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Living Well Is the Best Revenge

b0138838_20271331.jpg 表紙の写真がよい。おそらくはマンハッタンの路上、書店かカフェの前であろう。ガラスの扉を背にして、きりっとした表情でやや上方を見上げるスーザン・ソンタグ。強い意志と知性が感じられる肖像だ。
 ソンタグは2004年12月28日、71歳で没した。本書はサブタイトルにもあるとおり、最期の九ヶ月、息子であるデイヴィッド・リーフの目を通してつづられたソンタグの闘病の記録である。ヨルダン川西岸地区のルポルタージュの仕事から帰国したリーフが母から血液検査の不調を告げられ、共に再検査の結果の告知に立ち会うことを求められる冒頭から、読者は直ちにソンタグの最後の戦地に召還される。本書を読んで初めて知ったが、実はソンタグは40代前半に進行性の乳がんのため、根治的な乳房切除手術を受けて一命をとりとめ、その後も定期的に血液検査を続けていた。乳がんからの生還自体が確率的には奇跡的なものであり、ソンタグは自身のこのような生を、苦痛と身体の毀損を代償に獲得しえたとみなしていた。がんが再発した懸念はその後も何度か検査の中で浮かび上がったが、「確率に打ち勝つ人」ソンタグはそのたびにそのような疑いを振り払ってきた。しかし2004年3月、彼女は息子のデイヴィッドとともに自らが白血病の一種、MDS(骨髄異形成症候群)という不治の病で余命いくばくもないという宣告を受ける。
 彼女が最初に手術を受けたのが40代前半というから1970年代のはずだ。私が初めて読んだソンタグの文章は竹内書店新社から刊行されていた『反解釈』(現在はちくま学芸文庫)所収のハプニングに関する論考であったが、この著作でラディカルな才媛の登場を印象づけてまもなく彼女は最初のがんとの戦いに赴いたこととなる。私が彼女の闘病生活を知らなかったことは無理もない。80年代以降もソンタグは常にアクティヴであり、そのような気配は全く感じられなかった。写真論をはじめとするいくつもの重要な著作、そしていくつかの小説を著し、よく知られているとおり、1993年には内戦状態にあったサラエヴォに赴いて、ろうそくの明かりのもとでベケットの「ゴドーを待ちながら」を演出した。あるいは今回、あらためてバックナンバーを繰って確認すると95年のことであるが、ソンタグは浅田彰らが主宰する『批評空間』誌の共同インタビューに応じ、浅田と柄谷行人を歯牙にもかけぬといった態度で、自分たちのような知識人(ソンタグによれば「私たちのような大人」)は漫画や大衆雑誌は一切読まず、TVも見ないと断言し、くだらぬTV番組に出演しているという理由で大島渚を全否定した。あるいは先日、村上春樹がそれなりに印象的な受賞演説を行ったエルサレム賞をソンタグも2001年に受賞しているが、この際、彼女はエルサレムでイスラエル軍による「一般市民への均衡を書いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の権利の剥奪」を強く非難する格調高い演説を行っている。さらに9・11の同時多発テロの後、熱狂的なパトリオシズムがアメリカを覆う中で、イラク爆撃を批判し、報復の恐れのない高空から殺戮を繰り返すアメリカ軍こそ他者を殺すために自ら死んでいく者より卑劣だと述べたことも記憶に新しい。(これら二つのテクストは日本語に訳され『この時代に想う テロへの眼差し』に収録されている。参照されたい)
 予想されることであるが、自らの病に向かうソンタグの姿勢も峻烈きわまりない。彼女は生き延びることをこの戦いの目的とした。延命医療の現場で重要視されるQOL、生活の質という概念はソンタグにとって何の意味ももたない。彼女は可能な限りMDSに関する情報を集め、少しでも生きながらえるためであれば、いかなる療法も受け入れると宣言する。苛酷な手術と治療を経て、ひとたび乳がんから生還したことが彼女の姿勢をかえって頑なにしたといえるかもしれない。日本人には病と共生するという発想があり、がんの場合も完治しなくともそれこそ「生活の質」を保つことが優先されることが多い。しかし彼女にとって病とはいかなる手段を用いても排撃すべき異物であり、妥協はありえない。これらのエピソードは私に口腔がんのために33回にもわたる手術を繰り返しながら、旺盛な活動を続けたジークムント・フロイトの晩年を連想させる。フロイトはともかく、ソンタグの姿勢には80年代にニューヨークのゲイ・サークルの中で猛威をふるい、おそらく彼女の知人の多くを死にいたらしめたエイズの猖獗に立ち会った経験、そして彼女同様、アメリカを代表する進歩的知識人であり、奇しくも同じ血液のがんでソンタグに先んじて逝ったエドワード・サイードの闘病生活が影響しているのではなかろうか。本書を通読することによって、80年代から90年代にかけて彼女が病という特殊な主題に拘泥した理由を初めて理解するとともに、私はこれら二つの著作『隠喩としての病』と『エイズとその隠喩』を直ちに読む必要を感じた。リーフによれば、サイードがやはり苛酷な処置によって「臨月の妊婦のように」腹を膨らませながら書き上げたという『晩年のスタイル』については既にこのブログで触れた。ソンタグもサイードも自らが書き上げるべき原稿、仕上げるべき仕事が残されている間はいかなる苦痛があろうとも病と共存することを拒む。二つの知性が人生の終幕にあたって病と和解ではなく対決することを選んだことに私は感銘を覚える。このような決意と選択に9・11以降のアメリカの知的状況、知識人の間にさえ不寛容の気運が広がり、ソンタグの言葉を借りれば「時代がますます悪くなる」状況が与っていることに疑いの余地はない。
 ソンタグは自らインターネットを検索し、デイヴィッドや友人たちを総動員してMDSの治療法、根治は不可能であっても寛解の期間を長らえる方途を探るが、入手できる情報は絶望的な内容ばかりである。最後の賭けであった骨髄移植も失敗し、病状は日増しに悪化する。死を前にした母のために何ができるか。内省をめぐらす著者の姿は痛々しい。もちろんこれは普遍的な問題である。私事となるが、私も父をがんで亡くし、今年に入って、年若い友人と先輩が続けざまにがんで逝った。いずれも長い闘病の後の死であり、この意味でも私にとって本書を読むことは辛い体験であった。しかし死を従容と受け入れるのではなく、徹底的に死に抗ったソンタグの最期の日々は、死をいかに迎えるかという誰もが避けて通ることができない問いに対する選択肢を広げ、知識人の表象というサイードの問いかけとも深く関わっているように感じられた。
by gravity97 | 2009-05-29 20:27 | 評伝・自伝 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 090524

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by gravity97 | 2009-05-24 21:45 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

「マーク・ロスコ」展

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 川村記念美術館で「マーク・ロスコ」展を見る。素晴らしい展覧会であった。数年に一度、美術館で魂が震えるような体験を味わうことがある。はるばる佐倉まで赴いたかいあって、私にとって久しぶりの、国内で味わうことのまれな感覚を覚えた。
 昨年、同じ美術館でモーリス・ルイスを見た際に、ロスコ・ルームが閉鎖され、そこに展示されていた作品がテート・モダンに貸し出されている旨の表示がなされていたが、今回は逆にテート・モダン所蔵の作品などを迎えて、メインの展示室は15点の大作で構成されている。それらはいずれもニューヨークのシーグラムビル内のレストラン、フォー・シーズンズの内装として注文され、結局ロスコが契約を破棄してまで展示を拒絶した、いわくつきの作品である。ロスコがこのような決断を下した理由も興味深いのであるが、「カタログ」を参照するならば、いくつか微妙な問題をはらんでいてその経緯は必ずしも判然としない。ひとまずここではこの問題についてこれ以上踏み込むことは控える。
 この美術館の展示はアプローチが絶妙だ。最近リニューアルされた常設においても階段を上がるにつれてバーネット・ニューマンの《アンナの光》が姿を現し、みごとな効果を醸しだしている。今回の展覧会でもシーグラム壁画をめぐってロスコとテート・ギャラリーのノーマン・リードの間で交わされた書簡やテートにおける展示プログラムの模型など、興味深い資料が展示された最初の部屋から狭い回廊を通ってメインの展示室に向かうと、まず正面左側、高い位置に掲げられた五点の作品が目に入り、視線を転ずると次第に正面の壁面に展示された大作の五連画が明らかとなる。私が絵画的法悦とも呼ぶべき感銘を受けたのはこの瞬間であった。続いて(正面に向かって)右側に二点の横長の大作、そして正面に対面して三点の大作が設置されている。ロスコ・チャペル同様に自然光を用いて、ホワイトキューブの空間に配置された赤褐色のシーグラム壁画は個々の絵画というよりも空間として圧倒的な印象を与える。この空間を構成する作品は現在、テート・モダンとワシントンのナショナル・ギャラリー所蔵の作品、そして川村美術館のコレクションによって構成されている。私はテートのロスコ・ルームに何度か通ったことがあるし、ヒューストンのロスコ・チャペルも訪れたことがあるが、今回の展示はそれらにも増して、圧倒的な存在感を与えた。思うに前者は作家の名前を冠した部屋に展示されていたにせよ、やはり広大な美術館の中の一室という思いが拭えず、また後者はフィリップ・ジョンソン設計によるチャペルのあまりにも瞑想的な雰囲気が作品との純粋な対面を妨げていたのではなかろうか。
 今回の展示では今述べたとおり自然光が採用され、人工照明も併用されていた。このため天気や時間によって画面は微妙な精彩を帯び、白い壁面を背景にロスコの絵画の特徴とも呼ぶべき内部から滲出する光のような効果が最大限に生かされていた。作品が設置してある位置は通常の絵画の展示に比べて高く、いくつかの作品にみられるロの字状の構造とともに垂直性が強調されている。作品の設置については配置や間隔にシンメトリーへの配慮が認められるが、画面自体は対称性を欠いている。大画面にもかかわらず、作品相互の感覚が著しく狭いことはこれらの連作が壁面を埋め尽くす文字通り壁画として構想されていた点を暗示している。巨大な色面に直面した際の衝撃、崇高と呼ばれるにふさわしい感覚はバーネット・ニューマンやクリフォード・スティルに共通し、この意味で同じ美術館においてロスコのシーグラム壁画とニューマンの《アンナの光》の前に佇むことができるのは奇跡と呼ぶべき幸運であろう。

 私はこの展示には賛辞を惜しまない。しかし展覧会の在り方としては、本展は作品の本質に関わるいくつかの問題を抱えているように思う。先に述べたとおり、今回の展示ではいわゆるシーグラム壁画30点のうち、15点が出品されている。シーグラム壁画のデータはカタログ・レゾネから容易に特定できるが、ロスコほどの作家の作品借用に関しては様々な問題が介在しているであろうから、出品作品の選択がある程度偶然に支配されることは私も理解している。しかしこれらの作品が当初、一つの部屋の全体に配置されるものとして構成されていた以上、それらをいかに配置するか、壁画プログラムはきわめて重要な問題であるはずだ。そもそもこれほどの大画面の配置がその場で決定されるはずがなく、最初の部屋に展示してあったテートのロスコ・ルームの模型はこのような配置が入念な配慮のもとに行なわれてきたことを暗示している。ロスコを持ち出すまでもなく、通常の展覧会においても、担当学芸員が建築模型と模型に合わせて縮小した作品の図版を用いて事前に展示室内の配置を構想することはよくあることだ。それどころか今回の展示においては作品のサイズに合わせて壁面が設置された可能性が高い。15点の作品の配置は展示の根幹に関わっている。しかし展覧会において、これに関わる説明が一切ないのはどういうことであろうか。私の見落としがなければ、この点について多少とも言及しているテクストは、この展覧会のホームページの中で作品が設置される高さと作品の間隔についてロスコ自身の言葉と関連させてごく短く触れた箇所だけである。「カタログ」の冒頭に掲げられた写真を参照するならば、おそらく佐倉での展示は昨年この展覧会がテート・モダンで開催された際のインスタレーションをある程度踏襲している。しかし『美術手帖』に掲出された図版と比較するならば、作品の順番は異なっているようである。二つの展覧会では作品に若干の異同があった可能性もあるが、私の手元にはテート・モダンのカタログがないため今のところ確認できない。ロスコがこれらの壁画によって空間そのものの創出を試みた以上、今回、企画者がどのような意図と配慮のもとに展示空間の再現を試みたかについては十分な説明があってしかるべきではないか。その根拠を示さないのは作家に対して敬意を欠いた態度に感じられる。せめて川村記念美術館における展示風景を図版として残すべきであろう。インスタレーションやミニマル・アートの作家の場合、展覧会が始まってから会場の写真を撮影したうえでカタログを制作する、あるいはカタログの別冊として残すことは日常的に行なわれている。なぜこのような努力がなされていないのだろうか。
 この問題は今回の展覧会の「カタログ」と関わっている。今回の展覧会の意義は単にロスコの展覧会を開いたことではない。たとえ半数とはいえ、作家の生前にさえ実現しなかったシーグラム壁画を一同に展示したことに求められる。したがって企画の意図に沿うならば、今回のカタログは当然シーグラム壁画に集中すべきであるように思われる。ところが美術館ではなく淡交社が制作した今回のカタログを見て驚く。そこには展示されていない作品まで図版が掲載されている一方で、今回の壁画プログラムの詳細についてはほとんど触れられていない。この理由により私は先ほどからこの奇怪な画集を括弧つきの「カタログ」と呼ぶしかないのであるが、結果的に展覧会の輪郭はきわめてあいまいになっている。例えば展覧会ではテートのノーマン・リードとの間で交わされたこれらの壁画の帰趨をめぐるきわめて重要かつ興味深い資料が展示されている。ところがこれらはなぜか「カタログ」に一切掲載されていない。その代わりに収録されているのはドーリ・アシュトンの回想やらなんら新鮮味のない下品な評伝やら、シーグラム壁画と直接の関連をもたない資料ばかりである。もちろん当事者であるアシュトンの回想はいくつもの興味深い内容をはらみ、寄せられたいくつかの論文もそれ自体は示唆に富む。しかしそれらはロスコに関する論集として出版すればよい内容である。展覧会と「カタログ」は完全に乖離している。
 最近このような「カタログ」が増えてきた理由ははっきりしている。展覧会とは切り離して書籍として書店でも販売可能な形態をとることによって、美術館はカタログ制作に関わるリスクを回避し、出版社はあまり労力を用いることなく、さしあたり話題性のある刊行物を出版して、美術館で販売できる。あるいは学芸員にとってはカタログ編集という面倒な仕事を出版社に押しつけることもできる。なんという安易さだろうか。この結果、残されるのは展覧会の記録でもなく、本格的な論集でもない、鵺のような奇怪な書物である。この「カタログ」の編集に携わった関係者の一人が最近あるところでロスコに関する一冊のまともな日本語の画集もない現在、代表作を網羅し、研究論文や評伝まで加えた決定版ともいえる文献を「この展覧会を契機に」刊行できたと自画自賛する文章を書きつけているのを目にした。笑わせてはいけない。一人の作家の展覧会を組み立てるということは、作家が何を考えて作品を制作したかに真摯に向き合うことである。少なくともシーグラム壁画を展覧会の主題とする以上、カタログで扱われるべきは個々の作品ではなく、絵画が展示される場所であるはずだ。展覧会が開かれることを渡りに船と、「代表作」の小さな図版を数点加えた安易な編集でロスコの芸術を世に問おうという姿勢は、作家に対する無理解に起因する。さらにいえば作品の前に足を運ばずとも書店で入手可能なお手軽な「カタログ」でこの偉大な作家についてなにごとかを語ったつもりでいる傲慢さそれ自体が作品の体験を何よりも重視したロスコに対する冒涜以外のなにものでもない。
 必ずしも説明責任を果たしていないにせよ、展覧会そのものは作家の意図に誠実に応答する、優れた内容であったと感じる。それゆえ一層私は展示と「カタログ」の懸隔が気になるのだ。確かに欧米に比べて、日本の場合は展覧会に関わる業務の専門化が遅れている。しかしつかのまの展示に対して、展覧会図録は基本文献として公準化される。両者は一体であると私は信じている。この展覧会ではしなくも露呈した両者のギャップが暗示するのは、今日の美術館と学芸員の質的な劣化、あるいは展覧会という文化産業の商業主義化のいずれであろうか。

図版は川村記念美術館ホームページより転載
by gravity97 | 2009-05-22 21:23 | 展覧会 | Comments(0)

b0138838_16155.jpg 遅まきながら若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を見る。連合赤軍による「リンチ殺人」そしてあさま山荘事件から既に40年近くが経過した。多くの日本人にとって既に忘れられた事件かもしれない。これらの事件は当時それなりに深められつつあった左翼思想と大衆による社会変革の可能性を文字通り扼殺し、無気力と沈滞の70年代に道を開いた点で一つのネガティヴなメルクマールを画している。
 観客が学生叛乱についてほとんど知識をもたないことを前提としているためであろう。原田芳雄のナレーションとともに60年安保に始まる学生運動の高まりを当時のニュースフィルムによって次々に提示するやや説明的なカットともに映画は幕をあける。続いて連合赤軍を構成することとなる若者たちが次々に登場するが、個人の背景や経歴はほとんど描かれることがない。映像全体をとおしていえる点であるが、若松は彼らの行動に因果関係や目的、方向性といった関係性を与えることなく、再構成された事実のみを提示する。結果として当時を知らない世代にとってはわかりにくい印象があるかもしれないが、逆に映像は過剰な思い入れや安易な断罪からも免れている。最初に登場するのは遠山美枝子と重信房子という二人の女性活動家である。前者は山岳ベースで無残なリンチ死を迎え、後者はパレスティナの地で日本赤軍を組織するため、いずれも物語の途中で姿を消すが、彼女たちの存在は若松がこの映画を制作した理由と密接に関わっている。1971年、若松は盟友足立正生とともにパレスティナに赴き、「赤軍―PFLP 世界戦争宣言」を撮影する。この時、ガッサーン・カナファーニの紹介状を携え、通訳として同行したのが重信であり、撮影を終えてベイルートに戻った若松は彼らを迎えたゲリラたちが撮影後まもなく全員絞首刑に処せられたことを知る。そしてこの映画を日本で上映する際に若松を手伝ったのが遠山であった。彼女たちは若松と連合赤軍を具体的に結びつけると同時に、パレスティナに向かう重信との別れに際して遠山が涙を流す場面は連合赤軍内部においては存在しえなかった友愛という同志的紐帯を暗示している。友愛ではなく規律が統制する山岳ベースで、メンバーたちは一人また一人と無残な「総括死」を遂げる。カメラは12人に及ぶリンチ殺人の被害者たちがいつ、いかなる理由で、いかにして死にいたらしめられたかを一人一人丹念に追う。何人かの関係者は既に出獄しているし、足立をとおして日本赤軍と太いパイプをもつ若松のことだから、事実関係が厳密に考証されていることは明らかである。私の個人的な感想としては、ひたすら「共産主義化」を唱えて、各人に総括を求める森恒夫と永田洋子の教条性と狂気は誰が見ても明らかであり、映像は戯画的にさえ感じられたが、閉じられた集団における構成員の判断停止は、近年のオウム真理教をめぐる一連の事件でも再現された。淡々と描かれた映像からは彼らの営為を高みから批判する姿勢がないのと同様に彼らを美化する意図もないように感じられた。
 事件からこれほどの時間を経た後で若松がこの映画を製作したことはいかなる理由によるだろうか。このような問いを立てる時、私は日本においてこれらの社会的事件が文学や映画の問題として未だまともに「総括」されていないことにあらためて驚きの念を禁じえない。この事件は当時の左翼思想を奉じる思想家や作家たちに決定的な挫折感を残したが、そのトラウマは今日も残存しているのであろうか。例えば文学の領域で関連する主題を扱い、かつなんらかの意味をもつ例としては、私の知る限り大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』しか存在しない。彼らに先行する世代である大江が障碍をもった子供との共生というテーマと絡めながら、1973年というきわめて早い時期にこの事件に対する彼なりの真摯な応答を行っていることは注目に値する。それにしても同世代の作家たちの無残さはどうだ。三田誠広の『漂流記 1972』と立松和平の『光の雨』。当事者たちと同じ世代の作家によって連合赤軍事件を主題として書かれたこれら二つの小説のうち、前者は事件を無意味に戯画化した必然性のないパロディであり、後者は事件に加担した老人が既に終えられた事件を回顧するという通俗的なメロドラマの枠組を脱していない。ともに一人称の語りによるこれらの表象は挫折した革命、残忍で幼稚な権力闘争といった「公式資料」に基づいたステレオタイプによって事件の輪郭をなぞることに終始する。事件を個人の資質や内面へと矮小化し、政治的闘争あるいは革命といった問題の露出を隠蔽するこれらの小説はもう一方の当時者であった警察官僚、佐々淳行による『連合赤軍あさま山荘事件』という自画自賛の武勇伝と本質的に変わるところなく、私にとってはほとんど犯罪的に感じられる。小説の方法論について自覚のない三田や立松のごとき作家に扱える主題でないことは読む前から予想していたが、いずれも読了後、強い不快感が残った。おそらく同様の不全感が若松をこの困難な映画に向かわせたのであろう。若松は今挙げた佐々の回想録を映画化した原田眞人の「突入せよ! あさま山荘事件」を強く批判し、映画は権力ではなく常に弱者の視点に立つべきだと説く。原田の映画があさま山荘を外部から描くのに対し、「実録連合赤軍」の映像は全て山荘の内部にカメラが位置している点は象徴的である。個人的にも親交があった友人たちの闘争をこの程度の映像で「総括」されることに対して、映画監督若松の「このままでは死んでも死にきれない」という思いは当然であろうし、そのような気迫が映像全体から伝わってくる。私は70年代の革命闘争に関してそれなりの関心を抱いていたが、この映像を通して初めて連合赤軍の活動の全幅と限界を理解した気がした。
 当時、同様の暴力はヨーロッパでも渦巻いていた。1977年10月18日、シュトゥットガルトの刑務所に収監されていたいわゆるドイツ赤軍、バーダー・マインホフ・グループのメンバー4名がそれぞれの独房で同時に自殺を図るという不可解な事件が発生する。バーダーらの釈放を求めるドイツ赤軍とPFLPによってハイ・ジャックされ、ソマリアのモガディシオ空港に着陸していたルフトハンザ機がドイツの特殊部隊によって制圧された同じ日の惨劇であった。監視の行き届いた刑務所で囚人が同時に自殺することはありえず、彼らは引渡しを拒んだ当局によって虐殺された可能性がきわめて高い。それから11年後、ゲルハルト・リヒターは「1977年10月18日」と題された15点から成る連作絵画を発表した。それは自殺の状況証拠である現場写真や彼らの葬儀の模様を撮影した写真を拡大したモノクロームの絵画連作であった。現在、ニューヨーク近代美術館に収蔵されたこれらの連作を実見して、私は深い衝撃を覚えた。むろん私に今述べたような知識があったことも関係しているだろう。しかし扼殺痕も生々しい死体やメンバーのポートレート、彼らが収容されていた独房の内景などが描写された、暗鬱たるグレーのフォト・ペインティングは凶々しい暴力が遍在した時代の一つの肖像を提示していたように思えたのである。私がこれらの絵画からダヴィッドの《マラーの死》を連想したこともあながち的外れではないだろう。むろんリヒターは優れた画家であって社会活動家ではないし、なんらかの政治的な文脈でこれらの絵画を制作した訳でもない。しかし革命の幻想を無残に断ち切る一つの事件から長い年月を隔てて、リヒターにおいては絵画、若松においては映画を介して一つの断念が表現されたことはきわめて興味深い。言い換えるならば彼らのような優れた表現者にとっても、自らの世代の政治的挫折に明確なかたちを与えるためには相応の時間が必要とされたということであろうか。
 最後に一点付言するならば、連合赤軍事件に関して、三田や立松ほど声高ではないが、文学の領域でも80年代に一つの画期的な総括がはかられている。それは桐山襲の「スターバト・マーテル」という中篇である。比較的短い小説であり、やや抒情的に感じられもするが、この早世した作家は連合赤軍事件によって革命が退潮した後に都市ゲリラ戦を持続した東アジア反日武装戦線の闘争に取材した傑作『パルチザン伝説』をはじめとする一連の作品を残している。桐山については別の機会に論じたい。
 なお上に掲げた『若松孝二 反権力の肖像』には四方田犬彦が中心となって編集した若松に関する論考とインタビュー、フィルモグラフィーが収録されている。「実録・連合赤軍」についても言及があり、この特異な映画監督の閲歴を知るうえで格好の導入となるだろう。
by gravity97 | 2009-05-09 16:04 | 映画 | Comments(0)

 『失われた時を求めて』は私がこれまでに読んだ小説の中でも最も深い余韻を残すものの一つである。しかしこの長大な小説を正面から論じることは私の手に余る。このブログの中で私はこの小説についてこれから何度か論じてみたいと考えるが、まずはプルーストに倣って個人的な記憶から始めることとしよう。
 2004年の冬、私は比較的長期間、ニューヨークに滞在する機会を得た。仕事のための出張とはいえ、途中、オースティンとサンフランシスコへ数日間赴くことを除いて、同じ宿舎で過ごし、自由な時間も多かったので、私はこれまで読む余裕がなかった長い小説に挑戦することにした。プルーストを持参することに躊躇はなかった。実は私はそれまでに二度この小説を繙きながらも、いずれも「スワンの恋」を読み終えたあたりで挫折していたのだ。大学時代に求めた新潮社版全七巻のうち、ひとまず最初の二巻をスーツケースの筐底にしのばせて私はニューヨークに向かった。読書は思ったより順調に進み、確か出張の途中で「ゲルマント公爵夫人」を日本から送ってもらい、滞在中にこれら三冊、全体のほぼ半分を読み終えたと記憶している。
 その年、ニューヨークの冬は零下20度くらいの猛烈な寒さであった。しかも宿舎がハドソン・リバー沿いのマンションであったため、外出すると川面から顔に吹きつける風は寒さではなく、痛みを感じさせた。予想していたより読書が進んだのはおそらく外出が困難であったという事情も働いていただろう。私は毎朝、アムステルダム・アヴェニューにあるスターバックスに通い、温かいコーヒーを飲みながら一時間ほどプルーストの長編に取り組むことを日課とした。プルーストの小説を読み進めるためには一定の膂力が必要とされる。それはジムで毎日課せられた距離を泳ぐことにも似た、その場においては苦行にも近い体験であった。今でも『失われた時を求めて』の白い背表紙を手に取ると、スターバックスの窓越しに見たニューヨークの朝の雑踏が思い起こされるが、それはいつのまにか幸福な記憶へと転じている。
 小説を読んだ場所と状況について長々と書き連ねたが、それというのもこの小説のテーマが土地の記憶と深く関わっているからである。この小説には様々な土地の名が登場する。コンブレ、マルタンヴィル、あるいはパリやヴェネツィア。その中にはメゼグリーズとゲルマントのごとく、小説の中で対立的な象徴性を担わされた地名さえある。決して舞台が次々に転換される印象はないが、いくつかの土地をめぐる記憶がこの小説を構成している。帰国後も私は出張のたびに本書を携え、ほぼ半年をかけてこの長大な小説を読み通した。結果的にこの本を読んだ記憶は私の中で国内外のさまざまの土地と分かちがたく結びつくこととなった。偶然とはいえ、自宅の書斎ではなく、それぞれに記憶に残る土地でこの本を読み進めたことは作品の内容に適っていたような気もする。

 さて、今回は本書の中で私が一番印象に残っている情景について記すこととしよう。それは第二篇「花咲く乙女たち」の第二部、奇しくも「土地の名・土地」と題された章の中、一群の少女たちが語り手の前に姿を現す場面である。土地の名はバルベック。物語の語り手、マルセルが祖母とともにしばらく逗留するノルマンディーの海沿いの街の名である。ジルベルトという娘への淡い思いが断たれ、失意というほどではないにせよ、傷心のマルセルはこの地でそれからの生涯に大きな意味をもつこととなる何人かの人物に出会う。祖母と旧知のヴィルパリジス夫人の甥で後に親友となるサン・ルー、あるいは後年、驚くべき秘密が暴かれるシャルリュス男爵、モネを連想させる画家のエルスチール。(語り手の記憶をとおして読者は既にこれらの名前に馴染んでいる場合もあるが、注意深く読むならば彼らとマルセルが初めて現実に出会うのはこの海辺の街である)そしてこのような出会いの最後を飾るかのように、滞在先のグランド・ホテルの外で手持ち無沙汰に佇むマルセルの前に六人の「花咲く乙女たち」が現れる。ある者は自転車を手で押し、またある者はゴルフのクラブをもって浜の堤防から近づいてくる娘たちの描写に私はひときわ鮮烈な印象を受けた。この部分を読んだ時、私は物語の中に突如明るい光が射し込んだような思いにさえとらわれたのである。
 今回、この文章を書くにあたってその部分を再読してみたが、意外にも初読の際ほどの感銘を受けることはなかった。その部分だけを再読するのと物語の流れの中でこの箇所に逢着するのでは小説から受ける印象が全く異なるように思う。幼時を過ごしたコンブレの思い出、スワンやオデット、そしてスワンの娘のジルベルトとの関係が語られる「スワンの恋」は物語の中に動きが比較的少ない。しかもよく知られているとおり、物語は話者であるマルセルの記憶というフィルターをとおして語られるため、しばしば往還と停滞を繰り返し、冗長で際限がない。先ほど思わず苦行という言葉を用いてしまったが、この冗長さの体験を甘美さと読み替えることができるようになった時、読者は初めてプルーストの小説の真髄に触れることができる。しかしそのような境地に達するまではしばらく時間がかかる。私にとって停滞していた物語に初めて動きが感じられたのは「土地の名・土地」の冒頭で回想されるバルベック出発の場面である。祖母とともに鉄道でノルマンディーまで赴き、現地のホテルに滞在する。語り手の移動(正確には移動に関する記憶の発動)とともにそれまで宵寝のまどろみの中に滞留していた物語は賦活され、精彩を帯びる。動き始めた物語を祝福するかのように、輝く浜辺の方から華やかな娘たちが登場する。それは私にとってこの長い長い小説の中で最も強い印象を与える場面となった。スワンとオデット、あるいはマルセルとジルベルトをめぐる際限のない物語を根気よく読み進める中で次第に私の小説に関する感性が研ぎ澄まされ、この箇所における物語の転調をはっきりと意識できたのであろうか。それとも単に酷寒のニューヨークに一人で滞在していた私にとって、夏のノルマンディーの海水浴場に現れた娘たちのイメージがあまりにも魅惑的であったためであろうか。
 
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マルセルの前に現れた娘たちの一人こそ、後年の「囚われの女」、アルベルチーヌ・シモネであった。マルセルとアルベルチーヌの不幸な恋愛はこの小説の後半の主要なテーマとなる。第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」(プレイヤッド版では「逃げ去る女」)の中ではこの長大な小説をとおして二度目の鉄道旅行が語られる。マルセルは祖母ではなく母とともに、バルベックではなくヴェネツィアに向かう。しかしこの時、既にアルベルチーヌはこの世の人ではなかった。
by gravity97 | 2009-05-01 06:20 | 海外文学 | Comments(0)