結までに10年以上を要した)『暗黒の塔』以外、翻訳されるタイミングでこれまでにほぼ全てを通読してきた。しかし最近の長編はひどい。原著の刊行と翻訳の順番は必ずしも一致しないが、最近翻訳された長編の多くは冗長と錯綜もきわまったという印象で、『リーシーの物語』にいたっては読み進めることが苦痛であった。読んでいて面白くないキングなど、想像することができるだろうか。
 帯には「恐怖の帝王、堂々の帰還」とある。「堂々の」は言いすぎであろうが、ストレートな内容と筆運びで一気に読み終える。この長編は初期の傑作群のテイスト、キング的記憶に満ちている。例えばタイトルだ。日本語タイトルはなんとも仰々しいが、原題は「デュマ・キー」、物語の舞台となるフロリダの風光明媚な土地の名からとられている。キングには同じように地名をそのままタイトルとした傑作がある。「セイラムズ・ロット」、日本語タイトル『呪われた町』である。地名を訳出しても意味不明とはいえ「呪われた町」と「悪霊の島」とはあまりに直截なタイトルではなかろうか。外部と隔絶された世界における怪異譚は『シャイニング』をたやすく連想させるし、事故の後遺症に苦しむ主人公からは『ミザリー』が想起される。終盤で主人公たちが呪われた屋敷に向かう道行はピーター・ストラウヴとの共作『ブラック・ハウス』を髣髴とさせ、なによりも封印されていた忌まわしい力が何かのきっかけで復活し、主人公たちがそれに立ち向かうという構図は『IT』や『デスぺレーション』でおなじみだ。
 キングの場合、多少ストーリーを明かしても物語を読む愉しさが損なわれることはない。主人公エドガー・フリーマントルはかつて建設会社を経営していたが、大事故で右腕を失う。身体的な後遺症と精神的なトラウマのため夫婦生活も破綻したエドガーは主治医の勧めに従って温暖なフロリダのデュマ・キーという島に転地療養に赴く。エドガーはこの地でかつてカルダーやダリ、デュシャン(!)やキース・ヘリングが滞在した海に臨む邸宅を借りてリハビリに励む。大事故によって片手を失った代償であろうか、エドガーは次第に自分がある特殊な能力を身につけたことを知る。多くの画家がこの屋敷に逗留したことは偶然ではない。彼もまたなにかに憑かれたかのように絵を描き始め、自らが描いた絵をとおして、この陽光あふれる地でかつて起きた忌まわしい事件とそれを引き起こした悪しき存在が再び力を得たことを知る。秘密の一端を握るのはビーチを隔てた大邸宅に住む老女であり、エドガーは老女を介護する元弁護士、そして自分の身の回りを世話する青年とともにこのおぞましい力に立ち向かう。
 メインのプロットに別れた妻や娘たちとの交流、画家としてのエドガーの成長、身辺で発生する怪異などが絡まって、物語の奥行きが構成される。上巻ではさほど大きな事件は起こらない。それにも関わらず弓の弦を引き絞るようにエドガーの日常に次第に緊張がみなぎっていく巧みさはさすがキングである。絶頂期のキングに比べるならば、ややテンポが緩慢にも感じられるが、例によってフラッシュバック、フラッシュフォワードを駆使した語りからは近作にみられたあざとさが消え、読み物として飽きさせない。絵画そして画家のインスピレーションが小説の主題を構成しているためであろうか、今回の作品はいつになく視覚的な印象が強い。実際にエドガーの描いた絵、あるいは登場人物の描いた絵が謎を解く鍵となる。この物語を霊媒によるオートマティズムの物語と読むことも不可能ではないだろう。上に掲げるとおり、いつものように藤田新策がカヴァーの装画を担当し、上下巻を合わせると小説の内容を反映した不気味なイメージが浮かび上がる。海の皮膚とも呼ぶべき海面をめくり上げる構図から私はつい先日神戸で見た、ダリの絵画を想起した。両端に配された双子の少女は物語の中で重要な役割を果たす。そういえば、呪われた双子の少女というモティーフはスタンリー・キューブリックが監督した『シャイニング』の鍵となるイメージではないか。キューブリックのフィルムは有名な「All work and no play makes Jack a dull boy」の逸話をはじめ、オリジナルにはないエピソードと映像が横溢していたが、キングの原作にも双子の少女が登場していただろうか。
 それにしてもキング・オブ・ホラーの小説としては、最低限このレヴェルを維持してほしい。80年代後半から90年代にかけてディーン・R・クーンツやロバート・マキャモンといったヴェテランが読み応えのあるサスペンスを量産していたが、いずれの作家も近年の息切れがひどい。訳者あとがきによればアメリカで来月発売されるキングの新作『ドームのもとで』は『IT』や『ザ・スタンド』並みの大長編であるとのこと。経験則としてキングの大長編にははずれがない。遠からず刊行されるであろう邦訳を心して待ちたい。
by gravity97 | 2009-10-30 21:42 | エンターテインメント | Comments(0)

 後で述べる理由によって私はこの種のガイドに全く重きを置いていないのであるが、東京版に続いて、京都・大阪版が刊行されたとのこと。よく知った街でもあり、ひとまず求めてみた。
 レストランとホテル、旅館を含めて、星の数で判定するというスタイルはシンプルでわかりやすい。私が行ったことのあるレストランやホテルもいくつか掲載されている。思ったより少なかったのは先に出た東京版と比べても、私が好まぬ割烹形式、京料理系の店が多く選ばれているからであろうか。ただし実際に足を運んだことのある割烹や旅館に関してもさほど料理が優れているという印象はない。以前にも記したが、美食とは畢竟個人的な体験であって、その日の気分や体調、会食する相手や話題によって同じ料理でも私たちは異なった感覚を享受する。今回のミシュランには「星は料理そのものに与えられる評価であり、店の雰囲気、サービス、快適さは星の評価基準には含まれていません」と奇怪な弁明が付されている。手元に東京版がないため、これが全てのガイドに付された文言であるか、京都の「老舗」に対するイクスキューズであるか判然としないが、店の雰囲気やサービスが料理の評価を構成する重要な要素であることは自明であり、「料理そのものに与えられる評価」などはありえない。レストランや料理に客観的な判定を与えること自体がナンセンスであるから、ミシュランは一つの指標となりえても、星の数やそもそも掲載されているか否かに積極的な意味はないと私は考える。国内でも私は数年に一度、それこそ「魂を震えるほどb0138838_2391441.jpgの」美味に遭遇することがある。二種類のミシュランのいずれにも私がそのような体験をしたレストランは掲載されていないが、美食が個人的な体験である以上、それは驚くに値しないし、特にこのガイドブックの評価を疑う根拠になるとも思わない。
 私は京都の料理店がミシュランの評価の対象とされることに以前より意地悪な関心を抱いていた。今回のミシュランの頁を繰ると、店構えや料理の写真が掲載されていない店がいくつかある。おそらく星の数で評価されることを嫌って、取材や写真の提供を拒否したのであろう。いかにも京都らしい姑息な振舞いである。評価されることを拒否するならば掲載そのものを断ればよい。評価から外されても自分たちの主張を貫くほどの矜持もないくせに自分たちは他者の評価の埒外にあるとでも主張したいのであろうか。以前から強く感じていた点であるが、ことに京都にはダブル・スタンダードの店が多く、一見の客に対してはきわめて冷たい一方で、馴染みの客には異常なまでのサービスを提供する。今までよそよしかった店がある時点を境に妙に馴れ馴れしく客に接して来ることを私は何度か体験した。実に気持ちが悪い。同じ料金を払ってテーブルに着いた以上、誰であろうと同等の客であるはずだ。自分たちと同じ文化を共有する相手しかサービスを提供しないという発想はきわめて閉鎖的、「田舎者」のそれである。
 今回のガイドで京料理という相互に比較することが困難な料理の店を中心に紹介し、名の通った店、高額の店に高い評価を与えている点は、外国人ツーリストと京都の業界のいずれにも配慮した、したたかな戦略をうかがうことができる。内容について個々に評したい点もいくつかあるが、私は「グルメ評論家」ではないから控える。その代わりにここではレストランに関して私なりの一つの見識を示すこととしよう。かつて抽象表現主義の修道僧、アド・ラインハートは自らの造形の原理を「テクスチュアはいけない」から「シンボル、イメージ、記号はいけない」にいたる12の否定的なルールとして定義した。ラインハートに倣って私が披露するのは自分の体験から導出した「いけないレストラン 十訓」である。ミシュランより役立つことは私が請合う。


いけないレストラン 十訓

1.妙に明るく、広々としたレストランはいけない。
2.調理している様子を客に見せるレストランはいけない。
3.一月前でも予約のとれないレストラン、極端に料金の高いレストランはいけない。
4.馴染みの客だけに違ったサービスを供するレストランはいけない。
5.シェフやオーナーが客席をうろつき、馴染みに挨拶するレストランはいけない。
6.ワインリストに載っていないワインの価格を口頭で告げるレストランはいけない。
7.客席に蠅や蚊のいるレストランはいけない。
8.メニューに記載してあるスペシャリテが事前予約を必要としたり(しかも予約の際にはその旨を告げない)、品切れになるレストランはいけない。
9.下品な客のいるレストランはいけない。
10. 煙草を吸えないレストランはいけない。


 冗談のような項目もあるが、私の実体験に基づいている。さすがに具体的な店の名前を記すことは控えるが、いずれもそこそこ名の通ったレストランでの体験である。料理のクオリティについては触れていない点に注意していただきたい。そしてこの十訓を満たすレストランというのは実は意外に少ないのである。
 さて、ミシュラン・ガイドに戻ろう。私はミシュランをこのように使おうと思っている。京都で多少名の知られた店に行くと、東京から来た「エグゼクティヴ」たち(自分たちでその旨を大声で表明しているのだから間違いなかろう)の下品な会話に辟易することがしばしばある。割烹で一緒になったりしようものなら、どこにも逃げ場がない。京都という街の特殊性もあろうが、このようなどうしようもないゲストに阿り、高い料金を請求する店が名店を自称しているのである。おそらく東京の「エグゼクティヴ」たちが今後京都を観光する折にミシュラン・ガイドは心強いツールになるだろう。したがって私は今後、ここに記載された店には一切足を運ばない。ここに掲載されていなくても、私は訪ねるべきレストランをいくつも知っているし、それによって下品な客と同じカウンターで料理を供される不幸を味わう確率は確実に減るはずだ。なんともありがたいガイドではないか。


25/11/09 追記
今回、取材を拒否した店に対してもミシュラン側は掲載を強行したとのことである。したがって掲載そのものを断るという選択肢は店側にはなかったと考えられる。
by gravity97 | 2009-10-21 23:14 | エピキュリズム | Comments(0)

NEW ARRIVAL 091015

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by gravity97 | 2009-10-15 21:26 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

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長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したに違いない。
by gravity97 | 2009-10-10 22:15 | PASSAGE | Comments(0)

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 あれから10年近くが経とうとしているが、TVを通じて垣間見た阿鼻叫喚はまるで昨日のことのように思える。本書の表紙、黒煙を上げるツインタワーとそこへ突入する二機目の旅客機のイメージは21世紀を生きる人類にとって決して癒されることのないトラウマだ。
 しかし奇妙なことに、なぜこのような惨劇がもたらされたかを説得的に論じた本を私たちはほとんど知らない。猿のような大統領が叫んだ民主主義かテロリズムかという二分法は論外としても、自らの命を賭してまでなぜかかる蛮行に及んだか、私たちは「彼ら」について未だに何も知りえないまま、今日にいたっているのではなかろうか。私は本書を深い感慨とともに読み終えた。それは地道な取材を通して書き上げられた骨太のノンフィクションに対する賛嘆の念であると同時に、いかに自分がイスラム世界に関して無知であるかという苦い自覚であった。
 サブタイトルが暗示するとおり、本書ではウサマ・ビン・ラディンとアイマン・ザワヒリという二人の指導者の半生をたどりながら、アルカイダという組織の同時多発テロにいたる歴史が丹念に検証される。一方で対テロ部門の責任者としてアルカイダによるテロの危険性を誰よりも早く警告しながら不遇のうちに退職した後、世界貿易センターの保安主任へと転じ、一月も経たたずして9・11の中で絶命するジョン・オニールというFBI特別捜査官の数奇な運命が語られる。しかしいずれの人物もヒーローやサタンではなく等身大の人間として描かれ、彼らをめぐる物語も善悪の対立や未開対文明といったありきたりの構図に陥ることはない。もちろん本書をFBIとCIAの確執に由来する危機管理の失敗のケースステディとして読むこともできようが、私はそのような体制側の教訓には関心がない。スーダンからパキスタンにいたるイスラム諸国の丹念な取材から浮かび上がるのは知られざる中東の現代史、血と油にまみれた歴史だ。それにしても、と私は思う。何世紀も前の話ではない、私が生を享受した同じ時代に、戦地となったアフガニスタンやイラクばかりではない、サウジアラビアでもエジプトでも、なんと多くの民衆が支配者の暴虐、大国の理不尽な干渉、そして原理主義の圧制の中で塗炭の苦しみを舐めていることか。たまたま日本という国に生まれた私とイスラムに生を受けた人々との非対称性に目まいを覚える。
 本書の劈頭に登場するのはサイイド・クトゥブというエジプトからアメリカへの留学生をめぐる同時多発テロから半世紀以上も前のエピソードである。アメリカに留学しながらも資本主義に対する憎悪に燃えて帰国したクトゥブは過激な原理主義者として人々を扇動するが、投獄され拷問を受け、処刑される。しかしクトゥブが播いたアメリカへの憎しみの種は半世紀の後、未曾有のテロとして開花した。あるいはザワヒリもエジプトの刑務所で苛酷な拷問を受ける。ライトはゆえのない暴力を甘受しなければならない屈辱こそが同時多発テロの起源ではないかと論じる。それならばガザで、ボスニアで、あるいはアブグレイブで今もなお私たちは憎悪の種子を播き続けている。それらは将来、どのようなかたちで花を開くのであろうか。単にテロの表層をなぞるのではなく、その淵源を半世紀前にたどり、暴力の反復を活写する点で本書は予見的でさえある。
 私たちも時折、中東の凄惨な現代史の一端を垣間見る。例えば1994年にアルカイダの予備的なテロによってフィリピン航空機内で日本人ビジネスマンが爆殺され、1997年にはエジプトのルクソールでハネムーンの日本人を含む多くの観光客がイスラム集団を名乗るテロリスト集団に虐殺された。いずれの事件についても本書の中で言及があり、同時多発テロへといたる途上のメルクマールを画している。しかしそれはほんの一端にすぎない。79年、メッカ襲撃事件ではモスクに篭城した叛乱軍とサウジ軍の間で激しい戦闘が交わされ、数百から数千の死者が発生した。鎮圧された叛乱軍の残党62人は全員斬首刑に処せられた。あるいはタリバンが支配するアフガニスタンで繰り広げられた原理主義イスラムの宗教的圧制はポル・ポト治下のカンボジアを想起させる。彼らは1998年にビン・ラディンをサウジアラビアへ引き渡した見返りに得た資金と物資をもとにマザリシャリフという土地でパレスチナやボスニア・ヘルツェゴビナもかくやと思われる少数民族への無差別虐殺とレイプを行った。あるいは本書中、「少年スパイ」という章ではザワヒリを逮捕するためにエジプト秘密警察が非道このうえない手段で関係者の家族を篭絡するが、その顛末たるや正視に耐えない無残さだ。もはや正も邪もない。本書の中で語られる、同時多発テロのはるか以前、中東の地で繰り返された暗澹たる暴力の歴史に私は慄然とした思いにとらえられた。
ビン・ラディンという謎めいたカリスマについても、本書の中では仔細にその閲歴が検証される。巷間に伝わる狂信者やテロリストといったイメージとはほど遠い、サウジ王家とも親交があり、ビン・ラディン・インターナショナルという日本でいえば大手ゼネコンの有能な経営者であった男が、いくつかの屈折を経験しながら次第に同志を糾合してアメリカへのジハードを実現していく過程が綿密に記述される。しかし本書を読む限り、カリスマ性はあっても、何度も挫折を繰り返し、同時多発テロの成功に関しても僥倖といった側面が多いことは明らかである。テロリズムに対して、体制はそれを一人の個人の犯罪と矮小化しようとする。しかしそれは例えば連合赤軍事件を指導者の資質に還元するような政治的操作であり、私たちが真剣に考えるべきは、なぜモハメド・アタをはじめとする比較的高い教育を受け、イスラムにおいて安定した地位を得られたであろう若者たちが自爆テロに走ったかという今日においてもなお十分に究明されていない問題である。パレスチナで、サウジアラビアで、なぜ有為の若者たちが自らの命を犠牲にしても多くの人々の命を無差別に奪おうとするのか。かつてハニ・アブ・アサドの「パラダイス・ナウ」というフィルムを見た時、私は日々の仕事に出勤するかのように自爆テロへ向かう若者たちのメンタリティーに暗然とした思いにとらわれたが、本書を読むとその機制がいくぶん理解できたように感じる。おそらく一つの鍵はイスラム法学者や宗教的指導者によるファトワー(教義判断)といわれる判定であろう。ファトワーとは少なくとも日本に住む私たちにとっては理解しがたい概念であるが、法律や慣習とは異なるレヴェルで民衆を強く統制し、しかも宗教的倫理性を帯びた規範である。オウム真理教がポアという概念によって、殺人を正当化しようとしたことが想起される。アルカイダは自爆テロと無辜の人々の殺害を是とするファトワーによって武装した。おそらくアルカイダのテロの特異性は自爆という手段を用いる点にある。かかるテロはパレスチナ人によってしばしばテルアビブで繰り返された。きわめて個人的、場当たり的であったインティファーダに対し、アルカイダははるかに組織的、計画的に自爆テロを準備し、実行する。若者たちが嬉々として自爆テロに赴く理由についてライトは次のように説く。「華々しく、しかも意味のある死。人生の喜びや努力のしがいのない政府の抑圧下に暮らし、経済的損失に人々が打ちひしがれている場所では、そうした誘惑はとりわけ甘美に響いた。イラクからモロッコまでアラブ人が統治する各国政府はどこも自由を圧殺していた」王族や族長といった石油をめぐる利権をもつ人々が無益な浪費を重ねる一方で、そのような利権から見放された人々がいかに悲惨な生を営んでいるかについては本書の中で繰り返し語られる。石油によってもたらされた富の偏在が、生きるに値しない現実を生む。しかし現在、「彼ら」のではない、私たちの社会はこのような現実の上に初めて持続することが可能なのである。
同時多発テロはパンドラの箱を開けた。原理主義と不寛容が世界に蔓延し、未だに希望は現われていない。
by gravity97 | 2009-10-07 07:40 | ノンフィクション | Comments(0)

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by gravity97 | 2009-10-01 23:13 | SCENE | Comments(0)